セオフィラスの異本 は、
五島勉 の『
ノストラダムスの大予言 』などに登場するノストラダムス予言集の異本である。
 ただし、五島以外の誰一人としてそのような異本の存在に触れておらず、単なる創作の疑いが強い。
 
概要 
 ノストラダムス の『予言集』は1558年版が最古であり、そこには
詩百篇 が全12巻揃っていた。
 しかし、部数が少なかったせいもあり、
アンリ2世 の親戚筋にあたるレンヌ公が持っていたものしか伝わっていない。
 それは英国の王立図書館に残っているが、レンヌ公が1590年ごろに英国に亡命した際の混乱で背綴じがほどけ、第11巻、第12巻にあたるページの多くが失われてしまった。
 
 1558年版はほとんどが失われてしまった結果、現在の『予言集』の復刻はすべてレンヌ公のその伝本を基にしているため、第11巻、第12巻は断片しか伝わっていないのである。
 しかし、レンヌ公は英国亡命後、散逸した詩篇をできるだけ思い出して記録した。人づてにそれをまとめたのが
テオフィル・ド・ガランシエール (五島の表記では「セオフィラス・ガレシェレス」)で、1675年に『セオフィラスによる
諸世紀 補遺』として公刊された。その実物は残っていないが、17世紀の英仏の占星術関連書などには引用されたため、いくらかが伝わっている。
 以上が、五島の主張である。
検証 
 五島の主張はほぼすべての点で成り立たない。箇条書きで列挙すると以下の通りである。
レンヌ公なる人物は、エドガール・ルロワ らの実証主義的伝記研究には一切登場しない。 
1558年版『予言集』 は現存しない。実在したと推測する論者はいるが、実物も説得的な証言も伝わっていない以上、内容は不明というしかない。現存最古の完全版は1568年版 だが、これは全10巻である。第11巻と第12巻はジャン=エメ・ド・シャヴィニー の解釈書(1594年)ではじめて出現した。それ以前の証言は見つかっていない。ゆえに、レンヌ公が亡命したという1590年の時点で(それもシャヴィニーが言及した13篇以外を含む計200篇という形で)それを収めていた『予言集』が存在したなどというのは、まずありえない。 
英国の「王立図書館」は実在しない。おそらく大英図書館のことを言っているのだろうが、そこには1558年版どころか、1568年版すら収蔵されていない。 
五島自身が『大予言』の別の箇所で1558年版は英国の王立図書館とフランスの国立図書館に1冊ずつあると述べている。事実ならば、レンヌ公が破損してしまった英国の蔵書を使わずに、フランス国立図書館の蔵書を使えばよいのではなかろうか。なお、実際にはフランス国立図書館も1558年版どころか1568年版すら収蔵していない (フランス国立図書館の電子図書館Gallicaで公開されているものはリヨン市立図書館の伝本のデジタル化)。 
背綴じがほどけたというが、詩百篇第11巻 とされる詩篇が91番と97番だけという状況に整合していない。当時の実在する古版本を見ると、1ページには4、5篇の四行詩が掲載されていたことが分かる。1ページ残っていれば、少なくとも4、5篇まとめて伝わっただろうし、裏面も考慮に入れればその倍である。同じことは詩百篇第12巻 にもいえる。背綴じがほどけたせいでという設定は、こうした実際の出版状況をあまり考慮しているように見えない。 
ガランシエールのノストラダムス関連の著作は、1672年に刊行され、1685年に再版された『予言集』英仏対訳版のみである。1675年の補遺など、ミシェル・ショマラ 、ロベール・ブナズラ の記念碑的書誌に登場しないのは勿論、それらの不備を指摘したジャック・アルブロン の論文にも出てこない。 
 五島がこれらを書いた時点では想像もできなかったであろうが、1980年代から1990年代にかけて、
ミシェル・ショマラ 、
ロベール・ブナズラ らによるヨーロッパ中の図書館のある種徹底的な調査が実行され、それらは記念碑的な書誌研究として公刊されている。
 その結果、ヨーロッパの主要図書館のどこに何が所蔵されているかはかなりの程度解明されているといってよい。逆に、1970年代の日本は現在よりもはるかに海外文献へのアクセスが難しかった。ゆえに海外で誰も言及していない出所不明な「異本」を五島だけが突き止めてアクセスすることができたなどという設定は、もはや全く支持できる要素がない。
『ノストラダムスの大予言』で扱われた詩篇 
 詩番号について「番号不記載」は全く言及されていないもの、「ナンバー不明」は五島がそのように表現しているものである。
番号不記載 
Par ciel volant en nef la femme
(コメント)
 まず、韻律がデタラメである。
ノストラダムス の四行詩は1行が10音綴で原則としては最初の4音節が前半律を構成している。しかし、この詩は1行目は10音節に満たないし、2行目は10音節より多い上、前半律の区切りも不自然である。
 また2行目は「王が殺される」ならassassiné となるべきであって assassiner はおかしい。主語 l'on が省略されていると見れば一応の説明はつくが、そもそも『予言集』では assassiner という語は一度も使われていない 。
 Bien
s tot もおかしい。現代フランス語の Bientôt の古い綴りは Biento
s t となるべきであるし、そういう綴りが出てきたのは17世紀以降のはずで、それ以前には離して書いていたはずである。
 実際、ノストラダムスは
 bien tost と離して書いた (
詩百篇第1巻29番 、
同32番 、
第2巻23番 など)。
 五島と同じようなミスは、
ジョン・ホーグ も
Nostradamus : The Complete Prophecies でやらかしている疑いがあるが、知識のない人間が古い綴りを偽造しようとすると、往々にしてこういうありえない綴りが登場するものである。
 五島の『大予言』巻末では、
詩百篇第1巻29番 の原詩に bien
s  tot なる綴りが登場する。
 しかし、
ヘンリー・C・ロバーツ の原書では(1949年版でも1994年版でも一貫して) bien to
s t と書かれている。
スチュワート・ロッブ の解釈書でも同様である。
 つまり、五島の著書でだけは bien tost が biens tot と誤って書き写されており、セオフィラスの異本でも
なぜかその誤りに一致する bienstot が登場している ことになる。
 なお、この詩について赤版の『大予言』では「たった一字ちがいで」的中させたと述べていたが、ドルス Dorse とダラス Dallas はどうみても一字違いどころではない 。
第11巻6番 
Un Empereur si grand & terrible trouvera
S'appelle Napole la ville pres d'Adorie,
Conquerir tous Gaule aussi Castiela
Quand patri changera en Fleur dolyie.
非常に偉大で恐ろしい皇帝を(人々は)見るだろう。
(人々は)彼をアドリア海近くの都市
ナポリ と呼ぶ。
ガリア全土、同じくカスティーリャを征服する。
祖国がユリの花に変わるであろう時に。
(コメント)
 訳文はこちらで提供した。
 五島の要約では「フランスに社会的な変革が起こり、
ナポリ の町の名を持った強大な王(おそらくナポレオンの暗示)があらわれ、ヨーロッパを踏みにじる」となっている。
 「ビットリオの異本」 によるというが、本文中にこれの説明はない。
 全1200篇が載っているという「イタリアに伝わっていた『
諸世紀 』の異本」についての言及はあり、ビットリオというイタリア系の名前からすると、それのことかもしれないが、それについて五島自身が「後世の偽作の疑いがあり、どうもご紹介できかねる」と否定していることとは矛盾してしまう。
 ただ、いずれにしても偽作であることは疑いない。
 まず、単語がおかしすぎる。
 4行目 dolyie が意味不明である。上の訳では fleur dolyie を fleur-de-lys の変形と見なしたが、
ノストラダムス本人の使用例は見当たらない 。
 もちろん、
詩百篇集 にも
trehemide などの語源的根拠の未確定の単語はあるので、それだけで偽作と決め付けられるわけではないが、ほかにも不自然な要素が多い。
 カスティーリャの綴りもおかしい。
ノストラダムス 自身の綴りが変則的ではあるが、
詩百篇第1巻31番 の Castullon などはカスティーリャを指していると見なされている。
 ナポリのフランス式綴りは Naples で、実際ノストラダムス自身、そのように綴っていた。また、アドリアは Adrie (Hadrie) で、Adorie というのは明らかにおかしい。そもそも
ナポリはティレニア海に面した都市で、アドリア海近くになどない (日本で言えば、仙台を日本海近くの都市というようなもの)。
 イタリア系の異本であると仄めかしたいようだが、ティレニア海とアドリア海の区別もつかないお粗末な誤りは、イタリアで偽造されたと考えるよりも、イタリアの地理に疎い日本人が偽造したと考える方がはるかに整合的だろう。
第11巻13番 
 五島の要約では「
ナポリ の名をもった王は、やがて「雪」(おそらくロシアまたは冬の暗示)に負けてとらえられ、トロイの王妃の名をもった島(セント・ヘレナ=ヘレン=島の暗示だろう)で死ぬ」となっている。
 原詩がないため、詳細な比較は不可能だが、そもそも
詩百篇集 では、信奉者たちの解釈の中でさえ、
ナポリ とナポレオンを結びつけた解釈は見られない。
 ナポレオンの名前を鮮やかに当てたと解釈されるのは
詩百篇第8巻1番 の「ポー、ネー、ロロン」という地名の羅列くらいである(
アナグラム をしてナポレオンを導き出す)。
 詩百篇で一般的とは到底いえない隠喩の使い方が、五島の紹介する異本の中でだけは立て続く というのは不自然極まりない。
第11巻45番 
 五島の要約では「王の紋章をおびた鳥たち(つまりワシ)が、ライン川の上を乱舞し、マモンの一党は地にのたうつ」となっている。
 要するに、第二次世界大戦やナチスと解釈される既存の詩篇を基にすれば、この程度の予言をもっともらしく作り出すのはそう難しいことではないのだ。なお、
Mammer  は詩百篇では一度しか登場していない。
第11巻48番 
 五島の要約では「野菜、または木材が全部なくなり、人びとはpet(ペット=英語では愛玩動物だが、フランス語では恐らく石油の暗示)を食う」となっている。
 飢餓に関する予言はいくつもあるが、pet という単語は他の詩百篇には一度も登場しない。
 そもそもエネルギー資源と解釈できそうなもの自体、直接的にはほとんど登場しないのである。石炭と訳しうる charbon も
詩百篇第4巻85番 に一度登場するだけだし、そもそもそれは病気の名前を指すという説もある。
 ゆえに、直接的に石油を明示する単語が登場する詩篇が伝わっているという主張には、説得力がほとんどないものと思われる。
第11巻82番または「ナンバー不明」 
 五島の要約では「音はするが姿は見えない、姿は見えるがそれは遠い、人びとはそれで遠く旅をする」となっている。
 この詩については、
加治木義博 も『
真説ノストラダムスの大予言 』(1990年)で第11巻40番として扱っている。
 そのため、彼らの共通する種本が存在する可能性はゼロではないが、当「大事典」で調査している範囲では、そういうものは見当たらない。
第11巻85番または86番 
 五島は「それは人間というよりブタである」という一句のみ伝わったと述べているが、短すぎて論評のしようがない。
第11巻90番 
Si grand Nombre sept sera grand sept
(コメント)
 五島は「ビットリオの異本」からとして原詩を引用している。五島によると20世紀が終わり21世紀になるころに激変があり、70億人の人口が7億人になることを予言していると、「クラウス」が解釈しているという。
 この「クラウス」は、
恐怖の大王 をICBM (大陸間弾道ミサイル) と解釈しているドイツの解釈者だという。クラウスという名の解釈者というと、スペイン語圏で活動しているクラウス・ベルグマンくらいしかいなさそうだが、ドイツという条件に適合せず、該当する論者は見当たらない。
 実在が確認できない異本の詩篇を、実在が確認できない解釈者が解釈している というのでは、信じろという方が無理だろう。
 なお、言うまでもなく、この詩も韻律が崩れており、どちらの行も10音節に満たない。また、vingt(20)を ving
s t と綴るのも不自然である。
予兆詩集 には綴りの揺れが見られるが、それは vint と綴るものであって(
第6番 、
第9番 、
第69番 )、入れる必要のない s を差し込むものではない (vint は vingt の古形であって、ラテン語の viginti に遡る。語源に遡っても s の出る幕はない)。
第12巻8番 
 五島の要約では「王国はくずれる、王と王子は宮殿を出、王子の妃は肺をわずらう」となっている。
 五島によれば、
スチュワート・ロッブ が近代ドイツのことと解釈しているというが、そもそも
ロッブの本にこんな詩篇は登場しない ので、嘘と断じて差し支えないだろう。
第12巻37番 
 五島の要約では「ギリシャはゆさぶられ、古代の柱はくずれる云々」となっている。似たようなモチーフの詩篇はあるので(
詩百篇第2巻52番 など)、そうした詩篇から安易に捏造したものだろうか。
第12巻「ナンバー不明」 
 五島の要約では「一人のわがままで美しい女が、より高い身分にのぼり、夫を失う。彼女は海辺で別の男と愛しあう」となっている。
第12巻100番 
Pres d'eglise de Salon son lit couvert marbre            
(コメント)
 ノストラダムス の葬儀を予言したものだという。
 しかし、例によって韻律が崩れており、特に3行目の音が多すぎる。
 単語の選定についても、3行目で逆接の接続詞に cependant が使われているのがおかしい。ノストラダムスの詩百篇では逆接の接続詞には mais を使うのが一般的で、17回使われている(予兆詩での使用例も多い)。ほか、
ains や pourtant の使用例はあるが、
cependant は一度も使われていない 。
 mais を使えば1音節で済むところを、わざわざ他で一度も使っていない cependant を使って無駄に音数を多くして10音節をオーバーさせるなどというのは、作詩上、まったく支離滅裂である。 
 表現上も il est chaud のような不自然な表現(普通は il 
fait  chaud)が見られるなど、疑問点がいくつもある。
 また、
ノストラダムスの墓 は
教会内の壁にあり 、「教会のそば」 という表現は事実に全く沿っていない。
 五島は『
ノストラダムスの大予言II 』の時点でさえも、ノストラダムスの墓が野外にあるとしていた。そのような
誤った認識を持っている論者の本でだけ、その誤った認識と合致する偽の詩篇が登場している という事実が何を意味するのかは、なかば自明ではないだろうか。
『微笑』1974年1月26日号で扱われた詩篇 
 五島はこの号で「『
ノストラダムスの大予言 』恐怖の未発表部分! 『滅亡の詩(うた)』には何が書かれてあったか!?」と題するレポートを執筆している。
 そのなかには「英国異本」「イタリア異本」などという異本に収録されているとする詩篇がある。いずれも、本来の正篇の詩句の一部を取り込みつつ、残りの部分を勝手に差し替えた偽作であろう。
 しかし、五島の差し替えと一致する報告は、当「大事典」での調査の範囲では、海外に一切見られない 。以下の見出しでは、本来の詩篇にリンクを貼ってある。どれだけお粗末な偽作が行われたか、見比べていただければ歴然とするだろう。
大空は五百四十回燃えあがる
夫は妻を換え妻は夫を換える
女たちはもはや生もうとはしない
太陽は暗くなり月はにごる
三人の巨大な王はたがいに争い
空には恐ろしい虹と蛇と降り注ぐ火
大いなる
ローマ よ汝の破滅は遠くない
『地球少年ジュン』の詩篇 
 五島の小説『地球少年ジュン』(全3巻)では、どの巻にも以下のような詩篇が「レオ・セオフィラスの異本」からとられた「第12巻17番」として掲載されていた。
やがて黒い袋を持つ者が現われる
エストとユヴァンの奥 閉じられた小さな袋 その中身はだれにもわからない
しかし彼はそれによって別の王国を夢みる
一九九九年 その月その日 
恐怖の大王 が空から降ってくる前に
 しかし、レオ・セオフィラスなどという人物はそもそも実在が確認できない。あくまでも小説向けのガジェットと理解しておくべきだろう。
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最終更新:2021年09月10日 09:31