王珍国

登録日:2020/03/02 Mon 03:55:08
更新日:2023/09/09 Sat 03:45:53
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マンコ・カパック、レイモンド・マンコ、ショーン・オチンコ、金玉…
現代の日本人が発言するとちょっと下ネタ風味になってしまう人名は数あれど、なかなか中国史は結びつかない。
前漢に成り代わろうとした新王朝が二字の名を禁じ、それが二百年経った三国時代にまで文化として残ってしまったからである。
二字名が再び出てくるのは南北朝時代のことである*1
中国史にそんな名前があれば絶対に記憶に残るというのに…
だがいないわけではなかった。その名は王珍国(おうちんこく)(?~515)である。


王珍国、斉で頭角を現す


王珍国は生年が定かではないが、おそらく五胡十六国時代の末期に、王広之の息子(性的な意味ではない)として生まれた。王珍国生誕である。
王広之は南朝宋の将軍であったが、宋が定番の内ゲバ内乱祭り*2で苛まれる中で各地の乱を鎮めていった名将であった。
しかしあっちの項目で紹介されてる通り、宋は王広之が地方で頑張ってる間に中央で蕭道成が順帝から禅譲されて終わりを迎えた。
そして宋の領土はそっくりそのまま、旧皇族は皆殺しにして南朝斉が建ち、王広之は斉に引き続き仕えることとなる。

名将の子が軍人になるのは必然であり、王珍国は斉で次々と任官されキャリアを積んでいく。
その中で飢饉の際に米を配給したり叛乱を鎮めたりと活躍し、高帝・蕭道成の息子である武帝・蕭(さく)によって中央に召し出されることとなった。王珍国、才あるところを見せたのだ。
しかし父である王広之が死去したため職を辞している。だが後のことを考えれば結果的にこれはファインプレーだったかもしれない。

蕭賾が死去するといつもの内ゲバ内乱祭りが始まり*3、その隙に乗じて北朝魏が攻めてくる。
これを一旦制した明帝・蕭(らん)は腹心である裴叔業*4を出撃させ、更に王珍国出して裴叔業を助けさせた。
だが写輪眼を持つとか言われる北魏最強の武将・楊大眼*5が大軍を率いて出てくると、裴叔業は兵と共に逃げ出した。
王珍国は焦ることなく殿となって戦うも敵わず大敗してしまい、結局逃げ帰ることとなった。
この時こそ苦杯を呑んだものの、翌年反乱の鎮圧に貢献して出世している。誰もが王珍国って頼もしい将だなと思ったことだろう。


王珍国、斉皇帝を謀殺する


さて上述の通り斉でも内ゲバが始まっていた。
初代皇帝蕭道成「お前ら、同族で殺し合ったりとかするなよ!絶対にするなよ!」と念を押していたがそんなフラグは当然のように回収されてしまった。
蕭賾の孫である蕭昭業が三代目皇帝となったのだが、こいつは表では涙を流しながら、裏では「父親が死んだぜええええええええ!!!イエエエエエエエエエエエイ!!!」と酒宴を開くとんでもないダメな奴であった。
この時蕭鸞蕭昭業の補佐に付けられている大臣だったのだが、表向きでは諌めるものの、裏ではいいぞどんどんやれと促進する始末。この時から簒奪計画は始まっていた。
蕭昭業は普段で裸族だったり尼さんの服に赤いふんどし着たりもして「あー皇帝マジ楽しいわー」とか言いながら国庫をカラにして遊び惚けた末、政治の実権を握っていた蕭鸞に誅殺されてしまい廃位までされてしまった*6

次の皇帝とされたのはその弟である蕭昭文。もちろん蕭鸞の傀儡である。自分の食事すら決められない、とんでもない権力の無さであった。

「お前の兄が死んだので皇帝になってもらいます」
「えっ?」
「皇帝を私に譲ってもらいます」
「えっ?」

この間三ヶ月。この後一年ほど生かされていたが殺された*7

そして念願の皇帝となった蕭鸞であったが、そもそも蕭道成の養子であり皇族の血さえ流れていなかった。
そんな身分から謀略で無理矢理その座を掴んだ皇帝は、とんでもない猜疑心の塊と化していた。最早何者も信じられなくなっていたので皇族は例によって皆殺し。蕭道成の子孫は絶えた。
部下さえも信じられず、皇族を殺すための毒薬を手ずから調合しながら涙を流すなどかなり情緒不安定だったという。
倹約しつつ部下を抜擢してとやることはやっていたのだが、ツケが回ってきたのか作っていた毒が自分にも回ったのか在位僅か4年で死亡し、後継者には存命の長男を差し置いて次男蕭宝巻を指名し、他の子は皆殺している。
だが病んだ心は、後継者を見る目さえも曇らせていた。


こうして実質ラストエンペラーとなる蕭宝巻が皇帝となった。だが蕭宝巻とんでもないDQNであった。
まず手始めに蕭鸞に補佐として付けられていた重臣を皆殺し。諫めに来た人間も皆殺し。
街に出ては民の家を壊して住民を馬で踏みつけにし、妊婦だろうと構わず踏んで楽しんだ。ほぼほぼ母子共に助かりませんでした。
大好きな幼馴染・潘玉児に金色の蓮の花の上を歩かせて*8ささやかな癒しを得たり、そうして金が無くなれば民や部下を殺して金を奪ってまた楽しんだ。
あーもう好きなことして人生楽しそうですね!!!筆者もやりたいな!!!

だがこんなことやってて叛乱が起きないわけがなかった。
内乱自体は蕭道成の親戚の蕭順之の子である蕭懿が鎮圧したが、その蕭懿はその功に並ぶものがいなくなった者の常で、讒言で殺されてしまう。
だが蕭懿の弟たちである蕭衍らが危機感を覚えて蕭宝巻の弟蕭宝融(弱冠13歳)を立てて挙兵し再び内乱発生。
膨れ上がった不満と共に勢力を増し、今まさにの首都建康*9に迫っていた。
この状況の中で蕭宝巻「昼寝て夜起きろ!」「なんでこんなことなってんだ!お前ら無能過ぎんだろ死ね!」お前のせいだよなどと訳の分からないことを言いつつ一人の将を呼び出した。
もろちん王珍国だ。苦難であろうと彼ならなんとかしてくれると思ったのである。

だがこんな暴君の下である。王珍国は得るものがないと察している士気の低い軍だったためかあっさり負けてしまう。
しかもその後蕭衍の下に部下を送って内通した、内心そうしたかったのかもしれない。王珍国去りたかったのだ。
そして城内で衛兵たちと皇帝殺害を企て、あっさりと性交成功。首は蝋で固められて蕭衍の元に届けられた。
王珍国らより蕭宝巻の首を受け取った蕭衍は一応帝位に就けた和帝・蕭宝融から禅譲を受け、色んな意味でとんでもなくどうしようもない皇帝四連発してしまった南朝斉僅か23年で滅び領土はそっくりそのまま新たに南朝梁となったのである*10

蕭宝融「えっ?」

王に封じられた後、まもなく殺されました。いつものやつではあるが旧皇族はギリギリ皆殺しまではされなかった*11蕭衍様の慈悲深さには涙が出らあ。*12
この後北魏に逃げ延びた蕭宝巻の他の弟によってがちょっとだけ復活したりしたけど、王珍国関係なしなんでもういいです。


梁では王珍国ってどうなったのか


蕭衍が皇帝となると、当然功績の大きな王珍国は得るものがあった。将軍位や刺史などが与えられようとしていた。
だが国家のためとはいえ皇帝を害したという引け目があるためかこれを固辞し続けた。王珍国は得ようとしなかったのだ。
蕭衍は「(三国時代の)田疇*13のようだ、(彼のような世捨て人と違って)君は国を深く思っているのだから良い身分でいて欲しい」と窘めた、王珍国諭されたのである。そしてようやく将軍位を受け取った。

北魏が度々侵攻してきていたので、蕭衍は対策を王珍国へと聞いてみることにした。
すると「自分は北魏の連中が少ないことには悩むが、多いことには悩んでない(敵が多いほうが嬉しい)」と答えたため、蕭衍王珍国って勇ましいなと思い北魏軍迎撃の任を与え、見事撤退させた。
そしてそのまま二州もの刺史となり地方へと赴任したが、北魏に降伏した長史を取り逃がしてしまう。王珍国痛い失策である。
相変わらずの謙虚さで功績を挙げられなかったことを理由に自ら解任を求めるが、蕭衍はお前以外に誰ができるんだと言わんばかりに拒否して留任させた。
この後は中央に召還されまた地方に出向、そしてまた中央に召還と忙しなく異動を繰り返し、ついに死去した。王珍国逝去である。


その後

親譲りの名将王珍国、一途に国を想い続けた良き人物であった。だがその子、王僧度についての記述は某ウルトラマンの変身アイテム兼武器みたいな名前をしているということ以外皆無である*14
彼の子はそれほど良い人物ではなかったのかもしれない、真相は歴史の闇の中である。
南朝梁初代皇帝・蕭衍の長い統治の元で束の間の平和を享受していたが、治世の末期に宇宙大将軍☆侯景が現れ事実上の滅亡にまで追い込まれる。
この時誰もが思ったかもしれない。










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最終更新:2023年09月09日 03:45

*1 宋代には二字名の方が主流となり、現代では二字名が圧倒的となる。ちなみに三字名は少数民族出身が多い

*2 8代の内3代目辺りから子が親を、弟が兄を殺す内紛が最後まで収まらなかった

*3 結局斉の後も続き、南朝が滅びるまで無くならなかった

*4 三国志追記マンである裴松之の遠い親戚

*5 「貴方の高名は知っていたが、貴方の瞳の中に車輪状のもう一つの瞳があるとは知らなかった」とか言われたらしい

*6 廃位された皇帝には死後に王号が送られる。鬱林王が送られた

*7 もちろん廃位。海陵王が送られた

*8 足の小さな彼女がこうして歩く様は本当に美しかったようで、これが纏足の文化のはしりとされる。実際に纏足の文化が生まれたのは五代十国~宋代なので伝説だけだろうが、美しい纏足のことをこれにちなんで「金蓮」と言うようになった。蕭衍も彼女を気に入ったようだが、部下に諫められやむなく殺している

*9 三国時代では建業と呼ばれていたが、愍帝・司馬鄴の諱にふれるため晋が改称した

*10 蕭宝巻も廃位され、東昏侯という「クズ野郎」みたいな意味のとてもありがたくない王号が送られた。残念でもなく当然

*11 蕭鸞の長男は殺されずに済み、六男は北魏に亡命した。蕭宝巻は次男である

*12 ちなみに当時の人は本当にみんな涙した。蕭鸞と蕭宝巻の犠牲者はあまりにも多かったが、蕭衍はたった数人しか殺していないからである

*13 劉虞の部下。公孫瓚により劉虞が殺された後は郷里に隠棲し、袁紹・袁尚の誘いも固辞し続けた。曹操に対しては袁尚が逃げ込んでいた鳥桓の討伐に快く応じ客将として同行した。だが官職は固辞した上に袁尚の葬儀を行うなどの反抗的な態度を示し、隠棲の身のまま生涯を終えた

*14 侯景を倒した王僧弁という人物がいるが、北魏から父と共に亡命してきた人物なので王珍国とは関係ない。余談だが王僧弁の部下の部下には周瑜という人物がいる