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テリー・ゴディ

登録日:2026/04/14 Tue 01:52:04
更新日:2026/08/09 Sun 16:12:42
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テリー・ゴディ(Terry "Bam Bam" Gordy/本名:Terry Ray Gordy)米国のプロレスラー。故人。(1961年4月23日〜2001年7月16日(享年:40歳))
テネシー州ハミルトン郡チャタヌガ出身。
日本(全日本プロレス)では“人間魚雷”のニックネームで親しまれた。
尚、日本ではリングネームとしても親しまれたファミリーネームを基本的に“ゴディ”と発音されていたが、本来の発音では“ゴーディ”の方が正確であった。


【人物】

プロレスラーになるために生まれて来たかのような選手であり、生まれつきに体格と身体能力に恵まれていたらしい。
10代前半にして成長のピークを迎えていたらしく、何とスーパーヘビー級の大型選手が少なくない米国にも拘わらず年齢を誤魔化して1975年に14歳にしてプロデビューを果たしている。
尚、全盛期のゴディのサイズは195cm/140kgにも及ぶのだが、まだ成長の余地を残していたてしても、それに近いサイズまでこの時点で達していたとすると……ヒェェ。

何れにしても、年齢を誤魔化していたことも不問に付されたのか10代から“テリー・メッカ”を名乗って地元テネシーのテリトリーでプロレスラーとして活動を開始。
そして、78年に2歳年上のマイケル・ヘイズ*1と出会ったことがゴディの運命を大きく花開かせることになる。
ヘイズとのコンビ結成を機にリングネームを本名の“テリー・ゴディ”に改めると若き2人によるヒール(悪役)ユニットとして“ファビュラス・フリーバーズ”を結成。
このタッグ名は2人が共にファンだったロックバンド“レーナード・スキナード”の代表曲“フリーバード”(“自由な鳥”になりたいと願う男の夢をメロウに歌う人気のナンバー)に由来し、2人は実際に入場時にテーマ曲としても使用した。
ちなみに、これがプロレスに於ける“入場曲”の流行りの始まりであったという説もある。

何れにせよ、若いながらも才気に溢れまくる2人の活躍は直ぐにテネシー以外の地域にも伝わることになり、2人は通称で“鉄の爪王国”とも呼ばれていた大テリトリーである、テキサス州ダラスのフリッツ・フォン・エリックが主宰していたWCCWに迎え入れられることになる。
当地で、更に仕事人タイプのベテランのバディ・ロバーツを加えて3人組となった“フリーバーズ”は、何とWCCWの看板であったエリックの実の息子達であるケビン、デビッド、ケリーのエリック兄弟のライバルという破格の扱いを受けることとなり、ロバーツを除いては全員が20代の若者達によるフレッシュで激しい抗争は凄まじい人気を呼んだ。

その後、ヘイズと仲間割れしていた時期に新パートナーとしてジミー・スヌーカと新タッグを結成。
ヘイズもテッド・デビアスやトミー・リッチをパートナーにして抗争をした時期もあったが、後に仲直りして“フリーバーズ”も復活させている。

そして、もう一つの主戦場となった全日本プロレスには1983年に初来日。
当時はまだ22歳であったにも拘わらず、既に貫禄十分の10年選手であり、ここでタッグを組んだハンセンのサポートを受けつつ、いきなり次期エース候補によるコンビであるジャンボ鶴田・天龍源一郎組と対戦。
挙げ句には、過去にルー・テーズ道場に世話になった時に身に着けていた必殺技のパワーボムを初披露して天龍を仕留め凄まじいインパクトを残すと共に常連外国人としての地位を確約させた。

全日本プロレスには相棒のヘイズも招いて“フリーバーズ”としても参戦するも、結局は日本にはゴディのみが定着して度々に参戦するよつになる。*2
本国の方では変わらずに“フリーバーズ”としてニューヨークのWWFに参戦するも、フロントの押し付けによるバラ売り路線を嫌って早々に離脱。
古巣のWCCWに戻り主戦場としつつも初登場するテリトリーを増やすなどしていたものの、この頃から新たにWWFのオーナーとなったビンス・マクマホンJr.(ビンス・マクマホン)が従来のテリトリー型のプロレスビジネスをTV中継主体の新しいプロレスビジネスの方法によって破壊して大きく米国での活動方法が変わる中で“フリーバーズ”を解散させてヘイズとは別の道を歩くことになる。

こうして、本国での活動を一区切りにしたゴディは、88年より全日本プロレスを主戦場にすることになる。
先ずは、外国人トップのハンセンのパートナーを務めていたものの程なくして独り立ち。
90年から新パートナーとしたのが本国では抗争もしていたことから実力を知っていたアマレス出身の強豪スティーブ・ウイリアムスであり、とにかくパワフルな2人のコンビは日本での互いのニックネームを組み合わせた“殺人魚雷コンビ”と称され、世界最強タッグリーグ戦を連覇してタッグベルトも奪うなど凄まじい暴れっぷりを見せた。
また、シングル戦線でも活躍し、90年6月には初代王者の鶴田を一瞬のD.D.T.で破り、ハンセンよりも早くに三冠ヘビー級王座(第4代)を獲得している。
そして、このすぐ後の時期からは天龍が移籍によりSWSへと去ったのに伴い、三沢光晴と川田利明らを中心とした、いわゆる“超世代軍”が台頭。
更に後には鶴田が肝炎で倒れるのに伴い田上明と小橋建太もトップ入りを果たし、この四名を中心とした四天王プロレスが花開いてくる時期であったのだが、ゴディはハンセンと共に彼等の高い壁として尚も立ち塞がった。

この勢いのまま、92年にはゴディはウィリアムスと共に本国にて元NWA勢力が集まっていたWCWに参戦。
スタイナーブラザーズや、その他のトップ選手とも渡り合い、本国でも“殺人魚雷コンビ”の強さを見せつけた。*3

……しかし、まだまだ年齢的には若い筈のゴディだったが、この頃から20代後半の若さだったにも拘わらず、長年のレスラー生活の中で習慣化していた過度な飲酒と暴飲暴食による疾患が表面化してきており、急速にパフォーマンスに衰えが見え始めていた。
何しろ、水分補給と称して水代わりに(※逆に脱水症状を引き起こしてしまう危険行為である。)アルコール(お気に入りはジャックダニエルのジンジャーエール割りだったのだとか。)を飲むような生活ぶりだったのが祟り、93年に全日参戦時に飲みに行っている途中で心疾患で倒れて救急搬送される事態を引き起こしてしまうのだった。

そうして、この事を切欠とするようにいよいよとリング上での動きでも精彩を欠いていき、更には後にハンセンやレフェリーであった和田京平が自著にて明かしている所によれば素行不良によるトラブルまでも起こすようになっていたとのことで解雇を宣告されていたのだという。
こうして、一度は頂点を極めた若き天才の全日本プロレスでの活動は唐突に終わりを告げたのだった。*4

……この後は、数年のブランクがあったものの一応は回復したのか95年より日本のIWAジャパンに参戦したのを皮切りに復活。
常連外国人でデスマッチのカリスマとして俄に日本のファンを唸らせていたカクタス・ジャック(ミック・フォーリー)と画鋲マッチで対戦している。
本国でもマイナー団体のSMWに参戦。
実は師匠格に当たる大ベテランのモンゴリアン・ストンパーや有名選手のブラッド・アームストロングと対戦して勝利、タイトルも獲得している。

そして、96〜97年には何とポール・ベアラーをマネージャーに怪奇派マスクマンのジ・エクスキューショナーに変身してWWFに登場。
一時期はジ・アンダーテイカーとも抗争していた。

98年にはWARに招聘され、天龍源一郎と久々に再会。シングルマッチも実現した。
……しかし、いよいよ心臓疾患が悪化したことで99年からはセミリタイア状態に。
それでも、何とか現役続行をしたいという意思は持っていたらしく01年2月にもIWAジャパンに参戦。
プロレスリングNOAHを立ち上げていた三沢光晴と旧交を温める姿が報じられたりしていたものの、何かしらの予感めいたものだったのか同年7月に心臓麻痺により逝去したことが報じられた。

2016年に“ファビュラス・フリーバーズ”としてWWE殿堂入り。*5

【得意技】

巨漢ながらパワーばかりか圧倒的なスピードをも併せ持つ怪物級の選手の一人であった。

  • パワーボム
(実際にはゴディ以前にも似た技の使い手は居たものの)元祖の使い手として知られている。
少なくとも同型の技を“パワーボム”と称して広めたのはゴディで間違いない所である。
ゴディが若い頃に世話になったルー・テーズ道場にて、テーズが得意としていた元祖パイルドライバー(リバース・スラム/ハイアングル・バックスラム)を元にアレンジを加えて開発した技であり、相手をがぶりの体勢から逆さまに持ち上げた後に脳天からではなく、勢いをつけることで後頭部から背面にかけてを押しつぶすように叩きつけていく形にした技である。
……尤も、ゴディ自身も初公開した最初の全日本プロレスへの参戦時には試行錯誤している次期だったのか短期間で技の形が変遷しており、初期には膝つき型のパイルドライバーの落とす形を少し変えたものと呼んでも差し支えない位のコンパクトな技だったのが、同時期よりこの技を自らのレパートリーに加えると共にゴディとは別の個性を出すべく模索していた天龍の影響を受けたのか、ゴディも相手を持ち上げる時点で振り子のように勢いを付け、かなり上方から背中から叩きつけていくという現在のパワーボムに近いフォームを完成させた。
ちなみに、体格的なアドバンテージがあったからだが、ゴディのパワーボムは落とした後に一呼吸も置かずにフォールの形に入ることが可能で、また落とす際には初期には両膝、後には片膝をついて落とすことが多かった。

  • ラリアット/魚雷ラリアット
巨体を活かしたラリアットも得意技の一つで、フィニッシュとしても使用された。
特に、相手をコーナーに追い詰めてラリアットを打ち込む一撃(いわゆる“串刺しラリアット”)はゴディが元祖で、ゴディのものは特に“魚雷ラリアット”と呼ばれて恐れられた。
因みに、他の選手だと繋ぎとして使われることの多い技だが、ゴディの場合は往復して打ち込んだ後で強引にマットに寝かせてからフォールに行くことも多かった。
勿論、普通のラリアットも強烈で元祖のハンセンからもフォールを奪ったこともある。(苦しめた後で一発で逆転負けしたこともあるが。)
因みに、米マットに限れば(つまり、ハンセンを除外した)歴代No.1のラリアットの使い手とも言われるジョン・ブラッドショー・レイフィールド(レ神)の“クローズライン・フロム・ヘル”は、確かにハンセンへのリスペクトから使い始めた技だが、打ち方のスタイルそのものはゴディのラリアットを参考にした技である。

  • D.D.T.
この技が流行し始めた頃の名手の一人。
長身だけに見事に決まるのが特徴で、前述の通りに初の三冠王座獲得の際にも鶴田からフォールを奪ったのは何気ないタイミングで放たれたこの技であった。*6

  • バックドロップ
テーズ道場上がりとあってか、一応はテーズ式なのだが反りの角度が付けられないためか必殺技とはされていない。

  • STF
新日本プロレスにて、同じくテーズ道場上がりの蝶野正洋がこの技で頭角を現し始めた頃より、それに
触発されたのか自らもレパートリーに取り入れるようになった。勿論、この技の元祖もテーズである。

【余談】

親族にプロレスラーが多いことでも有名。
甥のリチャード・スリンガーを皮切りに、息子のレイ・ゴディ、娘のミランダ・ゴディもプロレスの道に進んでいる。
しかし、何れもレスラーとしては普通か小柄で、ゴディのファイトスタイルまでは引き継いでいない。
更に、現在全日本プロレスに参戦しているサイラスも遠縁の親戚。
体格的には最もゴディに近いが、独自のスタイルである。



追記修正はパワーボムで抑え込んでからお願い致します。



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最終更新:2026年08月09日 16:12

*1 ストーンコールド・スティーブ・オースチンにスタナーを使わせる切欠を与えたとも言われる名レスラー。

*2 もっともヘイズもUN王座を戴冠するなど全く活躍しなかったわけではない

*3 ちなみに、90年代当時のWCWは新日本プロレスと提携を結んでおりトップ中のトップであるリック・フレアーやスティングも普通に来日していた程に良好でイーブンな関係にあったが、ゴディとウィリアムスのみは全日本プロレス(馬場)への配慮から新日への参戦はしなかった。

*4 後に、アルコールの他にも日常的に鎮痛剤やステロイド剤を使用していたことやアルコールと薬物の影響から人事不省に陥ったり、来日の為の飛行機の機内で意識を消失した後にそのまま救急搬送されていた……等の追加情報が明かされている。

*5 この時はヘイズ、ゴディ、ロバーツの他、WCWでヘイズが独自でフリーバーズを再編した時のメンバーであるジム・ガービンも選出されている。

*6 余りに惚けない幕切れだったので、勝つ予定ではなかったのに唐突なD.D.T.に鶴田が対応できずにフォールを取られてしまったのでは?との疑惑もあるそうな。