登録日:2015/07/14 Tue 01:15:59
更新日:2025/03/25 Tue 20:58:02
所要時間:約 9 分で読めます
五胡十六国時代。それは、
三国志末期まで読み進めた中国史ビギナーに対して中華を統一してあまりに悲しい事実を突きつけた全国王朝・
晋が
やらかしちったため、
漢民族化しつつあった北方の異民族、匈奴・鮮卑・羯・氐・羌の五部族が中華の主役に躍り出るべく大暴れして、
約100年以上泥仕合を繰り広げた中国史上最悪の混沌無粋の時代である。
それまでわかりやすかった中国史がこのへんでめっっちゃわかりづらくなる。
始まり
まずは、漢~魏までの皇族、皇帝になり損なった皆さんの処遇について簡単にまとめなければならない。
始皇帝亡きあとの秦をぶっ倒し、
項羽をなんとか紙一重、韓信が斉王でも名乗っていたら恐らくまた戦国時代に逆戻りしていたくらいの紙一重で退けて本格的中華大帝国・漢を打ち立てた
劉邦。
その劉邦・漢は、功臣を王としたあとそれらをバッサリ粛清、空いたところに血族を積極的に王として登用する政策を取った。
が、呂氏の専横などで皇帝権が緩んだことなどもあり、王が徐々に皇帝を軽んじるようになったため領土削減など力を削ぐ方策を取る。
しかし、呉楚七国の乱で呉王劉濞(りゅうび)他が大乱を起こすなど問題が発生したため
皇帝と官僚を中心に据えた秦式をアレンジした中央集権化を推し進めた。しかしこれも外戚により簒奪を招き、漢の一時的断絶に繋がってしまった。
光武帝が復興させた後漢は豪族の寄り合い所帯ということもあり、最後まで外戚と外戚に対抗するために重用された宦官の暗闘が行われるというありさまであったが、
両者の跋扈に対抗する第三勢力になり得る皇族は徹底的に管理され抑圧され続けた。
…第三勢力になり得るとはいったが、呉楚七国の乱を考えれば皇族が信用出来ないのもまた道理か。魏末期には幽閉同様の待遇であったらしい。
ちなみに魏も後漢に習った皇族への処遇を続けたが、帝が若死にを続けた曹叡以降に皇帝権が弱体化すると、大功のある
司馬懿・血族であるが皇族ではない
曹爽らにほとんど実権を奪われたも同然に。
そして曹爽一派が盛大にやらかしまくったので司馬懿らは「凡愚共には任せておれぬ」とばかりに蜂起して曹爽たちを捕らえ、その悉くを処断。
しかしこれを皮切りに、対呉・蜀のために各地に置いていた軍権を持つ都督たちが司馬氏の専横を止める名目で相次いで反乱を起こし、魏という国体を大いに揺るがす。
なんとか内乱ラッシュをしのぎきった司馬昭は、司馬氏王朝樹立に向けて近親者、王朝樹立後は皇族として、皇位継承権を持ち得る血族に領土や都督の位などを与え始めていた。
魏が、都督として大功を挙げて並ぶ者のない存在となった父・司馬懿のような存在を出したことで滅ぼされることになった例から、そういう存在を他の氏族から出さず、司馬氏の血族で治めていくという意図を込めた人事であった。
司馬一族は司馬懿を含む8人兄弟が「八達」と呼ばれるなど賢才の多い家系であったため、そういう賢才たちが一族を運営していくことを想定していたのかもしれない。
だが、晋代に入った司馬一族は書物すら読めない奴とか読書好きかと思えば決断力がない奴とか皇帝を軽んじる野心家とか、後世で散々に言われるほどの想定外の問題児が現れ始める。
更に彼らを抑え、賢才を登用すべき皇帝があろうことかクソ暗愚だったらしく、そういう困った人材も司馬一族であると言うだけで上に行くようになってしまい、大混乱を招くことになった。
さて、
蜀を滅ぼしいつのまにやら三国時代の勝者としての地歩を固めていた司馬昭の息子
司馬炎(晋武帝)により、晋が禅譲を受ける形で樹立され、三国最大の国家・
魏は滅亡した。その後
二宮の変だなんだでgdgdになった
呉を滅ぼし晋が中華統一を果たす。
ところが武帝は統一事業を完成させると
急に堕落してしまう。英君が突如として酒色に溺れる暗君となってしまったのだ。さらに優秀であると名の通っていた
弟・司馬攸を無理に都督に任命したあげく死なせてしまう(斉王攸帰藩事件)。
末期ですでに
外戚の専横が見えていた武帝の死後、
司馬衷(晋恵帝)が後を継ぐ。
が、以前より懸念されていた通りの暗愚っぷりを発揮。政権は恵帝の母親の一族である楊氏が牛耳った。
しかしそれを快く思わない
恵帝の皇后・賈南風は、他の皇族と共謀して楊氏一族を
皆殺しにし実権を奪った。
ところが賈南風のヒスは皇族にも向き始め、汝南王司馬亮に皇帝廃立を狙っていると罪を擦り付けて殺害。
更に亮殺害の実行役であった楚王司馬瑋が司馬亮を冤罪に陥れたとして彼も死刑とした。
子に恵まれないため他の婦人が産んだ皇太子も処分するなど専横を尽くすが、
皇太子殺害はやり過ぎであったか、逆に
趙王司馬倫・
斉王司馬冏の挙兵を受けて賈氏一族およびそこにおもねった臣下が
皆殺しの憂き目に遭うこととなった。
これが、晋終わりの始まり・
八王の乱の始まりであった。
この
八王の乱、無駄に多くのエピソードが転がっているので簡略に記す。詳細が知りたい方は該当項目で見てほしい。
まず、趙王司馬倫が淮南王司馬允が反乱を起こしたとして粛清する。
ところが、これで調子に乗った趙王司馬倫は暗愚な皇帝など廃位して自分こそ皇帝と名乗り始めてしまった。
だが流石にこれに宗室諸王は黙っておらず、斉王司馬冏、成都王司馬穎、河間王司馬顒が組んで司馬倫を打倒。
次に実権を握ったのは斉王司馬冏であったが、実権を握ったのをいいことにやりたい放題をはじめたため、趙王司馬倫を倒した残り二人は激怒。
河間王司馬顒は、都にいた長沙王司馬乂に斉王司馬冏を倒すようそそのかした。
これは、長沙王司馬乂を斉王司馬冏に返り討ちにさせてそれを口実に挙兵しようという作戦だったが、長沙王司馬乂は予想外に強く、なんと斉王司馬冏討伐に成功、恵帝は長沙王司馬乂の補佐を受けるようになってしまう。
長沙王司馬乂は成都王司馬穎とも相談して政治を行っていたが、長沙王司馬乂に実権があるのが面白くない成都王司馬穎・河間王司馬顒は挙兵して長沙王司馬乂討伐をはかった。
長沙王司馬乂は少ない兵力で両王の軍勢を圧倒する無双ぶりを見せたが、劣勢に陥ったと見た東海王司馬越があろうことか長沙王司馬乂を捕えて降伏、長沙王司馬乂は殺された。
が、次の実権者・皇帝の後継者となった成都王司馬穎は結局部下のとりまとめに失敗。
この混乱を見て今度は東海王司馬越が成都王司馬穎に挑むが大敗し、封地に逃げ帰ることになる。
だが、成都王司馬穎は幽州で烏丸の剽悍な騎兵を率いる王浚に大敗、洛陽に逃げ込むももはや成都王司馬穎に力はなく、河間王司馬顒のいる長安に逃げ込むしかなかった。
そんな状態を見逃さず東海王司馬越は異民族の騎兵を取り込んで長安の河間王司馬顒を圧倒。河間王司馬顒の和睦の申し入れも蹴飛ばし、長安は陥落した。
成都王司馬穎は東海王司馬越に捕えられて死亡。東海王司馬越は河間王司馬顒を手なずけようとしたが、東海王司馬越の弟司馬模が河間王司馬顒を暗殺した。
恵帝はこれに前後して、餅を喉に詰まらせて死んだ。(東海王司馬越による毒殺説もある)
さらに簡単、というか雑に表すと以下の通り。
趙王司馬倫「反乱なぞ起こしおって!死ねぃ!イヤーッ!」
淮南王司馬允「グワーッ!サヨナラ!」
趙王司馬倫「グワーッハッハッハ!暗愚なる皇帝なぞ廃位してくれるわ!朕が皇帝なりィ!」
斉王司馬冏「ふざけるな簒奪者が!お前の政治はブルシットだ!くたばれ!」
趙王司馬倫「アバーッ!皇帝は…皇帝は…サヨナラ!」
成都王司馬穎「アンタはよくやったよ斉王。イヤーッ!」
長沙王司馬乂「せいぜい親父の後を追うんだな!イヤーッ!」
斉王司馬冏「アイエエエ!?ナンデ!?サヨンナラー!」
成都王司馬穎「ついでにテメーも死ね!気に入らねんじゃ!」
長沙王司馬乂「グワーッ?!」
以上の内ゲバがうんざりするくらい延々と繰り返されて晋の国力は急降下、そのまっただ中で八王の乱に将として参戦していた匈奴の単于・劉淵が漢および蜀漢の後継を名乗り漢(のちに趙と改称、史学的には前趙)を建国。永嘉の乱の始まりである。
当初は晋もそれなりに食い止めていたが、最終的な実権者で漢の進撃の前に立ちはだかった東海王司馬越が、あまりの独裁っぷりで支持を失う。
3代皇帝懐帝とも対立してしまい、ついに東海王司馬越は反逆者扱いされた怒りのあまり憤死してしまった。
こうなっては漢の進撃は止まらず、また大黒柱を失った晋は止めることもできず、洛陽は殺戮と略奪と陵辱の坩堝となり、3代皇帝懐帝はありとあらゆる屈辱をたっぷり与えられたのち処刑された。
生き残りが長安で4代目の愍帝を立ててまだ抵抗したが、やっぱり負けた上で長安は洛陽と同じ運命を辿り、愍帝は懐帝と同じようにありとあらゆる屈辱を与えられたあと処刑された。
こうして晋は滅亡。司馬昭の皇族に大権を与える政策がまるっきり裏目にでるという、司馬懿が見たら馬鹿めが!と一喝されそうな(宗室がピンチになっても皇族が無力だった末期の魏を笑えない)結果になった。
ただ皇族をそこら中に置いていた効果は確実にあり、華北が乱れる間隙を突き、八王の乱と永嘉の乱からさっさと逃げていた司馬睿を亡命貴族と江南貴族が擁立したことにより晋(東晋)が復興される。
しかしそれこそが、大陸を南北に分断した挙げ句千々に乱す不毛の大内乱・五胡十六国時代の幕開けであった…。
経過
さて、傑物劉淵が匈奴を中心に据えて建国した漢であったが、統一を待たずに劉淵が天命を迎える。
さっそく発生した後継者争いを勝ち抜いた劉聡が、東海王司馬越を自ら排除し弱体化した晋(西晋)を倒して永嘉の乱に終止符を打ち、華北の王者となったのだが、
この劉聡も愍帝を処刑して完全に西晋を滅ぼしてからわずか二年後に亡くなってしまい、また後継者争いになってしまった。
勝ち抜いた劉曜が即位しさらに国号を趙(前趙)と変更するが、重臣で永嘉の乱勝利に大功のあった羯族の生まれである石勒が大単于趙王を名乗り独立。
十数年の抗争の後、最終的に勝者となったのは石勒であり、皇帝に即位。石勒も趙という国号を継続使用した(匈奴劉氏の趙と区別するため後趙と呼ぶ)。
しかしこの後趙も石勒の死後、その弟の石虎が実質的に簒奪した挙げ句死の直前に暴君化し、石虎の崩御後は息子たちがまたまた後継者争いをおっ始めてゴタゴタゴタゴタしているうちに、
石氏に養子として入っていた漢族の冉閔が後趙の皇族を殺戮し簒奪。魏(冉魏)を打ち立て、漢民族至上主義の元、羯族以下異民族を虐殺する凄惨な事態になるが、
政権基盤は貧弱であり、鮮卑慕容部が建国した燕(前燕)が遼東から殺到しあっという間に倒れた。
同じころ、後趙が洛陽から鄴へ遷都していたため、影響力の落ちていた陝西で氐族の苻洪が秦(前秦)を建国。息子の代で皇帝を称した。
その頃、江南の東晋はと言うと亡命政権ということもあり、亡命貴族と江南貴族の激しい主導権争いがあるなど、北伐どころではなかったのだが、
王導の政治指揮でようやく安定し始め、荊州方面の西府軍を率いる桓温が蜀に打ち立てられていた成漢を討ち滅ぼし版図に加えると、北伐が本格化。
揚州の北府軍を率いる殷浩が桓温の大功に焦ったのか、三代目石虎崩御後の混乱にあった後趙へ侵攻。許昌まで侵攻するが反撃され敗北し失脚。
北府軍の軍権をも得た桓温が満を持して開始した北伐は大成功を収め、洛陽を取り返し、司馬氏の陵墓を修復するなど功績と名声は並ぶ者のない存在となり、政治にも参画するようになった。
しかしその桓温も晩年は散々であり、前燕の侵攻で洛陽を奪われるとまた北伐するも大敗。逆に前秦や前燕の南進を招く事になってしまった。
東晋から禅譲を受け王朝を開くという桓温の秘した野望は、実現から大きく遠ざかってしまう。慌ててあの手この手で禅譲を受けんとするも、腹心としていた謝安から妨害され桓温の寿命もまた禅譲を待たず尽きてしまう。
余談だがこの桓温、「既に後世に芳を流す能わず、復た臭を万載に遺すに足らざるか」
つまり「俺ぁ歴史の有名人になれなかったってのに、悪名高いクソ野郎にもなれねえのか!」という絶叫を残したという。
悪名は無名に勝るとはよく言ったものだ。
前燕は、桓温の北伐を退けた柱石・慕容垂が前秦に亡命すると一気に衰え前秦に滅ぼされる。
その全盛期の前秦を率いた英雄こそ苻堅であった。勇猛にして英明な大器であり、漢族の名宰相・王猛と共に華北統一に邁進。
并州付近にそれなりの勢力を誇り、前趙などの侵攻をはねつけてきた代(鮮卑)、涼州にやはり長く存続していた前涼(漢族)など周辺国を全て倒しついに華北を統一。
久しぶりに華北を統一した英雄となったのであった。
しかしこの苻堅ですら中華統一までは届かなかった。東晋侵攻を頑なに反対していた腹心・王猛を失い、さらに群臣の反対を押し切ってでも中華統一を目指し強行した南征は、
謝玄率いる東晋軍の勇戦、そして東晋からの降将・朱序の裏切りに遭い決定的な惨敗を喫し、統制力が一気に衰えた前秦は例によって四分五裂。華北は再び混沌に陥るのであった…
結果
その後、華北は苻堅が暗殺されたり、慕容垂が独立したり再びクソミソになったが、かつて代を建国した鮮卑拓跋部の王族拓跋珪が代を復興、のちに魏(北魏)と改名し、夏(匈奴)などを滅ぼし華北を再統一することになった。
北魏は初代皇帝として即位した拓跋珪が次男に殺害されるアクシデントはあったものの、崩壊せず踏ん張りきり、前述のライバルを次々併呑し華北の統一政権として確立されるに至った。
そのころ、南の東晋は謝安体制の終焉から、再び不安定になっていた。
西府軍の首領となっていた桓温の息子桓玄が皇帝になり損なった父の悲願を果たすべく、五斗米道系の道教教団が起こした反乱鎮圧名目で都・建康に駐屯。
一時的に帝位を簒奪し、楚を建国。父の悲願を叶えた…のだが、並び立つ北府軍と対立し、首領を自殺に追い込んだことで決裂。
北府軍を引き継いだ劉裕によりあっけなく楚は滅ぼされ、東晋は再興された。
さらに劉裕は北上して南燕を滅ぼし山東半島を奪回。前秦から分裂した後秦をも滅ぼし、遠征中の留守を狙った反乱も鎮圧。名声・功績は東晋史上類を見ないものとなったため、禅譲を受け宋を建国。
しかしその後も虐殺・内ゲバ・殺し合いが続き、今度はやっぱり部下の蕭道成に、南宋の順帝が退位のち暗殺されることで幕を閉じる。
宋の建国の少し後に、北魏が華北を統一。南北に成立した安定政権のにらみ合いへとシフトしたため、北魏の華北統一と宋の成立を持って南北朝時代へと区分が変わり、ここに五胡十六国時代は終焉を迎えた。
…しかし、この南北朝時代の戦火が収まり南北統一に至るまでは実に150年以上の年月と、楊堅・李淵ら隋・唐を築く傑物の出現を待たねばならない。
この後漢末~隋による再統一までの400年間のグダグダ混乱を引っくるめて「魏晋南北朝時代」と呼ぶ。
後世への影響他
- これ以前は禅譲をされた側は、ある程度禅譲した側を優遇するのが基本であった。
しかしこの時代以降は禅譲しても一族皆殺しがデフォになった。だいたい晋のせいである…。抵抗しても概ね皆殺し、素直に譲ってあげても皆殺し。サツバツ!- それもあってか、最後の(一応)長期政権となった南朝宋(劉宋)最後の皇帝・順帝(数え11歳)は禅譲後に幽閉される(=死まで秒読みになった)際に「生まれ変わりがあるなら、二度と皇帝には産まれたくない!」と叫んだそうである。
後世から見れば五胡十六国時代と南北朝時代という区切りがあっても、人の意識は変わってなかったのだ。っていうかさらに後の五代十国時代でも大して変わってない。
- 魏は皇族が弱体化してクーデターで滅亡し、晋は三楊や賈氏ら外戚の専横をきっかけに崩壊していったため、北魏は皇太子に立てられたら生母を殺すという対策を取った。そんな、ひどい…
しかしそれで浮いた権力の椅子は後に軍閥が握り、北魏もまた分裂してしまうのであった。
- インド伝来の仏教が浸透したのもこの時代。鳩摩羅什ら名僧が続々と華北の王朝に招聘され、社会不安とも相まって信者数を一気に増やした。
- その仏教の流入・発展に触発されて、道教でも教団の組織化や経典の整備が急速に発展、北方では寇謙之、南方では陸修静といった道士が登場した。
やがて儒教と合わせて「三教」が出そろい、相互に影響を与えつつ発展していくことになる。
- この大混乱に重ねて高句麗など朝鮮半島の国家が勃興するなどの事情が重なり、日本からの入貢が途絶えがちになった。
そのため、日本の歴史では「魏志倭人伝」として知られる魏書東夷伝以降~倭の五王の入貢までの歴史は、日本人自身が記録する文化をあまり持っていなかったこともあって大きな謎となっている。
- 異民族が大いに暴れたため、漢民族は制圧されマイノリティに…転落はせず、むしろ鮮卑や匈奴ほかの異民族を漢民族化するという、漢民族脅威の同化能力を発揮した。この同化能力はのちの時代にも遺憾なく発揮されていくのである。文化の力ってすごい。ヤック・デカルチャー…
例えば、北魏で国史を編纂する際に、宰相の崔浩が鮮卑の風俗や信条なども国史に盛り込んだところ、当時の皇帝である三代・太武帝が「なんやこの野蛮な歴史はァ!?」とブチ切れて、崔浩の一族のみならず繋がりのある有力貴族まで滅された事件もあったりする(国史の獄)。やはり異民族は野蛮である。ただし、この事件における学問上様々な議論があることも付記しておく。
しかし同化に反発する声も根強く、大規模な内乱をたびたび引き起こすこととなる。その最も大きな例が、北魏時代後期に勃発した「六鎮の乱」である。
- ただ、胡族は単純に「漢化」したわけではない。彼らは習俗や統治方法に漢族のやり方を取り入れ、そしてそれらを中心にしていったのだが、一方で胡族由来の習俗や文化のものも残り続け、双方の習俗がいわば「融合」し始めていたのである。
学問上では「胡漢融合」と呼ばれるこの変化がこの時代(そして南北朝時代)に進行し、後に南北統一を達成する隋帝国と、その後の内乱を治めた唐帝国をもって完成を見る。そして、唐が中国史上最初となる「世界帝国」に成長する原動力となっていくだけでなく、唐以後の中国史にも影響を残していくのである。
- 急に北辺から華北のど真ん中に北方系の民族が雪崩込んだわけではなく、後漢末~三国時代の時点で、魏が国策として南匈奴諸族の定着化を進めて華北から逃げ出したり、飢饉で死に絶えた農民の補充をしていたりとこの時代につながる片鱗はあった。
於夫羅の孫である匈奴の左賢王が劉淵(劉姓)を名乗っているのも漢民族化した証拠といえる。
- この時期に流入した異民族は冒頭の五つに限らず、またこの時代では五胡の内訳が決まり切っていなかったりするらしいので、「五胡」の語は「北方の異民族の総称」くらいの感覚に近い。
その中でも羯族は石勒という傑物が輩出されたおかげで名を連ねているだけで匈奴の傍流のひとつというかなり小さな部族で、冉閔の異民族狩りで完全に根絶されたようで綺麗さっぱりなくなってしまった。
- 「五胡十六国時代」の呼称は北魏の崔鴻による「十六国春秋」とそれに挙げられた16の国に由来し、短命王朝や北魏とその前身である代などが含まれていない。なので実際にはもっと多くの王朝が乱立している。
王朝を開く前にあえなく滅んだ所や、武装した流民の集団などもある。
- 江南の開発は呉の時代から本格的に始められていたが、東晋ほか南部の王朝により一層の加速を見た。その結果、隋による統一が成ったころには経済の中心は江南に移っていたほどであった。今でも長江以南の方が経済的に強い大都市が多いが、その基盤はこの時代に出来上がったといえる。
政治の中心と経済の中心をつなげるという発想は隋の煬帝によって成立する。
- 陸遜の直系子孫である陸機が八王の乱で殺され、賈逵の孫たちが滅びの引き金を引くことになる。劉禅や孫皓の子孫も八王の乱やその後の乱に巻き込まれて大半が殺されてしまった。三国志の延長として読んでいくと、文官はともかく武将ファンにとって結構キツい話が多い。中国史からロマンが無くなる転機という意見もある。
- 一方元凶とも言える司馬氏だが、西晋末に石勒が司馬氏狩りをしまくった上に東晋末の禅譲暗殺コンボで族滅したかと思いきや、一部は隠し通されて、一部は東晋の内乱を見て北朝への亡命を決めたりしてなんとかしぶとく生き残っている。しかし当然ながら影響は非常に大きく司馬懿の直系は断絶しており、一族の勢いもかなり削がれている。
- 魏の陳羣が提唱し整備された「九品官人法」だったが、これは人事権を一手に握っている「中正官」に対して二品以上でなければ意見が述べられないため、あまりにも権限が強すぎるという欠陥が早期から指摘されていた。
このため二品やそれに近い立場の子に生まれなければ出世ルートから外れてしまうのだが、指摘したのが司馬懿の対立派閥の人物だったせいか司馬懿はその上に更に権限の強い「州大中正」という役職を置いてしまう。
そして晋代になると皇族の権限がより強まったため、制度の欠陥も一層強く浮かびあがることとなった。
出世ルートから外れた者たちは地方官僚として出向させられその野心を燻ぶらせていたが、自分の仕えている皇族が皇帝になれば立場が変わるという結論に至り、皇族の中でも特に操りやすい馬鹿を煽り立て傀儡とする形で八王の乱を加速させた。
九品官人法は仔細を変えつつもこの時代を通して使われた上に欠陥はそのままという状態だったが、これを変えるために隋で「中正官」の代わりに「科挙」が置かれたことでようやく問題解決の糸口が見えてくることとなる。
この時代に興亡した国たち
晋とその系譜
西晋(265~316)
東晋(317~403、404~420)
楚(403~404)
宋(南朝、420~479)
一般に十六国とされる国
前涼(301(または314)~376)…漢人
前趙(304~329)…匈奴
成漢(304~347)…氐(巴賨)
後趙(319~351)…羯
前燕(337~370)…鮮卑
前秦(351~394)…氐
後燕(384~407(または409))…鮮卑
後秦(384~417)…羌
西秦(385~400、409~431)…鮮卑
後涼(389~403)…氐
南涼(397~414)…鮮卑
北涼(397~439)…匈奴?(廬水胡)
南燕(398~410)…鮮卑
西涼(400~421)…漢人
夏(407~431)…匈奴
北燕(407(または409)~436)…漢人
十六国以外の各国
前仇池(296~371)、後仇池(385~442)…氐
代(315~376)、北魏(386~534)…鮮卑
冉魏(350~352)…漢人
西燕(384~394)…鮮卑
翟魏(388~382)…丁零(テュルク系)
後蜀(405~413)…漢人
追記・修正は禅譲を受けた後に一族を皆殺しにしてからお願いします。
- 中華にロマンが無くなって殺伐がデフォになったとも言える転機だな… -- 名無しさん (2015-07-14 03:00:36)
- これがコーエーの歴史ゲームにならんのは、内ゲバとかのイベントが多すぎて、作ったら歴史イベントまみれでゲームにならないからだろうか? -- 名無しさん (2015-07-14 06:59:46)
- これがあるから司馬氏は好きになれないんだよな。統一後の司馬氏はだらしなすぎる -- 名無しさん (2015-07-14 10:33:24)
- 脚注の1番って前漢の呉楚七カ国の乱の記述じゃないのか -- 名無しさん (2015-07-14 12:42:23)
- ↑4 日本も武家が生まれて家康が江戸幕府開くまでの800年寝ても覚めても殺し合いしてたし、歴史なんてそんなもんじゃね? -- 名無しさん (2015-07-14 13:20:49)
- しまった司馬衷の記事を作ろうとしてたのに内容がかぶってしまった!だが乙! -- 名無しさん (2015-07-14 15:50:08)
- この戦乱での虐殺と混血で狭義の漢民族はほぼ絶滅したんだとか。 -- 名無しさん (2015-07-14 17:57:42)
- 最近の墓誌研究では少なくとも上流階級はなるべく異民族間の婚姻をさけていたとか -- 名無しさん (2015-07-14 18:25:07)
- そもそも漢民族はこれ以前にも何度も異民族との同化を繰り返してるし、この時代でも特に漢族に対する断種措置があったわけでもないから、絶滅というのは全然実態に即してはいないだろう。 -- 名無しさん (2015-07-14 19:32:39)
- ぜひ五代十国時代の項目を...!! -- 名無しさん (2015-07-14 23:39:36)
- この手のどうしようもないgdgdを見ていると、しょーもない逸話持ちの劉禅でも「臣下が内乱起こさなかったし、せいぜい凡君止まりだな」に見えてくる -- 名無しさん (2015-07-15 22:00:05)
- 劉裕が劉備の孫と言うオチの本を読んだ気がする 家臣たちも孔明や関羽の子孫と言うとんでもない話だった -- 名無しさん (2015-07-15 22:06:04)
- はえー、献帝とか水滸伝の柴進って例外中の例外で恵まれてたんですね<禅譲しても皆殺し。 -- 名無しさん (2015-07-16 06:04:17)
- ちなみに十六国に数えられる国のうち,十国が苻堅没落後(結果の時期)に興亡した国。後期の華北はまさしくカオスである -- 名無しさん (2015-07-16 22:03:15)
- 竹馬の友の故事がこの時代だったっけ? 世界史で石勒を習ったような、習ってないような…。 -- 名無しさん (2015-07-16 22:46:12)
- ↑竹馬の友は桓温の逸話に出てくる。ちなみに意味は幼いころからの友人といった現在の意味ではなく、いらなくなった竹馬を殷浩という桓温の友人が使ってたからそんなものくれてやるよといった上下関係的な意味だったそうだ。ちなみに殷浩は桓温の策略にはまり失脚します -- 名無しさん (2016-01-24 09:55:49)
- こうして見ると曹操とか曹丕とかって献帝に対して無茶苦茶礼儀正しかったんだな… -- 名無しさん (2016-01-24 10:16:38)
- 恋姫無双ベースでこの時代は見たくないな… -- 名無しさん (2016-09-06 21:09:03)
- スクイズ並の血みどろになる...? -- 名無しさん (2016-09-06 21:23:56)
- この時代とその後の南北朝時代はヤバい皇帝が出過ぎやわ。そら皇族に生まれたくなかったなんて言う人も出るよ。 -- 名無しさん (2016-09-09 17:33:37)
- ↑中国の人たちには失礼だけど、中国の南北朝の皇帝たちには、日本の南北朝の人たちを見習ってほしいw -- 名無しさん (2017-11-15 07:52:13)
- 宇宙大将軍ですら五胡十六国時代はDQN多すぎって言ってたらしいからな -- 名無しさん (2017-11-15 10:34:41)
- 色々手を加えてみたよ -- 名無しさん (2017-11-15 15:22:29)
- コレに加えてなんで異民族がこんなにのさばったのか→漢末から三国時代の超大量の人口減少が原因ってのも書きたいね -- 名無しさん (2017-11-15 15:34:54)
- 実は続いてた献帝の末裔もこの辺りの戦乱で途絶えたんだっけ? -- 名無しさん (2017-11-15 21:17:45)
- ↑普成立の過程で曹操の末裔はほぼ滅びてるし、劉備・孫権の末裔も滅びてるし、献帝の末裔も逝ってる。ほぼ全滅び -- 名無しさん (2017-11-16 09:47:36)
- この時期を見た後に楚漢戦争見ると、項伯とか五胡十六国時代時代だったら絶対殺されてるなって思う -- 名無しさん (2018-12-04 14:00:19)
- Wikipediaの石虎の記事から…数行に一回殺した処刑した虐殺したって出てきて笑っちまうよ -- 名無しさん (2019-01-17 14:17:36)
- ↑ページ検索すると「殺害」で34、「殺」で84、「処刑」で9、「処」で22、「陵辱」で1。ほんまやばい -- 名無しさん (2019-01-17 15:06:33)
- 漢民族はフェストゥムだった・・・? -- 名無しさん (2019-12-11 22:10:27)
- というより大陸の民族は周辺の民族と混血しながら拡大縮小するのが普通だし。文化人類学などの呼称からもわかるように、民族ってのは文化や歴史的な要素のほうが重要で、血統はあまり重要視されない。漢民族は文化と歴史で君臨してたから、異民族に征服されても異民族が漢民族の進んだ文化や華やかな歴史を取り込もうとして結局漢民族化する。 -- 名無しさん (2020-01-23 14:59:05)
- 仮にこの騒乱で元々の漢民族の血統が主流に残ったとしても、異民族の文化や気風を取り込んで従来の漢民族とは少し異なる文化になっただろうしね -- 名無しさん (2020-02-05 14:57:33)
- ↑チャイナドレスとか辮髪とかは元々満州族の民族衣装だしな -- 名無しさん (2020-02-05 18:27:42)
- 「趣味は人を殺すことです」みたいな皇帝が割とざらに出てくるやべー時代。董卓もこの時代に生きてれば仁君の部類まである -- 名無しさん (2020-02-15 03:59:07)
- 司馬乂まともで逆に浮いてる -- 名無しさん (2020-05-28 11:22:33)
- この時代から前王朝の人間は〇害というのが出てきた。 -- 名無しさん (2020-05-28 11:54:44)
- 「二王三恪」っつー「前代の王朝と前前代の王朝の子孫は礼遇しましょうね(もしくは2+3で5代前まで)」ってのがあったんだが、まあこの頃から怖いから全員殺しとけになる。趙匡胤はマジで特殊。あと一応清が明の子孫を残してるか -- 名無しさん (2020-06-02 15:31:02)
- 淝水の戦いいいよね……いや犠牲者の数を考えると全然よくないが -- 名無しさん (2020-12-03 12:35:40)
- 司馬炎が司馬攸を左遷しなかったら内乱が起きなかったかもしれない。 -- 名無しさん (2021-02-21 11:34:48)
- 杜預が皇帝が無道なら臣下に殺されても仕方ないと司馬昭による曹髦殺害を正当化した。これにより皇帝殺害が常態化した。 -- 名無しさん (2021-04-04 10:56:11)
- ↑ いや、「杜預の曹髦殺害の正当化がなければ、皇帝殺害が常態化しなかった」かというとそれは無いだろう。つまり杜預の論文一つで、その後の数百年の歴史が変わることはあるまいよ。
だいたいにして中国では臣下による君主殺しは決して珍しくない。例えば春秋の晋では公室で殺し合いがよく起きた。三国時代に少なかったのは、むしろ三国時代が異例で、単に三国のクーデター勢力が「前王朝の君主を殺して新しい王朝を築くほどの覇気もなかった」というだけのことだろう。 -- 名無しさん (2021-04-04 12:09:34)
- あとこういう時代を見てると、国家がこんなにガタガタ&グダグダになっても、民衆のほうは平気で暮らしているんだから、中国の民衆は皇帝や士大夫よりもはるかにタフだということがよく分かる。華北では異民族が流入して、漢族の多くが河南に流れ込んだというけれど、この場合でも華北には「移民しないまま華北に残った漢族」が大勢いた。そんで彼らも異民族と接触しつつ、いつしか彼らの文化も取り込みつつ発展していった。この時代に、華北でも道教が発展したことが、まさに中国人のタフさの象徴だよ。 -- 名無しさん (2021-04-04 12:15:41)
- 皇帝殺しの大罪をした賈充を処刑して天下に詫びろと陳泰は司馬昭に進言したが却下された。賈充を処刑していたら未来は変わっていたかも。 -- 名無しさん (2021-04-10 21:28:28)
- トップになった途端に悪魔に魅入られて暴君化したり贅沢三昧になったりするやつ多すぎ。他の史料読んでも「お前もかよ!」と何回ツッコミしたか。 -- 名無しさん (2021-08-16 13:55:13)
- 「陸遜の直系子孫である陸機が八王の乱で殺され、賈逵の孫たちが滅びの引き金を引くことになる。劉禅や孫皓の子孫も八王の乱やその後の乱に巻き込まれて大半が殺されてしまった。三国志の延長として読んでいくとファンにとって結構キツい話が多い。中国史からロマンが無くなる転機という意見もある。」とあるけど、一方で崔琰・盧植・王允・楊脩の一族なんかは唐代に至るまで名門貴族であり続けるんだよね。 -- 名無しさん (2022-03-21 02:26:06)
- 曹操の末裔もこの時代を生き延びて存続してるんだよな。三国で真っ先に実権を失った曹家が生き残るという皮肉よ -- 名無しさん (2022-03-21 03:13:35)
- 陸遜の子孫は滅んだが甘寧やコヨウを始めとした呉の名族が晋で活躍するのはかっこいいよな -- 名無しさん (2022-05-17 22:11:35)
- 三国志の英傑たちが生命を賭して守った未来がこれか... -- 名無しさん (2022-09-16 22:46:21)
- きっと現実じゃ三国志の英傑もこの時代の戦士たちも人となりは大して変わらんのやろな -- 名無しさん (2022-10-05 20:37:21)
- 良くも悪くもやたら印象に残る慕容一族 -- 名無しさん (2022-10-15 17:54:38)
- 混沌極まりない時代でも、なんだかんだで現在まで子孫が生き残ってる慕容一族はある意味じゃ勝者だな -- 名無しさん (2022-10-16 21:16:13)
- 正直、「〇〇の一族は滅んだ」っていうのを血統がいなくなったみたいに感じてしまっているけどこれ多分他家に嫁いだ娘とかはある程度残ってるだろうから子孫全滅は……ないよね? -- 名無しさん (2022-12-25 05:57:52)
- 賈詡の孫の賈疋も晋の復興に全力を捧げて死んだ悲劇のヒーローみたいでかっこよかった。 -- 名無しさん (2023-01-11 17:49:55)
- 魏が皇族の権力を削いだら臣下に簒奪されたんでその反省から皇族に権力を与えたら今度は身内で内紛か。結局何事もホドホドが一番ってことだな -- 名無しさん (2023-04-13 13:16:37)
- 物語として楽しみようがねえ時代だな… -- 名無しさん (2023-05-14 14:45:21)
- 五胡十六国時代から唐代までは、三国時代前後に形成された同族集団が貴族として力を持っていた時代で、三国志ファン視点でも「この人物の祖先は三国時代のこの人物なのか」と繋がるのは面白いんじゃないかな(宋代以降はそれがなくなる)後世の有名人だと、杜甫の父方は杜預の一族・母方は崔琰の一族であるとか、顔真卿・顔之推の先祖の一族に顔良がいるとか。 -- 名無しさん (2023-05-19 07:51:20)
- 西晋も東晋も魏の時代に滅ぼした同じ苗字の劉氏に滅ぼされる歴史の皮肉よ -- 名無しさん (2023-08-21 22:20:14)
- ロマンがなくなるとは言うが蘭陵王みたいなイケメンの人気者が出てきたのはこの時代だし他にも暴君や宇宙大将軍みたいな連中も見ててある意味楽しい、あと何だかんだ名君や有能な将軍・文人の類もこの時代に結構排出されてるし(そういう意味で一番悲惨なのはそういった面白連中が全然いない五代十国時代) -- 名無しさん (2024-02-14 22:03:18)
- アニヲタの中国史記事は読み応えあるなぁと思いながら読んでたら最後にさらっととんでもないこと書いてあって草 -- 名無しさん (2025-01-29 10:55:44)
- 石一族とかクズすぎて漢民族の方が幾分マシか…となる -- 名無しさん (2025-02-24 18:26:38)
最終更新:2025年03月25日 20:58