ハワード・フィリップス・ラヴクラフト

登録日: 2012/04/24(火) 23:31:09
更新日:2025/04/19 Sat 16:43:35
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Howard.Phillips.Lovecraft
1890-1937

アメリカの小説家。詩人。
クトゥルフ神話の元祖たる人物。
彼の作品に詳しい人々からは『御大』『HPL』などと呼ばれる。


プロフィール

生年月日:1890年8月20日
出身: アメリカ合衆国ロードアイランド州
星座:しし座


概要

巡回セールスマンの父ウィンフィールドと上流階級出身の母セーラの間に生まれた英国系アメリカ人。
八歳で父を亡くし、過保護すぎる母や彼を溺愛する伯母たちと共にマサチューセッツ州で幼少期を過ごす。


多感で本好きな少年だったラヴクラフトは文字を覚えるのも早く、五歳のころには『千夜一夜物語』を気に入り、
後に『狂えるアラブ人』として知られることとなる“アブドゥル・アルハザード”の仮名を考案。
15歳の頃に現存する最古の小説『洞窟に潜むもの』を執筆。それから数年執筆を続けるものの、08年から17年の九年にわたる期間は創作から離れていた。


27歳、ロードアイランド州プロヴィデンス、エインジェル街598番にて再び創作を開始。

初期のラヴクラフトはエドガー・アラン・ポオを崇拝し、ポウの流儀に則ったホラー・スリラー系の短編を輩出した。
後のクトゥルー系作品群を暗示させる『ダゴン』を執筆したのもこの時期である。

その後、史上最大の幻想作家と呼ばれるエドワード・ジョン・モアトン・ドラックス・プランケット男爵、通称“ダンセイニ卿”の作品と邂逅。
卿の講演を見たことも相俟って、『ダンセイニ風』と呼ばれる作品群を執筆。

そのほとんどはクトゥルーと直接関わり合いがないものの、後に重要な役割を果たす単語が無数に散りばめられている。
(ランドルフ・カーター、アーカム、ナイアルラトホテップなど)

32歳の頃に現在最初のクトゥルー神話作品とされる『無名都市』を執筆。
次いで氏の初めての稿料を支払われた作品『魔犬』『魔宴』を、月刊誌にて六話構成の『死体蘇生者ハーバード・ウェスト』を輩出。
こうしてプロ作家としての道を進みだしたのである。


最初は乗り気でなかったラヴクラフトだが、後に生涯最高の友人となるクラーク・アシュトン・スミスに刺激され、過去の作品を出版社に送り付けた。
そのうちの一つ、当時創刊したばかりだったパルプ誌『ウィアード・テイルズ』の編集長エドウィン・バードに見出され、
後に一蓮托生となる雑誌でラヴクラフト作品が掲載された。


その後ニューヨークに移住し、24年にソニア・グリーンと結婚。
ユダヤ人を「雑種の群れ」と蔑み北欧人に心酔する彼が、ウクライナ出身のユダヤ人と結婚したという知らせは知人たちを大いに驚かせた。

その頃、ウィアード・テイルズの出版人であるヘネバーガー氏から同誌の編集長にならないかという誘いがあった。
ラヴクラフトの鑑識眼や作家を刺激する天賦の才を見抜いていたのである。

しかし、条件であるシカゴへの移住に対し、ラヴクラフトは尻ごみしてしまった。
自身を年配の紳士と夢想し、植民地時代の雰囲気に傾倒するHPLはそれだけの理由で名誉ある職を蹴ってしまったのである。


夫人の事業の失敗もあり、夫婦仲は徐々に冷え込んでいった。ただ、後年ロバート・ブロックにソニアが語ったところによれば、夜の生活は問題なかったらしく、おそらく心理的なものが関係していたと思われる。
最終的にラヴクラフトは過保護な伯母たちのいるプロヴィデンスに戻り、「甥の妻にプロヴィデンスで働いて欲しくない」という伯母らの主張から別居。
数年後に離婚したものの、決して険悪ではなくむしろ穏やかでさえあったという。その後も二人は文通を続けた。


その後『未知なるカダスを夢に求めて』を執筆。
この作品は後のクトゥルーに見られる単語が多く見られるが、神話作品としては見なされていない。

そして彼の最も有名な作品の一つが掲載された。『クトゥルフの呼び声』である。
現実と空想の交錯するこの作品によって、氏はウィアード・テイルズの読者に怪奇文学の新時代の象徴として迎えられた。


この時点の彼の作風は、リン・カーターによるとクトゥルー神話系に属するものとダンセイニ風の幻夢境物語系に二分される。


さてその後ウィアード・テイルズには新しくファーンズワース・ライト氏が編集長に就いた。
彼はラヴクラフトに対しかなり注文の多い編集で、嫌気のさしたラヴクラフトは友人たちの手直しに従事し雀の涙ほどの賃金で生活していた。

この頃から彼は多くのペンフレンドとの文通に没頭した。その相手は最終的に50人とも100人とも言われている。
その中で若手の作家たちを励まし、時に手直しを加え、また時に彼らの作品で生まれた造語を自身の作品にも取り込んでいった。

それら文通を見るとわかるが、ラヴクラフトたちは冗談や楽屋落ちの類を好んだ。
登場人物に「ラヴェ=ケラフ」「クラーカシュ=トン」などの名前を与えたのがそれである。
(それぞれラヴクラフト、クラーク・アシュトンのもじり)


それからしばらくして、急にライト編集長の態度が軟化しだした頃に書かれたのが『ダニッチの怪』である。
その後例のごとく不作の期間を経て、傑作のひとつ『闇に囁くもの』が執筆された。


それから作品は初志であった短編の域を越えて長くなり、それが原因で編集部と対立。
『インスマウスの影』『狂気の山脈にて』などが書かれたが、
後者は一度拒否され、絶賛した友人を介しSF誌『アスタウンディング・ストーリーズ』に掲載された。
しかしラヴクラフトは交渉代理人に二度と頼もうとはしなかった。


それから幾つかの傑作を出し、文通仲間と愉快なやり取りを繰り返し、1937年3月15日、ブライト病にて逝去。
46歳という若さで稀代の怪奇作家はこの世を去った。





さて、ここまで御大の生涯を綴ったが、彼は作家として人として大きな欠点を複数抱えていた。

一つに、非常に気分屋で言うことが二転三転すること。
作品を出した数日後に書簡にて「なぜ愚鈍な大衆のために夢想を文章化せねばならないのか」と言い出したかと思えば、
さらにその数日後には作品を提出する、といった有様である。

その言葉からも読み取れるが、非常にタイプ嫌いでもあった。作家なのに、である。


二つに、恐ろしいほど北欧至上主義であり、古臭いイギリス英語を愛用していた。
逆に英語も話せぬ外国人やアジア人、とりわけユダヤ人を病的なまでに嫌悪していた。
ここでヒトラーとの類似性を語る者もいるが、むしろラヴクラフトはヒトラーを嫌っていたという。
しかし、ムッソリーニには心酔していたと書簡で語っている。
それと同じくらいに海産物も嫌っており、クトゥルーの邪神たちの造形に一役かっている。


そして、これが最悪の欠点と言われているが、非常に高慢ちきな性格であったとされている。
赤貧生活を送っていたにもかかわらず、彼はその作家としての才能を無駄に転がしていた。

「創作とは紳士の余興であり、それで生活しようなどとんでもない」という思想が氏の中にあったのだ。

そのアマチュア根性は、彼が一度返された原稿を失敗作とみなしたこと、ウィアード・テイルズ以外の商業的な出版元をあまり探さなかったことなどから見て取れる。
実際には『アメージング・ストーリーズ』などの他誌にも『宇宙からの色』などといった作品を持ち込んではいたのだが、安く買い叩かれて(なんと当時の相場の1/5!)投稿する意欲をなくしたという。
それゆえ、オーガスト・ダーレスら有志によって彼の作品が発掘されなければ、彼の作品は永遠に失われていたと言われている。

もっともこうした性質については、過保護すぎた母や伯母の影響、病気がちで低温アレルギーだった体質、ある種の脳障害、神経質で多感、
孤独な幼少期などに由来すると考えられている。



最初彼個人の墓標はなかったが、後にファンが資金を集め設置。
現在でもそこに御大の作品から引用した詩を書き込んでいくファンは多い。



……さて。




That is not dead which can eternal lie,
And with strange aeons even death may die.

其は永久に横たわる死者にあらねど
計り知れざる永劫のもとに死を超ゆるもの

訳:大瀧啓裕

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