斎藤伝鬼房(剣豪)

登録日:2010/01/22 Fri 00:27:47
更新日:2025/05/14 Wed 02:56:35
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1550年生~1587年没

別名、斎藤勝秀。



常陸国真壁郡新井手村(現茨城県筑西市明野)に生まれ、幼少期から塚原卜伝の直弟子として剣術を学び、頭角を顕す。

後に北条家に仕えていた父に倣い、北条家へ近習として仕える。

1581年、伝鬼は鶴岡八幡宮で参拝していた所、一人の修験者と出会う。
その修験者と意気投合した伝鬼は、互いの武術について談義や仕合をして一夜を明かした。

昼になり、伝鬼が修験者の流派を問うと太陽を指さして立ち去ってしまった。

これに悟りを得た伝鬼は、彼から得た剣技と自らの剣術を足して『天流』を興す。

自らの剣術がいかほどの物か試してみたかった伝鬼は、早速北条家へ暇請い(休みを貰う事)し、京の都へ出立。

すると、伝鬼の剣術は京でたちまち評判を呼んだ。

そしてその噂を聞いた朝廷にお呼ばれされ、天皇の御前で『三礼の太刀』を披露、判官の叔任を得る。
のち故郷へ帰ると、京での活躍を聞いた関東の名士が、こぞって弟子入りを希望した。

…だが、その噂は手合わせを所望する剣士をも増やす事となってしまった。

ある日、神道流を極め霞流を創始した桜井霞之助が仕合を申し込んできた。

伝鬼と霞之助の決闘は凄まじい打ち合いとなり、結果、伝鬼が勝利した。

…しかし霞之助の弟子達は伝鬼を恨み、ひそかに仇討ちを計画する。

1587年、道端を歩く伝鬼を霞之助の弟子・数十名が襲撃。

伝鬼は堂に隠れたが、四方八方から矢を射られ、たまらず堂を出た所で体中に矢が刺さった。

だがそんな状態なのにもかかわらず奮戦。数名を道連れにして、ようやく息絶えた。
享年38歳。


【天流】
『三礼の太刀』の名が表す通り、礼儀や技の美しさを大事にする剣術である。

しかしながら、それぞれの技は非常に洗練され、理に適ったもの。

特に体捌きは新当流のそれとは違い、『相手の体を中心に周りつつ変化する』といったものが基本となっており、【静】より【動】に重点が置かれている。


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最終更新:2025年05月14日 02:56