二又トンネル爆発事故

登録日:2017/08/27 Sun 15:14:06
更新日:2022/12/23 Fri 14:08:28
所要時間:約 3 分で読めます





二又トンネル爆発事故とは、1945年に福岡県で発生した爆発事故である。

福岡県田川郡添田町落合の日田彦山線の彦山駅と筑前岩屋駅の間には、
爆発踏切という警報機も遮断器もない小さな踏切がある。

なぜこんな物騒な名前かというと、それは戦後間もない時期に発生したこの事故がきっかけである。

当時の状況

日田彦山線は全通前、小倉方面から添田駅までは添田線、添田駅から彦山駅までは田川線と名乗っており、
夜明駅から宝珠山駅までは彦山線としてそれぞれ営業していた。

彦山駅から宝珠山駅までの間は長いトンネルを掘る必要があることから工事期間が長引き、
戦争の激化によって工事が中断されていた。

未開通区間には二又トンネル、吉木トンネル、釈迦岳トンネルの3つのトンネルが掘られる予定で、
二又トンネルと吉木トンネルについては開通したものの、
釈迦岳トンネルは全長が4.4km近くに渡ることから未完成のままとなっていた。


事故発生に至るまで

添田線・田川線沿線には当時多くの軍需施設があり、陸軍小倉兵器補給廠山田填薬所*1もその1つだったのだが、
その中にあった火薬倉庫の一棟が1944年6月16日の空襲により焼失してしまった。

火薬を屋外に保管しておくと当然使い物にならなくなるため、陸軍は新しい倉庫を探したところ、
まだ列車が通っていない二又トンネルと吉木トンネルが新しい火薬倉庫に最適と判断され、
1944年7月から翌年2月にかけて搬入された。
火薬は彦山駅まで貨物列車で運び、彦山駅でトロッコへ積み替えてトンネルへ運び込んだ。


1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受託し、太平洋戦争は終結した。
連合国福岡地区占領軍は添田警察署と軍の責任者を呼びつけ、「あんたらが持ってる火薬類を全て占領軍へ引き渡しなさい」と命令。
責任者が8月末に在庫の確認を実施したところ、二又トンネルには火薬類が532,185キロ、爆弾の信管、大雑把に言うと起爆装置*2が185キロ保管されていた。

さて、こんだけの量の火薬類を引き渡された占領軍はどうしようとしたか。
何の事はない。火薬類は燃やしてしまえばそれで処分完了*3である。だから燃やすことにした。


火薬類の品目、数量を記載した「兵器現況表」が作成され、
11月8日、添田警察署において署長立ち会いのもとで旧日本軍から占領軍の中尉に手渡され、火薬と信管は占領軍の管理下に置かれた。
それから4日後、つまり事故の当日である11月12日占領軍のユーイング少尉が下士官2、3名を連れて添田署へ向かい、
トンネルにある火薬を焼却処分するから手伝いを出すように命令。
これには警察から警部補、巡査部長、巡査2人の計4人が同行した。

一行はまず吉木トンネルに保管してあった火薬を現地で少しだけ燃やし、
爆発の危険性がないことを確認させてから吉木トンネルを離れた。

その後一行は二又トンネルへと到着し、トンネルの北側入口*4から約10メートル程離れたところから導火線を作った(火薬をちょっと持ち出してきて、地面に一本の線のように並べたことで代用、と伝わる)。
そして、全員をトンネルから100メートル北方へ避難させ、下士官が導火線に点火。
様子を見守っていた占領軍兵士は爆発の危険性がないと判断し、見張り作業を警察官に任せてその場を離れた。


事が起こったのは、占領軍兵士一行が引き揚げてから約1時間後のこと。
二又トンネル内部から火が吹き出してきたのだ
最初はチロチロとした細い物だったのだが、次第に拡大して火柱のようになり、ついには付近の民家に燃え移った。
火は更に燃え広がり、多くの住民が消火活動にあたったが、火勢を削ぐことが出来ず、
17時20分頃*5、火薬が大爆発を起こし山が吹き飛んでしまった。
この時の爆発音は60km以上離れた福岡市でも聞こえたというが、爆発音は地元の人には「大きすぎて聞こえなかった」とか。

吹き飛んだ土砂は重力に抗うこと無く、地面へと降下。
大量の土砂は消火活動にあたっていた住人や警察官たちを生き埋めにしまった。
付近の民家は住民ごと吹き飛ばされ、火薬の搬入作業にあたった婦女子の多くやトンネルの見張りを行っていた巡査部長、
ドングリ採集に来ていた小学校の児童29名も犠牲になった。
被害の範囲はトンネルを爆心地として半径2kmに及び、飛んできた炎や爆風、
空中に舞い上げられ落ちて来た土砂、岩石、倒壊物などの落下により多くの人々が死傷、
多くの民家と田畑が延焼や埋没、全壊する凄まじい被害を出した。

17時15分には彦山駅に下り列車が到着するはずだったが、事故当日はたまたま遅れており、列車は爆発に遭うことはなかった。


事故の後

事故発生翌日には地元紙『西日本新聞』の記者が列車で現地入りし、少なくとも3日間は記事が掲載されている。
被害者への救済は占領軍ではなく、福岡県から死者1人につき500円*6が支給されただけにとどまった。
当然。それだけで遺族の心を埋められるはずがなく、事故後、地元の有志十数名で復興委員会を結成。
諸般の世話、国や福岡県への陳情を行った。
その結果、佐世保援護局から旧軍人の古被服4000点を受領し被害者に配布したり、
慰霊碑の建立や合同慰霊祭を行ったりするなどある程度の成果を収めたものの、補償に関しては上手く行かなかった。

そのため、弁護士の勧めもあって被害者のうち16世帯が国を相手に裁判を起こした。
1審では住民の訴えを退けたものの、2審では原告の訴えを認める判決が下り、最終的に住民勝訴となった。


なお、同じように火薬を保管していた吉木トンネルは大爆発を起こすこと無く、40日間燃え続けて終わっている。
これは火薬類の格納率がトンネルの容量に対して25%程度と低かったからで、
二又トンネルが大爆発を起こしたのはトンネルの容量に対して75%も火薬類を詰め込んでいたのが原因である。


この大爆発によって二又トンネルは山ごと消滅したが、鉄道の建設工事は進められ1956年に未開通区間が鉄道として開通。
切り通しのようになったトンネル跡を今も列車が通過している。
一方吉木トンネルは名前を深倉トンネルに改め、こちらも現存している。
記事冒頭の爆発踏切の名称はこの爆発事故に由来し、踏切からは遠目ながらも二又トンネル跡の様子を見ることができる。


ちなみに、事故の原因となった火薬焼却の指示を出したユーイング少尉は1946年2月に軍法会議にかけられ、
有罪の上降格、不名誉除隊となった。

教訓

  • むやみに火薬・爆薬を焼却処分しようとしてはならない。
    大量の火薬がぎっしり入っている事は書類を読み・現地で確認すれば容易に判断できたであろう。面倒でも専門家の指示を仰ぐべきであった*7
    そもそもWW2にて弾薬庫に誘爆したことで撃破・撃沈された戦車や軍艦は多数あるわけで、弾薬そのものではないとはいえ火をつけたらどうなるかわからなかったのかという疑問もある。
  • 民家に延焼した以上やむを得なかったとはいえ、火薬庫火災であるから誘爆する前に避難するべきであった。
    少なくともトンネル内がどうなっているか把握できたであろう面々(≒ユーイング少尉一行)がその後も現地にとどまっていれば避難誘導ができた可能性がある。



追記・修正は火薬を安全に焼却してからお願いします


この項目が面白かったなら……\ポチッと/

+ タグ編集
  • タグ:
  • 日田彦山線
  • JR九州
  • トンネル
  • 爆発踏切
  • 事故
  • 大爆発
  • 爆発
  • 占領軍
  • 福岡県
  • 田川郡
  • 田川

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2022年12月23日 14:08

*1 現在の北九州市小倉北区にある山田緑地

*2 厳密には安全装置と起爆スイッチに相当するタイマーやセンサーがセットになったのが信管

*3 花火や火縄銃に使う黒色火薬ならともかく、大半のより近代的な火薬にとっては通常の燃焼程度では刺激が穏やか過ぎて爆発に至らない。あくまで通常の範囲内なら

*4 彦山駅方

*5 地元では17時15分頃と記録されている

*6 現在の貨幣価値に換算すると400万円相当!

*7 不発弾処理や化学工場火災などでも「専門家や状況を把握している人物と連絡が取れず」という同種の原因による被害・二次災害が報告されている