五胡十六国時代

登録日:2015/07/14 Tue 01:15:59
更新日:2024/06/15 Sat 19:16:09
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五胡十六国時代。それは、三国志末期まで読み進めた中国史ビギナーに対して中華を統一してあまりに悲しい事実を突きつけた全国王朝・やらかしちったため、
漢民族化しつつあった北方の異民族、匈奴・鮮卑・羯・氐・羌の五部族が中華の主役に躍り出るべく大暴れして、約100年以上泥試合を繰り広げた中国史上最悪の混沌無粋の時代である。
それまでわかりやすかった中国史がこのへんでめっっちゃわかりづらくなる。



始まり

まずは、漢~魏までの皇族、皇帝になり損なった皆さんの処遇について簡単にまとめなければならない。

さて、蜀を滅ぼしいつのまにやら三国時代の勝者としての地歩を固めていた司馬昭の息子司馬炎(晋武帝)により、晋が禅譲を受ける形で樹立され、三国最大の国家・魏は滅亡した。その後二宮の変だなんだでgdgdになった呉を滅ぼし晋が中華統一を果たす
ところが武帝は統一事業を完成させると急に堕落してしまう。英君が突如として酒色に溺れる暗君となってしまったのだ。さらに優秀であると名の通っていた弟・司馬攸を無理に都督に任命したあげく死なせてしまう(斉王攸帰藩事件)*4
末期ですでに外戚の専横が見えていた武帝の死後、司馬衷(晋恵帝)が後を継ぐ。
が、以前より懸念されていた通りの暗愚っぷりを発揮*5。政権は恵帝の母親の一族である楊氏が牛耳った。
しかしそれを快く思わない恵帝の皇后・賈南風*6は、他の皇族と共謀して楊氏一族を皆殺しにし実権を奪った。
ところが賈南風のヒスは皇族にも向き始め、汝南王司馬亮*7に皇帝廃立を狙っていると罪を擦り付けて殺害。
更に亮殺害の実行役であった楚王司馬瑋*8が司馬亮を冤罪に陥れたとして彼も死刑とした。
子に恵まれないため他の婦人が産んだ皇太子も処分するなど専横を尽くすが、
皇太子殺害はやり過ぎであったか、逆に趙王司馬倫斉王司馬冏の挙兵を受けて賈氏一族およびそこにおもねった臣下が皆殺しの憂き目に遭うこととなった。
これが、晋終わりの始まり・八王の乱の始まりであった。
この八王の乱、無駄に多くのエピソードが転がっているので簡略に記す。詳細が知りたい方は該当項目で見てほしい。


以上の内ゲバがうんざりするくらい延々と繰り返されて晋の国力は急降下、そのまっただ中で八王の乱に将として参戦していた匈奴の単于・劉淵*20が漢および蜀漢の後継を名乗り漢(のちに趙と改称、史学的には前趙)を建国。永嘉の乱の始まりである。

当初は晋もそれなりに食い止めていたが、最終的な実権者で漢の進撃の前に立ちはだかった東海王司馬越が、あまりの独裁っぷりで支持を失う。
3代皇帝懐帝*21とも対立してしまい、ついに東海王司馬越は反逆者扱いされた怒りのあまり憤死してしまった。
こうなっては漢の進撃は止まらず、また大黒柱を失った晋は止めることもできず、洛陽は殺戮と略奪と陵辱の坩堝となり、3代皇帝懐帝はありとあらゆる屈辱をたっぷり与えられた*22のち処刑された。
生き残りが長安で4代目の愍帝*23を立ててまだ抵抗したが、やっぱり負けた上で長安は洛陽と同じ運命を辿り、愍帝は懐帝と同じようにありとあらゆる屈辱を与えられたあと処刑された。

こうして晋は滅亡。司馬昭の皇族に大権を与える政策がまるっきり裏目にでるという、司馬懿が見たら馬鹿めが!と一喝されそうな(宗室がピンチになっても皇族が無力だった末期の魏を笑えない)結果になった。
ただ皇族をそこら中に置いていた効果は確実にあり、華北が乱れる間隙を突き、八王の乱と永嘉の乱からさっさと逃げていた司馬睿*24を亡命貴族と江南貴族が擁立したことにより晋(東晋)が復興される。
しかしそれこそが、大陸を南北に分断した挙げ句千々に乱す不毛の大内乱・五胡十六国時代の幕開けであった…。


経過

さて、傑物劉淵が匈奴を中心に据えて建国した漢であったが、統一を待たずに劉淵が天命を迎える。
さっそく発生した後継者争いを勝ち抜いた劉聡が、東海王司馬越を自ら排除し弱体化した晋(西晋)を倒して永嘉の乱に終止符を打ち、華北の王者となったのだが、
この劉聡も愍帝を処刑して完全に西晋を滅ぼしてからわずか二年後に亡くなってしまい、また後継者争いになってしまった。
勝ち抜いた劉曜が即位しさらに国号を趙(前趙)と変更するが、重臣で永嘉の乱勝利に大功のあった羯族の生まれである石勒が大単于趙王を名乗り独立。
十数年の抗争の後、最終的に勝者となったのは石勒であり、皇帝に即位。石勒も趙という国号を継続使用した(匈奴劉氏の趙と区別するため後趙と呼ぶ)。

しかしこの後趙も石勒の死後、その弟の石虎が実質的に簒奪した挙げ句死の直前に暴君化し、石虎の崩御後は息子たちがまたまた後継者争いをおっ始めてゴタゴタゴタゴタしているうちに、
石氏に養子として入っていた漢族*25冉閔が後趙の皇族を殺戮し簒奪。魏(冉魏)を打ち立て、漢民族至上主義の元、羯族以下異民族を虐殺する凄惨な事態になるが*26
政権基盤は貧弱であり、鮮卑慕容部が建国した燕(前燕)が遼東から殺到しあっという間に倒れた。
同じころ、後趙が洛陽から鄴*27へ遷都していたため、影響力の落ちていた陝西で氐族の苻洪が秦(前秦)を建国。息子の代で皇帝を称した。


その頃、江南の東晋はと言うと亡命政権ということもあり、亡命貴族と江南貴族の激しい主導権争いがあるなど、北伐どころではなかったのだが、
王導の政治指揮でようやく安定し始め、荊州方面の西府軍を率いる桓温が蜀に打ち立てられていた成漢*28を討ち滅ぼし版図に加えると、北伐が本格化。
揚州*29の北府軍を率いる殷浩*30が桓温の大功に焦ったのか、三代目石虎崩御後の混乱にあった後趙へ侵攻。許昌まで侵攻するが反撃され敗北し失脚。

北府軍の軍権をも得た桓温が満を持して開始した北伐は大成功を収め、洛陽を取り返し、司馬氏の陵墓を修復するなど功績と名声は並ぶ者のない存在となり、政治にも参画するようになった。
しかしその桓温も晩年は散々であり、前燕の侵攻で洛陽を奪われるとまた北伐するも大敗。逆に前秦や前燕の南進を招く事になってしまった。
東晋から禅譲を受け王朝を開くという桓温の秘した野望は、実現から大きく遠ざかってしまう。慌ててあの手この手で禅譲を受けんとするも、腹心としていた謝安から妨害され桓温の寿命もまた禅譲を待たず尽きてしまう。

余談だがこの桓温、「既に後世に芳を流す能わず、復た臭を万載に遺すに足らざるか」
つまり「俺ぁ歴史の有名人になれなかったってのに、悪名高いクソ野郎にもなれねえのか!」という絶叫を残したという。
悪名は無名に勝るとはよく言ったものだ。

前燕は、桓温の北伐を退けた柱石・慕容垂が前秦に亡命すると一気に衰え前秦に滅ぼされる。
その全盛期の前秦を率いた英雄こそ苻堅であった。勇猛にして英明な大器であり、漢族の名宰相・王猛と共に華北統一に邁進。
并州付近にそれなりの勢力を誇り、前趙などの侵攻をはねつけてきた代(鮮卑)、涼州にやはり長く存続していた前涼(漢族)など周辺国を全て倒しついに華北を統一。
久しぶりに華北を統一した英雄となったのであった。
しかしこの苻堅ですら中華統一までは届かなかった。東晋侵攻を頑なに反対していた腹心・王猛を失い、さらに群臣の反対*31を押し切ってでも中華統一を目指し強行した南征は、
謝玄率いる東晋軍の勇戦、そして東晋からの降将・朱序の裏切りに遭い決定的な惨敗を喫し、統制力が一気に衰えた前秦は例によって四分五裂。華北は再び混沌に陥るのであった…

結果

その後、華北は苻堅が暗殺されたり、慕容垂が独立したり再びクソミソになったが、かつて代を建国した鮮卑拓跋部の王族拓跋珪が代を復興、のちに魏(北魏)と改名し、夏(匈奴)などを滅ぼし華北を再統一することになった。
北魏は初代皇帝として即位した拓跋珪が次男に殺害されるアクシデントはあったものの、崩壊せず踏ん張りきり、前述のライバルを次々併呑し華北の統一政権として確立されるに至った。

そのころ、南の東晋は謝安体制の終焉から、再び不安定になっていた。
西府軍の首領となっていた桓温の息子桓玄が皇帝になり損なった父の悲願を果たすべく、五斗米道系の道教教団が起こした反乱鎮圧名目で都・建康*32に駐屯。
一時的に帝位を簒奪し、楚を建国。父の悲願を叶えた…のだが、並び立つ北府軍と対立し、首領を自殺に追い込んだことで決裂。
北府軍を引き継いだ劉裕によりあっけなく楚は滅ぼされ、東晋は再興された。
さらに劉裕は北上して南燕を滅ぼし山東半島を奪回。前秦から分裂した後秦をも滅ぼし、遠征中の留守を狙った反乱も鎮圧。名声・功績は東晋史上類を見ないものとなったため、禅譲を受け宋を建国。
しかしその後も虐殺・内ゲバ・殺し合いが続き、今度はやっぱり部下の蕭道成に、南宋の順帝が退位のち暗殺されることで幕を閉じる*33

宋の建国の少し後に、北魏が華北を統一。南北に成立した安定政権のにらみ合いへとシフトしたため、北魏の華北統一と宋の成立を持って南北朝時代へと区分が変わり、ここに五胡十六国時代は終焉を迎えた。
…しかし、この南北朝時代の戦火が収まり南北統一に至るまでは実に150年以上の年月と、楊堅・李淵ら隋・唐を築く傑物の出現を待たねばならない。
この後漢末~隋による再統一までの400年間のグダグダ混乱を引っくるめて「魏晋南北朝時代」と呼ぶ。

後世への影響他

  • これ以前は禅譲をされた側は、ある程度禅譲した側を優遇するのが基本であった*34
    しかしこの時代以降は禅譲しても一族皆殺しがデフォになった。だいたい晋のせいである*35…。抵抗しても概ね皆殺し、素直に譲ってあげても皆殺し。サツバツ!
    • それもあってか、最後の(一応)長期政権となった南朝宋(劉宋)最後の皇帝・順帝(数え11歳)は禅譲後に幽閉される(=死まで秒読みになった)際に「生まれ変わりがあるなら、二度と皇帝には産まれたくない!」と叫んだそうである。
      後世から見れば五胡十六国時代と南北朝時代という区切りがあっても、人の意識は変わってなかったのだ。っていうかさらに後の五代十国時代でも大して変わってない。
    • 魏は皇族が弱体化してクーデターで滅亡し、晋は三楊や賈氏ら外戚の専横をきっかけに崩壊していったため、北魏は皇太子に立てられたら生母を殺すという対策を取った。そんな、ひどい…
      しかしそれで浮いた権力の椅子は後に軍閥が握り、北魏もまた分裂してしまうのであった。

  • インド伝来の仏教が浸透したのもこの時代。鳩摩羅什ら名僧が続々と華北の王朝に招聘され、社会不安とも相まって信者数を一気に増やした。
    • その仏教の流入・発展に触発されて、道教でも教団の組織化や経典の整備が急速に発展、北方では寇謙之、南方では陸修静といった道士が登場した。
      やがて儒教と合わせて「三教」が出そろい、相互に影響を与えつつ発展していくことになる。
  • この大混乱に重ねて高句麗*36など朝鮮半島の国家が勃興するなどの事情が重なり、日本からの入貢が途絶えがちになった。*37
    そのため、日本の歴史では「魏志倭人伝」として知られる魏書東夷伝以降~倭の五王の入貢までの歴史*38は、日本人自身が記録する文化をあまり持っていなかったこともあって大きな謎となっている。

  • 異民族が大いに暴れたため、漢民族は制圧されマイノリティに…転落はせず、むしろ鮮卑や匈奴ほかの異民族を漢民族化するという、漢民族脅威の同化能力を発揮した。この同化能力はのちの時代にも遺憾なく発揮されていくのである。文化の力ってすごい。ヤック・デカルチャー…
    そのせいか北魏で国史を編纂する際に鮮卑の野蛮な風俗や信条なども国史に盛り込んだところ、「なんやこの野蛮な歴史はァ!?」と皇帝がブチ切れて編纂者は九族まで滅されたらしい。やはり異民族は野蛮である。
    しかし同化に反発する声も根強く、大規模な内乱をたびたび引き起こすこととなる。このへんは今に至るまであんまり変わらないものである。
    • 急に北辺から華北のど真ん中に北方系の民族が雪崩込んだわけではなく、後漢末~三国時代の時点で、魏が国策として南匈奴諸族の定着化を進めて華北から逃げ出したり、飢饉で死に絶えた農民の補充をしていたりとこの時代につながる片鱗はあった。
      於夫羅の孫である匈奴の左賢王が劉淵(劉姓)を名乗っているのも漢民族化した証拠といえる*39
    • この時期に流入した異民族は冒頭の五つに限らず、またこの時代では五胡の内訳が決まり切っていなかったりするらしいので、「五胡」の語は「北方の異民族の総称」くらいの感覚に近い。
      その中でも羯族は石勒という傑物が輩出されたおかげで名を連ねているだけで匈奴の傍流のひとつというかなり小さな部族で、冉閔の異民族狩りで完全に根絶されたようで綺麗さっぱりなくなってしまった。

  • 「五胡十六国時代」の呼称は北魏の崔鴻による「十六国春秋」とそれに挙げられた16の国に由来し、短命王朝や北魏とその前身である代などが含まれていない。なので実際にはもっと多くの王朝が乱立している。
    王朝を開く前にあえなく滅んだ所や、武装した流民の集団などもある。

  • 江南の開発は呉の時代から本格的に始められていたが、東晋ほか南部の王朝により一層の加速を見た。その結果、隋による統一が成ったころには経済の中心は江南に移っていたほどであった。今でも長江以南の方が経済的に強い大都市が多いが、その基盤はこの時代に出来上がったといえる。
    政治の中心と経済の中心をつなげるという発想は隋の煬帝によって成立する。

  • 陸遜の直系子孫である陸機が八王の乱で殺され、賈逵の孫たちが滅びの引き金を引くことになる。劉禅孫皓の子孫も八王の乱やその後の乱に巻き込まれて大半が殺されてしまった。三国志の延長として読んでいくと、文官はともかく武将ファンにとって結構キツい話が多い。中国史からロマンが無くなる転機という意見もある。


  • 魏の陳羣が提唱し整備された「九品官人法」だったが、これは人事権を一手に握っている「中正官」に対して二品以上でなければ意見が述べられないため、あまりにも権限が強すぎるという欠陥が早期から指摘されていた。
    このため二品やそれに近い立場の子に生まれなければ出世ルートから外れてしまうのだが、指摘したのが司馬懿の対立派閥の人物だったせいか司馬懿はその上に更に権限の強い「州大中正」という役職を置いてしまう。
    そして晋代になると皇族の権限がより強まったため、制度の欠陥も一層強く浮かびあがることとなった。
    出世ルートから外れた者たちは地方官僚として出向させられその野心を燻ぶらせていたが、自分の仕えている皇族が皇帝になれば立場が変わるという結論に至り、皇族の中でも特に操りやすい馬鹿を煽り立て傀儡とする形で八王の乱を加速させた。
    九品官人法は仔細を変えつつもこの時代を通して使われた上に欠陥はそのままという状態だったが、これを変えるために隋で「中正官」の代わりに「科挙」が置かれたことでようやく問題解決の糸口が見えてくることとなる。

この時代に興亡した国たち

晋とその系譜

西晋(265~316)
東晋(317~403、404~420)
楚(403~404)
宋(南朝、420~479)

一般に十六国とされる国

前涼(301(または314)~376)…漢人
前趙(304~329)…匈奴
成漢(304~347)…氐(巴賨)
後趙(319~351)…羯
前燕(337~370)…鮮卑
前秦(351~394)…氐
後燕(384~407(または409))…鮮卑
後秦(384~417)…羌
西秦(385~400、409~431)…鮮卑
後涼(389~403)…氐
南涼(397~414)…鮮卑
北涼(397~439)…匈奴?(廬水胡)
南燕(398~410)…鮮卑
西涼(400~421)…漢人
夏(407~431)…匈奴
北燕(407(または409)~436)…漢人

十六国以外の各国

前仇池(296~371)、後仇池(385~442)…氐
代(315~376)、北魏(386~534)…鮮卑
冉魏(350~352)…漢人
西燕(384~394)…鮮卑
翟魏(388~382)…丁零(テュルク系)
後蜀(405~413)…漢人




追記・修正は禅譲を受けた後に一族を皆殺しにしてからお願いします。

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最終更新:2024年06月15日 19:16

*1 漢景帝に息子を些細な事で殺されたりしていたため、これを恨みに思っていた

*2 なお、呉と蜀はこれに乗じようとする動きもあったが、もはやどうにもならなかった…

*3 もっとも、その困ったちゃんぶりは時節柄必要以上に悪く書かれている可能性があること、晋書自体ゴシップを取り上げすぎだと批判されている書物であることには注意する必要はある。

*4 元々跡継ぎを兄弟のどちらにするといった話があり仲が良くなかったとも言う。下記の賈充が司馬攸の庇護者であり、彼の死によって歯止めが利かなくなったかもしれない

*5 武帝もこのことを知っていたため司馬攸を後継、もしくは補佐につけることも考えていたとされる。それが実現していれば色々変わっていたかもしれない

*6 魏の名軍師賈詡の一族ではなく、高貴郷侯曹髦を殺害させた賈充の一族である。なお賈充自身は晋建国の功臣である

*7 司馬懿の三男。清廉ではあったが政治的能力はなく、抵抗をしないでいるうちに殺された。

*8 武帝の六男。能力や人気はあったがやたらと短気で厳格すぎたと言われる。

*9 武帝の十一男。なお彼は八王ではない。

*10 司馬懿の九男。地位にあるまじきことに書物が読めなかった。

*11 司馬昭が武帝より後継者に考えていた武帝の弟・司馬攸の息子。最初は慈悲深く有能だったが、政権をとると贅沢三昧皇帝無視のやりたい放題となった。

*12 恵帝の弟。これまた書籍を読まなかったと伝えられるが、妙に人望はあったようで放逐後も旧主復権を掲げて臣下が挙兵したりしている

*13 司馬懿の弟・司馬孚の孫に当たる。人望や能力はあったようで血統的にはハズレながら高官にあった。

*14 恵帝の弟。他の八王は後世ボロカスに非難されているが、彼だけは知勇兼備で忠誠心もあったと高評価されている。

*15 この戦いで敗れたことで、司馬穎に仕えていた陸遜の孫・陸抗の子である陸機が殺されている。

*16 なおこの戦いでは無能で有名な恵帝まで出陣して活躍していた。恵帝は身を守るため暗愚を装っていたに過ぎず、その中で司馬乂だけは本気で信用していたのではないかという説もある。

*17 司馬懿の四弟、司馬馗の孫。彼が生きている間晋は持ちこたえており能力はあったようだが、過度に自身に権力を集中させようとして皇帝などから反発を買い孤立してしまった。

*18 このとき成都では李雄が成漢を晋から独立させており、司馬穎は封地まで失った状態にあった。

*19 なおこのとき、司馬顒は部下の名将張方の首を手土産にするという「ウチの軍団弱くなりました」と示すに等しい愚策をやっている。

*20 三国志演義の元ネタである三国志平話や、羅貫中が演義からカットした部分には、彼が劉備の子孫であり漢を名乗ったのは正統性があるような話が書かれている……が、苗字が同じだから繋げられただけで、蔡文姫を攫って妾にした匈奴左賢王劉豹の子である。ただ、劉豹は251年生まれの劉淵が生まれた時にはかなり高齢になる。一応前漢の時代に漢王室の娘が匈奴の単于に嫁に行っているので全く無関係ではないが、あまりにも遠すぎる

*21 司馬熾。武帝の25人の子の一人。乱終結時まだ23歳だったが、名前の分かっている武帝の子は八王の乱終結時点で彼と司馬晏しか生き残っていなかった。権力を自ら行使しようとしたが、結果として大黒柱である司馬越と対立し、かえって晋を弱めてしまった。無能な分周囲の邪魔はしなかった恵帝とどちらがマシやら…

*22 下っ端役として皿洗いや酌をさせられたり、日傘持ち係をやらされたという

*23 司馬鄴。八王の乱を生き延びた武帝の子・司馬晏の子。死亡時18歳で、もはや彼がどうにかできる状況ではなく、攻められる以前から食料もなく窮乏する状態だった。

*24 公式には司馬懿の四男で呉征伐時には孫晧の降伏を直接受けた司馬伷の孫。なお、牛金の子孫説があるが北朝系の歴史書の言いがかりの記述っぽい

*25 羯族独自の風習なのか単に母数が少ないからなのか、異民族の子をよく養子に迎えていた

*26 ちなみに、異民族っぽい顔しているからということで殺された漢族も多数いたという。ヒゲがないから宦官と言われて殺されたという話が三国志序盤にありましたね…

*27 袁紹の根拠地であった場所

*28 東羌の流民であった李特の子李雄が益州刺史を打ち倒して永嘉の乱の前年に打ち立てた政権。だが李雄が死んでいつもの後継者争いをやっていた

*29 ざっくり言うと呉の都・建業のある地域

*30 桓温とは竹馬の友だったとか

*31 前燕から下った慕容垂は賛成して焚き付けていたという

*32 呉の都建業。避諱のためにこの時期は建康に改名していた

*33 一応安定政権にはなっていたので、滅亡したのは五胡十六国時代の次の南北朝時代の話であるが

*34 例えば三国志で有名な献帝は禅譲後に山陽公に封じられ、皇帝の身分は失っても皇帝だけが使える「朕」という一人称を使え、「臣」と名乗る必要もない、戸数も曹彰と同格・曹仁の三倍などかなり厚遇されている。

*35 一応直接禅譲に関わった曹奐(魏元帝)は陳留王に封じられて天寿を全うしているのだが、その前の曹髦(高貴郷公)がクーデターを起こそうとした際に殺させている

*36 こちらはこちらで、「結果」の時期に生前の功績が記された石碑が有名な好太王が在位している。傑物はこんなところにもいたようだ。

*37 日本の方でも内乱が多々あったような物証が残っている

*38 いわゆる「空白の4世紀」と言われる時期である

*39 ちなみに、なぜ匈奴が劉姓を名乗るかと言えば、前漢の武帝以前の宥和政策で公主を送り込んだりして姻戚関係があったから