アクース内戦時のチャッシャーラ。アクース人にしては大人びた見た目をしていると言われる |
生年月日 |
不明 |
出生地 |
アクース プナキェーン |
没年月日 |
1751年3月20日 |
死没地 |
アクース カルシェ |
出身校 |
プナキェーン陸軍士官学校 |
通称 |
赤い妖精(Dvanfaszyt) ゲッちゃん(Gecuz) |
称号 |
全世界産業労働連合総議会2代目総議長 労働組合臨時連合軍元帥 アクース連合軍事省大臣 |
配偶者 |
なし |
親族 |
なし |
サイン |
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ゲッツァ・チャッシャーラ(
マユィ語:
Gecca Ćasśala)とは、
アクース連合の革命家、軍人。
アクース内戦を、
労働組合臨時連合軍を指揮して戦った。内戦後は陸軍の徹底した反権威主義化を行い、
赤い妖精(Dvanfaszyt)と呼ばれた。
生涯
幼少期・少年期
1693年11月19日に、アクースの首都プナキェーンに生まれたとされている。生まれてすぐに捨てられており、孤児院で育った。その名前は「炎」を意味し、髪が赤かったことから、院長によって名付けられた。院長や同じような孤児によって愛情を受けて育った。
1702年には孤児院を離れて高校に寄宿するが、孤児であることを理由にいじめられ、両親がいないことを強烈にコンプレックスに持つようになる。また、いじめられないような強い人間になるために、軍人になることを決意したのもこのころである。
1705年にプナキェーン陸軍士官学校に入学。体が強い方ではなかったため、学校でも同僚や上官にいじめられた。これによって右耳の聴力を無くし、学校を中退している。
浮浪時代・社会思想研鑽会
学校を中退したことで行き場を無くしたチャッシャーラは、孤児院時代の友の家を渡り歩く生活を始める。しばらく退廃的な生活を続けていたが、そのうちの一人の友が
産業労働主義に傾倒していたことから、チャッシャーラもその思想に傾倒していく。
1710年には
社会思想研鑽会に加入する。
イェッジカワード共産主義や
イェスカ主義などの思想学は苦手としていたが、同会の数少ない軍人として、軍学を指導する立場に立った。また、1715年になって同会の政治的指導者らが逮捕された時には、ナドルトとともに逃げのび、地下ゲリラの育成を支援した。
軍部改革・三頭政治
軍の権威主義的な性質を改革する必要があると信じでいたチャッシャーラは、この機会を都合よく捉えて、新生アクース軍に、産業労働主義を参考にした多くの民主的制度を取り入れた。具体的には、職業調整委員会との連携による徴兵制度、部下による上官解任制度、上官とは別の、部下が選ぶ意見役の設置、意見役からなる軍内意見会の開設などを行った。このような過激な改革をエメルダのもとで行ったので、エメルダのあだ名であるセッちゃん(Secuz)をもじった
ゲッちゃん(Gecuz)というあだ名が追加された。
また、特に1743年からは、エメルダ、
フニユト・ナドルトと共に俗にいう
三頭政治を行い、事実上の国家を指導する立場にあった。
2代目総議長・引退後
1747年にエメルダが失脚すると、総選挙を行う必要性が当然出てきたが、この時には、総議長が適切な手段を踏まずにその職を辞したり、死亡したりした時の対応が不明であった。そのため、指導的メンバーの中で政治的に中立であると考えられていたチャッシャーラが、一時的に臨時的に総議長に就任した。総議長に就任すると、すぐに総選挙を行い、それ以上の内政・外政に関することで新しいことは何もしなかった。
同年の総選挙でナドルトが3代目総議長に就任すると同時に政界を引退、エメルダと同じように特例のポストを用意しようという運動もあったが、徹底した反権威主義者であったチャッシャーラはそれを頑なに拒み、余生をプナキェーンの近郊都市であるカルシェで暮らした。1751年3月20日、死亡。
人物
逸話
- 社会思想研鑽会では、思想学の勉強中はよく居眠りをしていたという。
名言
「最も強いものではなく、最も賢いものでもなく、最も狡猾で戦略的なものが勝利する」
内戦にて。発言の通りゲリラ戦術を好んだチャッシャーラだが、内戦では正面からの戦いでも成果を残した。
「わからん」
軍学以外は本当にわからなかったらしい。
関連項目
最終更新:2023年06月08日 23:17