セツ・エメルダ
Sec Emelda

ちびキャラのセッちゃん
生年月日 不明
出生地 ヅォークス
プナキェーン
没年月日 存命中
死没地 存命中
出身校 ヅォークス
共和国総合大学
通称 国父
セッちゃん(Secuz)
称号 全世界産業労働連合総議会創始者
全世界産業労働連合総議会革命局局長
革命の体現
国家特別英雄
配偶者 なし
親族 なし
サイン

セツ・エメルダマユィ語:Sec Emelda)とは、アクース連邦およびアクース連邦の政治家、革命家、思想家である。アクース内戦を革命勢力側に立って指揮し、一時は敗北したもののその後第二次アクース革命で国家元首へと返り咲き、アクース連合の礎を築いた。一般に広く知られている「セツ・エメルダ」という名前は本能的に呼びやすいという理由で自らが付けた渾名であり、本姓はフニユト・プナークス・ゲナス・ヴニェティトフォルマユィ語:Fniyt Pnaks Genas Vńetiofor)である。

生涯

幼少期・少年期

1686年、アクース連邦の惑星タニェの都市フルチャーン(現:エメルダ・イェーン)近郊の小さな村アッタイ・シェイナスにて生まれる。父はエメルダが生まれる前からフルチャーンに転勤し機械エンジニアとして働いていたので、母と母方の祖父母によって育てられた。祖父母はこの土地に代々住んでいる貧農であった。しかし、その土地の地域コミュニティの結びつきが強かったこともあり、エメルダは多くの人々の愛を受け育っていく。
エメルダは貧困世帯であったこともあり、満足な教育を受けずに育ったが、1694年、唯一の大卒の身内であるおじのアスニー・ヴニェティトフォルが、エメルダの類稀なる知性を無駄にはできないとして、彼を引き取り、フルチャーンで自ら教育を施した。

青年期・フルチャーンでの暮らし

フルチャーンでは、アスニーが成功した経営者であったこともあり、不自由ない生活を送っていたが、競争激しく地域コミュニティが欠如した街に初めて出て、資本主義の限界を認識する(後にエメルダは連邦末期の資本主義を『末期資本主義』とした)。物乞いとそれを見て嗤う政治家を見た時には我慢ならずに政治家に殴りかかり逮捕されたが、アスニーが金を出して釈放された。
これらに代表されるようなさまざまな社会的問題を起こしつつも、アスニーの優れた指導とエメルダの要領のよさにより、1699年にはアクース連邦最大の教育機関であるヅォークスの共和国総合大学の共和思想学科に一発で入学。学生自治会同好会に入会して教授陣と過激派学生の仲を取り持ったりしており、改革穏健派の中心的人物として知られるようになったが、1703年にサッコレ公害事件が発生してからは連邦と癒着する教授陣と激しく対立し、政権批判の学生運動を指導した。

思想家としての目覚め

大学卒業後、エメルダはその思想からどこの企業にも雇われず、仕方なくアスニーの経営している会社の機械エンジニアとして働き始める。その中で、友人であったアスニーが労働者を非道に労働させ、冷酷に解雇する様を見て、「雇用形態は(人を)殺す」という有名な語録を残した(連邦下には労働法に当たるものが少なく、労働者の立ち位置は弱かった。また、特にブルーカラーは見下すべき下級市民とされ、風当たりも強かった)。これを機に、エメルダは単なる改革ではなく、社会全体の抜本的な革命が必要であると考えるようになる。
1705年にアスニーと袂を分かち、社会思想研鑽会を設立、社会主義労働者革命の必要性を説く。

逮捕・革命

1715年、その活動から反社会法で逮捕される。社会主義一辺倒だったエメルダは、獄中で多くの書物に触れることで思想を独自に発展させ、1724年に産業労働主義を大成。1727年にはセツ・エメルダの名で「労働」を発表。最初に産業労働主義という言葉を使い現政権と現行民主主義を批判、暴力に基づかない革命を求めた。
1730年、釈放。15年ぶりに社会に出る。ナジュア・エルゲン内閣による好景気の影響で実際の街の貧富の差がますます広がっていることに危機感を覚え、活動意欲を燃やす。同年、「全国一般労働産業主義同志会」を発足させ、不満を覚える労働者を取り込み、彼らに感化されながら、暴力革命をも論ずるようになってゆく。
1733年9月、「産業労働主義綱領(エメルダ・第一テーゼ)」を発表。「労働」で唱えた暴力に基づかない革命を退け、世論を取り入れた暴力革命を唱えた。 同日、全国一般労働産業主義同志会を非合法ながら政党団体とし、「全世界産業労働連合総議会」(労働議会)を発足させる。
1734年にはアクース内戦が勃発。革命勢力の長として、反乱を指導し、且つ前線で一兵士として戦った。36年には内戦が終結し、ヴァルエルク共和国に亡命する。しかし現地でヴァルエルク人のレフルオス・フダレンと知り合い、来年共にアクース連邦に帰還、第二次アクース革命を成し遂げ、アクース連合を成立させた。

革命後

革命後は、とりあえずは流れで1代目総議長に就任した。1735〜36年にニーネン=シャプチとラノー条約を結び、また38年には同じくニーネンと共同でアクース・ニーネン・アンドロイド宣言を発表、内戦でアイローム社を使用したこともあって、国内外にアクース連合がアンドロイド権先進国であることをアピールした。
また、国内の復興にも着手し、ラノー条約で多くの需要先を提供するとともに、S合金にも力を入れるなどし、産業は大きく回復した。内戦によって一時的に地域産労議会に属していない人たちを使い、国家事業としてインフラ整備も行った。
しかし、順風満帆かと思われたエメルダ政権は、1747年、アイローム社の解体とともに、アクース革命の革命側の中枢部であった人物(既に死亡している)がアイローム社から不正に金銭を受取していたという事実が明らかになる(アイローム金銭受取事件)。国内では「別にエメルダがしたことじゃないからどうってことない」という意見が多数派であったが、国際世論は「エメルダは事実上金銭の受け取りを黙認した、同罪だ」などの意見が多く見られた。
外交関係に重きを置いていたエメルダは、責任を取る形で、総議長を辞任した。しかし当然国内ではそれに納得しないので、全世界産業労働連合総議会革命局局長という実務を伴わないポストを設け、それに就任した。これ以降国政に関わることはなくなり、今はアイドルみたいな立ち位置になっている。

人物

思想

産業労働主義を参照せよ。

名言

「何から何まで正常でない。この世界はナンセンスか?」-1703年、サッコレ公害事件を受けて
「雇用形態は(人を)殺す」-1704年、日記にて
「末期資本主義社会という名の暴走列車は、その本来のところ、すなわち自らが人間を納めるものであるという存在目的すら忘れ、崖につながる線路を走っていく。誰が止めるのだ。」-労働にて
「全ての民は如何なる抑圧にも屈しぬ。私にもだ」-エメルダ・第一テーゼにて、前衛党の否定
「革命は単なる戦いではなく、人間性の再生である」
「時は来た!同志、列車に爆弾を積め!」-1734年、内戦開始に際して
「我々の、高潔であって泥臭い魂の灯火が消えることはない!私は戻る!」-アクース内戦敗北に際して
「そこまでよ!!!!!!!!!!!」-様々な場面で国民が暴れたときに颯爽と現れて諌める姿がよく知られている。走ってくるので息が上がっている。

逸話

  • アクース内戦では自らの地位を顧みず最前線で戦ったことで、戦場の士気は向上したがその他革命の中心人物は胃を痛めていたという。
  • きゅうりをこよなく愛し、毎日一本は食べていたという。

後世の評価

革命の父として名高く、アクース連合という国家の体現であると言われる。そのほかにも自らの政治権力を手放したことにより清廉な人物と言われている。

ギャラリー

革★命セッちゃん
えかとん氏
総議長時代のセッちゃん
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隠居時代、散歩中のセッちゃん
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同左
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関連項目

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最終更新:2023年06月08日 22:47