小倉百人一首

登録日:2017/04/04 Tue 23:54:06
更新日:2022/11/06 Sun 14:43:22
所要時間:約 10 分で読めます




百人一首とは、100人分の和歌を1人1首ずつ選んだもの。
その中で最も有名で、多くの人が百人一首と聞いて思い出すのが、本項目で扱う小倉百人一首である。

13世紀前半(鎌倉時代)、歌人として名高い藤原定家が選んだものとされる。定家自身の和歌も入っている。
小倉山(京都市内の山)の別荘で定家が選んだと伝わるため、 この名がある。

飛鳥時代から定家自身に至るまで、およそ600年の広い時代枠から取られている。
和歌の内容も季節や恋を中心に、多種多様である。
100首いずれの和歌も、古今和歌集、新古今和歌集と言った天皇の命で作られた勅撰和歌集から採用されている。



実は、百人一首の和歌としての評価は実は歌によってピンキリである。
歌人から見れば
「この人は確かに高名な歌人だけど、選ぶのこれなの? もっといい作品あるのに…」
「この人の和歌ってそんなに評価高いかなぁ?」
と言うような和歌も結構ある。

それでも、百人一首に選ばれている時点で知名度は十分あるので、百人一首を足掛かりに和歌に関心を持つのも悪くない。
また、それぞれの和歌には詠まれたエピソードがあるものも少なくない上、31文字に収まっているため古文の普通の文章と比べれば暗記もしやすい。
31字の制約の中で様々な表現がされている和歌を学ぶことは、句切れ・枕詞・序詞・掛詞・縁語・本歌取りなどといった古文の様々な技法を学ぶとっかかりにもなる。
学校で覚えさせられた人も少なくないだろう。

また、詠み人には歴史の授業で必ず触れる人物も多数いる。

単なる和歌として読むのではなく、
「あの人にこんな和歌を詠む一面があったのか」「あの事件を起こしたあの人の心情なのかも」という意味での新たな発見も少なくないはずである。

なお、小倉百人一首以外にも、百人一首は多々ある。現代でも百人一首が選ばれていたりするので、興味があったら調べてみよう。
百人一首を使ったかるた遊びについては、競技かるたの項目があるのでそちらへ。
坊主めくり?しらん。


有名な和歌


独断と偏見で選ばせていただいた。
全ての歌が並ぶのも本末転倒なので、追加は慎重にお願いします。




1.天智天皇

秋の田の かりほの庵の とまをあらみ わが衣手は 露にぬれつつ


秋の田んぼの側に建ててある小屋の網目が荒いので、衣がぬれちゃった、という和歌。
学校で百人一首を一部でも覚えさせられた人たちが、とりあえず一番なので覚えた、と言う例が多いと思われる。
詠んだのも大化の改新の立役者として歴史の教科書で有名な天智天皇(中大兄皇子)であり、その意味でも知名度が高い。

が、実際は農民や下級役人などが作った「詠み人知らず」の和歌を天智天皇が詠んだことになってしまい、
それが勅撰和歌集に収録され、さらにそこから百人一首に載ってしまったのではないか、と言われている。
実際、よく似た歌も「詠み人知らず」で見つかっている。
天智天皇がわざわざ農家の小屋に入ること自体考え辛い。

かつてはコピーなどあるはずもなく、全てを手書きで書き写すしかないため、書き間違いが普通に起こる。
書き写しにあたって書き写した者が自作を「詠み人知らず」や「有名人の和歌」扱いで勝手に書き込んだら、いつの間にか新たな歌が入ってしまうことすらある。

とはいえ、天智天皇は当時から重要な天皇であったとみなされており、
そんな天皇がこういうふうに農作業の事を分かってくれたらいいな、という願望もあったのかもしれない。





7.阿倍仲麻呂

天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも


月を見て、かつて自分が三笠山(奈良県)で見た月と同じであることを懐かしんだ和歌。
百首の中でただ一首、日本国外(唐)で詠まれた。

仲麻呂は遣唐使として唐に赴いたところ唐で官吏となり出世した人物であり、百人一首に関係なく歴史の授業で聞いたことのある人もいるだろう。
唐から日本に帰る予定が立ったころに詠まれた和歌とされている。
しかし、仲麻呂は帰国する際に嵐にあって日本に帰ることができず、唐でその生涯を終えることになってしまった。
そのことを知っていると切ない歌でもある。
日本に帰ってきていない彼の歌が伝わっている不自然さから、一部では創作説もささやかれているが……




8.喜撰法師

わが庵は 都の辰巳 しかぞ住む 世をうぢ山と 人はいふなり


自分が住んでるところは宇治(京都の宇治市)の山中なのですが、私は世を鬱陶しいと思っているから憂じと噂されてますという和歌。
百人一首でも奈良時代や平安初期あたりの人物は官位どころか素性もよく分からない謎の人物も少なくない。
その中でも最高クラスの謎度をもつのがこの喜撰法師。
六歌仙の一人とされながら、何をやっていた人物かよく分からず、残っている和歌はこれともう一首だけ。
仙人になったという伝説があったり、実在すらしていないとも、何者かのペンネームだとも言われている。

時は下って江戸時代の黒船来航時。

太平の眠りをさます上喜撰たった四はいで夜も寝られず

という狂歌が流行った。
上喜撰とは極上のお茶の意味だが、お茶を「喜撰」というのは、宇治茶とこの喜撰法師を掛け合わせたものである。





9.小野小町

花の色は うつりにけりな いたずらに わが身世に降る ながめせしまに


長雨を眺めている間に、美しい花の色と同時に、私自身も年老いて色あせてしまった・・・という和歌。
百人一首は女流歌人の和歌も21首収録されているが、その中でも特に有名な和歌である。

小町は六歌仙の一人で情熱的な恋の和歌の多い人物であり、この和歌は小町のそういった路線からはむしろ外れている。
とはいえ、季節と恋を繊細に詠っていて女性からの人気は高い。技巧もあるので古文学習の意味でもうってつけ。

小野小町と言えば世界三美人の一人と日本でだけ挙げられながら、その生涯にも謎の多い女性である。
年を取ってから乞食のように暮らしたとか、求婚を断りまくったため女性のあそこが先天的になかったという伝説もある。
定家の時代(小町の活躍した時代からおよそ350年程度が経っている)にはすでにそのような謎の美女歌人としての小町は確立していたようである。
実在がはっきりしている在原業平や僧正遍昭と和歌のやり取りをしており、どうやら実在はしていたようなのだが……。




13.僧正遍昭

天つ風 雲の通ひ路 吹き閉ぢよ をとめの姿 しばしとどめむ


天を吹く風(天つ風)に、天女たち(実際には宮中で舞う女性たち)を返さないために道をふさいではもらえないかと歌った和歌。
こちらも六歌仙の一人とされる僧正遍昭の代表作であり、百人一首に限らず和歌全体の中でもかなり知名度の高い和歌である。
朝廷に仕えた坊さんなのにそんな歌でいいのか、と思われるかもしれないが、どうやら出家前の歌だったようである。

アニヲタ諸氏に有名な天つ風と言えば、陽炎型駆逐艦の天津風、そしてそれを擬人化した艦娘天津風であろう。そういえば中の人も小倉でしたね

名前に「風」のつく艦が多数いる中で、髪を吹き流しにし、
台詞の端々に「風」がちりばめられた「風属性」が天津風に与えられたのは、この和歌に由来があると思われる。
駆逐艦の天津風も、天界への道を何者かが塞いでいるかのように何度も大破しながら生き残り続けた。
だが、太平洋戦争の暴風にはついに抗しきれず、終戦の四か月前に自沈。水底ならぬ雲の彼方へと帰っていったのだった。

また、東方星蓮船の2面BGM「閉ざせし雲の通い路」はこの和歌からとられている。空を行く船を追い雲海を進む背景に合った、浮遊感に満ちた曲である。



17.在原業平朝臣

千早ぶる 神代もきかず龍田川 からくれなゐに水くくるとは



こんなに龍田川が紅葉で真っ赤になるなんて神の時代の伝説でさえも聞いたことがない…という、龍田川の紅葉を詠んだ和歌。
またまた六歌仙の在原業平。在原業平と言えばこの和歌、と言うくらいに知られている。
紅葉と龍田川を詠んだ百人一首は他にも能因法師の和歌があるが、それでも龍田川の和歌といえばやはり業平だろう。

江戸時代には、古典落語として「千早振る」が成立した。
項目があるので落語の詳細はそちらを参照してもらうことにするが、この落語、和歌の本来の意味を知らないと何が面白いのか今一つよく分からない。
寺子屋が普及していたため江戸の町民の知的レベルは世界的にも高かったとされるが、彼らの間で笑い話として成立するほど有名な和歌であると言える*1
現代でも結構メジャーな落語なので、「百人一首は知らなくてもこの和歌(落語の中で言っていたため)は知っている」という人も多いかもしれない。

競技かるたの漫画作品もこの歌にちなんで「ちはやふる」と名付けられた。
また、2017年4月公開の名探偵コナンの新作映画「名探偵コナン から紅の恋歌」の題材もこの和歌である。




40.平兼盛

しのぶれど 色に出でにけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで



41.壬生忠見

恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか


「しのぶれど」は密かな恋だったのに表情に出て、「恋してるの?」と人に聞かれちゃった…という和歌。エロゲー? 忘れろ。
「恋すてふ」は密かな恋をしていたのに、早くも噂になっちゃったよ…という和歌。

この二首、連番で2つともテーマが密かな恋。
それもそのはず。960年、「密かな恋」をテーマにした天皇の御前の和歌コンテスト「天徳内裏歌合」で対決した二首なのだ。
両方とも名作であり、審判の藤原実頼からは引き分けにしようかと言う意見が上がったが、村上天皇が兼盛の歌を口ずさんでいたため兼盛の勝利となった。

忠見はこの会心の一作での敗北が悔しくて食事がのどを通らず死んでしまった…という説すらある。
歌合自体は史実だが、忠見には「私も年を取ったなぁ・・・」という和歌が残っており、年を取るまで生きていたようなので創作と思われる。*2




74.源俊頼朝臣

憂かりける 人を初瀬の 山おろしよ 激しかれとは 祈らぬものを


恋しい人に振り向いてもらいたくて祈ったのに、なぜ山おろし(山から下りてくる風)はそんなにもきつく当たるのかと嘆く恋の歌。

詠み人は小野小町や在原業平ほどの知名度はないが、和歌集にも多数収録され、この時代を代表する歌人として扱われた人物である。
ただし、この歌が有名な理由はやや特殊。

かるた遊びの際、「うか」と読まれた時点で、この和歌しかありえない。そのため「うか」と聞こえた時点で下の句「はけ」を探し始める必要がある。
ところが、分かりやすく覚えるために、「うかりはげ」「うっかりはげ」という覚え方が定着してしまったもの。
この和歌は別にハゲとは何の関係もないし、俊頼も別にハゲだったとか坊さんだったという訳ではない。
かるた遊びが百人一首の知名度を大幅に上げているが、この和歌はかるた遊びの被害者かもしれない。






人も愛し 人も恨めし あじきなく 世を思ふゆゑに もの思ふ身は


人を愛しくも恨めしくも思ってしまう。世の中を思うと色々と思い悩んでしまうという、世の中に対する悩みの和歌。
恋でも季節でもない、他の和歌と趣が何となく異なる和歌だが、この和歌を詠んだ人物が承久の乱をおこした後鳥羽院なのが重要である。
後鳥羽院は百人一首選者である定家の18歳年下であり、定家らに新古今和歌集の編纂を命じており、歌人として評価が高い。

この和歌は承久の乱の8年前、1213年頃に詠まれたと言われ、
鎌倉幕府が力をつけていく一方、上皇として力の衰えていく朝廷を嘆いている心情が詠まれているとされる。
承久の乱は所詮無謀な戦いであり、しかも危機に陥ると部下を見捨てるなど、後鳥羽院の評価はダダ下がり。後鳥羽院は流刑地で生涯を終えた。
とはいえ、後の後鳥羽院の末路を知ると、この歌にも切ないものがある。

なお、小倉百人一首の成立時は承久の乱と時間差がそんなになかったため、
同時期に定家の作ったと思われる別の和歌集(百人一首とほぼ同じ歌が選ばれている)では政治的配慮からこの和歌は収録されなかった。*3





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最終更新:2022年11月06日 14:43

*1 同様に、崇徳院の「瀬を早み」なども落語になっている

*2 ただし、忠見の父親である壬生忠岑は860年頃に生まれたとされているので、忠見自身歌合の時点でも高齢の可能性がある。ひょっとしたらひょっとするかもしれない。

*3 承久の乱の立場で収録の有無が変わっている訳ではなく、乱で幕府方についた入道前太政大臣(西園寺公経)の和歌は百人一首にも収録されている。