項羽

登録日:2018/04/05 Thu 20:00:00
更新日:2020/02/18 Tue 23:16:40
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項羽とは、中国史の人物である。
なお、「羽」というのは字(あざな)であり、本来の名前は「籍」。
そのため「項籍」と呼ぶのが正しいのだが、本稿では一般に知られている「項羽」の名で統一する。



【出生】


項氏は春秋戦国時代に南方に栄えた楚国の名門であった。
始皇帝(当時の称号は秦王政)が統一に乗り出した時には、最後の名将であった項燕を排出し、一時は圧倒的に優勢だった秦国軍を撃退したことがある。
しかし始皇帝が老将・王翦の「六十万の軍団を出してください。そうでなければ勝てませんし、私も戦いません!」という言葉を受けて、ついにその通り六十万の軍勢を出し総攻撃を掛けたことで、項燕は戦死。楚国も滅亡した。二十万を退けたら六十万が来るとか何そのクソゲー

ちなみに、のちに秦帝国に対して反乱を起こした陳勝と呉広は、始皇帝の太子・扶蘇と、この項燕の名を騙って挙兵している*1

さて、名門と言うだけあって項燕にも大勢の子供がいた。
その一人に項梁という人物があり、項梁が養っていた甥が項羽であった*2
項梁は、楚国滅亡後は犯罪を犯して官憲に追われたり、人を殺してしまって逃げたりと、かなりアウトローなことをしながら呉中へ逃亡。
そこでやっと落ち着き、人々のまとめ役*3などをこなしつつ、秦への反抗をにらみ人材の見極めもしていた。

項梁のもとで項羽は学問や武芸などを仕込まれていた。
しかし当の項羽は剣術にも学問にも励まず、すぐサボる。怒った項梁が咎めると、
「文字は名前さえ書ければいいものです。剣術はせいぜい一人か二人を相手にするものでしょう? 俺はどうせなら、もっと大勢を相手にしたい。」
といった。*4

この問答に項梁はむしろ大満足。覇気がある証だと思って、今度は兵法を教えることになった。
しかし項羽はやっぱり天才肌だったのか、ある程度大略を掴むとやめてしまった。*5*6

だが発育はやたら良かったようで、気づくと身長は二メートルを越し、しかも筋骨隆々。おまけに天才的な閃きと一種の愛嬌を併せ持つカリスマの塊と化していた。

「項羽こそ伝説の超中国人そのものだった。生まれついての桁外れの力と覇気は、成長するにしたがって、叔父の私が恐怖を感じるほど増大し狂暴化していった……」


一つのエピソードとして、始皇帝の巡業を目撃したときのことがある。
始皇帝が会稽山に現れたときのことだから、始皇帝三十七年。彼が最後の巡業に出て、その帰路に頓死を遂げたときのことである。
この始皇帝の巡業を、項羽と項梁は観客として見ていたのだが、

「おおおっ……だっ駄目だ、やめろ籍!!」
「あいつに取って代わってやる!!」
「落ち着けえっ!! それ以上声を高めるなあっ!!」

……項梁としては気が気でなかっただろうが、のちの項羽の数少ない政治資産の一つとなる覇気はこの時から芽生えていたのである。

一方、劉邦は同じように始皇帝を見て「あいつだあ、おれ達が目指すべき男は!」と語っている


【戦乱到来】


さて、官吏にも民衆にも厳格すぎる法治システムを適用した始皇帝だったが、巡幸の途中で頓死。その後、玉座についたのはその末子である胡亥(とそれを擁する趙高)だった。
彼らは政敵である他の兄弟たちを粛清すると、先帝の始めた巨大事業、驪山(始皇帝の墓)、阿房宮、直道の建設などをさっさと終わらせるべく、元の労役に加えてさらなる動員をかけたのだった。

まだ始皇帝のころは、労役者は「囚人や犯罪者や不正役人、働かない遊民」に限られていたのが、
胡亥即位後の労役は一般の人々まで強制労働が課せられ、しかも役人の不正を抑止することもしなくなった。
それでなくても、庶民は始皇帝の法治システムを理解より先に拒絶していた。それが悪化したことで、ついに暴発が始まった。

そして始皇帝に滅ぼされた旧六国(斉・燕・韓・魏・趙・楚)の遺民たちにとってこの状況はまさに千載一遇の好機。
当然、旧六国に属していなかった若手の野心家たちにとっても名を上げるチャンスである。

さらに秦帝国の役人の中にさえ自立しようと言うものまで現れた。
項梁がいた呉中の太守殷通は、まさにそのような野心を露わにした秦帝国の官僚だった。
しかし殷通自身は呉中の勢力に詳しくなかったようで、顔役だった項梁を仲介役として取り立て、秦帝国に追われ潜伏中の有力者・桓楚を項梁に探し出させ、2人に組織を編成させようとした。
項梁は「桓楚を探し出せるのは、私の甥、項羽しかいません!」と答えて項羽を連れ、殷通に目通りさせる。

「甥っ子です。なんなりとお使いください」
「項羽です……」
殷通「……貴様も楚国人のようだな」
「はい……」
「さっそく桓楚を引見する。案内しろ項羽!」

こうして殷通は項梁・項羽を引き連れ、中華の王としての第一歩を踏み出した。*7





「などとその気になっていたおまえの姿はお笑いだったぜ」
「ダニィッ!?」
「やっと戦う気になったようだが、その程度の決断力(パワー)で俺を従えると思っていたのか?」

ちょっと考えてみよう。2人の有力者に軍を編成させる。殷通にはそれは必要な手立てだろう。
しかし項梁は既に自前の戦力があり、何より楚の末裔としての大義名分がある。自分の兵隊すら整えられない小役人なんてわざわざ担ぐ必要はないのである。


「まずお前から血祭りに挙げてやる……」
「ニャメロン!! 勝てるわけがない! おれは一般の文官中国人なんだどー!!」
「よく見ろwww この先を読んでもこぉんな一方的な殺戮ショーは見られんぞwww」

引見したその瞬間、項羽は殷通をぶち殺した
もちろん、殷通配下の兵士たちは驚きながらも剣を抜いたのだが、

「ぬぅぅぉおおおおおおおおお!!!」

殷通を瞬殺した項羽は、そのまま大暴れして殷通の配下を数十人ばかり斬り倒す
そのあまりの強さに、兵士や役人たちは項羽の前にすっかり怯え、それを指揮する項梁に忠誠を誓った。
「剣術は一人を相手にするものです」って言ってたのは誰だったっけ?

ともかくも項羽は、項梁の謀略と下準備もあったとは言え、その武威で文字通り一郡をぶんどったのだった。


【項梁の躍進】


かくして旗揚げした項梁と項羽は江東一帯を制圧。
そこに、先駆けて決起していた陳勝の使者として召平という人物が訪れて項梁に派兵を要請した。
これを受けて、項梁は八千の兵士を連れて出撃。道中で桓楚、陳嬰、黥布、范増、といった豪族・豪傑たちを吸収しつつ大勢力となった。

実は、項梁が出兵した時点で反乱軍本隊は秦国の章邯が率いる軍によって壊滅しており、陳勝もまた敗北した挙げ句、逃亡先で裏切った部下に殺されていた。
陳勝が名乗っていた「楚王」の座も、もと臣下たちに奪われている。

そこで、項梁はその裏切っていた軍団を「討伐」
降伏した連中も、項羽に預けたのち全員生き埋めにして殺している。


かくして項梁は「陳勝の仇を討った」と表明すると共に「楚王」の座もぶん取り、陳勝に代わって反秦連合の盟主として名乗りを挙げることに成功した。

ただし、范増が「楚王の座は、自分で就くものではありません。旧楚王室の生き残りを即位させたほうが筋が通ります」と進言したため、楚王家の生き残りの「心」という人物を探し当て、楚の「懐王」として擁立した

しかし言うまでもなく懐王は項梁の傀儡である。実質の政権の指揮は項梁が担っていた。*8


【項梁の死】


名実ともに反秦連合のリーダーとなった項梁軍団は、各地で放棄した旧六国の復興勢力や、新規の勃興勢力と組みつつ、秦国の各地の拠点を落としていった。

三川郡の太守、李由は秦帝国の重臣・李斯の長男であり、陳勝と呉広が猛攻を掛けてきたときにも阻み続けていたが、
項梁は項羽や新しく参戦してきた劉邦の勢力を投入し、これを撃破。李由を殺している。*9

さらに、項梁は項羽と劉邦を西の陳留に前進させる一方、自らは章邯に圧倒されていた斉国を支援するべく東に向かっていた。
章邯はもちろん秦国における唯一の実働部隊であり、これを撃滅できれば項梁の地位はいよいよ確立する。

しかし章邯は陳勝残党とは相手が違った。また李由を討ち取ったことで慢心もしていたようだ。
項梁は斉国を助けるべく攻め込んだが、章邯はあえて破れることで項梁を油断させた上で、主力軍を一気に殺到させて定陶にいた項梁軍を殲滅、ついに項梁を討ち取った


旭日の勢いにあった陳勝に続き、昇竜のごとく躍り出た項梁をも討ち取られたことで、反秦連合は多いに動揺した。
そして、項梁を親とも慕っていた項羽は悲しみと怒りにくれて暴走した

「叔父貴ィ……どこへ逝くんだあ……?」
「うおお、うおおおああああ~~~~~~!!!!(号泣)」

そして彼は怒りのままに、章邯がいなくなった定陶の住民を「章邯がそこにいた」というだけの理由で皆殺しにしたという。


【懐王と宋義の夢】


さて、項梁が戦死して最も喜んだのは、秦国の関係者以外では実は楚の懐王、そして、復興した楚国に集まってきた旧楚国の残党たちだった。
というのも、懐王を傀儡として擁立した項梁が死んだいま、懐王が主導権を握れる目が出てきたのである。
傀儡になりたくて王になる人はいない。誰だって実権を握りたいのだ。


そのうち宋義という男がさっそく飛び出した。楚の宰相(令尹)の家系である。

彼は項梁の部下として共に斉国救援に出ていたが、途中で斉国の使者として派遣され戦陣を離れていた*10
しかし、この途上で斉国から項梁軍に派遣されていた高陵君(名は顕。姓は田か?)と落ち合い、項梁への不満をぶち上げた上で、
「ああ、ゆっくり行かれたほうがよろしいですじゃ。わしの頭脳がはじき出した予測によりますと、どうせ項梁のバカは調子のって全滅するですじゃ」
と今後の予測……というよりも僻みを口にしていた。

ところが、その「予測」が的中したことと、おかげで命拾いした斉国の高陵君が吹聴したおかげで、宋義はにわかに予言者・天才軍師として脚光を浴びた。
しかも懐王にとっては「項梁の未来を読んだ」→「項梁よりもスゲー軍師!」と映ったらしい。

さっそく宋義を卿子冠軍・上将軍項羽を魯公・次将として、項梁の後継者・項羽を抑圧。
また、項梁の配下だった范増を末将に引き上げて、項羽の組織を攪乱しようとした。

しかし、辞令だけで乱世の権力闘争を制することができれば苦労はない。

その後、懐王と宋義のもとに趙国から救援要請が来た。
項梁を倒した章邯軍は、陳勝死後の張楚が自壊したことから、楚国も再起不能と判断。北上して趙国討伐に向かっていたのだ。

懐王と宋義にとってこれは、趙国を救って恩を売り、章邯を破って秦国を撃破し、ついでに項梁の跡を継ぐ項羽から主導権を奪う、絶好のチャンスだった。
……勝てればだけどな!

かくして懐王は宋義を大将、項羽を副将として遠征軍を編成。北上して趙を救援し、章邯を破ることになった。
また、別に沛公劉邦に別働隊を与えて、秦の本拠・関中に向かわせた。


この時懐王はなにを思ったのか「はい、一番乗りした方が関中王に……」と発令している。
……とは言え、関中は四方が山岳と関所で固められており、その東の玄関口と言うべき函谷関は春秋戦国時代一度も破られなかったという鉄壁である。
劉邦の分隊が突破できるとは誰も思わず、囮扱いだったのだが……


【項羽、立つ】


章邯の後を追って北上した宋義率いる楚軍だったが、宋義は途中の安陽で進軍を停止。そのあいだ趙国は章邯の猛攻を受けて悲鳴を上げ、兵卒は野宿が続き疲弊した。

とうとう四十六日目に項羽が抗議したが、宋義は
「秦が趙を破ってから、疲れ果てたところを追撃かけりゃあいいじゃない」
「趙国を助けるんじゃないのか!!」
「アーアーキコエナイ。おまえ戦いじゃ強いかもしれんが謀略にかかっちゃあわしの相手じゃないのう。この天才軍師さまに反論するには十年早いじゃないかのう?」
と散々バカにした上で追い出した。

さらに項羽が兵たちの間を歩いて相談に乗り、将軍とも話し合って懐柔し始めたので、宋義は嫌がらせに
「虎の如く猛々しく、羊の如く背き、狼の如くに貪欲な、強情で使えない者は、皆これを斬る!」
と布告した。言うまでもなく、項羽を念頭に置いた警告である。


実はこの時、宋義は、高陵君との縁で息子を斉国の宰相にするよう派遣していた。派手に宴会を開き、斉に向かう息子には大量の護衛を付ける念の入れようである。
その一方で将兵は野宿・飢餓・大雨・冷気の四重苦に見舞われた。
兵たちの間で宋義に対する不満が広がり、爆発寸前になっていた。

それはつまり、宋義に対するクーデターの機が熟したということである。

「う、うわ……へへ、こここ項籍どの、きき気をお静めくだささささ」
「できぬうっ!!!」

ある朝項羽は幕舎に入ると、宋義を瞬殺
しかも息子を斉国に送ったことを「斉国と密通しての謀反の証拠」として告発し、クーデターを正当化。ついでに兵を派遣して宋義の息子を殺し、禍根を絶った。

同時に、傀儡から脱しようとした懐王の計画は本の木阿弥と化した。
いや、傀儡の分際で実質の権力者を怒らせたという意味で、より悪化したのである。


【項羽VS章邯】


かくして楚軍の統帥となった項羽はさっそく黄河を渡り、鉅鹿を包囲する秦軍に追いついた。
このとき鉅鹿を包囲していた秦軍の将軍は、始皇帝の統一期に活躍した王翦の孫(王賁の息子)の王離だった。
秦軍は圧倒的な強さで鉅鹿を追いつめ、楚のほかに斉や燕から派遣されていた援軍も、あまつさえ趙の別働隊さえ、恐れて遠巻きに見つめるだけだった。*11


しかし項羽はためらいもなく軍を前進させた。
相手の王離はさすがに三代の名将で、黥布と蒲将軍の指揮する先鋒部隊を撃退したのだが、項羽はここで自ら全軍を率いて渡河。
秦軍の補給線を破壊し、大勢で遠征していた秦軍の兵站を遮断した。これで王離の軍は食料が行き渡らずに混乱し、戦意が低下。

ここで項羽は驚くべき行動に出る。
なんと退却のための船を自ら沈め、炊飯道具をすべて破壊。三日ぶんの食料だけを兵に与えて他は全て焼いた。
文字通り兵たちの退路を絶って死兵と為し、その勢いで全軍突撃したのである。

項羽「さあー行け!! ここが我々の死に場所だあッ!!!」

「背水の陣」という言葉が出たのはこれより後のことだが、自ら兵を死地に追い込んで兵たちに死力を発揮させるという意味ではこっちのほうが諺にいう「背水の陣」に近い*12

かくして奮起した楚軍は、項羽の猛烈な指揮によって、秦軍に猛攻を掛けた。
その楚軍の強さは「楚の兵士一人で秦の兵士十人を倒す」「項羽が兵を呼べば天地鳴動」と史書に讃えられるほどで、ついに秦軍を大破。
副将の蘇角と渉間を戦死させ、大将の王離を捕虜にするという、まさに完勝を挙げた。

しかし、王離の軍を大破しても、もう一つの章邯軍は残っている*13
項羽は当然章邯にも猛攻を掛けた。章邯は項羽にとっては叔父の仇であり、さらに秦国の唯一の戦力であるため倒すことは戦略目標でもある。

だが、章邯は敗退を重ねながらも、巧みに攻勢をそらして壊滅を避け続けた。度重なる敗退も、項羽の戦意を鈍らせ、一気に逆転する作戦だったかも知れない。
実際以前に項梁をその手で討ち取っており、しかもこの対陣により項羽軍の食料は少なくなっていた。

「フフフッ、そう来なくっちゃおもしろくない……」

その間に章邯は副将の司馬欣を本国に派遣して、援軍を要請していたのだが……

趙高「やっべー、なんか群盗騒ぎが全然おさまんないぞコレ。
 つーか最近デク人形、じゃない二世皇帝もなんか俺のこと疑ってるっぽいし。
 どうしよう。まだクーデターするには地盤が固まってないしな……
 李斯のバカを殺ったときみたいに別のイケニエ出そうか。
 うんそうだ、それがいいな。ちょうど章邯のヤツも負けてきてるし。全部あいつのせいにしちゃえ☆

と、趙高は全ての責任を章邯に押しつけて、その家族も皆殺しにした。
司馬欣が咸陽に帰ってきたのはこの時のことである。事態を察知した彼は間一髪脱出し、なんとか章邯のもとに帰還して事態を報告。
すでに趙高に切り捨てられ、家族も惨殺されたと知って絶望したところに、項羽は総攻撃を掛けて章邯軍を撃破。
八方ふさがった章邯は、部下たちとともに項羽に降伏した

項羽にとって章邯は叔父の仇だったが、なぜかこの時の彼は穏やかに降伏を受け入れ、章邯・司馬欣・董翳を迎え入れた。
実は司馬欣はその昔、逃亡生活をしていた項梁・項羽を助けた過去がある。案外彼が口を利いたのかも知れない。

だが、項羽が優しかったのは、あくまで将軍として戦った章邯・司馬欣・董翳の三人だけだった。
彼らとともに降伏してきた秦兵二十万には……

「驪山陵から連れてこられた奴隷どもか……
 いつかは自分たちの故郷に帰りたいと、秦軍に参加していたな……
 いつかは帰れるといいなあ……」

夜襲を掛けてその二十万人を坑殺した
つい先日まで敵軍だった秦兵は二十万、対して自軍はその10分の1程度しかない。反乱を起こされたらひとたまりもないため先に手を打ったのだ*14

秦軍最強の軍団を打ち破り、追い討ちを掛けて消滅させ、さらに秦の強さの象徴だった章邯を迎えた項羽は、もはや敵は一人もおらん!とばかりに意気揚々と秦国の首都、咸陽へと進路を向けた。


だが、ここで項羽と章邯が激突していた間に、すでに秦国は劉邦の別働隊が落としていたのである


【鴻門の会】


事の発端は、楚の懐王が宋義と項羽を派遣したときに、ぽろっと「関中に最初に入った者をその王とする」と発言したことにある。
で、このとき別働隊として劉邦も別途関中に向かっていたのだが、彼の進路は函谷関ではなく、その南の武関だった。

また、劉邦は項梁や陳勝の残党兵の吸収も許可されていたが、彼はその命令を拡大解釈して魏や韓や秦の残兵をも吸収し、軍団を膨らませながら西進
いつしか質量ともに強大な軍団となった劉邦軍は武関を突破
項羽が章邯を投降させたのはこの頃である。同時に、咸陽では趙高が「馬鹿」騒ぎを起こしていた。
そのまま劉邦は咸陽に迫り、趙高を処刑した子嬰が降伏。
西周以来の歴史を持つ秦国はここに滅んだ。

しかし項羽は当然激怒。
そもそも劉邦が関中に入れたのは、秦国最高の将軍である章邯軍を項羽が相手取っていたからである。

それでなくても項羽は反秦連合の指導者として、さらには天下の覇者としての野心と面子がある。
しかし劉邦が秦国を滅ぼした上で関中の王となれば、それこそ「革命の果実を横取りされた」事になる。

「劉邦ットオオオォォォォォッッ!!!」


項羽は劉邦が動く前に函谷関を突破して関中に突入。劉邦を討ち取るべく進撃した*15

この時、項羽軍のなかに項伯(名は纏、字は伯)という叔父*16がいた。
ところがこの項伯は若いころ、流浪先の徐州は下邳で張良と出会い、その庇護を受けていた。その張良はもちろん今は劉邦の軍師となっている。
「張良だけでも救わねば!」と考えた項伯は、深夜に野営した楚軍から抜けてひそかに張良に接触、逃げさせようとした。
しかし張良は逆に項伯を説得し、弁明と命乞いの機会を作らせる。
項伯としては張良を逃がすならたやすい*17が、劉邦の命乞いを斡旋するとなると難易度が一気に増す。
しかし、張良とさらに呼び出された劉邦にも懇願され、やむなく項伯は引き受けることになった*18
かくして「鴻門の会」が開かれた。

この時、項羽の参謀だった范増は劉邦の将来を危惧して殺そうとしていたが、劉邦の歴史に残る言い訳と命乞い攻撃によって項羽は戦意を喪失
さらに項伯や樊噲の乱入もあって、劉邦は虎口を脱することに成功した。
項羽は意気揚々と秦の首都・咸陽に入城した


【西楚覇王】


「子嬰……まずおまえから血祭りに挙げてやる……」

咸陽に入った項羽は、さっそく秦王子嬰を殺し、秦帝国の皇族をも皆殺しにした
さらには自分も部下たちにもおおっぴらに暴行と略奪、破壊と放火を繰り広げさせた。*19
咸陽に放った炎は三カ月間も燃え続けたという。


「誰が何と言おうと、俺はこの都を破壊し尽くすだけだあっ!」

楚の憎悪が形になったようなこの蹂躙をもって、秦という国家は完全に消滅。
先に入城していた劉邦が約束した「法三章」などの温情措置は消し飛んだ。そして二度と復活することは無かった。
城民には、項羽への恐怖と秩序への希望、そして劉邦への思慕だけが残された。

思う存分破壊衝動を満たした項羽は、今度は目の上の瘤だった懐王を排除。
いったんは「義帝」に祭り上げたが、それを遷都の途上で一人用のポッド黥布に命じて暗殺させた。

「どこへ行くんだあ?」
「はい、僻地に移住しましても一生懸命に……」
「送りオオカミと一緒にか?」
「ま、まさか……う、フ、フワアアアァァァ!!!」 →ドナドナry

「この俺がいつまでもおまえの下についていると思っていたのか」

憎き宿敵を滅ぼし、傀儡の主君をも消し去って文字通り頂点に立った項羽は、ご満悦で今度は武将たちへの領土分封、すなわち封建に乗り出した。

封建とは、周や殷、夏王朝などのように「手柄を立てた人物に領土を与え、主君は王としてそれら諸侯の上に立つ」、言わば盟主となるシステムである。
つまり彼は五百年前の周の武王の方式を継ぐ形で、中国の支配者となることを選んだのだ。

かくして項羽は自分を含めて十八人の英雄に「王」としての地位を与え、十八の国に封じた。
項羽自身は徐州の彭城に都を置く「西楚」を領し、さらに王たちの頂点に立つ「覇王」を名乗った。
「西楚の覇王」項羽が誕生したのである

春秋時代以前は、周王や殷王、夏王が、自らの本国を頂点として、その下に多数の諸侯が朝貢するシステムを作った。
それは始皇帝が数々の反対者の意見を却下して、中央から役人を派遣する郡県制を敷いたことで消滅したが、
項羽は偉大な武王も採用した流儀を復活させて、中国に緩やかで穏やかな統治を復活させたのである。だが……



武王「おめぇちょっと頭悪ぃぞ」
周公旦「やみくもに封建するのは危険です! もっと政治力学を考えないと!」
太公望「そこまで頭が悪かったとは……滅び去れ! それで王なぞ名乗るな!」



周の武王を気取った項羽の封建制は、その直後から一気に乱れることとなった



【項羽流封建制の瓦解】


まず項羽は旧斉国領を三分割して「膠東」「斉」「済北」の三国を立て、それぞれに王を封じていたが、
これら三王はどの王にも封じられていなかった実力者、田栄によって殺害もしくは追放され、瞬く間に奪われた。
ついでに田栄は彭越を派遣し、「西魏」「殷」「河南」に分割されていた旧魏領を荒らさせている。

また、もともと趙王だった趙歇を北の「代」に移し、空いた趙にその臣下だった張耳を常山王として入れたが、
今や対立する間柄となった陳余が田栄の支援を受けて張耳を駆逐し、趙歇を再び趙王として迎え、自らは入れ替わる形で代王に収まった。

そして、旧秦国領も旧斉と同様に三分して「塞」「雍」「翟」を作り、それぞれに旧秦国の将軍・章邯、司馬欣、董翳を王に封じたが、
彼らは進撃した「漢中王」劉邦によってあっさりと撃破され、その領土を奪われた。
旧韓国領だけはもとが小さすぎて分割できなかったが、韓王成を殺して項羽の武将・鄭昌を韓王にしていた。
しかしその鄭昌もほどなくして劉邦・韓信*20に呑み込まれてしまう。

おまけに旧燕国領は「燕」と「遼東」の東西に分けたが、陳勝時代からの燕王だった韓広を遼東王に移し、燕王は項羽の武将・臧荼を据えた。
しかしその臧荼までもが、独立して韓広を殲滅。燕全域を治めた。

さすがに項羽の足元である旧楚国領(これも「西楚」「九江」「衡山」「臨江」に四分されていた)は謀反まではしなかったが、九江王・黥布や衡山王・呉芮は項羽に従わなくなり、のちに劉邦に寝返ることになる。

つまり、旧七雄レベルでいうなら、その全域が項羽に背いてしまったのだ
項羽が立てた十八諸侯のうち、項羽が滅びるまで項羽サイドに着いていたのは臨江国(共敖、のちに死んで息子の共尉が跡を継ぐ)だけだった。

項羽の封建は、惨憺たる大失敗に終わったのだった。


【なぜ駄目だったのか】


失敗した原因を考えるため、成功例と比較する。

封建制に成功した周王朝だが、その封建体制を主導した武王とその弟・周公旦は、殷との戦争で最も活躍した太公望を、農業にも向かない僻地で、東には敵対勢力も強い山東半島・斉国に封じた。
その上、斉の西には周公旦の魯国が、北には召公奭の燕国が配置され、東西北の三方向から太公望を牽制していた

しかしながら、一方では太公望に「黄河から海までは切り取りしだい、あなたの領土になります」と、半ば独立王国として勢力を拡張することを許している
中原への進出を阻むとともに、その野心を別方向に発散するよう手配していたのだ。

つまり封建制とは、ある程度の謀反が起きることを前提としたうえで、反逆を起こせないよう巧みに領土を配分し、綿密に政治力学や名文論を組み立て、さらに反乱が起きても鎮圧できるだけの政治力、軍事力、支配力中央政府に求められるシステムなのだ。

しかも、それだけ苦労して太公望を組み込みながらも、周王朝は武王の急死という混乱もあって、武王・周公旦の弟、管叔鮮・蔡叔度が殷の紂王の息子・武庚を担いで反乱を起こすなど、さまざまな苦労に見舞われている。

それでなくても、封建領主たちは「おれたちの活躍からすると、取り分はもっと多くていいはずだ」という野心や不平不満を抱いてしまう。人間はそういうものだし、たとえ本人が無欲だったとしても、周囲の人間が唆し続ければいつまでも堪えられない。
しかも封建によって自前の領土と兵力、税収が手に入るのだから、それをステップとして「諸侯よりも上」、すなわち「王位」まで狙えるのだ。

「功績を立てたから」「信用できるから」「人望があるから」などという理由で、うかつに領土を与えてはいけなかったのだ。

夏殷周がそれでも封建制を選択したのは、当時は文明的にも政治的にも広大な中国を一つの組織で治めるのが不可能だったからだが、
西周から春秋戦国時代を経て漢字・漢文が発展して情報量が増加し、行政機構や法律体系が洗練され、統治効率が飛躍的に向上したことで、もはや封建システムは過去の遺物となっていた

しかし項羽の封建は、そうした複雑な政治力学や権力模様、謀反の兆候などをまったく考えていなかった
しかも、よりによって後に最強の敵となる劉邦に「天険による堅い守りと、その割に肥沃な土地があり作物が豊か」な
「力を蓄えるには絶好の土地」漢中を与えてしまったのである。

例えば、どうせ劉邦を封じるなら遠い漢中などではなく、謀反を起こしてもすぐに始末できる西楚の近郊にでもするべきだったかも知れない。
斉国に強大な影響力を持つ田栄を、野放しにするべきではなかった。
旧七雄を細かく分割したことで、それぞれの王に「どうせなら三分の一じゃなく全部よこせよ」という不満を抱かせている。
もともと君主と臣下だった趙歇と張耳を隣り合わせで、しかも同格の王としてもうまく収まるはずがない。

項羽は、共存しようとしてもできない体制を作ってしまったのである。
その結果項羽は、あっという間に「火消し」に走り回るハメになった


【楚漢戦争】


故郷に「錦を飾る」暇もあらばこそ、瞬く間に大乱戦となった中国を治めるべく、項羽は機動部隊を率いて駆け回ることになった。

 東ニ田栄ノ謀反ガアレバ 行ッテ住民ゴト\デデーン/シ
 西ニ出テクル劉邦アレバ 行ッテ五十六万ヲ蹴散ラシテヤリ
 南ニ寝返ル黥布ガアレバ 龍且ヲ出シテ家族ヲ殺シ
 北ニ韓信ガ趙斉ヲ滅セバ サラニ龍且ヲ使ワシテヤリ

といった具合で、中国全土を所狭しと往復し、東は斉の田栄、中央は魏の彭越、北は趙の陳余、そして西は漢中と漢中を制圧した劉邦、と四方向の相手と戦うことになった。


しかし項羽が率いる軍団はとにかく強く、「戦場では」無敗を誇った。


例えば、斉を統一し趙魏も抑えた田栄は、項羽の猛攻に散々に破られ、逃亡するも殺された。
しかも、その後の項羽が斉の平定にてこずっている間に、劉邦が魏や趙を初めとする反楚諸侯を糾合し、その数五十六万と言われる大軍団でがら空きの西楚首都・彭城を強襲、占領されるという事件が起きたが、項羽は遠征軍からたった三万だけを抜くと彭城に急行。
連合側が油断し切っていたとは言え、三万の兵力で五十六万の軍団を粉々に打ち破るという大勝利をしている。

「ザコの数をいくら集中したとて、この俺を超えることはできぬぅっ!!」

この時劉邦は妻子も捨てて身一つで逃げ出したが、項羽はなおも猛追。
かろうじて滎陽に逃げ込んだ劉邦に対して、その城を包囲した。


こういった感じで、項羽は確かに「攻めれば無敵」だった。


しかし、項羽の強さは「項羽がいる場所だけ」だった。行き当たりばったり続きだったのだ。
例えば、せっかく田栄を仕留めながら、彭城に反転したために斉国は田栄の残党が盛り返し、斉国をまた併合してしまった。元の木阿弥である。
しかも、項羽は行く先々で攻め落とした城郭都市や住民を片っ端から\デデーン/していくので、住民たちの憎悪を駆り立て続けた。
もともと項羽は章邯配下の投降した秦兵二十万を皆殺しにし、しかもその「二十万人を死なせながら、自分たちだけ助かった」章邯たち三人を、よりによって秦の三王にするなど、目に見えない多勢の感情に鈍感だった*21
結果、章邯は住民たちのサボタージュと劉邦への協力を止められず、名将としての手腕をなんら発揮できないままに漢軍に敗退している。*22*23

うかつな封建による失敗という政治面での無能さに加えて、破壊の限りを尽くし結果を予測できない政略面での視野の狭さ、そして目の前の戦場しか見えていないという戦略面の才能の無さが、「連勝しながら負けている」という有りそうで無い状況を作っていった。
唯一、龍且のみが項羽の別働隊として活躍しているが、逆に言うと龍且一人しか組織を支える人物がいなかったということである。

また、項羽には足りない知恵を補佐する謀臣もいなかった。范増が軍師として名高かったが、実際には范増が重用されていたころから項羽は全力全開で迷走している。
范増もまた評判倒れだったか、あるいは范増ですら項羽を御しきれなかったのかもしれない。


もっとも、逆にいうと項羽は、その空前絶後の強さと、主に戦場で発揮される覇気によって、国家としての西楚を束ねることができたのだ。
政治力と知力が無く、統率力と魅力もごく狭いものでしかないのに、覇気と武力というたった二つの政治財産だけで国家を維持できたのは、項羽であってこそできたことだったろう。

事実、いったんは劉邦サイドに寝返った斉・魏・趙は、項羽の圧倒的な強さと覇気に当てられて、再び項羽サイドに降伏していた。
項羽の強さと覇気は、どこまでも戦術レベルでありながら、不利な政局や外交をもある程度は挽回できるものだったのだ。


【衰退】


しかし劉邦が逃げ込んだ滎陽の攻略に項羽はてこずり、一年間もの持久戦にもつれ込むことになった。
この間に、劉邦の謀臣・陳平が離間の計を用い、一時龍且らの将軍が疎んじられ、軍師格だった范増が失脚、その後死亡している。
結局、劉邦は紀信という側近ら将軍複数人を身代わりに立ててまたも逃亡。
項羽も劉邦と漢の主力メンバーを取り逃がし、結局二人とも同じことを繰り返したという冴えない結果になった。
つまり、項羽を取り巻く苦境はなんら変わらなかったのだ。

むしろ劉邦相手に一年も釘付けにされた挙げ句に何も得られずに撤収したことから、ついに唯一の政治力である覇気までもが影をさし始めた
さらにこの時に劉邦を追撃すれば良いものを、なぜか別方面へ行ってしまう。范増を失った影響だろうか。

その後、劉邦は軍を再編して今度は成皐に進出。項羽は再び覇気を蘇らせて成皐を攻めたが、
そうしている間に黥布と呉芮が劉邦に寝返り*24、魏地方を荒らす彭越も劉邦と協力し項羽の兵站を襲撃
項羽は成皐を放棄して彭越を攻撃に向かうが、そうすると今度は劉邦軍が復活し成皐と広武山を固める、という消耗戦と鼬ごっこを繰り返すことになる。

龍且「申し上げます! 劉邦陣営に彭越と黥布と呉芮が加わりましたあっ!」
「なにいっ!?」「な、なんて奴らだ……!」

しかも、項羽が西の劉邦と東の彭越の間を行ったり来たりしている間に、項羽サイドに回ったはずの北の趙と東の斉が、劉邦の別働隊である韓信と張耳によって滅ぼされて劉邦サイドに組み込まれてしまった。
項羽は、唯一まともに戦線を任せられる龍且を北に派遣したが、この龍且が韓信に敗れて戦死。
項羽は北と東の戦線のみならず、組織上の大幹部をも失うこととなった。

迷走し疲れ果てて追い詰められた項羽は、ついに広武山の戦線で、捕えていた劉邦の父親を引きずり出して釜茹での準備をした上で、劉邦に降伏か一騎討ちかの二択を迫った。

「劉邦! お前が戦う意志を見せなければ、俺はお前の親父ィを破壊し尽くすだけだあっ!」
劉邦父「もう駄目だ……おしまいだあ……」

しかし劉邦が乗るはずが無い。

劉邦「そんなこと知るか。俺は親父に嫌われてここまで生きて来たんだ」
劉邦父「あおおふっ!?」
「一度義兄弟になった俺たちの親父をスープにするなら、俺にも一杯奢ってくれよ」
劉邦父(なぜだ……なぜ無視するんだ……わしが殺されるのに! なぜだ……!!)

……とまああんまりなセリフで無視した劉邦は、代わりに楼煩という異民族上がりの戦士を出した*25
この楼煩も戦いには自信があったらしく、相手に出てきた楚軍の武将を矢の一本で討ち取っているが、
直後に自ら飛び出した西楚覇王・項羽のすさまじいオーラに震え上がり、矢どころか大喝一発で逃げ帰り、二度と出てこなかったという。

楼煩「伝説の、超中国人……!」「逃げるんだ……勝てるわけが無いYO……!」

その飛び出した項羽に対して劉邦も飛び出す……訳はなく、遠くから義帝暗殺・住民虐殺などを持ち出して痛罵。
しかし、射程距離に入ったと見て項羽は隠し持っていた弩を取り出し劉邦を狙撃、胸に直撃し、劉邦は血を吐いて倒れた。

劉邦「ふおおっ!?」 Σ(ノ;゚Д゚)ノ ←--<< キィィ----ン ズボォッ!

「終わったな……所詮、クズはクズなのだ……」

かたや西楚の覇王、かたや後の漢帝国の皇帝が、直接やり合うという極めて稀有な事件だった


だが胸に直撃を食らったにも拘らず、劉邦は鎧と距離のおかげでかろうじて生存。
軍隊の中で元気な姿を見せ、そのまま指揮を執り続けた(実際は死に掛けだったが)。

「死に損ないめえ……!」

軍をぶつけて打ち破ることもできず、直接討ち取る千載一遇の好機も逃してしまったことで、ついに項羽は立ち往生。
いよいよ食料もなくなり、戦意も士気も覇気さえもが落ちぶれて、ついに相互に使者を出し、国境線を引いて和睦することになった。*26


【垓下の戦い】


疲弊し切った項羽と楚軍は、飢えに苦しみながらも退却した。

しかし、漢軍は自分から申し込んだ和戦条約を破って追撃を掛けた。
項羽と楚軍の疲弊を見切った劉邦の謀臣・張良と陳平が、約束を破ってでも今しか項羽を討てないと進言したためである。

だが、疲弊しても項羽は野戦では強い。
しかも劉邦と挟撃するはずだった韓信彭越が兵を押さえて動かなかったため、劉邦はまたも大敗する。

が、待ちに待った決戦に勝ったというのに、項羽は追撃をせずに東へと後退。いよいよ覇気が落ちていたのか、追撃も出来ないほど楚軍が疲弊していたのか。

そして、一度は動かなかった韓信と彭越はそれぞれ劉邦との交渉を終えて参戦。ついに項羽は垓下の地に包囲されることになった。
兵も武将もほとんどが逃げ散り、残った者たちも飢えと疲労に疲れ果てた状態であり、項羽は自ら指揮をとって奮闘したが、ついに身動きが取れなくなる。
その夜、漢軍の包囲網から楚国の歌声が鳴り響いてきた。
高名な「四面楚歌」である。*27

これによって、ついに本拠の楚地さえも劉邦サイドに落とされたと思った項羽は、己の武運が尽きたことを悟り、傍らに置いていた虞美人と別れの歌を詠んだ。

力抜山兮気蓋世 ――俺の力は山をも抜き、覇気は世界をも覆う。
時不利兮騅不逝 ――しかし時の利を得ず、我が名馬の騅も進まない。
騅不逝兮可奈何 ――騅が進まぬのを如何せん。
虞兮虞兮奈若何 ――虞よ、虞よ! 俺はお前をどうすればいいんだ!

史記には載っていないが、虞美人はこの時、歌を返したという。

漢兵已略地 ――漢軍がすでに楚地をも攻略し、
四方楚歌声 ――四方より楚の歌声が聞こえてきます。
大王意気尽 ――大王の意気が尽きたのに、
賎妾何聊生 ――わたしがどうして生きていられましょう!

虞美人の「見送り」を受けて、項羽は最後の決意を固める。
その夜、八百騎を選抜するとそれを率いて突撃、包囲網を蹴散らし淮水に向かった。


【覇王死す】


一方、漢軍は項羽に抜けられたことを知ると、翌朝騎兵五千を発して項羽を追撃
項羽の八百はその間にも大勢が逃亡・討ち死にし、淮水を超えたときには百騎に、
しかも逃げた先で沼地に迷い込み、そこを抜けたときには二十八騎にまで減っていた。
しかし追手の漢軍も沼地に引っかかり動きが遅れる。
そして、その間に項羽は二十八騎を小高い丘に休ませた。

「俺が決起してから八年間、七十あまりの戦をしてきたが、敗れたことは無かった。
 この度の苦戦は天が味方しなかっただけの事である。戦い方を知らないわけではない。
 その証拠を見せよう。今に五千騎に包囲されるはずだが、俺はあえて包囲された上で、将を斬り旗を倒して包囲を突破してみせる」

と豪語した上で、作戦を指示。
二十八人を七人ごとに四つの小隊に分け、馬の力を活かして突破せよ、敵兵は案山子と思って蹴散らせ!
囲みを破ればまっすぐ東に進め!――と命じ、緊張する兵たちの前で横になり、体力を回復するとともに動揺を鎮めた。

そして、包囲されたのを見計らって出陣すると、その宣言通りに兵たちと項羽は見事包囲を突破
その途上で追撃隊の武将二人を討ち取り旗を切り倒して兵数十人を切り捨て、落伍したのは二人だけという、まさに完璧な勝利を収めた。

そのまま項羽たちは長江の渡し場の一つ、烏江という長江の渡し場に着いた。そこの亭長は項羽の顔見知りだった。
亭長は項羽たちを船に乗せて対岸へと案内しようとする。対岸は、項羽の故郷だった下相である。
しかし、項羽は穏やかに首を振った。

「俺が決起したとき、故郷の子弟が八千人も従ってくれた。しかし帰ってきたものは一人もいない。それを父老たちは許してくれまいし、もし再び王にしてくれると言っても俺が合わせる顔が無い」

と語り、形見分けとして己の愛馬騅を亭長に渡して、「俺の詫を、父老たちに伝えてくれ」と言い残して送り出した。
しかし騅は項羽の危機を感じ取り、長江の途中で船から飛び降り項羽の下に戻ろうとして溺死してしまった。

「フッフフフフ、よく頑張ったがとうとう終わりの時が来たようだなぁ……」

直後に、ついに漢軍の追撃隊が殺到。
項羽は残った二十六人とともに猛烈な抵抗を見せ、一人で数百人を斬り倒し、文字通りに力尽きるまで戦い抜いた
最期はその兵のなかに旧知の呂馬童がいるのを見て、

「馬童か! よし、旧知のお前に、特別に大手柄をやろう!」

といい、自らの首を刎ねた


項羽、享年三十一歳。余りにも早い、激動の死であった。
その死体は功を争った漢軍によって奪い合いになり、百人以上の死傷者が出たという。
全てが終わった後に残ったのは、胴体だけの無残な骸であった。
これには命じた当の本人である劉邦ですら惨さを感じたようで、かつて項羽が懐王から与えられた「魯公」の格で称号を贈り、丁寧に墓を建てて祀っている。

【人物像】


二十四歳で決起し、一度は間違いなく天下を取り、破滅して戦死するときはたった三十一歳という、常人の数倍のスピードで時間を流したとしか思えないような生き方をした「英雄」である。

また、武将としてはほとんどの戦いで機先を制し続け、時には文字通りに桁違いの兵力差を誇る相手を文字通りに粉砕するなど、圧倒的な力を誇った。
「力は山を抜く」というのはさすがに誇張だが、武将としてはまさにそれぐらいの賛辞が似合う男である*28

それでいて個人レベルでは、年長者に対しては礼儀正しく、下の相手には優しく情け深いと言ったエピソードが多い。
例えば叔父の一人の項伯はしばしば内通じみた行動を取っていたにも拘らず、叔父と言うことで丁重に扱っていた。
鴻門の会でも范増から「我が君は残忍なことができない(劉邦の目的が秦の略奪ではないということは、真の目的は天下取りだと范増が言ってるのに、命乞いをする劉邦を殺せない)」と言われている。
死の間際に烏江亭長に残した言葉は、責任感や思いやりの深さなどが読み取れるものである。
垓下で虞美人に詠んだ優しくも物哀しい詩は、学校の教科書などで読んだ人も多いのではないだろうか。


何より端倪するべきはその覇気である。
「気は世を蓋う」と豪語した通り、武将としての「強さ」と、吐き出す「覇気」だけで文字通りに一国を束ね、さらには一瞬とは言え封建国家の盟主として天下に臨んだと言うのは、まさに驚くべきことと言えた。

しかし、逆に言うと彼の長所は「強さ」と「覇気」しかない。

政治面や戦略面などはすがすがしいほどにからっきしであり、行く先々で破壊と虐殺を繰り返し、そのせいで戦闘が終わった先から反乱や盗賊が跋扈する、という悪循環を引き起こした。
特に虐殺においては、投降した二十万人を穴埋めにしたり、抜いた城の住民を片っ端から皆殺しにしたりと、キリングマシーンと言われた白起と並ぶかそれ以上の殺しっぷりを見せている。
そのせいで敵が「投降しても殺される」と思って死力を尽くして抵抗するから、攻略に時間がかかる…と良いことがない。

また当時の行政システムの中枢だった咸陽を焼き払い、豊穣な天険だった関中に拠点を置かなかったことも、彼の政治見識の無さを象徴している。
実際、関中に本拠を持つべきだと諫められたのだが、この時項羽は
「富貴になっても故郷に帰らない。これは錦を着て夜に歩くようなものだ、誰がこの栄達を知る」
と答えた。「錦を飾る」の由来だが、人間としては素朴でも、天下を担う政治家としてはなんの理由にもなっていない行動である。
この時、諫めた論客は項羽について「沐猴而冠耳」、冠をつけただけのサイヤ人大猿だ、と酷評して処刑される*29

周の武王に倣った封建王国を目指したが、春秋戦国時代を通して国家の行政システム、法律システムは高度化し、中国全体を効率的に統治できるようになっていた。春秋戦国時代には、既にゆっくりと封建制から郡県制に進化していたという論もある。
つまり封建制によって分割統治する時代ではすでになかったのだ。むしろ他の勢力(劉邦)が天下統一を目指したときに、たやすく瓦解するシステムとなっていた。


もっともこの当時、そうした事実に気付いていた人物のほうが少数派であった。
例えば劉邦は途中張良に諫められるまで漠然と戦国七雄時代に戻すことを考えていたし、始皇帝時代の秦朝でさえ宰相の王綰、馮劫、淳于越といった高官たちが封建制に戻すよう訴えていた。
李斯、張良たちこそが少数派で、項羽は単なる多数派だったと言うことだが、それこそが項羽の限界を示している。*30


天下を争った相手である事から劉邦と比較され 人の上に立つ者の資質が全て負けていると後世まで言い切られる程にフルボッコ であるが、一概にそうとは言い切れない面もある。
  • そもそも担ぎ上げとは言え初めからトップであった劉邦と、叔父と共に旗揚げし引き継ぐ形でトップになった項羽では組織の構造面で違いがあり、同じ運営方法が通用するとは言い難い。
  • 「鴻門の会」時は劉邦も項羽もあくまで懐王の配下であり、非があったのは関中に引きこもり項羽を締め出そうとした劉邦側なので攻める姿勢は間違っていない。また、殺さなかったのも「(暗殺の)前科がある状態で、再び殺せばさらに人望が落ちる」と考えたからとも思われる。
  • 劉邦側は調略による配下との引き離し、騙し討ちによる襲撃、留守の時を狙っての攻撃等知略を駆使…悪く言えば卑怯なやり方で項羽を滅ぼしており、人格面で劉邦が優れているとは言えない*31
  • 「擁歯封孔」のエピソードや漢王朝成立後も反乱が度々起きていた事、項羽配下の中にも優れた人材が最後まで残っていた事を踏まえると、人望・君主としての魅力で項羽が完全に劣っていたとも言い切れない。
  • また故郷に錦を飾るというのも当時の視点で見れば個人的な思考と単純に決められない面もあった。項羽は楚国の名将項燕の末裔であったので、故郷へ帰って自らの功績を示すと同時に楚国の栄光を再び取り戻す意味合いもあったと言える。
    • 加えて、彭城があった江東地域は「気候が穏やかで米も取れる」という当時としては実に過ごしやすい地域であり、ここを拠点にするという判断自体が間違っていたとは言い切れない。

とはいえ、問題なのはこうした決して少なくない美点や長所、思考が、結果として政治面・外交面にほとんど利とならなかったということだろう。
そもそも一度天下を取りながら一瞬で失い、わずか五年で破滅した(しかも彼の政治システムも後世継がれなかった)のは、彼の政治能力に問題があったからである。

逆に劉邦は、さまざまな欠点・問題はありながらも、人格や魅力、統率力や信頼など項羽とは逆に「部下の能力を存分に活かす一方、巧みに拮抗させて反乱できないように仕向ける」ことにかけて、無類の巧みさがあった。
例えば、項羽と劉邦は同じく黥布を王にしたが、項羽は黥布に背かれ劉邦と組ませ、逆に劉邦は黥布が韓信・彭越と組めないように仕組んだ*32

つまるところ、項羽の長所は個人レベル、戦術レベルのものでしかなく、戦略や政略にはまるで役に立たなかったということだ。
韓信が彼の数々の長所を認めたうえで評した「匹夫の勇と婦人の仁」という言葉が、彼の評価そのものといえる。




総評すると、覇気と力だけは天下一品、それ以外は素寒貧、という極端すぎる歴史の「英雄」といえる。

しかし、世界の英雄の人生を数倍に濃縮したようなその一生は、実質わずか八年の活躍期間にも拘らず、すさまじい印象を人々に刻みつけて消えない。




【史記と項羽】


「史記」は「項羽本紀」として、項羽を「本紀」に据えている。
本紀とは「その史書が定めた、正当なる王朝の支配者」というものだが、そこに項羽がいる。
司馬遷は項羽について「滅んだのは馬鹿だったからだ。自分で破滅したんだ。そのくせ、死ぬ前になってもその原因を天のせいだと言っている。何もわかってないんだ」と手厳しく批評しながらも、あえて本紀を立てているのだ。一応名目上の君主として懐王がいたのにもかかわらず。
ちなみに、のちの「漢書」では項羽は本紀を立てられず、陳勝と一緒に「陳勝項籍伝」にまとめられてしまっている*33

ある意味で項羽は、司馬遷によって詳細に描かれ、正当に評価を受けることができたといえるだろう。


【関係者】


  • 范増
「亜父」、父に次ぐ者として尊称した軍師
孫氏呉氏にも劣らぬという評判の智謀で、項梁によって起用された時点で70歳前後になっていたという。
しかし実は史書でもほとんど名前が出てこない。つまりあまり献策した様子が見られないのである。
その献策も「楚の王族を担ぎ上げ大義名分を得るべし」位で他には「劉邦と韓王成を暗殺する」といった対処療法、もしくはズレたものばかりで、はっきり言って評判倒れである。
大義名分の確保として旧王族を担ぎ上げる策も、項梁の死という予想外の事態があったとはいえ、懐王の策謀を許すなど粗も多い*34。(これに関しては兵法三十六計の借屍還魂が詳しい)

まともな軍師だったのなら、項羽の無謀で粗雑な封建や根拠地選びを諫め、人材発掘を進めるべきであったが、
それをしなかった点で少なくとも政治面では大した軍師ではなく、何よりそんな彼が「随一の知恵者」と評された時点で、項羽側がいかに謀臣がいなかった・育ちにくかったかが証明されている。

とは言え、記録に残った献策が少なすぎて想像で埋めるしかないのが実情ではあるが、
劉邦陣営をしっかりと敵として認識し警戒していた事、劉邦陣営側は計略を用いてまで引き離しを図っている事からその知恵は侮れない物であったのは事実であろう。
実際に彼が離間の計によって除かれて憤死した後、項羽は完全に劉邦と彭越に翻弄されるようになっていくので、軍略の方に関しては評判どおりであった可能性は大きい。
劉邦も後に「自分は張良・蕭何・韓信を使いこなせたが、項羽は范増ひとりすら上手く使いこなせなかった。これが項羽の滅亡した原因である」って言ってるし。


また違う見方として、「項羽は范増を亜父として敬愛したが、肝心なところでの進言を聞かなかった」というものがある。
人間、言うことを聞いてもらえなければやる気が無くなってしまうものである。范増は老齢だったためそれでも仕えたが、周囲の人間は離れてしまってもおかしくない。
まさに韓信の言う「婦人の仁」が原因である。

  • 虞美人
項羽が寵愛した美人。「傾国の美女」として名高い。
……ということなんだが、出番が垓下の一戦だけなので実は傾国らしいことは何もしていない
王たるもの世継ぎを産まねばならず、妻や愛人はいないとマズいぐらい*35なので、彼女が項羽に愛されたと言っても騒ぎ立てることではないのだが、なぜか「虞美人ばかりの言うことを聞くので武将たちが逃げた」などといわれる。
実際には滅びゆく項羽から逃げ出す口実に使われたと言うことだろう。
あと女好きで手を出しまくる劉邦との比較
項羽の滅亡後どうなったのかも不明だが、垓下での返詩を読む限り、項羽を見送って殉死したようだ。

  • 龍且
数少ない、項羽と離れて行動できた大幹部。項梁が挙兵して間もない時期から活躍していた。
劉邦側に寝返った黥布を討伐し、身一つで落ち延びさせるなどかなりの強さがあったが、韓信を討伐するべく北上したときに返り討ちにあい、戦死。
まあ良将ではあったようだが、策略の類には秀でてなかったのであろう。

  • 項梁
項羽の叔父貴ィでございます
項羽よりは頭が切れる感じで、人の使い方もある程度は心得ていた。
しかしそれも項羽と比べればという程度の話。懐王を擁立すれば宋義の台頭を招き、斉国の救援を兼ねて章邯討伐に行ったら斉国との外交に失敗して孤立無援となり見殺しに遭って殲滅される*36という結末を迎えており、時代を牽引する覇者としての手腕には明らかに乏しい。
項羽の弱点である組織を支える部下が少ないという欠陥も項梁のころからあった。
結局、叔甥含めてなるべくして辿った末路だったといえる。

しかし殺人を犯して逃亡している最中に人を集めて反乱軍の首領にまでなっているので、あのまま生きていたらどうなっていたか…という人物でもある。
また部下が少ないというのも立ち上げ直後なので仕方ない面はあり、また人材を集めていたとも書かれているので*37、やはりあのまま生きていれば叔甥ともに違った結果があっただろう。
そもそも脳筋で政治的な能力が皆無の項羽が首領にならざるを得なかったことが問題でもあるので…

また、項羽が陳勝残党を生き埋めにしたりした後、秦兵20万を生き埋めにするまでそうしたことをしたという記述が存在しないため、項梁に何かしらの注意を受けた可能性もある
まあ項梁敗死後しばらくしたら忘れちゃったようだが…

ちなみに項羽は甥なのだが、項梁の息子はいっさい記録が無く、本人も項羽を跡継ぎと考えていた節がある。子供を作れなかったのだろうか。

  • 項伯
項羽のもう一人の叔父。資料によって項燕の長男だったり末弟だったりでハッキリしない。
楚が滅亡してからは秦に追われる身となり、この時張良と知己となり殺人を犯した際には匿われ、恩義を受けた事から張良とは友誼を結んだという。
項梁の挙兵に参じ、項梁の死後には宰相格に取り上げられた。…のだが、どうもこの叔父、その倫理は「侠」の人間だったらしく、項羽軍での活躍より上記の張良との個人的な縁を重視していたらしく、劉邦を殺せる機会には張良の説得に応じ項羽を説き伏せ弁明の機会を与え、項羽が封建の地を考えている時またも張良に入れ知恵され漢中の地を劉邦に与えるよう進言するなど、ことごとく項羽の足を引っ張ってしまう。
身内贔屓で年長者を重んじる項羽にとっては余程この叔父の言葉は逆らえない物だったようだが、最終的には項羽を見限り劉邦に帰順。
君臣や一族の倫理に立てば都合のいい裏切り者でしかないため、後世の評判は悪いが、劉邦=善・項羽=悪の構図になっている場合はあまり悪く描かれなかったりする。


【創作における項羽】


中国史モノで三国志以外だと一番人気と言っていい人物なので、作品も多い。

もっとも有名なのは、やはり司馬遼太郎の「項羽と劉邦」だろう。
表題通り、項羽と劉邦二人を主人公としながら、当時の時代背景、思想への考察などがふんだんに盛り込まれている。
なお司馬遼太郎は司馬遷を大変尊敬しており、そのペンネームも「司馬遷に遼(はる)かに及ばない日本人(=太郎)」という意味がある。
そのため筆も心なしかノリノリで、項羽の強さはまさしく超人的として描かれており、「項王来」が全軍に伝わり、それだけで反楚連合軍が崩壊するシーンなどは圧巻。
一方、奇妙な徳がある人物として描かれる劉邦に呑み込まれる姿は哀愁を誘う。

虞美人とのロマンスも、それを象徴する漢詩が教科書に載るレベルで有名なので人気が高い。
もっとも、虞美人は史書では垓下で別れる場面しか出番が無いのだが、特に京劇・演劇科目では項羽と虞美人の悲恋は非常に人気が高い。

また、ヒナゲシの漢名の一つに「虞美人草」というものがある。由来はもちろん彼女であり、彼女の墓所にこの端が咲いたという伝説から。

  • 項羽と劉邦(横山光輝)
超猪武者、とにかく武勇に関しては作中最大最強の存在として描かれており、范増にどれだけ諫められても我が意を貫き通す。
しかしどこか子供っぽい純真さも多少描かれており、項梁の死には号泣し、子供に諫められたときは素直に聞いたり、その並外れた武勇に范増は自分の人生をかけて盛り立てていこうとする。
范増死後は気落ちし、自分の器の小ささを多少自覚したことにより成長を見せていくが、時すでに遅く、国力の充実した漢に徐々に戦力を削られながらも、最後に史実通りに突撃を敢行、その死をもって完結している。
作中前中盤の主役が范増と劉邦ならば項羽は後半の主役と言える。


【余談】


南方圏の出身者で、圧倒的な強さがあり、急速に勢力を拡張したといういくつもの共通点から、のちの孫策が「項羽の如し」と評された。これから派生して、三国演義では「小覇王」の二つ名が付いている。
しかし当時は仮初にも後漢王朝の時代であり、孫策に対して「項羽の如し」というのは「漢王朝に仇なす強力な危険分子」というに等しい、讒訴の言葉だった。
しかも孫策はこの時点で皇族で揚州刺使だった劉繇を駆逐している。
当然孫策は激怒し、それを奏上した許貢を惨殺している。


「三国志の最強武将」として有名な呂布と「どちらが強かったか」という夢のような話が持ち出されることがある。
しかし、呂布はどうしたって天下を流浪するのにとどまり、大局ではほとんど影響力を及ぼせていないのに対して、項羽は仮にも天下の情勢を牽引し続けた。
呂布は漢代の将軍・李広になぞられて「飛将」と呼ばれたが、結局は「将軍」止まりであり、「覇王」になった項羽とは比べものにならない。
結局比較できるのは「単純に戦場で一騎打ちをしたらどっちが勝つ?」程度の話になる。


コーエー「三国志」シリーズで他の時代の武将・帝王を隠しキャラとして出演させる「いにしえ武将」システムが実装されるようになると、項羽も常連として登場するように。
当たり前のように武力100。統率力や魅力もスゲー高い。
史書では「匹夫の勇と婦人の仁」と呼ばれて「統率力や魅力はあるけど狭いモノです」とか言われていたのだが。
数値だけを見たユーザの中には武力100と聞いて「青龍偃月刀持った関羽や蛇矛持った張飛以下じゃん。」とか「呂布は本当は武力120だから覇王って言っても最強じゃないよね。」等と心無い言われ方をされてはいる物の、攻撃時の補正や戦法使用時のクリティカル率が高いと言った部隊としての補正で呂布とは違った強みを持つ事が多い。
また、楚漢戦争を題材にしたコーエーゲーム「項劉記」では補正こそないものの、劉邦陣営の最強武将(樊カイ)との武力差が2ケタ近くある等やはり圧倒的な強さを見せつけている。
紹介文で「中国史最強の武将」と断言されただけのことはある。
また、知力はなぜかそこらの脳筋武将よりはあったりする。これは作詞もできる教養ゆえか。
しかし政治力は呂布にも匹敵するレベルでワーストクラス。かしこさ26

ちなみに天敵となった劉邦とは義兄弟の関係であったらしい。上記の劉邦の親父を人質にとった時の会話が元。
が、史記の中でもそこにしか出てこないので本当に影が薄い設定。
「俺とお前は懐王の前で義兄弟の契りを結んだ仲」とあるので、秦への本格的な侵攻を開始する前に行われたことと思われるが、なにぶんその頃を書いた記述に出てこないので詳細不明。
時期的に項羽25歳、劉邦49歳くらいの頃と思われる。もしかしたら死んでしまった叔父の姿を重ねていたのかもしれない。




追記・修正は政治力学を考慮して荒れないように行ないましょう。
しかし良項目を作り、アニヲタWikiを牽引するんだという覇気もまた大事だと思います。

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*1 扶蘇は暴君である父や李斯に諫言したことから民に慕われており、項燕も最期に秦と戦い一時は勝利するなど反秦の象徴として名声が高かった。

*2 ちなみに、項梁には他の兄弟として項伯(名前は纏)がいる。ただ、なぜか「史記」だと項梁と項伯どちらも末弟と言うことになっている。しかし「伯」とは長男に付けられる字なのだが……

*3 大労役に対して秦の官僚に調整を計ったり、葬儀を取り仕切ったり(中国社会では超重要)していたようだ

*4 後々に披露する「数十人は軽く斬れますた」とか「愛の詩が教科書に載りますた」とかいうエピソードを考えると凄まじい放言だが……。天才だったのであろう。

*5 ちなみに現存しないが「項王一巻」という兵法書を書いたらしく、劉邦に謀反したときの黥布も読んでいたとも。「文字は名前さえ書ければいい」とはいったい……。

*6 項羽を参考にした黥布の陣を見た劉邦は「あれは突撃して敵を破るのに適しているだけで、権謀の策はまるで駄目な陣形だ」と評したそうだ。兵法には戦略・戦争観まであるので、きちんと最後まで修めていれば違った結末もあったのかも知れない。

*7 この時殷通は名言『先んずれば人を制す』と語ったと伝わる。が、漢書の『陳勝項籍伝』では最初から項梁が語った言葉となっており、殷通は発言していない。

*8 余談だがこの楚王心、まだ生きているのに「懐王」と称している。この「懐王」という称号は、むかし昭襄王時代の秦国に拉致され、脱出にも失敗して非業の死を遂げた「懐王」の復活、復権、仇討ちなどの意味を持つものであった。

*9 このしばらくのちに、李斯は胡亥・趙高に殺されている。

*10 使者となる前くらいの頃に、将兵が慢心していることを項燕に諫言したが聞き入られなかった。これが不満に繋がったようだ。

*11 ちなみに、この時鉅鹿には張耳という人物が包囲されていた。その張耳には陳余という友人がいて、「刎頸の交わり」を結んでいたのだが、その陳余でさえ震え上がって助けに行かなかったほどだった。これが原因で張耳と陳余は仇同士となる。

*12 韓信が行なった背水の陣は「敵を引きつけるため、わざと水を背にして布陣する。その間に別働隊が敵の拠点を落とす」というもので、明確な作戦目標があってのこと。もちろん、「ひきつけるオトリ隊に死力を出させて持ちこたえさせる」という一面もあったが。

*13 章邯は王離を救援しようとしたが、妨害され間に合わなかった。

*14 勝者となった楚兵は、かつて自分たちの国を滅ぼし酷使し、今は敗者となった秦兵を奴隷扱いし暴行・殺傷事件が多発。上官も抑えるどころか扇動するものまでいた。結果秦兵の不満は爆発寸前になっていたのだ。

*15 関中にいた劉邦は何を思ったのか函谷関を閉鎖してしまっていた。これが項羽を締め出しを意味するのは誰でも分かることである。よほど調子に乗っていたのだろう。

*16 項梁とは兄弟……なのだが、上述した通りどっちも「末弟」と書かれている。しかも「伯」とはふつう長男に付けられる字。

*17 正式には韓国の所属で、劉邦配下ではないため。

*18 あと半ば騙される形で劉邦と義兄弟になってしまったのも彼を助ける手伝いをした理由である。

*19 中国史では、戦勝軍の略奪は兵士への報償という常識があり、かつての秦もやっていたことではある。

*20 のちの「韓王信」のことで、「国士無双」と有名な韓信とは別人。

*21 歴史SLGで言えばお気に入りの武将の忠誠は上げるのだが民忠を一切顧みず、しかも首都以外の内政は全て省略するようなもの

*22 韓信の策により油断しており奇襲攻撃を受けたが、好畤では漢将紀成を討ち取るなど、名将の名に恥じぬ働きはしていた。

*23 しかし上記の理由により兵たちは次々と降伏。撤退し廃丘城に立てこもり大軍に包囲されながらも彭城の戦い前後まで9ヶ月もの間耐えていたが、痺れを切らした韓信の水攻めにより更に逃亡せざるを得なくなり、最期は自決した。

*24 ただし黥布は異変を察知した龍且に討伐され敗北、家族は皆殺しにされ身一つで劉邦に投じた。

*25 「楼煩」とは本来異民族の一つの名前である。劉邦軍にも項羽軍にも楼煩という武将がいたとされており、騎射に長けたものは皆「楼煩」と呼んだと思われる。

*26 ちなみに劉太公は 殺されそうになったが、項伯が「父親を人質にしたって劉邦はへっちゃらですよ」と諫めたために命拾いし、この講和の折に引き渡されている。

*27 楚国の大司馬だったが寝返った周殷が麾下の楚兵たちに歌わせた、張良による策略である、等幾つかの説がある

*28 その後「抜山蓋世」は故事成語となった。「威勢が非常に強く、気力が極めて盛んなこと」という意味。

*29 しかし当時の軍制では本拠地である楚から遠く離れた咸陽を首都にしていた場合、高確率で反乱が発生していたという研究もある。もっとも、項羽がそこまで考えていたかどうかは不明だし、何より劉邦が長安(咸陽の郊外の都市)に遷都しても、その直属軍は反乱していないという事実もある(反乱したのは韓王信、黥布などもともと劉邦の同盟関係に近かった諸侯ばかり

*30 しかし、秦の滅亡もまた急激な官僚体制の押し付けに一因があり、漢では折衷案的な「郡国制」を採用。段階的に移行している

*31 戦争に手段を選んでいられないというのは置いとく

*32 黥布は劉邦に反乱する直前、「劉邦は老いたし、恐れていた韓信と彭越は死んだ」と発言したが、これこそが黥布・韓信・彭越が連合できないよう劉邦に仕組まれた証明である。

*33 といっても、漢書は「漢帝国を扱った歴史書」である。また漢書の作者・班固は後漢王朝の官僚として製作したのに対し、司馬遷は半ば自費出版として史記を作った。取り扱い対象と作者の立場が全く違うので、どっちが良い悪いではない。

*34 大義名分の確保として旧王族を担ぎ上げることは他の歴史にも成功例がある。問題は完全に傀儡とせずに中途半端に実権を与えてしまったことであり、それにより懐王に独立の夢を与えてしまう結果となった。

*35 2300年ほど前のことである。幼児死亡率は今と比べて尋常じゃないほど高く、薬毒に関する知識もかなり少なかったであろう。それに対するには「たくさん子供を生んで、多少死んでも大丈夫にする」ことであった。

*36 斉国から利用されるだけ利用されてポイ捨てされた

*37 范増を見つけたのもまさにこの時