公孫瓚

登録日:2024/01/13 Sat 22:07:37
更新日:2025/04/01 Tue 23:49:21
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公孫(こうそん)(さん)とは、後漢末期の武将・群雄。字は伯珪。
異民族で悩まされるあの幽州を武力で統治した人物として知られるが、実際は権力構造まで変えようと計っていた野心溢れる男である。
一時は劉備を旗下に加え袁術袁紹と渡り合うほどの勢力を築いたのだが、自身のねじ曲がった性格によって自滅した残念な群雄である。



【生涯】

◆出生

公孫瓚が生まれた遼西公孫氏*1は幽州の郡太守クラスというなかなかの有力豪族であったが、公孫瓚自身は生母の身分が低く冷遇され満足に勉学も受けさせてもらえなかった。
そのため最初は太守でなく、遼西郡の門下書佐という下っ端の端役人に任命される。
こうして公孫瓚は憎悪を抱いたのであろう。持って生まれた身分と教育の差というものに。

だが聡明で容姿が優れ大きな声と頭の回転の早さを持っていた公孫瓚は、郡太守の劉其に気に入られた。
おかげで娘の侯氏を娶り、劉其の援助によりようやく盧植の下で学問を習うことができ、年下の劉備と学友になった。
また、劉寛という人物にも師事している。

その後、恩人である劉其が罪に問われ連行された時には随行し雑役を務め、交州・日南郡(ほぼベトナムの領域)にまで流罪と裁定されると、最早先祖の下には帰れまい彼に米と肉を捧げ祈った。
しかし、幸いにも劉其は後に放免され、公孫瓚も無事帰ることができた。
自身を厚遇してくれた身内に対する義理人情に篤い部分もしっかりあったのだ。

◆出世と怨敵・上司劉虞

この一件で彼は「考廉」に推挙され、やがて遼東属国の長史という任務を拝命、赴任した。

その遼東では、北方異民族の一派である鮮卑が、頻繁に侵入と略奪を繰り返していた。
赴任早々にこの略奪部隊を目撃した公孫瓚は、たった数十騎を率いて数百騎からなる敵に襲い掛かり、しかも自ら槍を振るって数十人を殺傷し、さらに数の差も覆して敵を撃破するという奮戦ぶりを見せた。
これで「敵にも手強いのがいる」と見た鮮卑族は略奪を控えるようになり、また後漢政府からも軍功を認められて涿(たく)県の県令になっている。
ちなみに幽州の涿県といえば劉備の故郷なので、もしかしたら劉備を招き寄せ、官僚としての実務を教えていたかもしれない。


黄巾の乱」から一年が経った185年、今度は涼州で大規模な反乱が発生する。首謀者は韓遂と辺章
後漢朝廷はこれに対処すべく、討伐軍を組織。
討伐軍第一陣の司令官は皇甫嵩だったが、彼は宦官・十常侍の工作によって罷免されてしまい、第二陣として司空・張温を司令官とする援軍が派遣された。
先行する第一陣には董卓・陶謙、第二陣には孫堅といった豪華メンバーが加わっており、張温はここに異民族討伐で功績を挙げた公孫瓚を抜擢しようとする。

だがここに加わりたかった張純という人物が突然逆切れ、異民族の丘力居と共に叛乱を起こすというとんでもない事態に陥る。
もともと、公孫瓚が率いる予定だった烏桓族出身の騎兵三千というのはこの張純が集めたものだった*2。しかし指揮官として辞令を受けたのは公孫瓚。彼は「俺が集めた兵士を、なんで他人が率いるんだよ!」と怒り狂ったという。
さらに反乱軍には張純と同郷でもと泰山太守の張挙(のちに皇帝も名乗る)、朝廷に反抗する漢族諸豪族とも連合し、総勢十万と称する大軍勢で、河北一帯を荒らしまわった。

このとき公孫瓚はまだ幽州から出発するところだったため、韓遂討伐軍への合流を諦めて張純討伐を開始(張温はそのまま西方に赴任した)。
緒戦は公孫瓚が張純ら反乱軍を華々しく撃破し、騎都尉に昇進もするが、勢いに乗りすぎて長城をも超えて追撃したため、逆に敵中孤立してしまい、なんとか脱出したものの張純・丘力居を仕留めるには至らず、膠着状態に陥る。

公孫瓚が「白馬義従」と言われる精鋭部隊を得たのはこの頃である。
烏桓族のうち、貪至王というのが率いる一派が公孫瓚に降伏した。
公孫瓚は彼らを得たことで中郎将・都亭侯に任じられたが、彼はさらに降伏した烏桓の一団から、数十人の腕利きと白馬を抜擢して、直属の騎兵隊に組織し「白馬義従」と称した。
公孫瓚の勇猛さは烏桓の間でもよく知られるようになっており、彼らは白馬を見ると「白馬長史」と呼んで、逃げを選んだという。
しかし張純・丘力居の展開する広域ゲリラ戦を捕捉するには至らず、略奪も止められないまま一年が過ぎる。


188年、公孫瓚では叛乱を平定できないと見た朝廷は、劉虞を幽州牧として派遣する。
彼は仁徳と懐柔策を以て丘力居を引き離し恭順させ、大きく兵力を削いだ。彼は数年前にも異民族の反乱を平定しており、人望が篤かったのだ。
どんなことも自力で道を切り拓いてきた公孫瓚にとって、これは大きなショックだった。
自分たちが血みどろになって戦ってきた功績が、皇族に連なる者の仁徳などという恵まれた身の上司が持ってきた存在しない何かで一瞬にして奪われてしまったのだから。

公孫瓚は交渉を妨害するなど徹底抗戦の意図を示したが、結局は劉虞の懐柔策により乱は平定された。
こうして劉虞は三公にまで出世。公孫瓚も董卓の推挙で出世するものの、劉虞ほどではなかった。
ひたすらに戦い続けてきたのに……。公孫瓚は再び辛酸を味わうこととなった。

◆反董卓連合/袁紹との戦い

190年、洛陽の政権を握った董卓に対して、袁紹曹操袁術孫堅を中心とする「反董卓連合」が決起する。
この時の公孫瓚は、実は両方の陣営に加わっていた。

もともと公孫瓚は董卓のおかげで官職を貰ったことから、親董卓派だった。
しかし一方で、反董卓連合の構成勢力である袁術劉岱にも援軍を送っていた。つまり反董卓連合に参加したというのも嘘ではなかったのだ。
冀州牧・韓馥の領土に攻め込んだ際も、正史三国志にて「董卓討伐を名目としつつ韓馥攻略を図った」と書かれている。
両方に与したと言うより、両方に襲いかかったというか。我欲一直線というか。野心家である。


公孫瓚は袁紹とも大々的に戦っていた。

董卓が洛陽を破却して長安へと「遷都」するのをヨソに、反董卓連合は紛争が多数勃発、空中分解していた。
盟主であった袁紹も、予州の支配権をめぐり、袁術と対立。陽城と言う場所で、袁紹派と袁術派での大規模な紛争が勃発した。
この戦いでは袁術派が敗北し、公孫瓚が袁術の元に援軍として送っていた公孫越が戦死した

公孫越戦死の報告を受けた公孫瓚は激怒し、いよいよ袁紹への敵意を固める

袁紹はこのころ韓馥から冀州の支配権を奪ったばかりだったため、公孫瓚と当たるのは時期尚早と判断し、かつて董卓より与えられた勃海太守の印璽を公孫瓚の従弟・公孫範に譲渡し、彼の口利きで公孫瓚と和解しようと謀ったが、
その公孫範はその印璽を持ったまま公孫瓚と連合してしまい、袁紹は渤海の勢力をみすみす敵に渡す事態となる。

初平二年(191年。この時はまだ劉虞は健在)、公孫範の勃海軍とも合流した公孫瓚は、まずは青州に発生した黄巾残党を殲滅してその物資を奪い、戦力を増強するとともに奮武将軍・薊侯に昇進。
さらに袁紹の「十大罪状*3」を大々的に公布し、冀州各地の反袁紹勢力を糾合、配下のうちから厳綱を冀州刺史、田楷を青州刺史、単経を兗州刺史、とそれぞれに任命して、これらの州を支配しようとした。
さらに劉備を平原の相に任命、田楷の支援部隊として青州・徐州方面へと送り込んでいる。
もちろんこれは、南方から進出を図る袁術とも歩調を合わせてのことであり、幽州・冀州・青州・兗州を公孫瓚が、荊州を孫堅が、予州を袁術が、それぞれ狙う戦略だった。


さて袁紹との戦績は、最初の二年間に限れば三戦二勝と、優勢だった。

最初の戦いは191年冬の「界橋の戦い」。この時は袁紹配下の麴義が公孫軍を打ち破り、冀州刺史に擁立した厳綱が捕縛される(もしくは討ち取られる)ほどの大敗となる。
ちなみにこの戦いは演義でも取り入れられている。

翌192年の「龍湊の戦い」は、公孫瓚が界橋戦後から時間をおかずに攻め込んだもので、袁紹軍が撤退。ただ、あまり決定的な戦いというものではなかった模様。

そして同192年に起きた「巨馬水の戦い」にて、公孫瓚は袁紹に大勝する
まず袁紹軍(将:崔巨業)が公孫軍の故安城を包囲したが突破できず、やむなく撤退を開始。
そこを公孫瓚が大軍を率いて追撃し、巨馬水にて袁軍を追い落として八千人近くを戦死させ、さらに冀州の平原郡にまで進出するという大戦果を挙げる。

しかしやがて袁紹も戦力を盛り返して拮抗、泥沼の消耗戦・長期戦となり、そうこうするうちに後漢朝廷側から「和解勧告の使者」が訪れる。
公孫瓚も袁紹も疲弊しており、これをいい口実として双方和解に応じた。


しかし結局終わってみれば、公孫瓚はもともとの目標だった冀州進出はすっかり果たせず、
逆に、本来は予州汝南郡出身で、冀州にはなんの地縁もなかったはずの袁紹は、公孫瓚に対抗しうる力量を持った冀州の新リーダーとして台頭しており、
戦略面では袁紹にこそ得るものが多い結果となった。

また公孫瓚が各地に派遣した劉備・単経・陶謙も、そして南方の盟主・袁術も、袁紹・曹操・劉表らに破られていく。


◆劉虞を滅ぼす

袁紹と闘う一方、公孫瓚は劉虞とも対立を深めていた。
異民族に対してはただ懐柔するだけでなく、武力というのも手に持っておかないとナメられる。
このため劉虞は反りが合わなくとも異民族の間で武名を轟かせていた公孫瓚を必要としていた。

だが公孫瓚は劉虞を必要としていない。公孫瓚は劉虞が異民族に与えた物や彼の領内にある物を略奪したりするので、劉虞にとって完全に頭痛の種となっていた。
劉虞が実子・劉和を介して袁術に援軍を送ると知ると、公孫瓚も弟の公孫越に軍を与えて同行させ、劉和の暗殺と袁術との同盟を謀った*4
その狙いは半ば上手く行き、劉和こそ逃したものの袁術は劉虞よりも公孫瓚の方を選んだ。これは反董卓連合が裏で瓦解しつつあることも意味していた。
袁紹と共に劉虞を皇帝に担ぎ上げようとした韓馥も破り、また韓馥から冀州をかすめ取った袁紹とも衝突し、一進一退の攻防をする。
劉虞は皇帝になる事は拒んだが、公孫瓚のことも快く思わずに公孫瓚に与える兵糧だけを削り、一方の公孫瓚は劉虞の近くに拠点を築くなど両者は一触即発となっていた。

最終的にはとうとうブチ切れた劉虞の方から公孫瓚に攻めてきたが、公孫瓚は劉虞の仁徳を逆利用するため民衆を盾にして進軍した。
これに乗ってしまった劉虞は「殺すべき公孫瓚ただ一人である、無用な殺傷はするな」「住民のことを思え、民家を破壊するな」などという妄言をほざいた
当然兵は混乱し、対して公孫瓚は火矢を打ちまくり街ごと敵兵を焼き尽くして徹底的に攻撃。劉虞はあっけなく大敗し捕らえられた。


公孫瓚は敗れた劉虞を徹底的に貶めた。
真夏の時期に「貴様が皇帝になれる程の英雄なら、雨を降らせて民を助けてみせろ」と無茶振りした上で、果たして雨が降らなかったため「何が天の加護だ!」と儒教の徳目を嘲るがごとき罵倒を浴びせて殺し、
また妻や妾にきらびやかで上質な衣装を身にまとわせ晒し者にした。

また、この劉虞を捕虜にしたちょうどそのタイミングで、朝廷から劉虞に当てた使者が来ていた。
折しも長安では董卓が暗殺された時期で、息を吹き返した朝廷は温厚篤実で皇族の有力株である劉虞に期待を寄せ、勅使を派遣して「関東六州の総督になれ」という辞令を発していたのだ。
また、劉虞と公孫瓚の和解を期待してか、公孫瓚には「前将軍」の官位と「易侯」の封号を与えるとの辞令も持たせている。

その劉虞を捕えていた公孫瓚はむしろ好都合と、まず前将軍・易侯の地位を貰うと、次に劉虞について

「勅使どの、これなる劉虞はかねてより皇帝になろうという野心を抱き、幽州で反乱を画策しておったのです。この公孫瓚が捕えたからこそ大事には至らなかったものの、このような輩を活かしておけばさらなる大乱を招くでしょう。そう思いますね(わかったなおい)

と説明しながら恐喝。
勅使をうなずかせると「後漢朝廷も劉虞の反逆を認め、処刑を認証した!」と公表、処刑に権威を付けていた。
また、劉虞に与えられていた幽州刺史の官位も、その勅使を幽州刺史に仕立てたうえで、その使者を擁立して(というか拉致軟禁して?)事実上公孫瓚のものとしている。


この時193年。前年に「巨馬水の戦い」で袁紹を破り、今また劉虞を滅ぼし、官位も高めた公孫瓚。
こうして彼は自らの実力を誇示すると共に、生まれの身分や仁徳など何の意味も為さないということを示したのだ


◆暴走と暗転

だが、それは彼の自滅と最期の始まりでもあった。復讐に燃える劉虞の旧臣が袁紹に加勢したのである

公孫瓚は、劉虞を殺してからも劉虞の残党を根絶やしにしようとした
もと劉虞の推挙・抜擢で役職についていた官僚たちを探し出しては、追放したり殺害したりして駆逐し、その後釜に自分の子飼いの部下をつける。
またさまざまなコンプレックス故か、幽州にいる知識人や名士を目の敵にして迫害した。

これでは旧劉虞政権の人たちは落ち着くはずがない。
劉虞配下と言えど、もし公孫瓚が劉虞残党も取り立てて政権を構築するというなら、彼らも少なからず仕えたに違いない。袁紹配下の武将たちが袁家を滅ぼした曹操に仕えたようにである。
しかし「劉虞とわずかでも繋がりがあるのなら生かしておかん」などといわれてはたまらない
彼らは自分たちが生きるために、いや「恩徳あった劉虞の敵討ち」を標榜して、公孫瓚への反抗を決意した

公孫瓚の暴走は留まるところを知らない。彼は自分が昔受けた善意・善行はすっかり忘れたくせに、自分が受けた悪意・悪行はしっかり覚えていて、後者のぶんだけを報復した法正「引くわー()」*5

幽州で公孫瓚への怨嗟が吹き荒れるのは当然である。
一部の部下も「もはや公孫瓚には明るい未来はない」と見限っており、趙雲は「兄の喪に服しますので」と、劉備も「陶謙から豫洲刺史に求められましたので」と、さりげなく離脱

そして、公孫瓚の粛清に抵抗する劉虞残党、追い詰められた幽州名士、何度も討伐を受けてきた異民族が「公孫瓚を打ち破れる英雄」として、南の冀州にあって勢力を拡張する袁紹に期待し集結していくのは必然であった。


劉虞の死から二年後の195年、ついに劉虞の残党が決起
「烏桓司馬」に推挙された閻柔をはじめ、鮮于輔・斉周・鮮于銀といった烏桓勢力が幽州に攻め込み、公孫瓚の幹部・鄒丹を含めた四千人を討ち取った。
これと同時に(おそらく裏で連合していたのだろう)、冀州で戦力を整えていた袁紹も行動を開始
劉虞の遺児・劉和や、かつて劉虞の恩顧を受けていた烏桓王などと連合しつつ、配下の名将・麹義を主力に、幽州に攻め込んだ。

これに対して公孫瓚も自ら大軍を動員し、鮑丘にて麹義の指揮する袁紹軍主力と正面から戦ったが、大敗を喫してしまう
公孫瓚はなんとか脱出したが、二万あまりの軍勢を失ってしまい、さらにこの敗戦が伝わって幽州各地でも反乱が起きた。

公孫瓚はそれでも打って出ようとしたものの、重用している部下の関靖の献策もあり易京城への籠城を選択した。
この易京の要塞ぶりはすさまじく、城は何十もの濠とそびえ立つ城壁に囲まれ、城内に入っても幾重もの塹壕が巡り、しかも至るところに櫓が設置され、そして蓄えた食料は三百万斛(一斛=十斗)、とまで記録された。もはや兵糧切れもあり得ない。
公孫瓚も「こんな城はいかなる兵法でも突破不能だ」「この抱え込んだ食料を食い尽くすころには、天下の事情も変わっておろうよ」と豪語した。

さすがの袁紹・麹義もこの要塞には面食らったか、一年以上包囲したが落とせないまま兵糧が尽き、やむなく退却したところで公孫瓚が出撃、大きな損害を出している。
恐らくこの戦いが、公孫瓚の最後の勝利である。


◆滅亡

しかし、以後の公孫瓚は完全に易京城へと引きこもってしまい、袁紹への反撃や幽州への命令発行すら行わなくなる。
対して袁紹は、易京には公孫軍が出ないだけの用意に留め、そのあいだに幽州各地で孤立していた公孫瓚勢力を各個に撃破し、公孫瓚をじわじわと追い詰める

元号が建安に代わった196年には、出撃した公孫瓚配下がかえって袁軍包囲網に敗北するが、
易京城門まで逃げて助けを求めたにもかかわらず、公孫瓚は扉を開けず見殺しにしてしまい、配下の士気と公孫瓚の権威はますます失墜した。
本人曰く「もし助けに行こうものなら、次から部下どもは俺の助けを期待して、本気で戦わなくなるだろう。見せしめにして、部下どもに死力を尽くして戦わせるのだ」……とのことだったが、
結果部下たちは「公孫瓚のために死力を尽くして戦っても、公孫瓚は我々を見殺しにするだけだ。そんな扱いを受けるぐらいなら、さっさと袁紹に降伏したほうがいい」と認識することになる。

籠城するうち公孫瓚には異常行動も目立ち始める。
彼の楼閣では、立ち入れる男性は七歳まで、入っていい大人は侍女・側妾だけとされた。
文書が届いても公孫瓚の手元まで届くことは無い。まずロープで結んで引き上げることで楼閣に入り、かつ大声を出せるよう鍛えた女性たちに、遠くから読み上げさせることで「報告完了」とした。


199年、ついに袁紹が総力を結集して、公孫瓚討伐を決意。易京に攻め込んだ*6
事態を察知した公孫瓚は息子の公孫続を脱出させ、「総勢百万」と謳われた黒山賊の張燕のもとに合流させて、なんとしてでも援軍を出してもらえと厳命。
公孫続が張燕の援軍を連れて戻ってくると、それが高楼から見えたのか公孫瓚はなんとか戦意を取り戻し、
「息子が烽火を挙げつつ袁紹の背後を襲えば、内から父が出撃する」という作戦を考え、その旨を書面に記して密使に贈らせた。

が、この密使が袁紹の包囲網に捕えられてしまい、計画も漏洩
袁紹はまず計画書に記してあった合図の烽火をわざと挙げ、それを見て「援軍到来」と勇んで出撃した公孫瓚軍を、伏兵で撃破
完全に心が折れた公孫瓚はまたも籠城体制に戻るが、袁紹はこれ以上戦いを長引かせるつもりはなかった。

袁紹はかねてより地下道の掘削作業を始めており、その工作がついに奏功した。
鉄壁を誇った易京の要塞も地下から侵入した兵には抗しきれず、内側から解放され、袁紹軍本隊も城内へと殺到。

公孫瓚はついに敗北を悟り、妻子を全員縊り殺すと、自らの楼閣にも火を放って焼け死んだ
焼け残った死体は袁紹軍に発見され、斬首のうえで首は許都の献帝の元へと送られている。

外にいた公孫続も、ほどなくして異民族勢力に殺されている。利用価値がなくなって、張燕から見限られたのだろう。


公孫瓚の敗因は、その生涯で憎み続け一度は打ち負かしたもの。
袁家という優れた身分と能力を持つエリートに、亡き劉虞の仁徳が合わさった結果であった。


◆敗因となった歪み

公孫瓚の軍が精強だったのは、白馬義従のおかげである。
異民族の騎兵は精強ではあるが、文化の異なる民族の部隊を主力部隊として組み込むとなれば、それは相当な労苦を要求される。
彼らを組み込んで主勢力とできた点は、公孫瓚が軍事において一廉の将であったことを示していると言ってよい。

だが公孫瓚の名は異民族から畏れられたものの、窮地に陥った際に味方とはならなかった。
武名は自身が勢いが盛んな時には有効だが、劣勢になれば無価値となる。
仁徳は乱世においては軽視されがちであるが、劣勢になった時には味方を作り、またはつなぎ止める原動力となる。
劉備が何度も敗れながら群雄として一国の主になれたのも、「信義を曲げない」「信頼を裏切らない」という仁徳の評判が大きかったからだ。
公孫瓚にはそれが無く、一度劣勢に陥ったときに一般の群雄以上に弱体化してしまった。

また公孫瓚は優秀な人材がいると必ず困窮させ、凡庸な者を取り立てた。
彼は部下を実力ではなく忠誠心で選んでおり、凡人なら起用に感謝するが、優秀な人材は当然視するばかりで感謝などしないから、というのが理由とされる。
上述のように生まれと育ちに恵まれたエリートというものを嫌悪していたことが窺える。

しかしこんなことをされればエリートたちは他所に流れ、仕官する。ただの利敵行為でしかなかった。
確かにこの時代、名声はあるものの実務能力がまるで見られない名士…要は中身のないエリートは幅を利かせており、そうしたエリートの能力には懸念もあった所だろう。また、忠誠心に乏しい強力な人材を配下に収めることは、自らの勢力が乗っ取られるリスクを抱えることでもある。
だが、ならエリートでなければ有能かと言えば全くそんなことはない。エリートガチャの高レア封入率は凡庸ガチャよりはまず高いと思われるので、その権利を放棄しているだけでは間違いなく損だろう。
諸葛亮司馬懿陸遜と言った三国を支えた名臣も、皆こうしたエリート層出身者である。

実際、公孫瓚には名前が伝わるような有力・有能な臣下が忠誠を尽くしていたという様子が見られないのである。
人材コレクターの曹操はもちろん、袁紹も袁術も、それなりに名前を挙げた臣下が史書に残されているのに対し、公孫瓚はその辺りが素寒貧なのだ。
重用された人物として関靖がいたが、上に媚び諂うのが得意なだけの酷吏とまで酷評されたハズレであり、後の歴史家にも死の間際の関靖自身も「公孫瓚の方が正しく、(易京城に)籠城するのは間違いだった」とまで断言している。その関靖も忠誠心ベースで選んだためか公孫瓚への忠誠だけは本物であり袁紹軍に突撃して散ったが、こんなハズレ人材の忠誠心など得たところで群雄としては何の役にも立たない。

後に曹彰の副将として大活躍した田豫は公孫瓚に仕え、袁紹に寝返って攻めてきた元同僚を戦わずして追い返すという大功績をあげているが、史書で重用しなかったとはっきり書かれている。
若き日の趙雲当たり人材の一角だったと思われるが、公孫瓚配下としての軍功はこれと言って伝えられていない。というより、劉備に貸し出されているので悪く言えば「貸して使い潰されても惜しくない程度の武将」という扱いだった可能性が高い。
というか、上述のように劉備と趙雲も公孫瓚が暴走し始めた時期にそれぞれ離脱している。


だが、そもそも何故ここまでエリート層を軽視するようなことが可能なのか?
公孫瓚は既存の豪族や名士らに代わって商人たちが舵を取るという重商政策を取ることを考え、そのため複数名の商人と義兄弟の契りを結び彼らを富ませていた。
彼らを利用すれば否応なく貧富に差を作れたわけだ。儒教では商人というのは低い身分であったので、上手く行けば歴史を一変させられた。
しかし豪族や名士という既存の権力は農・商・兵の全てに関わる多角的事業であったので、当然彼らの反発を招き、更に商人は百姓のようなより弱い者から暴利を貪ったりもしていた。特に百姓の困窮は人肉ぐらいしか食糧がないというほど酷いものである。
儒教が中心にあったこの時代でここからどうやって改革していくかは全く不明だが、何かしらのプランがあったのか、はたまた反骨心だけで何も考えず突き進んでいただけなのか……。

旧交のあった劉備ら三兄弟は一時公孫瓚の旗下に身を寄せていたが、劉備は曲がりなりにも後漢皇族の血を引くエリートで、モロに公孫瓚の嫌いなタイプの人材に引っかかってしまっている。
この惨状は耐え難い、さりとて彼を諫めることもできない。
劉備にも身分違いの義兄弟がいるが、公孫瓚も義兄弟のいる身上になった。学友として共にあったあの頃にはもう戻れない。

そのため陶謙に引き留められた際に(引き留められなくても理由を付けて)彼の下を去ることを選んだと思われる。
ちなみにここで公孫瓚に反旗を翻す形を取らずただ去ったことは、劉備の「クリーンさ」を印象づけ劉備が何度敗れても立ち直る原動力ともなったであろう。

その上、上述のように公孫瓚はそうやって選んだ部下の統御もお世辞にもうまいとは言えなかった。
助けを求めてきた部下達を「やる気を出させるため」という理由で見殺しにしてみすみす戦意を喪失させたり、易京籠城中の異常な挙動は、群雄トップとしての根本的な力量不足を露呈している。
追い詰められての判断ミスと弁護できなくもないが、こんな指揮をしていては部下がエリートか否かなど無関係に見限られて当たり前としか言いようがない。

こうして公孫瓚は武勇に優れ社会基盤そのものを覆そうとした超革新派の英傑であったが、最終的にはその根底にあったつまらないプライドのせいで破滅を招いたのである。
陳寿からの評価は公孫度・張楊・陶謙とまとめて「論外。とっとと降伏して血脈を残した群盗ども(張燕・張繍*7・張魯)の方がマシ」とまでバッサリ。
三国志という史書は三国時代と変わらず豪族や名士と儒教が中心の世に書かれた上に袁紹age→曹操age→晋ageという流れもあるため、それらへの叛逆を行った公孫瓚がディスられるのは当然だろう。


軍人としては優れていたとも言われるが、戦術面ではともかく戦略面では不足がある。
異民族や反乱軍を深追いして孤立する、袁紹に対して二度も大勝*8しながらその後が続かない、一度は冀州・青州・兗州を狙うが一度敗れるとそれっきり……と、長期的視野には欠けている。
特に袁紹との戦いでは、戦闘面ではわりと勝利しているのに、終わってみれば目標は果たせずじまい、というパターンが割と多い。
ということは重商政策を続ける機会が与えられたとしてもやっぱり成功しなかったのでは……と思えてしまう。本当に残念である。


【三国志演義での公孫瓚】

三国演義の公孫瓚は、史実とは全く逆のキャラクター付けをされている。

かねてより劉備のことを気にかけており、朝廷の監督官に賄賂を求められた劉備が、逆に監督官を半殺しにして逃亡していたところ、
漁陽の「張純の反乱」討伐時に当たって劉備を招聘して手柄を立てさせ、また上奏して平原郡の支配者にさせるという形で救助。
董卓討伐時にはわざわざ劉備にも声を掛けて同行させ、諸侯という立場にも入れない劉備たちを袁紹たちに紹介し、一席を与えさせる。
さらに呂布戦では、次々とやられる連合軍の武将にふがいなさを感じてか、諸侯でありながら呂布に一騎打ちを挑むという豪胆さも見せた。史実において公孫瓚に目ぼしい臣下がいなかったため、公孫瓚自身が引っ張り出されたと取れなくもない。
しかし呂布には勝てず、逃げ出したところを乱入した張飛に助けられる。
三国志序盤の見せ場である虎牢関の戦いで、身分の低かった桃園三兄弟を引っ張り出す演出役として、標準以上の存在感はある訳だ。

連合軍が解体すると、史実通り袁紹と対立するが、袁術や劉虞を搦めた極めて複雑な史実の情勢は大幅に再編されて、わかりやすくなっている。
まずは袁紹が公孫瓚を「北から冀州に攻め込まれよ。南からこの袁紹が攻め込んで、冀州を分け合おう」と唆す。
同時に冀州牧の韓馥に「いま北から公孫瓚が攻め込んでくる。対処せねば危ういぞ」とひそかに忠告する。
動揺した韓馥は袁紹に助けを求め、袁紹は無血で冀州を奪った*9
その後、公孫瓚は「冀州を分け合う」という約束を信じて領土割譲の使者に弟・公孫越を派遣するが、袁紹は「董卓の暗殺部隊」を偽装して暗殺してしまった。
激怒した公孫瓚は袁紹を討つべく、磐河に布陣。ここに袁紹と公孫瓚の戦争が始まった。

公孫瓚はまたも一騎打ちに出るが、今度は文醜に敗北して逃げ惑ったところを趙雲に助けられる。
翌日には趙雲を採用したが、流石に採用したばかりの趙雲に重要な部隊を任せるほど信じることはできず、史実同様厳綱という武将を先鋒にして騎馬戦を挑むが、史実通りに麴義に敗れ厳綱も戦死したところを出陣した趙雲が麴義を討ち取って盛り返す。
公孫軍はなし崩し的に先鋒になった趙雲を先頭に袁紹の本陣に斬り込んだが、対する袁紹も田豊の撤退進言を「男たるもの、戦って死んでこそ本望だ!」と蹴飛ばして親衛隊の心を統一し、少ない兵力で趙雲の突撃を押し返す。
さらにそこに顔良・文醜の援軍も駆け付け乱戦になるが、そこに劉備・関羽・張飛が兵を率いて公孫軍に加勢し、不利を悟った袁紹が退却して、なんとか引き分けに持ち込んだ。
その後は長らく対陣していたが、恩を売ろうとした董卓から停戦要請が来たため、両陣営はこれに乗った。公孫瓚は冀州こそ得られなかったが、これ以上の損耗は避けられた。

曹操が、父親の敵討ちで陶謙の徐州に攻め込んで虐殺をすると、糜竺・孔融を経由して劉備が徐州の援軍に向かうことになる。
すっかり劉備の庇護者となっていた公孫瓚は、劉備の相談を受けて快く騎馬隊と趙雲を貸し与え、徐州に向かう劉備軍を補強した。しかし公孫瓚自身は不参戦。

以後のことは描かれず、数年後、劉備が徐州を追われて曹操の庇護下にあったとき(同時に董承の曹操暗殺計画に巻き込まれて悩んでいた時期)、河北の事情を調べていた満寵の報告で、袁紹に滅ぼされた報告が入る。


演義版公孫瓚のもっとも重要な立ち位置は「劉備の先輩で恩人」ということ。こっちの公孫瓚のキャラクター性はほぼこれに終始する。
劉備は関羽・張飛を従え英雄の素質こそあるものの、組織的な権力は持っていない。対して公孫瓚は官界の先輩として、北平郡太守としてのキャリアと戦力を持っており、それを貸し与えることで劉備にいろいろと便宜を図ってくれる、優しい先輩キャラとなっている。

史実における暗黒面は抹消されており、公孫瓚が暴走する劉虞処刑事件・幽州統一期・易京城籠城時期に関しても一切触れない。
実は劉虞も登場しているのだが、名前だけで公孫瓚との絡みは一切ない。
滅ぼされた報告が入る場面はまさに劉備が曹操の監視下から抜け出すという場面なので、袁紹の弟・袁術を討つためと称して名前を使ってもらえる。死んでなお美味しい。

ただし、一時仕えていた趙雲は「袁紹と変わらない」と非難して劉備について行こうとして劉備に宥められるなど、実の所主君・群雄としての扱いはあまり良くない。
一騎討ちも何度かしているが、毎度毎度呂布や文醜に追い回されるなどこちらも今一つ。
呂布といえば三国志最強の武将であり、文醜も「趙雲と互角」「張遼や徐晃を上回る」「関羽が討ち取った大物として死後も名が挙がる」という強キャラなので、
むしろこんな相手に一騎打ちをして生き伸びただけでも公孫瓚の強さといっていいのだが、史実では優れていた武勇方面にケチをつけられた感は拭えない。
袁紹に敗北して滅んだことも「一応こんなことがありました」程度に扱われており、身も蓋もない言い方をすればナレ死である。

悪人でこそないものの、劉備の兄貴分という要素をとってしまったら結局陳寿がまとめて評したそこらの諸侯と大して変わらない扱いである。つまり単に劉虞が冷遇されてるだけ
だが他の創作への影響は非常に大きく、史実要素があまり含まれていない。
史実の事績はどう見ても残念で残忍な悪党そのものなのに、ばっさり浄化して善玉寄りの人物にしてしまったという演義の影響力の高さが改めて窺える。


【創作での公孫瓚】

  • コーエー三国志
通称「イナゴ」
演義ベースでキャラ付けされており、陳寿の評価とは違い劉備より軍事面で優れているが政治や魅力ではやや劣る~明確に劣るぐらいに、高めの評価がされている。
特に数字の傾向はⅨ以降顕著になり、騎馬隊や機動力に関わる特殊能力、易京の戦いを意識した防戦向けの個性を持つことが多くなった。
また、正史の部分も加味された結果低義理・高野望の武将になっており、配下として扱う場合は独立されないよう注意が必要。
基本的に部下が趙雲以外微妙かつ若干少なめで劉備たち三兄弟もいないことから「近くの劉虞や韓馥なんかよりは圧倒的に強いけど袁紹と当たったらまず勝てない上に凄く近い」という感じでイマイチうだつが上がらない。特にイナゴ使い文官が武官の田豫より劣る関靖一人しかいないのがキツい。
ドラマCDでも劉備が劉表の下にいるところから始まるため登場しない。
だが三国志Ⅸでは騎射の上位スキルである走射・飛射のスキルがあることと連鎖して威力を高めることができるというシステムにより、軍も拠点も全てを征圧し進み続けるイナゴ軍団として大活躍。圧倒的人気を得た。
しかも公孫瓚が初期君主となっているシナリオでは勢力兵法に走射が設定されており、公孫瓚軍にいる間は誰でも走射が使えるというインチキじみたプレイを行える。張飛等能力は高いのに城攻めに使いにくいはずの武将が、公孫瓚軍に登用するだけで平気で城攻めを行えるようになる様はまさに恐怖。イナゴオレンジは最高だ!
その一方で「80以上のステータスを持たない人物は一定確率で戦死する」というシステムもあるため、趙雲はともかく公孫瓚未満の能力しか持たない他のイナゴたちは常に若干のリスクを抱えている。
ゲーム中では大体放置していると袁紹軍に滅ぼされてしまうのだが、状況によっては逆に袁紹軍を滅亡させてしまうこともある。その際は彼の豊富な人材を吸収し、さらに曹操軍すらも破ってしまい強大なラスボスになるパターンもあるので油断出来ない。
三國志14では劉備と協力して袁紹に勝利した設定の仮想シナリオが実装されているが、袁紹を取り逃がしたせいで人材の吸収に失敗しており、曹操とまともに殴り合うとあっさり押し負ける。さらに不自然死扱いとはいえ開始時点で公孫瓚の寿命が既に切れており、寿命延長アイテムなしだと数年で死亡するという、シナリオの主役とは思えないほど微妙な勢力になってしまっている。

ちなみにイナゴ呼ばわりされるようになったのは、黎明期のニコニコ動画に揚げられた三国志Ⅳのプレイ動画内容が発祥。詳しいことは省くが最初から飛ばしまくりである。

  • 三国志大戦
味方の移動速度を上げる「白馬陣」という計略を持って登場する…が、当初は時間が普通の号令と同じぐらい大したことがなかった。
だがヤケクソ気味の調整によりどんどん時間が長くされ、強力な一枚となった。楽しみだ…だんだん長く速くなっていられるのはな…
こんな感じで無印から3まで常に白馬陣と共にあり、武力が上がらない関係上「移動速度」「効果時間」しか弄るところがないためか、バージョンによって浮き沈みが激しい。
特に効果時間が長い時は「武将が落とされなければほぼ常時白馬陣を使っても士気が余る上、移動速度が高いから武将が落とされにくい」と相乗効果で強力になるため環境の一角を築くことも。
が、最終的にはちょっと長い号令ぐらいにされた。馬鹿なあああああ!!
ちなみに、旧作ではなぜか公孫瓚関連は家族も配下も一切出てこずぼっち状態だった。田豫も漢軍だし……。
TCG版では嫁(侯女名義)や楽何当に嫁いだ娘(公孫女名義)、従弟の公孫越や息子の公孫続、配下である田楷、厳綱、関靖や公孫瓚配下時代の劉備や趙雲や田豫も登場し、なかには装甲悪鬼村正のキャラクターデザインをしたなまにくATK氏イラストの公孫瓚も存在する。

リブート版ではコストは1.5と低いものの武力5知力5と低いスペックであった前作と違い、コストこそ2.5に上がったが武力8知力7と武力知力共に高めに設定され(このゲームの武力知力の基本最大値は11)、白馬陣は嫁に渡し、自身は白馬義従という自分は武力「も」上がるという計略で登場。もちろん若干ヤケクソ気味に上方修正を受け続け、ちょっとした超絶強化にまでなってしまった。最高にハイってやつだァァァァ!
後に、前作のデザインで復刻したやつも登場(計略は味方の武力と速度と征圧力を上げる白馬の大号令)やVer.3.0になると最高レアリティであるSR(スーパーレア)になりの群雄の味方の騎兵の速度だけを上げる白馬流星陣ととにかく馬と全体の速さに拘っている。
あと、コクピットで串カツを食べようとしていた引き篭もりのエースパイロットとしても登場。攻城時の「ちょうどいい壁ー!」は原作を知っていると爆笑もの。
あと、ようやく先述の嫁と弟や客将時代の趙雲が出た。だが田豫は魏軍。そして董卓や呂布といった各英傑まで漢軍としても出る中、一人だけハブられている。
賊軍ではなく劉虞の下についてた正規軍なのに……。

  • 恋姫†無双
無印では攻略不可で真名も無く影が薄い。忠実通り麗羽(袁紹)に倒されたが、ナレ死で終わり。
』からは白蓮(ぱいれん)という真名が設定された。やはり麗羽に滅ぼされるのは変わりないが、本作では死亡せず蜀へと逃げ延びるというまさかの生存ルート。
普通(属性)の持ち主。
部下である星(趙雲)に去られる運命を持っているのは変わりないが「あくまで劉備軍の方が活躍できる」「優しいが戦乱の世には似つかわしくない」と人格面は評価されていた。

  • 白井式三国志
どう見ても山賊の親玉にしか見えない髭もじゃのオッサン。
劉備の兄弟子であるが、劉備と同等かそれ以上に粗暴であり、学生時代には検便を教頭にぶつけていた。

三国志演義と同じ様に劉備の兄貴分として振る舞う。
劉備の「自分の旗を立てて名を上げる」という案につい快諾したところ、部下から「それだと皇族扱いになりません?」と言われて、青ざめながら前言撤回するというコミカルシーンもある。
しかし袁紹との「磐河の戦い」では、趙雲の麹義ぶった切りと劉備の演説、袁紹の怒りも兵も抑える度量に食われて公孫瓚自身の活躍はほとんどなし。
一方、乱世に対しては独特の考えを持っており「俺はただひとり乱世の時の刻みを見ている男でありたい」「自分の代で天下を取れなくても良い」と本拠地に籠もり、他の群雄が戦い疲れてから覇業を行おうとした。
しかし袁紹の子・袁尚に期待していた息子を殺された上、「覇業とは一世一代、おのれの生涯にて完結させるものだ!」と論破された。己の志が衰えていた事を思い知らされた公孫瓚は炎の中に消え、袁尚からは最もつまらぬ敗者と侮蔑された。

CV:井上悟
「『白馬将軍』公孫瓚イージーエイト」の名前で登場。演者はガンダムEz-8
慮植ジムキャノンの門弟の一人で、主人公劉備ガンダムの兄弟子。
彼から「公孫瓉のアニキ」と慕われる人格者であり、劉備の義弟である張飛ガンダムからも「アニキのアニキ」の尊称(?)で呼ばれる。
作品によって役回りや出番が大きく異なり、初代のコミックワールド版ではロクな出番も無いまま「公孫瓚憤死!」というあまりにもあんまりなナレ死を迎えている。しかも袁紹ではなく曹操の手でまあ初代CWだとその袁紹も空気なんだけど
アニメ版ではそこそこ出番があり、アニメオリジナル商品の「クラッシュギア騎馬ブレイカー」を用いた「白馬陣」も披露した。こちらでは袁紹に討たれている。

初代ではキットは発売されず、アニメ化の際に改めて「真」版名義で発売された。トレードマークのマントが可動式になっており、動きがつけられる。
また、2018年には初代版のフォーマット&中国展開限定のキャンペーン品だった「四神鬼甲戦車」とのセットとして成型色変更版も発売された。

  • 真・三國無双
CV:石川英郎(3,4)、中尾良平(5)、滝下毅(6,7)、金本涼輔(7猛将伝以降)
最新作の8に至るまでモブ武将のまま。
虎牢関の戦い辺りまでは登場するが、その後は概要のナレーションで袁紹に滅ぼされたとサラッと語られる程度なのも珍しくない扱い。一部シリーズでは、袁紹陣営を操作する際の敵軍として登場することもあるにはあるが。
基本的に袁紹に対して対抗意識を燃やしており、白馬義従の力で天下に名乗りを上げようとするキャラである。だが人徳を顧みない性格が災いして、趙雲を幻滅させてしまい軍を去って劉備の元へと走っていくのが最早お約束*10。5の趙雲伝のムービーでは、「御免!」と目の前で馬を反され彼に去られてしまう公孫瓚の姿はなんとも哀れとしか言い様がない…。
ただ、3猛将伝などで絶影鐙を持たされていたりする。これは「乗っている馬から絶対に落ちない」というもので、こちらも騎乗していなければ空中攻撃などしか当てられない、しかも絶影鎧なしでは攻撃を一回でも受けると落馬するため地味にウザい。
騎乗攻撃が得意な馬超とかならお茶の子さいさいではあるのだが、大半の武将はそうでないので本当にウザい。
Empiresのような作品では、一応君主だったことあり彼を立ててゲームクリアすること可能ではある。同じ陣営にいた趙雲ばかり使ってたって人は怒らないから手を上げなさい。




我が白馬義従に、追記・修正は必要ない!

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最終更新:2025年04月01日 23:49

*1 公孫度ら遼東公孫氏とは別、というかバチバチに不仲

*2 丘力居と組んだのも、烏桓族から騎兵を集めた際に繋がりを得たのだろう。

*3 ちなみに公孫瓚はここで袁紹の罪の一つに「卑しい妾から生まれた袁家の恥」とまで言ったらしい。自分の生まれのことを考えなかったのか、それともそういうコンプレックスが公孫瓚にあったことの表れか。

*4 公孫越は上述通り、袁術軍の客将として戦うが、後に袁紹派の軍に敗れて戦死。公孫瓚と袁紹の開戦の切っ掛けとなる。

*5 「睚眦の恨み」睨まれただけの恨みにも報復する、という言葉はあるが、これを用いた春秋戦国時代の范雎、三国時代の法正は、「受けた恩には必ず報恩し、受けた恨みには必ず報復する」というものである。「恩義は忘れて怨恨だけ報復する」のは単なる外道。

*6 余談ながら199年には、袁紹は并州攻略も開始している。

*7 ただし子が魏諷の乱に参加し処刑されたので絶えている可能性もある

*8 192年の「巨馬水の戦い」と196年の「易京籠城戦(一年間の包囲で袁紹軍の兵糧が尽きた戦い)」。

*9 この辺りまでは割と史実に近い。袁紹&逢紀もそういう策略を練っていたという文献がある。

*10 これに関しては戦場で劉備と出会い共闘したことによって人柄に惚れ込んだこともあるので、一概に公孫瓚だけが悪いというわけではないが結局時間の問題だっただろう。