孫権

登録日:2009/07/19 Sun 22:30:05
更新日:2024/04/03 Wed 10:51:21
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孫 権(そん けん)とは「三国志」時代の呉の国の初代皇帝。
孫堅の息子で孫策の弟。
呉郡富春県出身。字は仲謀。

生年:182年

没年:252年

【生涯】

偉大なる父兄

192年、まだ十歳の少年だった頃に偉大なる父・孫堅を亡くす。
黄祖の部下の放った矢に当たったとされる。

孫堅は、天下に鳴り響いた剛勇の士であった。その父を早くに亡くした権は、兄・孫策の背を見て成長した。
父の背も広かったが、兄の背も広く、大きかった。孫策は強く、各地の豪族を撃破しては従えて、その勢力を急速に伸張させていった。
孫策にはかつての大猛将・項羽の風があり、その勢いは天下を窺うに足るものであった。

しかし、200年。
「小覇王」孫策は二六歳という若さにして、刺客の手に落ちる。

孫権は愕然とした。これからだというときに、兄を失ったのである。

父と兄に、天命は無かったのか―――。
しかし、悲嘆に打ちのめされている場合ではなかった。

父と兄の遺した将兵と家臣をまとめ、この勢いを継がなければならない。

一九歳にして、孫家の軍閥の当主となり、有能の士を広く求め、各地を巡察した。

張昭曰く。

「殿が守るべき孫家は、いまだ健在なのですぞ。国家の大事を治めるべきは、ただ今にござる」

国老と讃えられるべき忠臣の声であった。


激動


203年、孫権は荊州の劉表の配下である黄祖の討伐に乗り出すが、凌操を失うという痛手を負う。

しかしこの戦いで孫権軍の追撃を阻止した張本人である甘寧が投降してくる。これにより戦況が好転し、黄祖を討ってその首を父の霊前に捧げることができた。
その後も山越族の反乱や家臣の内部分裂などが起こるたびに孫権はよく治めた。

208年。
孫権だけでなく、この208年という年は中国全土において激動の年となる。

全ては、曹操が大軍を率いて劉表討伐に赴いたことから始まる。
劉表は長らく荊州を支配していたが、北と南の戦いどちらにも興味を示さず、ただその流れを傍観していた。

八月、劉表死没。病死とされるが、曹操の軍団の鬼気に当てられたようでもある。

劉表存命時より降伏論に傾いていた荊州陣営は、襄陽(荊州の都城・じょうよう)に曹操軍が迫るや、全く抵抗せず完全降伏した。

曹操はこのまま、我が国を一息に陥落せしめんといたすであろう―――

孫権の総身には粟が立った。家臣たちは曹操の軍を恐れ、降伏と抵抗の二派に分かれて口論した。

そこへ、曹操からの文書が届く。


曹操の恋文


曹孟徳曰く。

「水温かく、風暖かきこの時。四方の賊を滅し、乱を平らげしこの時、世はまさに泰平の極みにあります。
そこでどうでしょう、呉の地で共に狩猟でもいたしませんか。呉の虎児は、さて、いかほどの猛虎に成長したのでありましょうか」

孟徳一流のラヴ・レターであった。

孫権に手紙を見せられて、軍議の場は騒然となった。

曹操は、いわば巨人に成長していた。荊州の併呑によってこの巨人はさらに力を増している。

江南の支配を確立して間もない孫権とは力の差が大きすぎ、単独ではとても太刀打ちできる相手ではない。

孫権が取り得る方法は、敗北を覚悟で決死の戦いを挑むか、全面降伏するか、どちらかであった。

軍議の場は、降伏論が圧倒的だった。張昭を筆頭とする文官はもちろん、軍人の多くもそうであった。

孫権自身の腹積もりはどうか。
正史(呉主伝)には、こう記されている。

「ただ周瑜と魯粛だけが曹公を拒むべきだという意見を頑強に主張し、その気持ちは孫権の意向と合致した」

とある。
この文から読み取れるのは、父と兄が夢見て戦い、ここまで成長させてきた国を簡単に手放したくないという強い意識である。

周瑜は言う。
「亡き孫策が、私たちを見ている。降伏なぞしたら、黄泉で彼にあわせる顔がない いざとなったら私一人で曹操軍を追い返してみせる。」

魯粛も続く。
「他の文官は皆自分のことしか考えていない。我々は降伏しても名族としての名声で食っていける。だが実力だけでのし上がった貴方には何も残らず、お情け程度の財産を与えられてそれだけで余生を過ごす事になる。」

孫権は最終決定者として、曹操による統一を許さず、戦うと宣言する。

そして剣を抜き放ち、目の前の机を一刀に両断した。

「これより、私の命令に従わぬ者はこの姿となる!」

この瞬間、「三国志」という物語の世界が完成されたと言ってよい。

このときに孫権が戦うと決断しなければ、曹操による覇権が確立して、三国時代は到来しなかったからだ。


長江炎上して後


曹操と戦うことを決断した孫権。ここに劉備が合流した。

実は、劉備一行には戦術的にも戦略的にもたいした価値はない。しかし孫権は同盟を結んだ。それは、諸葛亮の兄である諸葛瑾や、魯粛が勧めたこともある。
だが、最初の動乱より今までずっと戦場を馳せてきた徳の将軍・劉備もついているぞ、という内に向けたプロパガンダのような気もするのだが、どうであろうか。

赤壁の戦いとして知られる戦いの詳細は割愛する。
結局、この戦いは孫権軍の勝利で終わった。

曹操を退けた孫権だが、この後、劉備との間で峻烈な荊州争奪戦を繰り広げることとなる。

曹操を撃破したという事実は、孫権軍の士気を大いに奮い立たせた。周瑜は曹操軍の追撃を開始し、荊州の奪還を狙う。

曹操は江陵(こうりょう)に曹仁を置き、襄陽に楽進を残して退却している。

周瑜は南郡まで軍を進め、江陵城に立て篭もる曹仁を包囲しようとした。

ここで、周瑜にとって思わぬ誤算となる動きが出て来る。
荊州への後詰めとして進軍しているはずの孫権が、何を思ったか荊州ではなく合肥(がっぴ)に軍を進めてしまったのだ。

合肥は劉馥(りゅうふく)によって大幅に強化されていた。堤防の築堤、城壁の守禦、土塁の修築などが、いざというときのために備えられていたのである。
劉馥自身は逝去していたが、この防備は孫権の合肥進攻をよく妨げた。

周瑜は自らも肩に矢を受けながらもなんとか南郡を落としたが、荊州南部の四郡はすでに劉備の支配下にあった。


将星墜つ


しかしながら、長江より曹操を退けたことで孫権は最大の危機を乗り切った。孫権にとっての赤壁戦最大の戦果は、父も兄も経験していない曹操との直接戦闘を行い、勝ったことによる自信だろう。

200年、孫権は長江を遡って益州を奪うという、周瑜の遠征計画を承認する。

漢中の馬超と同盟し、曹操を挟撃するというものであった。
しかし間もなく周瑜は病魔に追い付かれ、世を去る。

周瑜の死をきっかけに、孫権は国家戦略の重心を外征から内政に移していく。

それは、いつの日か夢見た、小覇王と美周郎の天下の終わりでもあった。


軍神撃滅


周瑜の後任には魯粛が就き、表面上は友好関係が続いた。孫劉両者の間に

「劉備が益州を領有するまで、劉備は孫権より荊州を借款する」

という約束が交わされた。

その後益州を手に入れた劉備だが、荊州を返還する気などさらさら無かった。
のらりくらりと孫権の言葉を回避し約束を反故にしようとしたため、両者の関係は悪化した。

そして仲を取り持っていた魯粛の死去とともに、孫劉の間には大きな亀裂が入った。

219年八月、劉備の漢中併合に際して関羽が北上。
孫権は陸遜呂蒙に荊州を乗っ取らせ、関羽を攻撃。
進退窮まった関羽はついに斬られた。

222年、怒りに燃える劉備を陸遜に命じて敗走させる(夷陵の戦い)。

229年、皇帝を自称し、呉の初代皇帝(太祖)となり、元号を黄龍と定めた。


治世の陰り


後継者としていた孫登が三十三歳で早世すると、徐々にその洞察力、眼力を弱まらせる。

250年、孫亮を太子に立てるが、この後継者決定のごたごたで陸遜をはじめとする建国功臣たちを大量粛清&左遷(二宮事件)。
国を支える人材を内輪もめで失ったことが、呉が魏に水をあけられる決定打となったと言われる。

252年、七十一歳で死没。蒋陵に葬られた。

【人物】

「性格明朗、仁徳に溢れ、決断力に富む」

と、史書にはこう記されている。
老境にいたってからの朦朧ぶりはいかんともしがたいが、
それでも建国の英雄を喪って崩れかかる国を支え、よく治めた点は、曹操・曹丕や劉備に勝るものだろう。
曹操の侵攻を退け、領民たちにも仁をもって接したので、名君といって差し支えない。

とはいえ一方に陽があれば陰があるのが人間というものである。彼については、 酒乱であった という話がある。

大帝酒乱

孫権は酒好きでよく部下に絡み、

「わしの酒が飲めないやつは池に落ちて溺れろ」

とか言ったとか言わないとか。
呉王に封じられた際の宴では、終幕近くになってから、孫権自らが家臣たちに酒を酌いで回るという、ありがた迷惑極まることをやらかす。
この時、床に倒れたまま、孫権の杯を受けようとしなかったのが虞翻(字は仲翔)という文官。

「まぁ、ここまで酔っ払っているなら、しゃあない」

と次なる犠牲者を探しに席を離れる孫権だったが、その途端、虞翻はムクリと起きあがり、キチンと座り直した。要するに酔い潰れたフリをしていたわけだ。
虞翻としては、

(いい加減、てめぇの酒癖の悪さに気づけよ。皆、迷惑してるだろう)

と言外に諫めたつもりなのだろうが、この態度にブチぎれた孫権は虞翻をぶった斬ろうとした。
他の家臣の諫止もあって、この場は如何にか収まったが、この宴のあとに孫権が出した命令が、

「私が酒に酔って出した命令に従ってはならない」

とまで言っていたものだから、よほど酷い悪酔いであったことが予想できる。
元々、呉国は豪族の寄り合い所帯の様相を持っていたから、その方面での気苦労も絶えなかったのであろう。

政治制度

三国時代の諸勢力は、多かれ少なかれ豪族連合という要素を含んでいるが、特に孫呉はその傾向が極めて強い。
孫呉において皇帝である孫家は盟主に過ぎず、各豪族には領地において広範な自治権が与えられており、末期には過酷な取り立てによる反乱も頻発していた。
これは、江南の地を網の目のように走る長江の支流が、そのまま豪族たちの領土の境界線になるという地政学上の要素に基いている。

孫呉の兵力の多くが豪族たちの部曲(私兵)であり、孫呉の武将たちは孫権から兵を預っているのではなく、自分の私兵を率いて闘っていた。
孫呉の武将の多くは、「俺は自腹で戦いに参加している。孫権に従うのは利害が一致しているからに過ぎない」という意識が腹の底にあるため、盟主である孫権との利害が一致しない場合、平気で指示に逆らったり、味方をぶった斬ったりする。

私兵である以上、その運用にも孫権の裁可を必要としない。
例えば、凌統が仲間になった後も、亡父の仇である甘寧を長年ブッ殺そうと付け狙っていたり、約束を破った甘寧にブチぎれた呂蒙が勝手に兵を動かし重臣同士の抗争に発展した例もある。
これらは、他の国では内乱に相当するが、孫呉では己の部曲を如何しようと主君にトヤカクいわれる筋あいはない。
また、部曲は私兵であることから、指揮官が死んだ場合は残された親族が兵権を継ぐという、魏や蜀漢では考えられない制度が罷り通っていた。
流石に孫権もこの制度はマズイと考えたらしく、先代である孫策の没後、孫呉軍の再編計画を企図した。
しかし、閲兵の日にキンキラキンの華麗なる軍装を纏った一団に目を奪われた孫権は、

「これほどの軍を再編するのは惜しい」

と考えたのか、再編計画を白紙に戻してしまった。
なお、この軍団を率いていたのは、義兄の兵を継いだばかりの若き日の呂蒙だった。

以下は蛇足である。

【余談】

VS張昭


江南一の頑固爺・張昭は、とある会議で孫権に意見を出したが、却下されたので家に引きこもってしまう。

後になってから孫権は張昭の意見が正しかったと思い、張昭の家に謝りに行った。しかし張昭は意地を張って出てこない。

腹を立てた孫権は門を土で塗り固めた。張昭も内側から土を塗り固めて出ようとしない。
キレた孫権はついに張昭宅に火計を仕掛ける。それでも張昭が出てこないので、慌てて火を消した。
張昭は息子たちになだめられてようやく家を出た、というお話である。

VS虞翻

先のように孫権を諫めた虞翻であるが、狂直とまで言われるほどに自分が正しいと思ったことを言うため、孫権は鬱陶しがって一度左遷してしまった。

その後虞翻は呂蒙に誘われ関羽討伐に従軍し功を挙げたため再び中央に戻ってくるが、態度が改まることはなく孫権に対して前述のような行為をした他に孫権以外とも酒の席などでトラブルを起こすことが多かった。*1
ある日張昭と孫権が神仙について雑談していると聞き耳を立てていた虞翻が嫌味を言ってきたためシラフでこれでは…と思ったのか再び左遷、虞翻はそこで生涯を終えることとなった。
魏呉蜀に限らずどんな賢者と言えど、同僚からもウケが悪く理解されないほど社交性のない人間は組織から外されてしまうのである…

VS孫策

孫権は皇帝を名乗ったため死後に与えられる諡も帝号で父孫堅にも帝号が諡されているが、兄孫策にだけは帝号でなく王号を諡している。
建国の祖に対して帝号を諡しないのは当時としては非常に異端であったが、前述のように孫呉が豪族連合であったため、権力の分散を招きかねずやむなくそうしたものと思われる。
しかし後に孫皓によって皆殺しにされ絶えている。

【各作品での孫権】

三国志三英雄の中では他2人より世代が1つ下、孔明よりも年下というのもあって、
赤壁あたりで再現が終わりがちな後世の二次創作においては若さ(≒青さ)を強調されることが多い。

●横山三国志
孔明にいい様にされたり、陸遜がいないと何もできないかませ犬。北伐の頃になると風格出てるけど、出番少ないし……

蒼天航路
猛獣使い。まんま江南の虎。

●レッドクリフ
演:張震
吹替:平田広明
孫呉から見た赤壁がテーマ、つまり主役側なので出番は多い。

●白井式三国志
チリチリパーマ。史上稀に見る音痴。

三国無双
PS2版初代から登場。父や兄でプレイすると当主になれない不憫な子。
3からは周泰が登場するが、余計にお坊ちゃま感が増している。
ノベライズ漫画では孫家で唯一損な役回りを演じるネタが多い。

5と7のIFルートでは三国鼎立の世そのものに平和の形を見出す。
詳細はこちら

恋姫†無双
真名は蓮華でCV風音。
人気NO.1。

●一騎当千
女性。主人公・孫策と似た容貌をしている。アニメ第3期から登場するが実は偽物で、その正体は大喬
後に原作最終章『真・一騎当千』にも本物の孫権が登場した。

BB戦士三国伝
演者はGP03、CV:島﨑信長
主人公の一人であり、劇中で空気過ぎたためか某wikiとかだと『あの夏』が初主演という事になっているけど一応中の人初の主役キャラ。
出番が少ない上に序盤はヘタレ気味だったが、たまに漢を見せる。

SDガンダムワールド 三国創傑伝
演者はガンダムアストレイ レッドフレーム。CV:天崎滉平
本作では親父が一向にくたばらないため、どうしてもパパがメインになりがちで影が薄い。
普段はビビリだが、怒ると怖い。パイレーツワールドで死ぬほどシゴかれたため海賊が苦手。

●覇~SOUL~
周瑜に殺されて、周瑜が孫権になると訳の分からない事になる。

●三国志大戦
1では1.5コストの英傑号令持ち。イラストでは机の角を切っている。
しかし後方に控えなければならない弓兵でありながら範囲が自分中心の横長長方形であったため採用率は低かった。
その後敵の攻城をほぼ無力化する顔が濃いやつが出たり、味方を強化してその場から動けなくする好青年が出たりと割と遊ばれている感じがあった。

2では1での面影はバッサリ切って、風間雷太氏のイラストに。
号令の範囲がようやく前方長方形に変わり、使いやすくなった。
ちなみに上記の顔が濃い奴と好青年は合体した。

3では武力が下がって知力が上がり、さらに柵を取り戻した。
好青年は行方を晦まし、追加されたのは号令と守成を併せ持った槍だった。

最新作では何と2コストにグレードアップ。しかし武力6止まりで火力がしょっぱい。
そして大体孫権と言えば2枚出るのがお約束みたいなところはあったのだが、今回追加されたのは空手キーパーだった。
他にも丸太を持ったケンちゃんも登場、明さんのように勇ましい。みんな丸太は持ったな!よし、行くぞォ!

●ウルトラマン英雄伝
多くのファンが「三兄妹の次男だからブルだろ」と予想していたが演者はウルトラマンジード
数少ない青い目を持つウルトラマンだからであろうか?
ちなみにベリアル呂布である。

●くにおくんの三国志だよ 全員集合!
演者はくにおのライバル「りき」だが、そのくにおが関羽を演じている上に話が赤壁の戦いで終わるので
戦いも共闘も余りしないという、くにおりきにしては珍しい関係となっている。
…と思いきや「冗談ルート」においてはくにお君が作戦を無視して曹操軍相手に暴れるも肝心の曹操には逃げられるという体たらくでそれにブチ切れて配下と共に襲ってくるラスボスと化す。
本人が強い上に周りには孫権軍の精鋭が揃っており、ぶっちゃけ熱血ルートや正史ルートのラスボスよりも強い。
冗談じゃなくこのゲーム最強の敵であり苦戦は必死と言えよう。

なおあくまで三国志の話をくにおくんのキャラが劇として演じているため、アクション要素に三国志っぽさはほとんどない。
孫権りきがその数少ない例であり、なんと机を投げつけるモーションがある。しかもそれが強い。



黄泉の元で苦い顔をしている大皇帝に、乾杯。

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最終更新:2024年04月03日 10:51

*1 降将である于禁や麋芳に罵声を浴びせかけたりもしている。なお、関羽討伐において傅士仁と麋芳を説得して降したのは他ならぬ虞翻である