ジャンヌ・ド・ノートルダム (アントワーヌの子)

ノストラダムス wiki : ノストラダムスの大事典内検索 / 「ジャンヌ・ド・ノートルダム (アントワーヌの子)」で検索した結果

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  • アントワーヌ・ド・ノートルダム
    ...アントワーヌの子) ジャンヌ・ド・ノートルダム (アントワーヌの子) クロード・ド・ノートルダム (アントワーヌの子)(未作成) アンヌ・ド・ノートルダム (アントワーヌの子) カトリーヌ・ド・ノートルダム (アントワーヌの子) デルフィーヌ・ド・ノートルダム (アントワーヌの子) ピエール・ド・ノートルダム (アントワーヌの子)(未作成) ブノワ・ド・ノートルダム(未作成) ダマリー・ド・ノートルダム 名前 コメント
  • ジャンヌ・ド・ノートルダム (アントワーヌの子)
     ジャンヌ・ド・ノートルダム(Jeanne de Nostredame)は、アントワーヌ・ド・ノートルダムとロワーズ・ベルル(未作成)の娘で、ノストラダムスの姪にあたる。1548年9月26日に洗礼を受け、そのときに立ち会った代父が司法官(viguier)のプリヴァ・ブーフ(Privat Bœuf)、代母がジャンヌ・モニエール(Jeanne Monnière)だったということしか分からない(*1)。 名前 コメント
  • ノストラダムス一族
    ...(ベルトランの子) ジャンヌ・ド・ノートルダム (ベルトランの子) カトリーヌ・ド・ノートルダム (ベルトランの子) リュクレース・ド・ノートルダム ブランシュ・ド・ノートルダム ジャン・ド・ノートルダム アントワーヌ・ド・ノートルダムジャン・ド・ノートルダム (アントワーヌの子) エクトール・ド・ノートルダム (アントワーヌの子) ジャンヌ・ド・ノートルダム (アントワーヌの子) クロード・ド・ノートルダム (アントワーヌの子)(未作成) アンヌ・ド・ノートルダム (アントワーヌの子) カトリーヌ・ド・ノートルダム (アントワーヌの子) デルフィーヌ・ド・ノートルダム (アントワーヌの子) ピエール・ド・ノートルダム (アントワーヌの子)(未作成) ブノワ・ド・ノートルダム(未作成) ダマリー・ド・ノートルダム ピエール・ド・ノートルダム (ノストラダムスの弟) ルイ・ド・ノートル...
  • ジャン・ド・ノートルダム (アントワーヌの子)
     ジャン・ド・ノートルダム(Jean de Nostredame, 生没年未詳)は、ノストラダムスの末弟アントワーヌ・ド・ノートルダムの息子。十男十女のおそらく長男(第一子)。  1567年8月19日にサン=レミの服飾親方ピエール・スピグ(Pierre Spigue)もしくはピエール・エピゴル(Pierre Espigol)のもとに徒弟修業に出されたという記録以外は不明(*1)。 関連項目 ジャン・ド・ノートルダム(高等法院検事) ジャン・ド・ノートルダム (早世した弟?) ジャン・ド・ノートルダム (ベルトランの子) 名前 コメント
  • ジャン・ド・ノートルダム (ベルトランの子)
     ジャン・ド・ノートルダム(Jean de Nostredame, 1547年3月 - 没年未詳)は、ノストラダムスの弟ベルトラン・ド・ノートルダムの息子。二男四女の次男(第三子)。  生まれたときの洗礼記録と、名付け親の名前(ジャン・ド・レノーとジャンヌ・ジル)以外は不明(*1)。 関連項目 ジャン・ド・ノートルダム(高等法院検事) ジャン・ド・ノートルダム (早世した弟?) ジャン・ド・ノートルダム (アントワーヌの子) 名前 コメント
  • カトリーヌ・ド・ノートルダム (アントワーヌの子)
     カトリーヌ・ド・ノートルダム(Catherine de Nostredame)は、アントワーヌ・ド・ノートルダムとロワーズ・ベルル(未作成)の娘で、ノストラダムスの姪にあたる。1556年12月15日に洗礼を受け、そのときに立ち会った代父が医師のジャコメ(Jacomet)、代母がカトリーヌ・ド・プラテ(Catherine de Platée)だったということしか分からない(*1)。 名前 コメント
  • デルフィーヌ・ド・ノートルダム (アントワーヌの子)
     デルフィーヌ・ド・ノートルダム(Delphine de Nostredame)は、アントワーヌ・ド・ノートルダムとロワーズ・ベルル(未作成)の娘で、ノストラダムスの姪にあたる。1558年2月17日に洗礼を受け、そのときに立ち会った代父が伯父のベルトラン・ド・ノートルダム、代母がデルフィーヌ・グダルド(Delphine Goudarde)だったということしか分からない(*1)。 名前 コメント
  • ジャンヌ・ド・ノートルダム (ベルトランの子)
     ジャンヌ・ド・ノートルダム(Jeanne de Nostredame, 1545年8月11日 - ?)は、ベルトラン・ド・ノートルダムの娘で、ノストラダムスの姪にあたる。  サン=レミ=ド=プロヴァンスで生まれた。洗礼に立ち会った代父は、ジョーム・ド・ノートルダムが一時代理を務めた貴族アントワーヌ・アルメランの息子ピエール・アルメランで、代母はラマノンの貴族ヨハンナ・グイレマンダ(Johanna Guiremanda(*1))だった。  サロン・ド・クローの名士でたびたび市の執政官にもなっていたトロン・ド・クドゥレ家の当主(Tronc de Coudoulet)と1565年に結婚した。エドガール・ルロワの研究書では、その名は本文ではピエール・トロン・ド・クドゥレとなっているのに対し、家系図ではジャン(Jehan)となっている。  なお、ノストラダムスがサロン滞在中...
  • エクトール・ド・ノートルダム (アントワーヌの子)
     エクトール・ド・ノートルダム(Hector de Nostredame, 1546年 - 没年未詳)は、アントワーヌ・ド・ノートルダムの次男(第二子)で、ノストラダムスの甥の一人。  1546年4月17日の洗礼記録のみが知られている。立ち会った代父はエクトール・ド・ノートルダム、代母はゴントラーヌ・ペトゥーズ(Gontrane Pétouse)であったというから(*1)、エクトールという名は伯父からもらったものだろう。 名前 コメント
  • アンヌ・ド・ノートルダム (ノストラダムスの姪)
     アンヌ・ド・ノートルダム(Anne de Nostredame, 1554年5月29日 - 没年不明)は、アントワーヌ・ド・ノートルダムとロワーズ・ベルルの娘で、ノストラダムスの姪に当たる。  1554年5月29日にプロヴァンス州サン=レミ(現サン=レミ=ド=プロヴァンス)に生まれた。アントワーヌの10人の子供(五男五女)の中では、次女(第五子)に当たる。  1571年1月29日に結婚したが、結婚契約書の字が読みづらいらしく、夫の名前は疑問符つきでスプリ・ボワリエ(Sperit Boylier)もしくはスプリ・ベルリエ(Sperit Berlier)とされている(*1)。  なお、エドガール・ルロワは下に掲げるノストラダムスの娘や孫とも違う第4の「アンヌ・ド・ノートルダム」が16世紀末から17世紀初頭のサン=レミにいたとしているが、このノストラダムスの姪と同一人物...
  • ドフィーヌ・ド・ノートルダム
     ドフィーヌ・ド・ノートルダム(Dauphine de Nostredame)は、ノストラダムスの姉もしくは妹。しばしばノストラダムスの妹で第二子(長女)とされるが、生年がはっきりしないため、ミシェル(ノストラダムス)とドフィーヌのどちらが第一子だったのかは特定できない。1576年の遺言書で「大変な高齢」(Son extrême vieillesse)とあることから長子と推測するものもいる(*1)。  名前はデルフィーヌ(Delphine)と綴られることもある。  生涯をサン=レミ=ド=プロヴァンスで過ごし、独身を貫いた。弟のアントワーヌ・ド・ノートルダムとのかかわりでいくつかの史料に名を見出すことができる (*2)。  1576年の遺言書では、遺産の受取人としてアントワーヌとその息子クロード(未作成)を指名している(*3)。 ...
  • アンヌ・ド・ノートルダム
     アンヌ・ド・ノートルダム(Anne de Nostredame, 1559年12月15日 - 1597年以前)は、ノストラダムスとアンヌ・ポンサルドの間に生まれた次女(第五子)。  1559年12月15日にプロヴァンス州サロン・ド・クロー(現サロン=ド=プロヴァンス)に生まれた。かつてエドガール・ルロワらの研究では1558年頃の生まれとされていたが、兄セザールの自筆らしき手稿によって正確な生年月日が特定された(*1)。  トゥーロン(未作成)の有力者ピエール・ド・スヴァ(Pierre de Seva)と結婚し、息子メルキオール・ド・スヴァ(未作成)(Melchior de Seva)を生んだ。なお、ピエール・ド・スヴァについて、イアン・ウィルソンはラングドック州ボーケールのピエール・ド・セーヴ(Pierre de Sève)として紹介している(*2)。具体的な根拠があって...
  • トミーヌ・ド・ノートルダム
     トミーヌ・ド・ノートルダム(Thomine de Nostredame)は、ノストラダムスの甥であるクロードの娘。  1574年1月4日に洗礼を受けた。代父はサン=レミの神学博士でサン=マルタン参事会聖堂の参事会員でもあった伯父(または叔父)のピエール・ダルメラン(Pierre d Alméran)、代母はトミーヌ・リシエール(Thomine Richière)であった。  ピエール・ダルメランは、ジョーム・ド・ノートルダムが一時代理を務めた貴族アントワーヌ・アルメランの息子である。  彼女は、16世紀末にアヴィニョンの法学博士メルキオール=ジャック・ド・ジョアニス(Melchior-Jacques de Joannis(*1))の再婚相手となった。メルキオール=ジャックは、ノストラダムスの叔母に当たるマルグリット・ド・ノートルダムとその夫ピエール・ジョアニスの曾孫であ...
  • ノストラダムスの甥
     ノストラダムスの甥は、ノストラダムスの弟や妹の子供(男子)のこと。史料的に裏付けられる範囲では7人が確認できるが、いずれも特筆されるような業績は残していない。  しかし、16世紀半ばから17世紀初頭の偽ノストラダムスたちは、しばしば権威付けに「ノストラダムスの甥」と名乗った。ジャン・ド・ノートルダムはこのような風潮に対し、知人宛の手紙の中で、ノストラダムスの縁者であるかのように騙る占星術師たちはいずれも偽者であると断じている。  「ノストラダムスの甥」という名称はその後途絶えていたが、19世紀になると、暦書の名義として使われるようになった。『ノストラダムスの甥による1849年向けの絵入りの有用な予言暦』(Almanach Prophétique, Pittoresque et Utile pour 1849, Publié par neveu de Nostradamus...
  • クロード・ド・ノートルダム (ベルトランの子)
     クロード・ド・ノートルダム(Claude de Nostredame)は、ベルトラン・ド・ノートルダムとトミーヌ・ルースの息子で、ノストラダムスの甥にあたる。  1568年に父ベルトランがしたためた最初の遺言書で「30に満たない年齢」とされていることから、1538年から1543年の間にサン=レミで生まれたと考えられている(*1)。もっとも、ベルトランの結婚が1540年頃とされているので、もう少し狭められるのかもしれない。  妻の名はビエル・ダルメラン(Bielle d Alméran)ないしビエローヌ・ダルメラン(Biellone d Alméran)で、彼女はジョーム・ド・ノートルダムが一時代理を務めた貴族アントワーヌ・アルメランの娘と考えられている(*2)。ジョームは、アントワーヌ・アルメランの息子ジャック・ダルメラン、ピエール・ダルメランらと仲が良かったらしい(*3...
  • エクトール・ド・ノートルダム
     エクトール・ド・ノートルダム(Hector de Nostredame, 生没年未詳)は、ノストラダムスの弟の一人。サン=レミ=ド=プロヴァンスに生まれたが、洗礼記録などはなく、詳細は不明である。  弟のアントワーヌの息子エクトールの洗礼記録に、立ち会った代父として「商人のエクトール・ド・ノートルダム」の名が記されている(*1)。ほぼ間違いなく同一人物であろうから、エクトールの職業は商人だったと考えられる。  1546年4月26日の結婚契約書が残っている(*2)。相手の名はアントワネット・ド・モルゲート(Antoinette de Morguète)だが、アントワネットはアントネート(Anthonete)、トネート(Thonète)など、表記に揺れがある。  アントワネットはマルティーグ島のジャン・モルゲ(Jean Morguet(*3))とカトリーヌ・ド・ベランギエー...
  • アンヌ・ド・ノートルダム (ノストラダムスの孫)
     アンヌ・ド・ノートルダム(Anne de Nostredame, 1590年- 没年不明)は、シャルル・ド・ノートルダムとルイーズ・ベックの一人娘で、ノストラダムスの孫に当たる。1590年2月1日に洗礼を受けた記録があることは知られているが、それ以外については全く不明である(*1)。 関連項目 アンヌ・ド・ノートルダム(ノストラダムスの娘) アンヌ・ド・ノートルダム (ノストラダムスの姪) 名前 コメント
  • マドレーヌ・ド・ノートルダム
     マドレーヌ・ド・ノートルダム(Madeleine / Magdeleine de Nostredame, 1551年頃 - 1623年)は、ノストラダムスとアンヌ・ポンサルドの間に生まれた長女(第一子)。  1551年頃の生まれというのはエドガール・ルロワの推測であって、正確な生年は全くわからない。1553年12月に生まれたセザール・ド・ノートルダムがマドレーヌのことを「姉」(la soeur aînée)と明言していることなどからして、それ以前に生まれていたことは間違いない(*1)。  ノストラダムスは1547年11月に再婚したが、そのすぐ後にイタリアへの小旅行に出掛け、サロンに腰を落ち着けたのは1549年以降のことだったとされる。こうしたことも考慮すれば、ルロワの推測は十分に説得的なものといえるだろう。  マドレーヌの若いときのことはあまり分かっていない。ノストラダ...
  • アントワーヌ・ド・ブルボン
     アントワーヌ・ド・ブルボン (Antoine de Bourbon, 1518年 - 1562年) は、ヴァンドーム公、ナヴァル王(在位 1555年 - 1562年)。フランスのブルボン王朝の始祖アンリ4世の実父。  アントワーヌが生まれたブルボン家は、聖王ルイ9世の末子ロベール・ド・クレルモンの血を引いており、アントワーヌの時代には筆頭親王家として、領地はそれほどでもなかったが、家格はかなり高かった。そして、ナヴァル王家のジャンヌ・ダルブレと結婚したことで、1555年からは妻ジャンヌとともに、共同統治という形でナヴァル王となった。  アントワーヌは1550年代後半にはプロテスタントに傾倒しており、公然とそれらの運動にも加わっていた。しかし、シャルル9世の時代になってフランス王国総代官の地位についた後、プロテスタントに寛容な一月王令(1562年)が出ると、逆にカトリックへ...
  • ディアーヌ・ド・ノートルダム
     ディアーヌ・ド・ノートルダム(Diane de Nostredame, 1561年 - 1630年以降)は、ノストラダムスとアンヌ・ポンサルドの間に生まれた三女(第六子、末子)。ノストラダムスの子供の中で最後に生まれ、おそらく最後に亡くなった。  プロヴァンス州サロン・ド・クロー(現サロン=ド=プロヴァンス)に生まれ、1561年9月8日に洗礼を受けた。1564年10月に国王シャルル9世(未作成)と母后カトリーヌ・ド・メディシス(未作成)がサロンの町に立ち寄った際には、他の兄姉とともに、一家で謁見を果たした。ただし、このときのディアーヌはようやく3歳になったばかりだったので、本人の記憶には残らなかったであろう。  その後の詳しい生涯は不明だが、気難しい性格で独身を貫いたことは分かっている。  長兄セザールが1630年に作成した遺言書では、セザールの残す物財全ての用益...
  • カトリーヌ・ド・ノートルダム
     カトリーヌ・ド・ノートルダム(Catherine de Nostredame)は、ノストラダムスの叔母。ピエール・ド・ノートルダムとブランシュ・ド・サント=マリーの間に生まれた子供の一人で、長女と推測されている(*1)。エドガール・ルロワは認識していなかったが、ウジェーヌ・レー(未作成)の調査で明らかになった。  生年未詳は未詳である。1483年初め頃に、アルルの商人トロフィム・エカルディ(Trophime Aycardi)と結婚した。この時点で18歳以下であったろうとされている。ウジェーヌ・レーはその根拠を示していないが、おそらく両親の結婚の年から判断したものだろう。  その後、アルルの仲買人(négociant)であったトロフィム・マリー(Trophime Marie)と再婚し、一子(名前は未詳)をもうけたが、1498年に死別した。1502年には、アルルの改宗キリスト...
  • ジャン・ド・ノートルダム (早世した弟?)
     ジャン・ド・ノートルダム(Jean de Nostredame, 1522年 - 1534年以前)は、ノストラダムスの弟の一人として仮定されている人物。  ノストラダムスには、エクス高等法院検事を務めた弟のジャンがいるが、彼の生年は従来1507年とされていた。ところが、エドガール・ルロワが見つけた洗礼の記録は1522年のもので、通説とは著しくずれていた。ルロワは通説を支持せず、1522年が正しい生年としたが(*1)、ルロワの著書の改訂を手がけた人物は、高等法院検事の方を1507年生まれとした上で、1522年の洗礼の記録は、もう一人のジャンのものと位置づけた(*2)。  このジャンが1534年以前に死んでいたと推測されるのは、この年にジョーム・ド・ノートルダムが執筆した遺言書に名前がないからである。 実在していたのなら、それ以前に死んでいたということだが、逆を言えば、この...
  • カトリーヌ・ド・ノートルダム (ベルトランの子)
     カトリーヌ・ド・ノートルダム(Catherine de Nostredame, 1552年 - ?)は、ベルトラン・ド・ノートルダムの娘で、ノストラダムスの姪にあたる。  1552年7月7日の洗礼には、代父の医師サン=レミと、代母のカテリナ・ロンバルダ(Katherina Lombarda(*1))が立ち会った。エドガール・ルロワが指摘するように、代父はさすがにジャン・ド・サン=レミとは別人だろう。  タラスコンの平貴族(écuyer)であったピエール・ド・リスプ(Pierre de Rispe)の同名の息子ピエールと、1569年に結婚した。ただし、その際の結婚持参金を巡る契約と支払いに関して、ベルトランとリスプ家の間で数ヶ月にわたって諍いがあったという。  カトリーヌに関するその他の事項は、(没年も含めて)不明である(*2)。 ...
  • アントワーヌ・ド・ヴァンドームへの献辞
     ノストラダムスは『1557年向けの大いなる新占筮と驚異の予言』の冒頭に、ナヴァル王アントワーヌ・ド・ヴァンドームにあてた献辞を掲載した。 原文 A TRESEXCELLENT, NOBLE ET PVISSANT Roy de Nauarre, Anthoine de Vandosme, Michel de Nostre Dame son treshumble obeissant seruiteur, vie longue felicité. A Bien bonne raison, tresredoubté1 Sire, à tousiours esté l’ignorance estimee esté cause de tous maux, empeschement de tous biens, d’autant qu’il est impossible ...
  • アンドレ・ド・ノートルダム
     アンドレ・ド・ノートルダム(André de Nostredame, 1557年11月3日 - 1601年12月2日)は、ノストラダムスとアンヌ・ポンサルドの間に生まれた三男(第四子)。後半生を修道士として過ごした。  アンドレは1557年11月3日にプロヴァンス州サロン・ド・クロー(現サロン=ド=プロヴァンス)に生まれた。幼いころのことはよく分かっていないが、1564年にサロンの町に国王シャルル9世(未作成)と母后カトリーヌ・ド・メディシス(未作成)が立ち寄った際には、ノストラダムスの家族全員が謁見させてもらえたとされるので(*1)、当然、アンドレもそこに居合わせたことだろう。  ノストラダムスが1566年に没した際には、遺言によって、母親や2人の兄とともに家の権利を分有した。遺言が誠実に執行されたのなら、自身が25歳になった際(1582年)に100エキュを受け取るのと...
  • ジャン・ド・ノートルダム
     ジャン・ド・ノートルダム(Jean/Jehan de Nostredame, 1522年 - 1577年頃)は、フランスの法曹家、歴史家。ノストラダムスの弟のひとり。プロヴァンス史(特に文学史)の研究を行い、『最も名高い昔のプロヴァンス詩人たちの生涯』(Les vies des plus célèbres et anciens poètes provensaux(未作成))を刊行した。 生涯  ジャンはかつて1507年にサン=レミ=ド=プロヴァンスで生まれたとされていた。ただし、これは古い文献で示されていた出典の不明な記述である。  エドガール・ルロワは洗礼記録が1522年2月19日であることから、実際の生年を1522年とした(*1)。竹下節子、ジャンに関する研究で博士号を取得したカザノヴァ(J.Y.Casanova)、その研究を紹介したゲラールのように、これを支持する者...
  • 人名一覧
     ノストラダムスに関連する人名や団体名の一覧。  原則として姓をカタカナ表記した際のアルファベット順に並べている。「ド」などを姓に含むかどうかは、外国語文献の索引に準じて個別に判断している。また、一部日本人のペンネームは外国人名のように見えても全体で一つと見なしている(例えば、「フェニックス・ノア」は「は行」に掲載)。  なお、ノストラダムスの一族のうち、細かすぎる項目はノストラダムス一族の方に、出版業者のうちノストラダムス本人と関連性が薄い人物は出版業者の一覧の方に、それぞれ記載しているので、そちらを参照されたい。  名前の後の括弧は大まかな職業やグループわけを示している。斜線が引かれている場合、その前が職業などを指し、後ろがノストラダムス関連の立ち位置などを指す(「その他」とあるのは、専門的な研究者や信奉者的な解釈者と分類しづらい人物を示す)。 あ 明石三世(インテリ...
  • アントワーヌ・ウイック
     アントワーヌ・ウイック(Antoine Houic)は、16世紀パリの出版業者(活動期間 1566年-1585年)。未亡人マドレーヌ・ベルトランと結婚(初婚または再婚)し、マドレーヌの前夫チボー・ベソーの出版事業と「ゾウ」の旗印を引き継いだ。  1585年に引退し、その後はパリ盲人院の会計係(procureur et receveur)となった。出版事業は娘マリーの婿でチボー・ベソーの息子でもあるジャン・ベソーに引き継がれた。  アントワーヌ・ウイックは1588年11月20日に薬剤師ジャン・プレオーの未亡人ジェルメーヌ・ド・バル(Germaine de Bar)と再婚(または三婚)し、少なくとも1597年までは生きていたことが確認できる(*1)。 ノストラダムス関連 ノストラダムスの著書を出版したことはなかったようである。その代わり、自称「ノストラダムスの弟子」フ...
  • 今日は何の日
     ノストラダムスとゆかりのある日付をまとめる(一部にノストラダムス現象を含む)。ノストラダムスが存命中に直接関わった出来事は太字で示す(『予言集』以外での、手紙の日付を除く)。  なお、旧暦・新暦などの換算は行っていない。 1月 1月1日五島勉『イスラムvs.アメリカ 「終わりなき戦い」の秘予言』の発売日(奥付上の日付)(2002年)。 1月4日リヨン市立図書館でノストラダムスの展示『危機の時代のための予言』開催(3月22日まで)(1997年)。 1月12日フランス国立図書館でノストラダムスも含む展示『占星術と予言』開催(2月26日まで)(1994年)。 1月13日暦書あてのアンリ2世への献辞、王妃カトリーヌへの献辞のそれぞれ末尾に記された作成日(1556年)。 1月20日ノストラダムスがスペインでの宝探しに関する質問に答えた手紙の日付(1562年)。 1月23日ノストラダムスの秘...
  • Premier volume de la Bibliothèque du sieur de La Croix du Maine
     『ラ・クロワ・デュ・メーヌ殿の蔵書・第1巻』(Premier volume de la Bibliothèque du sieur de La Croix du Maine)は、ラ・クロワ・デュ・メーヌの主著。1584年にパリのアベル・ランジュリエ(Abel L Angelier)によって刊行された。 概要  正式名は『西暦500年以降現在に至るまでにフランス語で執筆したあらゆる著者たちの総目録であるところの、ラ・クロワ・デュ・メーヌ殿の蔵書・第1巻』(Premier volume de la Bibliothèque du sieur de La Croix du Maine, qui est un catalogue general de toutes sortes d autheurs qui ont escrit en françois depuis cinq cents...
  • アントワーヌ・デュ・ローヌ
     アントワーヌ・デュ・ローヌ(Antoine du Rosne, 生没年未詳)は、確認されている範囲では1545年から1562年までリヨンで出版業を営んでいた人物である(*1)。あだ名は「リズロ」(Lizerot)。彼が手がけた出版物で、確認されているものはそれほど多くない。 ノストラダムスとの関わり  ノストラダムスは1553年11月に自分の原稿をいい加減な形で出版した業者を提訴し、出版権を取り上げ、「リズロ」というあだ名を持つアントワーヌ・デュ・ロワイエ(Antoine du Royer)という人物に出版を任せている。この「アントワーヌ・デュ・ロワイエ」は、デュ・ローヌの誤記とされる(*2)。これが事実なら、ノストラダムスが著作を発表し始めた時期に、既に接点があったことになる。  その後、1557年と1558年にはノストラダムスが自由訳した著書『ガレノスの釈義(未作成)...
  • ダマリー・ド・ノートルダム
     ダマリー・ド・ノートルダム(Damary de Nostredame)は、アントワーヌ・ド・ノートルダムとロワーズ・ベルル(未作成)の娘で、ノストラダムスの姪にあたる。生年未詳だが、1587年4月19日にサン=レミのブルジョワ、シモン・ナヴァリ(Simon Navarry)と結婚したことと、1604年に姪のダマリー(未作成)(Damarie)の洗礼に代母として立ち会ったことだけ分かっている (*1)。  ちなみに、「ダマリー」というフランス人名は日本ではあまり馴染みがないと思われるが、フランスでは地名にもしばしば使われている。その語源は Dame Marie(貴婦人マリア)だという(*2)。 名前 ...
  • ノストラダムス関連年表
     このノストラダムス関連年表では、彼の生涯やノストラダムス現象に関わりのある主な出来事についてまとめた。  信奉者側がどのような事件を的中させたと主張しているかについては的中例として有名な予言を参照のこと。 ノストラダムスの存命中の関連年表 1503年12月14日(木曜日) - 誕生。 1518年頃? - アヴィニョン大学で自由七科を学んだとされる 1520年 - 学業を中断したと推測されている。 1521年 - 各地を遍歴し、薬草の採取や関連する知識の収集につとめる(- 1529年) 1529年10月23日 - モンペリエ大学医学部に入学。数年以内におそらく除籍。 1531年 - アジャンでアンリエット・ダンコスと最初の結婚。 1530年代後半? - 最初の妻と子どもをペスト(?)で失う。以降放浪したとされる。 1545年前後? - 手稿『オルス・アポロ』を...
  • 百詩篇第4巻88番
    原文 Le grand Antoine du1 nom de faict2 sordide3 De Phthyriase4 à5 son dernier rongé Vn qui de plomb vouldra estre cupide, Passant le port d esleu6 sera plongé7. 異文 (1) du de 1627 1644 1650Ri 1653 1665 1867LP (2) nom de faict moindre faict 1557B 1589PV 1649Ca 1650Le 1668, nom se fait 1588-89 (3) sordide fordide 1589PV (4) De Phthyriase Phthyriase 1588-89, De phintriase 1557B, De ...
  • クレール・ド・グリニャン
     クレール・ド・グリニャン(Claire de Grignan, 生没年未詳)は、ノストラダムスの長男セザールと結婚した女性。  ジャン・ド・グリニャン(Jean de Grignan)とジャンヌ・ド・クラポンヌ(Jeanne de Craponne)の娘で、セザールとは1604年に結婚した(*1)。母ジャンヌは、アダン・ド・クラポンヌの兄フレデリクの姪だという(*2)。  その容姿について、セザールは類まれなる美しさであると褒めている。  セザールとの間に子供はいなかった。  生没年に関する言及は関連書の中に見出せないが、1630年に書かれたセザールの遺言書では、遺産の受取人としてディアーヌ・ド・ノートルダムが指定されているので、それ以前に亡くなっていたものと思われる。 ...
  • アントワーヌ・デュ・ヴェルディエによる書誌情報
     アントワーヌ・デュ・ヴェルディエ(未作成)の書誌 『アントワーヌ・デュ・ヴェルディエの蔵書』(リヨン、1585年)は、ラ・クロワ・デュ・メーヌの書誌とともに、16世紀フランス書誌研究の双璧をなしている。ノストラダムスについての項目もあり、以下のように紹介されている(*1)。  以下に全訳を示すが、原書には段落分けが全くないので、当「大事典」で便宜的に区切った。 全訳  ミシェル・ノストラダムス (MICHEL NOSTRADAMUS)、プロヴァンス州サロン・ド・クローの医師・占星術師は、1550年以降1567年までの各年の暦書および占筮を執筆し、1566年7月2日に逝去した。  その暦書は予兆集を伴って、リヨンではジャン・ブロトーとアントワーヌ・ヴォランによってや、ブノワ・オドによって出版され、パリでも出版された。  加えて、四行詩による予言の10巻の百詩篇集は、見る...
  • ピエール・ド・ノートルダム (ノストラダムスの叔父)
     ピエール・ド・ノートルダム(Pierre de Nostredame)は、ノストラダムスの叔父。ピエール・ド・ノートルダムとブランシュ・ド・サント=マリーの間に生まれた子供の一人で、三男と推測されている(*1)。父のピエールやカルパントラのピエール・ド・ノートルダム(未作成)と区別されるときには、「アルルのピエール・ド・ノートルダム」と表記されることがある。  父親と同じく商業を営んだが、1513年以降は活動拠点を出生地アヴィニョンからアルルに移した。その商取引に関する記録がいくつも残っている。  この人物は、ノストラダムスの親族の中で唯一人「予言的」なエピソードが公証記録に残されている点で、特徴的といえるかもしれない。  それによると、1535年9月15日に、タラスコンの商人で改宗キリスト教徒であったトマ・ド・バレーム(Thomas de Barrème)と賭けをした...
  • ヴァンサン・セーヴ
     ヴァンサン・セーヴ(Vincent Sève, 1585年? - 1657年?)は、六行詩集の冒頭に掲載された前書き(しばしば「アンリ4世への献辞」といわれる)の著者。  従来は実在性自体がはっきりしなかったが、1990年代以降、郷土史家ジャン・ロッシュ(Jean Roche)の研究などによって、いくらかの点が明らかにされている。  それによると、ヴァンサン・セーヴは大工の親方アントワーヌ・セーヴと、マルグリット・ジュリアンの子として生まれたが、直接的な洗礼記録などは見つかっていないという。ただし、弟トゥーサンが1587年7月19日に洗礼を受けた記録があるため、そこからの推測で1585年ごろではないかとされる。  青少年期の多くをボーケールで過ごしたと考えられ、彼自身の手稿では、地元の愚連隊のような集団に加わっていたことを述懐しているという。  19世紀の郷土史家が持...
  • ミシェル=ベルトラン・ド・ノートルダム
     ミシェル=ベルトラン・ド・ノートルダム(Michel-Bertrand de Nostredame, 1578年 - 1637年以前)は、ノストラダムスの甥であるクロードの息子。一族で最も有名な大伯父「ミシェル」(ノストラダムス)と、プロヴァンス総督の従者を務めた祖父「ベルトラン」の名を与えられた男児だが、ベルトランが築き上げた名家としての地位と財産を潰してしまった不肖の孫である。 生涯  1578年11月1日にサン=レミ=ド=プロヴァンスで洗礼を受けた。姉トミーヌの時と同じく、代父は伯父(または叔父)でもあるピエール・ダルメランがつとめた。代母はクローズ領主(sieur de Crozes)の夫人シルヴィ・ド・ブランケ(Sylvie de Brancquais)である。なお、シルヴィの夫ポール・ミストラル・ド・モンドラゴンの一族の邸宅は、現在、サン=レミのアルピーユ博物館になっ...
  • ピエール・ド・ノートルダム
     ピエール・ド・ノートルダム(Pierre de Nostredame, 1430年頃 - 1485年頃)は、ノストラダムスの父方の祖父。アヴィニョンで穀物商と高利貸を営んでいた。クレカ・ド・カルカソンヌ(Crescas de Carcassonne)、ギ・ガソネ(Guy Gassonnet)、ギドン・ガソネ(Guidon Gassonnet)、ヴィド・ガソメ(Vido Gassomet)、ペロ・ド・サント=マリー(Perrot / Peyrot de Sainte-Marie)など、多くの名で公文書に記録されている(*1)。  関連文献においてカルパントラのピエール・ド・ノートルダム(未作成)や、息子であるアルルのピエール・ド・ノートルダムと区別するときには、「アヴィニョンのピエール・ド・ノートルダム」と書かれることもある。 生涯  ダヴァン・ド・カルカソンヌの子供の一人...
  • アントワーヌ・クレスパン
     アントワーヌ・クレスパン(Antoine Crespin、生没年不明)はノストラダムスに便乗して「ノストラダムス」を名乗った占星術師の一人である。 【画像】著書でしばしば使われた肖像画(*1) 筆名の変遷 アントワーヌ・クレスパン、通称ノストラダムス(Antoine Crespin dict Nostradamus)処女作(1570年)で1度だけ名乗った。 アントワーヌ・クレスパン・ノストラダムス(Antoine Crespin Nostradamus)1571年から1573年に使っていた。この時期が最も刊行点数が多い。 クレスパン・アルキダムス(Chrespin Archidamus)1573年から1578年に使っていた。 A.C.アルキダムス(A.C.Archidamus)1581年に一度だけ使った。 アントワーヌ・クレスパン・アルキダムス(Anthoine Cr...
  • ベルトラン・ド・ノートルダム
     ベルトラン・ド・ノートルダム(Bertrand de Nostredame, 1518年 - 1602年以降)は、ノストラダムスの弟の一人。ジョーム・ド・ノートルダムとレニエール・ド・サン=レミの間に生まれた。プロヴァンス州サン=レミの商人、軍人。  「ベルトラン・ド・ノストラダムス」とも名乗った。ノストラダムスの弟でノストラダムスを名乗ったのは、ジャンとベルトランだけである。 生涯  プロヴァンス州サン=レミで、1518年の6月4日から7月10日の間に洗礼を受けた(*1)。日付が曖昧なのは、現存している史料が不完全な形でしか残っていないためだという。名付け親が、代父ベルトラン・ユゴラン(Bertrand Hugolin)、代母ジョルダーヌ・ド・ラ・メール(Jordane de la Mer)ということは分かっている。  1540年頃にラマノンの領主の娘であるトミーヌ・...
  • アントワーヌ・ヴォラン
     アントワーヌ・ヴォラン(Antoine Volant)は16世紀リヨンの出版業者。  出版業・書肆以外にも芸術方面に才能を発揮し、1545年から1573年までの間に、彫刻家(tailleur d histoires(*1))、画家、ドミノチエ(dominotier(*2))などの職業も経験していた。  1561年からは出版業者のトマ・ド・ストラトン(Thomas de Straton)と親しくなり、共同事業なども行った。1564年にリヨンでペストが流行したときには、ヴォランは子ども2人の後見人にストラトンを指名したほどに信頼していたが、皮肉にもそのペスト流行時にストラトンが病没してしまった(*3)。 ノストラダムス関連  1555年に『化粧品とジャム論』の初版を出版し、1556年と1560年に再版した。  暦書の共同出版も行い、ジャン・ブロトーと共同で 『1558...
  • トミーヌ・ルース
     トミーヌ・ルース(Thomine Rousse)は、ベルトラン・ド・ノートルダムの妻。  ラマノンの領主の娘で、1540年頃に当時サン=レミの商人だったベルトランと結婚し、1555年までに二男四女をもうけた(*1)。  ノストラダムスの妻であるアンヌ・ポンサルドの幼馴染として、1547年の時点で30歳くらいとする説もあるが(*2)、どのような根拠で導かれたものなのか、よく分からない。 名前 コメント
  • La Grand' Pronostication novvelle avec Portentevse prediction
     『1557年向けの大いなる新占筮と驚異の予言』(La Grand Pronostication nouvelle avec Portenteuse prediction, pour l An M. D. LVII.)は、ノストラダムスの暦書のひとつ。1557年にパリのジャック・ケルヴェールによって出版された。 【画像】『1557年向けの大いなる新占筮と驚異の予言』の扉(*1) 正式名 La Grand Pronostication novvelle avec Portentevse prediction, pour l An M. D. LVII. Composée par Maistre Michel de nostre Dame, Docteur en Medecine de Salon de Craux en Prouence.Contre ceulx qu...
  • 化粧品とジャム論 (ヴォラン、1560年)
     『化粧品とジャム論』は、1560年にもリヨンのアントワーヌ・ヴォランによって再版されたようである。 正式名 Excellent moult utile Opuscule à touts necessaire, qui desirent auoir cognoissance de plusieurs exquises Receptes, diuisé en deux parties.La premiere traicte de diuerses façon de Fardemens Senteurs pour illustrer embellir la face. La seconde nous monstre la façon maniere, de faire confitures de plusieurs sortes, tant en miel, que s...
  • 暦書
     ノストラダムスは、1549年頃から翌年一年を予言した刊行物を出版していた。ここではそれらを「暦書」(れきしょ)類と総称する。「暦」、「暦本」、「占星暦」などとも訳される。 概要  ノストラダムスの年季刊行物は「暦書」と総称されることが多いが、実際には、初期に出されていたのは主に「占筮」(せんぜい)と呼ばれる散文体の予測で、1557年向けのものあたりからカレンダー形式の予測「暦書」が並行的に刊行され、1563年向けのものから両者を合本した「暦書」が出されるようになった(*1)。  「暦書」類は1550年向けから1567年向けまで出されていたが、1551年向けは内容が残っていないだけでなく、出されていたかどうかも分かっていない。  「暦書」類には各月ごとに四行詩が添えられたものもあり、これがのちに『予兆詩集』の素材となった。予兆詩は1555年向けのものが最初であり、以...
  • シャルル・ド・ノートルダム
     シャルル・ド・ノートルダム(Charles de Nostredame, 1556年 - 1629年12月頃)は、ノストラダムスとアンヌ・ポンサルドの間に生まれた次男(第三子)。軍人、詩人。  1556年にプロヴァンス州サロン・ド・クロー(現サロン=ド=プロヴァンス)に生まれた。幼いころのことはよく分かっていないが、1564年にサロンの町に国王シャルル9世(未作成)と母后カトリーヌ・ド・メディシス(未作成)が立ち寄った際には、ノストラダムスの家族全員が謁見させてもらえたとされるので(*1)、当然、シャルルもそこに居合わせたことだろう。  ノストラダムスが1566年に没した際には、遺言によって、母親、兄、弟とともに家の権利を分有した。遺言が誠実に執行されたのなら、自身が25歳になった際に100エキュを受け取ったはずだが、弟アンドレが25歳になった時点(1582年)で家の所有...
  • 化粧品とジャム論 (ヴォラン、1556年)
     『化粧品とジャム論』は、1556年にもリヨンのアントワーヌ・ヴォランによって再版された。 【画像】初版ないし1556年版の扉。説明は後述(*1)。 正式名 Excellent moult utile Opuscule à touts necessaire, qui desirent auoir cognoissance de plusieurs exquises Receptes, diuisé en deux parties.La premiere traicte de diuerses façon de Fardemens Senteurs pour illustrer embellir la face. La seconde nous monstre la façon maniere, de faire confitures de plusie...
  • ブランシュ・ド・サント=マリー
     ブランシュ・ド・サント=マリー(Blanche de Sainte-Marie)は、ノストラダムスの父方の祖母。ブランシュ・ド・ノートルダムとも名乗った。 生涯  生年は未詳である。医師ピエール・ド・サント=マリー(未作成)の娘として生まれ、1464年にピエール・ド・ノートルダムと結婚したときには、エクス=アン=プロヴァンスに住んでいた(*1)。  ジョーム、フランソワ、ピエール、カトリーヌ、バルトロメ、マルグリットという6人の子供をもうけた。  没年も未詳だが、1503年2月15日に、借金取立ての権利を代理人ピエール・ジョアニスに譲った記録があるので、少なくともその頃までは生きていたことが明らかになっている(*2)。 名前 ...
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