カトリーヌ・ド・ノートルダム

ノストラダムス wiki : ノストラダムスの大事典内検索 / 「カトリーヌ・ド・ノートルダム」で検索した結果

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  • カトリーヌ・ド・ノートルダム
     カトリーヌ・ド・ノートルダム(Catherine de Nostredame)は、ノストラダムスの叔母。ピエール・ド・ノートルダムとブランシュ・ド・サント=マリーの間に生まれた子供の一人で、長女と推測されている(*1)。エドガール・ルロワは認識していなかったが、ウジェーヌ・レー(未作成)の調査で明らかになった。  生年未詳は未詳である。1483年初め頃に、アルルの商人トロフィム・エカルディ(Trophime Aycardi)と結婚した。この時点で18歳以下であったろうとされている。ウジェーヌ・レーはその根拠を示していないが、おそらく両親の結婚の年から判断したものだろう。  その後、アルルの仲買人(négociant)であったトロフィム・マリー(Trophime Marie)と再婚し、一子(名前は未詳)をもうけたが、1498年に死別した。1502年には、アルルの改宗キリスト...
  • カトリーヌ・ド・ノートルダム (アントワーヌの子)
     カトリーヌ・ド・ノートルダム(Catherine de Nostredame)は、アントワーヌ・ド・ノートルダムとロワーズ・ベルル(未作成)の娘で、ノストラダムスの姪にあたる。1556年12月15日に洗礼を受け、そのときに立ち会った代父が医師のジャコメ(Jacomet)、代母がカトリーヌ・ド・プラテ(Catherine de Platée)だったということしか分からない(*1)。 名前 コメント
  • カトリーヌ・ド・ノートルダム (ベルトランの子)
     カトリーヌ・ド・ノートルダム(Catherine de Nostredame, 1552年 - ?)は、ベルトラン・ド・ノートルダムの娘で、ノストラダムスの姪にあたる。  1552年7月7日の洗礼には、代父の医師サン=レミと、代母のカテリナ・ロンバルダ(Katherina Lombarda(*1))が立ち会った。エドガール・ルロワが指摘するように、代父はさすがにジャン・ド・サン=レミとは別人だろう。  タラスコンの平貴族(écuyer)であったピエール・ド・リスプ(Pierre de Rispe)の同名の息子ピエールと、1569年に結婚した。ただし、その際の結婚持参金を巡る契約と支払いに関して、ベルトランとリスプ家の間で数ヶ月にわたって諍いがあったという。  カトリーヌに関するその他の事項は、(没年も含めて)不明である(*2)。 ...
  • アントワーヌ・ド・ノートルダム
    ...アントワーヌの子) カトリーヌ・ド・ノートルダム (アントワーヌの子) デルフィーヌ・ド・ノートルダム (アントワーヌの子) ピエール・ド・ノートルダム (アントワーヌの子)(未作成) ブノワ・ド・ノートルダム(未作成) ダマリー・ド・ノートルダム 名前 コメント
  • ディアーヌ・ド・ノートルダム
     ディアーヌ・ド・ノートルダム(Diane de Nostredame, 1561年 - 1630年以降)は、ノストラダムスとアンヌ・ポンサルドの間に生まれた三女(第六子、末子)。ノストラダムスの子供の中で最後に生まれ、おそらく最後に亡くなった。  プロヴァンス州サロン・ド・クロー(現サロン=ド=プロヴァンス)に生まれ、1561年9月8日に洗礼を受けた。1564年10月に国王シャルル9世(未作成)と母后カトリーヌ・ド・メディシス(未作成)がサロンの町に立ち寄った際には、他の兄姉とともに、一家で謁見を果たした。ただし、このときのディアーヌはようやく3歳になったばかりだったので、本人の記憶には残らなかったであろう。  その後の詳しい生涯は不明だが、気難しい性格で独身を貫いたことは分かっている。  長兄セザールが1630年に作成した遺言書では、セザールの残す物財全ての用益...
  • エクトール・ド・ノートルダム
     エクトール・ド・ノートルダム(Hector de Nostredame, 生没年未詳)は、ノストラダムスの弟の一人。サン=レミ=ド=プロヴァンスに生まれたが、洗礼記録などはなく、詳細は不明である。  弟のアントワーヌの息子エクトールの洗礼記録に、立ち会った代父として「商人のエクトール・ド・ノートルダム」の名が記されている(*1)。ほぼ間違いなく同一人物であろうから、エクトールの職業は商人だったと考えられる。  1546年4月26日の結婚契約書が残っている(*2)。相手の名はアントワネット・ド・モルゲート(Antoinette de Morguète)だが、アントワネットはアントネート(Anthonete)、トネート(Thonète)など、表記に揺れがある。  アントワネットはマルティーグ島のジャン・モルゲ(Jean Morguet(*3))とカトリーヌ・ド・ベランギエー...
  • トミーヌ・ド・ノートルダム
     トミーヌ・ド・ノートルダム(Thomine de Nostredame)は、ノストラダムスの甥であるクロードの娘。  1574年1月4日に洗礼を受けた。代父はサン=レミの神学博士でサン=マルタン参事会聖堂の参事会員でもあった伯父(または叔父)のピエール・ダルメラン(Pierre d Alméran)、代母はトミーヌ・リシエール(Thomine Richière)であった。  ピエール・ダルメランは、ジョーム・ド・ノートルダムが一時代理を務めた貴族アントワーヌ・アルメランの息子である。  彼女は、16世紀末にアヴィニョンの法学博士メルキオール=ジャック・ド・ジョアニス(Melchior-Jacques de Joannis(*1))の再婚相手となった。メルキオール=ジャックは、ノストラダムスの叔母に当たるマルグリット・ド・ノートルダムとその夫ピエール・ジョアニスの曾孫であ...
  • ドフィーヌ・ド・ノートルダム
     ドフィーヌ・ド・ノートルダム(Dauphine de Nostredame)は、ノストラダムスの姉もしくは妹。しばしばノストラダムスの妹で第二子(長女)とされるが、生年がはっきりしないため、ミシェル(ノストラダムス)とドフィーヌのどちらが第一子だったのかは特定できない。1576年の遺言書で「大変な高齢」(Son extrême vieillesse)とあることから長子と推測するものもいる(*1)。  名前はデルフィーヌ(Delphine)と綴られることもある。  生涯をサン=レミ=ド=プロヴァンスで過ごし、独身を貫いた。弟のアントワーヌ・ド・ノートルダムとのかかわりでいくつかの史料に名を見出すことができる (*2)。  1576年の遺言書では、遺産の受取人としてアントワーヌとその息子クロード(未作成)を指名している(*3)。 ...
  • ノストラダムス一族
    ...トラダムスの叔父) カトリーヌ・ド・ノートルダム(ノストラダムスの叔母) バルトロメ・ド・ノートルダム(ノストラダムスの叔母) マルグリット・ド・ノートルダム(ノストラダムスの叔母) 母方の先祖・親類 ジャン・ド・サン=レミ(ノストラダムスの母方の曽祖父) ルネ・ド・サン=レミ(ノストラダムスの母方の祖父) ベアトリス・トゥレル(ノストラダムスの母方の祖母) レニエール・ド・サン=レミ(ノストラダムスの母) ノストラダムスの兄弟 一段下げているのは配偶者や子供たち ドフィーヌ・ド・ノートルダム(デルフィーヌ・ド・ノートルダム) エクトール・ド・ノートルダム ベルトラン・ド・ノートルダムトミーヌ・ルース(ベルトランの妻) クロード・ド・ノートルダム (ベルトランの子)トミーヌ・ド・ノートルダム ミシェル=ベルトラン・ド・ノートルダム ジャン・ド・ノートルダム (ベルトランの子...
  • アンヌ・ド・ノートルダム
     アンヌ・ド・ノートルダム(Anne de Nostredame, 1559年12月15日 - 1597年以前)は、ノストラダムスとアンヌ・ポンサルドの間に生まれた次女(第五子)。  1559年12月15日にプロヴァンス州サロン・ド・クロー(現サロン=ド=プロヴァンス)に生まれた。かつてエドガール・ルロワらの研究では1558年頃の生まれとされていたが、兄セザールの自筆らしき手稿によって正確な生年月日が特定された(*1)。  トゥーロン(未作成)の有力者ピエール・ド・スヴァ(Pierre de Seva)と結婚し、息子メルキオール・ド・スヴァ(未作成)(Melchior de Seva)を生んだ。なお、ピエール・ド・スヴァについて、イアン・ウィルソンはラングドック州ボーケールのピエール・ド・セーヴ(Pierre de Sève)として紹介している(*2)。具体的な根拠があって...
  • ベルトラン・ド・ノートルダム
     ベルトラン・ド・ノートルダム(Bertrand de Nostredame, 1518年 - 1602年以降)は、ノストラダムスの弟の一人。ジョーム・ド・ノートルダムとレニエール・ド・サン=レミの間に生まれた。プロヴァンス州サン=レミの商人、軍人。  「ベルトラン・ド・ノストラダムス」とも名乗った。ノストラダムスの弟でノストラダムスを名乗ったのは、ジャンとベルトランだけである。 生涯  プロヴァンス州サン=レミで、1518年の6月4日から7月10日の間に洗礼を受けた(*1)。日付が曖昧なのは、現存している史料が不完全な形でしか残っていないためだという。名付け親が、代父ベルトラン・ユゴラン(Bertrand Hugolin)、代母ジョルダーヌ・ド・ラ・メール(Jordane de la Mer)ということは分かっている。  1540年頃にラマノンの領主の娘であるトミーヌ・...
  • ピエール・ド・ノートルダム
     ピエール・ド・ノートルダム(Pierre de Nostredame, 1430年頃 - 1485年頃)は、ノストラダムスの父方の祖父。アヴィニョンで穀物商と高利貸を営んでいた。クレカ・ド・カルカソンヌ(Crescas de Carcassonne)、ギ・ガソネ(Guy Gassonnet)、ギドン・ガソネ(Guidon Gassonnet)、ヴィド・ガソメ(Vido Gassomet)、ペロ・ド・サント=マリー(Perrot / Peyrot de Sainte-Marie)など、多くの名で公文書に記録されている(*1)。  関連文献においてカルパントラのピエール・ド・ノートルダム(未作成)や、息子であるアルルのピエール・ド・ノートルダムと区別するときには、「アヴィニョンのピエール・ド・ノートルダム」と書かれることもある。 生涯  ダヴァン・ド・カルカソンヌの子供の一人...
  • デルフィーヌ・ド・ノートルダム (アントワーヌの子)
     デルフィーヌ・ド・ノートルダム(Delphine de Nostredame)は、アントワーヌ・ド・ノートルダムとロワーズ・ベルル(未作成)の娘で、ノストラダムスの姪にあたる。1558年2月17日に洗礼を受け、そのときに立ち会った代父が伯父のベルトラン・ド・ノートルダム、代母がデルフィーヌ・グダルド(Delphine Goudarde)だったということしか分からない(*1)。 名前 コメント
  • マドレーヌ・ド・ノートルダム
     マドレーヌ・ド・ノートルダム(Madeleine / Magdeleine de Nostredame, 1551年頃 - 1623年)は、ノストラダムスとアンヌ・ポンサルドの間に生まれた長女(第一子)。  1551年頃の生まれというのはエドガール・ルロワの推測であって、正確な生年は全くわからない。1553年12月に生まれたセザール・ド・ノートルダムがマドレーヌのことを「姉」(la soeur aînée)と明言していることなどからして、それ以前に生まれていたことは間違いない(*1)。  ノストラダムスは1547年11月に再婚したが、そのすぐ後にイタリアへの小旅行に出掛け、サロンに腰を落ち着けたのは1549年以降のことだったとされる。こうしたことも考慮すれば、ルロワの推測は十分に説得的なものといえるだろう。  マドレーヌの若いときのことはあまり分かっていない。ノストラダ...
  • アンヌ・ド・ノートルダム (ノストラダムスの姪)
     アンヌ・ド・ノートルダム(Anne de Nostredame, 1554年5月29日 - 没年不明)は、アントワーヌ・ド・ノートルダムとロワーズ・ベルルの娘で、ノストラダムスの姪に当たる。  1554年5月29日にプロヴァンス州サン=レミ(現サン=レミ=ド=プロヴァンス)に生まれた。アントワーヌの10人の子供(五男五女)の中では、次女(第五子)に当たる。  1571年1月29日に結婚したが、結婚契約書の字が読みづらいらしく、夫の名前は疑問符つきでスプリ・ボワリエ(Sperit Boylier)もしくはスプリ・ベルリエ(Sperit Berlier)とされている(*1)。  なお、エドガール・ルロワは下に掲げるノストラダムスの娘や孫とも違う第4の「アンヌ・ド・ノートルダム」が16世紀末から17世紀初頭のサン=レミにいたとしているが、このノストラダムスの姪と同一人物...
  • シャルル・ド・ノートルダム
     シャルル・ド・ノートルダム(Charles de Nostredame, 1556年 - 1629年12月頃)は、ノストラダムスとアンヌ・ポンサルドの間に生まれた次男(第三子)。軍人、詩人。  1556年にプロヴァンス州サロン・ド・クロー(現サロン=ド=プロヴァンス)に生まれた。幼いころのことはよく分かっていないが、1564年にサロンの町に国王シャルル9世(未作成)と母后カトリーヌ・ド・メディシス(未作成)が立ち寄った際には、ノストラダムスの家族全員が謁見させてもらえたとされるので(*1)、当然、シャルルもそこに居合わせたことだろう。  ノストラダムスが1566年に没した際には、遺言によって、母親、兄、弟とともに家の権利を分有した。遺言が誠実に執行されたのなら、自身が25歳になった際に100エキュを受け取ったはずだが、弟アンドレが25歳になった時点(1582年)で家の所有...
  • ダマリー・ド・ノートルダム
     ダマリー・ド・ノートルダム(Damary de Nostredame)は、アントワーヌ・ド・ノートルダムとロワーズ・ベルル(未作成)の娘で、ノストラダムスの姪にあたる。生年未詳だが、1587年4月19日にサン=レミのブルジョワ、シモン・ナヴァリ(Simon Navarry)と結婚したことと、1604年に姪のダマリー(未作成)(Damarie)の洗礼に代母として立ち会ったことだけ分かっている (*1)。  ちなみに、「ダマリー」というフランス人名は日本ではあまり馴染みがないと思われるが、フランスでは地名にもしばしば使われている。その語源は Dame Marie(貴婦人マリア)だという(*2)。 名前 ...
  • ジャンヌ・ド・ノートルダム (ベルトランの子)
     ジャンヌ・ド・ノートルダム(Jeanne de Nostredame, 1545年8月11日 - ?)は、ベルトラン・ド・ノートルダムの娘で、ノストラダムスの姪にあたる。  サン=レミ=ド=プロヴァンスで生まれた。洗礼に立ち会った代父は、ジョーム・ド・ノートルダムが一時代理を務めた貴族アントワーヌ・アルメランの息子ピエール・アルメランで、代母はラマノンの貴族ヨハンナ・グイレマンダ(Johanna Guiremanda(*1))だった。  サロン・ド・クローの名士でたびたび市の執政官にもなっていたトロン・ド・クドゥレ家の当主(Tronc de Coudoulet)と1565年に結婚した。エドガール・ルロワの研究書では、その名は本文ではピエール・トロン・ド・クドゥレとなっているのに対し、家系図ではジャン(Jehan)となっている。  なお、ノストラダムスがサロン滞在中...
  • アンドレ・ド・ノートルダム
     アンドレ・ド・ノートルダム(André de Nostredame, 1557年11月3日 - 1601年12月2日)は、ノストラダムスとアンヌ・ポンサルドの間に生まれた三男(第四子)。後半生を修道士として過ごした。  アンドレは1557年11月3日にプロヴァンス州サロン・ド・クロー(現サロン=ド=プロヴァンス)に生まれた。幼いころのことはよく分かっていないが、1564年にサロンの町に国王シャルル9世(未作成)と母后カトリーヌ・ド・メディシス(未作成)が立ち寄った際には、ノストラダムスの家族全員が謁見させてもらえたとされるので(*1)、当然、アンドレもそこに居合わせたことだろう。  ノストラダムスが1566年に没した際には、遺言によって、母親や2人の兄とともに家の権利を分有した。遺言が誠実に執行されたのなら、自身が25歳になった際(1582年)に100エキュを受け取るのと...
  • ジャンヌ・ド・ノートルダム (アントワーヌの子)
     ジャンヌ・ド・ノートルダム(Jeanne de Nostredame)は、アントワーヌ・ド・ノートルダムとロワーズ・ベルル(未作成)の娘で、ノストラダムスの姪にあたる。1548年9月26日に洗礼を受け、そのときに立ち会った代父が司法官(viguier)のプリヴァ・ブーフ(Privat Bœuf)、代母がジャンヌ・モニエール(Jeanne Monnière)だったということしか分からない(*1)。 名前 コメント
  • ジャン・ド・ノートルダム (アントワーヌの子)
     ジャン・ド・ノートルダム(Jean de Nostredame, 生没年未詳)は、ノストラダムスの末弟アントワーヌ・ド・ノートルダムの息子。十男十女のおそらく長男(第一子)。  1567年8月19日にサン=レミの服飾親方ピエール・スピグ(Pierre Spigue)もしくはピエール・エピゴル(Pierre Espigol)のもとに徒弟修業に出されたという記録以外は不明(*1)。 関連項目 ジャン・ド・ノートルダム(高等法院検事) ジャン・ド・ノートルダム (早世した弟?) ジャン・ド・ノートルダム (ベルトランの子) 名前 コメント
  • リュクレース・ド・ノートルダム
     リュクレース・ド・ノートルダム(Lucrèce de Nostredame, 1554年 - 1596年以降)は、ベルトラン・ド・ノートルダムの娘で、ノストラダムスの姪にあたる。  1554年7月15日にサン=レミ=ド=プロヴァンスで、代父ピエール・ド・リスプらの立会いのもと洗礼を受けた。リスプの息子は後にリュクレースの姉カトリーヌと結婚した。  1577年2月17日にアルルのブルジョワであるジャン・ドモンド(Jean Demonde)と結婚したことがわかっているが、それ以外のことは不明である。1596年のベルトランの遺言書でも言及があるので、少なくともその時までは生きていたらしい(*1)。 名前 ...
  • バルトロメ・ド・ノートルダム
     バルトロメ・ド・ノートルダム(Bartholomée de Nostredame)ないしバルテルミー・ド・ノートルダム(Barthélemye de Nostredame)は、ノストラダムスの叔母。ピエール・ド・ノートルダムとブランシュ・ド・サント=マリーの間に生まれた子供の一人で、次女と推測されている(*1)。エドガール・ルロワは認識していなかったが、ウジェーヌ・レー(未作成)の調査で明らかになった。  詳細な経歴は不明だが、サロンの商人バルテルミー・ブゾーダン(Barthélemy Bezaudin, 1490年に改宗)と結婚したことだけが明らかになっている(*2)。 名前 ...
  • アンヌ・ド・ノートルダム (ノストラダムスの孫)
     アンヌ・ド・ノートルダム(Anne de Nostredame, 1590年- 没年不明)は、シャルル・ド・ノートルダムとルイーズ・ベックの一人娘で、ノストラダムスの孫に当たる。1590年2月1日に洗礼を受けた記録があることは知られているが、それ以外については全く不明である(*1)。 関連項目 アンヌ・ド・ノートルダム(ノストラダムスの娘) アンヌ・ド・ノートルダム (ノストラダムスの姪) 名前 コメント
  • エクトール・ド・ノートルダム (アントワーヌの子)
     エクトール・ド・ノートルダム(Hector de Nostredame, 1546年 - 没年未詳)は、アントワーヌ・ド・ノートルダムの次男(第二子)で、ノストラダムスの甥の一人。  1546年4月17日の洗礼記録のみが知られている。立ち会った代父はエクトール・ド・ノートルダム、代母はゴントラーヌ・ペトゥーズ(Gontrane Pétouse)であったというから(*1)、エクトールという名は伯父からもらったものだろう。 名前 コメント
  • ミシェル=ベルトラン・ド・ノートルダム
     ミシェル=ベルトラン・ド・ノートルダム(Michel-Bertrand de Nostredame, 1578年 - 1637年以前)は、ノストラダムスの甥であるクロードの息子。一族で最も有名な大伯父「ミシェル」(ノストラダムス)と、プロヴァンス総督の従者を務めた祖父「ベルトラン」の名を与えられた男児だが、ベルトランが築き上げた名家としての地位と財産を潰してしまった不肖の孫である。 生涯  1578年11月1日にサン=レミ=ド=プロヴァンスで洗礼を受けた。姉トミーヌの時と同じく、代父は伯父(または叔父)でもあるピエール・ダルメランがつとめた。代母はクローズ領主(sieur de Crozes)の夫人シルヴィ・ド・ブランケ(Sylvie de Brancquais)である。なお、シルヴィの夫ポール・ミストラル・ド・モンドラゴンの一族の邸宅は、現在、サン=レミのアルピーユ博物館になっ...
  • クロード・ド・ノートルダム (ベルトランの子)
     クロード・ド・ノートルダム(Claude de Nostredame)は、ベルトラン・ド・ノートルダムとトミーヌ・ルースの息子で、ノストラダムスの甥にあたる。  1568年に父ベルトランがしたためた最初の遺言書で「30に満たない年齢」とされていることから、1538年から1543年の間にサン=レミで生まれたと考えられている(*1)。もっとも、ベルトランの結婚が1540年頃とされているので、もう少し狭められるのかもしれない。  妻の名はビエル・ダルメラン(Bielle d Alméran)ないしビエローヌ・ダルメラン(Biellone d Alméran)で、彼女はジョーム・ド・ノートルダムが一時代理を務めた貴族アントワーヌ・アルメランの娘と考えられている(*2)。ジョームは、アントワーヌ・アルメランの息子ジャック・ダルメラン、ピエール・ダルメランらと仲が良かったらしい(*3...
  • ジャン・ド・ノートルダム (ベルトランの子)
     ジャン・ド・ノートルダム(Jean de Nostredame, 1547年3月 - 没年未詳)は、ノストラダムスの弟ベルトラン・ド・ノートルダムの息子。二男四女の次男(第三子)。  生まれたときの洗礼記録と、名付け親の名前(ジャン・ド・レノーとジャンヌ・ジル)以外は不明(*1)。 関連項目 ジャン・ド・ノートルダム(高等法院検事) ジャン・ド・ノートルダム (早世した弟?) ジャン・ド・ノートルダム (アントワーヌの子) 名前 コメント
  • フロリモンド・ド・ノートルダム
     フロリモンド・ド・ノートルダム(Florimonde de Nostredame, 1558年 - 没年未詳)は、エクトール・ド・ノートルダムの娘で、ノストラダムスの姪の一人。  1558年9月4日にサン=レミ=ド=プロヴァンスで洗礼を受けた。洗礼に立ち会った代父は地元の執政官エチエンヌ・モラン(Etienne Maurin)、代母はフロリモンド・ラノス(Florimonde Ranosse)で、フロリモンドの名はこの代母にあやかったものである。  1577年にサン=レミの記録から消えたようだが、詳細は不明である(*1)。 名前 ...
  • ジャン・ド・ノートルダム
     ジャン・ド・ノートルダム(Jean/Jehan de Nostredame, 1522年 - 1577年頃)は、フランスの法曹家、歴史家。ノストラダムスの弟のひとり。プロヴァンス史(特に文学史)の研究を行い、『最も名高い昔のプロヴァンス詩人たちの生涯』(Les vies des plus célèbres et anciens poètes provensaux(未作成))を刊行した。 生涯  ジャンはかつて1507年にサン=レミ=ド=プロヴァンスで生まれたとされていた。ただし、これは古い文献で示されていた出典の不明な記述である。  エドガール・ルロワは洗礼記録が1522年2月19日であることから、実際の生年を1522年とした(*1)。竹下節子、ジャンに関する研究で博士号を取得したカザノヴァ(J.Y.Casanova)、その研究を紹介したゲラールのように、これを支持する者...
  • ブランシュ・ド・ノートルダム
     ブランシュ・ド・ノートルダム(Blanche de Nostredame, 1555年 - 1568年以前)は、ベルトラン・ド・ノートルダムの末娘で、ノストラダムスの姪にあたる。  サン=レミで生まれたはずだが、1555年11月19日の洗礼には、すでにサロンの市民となっていたノストラダムスが代父として立ち会った。ノストラダムスが甥や姪の洗礼に代父として参加した例は、今のところ他に確認されていない。  なお、代母は、グランヴィルの総督(gouverneur de Granville)でブラントームの著書にもその名が出てくる武官ジャン・ド・レノー(Jean de Reynaud)の妻ブランシュ・ド・ジェラント(Blanche de Gérente)である。  ブランシュ・ド・ノートルダムの名は、1568年11月11日付のベルトランの遺言書には見られない。そのため、13歳の誕...
  • ジョーム・ド・ノートルダム
     ジョーム・ド・ノートルダム(Jaume de Nostredame, 1470年頃 - 1547年頃)は、ノストラダムスの父。アヴィニョンとサン=レミで、商人、公証人などとして活動した。  ジョメ・ド・ノートルダム(Jaumet de Nostredame)、ジャック・ド・ノートルダム(Jacques de Nostredame)、ジャック・ド・サント=マリー(Jacques de Sainte-Marie)などとも記録され(*1)、ラテン語名はヤコブス・デ・ノストラ・ドミナ(Jacobus de Nostra Domina)である(*2)。 生涯  ジョームは1470年頃にアヴィニョンで生まれた(*3)。父ピエールの死は1485年頃で、ジョームが15歳頃にあたっている。ジョームは当初父の職をついでアヴィニョンで商業と貸金業を営んでいたが、1495年5月14日にプロヴァンス州サ...
  • フランソワ・ド・ノートルダム
     フランソワ・ド・ノートルダム(François de Nostredame)は、ノストラダムスの叔父。ピエール・ド・ノートルダムとブランシュ・ド・サント=マリーの間に生まれた子供の一人で、次男と推測されている(*1)。  生年未詳だが、兄ジョームが1470年頃の生まれなので、当然それ以降の生まれとなる。また、1485年6月15日以降の記録に全く登場しないことから、若くして亡くなったと推測されている(*2)。 名前 コメント
  • ジャン・ド・ノートルダム (早世した弟?)
     ジャン・ド・ノートルダム(Jean de Nostredame, 1522年 - 1534年以前)は、ノストラダムスの弟の一人として仮定されている人物。  ノストラダムスには、エクス高等法院検事を務めた弟のジャンがいるが、彼の生年は従来1507年とされていた。ところが、エドガール・ルロワが見つけた洗礼の記録は1522年のもので、通説とは著しくずれていた。ルロワは通説を支持せず、1522年が正しい生年としたが(*1)、ルロワの著書の改訂を手がけた人物は、高等法院検事の方を1507年生まれとした上で、1522年の洗礼の記録は、もう一人のジャンのものと位置づけた(*2)。  このジャンが1534年以前に死んでいたと推測されるのは、この年にジョーム・ド・ノートルダムが執筆した遺言書に名前がないからである。 実在していたのなら、それ以前に死んでいたということだが、逆を言えば、この...
  • ルイ・ド・ノートルダム
     ルイ・ド・ノートルダム(Louis de Nostredame)は、ノストラダムスの弟。  1534年から1535年の遺言書にしか見られない詳細不明の人物である(*1)。職業は「書記・公証人」(clerc et notaire)だったらしい(*2)。  同じような詳細不明の弟にはピエールがいる。  ピーター・ラメジャラーの家系図では、ルイが1522年生まれとなっているが(*3)、根拠が全く分からない。 名前 コメント
  • マルグリット・ド・ノートルダム
     マルグリット・ド・ノートルダム(Margueritte de Nostredame, 1485年以前 - 没年未詳)は、ノストラダムスの叔母。ノストラダムスの父ジョームの妹。  生没年は不明だが、父ピエール・ド・ノートルダムの1485年2月付の遺言書で言及があることから(*1)、そのときにはすでに生まれていたと考えられる。  1494年12月26日にアヴィニョンの染物工ピエール・ジョアニス(Pierre Joannis)と結婚した(*2)。  ノストラダムスがアヴィニョン大学在学中に面倒を見たといわれることがあるが、史料的に裏付けることはできない。 名前 ...
  • ピエール・ド・ノートルダム (ノストラダムスの叔父)
     ピエール・ド・ノートルダム(Pierre de Nostredame)は、ノストラダムスの叔父。ピエール・ド・ノートルダムとブランシュ・ド・サント=マリーの間に生まれた子供の一人で、三男と推測されている(*1)。父のピエールやカルパントラのピエール・ド・ノートルダム(未作成)と区別されるときには、「アルルのピエール・ド・ノートルダム」と表記されることがある。  父親と同じく商業を営んだが、1513年以降は活動拠点を出生地アヴィニョンからアルルに移した。その商取引に関する記録がいくつも残っている。  この人物は、ノストラダムスの親族の中で唯一人「予言的」なエピソードが公証記録に残されている点で、特徴的といえるかもしれない。  それによると、1535年9月15日に、タラスコンの商人で改宗キリスト教徒であったトマ・ド・バレーム(Thomas de Barrème)と賭けをした...
  • セザール・ド・ノートルダム
     セザール・ド・ノートルダム(César de Nostredame, 1553年12月18日-1630年?)は、ノストラダムスの長男で、詩人、歴史家として著作を残し、画家としてもいくつかの作品を手がけた。ノストラダムスの『予言集』の第一序文は、彼にささげられており、一般に「セザールへの手紙」といわれる。  この記事では歴史的存在としてのセザール自身の足跡と作品を扱う。「セザール」を予言の最終解読者のコードネームとする俗説については最終解読者としてのセザール・ノストラダムスを参照のこと。 【画像】『プロヴァンスの歴史と年代記』に掲載された肖像画(1614年)(*1) 生涯  1553年12月18日、プロヴァンス州サロン・ド・クロー(現在のサロン=ド=プロヴァンス。以下、サロンと略記)で、ノストラダムスとその再婚相手アンヌ・ポンサルドの間に長男(第2子)として生...
  • ピエール・ド・ノートルダム (ノストラダムスの弟)
     ピエール・ド・ノートルダム(Pierre de Nostredame)は、ノストラダムスの弟。  父ジョーム・ド・ノートルダムが何度か執筆した遺言書の中で言及されていることから、存在が明らかになったが、生没年などの詳しいことは全く分かっていない。職業は香料商人(épicier)だったという(*1)。  1534年から1535年にかけて書かれた3通の遺言書で言及されているが、1547年の相続関連の文書では触れられていない(*2)。このことからすれば、その時点までに亡くなっていた可能性がある。ただし、その最後の文書では長男ミシェル(ノストラダムス)の名前もないが、これは執筆当時がノストラダムスの放浪期間とほぼ重なっており、消息不明だったことによるものだろう。ピエールの名前がないことも、死亡ではなく、そのような失踪の類が原因の可能性もある。 ...
  • ブランシュ・ド・サント=マリー
     ブランシュ・ド・サント=マリー(Blanche de Sainte-Marie)は、ノストラダムスの父方の祖母。ブランシュ・ド・ノートルダムとも名乗った。 生涯  生年は未詳である。医師ピエール・ド・サント=マリー(未作成)の娘として生まれ、1464年にピエール・ド・ノートルダムと結婚したときには、エクス=アン=プロヴァンスに住んでいた(*1)。  ジョーム、フランソワ、ピエール、カトリーヌ、バルトロメ、マルグリットという6人の子供をもうけた。  没年も未詳だが、1503年2月15日に、借金取立ての権利を代理人ピエール・ジョアニスに譲った記録があるので、少なくともその頃までは生きていたことが明らかになっている(*2)。 名前 ...
  • 今日は何の日
     ノストラダムスとゆかりのある日付をまとめる(一部にノストラダムス現象を含む)。ノストラダムスが存命中に直接関わった出来事は太字で示す(『予言集』以外での、手紙の日付を除く)。  なお、旧暦・新暦などの換算は行っていない。 1月 1月1日五島勉『イスラムvs.アメリカ 「終わりなき戦い」の秘予言』の発売日(奥付上の日付)(2002年)。 1月4日リヨン市立図書館でノストラダムスの展示『危機の時代のための予言』開催(3月22日まで)(1997年)。 1月12日フランス国立図書館でノストラダムスも含む展示『占星術と予言』開催(2月26日まで)(1994年)。 1月13日暦書あてのアンリ2世への献辞、王妃カトリーヌへの献辞のそれぞれ末尾に記された作成日(1556年)。 1月20日ノストラダムスがスペインでの宝探しに関する質問に答えた手紙の日付(1562年)。 1月23日ノストラダムスの秘...
  • ノストラダムス関連年表
     このノストラダムス関連年表では、彼の生涯やノストラダムス現象に関わりのある主な出来事についてまとめた。  信奉者側がどのような事件を的中させたと主張しているかについては的中例として有名な予言を参照のこと。 ノストラダムスの存命中の関連年表 1503年12月14日(木曜日) - 誕生。 1518年頃? - アヴィニョン大学で自由七科を学んだとされる 1520年 - 学業を中断したと推測されている。 1521年 - 各地を遍歴し、薬草の採取や関連する知識の収集につとめる(- 1529年) 1529年10月23日 - モンペリエ大学医学部に入学。数年以内におそらく除籍。 1531年 - アジャンでアンリエット・ダンコスと最初の結婚。 1530年代後半? - 最初の妻と子どもをペスト(?)で失う。以降放浪したとされる。 1545年前後? - 手稿『オルス・アポロ』を...
  • クレール・ド・グリニャン
     クレール・ド・グリニャン(Claire de Grignan, 生没年未詳)は、ノストラダムスの長男セザールと結婚した女性。  ジャン・ド・グリニャン(Jean de Grignan)とジャンヌ・ド・クラポンヌ(Jeanne de Craponne)の娘で、セザールとは1604年に結婚した(*1)。母ジャンヌは、アダン・ド・クラポンヌの兄フレデリクの姪だという(*2)。  その容姿について、セザールは類まれなる美しさであると褒めている。  セザールとの間に子供はいなかった。  生没年に関する言及は関連書の中に見出せないが、1630年に書かれたセザールの遺言書では、遺産の受取人としてディアーヌ・ド・ノートルダムが指定されているので、それ以前に亡くなっていたものと思われる。 ...
  • トミーヌ・ルース
     トミーヌ・ルース(Thomine Rousse)は、ベルトラン・ド・ノートルダムの妻。  ラマノンの領主の娘で、1540年頃に当時サン=レミの商人だったベルトランと結婚し、1555年までに二男四女をもうけた(*1)。  ノストラダムスの妻であるアンヌ・ポンサルドの幼馴染として、1547年の時点で30歳くらいとする説もあるが(*2)、どのような根拠で導かれたものなのか、よく分からない。 名前 コメント
  • 人名一覧
     ノストラダムスに関連する人名や団体名の一覧。  原則として姓をカタカナ表記した際のアルファベット順に並べている。「ド」などを姓に含むかどうかは、外国語文献の索引に準じて個別に判断している。また、一部日本人のペンネームは外国人名のように見えても全体で一つと見なしている(例えば、「フェニックス・ノア」は「は行」に掲載)。  なお、ノストラダムスの一族のうち、細かすぎる項目はノストラダムス一族の方に、出版業者のうちノストラダムス本人と関連性が薄い人物は出版業者の一覧の方に、それぞれ記載しているので、そちらを参照されたい。  名前の後の括弧は大まかな職業やグループわけを示している。斜線が引かれている場合、その前が職業などを指し、後ろがノストラダムス関連の立ち位置などを指す(「その他」とあるのは、専門的な研究者や信奉者的な解釈者と分類しづらい人物を示す)。 あ 明石三世(インテリ...
  • アントワーヌ・ド・ヴァンドームへの献辞
     ノストラダムスは『1557年向けの大いなる新占筮と驚異の予言』の冒頭に、ナヴァル王アントワーヌ・ド・ヴァンドームにあてた献辞を掲載した。 原文 A TRESEXCELLENT, NOBLE ET PVISSANT Roy de Nauarre, Anthoine de Vandosme, Michel de Nostre Dame son treshumble obeissant seruiteur, vie longue felicité. A Bien bonne raison, tresredoubté1 Sire, à tousiours esté l’ignorance estimee esté cause de tous maux, empeschement de tous biens, d’autant qu’il est impossible ...
  • ノストラダムスの甥
     ノストラダムスの甥は、ノストラダムスの弟や妹の子供(男子)のこと。史料的に裏付けられる範囲では7人が確認できるが、いずれも特筆されるような業績は残していない。  しかし、16世紀半ばから17世紀初頭の偽ノストラダムスたちは、しばしば権威付けに「ノストラダムスの甥」と名乗った。ジャン・ド・ノートルダムはこのような風潮に対し、知人宛の手紙の中で、ノストラダムスの縁者であるかのように騙る占星術師たちはいずれも偽者であると断じている。  「ノストラダムスの甥」という名称はその後途絶えていたが、19世紀になると、暦書の名義として使われるようになった。『ノストラダムスの甥による1849年向けの絵入りの有用な予言暦』(Almanach Prophétique, Pittoresque et Utile pour 1849, Publié par neveu de Nostradamus...
  • ピエール・ジョアニス
     ピエール・ジョアニスないしピエール・ド・ジョアニス(Pierre de Joannis)は、ノストラダムスの叔父。ノストラダムスの父ジョームの妹マルグリットの夫。「ピエール・ド・ジョアニ」と発音した可能性もある。  1494年12月26日にマルグリットと結婚した(*1)。  息子オノレ、孫テオドール、曾孫メルキオン=ジャック・ド・ジョアニス(Melchion-Jacques de Joannis)へと家督が受け継がれていく。  なお、このメルキオン=ジャックはマルグリット・ド・ノートルダムの兄ジョームの曾孫トミーヌ・ド・ノートルダムと再婚した。  ただし、家を継いだのは最初の妻マルグリット・ド・トゥイエ(Margueritte de Touier)との子、ガブリエルであった(*2)。 ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連...
  • 渡辺一夫
     渡辺一夫(わたなべ かずお、1901年-1975年)は、仏文学者。東京大学名誉教授。  東京大学文学部仏文科卒業。旧制東京高等学校、東京大学、立教大学などで教鞭を執った。16世紀フランス文学、なかんずくフランソワ・ラブレー研究に関する日本の第一人者であった。  その著作は『渡辺一夫著作集』(筑摩書房、全14巻)にまとめられている。訳書には『ガルガンチュワとパンタグリュエル物語』(岩波文庫、全5巻)、『ピエール・パトラン先生』(岩波文庫)など多数がある。 [429] Client error `POST https //webservices.amazon.co.jp/paapi5/getitems` resulted in a `429 Too Many Requests` response { __type com.amazon.paapi5#TooManyRequ...
  • サロン=ド=プロヴァンス
     サロン=ド=プロヴァンス(Salon-de-Provence)は、南フランス、ブーシュ=デュ=ローヌ県の都市である。  ノストラダムスが晩年を過ごした町として、またクラポンヌ運河を建設したアダン・ド・クラポンヌの出身地として知られている。 概要  クロー平野に位置し、かつてはサロン・ド・クローとも呼ばれていた。  古来、オリーブオイルやマルセイユ石鹸の産地として知られている。現在は空軍士官学校の所在地でもある。  市の中心部近くにアンペリ城がそびえる。  かつてはアルル大司教の私邸だったが、現在は博物館に改装されている。  市庁舎の前にはアダン・ド・クラポンヌの像が飾られている(*1)。 ノストラダムス関連  ノストラダムスは1547年にこの町のアンヌ・ポンサルドと結婚したのを機に、サロンに移り住んだ。  彼は暦書などにラテン語で署名するとき...
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