ナム・ンアプッハ・パンチャ・チャンマ・タウンクゥユヮルー
チャンタ語: namu ŋapʼa↓ pʰant͡ʃa !aɳma ʈʰaṵᵑkˠᶣr̩ː
タウンクゥユヮルー(lunias, 2020)
生年月日 シンテーア歴1699年4月18日
没年 シンテーア歴1771年2月9日(72歳)
出生地 Jem, Sohami
民族 ナム人
最終学歴 レーオント・レイオン大学大学院
肩書 RSC学術シンクタンク 特別研究生(1711年~1717年)
RSC学術シンクタンク 研究員(1718年~1729年)
RSC学術シンクタンク 特任学術留学生(1730年~1737年)
管理主義民族解放運動 上級領導者(1738年~1739年)
惑星統一政府チャンタ管理主義学術領導独立国 国家主席(1740年~1757年)
惑星統一政府チャンタ管理主義学術領導独立国 終身国家最高指導者(1758年~1771年)

ナム・ンアプッハ・パンチャ・チャンマ・タウンクゥユヮルー(チャンタ語:namu ŋapʼa↓ pʰant͡ʃa !aɳma ʈʰaṵᵑkˠᶣr̩ː)とは、チャンタの研究者、活動家、政治家。親しみを持ってエミュンス語の敬称であるデロンエミュンス語:delon)だけを借用して呼称されることもあった。このデロンはシンテーア管理主義共和帝国の政治家・思想家であるアオン・シオン・ヴェードの愛称にも使われており、「チャンタのアオン・シオン」とも呼ばれている。


人物史

シンテーア歴1699年4月18日、Sohamiの港町Jemに生まれる。タウンクゥユヮルーはナム人の上流階級であるンアプッハ氏族の裕福な過程に生まれる。父親のチャンマは官吏であり、文書館を管理していた。タウンクゥユヮルーは若い頃から、古典文書による教育を受けた。1710年にSohamiには近代化シンクタンク組織「港湾近代化同盟」が設立され、父親とともに11歳のタウンクゥユヮルーはこれに見習いとして参加することになった。幼いながらも気鋭なメンバーとして近代的な知識をすぐに受け入れていった。1711年、12歳のタウンクゥユヮルーは統合されたRSC学術シンクタンクの特別研究生として研究に参加する。他の研究生と共に特に産業社会学を専門分野として、6年間研究を続けることになる。1718年(19歳)にRSC学術シンクタンクの正式な研究員に承認される、研究の片手間に後に続く青年たちに社会学講義をしており、北西世界長官のトゥルオ・パハネ・ミジェ・ナマコ・チュムノ・グルチャが講義を受けていた。1719年(20歳)頃から、政治への参入を模索していたが、同じナム人ンアプッハ氏族の貴族家チャパンエ家(つまり、ツャダハノ)の妨害に会い、ここから「民主」政治への疑問を持ち始める。
1730年(31歳)、ジエール帝国連邦のレーオント・レイオン大学への留学団の代表として特任学術留学生に抜擢される。1735年(36歳)で博士課程へ進学、ゲルニア・ルーロイ・トロンプロースに師事し、博士論文「調和的管理主義の社会普遍的展開について」を書き上げる。この間に管理主義の強い影響を受けたと見られる。1738年(39歳)に帰国すると民主主義的政権を樹立しようとするRSCに対して、管理主義独裁体制を敷くことを強く主張して学術シンクタンク内の力関係上支持を集めた。ここから、タウンクゥユヮルーの政治人生が始まる。
同年6月15日、学術シンクタンクは管理主義民族解放運動(CHAU)に改組、タウンクゥユヮルーは上級領導者という立場で武力闘争を始め、一年でRSC政権を打倒することに成功する。1740年(41歳)に惑星統一政府チャンタ管理主義学術領導独立国が建国されるとタウンクゥユヮルーは国家主席に推薦され、就任した。
第一次スラーン宙域戦争における敗戦後、進駐したファルトクノア軍法裁判によって2月9日に戦争責任と圧政の罪が認められ、タウンクゥユヮルーとその家族は人民裁判において有罪とされ、即日銃殺された。71歳だった。

成果と評価

ヅャダハノを中心としたRSCは、惑星を統括する政府とは言えず、いわばエリート主義で父権主義的な政府であった。これに対して、タウンクゥユヮルーが設立した惑星統一政府は初めてチャンタ・ナショナリズムを成立させることが出来たとされている。RSCの政策とは異なり、適切な地方行政改革と中央政府の整理によって急速にチャンタ全土の近代化を進めたが、後期になると管理主義の教条主義的な適用が見られるようになり、「拝金主義者」とされたものに対する弾圧が強まった。これによって初期は市民の支持を得ていたものの、圧政と解釈した市民はファルトクノアの侵略を喜んで受け入れる結果となった。

ギャラリー


元絵

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2020年11月28日 00:10
添付ファイル