白起

登録日:2015/09/19(土) 16:28:58
更新日:2018/05/14 Mon 22:41:14
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白起(はくき/Bai Qi 生年不詳-没年BC257)とは、春秋戦国時代後期に生まれてしまった乱世の申し子・殺人マシーン。
秦国ビ(眉におおざとへん)県の人。公孫起ともいう。
公孫であるとすると、どこかの王族の血筋という可能性もある。公孫サンのように単なる苗字だったかもしれないが。


概要

春秋戦国時代は、史記が書かれた紀元前91年時点ですら資料があまりない有様であったため、大きな事象の記録しかない場合が多い。
(ちなみに、よく焚書坑儒が原因といわれるが、始皇帝は秦国の史書は焼いていない+ある程度の他国の資料は秦国の博士官に管理させていたので、
 白起の記録が少ないことと焚書坑儒は関係ない。おそらく直接原因は項羽の大放火)

そのため、白起の事績も本来はもっと多いと思われるが、史記に記載のある事績を記述する。

紀元前294年に秦の昭襄王の治世で左庶長という官爵を与えられ、韓の新城攻めに参加。
ここで功績を挙げて左更に昇進。
当時の宰相魏冉*1の引き立てもあり将軍となると、翌年の伊闕の戦いで韓・魏を破り韓の将軍公孫喜を捕え、5城(城=都市)を落とす大戦果を挙げる。
その翌年は魏に侵攻。61城を落とし魏を大きく弱体化させる。
たかだか3年で、韓と魏をメチャクチャにしてみせたのであった。なんだこいつ…

その後暫く出番がなかったが、紀元前278年に楚攻めに参陣。鄢郢の戦いに圧勝し、首都郢を落とされた楚は陳に逃げるように遷都せざるを得なくなった。
そして楚を圧倒した戦功から、昭襄王より武安君の称号を賜った。
5年後には魏の華陽を攻め、韓・魏・趙三国連合軍を破り各国の将軍を捕縛。同年、趙の賈偃率いる軍を撃破。完全勝利である。
また少し間が空き、紀元前264年の陘城の戦いでまた韓を打ち破り5城を奪取。
紀元前260年には有名な長平の戦いにおいて趙の主力軍を撃滅。もはや能力・功績で彼に並ぶ将軍は、秦にも他の六国*2にも存在しなかった。

しかしその後、あまりの大功を挙げてしまったせいか恩人の魏冉を追い落とし宰相となっていた范雎*3に疎まれ、
白起自身の方針であった趙の首都邯鄲攻めを却下されたばかりか、勝手に和睦をされてしまう。
すっかりヘソを曲げた白起は病と称し屋敷に引きこもり、魏の信陵君と楚の春申君に敗れた秦の総大将として復帰するよう要請されても突っぱねる。
挙げ句に「ざまーみやがれ! 俺の言うことを聞かなかったからだよ、ん? なんか言いたいことは無いわけ!?」などと放言。
これが致命傷となり、昭襄王より剣を下賜された。つまり自害せよということであった。
「なんで死ななきゃいけないんだ…殺しすぎたからか…天に罪を犯したのだなあ…」
そう言い残し、自害した。
自身の死を認めるほど「殺しすぎた」とはどれほどのものかは後ほど詳しく説明する。

もしも存命であったならば、昭襄王の治世で秦の中華統一が成っていたとする人もいる、それほどの傑物であった。
司馬遷も「敵の能力を見て策を講じ、奇策を無尽に繰り出した。彼の勢威は天下を震撼させた」と最大限の評価を贈るほどの名将であった。
しかし、「有能だけど身内の范雎の患いからは逃げられなかったよね」と記すなど、世渡りの面など人間性に欠点があったような評価もされている。

また、白起が仮に殺されなかったとしても、昭襄王は白起死亡時点で六十九歳とすでにかなりの高齢だった(事実、白起の死後五年後に没している)。
さらに白起と直接は関係ないが、韓非子は「白起が攻めまくって、鄢郢や華陽、長平で勝った時などは、まさに天下統一の好機だった」としつつも、
「主君(昭襄王)には天下を統一する気概がなく、謀臣(魏冉や范雎)には統一するだけの知恵がなく、みすみす機を逸し続けた」と批判しており、
昭襄王と白起の秦国が天下を統一する可能性はやはりなかったのであろう。



キリングマシーン・白起

…とまあ、ここまで白起の凄さを記してきたのだが、真の凄さはここからである。
乱世においては白起くらいの戦果を挙げる名将は一人くらいは出てくるものではあるのだが
紀元前の人物としては…いや、中国史においても稀なほどの殺害数*4を誇るのである。
では実際にご覧いただこう。

伊闕の戦い:韓・魏連合軍敗残兵24万を斬首
華陽の戦い:韓・魏・趙連合軍敗残兵13万を斬首
賈偃との戦い:士卒2万を黄河に沈める
陘城の戦い:韓の敗残兵5万を斬首
長平の戦い:趙の主力軍40万を飢えさせた上で生き埋め*5

…紀元前の冶金技術でここまでやれんのか?白髪三千丈的な数字だろう?と思われるかも知れない。
実際、ここの数字は盛ってるものだとは思う。三国志の時代でも首級は十倍報告が通例だったようだし。

しかし、長平の古戦場発掘調査が行われた際、春秋戦国後期頃の地層から夥しい数の人骨が発見されたため、数はともかくこの虐殺を実際に行っていたと思われる。うへぇ…
しかも戦闘中の死者は含まれていないので、戦死者を含めると数字は増える方向に変動する。
秦は首級を多く上げると昇進できるという制度になっていたし、長平の時は遠征軍で趙の主力にまで飯を食わせられないという理由もあったとはいえちと数が多すぎである。


後世への影響

短期的には、韓・魏・楚・趙、特に主力を鏖殺された趙に秦は非常に大きな恨みを買った。
人質として趙に送られていた公子子楚と、その子の政…後の始皇帝に対する当たりは非常に厳しいものであったと推察できる。
実際に子楚一家は呂不韋の庇護下にありつつ邯鄲攻めに遭った際殺されかけた経験を持つ。
子楚はとりあえず脱出できたが、政とその母は逃げ隠れしながら暮らすことになってしまった。
始皇帝が猜疑心の塊で怜悧な判断を好む様になった背景には、幼少期趙で受けた仕打ちが多少なりとも影響を及ぼしていると思われる。
そして、秦の呆気無い崩壊にはこの時代から秦が六国に積み上げていった膨大な怨念の暴発という側面もあったであろう…

その始皇帝に仕えた秦の名将で、司馬遷が白起と並んで伝を立てた王翦は白起の世渡り下手から学んだのか
始皇帝の機微を読みつつ仕え、多大な戦功を挙げながら天寿を全うしたのだった。

また、三国時代末期の名将鄧艾は鐘会の陰謀で殺害される間際に自身を白起になぞらえて自身の危機を悟ったという記述が三国志に残されている。


フィクションでの活躍

春秋戦国時代を描いた原泰久の『キングダム』に回想で登場。
王騎と並ぶ六大将軍の一人でありその筆頭。名将であることは疑いようもないが、明らかに目が危ない人として描写された。
キングダムより少し前の次代を描く『達人伝』(王欣太)でも、白い甲冑を纏い白馬に跨った白髪のイケメンだが、淡々と虐殺をこなしていく将に描かれている。

他にも多数の春秋戦国時代を描いた歴史小説に登場しており、中国の歴史小説の日本における大家宮城谷昌光先生も執筆しているが、あまりに殺しすぎたせいか大体悪役扱いである。
戦争じゃほぼ負けなしでぶち殺しまくりではあまり良くは書けないよなあ。


追記・修正は膨大な首級を挙げて昇進してからお願いします。

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