帝連第一を吹かすフニユト・ナドルト |
生年月日 |
1681年2月2日 |
出生地 |
タリエ アクース |
没年月日 |
1754年5月11日 |
死没地 |
プナキェーン アクース |
出身校 |
共和国総合大学 アクース |
通称 |
革新的古老 |
称号 |
国家再建委員会委員長 全世界産業労働連合総議会3代目総議長 |
配偶者 |
なし |
親族 |
なし |
サイン |
|
生涯
幼少期・少年期
1681年2月2日、アクースの最大都市タリエで生まれる。両親は一般的な中産階級であった。学童地代は、極めて優秀な成績を収め、ほとんどのテストで100点を取るほどの天才であった。1694年には、アクースきっての名門大学であった共和国総合大学にも首席で合格した。大学ではまさに「真面目が服を着たよう」といった性格で、まさしく順風満帆なエリート街道を完璧に駆け上っていた。
大学卒業・エメルダとの出会い
大学卒業後は官僚として就職し、優秀な働きをしていたが、同僚や上司には上流階級出身のものが多く、別段目立った家柄でなく、特に金持ちでもなかった中流階級出身のナドルトは露骨に阻害された。このことから、もはや貴族主義的にまでなっている社会に疑問を抱き始めるようになる。
1705年には
セツ・エメルダと出会い、彼らと共に、地下組織である
社会思想研鑽会を設立。国内の社会主義のみならず、
イェッジカワード共産主義や
イェスカ主義などの海外の思想についても意欲的に研究した。
エメルダの逮捕・革命
1715年、エメルダら社会思想研鑽会のメンバーが反社会法で一斉検挙され、多くが逮捕された。その中、官僚勤めで一応金をそこそこ持ち、且つ官界・政界に少しだがパイプがあったナドルトはなんとか逃げのび、獄中のエメルダと連絡を取り合い、残された社会思想研鑽会の僅かなメンバーを率いた。エメルダが
産業労働主義を獄中で完成させ、革命を求めた時には、あくまでもすぐに革命を行う必要があるという路線を堅持し、暴力革命を提示した。
1730年にエメルダが釈放された時には、
全国一般労働産業主義同志会の設立メンバーの1人となり、表舞台にも立つようになってくる。1734年には同志会を
全世界産業労働連合総議会とし、来年には
アクース内戦が勃発する。
革命後・エメルダ失脚
革命後には
国家再建委員会委員長に就任し、特に1743年からは、
総議長の
エメルダ、
元帥の
チャッシャーラと共に、俗に言う
三頭政治を行った。
1747年にエメルダが政界を去り、臨時総議長にチャッシャーラが就任し、臨時総選挙が行われたことで、ナドルトは一気に世間の注目を集める存在になった。最古参の産業労働主義者であり、エメルダに忠誠を誓っていたナドルトは難なく当選した。この頃の世間のナドルトに対する評価はまさしく「
つなぎの総議長」というものであった。
革新的古老
1747年に3代目総議長に就任したナドルトは、そのような評価を覆すこととなる。エメルダと対照的で、等身大で親しみやすさ、ユーモアのセンスで国内を瞬く間に魅了した。彼は内政ドクトリンとして「
継続革命」と「
一般宗教倫理的産業労働主義」を打ち出し、大きな革新的政策を打ち出した。
外交においては「
善隣外交」を打ち出し、内戦によって混乱した外交関係について、譲歩をしてでも修繕するといったドクトリンを採用したことで、外交関係は安定した。しかし、このドクトリンには強硬派などから常に賛否両論あり、批判の対象にもなった。しかし、1752年で6年、2期満了で総議長を引退した。
人物
逸話
思想
宗教倫理的産業労働主義とは、「
倫理復興」とも言い、イェスカ主義やサクトマンク主義に影響を受けた思想で、人倫道徳的観点から革命を見直し、実践するものである。彼はいきすぎた
アクース主義を批判し、特にウヴファマファール・ブショーを厳しく批判した。ウヴファマファール・ブショーとは第一次アクース革命の時に各地の宗教を合同させようという計画のもと完成されられた人工的な宗教で、まさしくアクースの団結のために作られたものであった。彼はこれを「
全体主義的倫理」だと批判し、宗教学的・倫理学的観点から在来の宗教を研究し、
在来の倫理の復興を唱えた。
関連項目
最終更新:2023年06月08日 23:41