レニエール・ド・サン=レミ

ノストラダムス wiki : ノストラダムスの大事典内検索 / 「レニエール・ド・サン=レミ」で検索した結果

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  • レニエール・ド・サン=レミ
     レニエール・ド・サン=レミ(Reynière de Saint-Rémy)はノストラダムスの母。ルネ・ド・サン=レミ(Renée de Saint-Rémy)とも表記される。  父ルネ・ド・サン=レミ(René de Saint-Rémy)と母ベアトリス・トゥレルの間に生まれたが、詳しいことはわかっていない。エドガール・ルロワは、おそらくキリスト教徒だったと推測している(*1)。  生没年も不明だが、ウジェーヌ・レーは1536年以降に歿したと推測している(*2)。 名前 コメント
  • ジャン・ド・サン=レミ
     ジャン・ド・サン=レミ(Jean de Saint-Rémy, 1428年頃 - 1504年?)は、ノストラダムスの母方の曽祖父。サン=レミ=ド=プロヴァンスの医師であった。 生涯  ジャン・ド・サン=レミの正確な生年は不明である。1478年10月の公文書で50歳と記載されていることなどから、1428年頃の生まれとされる(*1)。  確認されている限りでは、ジャンはキリスト教徒であった。通俗的には、本人ないしその父親が改宗した元ユダヤ教徒だったとされるが、その辺りの事情を証明できる史料は残っていない(*2)。  時期は不明だがシレット(Sillette)という女性と結婚し、息子ルネをもうけた。ルネはベアトリス・トゥレルと結婚したが、1479年頃に亡くなり、ベアトリスの父ジャックとジャン・ド・サン=レミの間で、ベアトリスの結婚持参金返還をめぐる係争があった(*3)。 ...
  • アントワーヌ・ド・ノートルダム
    ...・ド・ノートルダムとレニエール・ド・サン=レミの間に生まれた。プロヴァンス州サン=レミの役人、法曹家。  1523年4月27日に洗礼を受けた記録がある。1547年から1597年までについては、公証人バディナンクによる記録に多く見出せる。このため、そのときまで生きていたことは確かだが、正確な没年は不明である(*1)。ラメジャラーは1597年没としていたが(*2)、明らかに誤認だろう。  職業は記録によって様々で、1550年から1551年にはサン=レミの徴税吏 (exacteur de la taille)、1557年にはサン=レミ市の代訴人 (procureur)、1558年にはサン=レミ市の執政官 (consul) および法廷の書記 (greffier) などとして記録されている。また、しばしば「プラチシャン」 (praticien) という肩書きが名前に付けられてい...
  • ベルトラン・ド・ノートルダム
    ...・ド・ノートルダムとレニエール・ド・サン=レミの間に生まれた。プロヴァンス州サン=レミの商人、軍人。  「ベルトラン・ド・ノストラダムス」とも名乗った。ノストラダムスの弟でノストラダムスを名乗ったのは、ジャンとベルトランだけである。 生涯  プロヴァンス州サン=レミで、1518年の6月4日から7月10日の間に洗礼を受けた(*1)。日付が曖昧なのは、現存している史料が不完全な形でしか残っていないためだという。名付け親が、代父ベルトラン・ユゴラン(Bertrand Hugolin)、代母ジョルダーヌ・ド・ラ・メール(Jordane de la Mer)ということは分かっている。  1540年頃にラマノンの領主の娘であるトミーヌ・ルースと結婚した。トミーヌとの間には、クロード、ジャン、ジャンヌ、カトリーヌ、リュクレース、ブランシュという二男四女をもうけることになる。 ...
  • ルネ・ド・サン=レミ
     ルネ・ド・サン=レミ(René de Saint-Rémy)はノストラダムスの母方の祖父。ノストラダムスの母であるルネ(Renée)とは綴りが異なる。  ベアトリス・トゥレルと結婚し、娘ルネをもうけたことは確かだが、それ以外の伝記的な事柄は全くわからない。  ピーター・ラメジャラーは1479年頃歿と推測している(*1)。その根拠を明示していないが、おそらく1479年にルネの「管財人」でもあった父ジャン・ド・サン=レミと、ベアトリスの父ジャック・トゥレルとの間で、ベアトリスの持参金返却を巡る諍いがあったことを踏まえたものだろう(*2)。いずれにしても、娘ルネとジョーム・ド・ノートルダムが1495年に結婚した時点では、故人として扱われている(*3)。 名前 ...
  • ノストラダムス一族
    ...ムスの母方の祖母) レニエール・ド・サン=レミ(ノストラダムスの母) ノストラダムスの兄弟 一段下げているのは配偶者や子供たち ドフィーヌ・ド・ノートルダム(デルフィーヌ・ド・ノートルダム) エクトール・ド・ノートルダム ベルトラン・ド・ノートルダムトミーヌ・ルース(ベルトランの妻) クロード・ド・ノートルダム (ベルトランの子)トミーヌ・ド・ノートルダム ミシェル=ベルトラン・ド・ノートルダム ジャン・ド・ノートルダム (ベルトランの子) ジャンヌ・ド・ノートルダム (ベルトランの子) カトリーヌ・ド・ノートルダム (ベルトランの子) リュクレース・ド・ノートルダム ブランシュ・ド・ノートルダム ジャン・ド・ノートルダム アントワーヌ・ド・ノートルダムジャン・ド・ノートルダム (アントワーヌの子) エクトール・ド・ノートルダム (アントワーヌの子) ジャンヌ・ド・ノートルダ...
  • サン=レミ=ド=プロヴァンス
     サン=レミ=ド=プロヴァンス(Saint-Rémy-de-Provence)は、南フランスのブーシュ=デュ=ローヌ県の都市である。ノストラダムスの生誕地として、また画家ゴッホの療養地として国際的に知られている。 概要  アルピーユ山脈のふもとに位置し、町の歴史は古代ローマの入植地だった頃に遡る。当時の遺跡はサン=レミの近郊に残っている(グラヌムの遺跡)。  10世紀には近隣にロマネスク様式のサン=ポール=ド=モゾル修道院が建造され、1810年から私営の精神病院に転用されている。その病院は画家ゴッホが療養のため滞在していたことがあるため、国際的に有名である(ゴッホが滞在していた部屋は見学可能)。この病院の背後には採石場跡であるマス・ド・ラ・ピラミッドがある。  現在の町の中心部には、町の歴史や文化にゆかりのある博物館がいくつもある。  サドの館(Hôtel de Sad...
  • ジョーム・ド・ノートルダム
     ジョーム・ド・ノートルダム(Jaume de Nostredame, 1470年頃 - 1547年頃)は、ノストラダムスの父。アヴィニョンとサン=レミで、商人、公証人などとして活動した。  ジョメ・ド・ノートルダム(Jaumet de Nostredame)、ジャック・ド・ノートルダム(Jacques de Nostredame)、ジャック・ド・サント=マリー(Jacques de Sainte-Marie)などとも記録され(*1)、ラテン語名はヤコブス・デ・ノストラ・ドミナ(Jacobus de Nostra Domina)である(*2)。 生涯  ジョームは1470年頃にアヴィニョンで生まれた(*3)。父ピエールの死は1485年頃で、ジョームが15歳頃にあたっている。ジョームは当初父の職をついでアヴィニョンで商業と貸金業を営んでいたが、1495年5月14日にプロヴァンス州サ...
  • ジル・ド・サン=ジル
     ジル・ド・サン=ジル(Gilles de saint-Gilles)は16世紀パリの出版業者。1577年から1589年まで活動した(*1)。 ノストラダムス関連  ノストラダムス本人の著書は出さなかったようである。  アントワーヌ・クレスパンの『彗星の予兆と影響を提示するための、国王ならびに世紀の哲学論争の当事者たちに宛てた書簡』(1577年)、『五年間の天文的占筮』(1586年頃)を出版した。また、現存しないが、クレスパンの『1581年向けの驚異の大占筮』(1580年頃)も出したらしい。  ほかに、ピエール・メニエが出版したクレスパンの『驚異の予言』の特認はサン=ジルに向けて出されており、末尾にサン=ジルがメニエの出版を許諾した旨の追記がなされている。 名...
  • カトリーヌ・ド・ノートルダム (ベルトランの子)
     カトリーヌ・ド・ノートルダム(Catherine de Nostredame, 1552年 - ?)は、ベルトラン・ド・ノートルダムの娘で、ノストラダムスの姪にあたる。  1552年7月7日の洗礼には、代父の医師サン=レミと、代母のカテリナ・ロンバルダ(Katherina Lombarda(*1))が立ち会った。エドガール・ルロワが指摘するように、代父はさすがにジャン・ド・サン=レミとは別人だろう。  タラスコンの平貴族(écuyer)であったピエール・ド・リスプ(Pierre de Rispe)の同名の息子ピエールと、1569年に結婚した。ただし、その際の結婚持参金を巡る契約と支払いに関して、ベルトランとリスプ家の間で数ヶ月にわたって諍いがあったという。  カトリーヌに関するその他の事項は、(没年も含めて)不明である(*2)。 ...
  • エクトール・ド・ノートルダム
     エクトール・ド・ノートルダム(Hector de Nostredame, 生没年未詳)は、ノストラダムスの弟の一人。サン=レミ=ド=プロヴァンスに生まれたが、洗礼記録などはなく、詳細は不明である。  弟のアントワーヌの息子エクトールの洗礼記録に、立ち会った代父として「商人のエクトール・ド・ノートルダム」の名が記されている(*1)。ほぼ間違いなく同一人物であろうから、エクトールの職業は商人だったと考えられる。  1546年4月26日の結婚契約書が残っている(*2)。相手の名はアントワネット・ド・モルゲート(Antoinette de Morguète)だが、アントワネットはアントネート(Anthonete)、トネート(Thonète)など、表記に揺れがある。  アントワネットはマルティーグ島のジャン・モルゲ(Jean Morguet(*3))とカトリーヌ・ド・ベランギエー...
  • ノストラダムス
    ...ノートルダムとその妻レニエール・ド・サン=レミの長男として生まれた。  第一子か第二子かについては議論がある。  出生記録や洗礼記録は確認されていないが、個人的な手紙で12月12日を誕生日の2日前と語っていることなどから、間接的に裏付けられている(*4)。  ただし、パトリス・ギナール(未作成)は12月21日とする新説を唱えている。この点について詳しくは記事「ノストラダムスの誕生日」を参照のこと。  なお、ノストラダムスの秘書だったことがあるジャン=エメ・ド・シャヴィニーが主張しだした正午ごろに生まれたとする説は、裏づけとなる資料が確認されていない。  また、出生に関する直接的な記録がない以上、アーサー・クロケットなどが主張する 「ノストラダムスの誕生時にサン=レミ上空に見知らぬ光が現れた」などということは、実証的には全く支持できないし、神秘性を強調しようとした...
  • ブランシュ・ド・サント=マリー
     ブランシュ・ド・サント=マリー(Blanche de Sainte-Marie)は、ノストラダムスの父方の祖母。ブランシュ・ド・ノートルダムとも名乗った。 生涯  生年は未詳である。医師ピエール・ド・サント=マリー(未作成)の娘として生まれ、1464年にピエール・ド・ノートルダムと結婚したときには、エクス=アン=プロヴァンスに住んでいた(*1)。  ジョーム、フランソワ、ピエール、カトリーヌ、バルトロメ、マルグリットという6人の子供をもうけた。  没年も未詳だが、1503年2月15日に、借金取立ての権利を代理人ピエール・ジョアニスに譲った記録があるので、少なくともその頃までは生きていたことが明らかになっている(*2)。 名前 ...
  • フロリモンド・ド・ノートルダム
     フロリモンド・ド・ノートルダム(Florimonde de Nostredame, 1558年 - 没年未詳)は、エクトール・ド・ノートルダムの娘で、ノストラダムスの姪の一人。  1558年9月4日にサン=レミ=ド=プロヴァンスで洗礼を受けた。洗礼に立ち会った代父は地元の執政官エチエンヌ・モラン(Etienne Maurin)、代母はフロリモンド・ラノス(Florimonde Ranosse)で、フロリモンドの名はこの代母にあやかったものである。  1577年にサン=レミの記録から消えたようだが、詳細は不明である(*1)。 名前 ...
  • ピエール・ド・ノートルダム
     ピエール・ド・ノートルダム(Pierre de Nostredame, 1430年頃 - 1485年頃)は、ノストラダムスの父方の祖父。アヴィニョンで穀物商と高利貸を営んでいた。クレカ・ド・カルカソンヌ(Crescas de Carcassonne)、ギ・ガソネ(Guy Gassonnet)、ギドン・ガソネ(Guidon Gassonnet)、ヴィド・ガソメ(Vido Gassomet)、ペロ・ド・サント=マリー(Perrot / Peyrot de Sainte-Marie)など、多くの名で公文書に記録されている(*1)。  関連文献においてカルパントラのピエール・ド・ノートルダム(未作成)や、息子であるアルルのピエール・ド・ノートルダムと区別するときには、「アヴィニョンのピエール・ド・ノートルダム」と書かれることもある。 生涯  ダヴァン・ド・カルカソンヌの子供の一人...
  • ノストラダムス研究史 (伝記研究)
     ノストラダムスの伝記研究の歴史について概観する。  「ノストラダムスとは何者か」 を考えるとき、彼の生涯を実証的に裏付けてゆく作業は欠かせない。しかし、それが本格化したのは20世紀半ばになってからのことであった。 伝説の形成  ノストラダムスについての最初の評伝はジャン=エメ・ド・シャヴィニーの 「ミシェル・ド・ノートルダム師の生涯に関する小論」 だろう。これは彼の著書 『フランスのヤヌスの第一の顔』(1594年) に収録され、17世紀以降の『予言集』 の多くの版に再録されたことで、そこに描かれたユダヤ系の名家に生まれ、医師としても予言者としても絶大な成功を収めたノストラダムスの生涯や人物像が、大いに広められた。  断片的な情報ではあったが、ノストラダムスの実子セザール・ド・ノートルダムの『プロヴァンスの歴史と年代記』(1614年) も、ノストラダムスについての情報を提供した...
  • リュクレース・ド・ノートルダム
     リュクレース・ド・ノートルダム(Lucrèce de Nostredame, 1554年 - 1596年以降)は、ベルトラン・ド・ノートルダムの娘で、ノストラダムスの姪にあたる。  1554年7月15日にサン=レミ=ド=プロヴァンスで、代父ピエール・ド・リスプらの立会いのもと洗礼を受けた。リスプの息子は後にリュクレースの姉カトリーヌと結婚した。  1577年2月17日にアルルのブルジョワであるジャン・ドモンド(Jean Demonde)と結婚したことがわかっているが、それ以外のことは不明である。1596年のベルトランの遺言書でも言及があるので、少なくともその時までは生きていたらしい(*1)。 名前 ...
  • ミシェル=ベルトラン・ド・ノートルダム
     ミシェル=ベルトラン・ド・ノートルダム(Michel-Bertrand de Nostredame, 1578年 - 1637年以前)は、ノストラダムスの甥であるクロードの息子。一族で最も有名な大伯父「ミシェル」(ノストラダムス)と、プロヴァンス総督の従者を務めた祖父「ベルトラン」の名を与えられた男児だが、ベルトランが築き上げた名家としての地位と財産を潰してしまった不肖の孫である。 生涯  1578年11月1日にサン=レミ=ド=プロヴァンスで洗礼を受けた。姉トミーヌの時と同じく、代父は伯父(または叔父)でもあるピエール・ダルメランがつとめた。代母はクローズ領主(sieur de Crozes)の夫人シルヴィ・ド・ブランケ(Sylvie de Brancquais)である。なお、シルヴィの夫ポール・ミストラル・ド・モンドラゴンの一族の邸宅は、現在、サン=レミのアルピーユ博物館になっ...
  • 今日は何の日
    ...・ド・ノートルダムとレニエール・ド・サン=レミが結婚(1495年)。 6月 6月3日ノストラダムス解釈者ウジェーヌ・バレストの逝去(1861年)。 6月13日ノストラダムス研究者エヴリット・ブライラーの逝去(2010年)。 6月14日アンペリ城(サロン=ド=プロヴァンス)で展示『危機の時代のための予言』開催(9月21日まで)(2003年)。 6月16日五島勉(『ノストラダムスの大予言』シリーズの著者)が誤嚥性肺炎で逝去(2020年)。 6月17日ノストラダムスの遺言書作成(1566年)。 パリでエクトール・リゴーの遺した文献が競売に掛けられる(1931年)。 6月20日ノストラダムス解釈者アンリ・トルネ=シャヴィニーの誕生(1826年)。 6月22日アヴィニョン版『予言集』に基づくとする第一序文の日付(「1555年」)。 6月27日アンリ2世への手紙(予言集第二序文)末尾に記された...
  • トミーヌ・ド・ノートルダム
     トミーヌ・ド・ノートルダム(Thomine de Nostredame)は、ノストラダムスの甥であるクロードの娘。  1574年1月4日に洗礼を受けた。代父はサン=レミの神学博士でサン=マルタン参事会聖堂の参事会員でもあった伯父(または叔父)のピエール・ダルメラン(Pierre d Alméran)、代母はトミーヌ・リシエール(Thomine Richière)であった。  ピエール・ダルメランは、ジョーム・ド・ノートルダムが一時代理を務めた貴族アントワーヌ・アルメランの息子である。  彼女は、16世紀末にアヴィニョンの法学博士メルキオール=ジャック・ド・ジョアニス(Melchior-Jacques de Joannis(*1))の再婚相手となった。メルキオール=ジャックは、ノストラダムスの叔母に当たるマルグリット・ド・ノートルダムとその夫ピエール・ジョアニスの曾孫であ...
  • ジャン・ド・ノートルダム (アントワーヌの子)
     ジャン・ド・ノートルダム(Jean de Nostredame, 生没年未詳)は、ノストラダムスの末弟アントワーヌ・ド・ノートルダムの息子。十男十女のおそらく長男(第一子)。  1567年8月19日にサン=レミの服飾親方ピエール・スピグ(Pierre Spigue)もしくはピエール・エピゴル(Pierre Espigol)のもとに徒弟修業に出されたという記録以外は不明(*1)。 関連項目 ジャン・ド・ノートルダム(高等法院検事) ジャン・ド・ノートルダム (早世した弟?) ジャン・ド・ノートルダム (ベルトランの子) 名前 コメント
  • ジャンヌ・ド・ノートルダム (ベルトランの子)
     ジャンヌ・ド・ノートルダム(Jeanne de Nostredame, 1545年8月11日 - ?)は、ベルトラン・ド・ノートルダムの娘で、ノストラダムスの姪にあたる。  サン=レミ=ド=プロヴァンスで生まれた。洗礼に立ち会った代父は、ジョーム・ド・ノートルダムが一時代理を務めた貴族アントワーヌ・アルメランの息子ピエール・アルメランで、代母はラマノンの貴族ヨハンナ・グイレマンダ(Johanna Guiremanda(*1))だった。  サロン・ド・クローの名士でたびたび市の執政官にもなっていたトロン・ド・クドゥレ家の当主(Tronc de Coudoulet)と1565年に結婚した。エドガール・ルロワの研究書では、その名は本文ではピエール・トロン・ド・クドゥレとなっているのに対し、家系図ではジャン(Jehan)となっている。  なお、ノストラダムスがサロン滞在中...
  • ベアトリス・トゥレル
     ベアトリス・トゥレル(Béatrice Tourrel)は、ノストラダムスの母方の祖母。マルセイユ出身のジャック・トゥレルという人物の娘で、ルネ・ド・サン=レミと結婚したということ以外には、この人物の伝記的事実は何も知られていない(*1)。トゥレル家自体は、サン=レミ=ド=プロヴァンスでは19世紀まで知られた名だったという(*2)。 名前 コメント
  • アンヌ・ド・ノートルダム (ノストラダムスの姪)
     アンヌ・ド・ノートルダム(Anne de Nostredame, 1554年5月29日 - 没年不明)は、アントワーヌ・ド・ノートルダムとロワーズ・ベルルの娘で、ノストラダムスの姪に当たる。  1554年5月29日にプロヴァンス州サン=レミ(現サン=レミ=ド=プロヴァンス)に生まれた。アントワーヌの10人の子供(五男五女)の中では、次女(第五子)に当たる。  1571年1月29日に結婚したが、結婚契約書の字が読みづらいらしく、夫の名前は疑問符つきでスプリ・ボワリエ(Sperit Boylier)もしくはスプリ・ベルリエ(Sperit Berlier)とされている(*1)。  なお、エドガール・ルロワは下に掲げるノストラダムスの娘や孫とも違う第4の「アンヌ・ド・ノートルダム」が16世紀末から17世紀初頭のサン=レミにいたとしているが、このノストラダムスの姪と同一人物...
  • エドガール・ルロワ
     エドガール・ルロワ(Edgar Leroy, 1883年4月17日-1965年4月2日)はフランスの精神科医、歴史家(郷土史家)。ノストラダムスの実証的な伝記研究に先鞭をつけた人物として、現在でもノストラダムスを歴史学的・文学的な視点で研究する論者たちから高く評価されている。 生涯  リール(未作成)に生まれ、生物学で学士号を、精神医学で博士号をそれぞれ取得した。第一次世界大戦の影響で家財を失ったあと、求めに応じてサン=レミ=ド=プロヴァンス(この記事では以下サン=レミと略記)に精神科医として赴任し、終生その町で過ごした。サン=レミでは本業の傍ら、地元にゆかりのある歴史上の有名人ゴッホとノストラダムスに関心を持ち、調査を行った。  とりわけノストラダムスについては、『プロヴァンス歴史学研究所論集』誌(Mémoires de l Institut Historique de...
  • ピエール・ド・ノートルダム (ノストラダムスの叔父)
     ピエール・ド・ノートルダム(Pierre de Nostredame)は、ノストラダムスの叔父。ピエール・ド・ノートルダムとブランシュ・ド・サント=マリーの間に生まれた子供の一人で、三男と推測されている(*1)。父のピエールやカルパントラのピエール・ド・ノートルダム(未作成)と区別されるときには、「アルルのピエール・ド・ノートルダム」と表記されることがある。  父親と同じく商業を営んだが、1513年以降は活動拠点を出生地アヴィニョンからアルルに移した。その商取引に関する記録がいくつも残っている。  この人物は、ノストラダムスの親族の中で唯一人「予言的」なエピソードが公証記録に残されている点で、特徴的といえるかもしれない。  それによると、1535年9月15日に、タラスコンの商人で改宗キリスト教徒であったトマ・ド・バレーム(Thomas de Barrème)と賭けをした...
  • クロード・ド・ノートルダム (ベルトランの子)
     クロード・ド・ノートルダム(Claude de Nostredame)は、ベルトラン・ド・ノートルダムとトミーヌ・ルースの息子で、ノストラダムスの甥にあたる。  1568年に父ベルトランがしたためた最初の遺言書で「30に満たない年齢」とされていることから、1538年から1543年の間にサン=レミで生まれたと考えられている(*1)。もっとも、ベルトランの結婚が1540年頃とされているので、もう少し狭められるのかもしれない。  妻の名はビエル・ダルメラン(Bielle d Alméran)ないしビエローヌ・ダルメラン(Biellone d Alméran)で、彼女はジョーム・ド・ノートルダムが一時代理を務めた貴族アントワーヌ・アルメランの娘と考えられている(*2)。ジョームは、アントワーヌ・アルメランの息子ジャック・ダルメラン、ピエール・ダルメランらと仲が良かったらしい(*3...
  • 百詩篇第4巻27番
    原文 Salon, Mansol1, Tarascon2 de SEX.3 l arc4, Ou5 est debout6 encor7 la piramide8, Viendront liurer le prince9 Dannemarc10 Rachat honni11 au temple12 d Artemide13. 異文 (1) Mansol Nansol 1557B, Tansol 1668P (2) Tarascon Tarrascond 1627 (3) SEX. 1555 1557U 1568 1644 1650Le 1650Ri 1668 1840 sex 1588-89 1590Ro, SEX, 1597 1600 1605 1610 1611 1628 1649Xa 1660 1716, Sex 1557B 1589PV 1649Ca...
  • アンドレ・ド・ノートルダム
     アンドレ・ド・ノートルダム(André de Nostredame, 1557年11月3日 - 1601年12月2日)は、ノストラダムスとアンヌ・ポンサルドの間に生まれた三男(第四子)。後半生を修道士として過ごした。  アンドレは1557年11月3日にプロヴァンス州サロン・ド・クロー(現サロン=ド=プロヴァンス)に生まれた。幼いころのことはよく分かっていないが、1564年にサロンの町に国王シャルル9世(未作成)と母后カトリーヌ・ド・メディシス(未作成)が立ち寄った際には、ノストラダムスの家族全員が謁見させてもらえたとされるので(*1)、当然、アンドレもそこに居合わせたことだろう。  ノストラダムスが1566年に没した際には、遺言によって、母親や2人の兄とともに家の権利を分有した。遺言が誠実に執行されたのなら、自身が25歳になった際(1582年)に100エキュを受け取るのと...
  • ジャン・ジフル・ド・レシャク
     ジャン・ジフル・ド・レシャク(Jean Giffre de Réchac, 1604年8月25日-1660年4月9日)は、ドミニコ会の聖職者。宗教上の名前はジャン・ド・サント=マリー。  1604年にアキテーヌ地方のレシャクの領主ジャン=ロジェ・ジフルの子として、キルブーフ(Quilleboeuf)に生まれた。14歳のとき、パリの修道院でドミニコ会士となり、以降学問を積んで伝道師、副修道院長などとして様々な場所に赴任した。  1637年にルーアンの小修道院長として赴任したあたりから、その予言や心霊方面での活動などで知られるようになった。その後、彼はパリに呼び戻されボルドーなどに赴任した後に、1641年からはパリの小修道院の副院長になっていた。  1645年以降、修道会の指導者(le maître de l’Ordre)のトマ・チュルコ(Thomas Turco)と...
  • mansol
     mansol はかつて謎とされていたが、エドガール・ルロワの指摘以来、mausole(mausolée)の誤植にすぎないことが有力視されている。 モゾル  モゾル(mausole)もしくはモゾレ(mausolée)は2通りの解釈が可能だが、いずれもサン=レミ=ド=プロヴァンスに近いグラヌム(未作成)遺跡と深く結びついている。  モゾル(Mausole)と読む場合、それはサン=ポール=ド=モゾル(Saint-Paul-de-Mausole)のことだろう。詩百篇第9巻85番(未作成)に見られる saint Pol de Manseoleなどは、この推察を裏付ける。  サン=ポール=ド=モゾルは、グラヌム遺跡近くにある旧修道院で、ゴッホが入院したことでも有名な精神病院に転用されている。一帯は19世紀には単独のコミューン(地方行政単位)を形成していたという。  モゾレ(...
  • 『ミシェル・ノストラダムスの生涯と遺言』の伝記
     このページでは、匿名の著者による文献 『ミシェル・ノストラダムスの生涯と遺言』(1789年)の前半部分(伝記)の全訳を提供する予定である。完成時期未定。  以下に全訳を示す。節自体は原書のままだが、原書には節ごとの見出しも、節の中での段落分けも一切ない。見出しの作成および段落分けは、当「大事典」の判断で適宜行なった。  また、訳と注記を見比べやすいように、ひとつの節をa, b, c などで区切った場合がある。 第1節 はじめに  私がその生涯を記すミシェル・ノストラダーム (Michel Nostradame) は、その精神の優れた点を深く知りたいと考えた人々を大いに驚倒させた稀有なる人士の一人であった。それゆえに彼を占い師 (devin) とか予言者 (prophete) と呼ぶ人もいたし、魔術師 (magicien) と呼ぶ人々もいた。魔術師呼ばわりした人々は、高貴...
  • SEXT.
     SEXT. あるいは SEX. は、ノストラダムスの生まれたサン=レミ=ド=プロヴァンス近郊の遺跡グラヌム(未作成)に残る碑文から抜粋された言葉のようである。 実証的な読み方  グラヌムの遺跡に残る「ユリウス家の霊廟」(Mausolée des Jules)には、こういう碑文が残っている。  SEX. L. M. IULIEI C. F. PARENTIBUS SUEIS  現代では「ユリウスの息子たち、セクストゥス、ルキウス、マルクスから両親へ」と解釈される。しかし、セザール・ド・ノートルダムの証言によれば、ノストラダムスは「ユリアの夫セクストゥス・ラエリウスが両親のためにこの円柱を立てた」と解釈していたらしい(*1)。  SEX. あるいは SEXT. はこの碑文の冒頭部分に触発されたものだろう。これは、エドガール・ルロワが指摘し、エドガー・レオニ、ピ...
  • ノストラダムスの誕生日
     ノストラダムスの誕生日は1503年12月14日(木曜日)とされている。これはほぼ定説化した日付だが、2006年にパトリス・ギナールが1503年12月21日とする新説を発表した。本項目では、ノストラダムスの誕生日に関する記録、それに対するギナールの反証、当「大事典」としての雑感をまとめておく。 誕生日に関する記録  ノストラダムス一族には、地元の洗礼記録の存在などによって生年月日が絞り込める例が少なくない。しかし、ノストラダムスが生まれたサン=レミ=ド=プロヴァンスの場合、1518年以降のものしか残されていないため、ノストラダムスの直接的な出生記録は存在しない(*1)。  ノストラダムスの誕生日についての同時代的な言及は 本人の個人的な手紙 元秘書ジャン=エメ・ド・シャヴィニーの伝記(1594年) 長男セザール・ド・ノートルダムの注記(1614年) の3点である。また...
  • ダマリー・ド・ノートルダム
     ダマリー・ド・ノートルダム(Damary de Nostredame)は、アントワーヌ・ド・ノートルダムとロワーズ・ベルル(未作成)の娘で、ノストラダムスの姪にあたる。生年未詳だが、1587年4月19日にサン=レミのブルジョワ、シモン・ナヴァリ(Simon Navarry)と結婚したことと、1604年に姪のダマリー(未作成)(Damarie)の洗礼に代母として立ち会ったことだけ分かっている (*1)。  ちなみに、「ダマリー」というフランス人名は日本ではあまり馴染みがないと思われるが、フランスでは地名にもしばしば使われている。その語源は Dame Marie(貴婦人マリア)だという(*2)。 名前 ...
  • ジャン・ド・ノートルダム
     ジャン・ド・ノートルダム(Jean/Jehan de Nostredame, 1522年 - 1577年頃)は、フランスの法曹家、歴史家。ノストラダムスの弟のひとり。プロヴァンス史(特に文学史)の研究を行い、『最も名高い昔のプロヴァンス詩人たちの生涯』(Les vies des plus célèbres et anciens poètes provensaux(未作成))を刊行した。 生涯  ジャンはかつて1507年にサン=レミ=ド=プロヴァンスで生まれたとされていた。ただし、これは古い文献で示されていた出典の不明な記述である。  エドガール・ルロワは洗礼記録が1522年2月19日であることから、実際の生年を1522年とした(*1)。竹下節子、ジャンに関する研究で博士号を取得したカザノヴァ(J.Y.Casanova)、その研究を紹介したゲラールのように、これを支持する者...
  • ブランシュ・ド・ノートルダム
     ブランシュ・ド・ノートルダム(Blanche de Nostredame, 1555年 - 1568年以前)は、ベルトラン・ド・ノートルダムの末娘で、ノストラダムスの姪にあたる。  サン=レミで生まれたはずだが、1555年11月19日の洗礼には、すでにサロンの市民となっていたノストラダムスが代父として立ち会った。ノストラダムスが甥や姪の洗礼に代父として参加した例は、今のところ他に確認されていない。  なお、代母は、グランヴィルの総督(gouverneur de Granville)でブラントームの著書にもその名が出てくる武官ジャン・ド・レノー(Jean de Reynaud)の妻ブランシュ・ド・ジェラント(Blanche de Gérente)である。  ブランシュ・ド・ノートルダムの名は、1568年11月11日付のベルトランの遺言書には見られない。そのため、13歳の誕...
  • ドフィーヌ・ド・ノートルダム
     ドフィーヌ・ド・ノートルダム(Dauphine de Nostredame)は、ノストラダムスの姉もしくは妹。しばしばノストラダムスの妹で第二子(長女)とされるが、生年がはっきりしないため、ミシェル(ノストラダムス)とドフィーヌのどちらが第一子だったのかは特定できない。1576年の遺言書で「大変な高齢」(Son extrême vieillesse)とあることから長子と推測するものもいる(*1)。  名前はデルフィーヌ(Delphine)と綴られることもある。  生涯をサン=レミ=ド=プロヴァンスで過ごし、独身を貫いた。弟のアントワーヌ・ド・ノートルダムとのかかわりでいくつかの史料に名を見出すことができる (*2)。  1576年の遺言書では、遺産の受取人としてアントワーヌとその息子クロード(未作成)を指名している(*3)。 ...
  • ピエール・ジョアニス
     ピエール・ジョアニスないしピエール・ド・ジョアニス(Pierre de Joannis)は、ノストラダムスの叔父。ノストラダムスの父ジョームの妹マルグリットの夫。「ピエール・ド・ジョアニ」と発音した可能性もある。  1494年12月26日にマルグリットと結婚した(*1)。  息子オノレ、孫テオドール、曾孫メルキオン=ジャック・ド・ジョアニス(Melchion-Jacques de Joannis)へと家督が受け継がれていく。  なお、このメルキオン=ジャックはマルグリット・ド・ノートルダムの兄ジョームの曾孫トミーヌ・ド・ノートルダムと再婚した。  ただし、家を継いだのは最初の妻マルグリット・ド・トゥイエ(Margueritte de Touier)との子、ガブリエルであった(*2)。 ※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連...
  • バルトロメ・ド・ノートルダム
     バルトロメ・ド・ノートルダム(Bartholomée de Nostredame)ないしバルテルミー・ド・ノートルダム(Barthélemye de Nostredame)は、ノストラダムスの叔母。ピエール・ド・ノートルダムとブランシュ・ド・サント=マリーの間に生まれた子供の一人で、次女と推測されている(*1)。エドガール・ルロワは認識していなかったが、ウジェーヌ・レー(未作成)の調査で明らかになった。  詳細な経歴は不明だが、サロンの商人バルテルミー・ブゾーダン(Barthélemy Bezaudin, 1490年に改宗)と結婚したことだけが明らかになっている(*2)。 名前 ...
  • フランソワ・ド・ノートルダム
     フランソワ・ド・ノートルダム(François de Nostredame)は、ノストラダムスの叔父。ピエール・ド・ノートルダムとブランシュ・ド・サント=マリーの間に生まれた子供の一人で、次男と推測されている(*1)。  生年未詳だが、兄ジョームが1470年頃の生まれなので、当然それ以降の生まれとなる。また、1485年6月15日以降の記録に全く登場しないことから、若くして亡くなったと推測されている(*2)。 名前 コメント
  • ピエール・メニエ
     ピエール・メニエ1世(Pierre I Ménier / Mesnier)は、16世紀後半から17世紀初頭に活動したパリの出版業者。1581年から1605年頃までの活動が確認でき、そのころに歿した可能性がある(*1)。  なお、1588年にリヨンでも「ピエール・メニエ」が二冊刊行しているが、同一人物かは不明である(*2)。 ノストラダムス関連  ノストラダムスの予言集を少なくとも3回出版した。1589年版、刊行年の記載されていない版、1610年版で、少なくとも最後の1点は、本人ではなく息子のピエール・メニエ2世が手がけたもののようである。  また、アントワーヌ・クレスパンの『真に最も記憶されるべき事柄を含む驚異の予言』(1590年頃)も出版した。ほかに、フロラン・ド・クローの『1586年向けの暦』はアントワーヌ・ウイックの出版だが、本文中には印刷業者としてメニエの...
  • 出版業者の一覧
     ノストラダムスに関連する出版業者の一覧。原則として姓をカタカナ表記した際のアルファベット順に並べている。「ド」などを姓に含むかどうかは、外国語文献の索引に準じて個別に判断している。  ノストラダムス関連書を出版したことのある業者、特に16世紀から19世紀までの業者の情報を網羅することを目指している。  出版業者の情報はさしあたり次の2点で有益と考える。  ひとつめは、刊行年の特定されていない関連書について、出版業者の活動歴から刊行年を絞り込める可能性が出てくることである。  ふたつめはノストラダムス現象を従来とは別の視点から裏付けていくことにある。 例えば、ピエール・ルーやクリストフ・プランタン(未作成)など、出版業者の中には活動し始めて間もない頃にノストラダムス関連書を出版している事例がしばしば見られる。これは単なる偶然の場合もあるだろうが、その一方で「売れるブラン...
  • カトリーヌ・ド・ノートルダム
     カトリーヌ・ド・ノートルダム(Catherine de Nostredame)は、ノストラダムスの叔母。ピエール・ド・ノートルダムとブランシュ・ド・サント=マリーの間に生まれた子供の一人で、長女と推測されている(*1)。エドガール・ルロワは認識していなかったが、ウジェーヌ・レー(未作成)の調査で明らかになった。  生年未詳は未詳である。1483年初め頃に、アルルの商人トロフィム・エカルディ(Trophime Aycardi)と結婚した。この時点で18歳以下であったろうとされている。ウジェーヌ・レーはその根拠を示していないが、おそらく両親の結婚の年から判断したものだろう。  その後、アルルの仲買人(négociant)であったトロフィム・マリー(Trophime Marie)と再婚し、一子(名前は未詳)をもうけたが、1498年に死別した。1502年には、アルルの改宗キリスト...
  • ノストラダムス関連年表
     このノストラダムス関連年表では、彼の生涯やノストラダムス現象に関わりのある主な出来事についてまとめた。  信奉者側がどのような事件を的中させたと主張しているかについては的中例として有名な予言を参照のこと。 ノストラダムスの存命中の関連年表 1503年12月14日(木曜日) - 誕生。 1518年頃? - アヴィニョン大学で自由七科を学んだとされる 1520年 - 学業を中断したと推測されている。 1521年 - 各地を遍歴し、薬草の採取や関連する知識の収集につとめる(- 1529年) 1529年10月23日 - モンペリエ大学医学部に入学。数年以内におそらく除籍。 1531年 - アジャンでアンリエット・ダンコスと最初の結婚。 1530年代後半? - 最初の妻と子どもをペスト(?)で失う。以降放浪したとされる。 1545年前後? - 手稿『オルス・アポロ』を...
  • シャルル・ド・ノートルダム
     シャルル・ド・ノートルダム(Charles de Nostredame, 1556年 - 1629年12月頃)は、ノストラダムスとアンヌ・ポンサルドの間に生まれた次男(第三子)。軍人、詩人。  1556年にプロヴァンス州サロン・ド・クロー(現サロン=ド=プロヴァンス)に生まれた。幼いころのことはよく分かっていないが、1564年にサロンの町に国王シャルル9世(未作成)と母后カトリーヌ・ド・メディシス(未作成)が立ち寄った際には、ノストラダムスの家族全員が謁見させてもらえたとされるので(*1)、当然、シャルルもそこに居合わせたことだろう。  ノストラダムスが1566年に没した際には、遺言によって、母親、兄、弟とともに家の権利を分有した。遺言が誠実に執行されたのなら、自身が25歳になった際に100エキュを受け取ったはずだが、弟アンドレが25歳になった時点(1582年)で家の所有...
  • エクトール・リゴー
     エクトール・リゴー(Hector Rigaux, 1841年11月23日 - 1930年7月16日)は、フランスの司祭。ノストラダムスに関する膨大な蔵書を持っていたことで知られ、書誌研究上の重要人物として知られている。司祭であったことからリゴー師(アベ・リゴー l abbé Rigaux)とも呼ばれる。生まれたときの名はエスペランス=エクトール・カファール(Espérance-Hector Caffart)だったようだが、すぐに改名されたこともあって、現在ではこの名で呼ばれることはほとんどない。  リゴーは、1841年にソンム県のモンシー=ラガシュで生まれた。1865年にアミアンで司祭に任命され、その地で4年ほど過ごした後、ソンム県アルグーヴの主任司祭に任命され、終生その地で過ごした。  リゴーは、ノストラダムスに関して信奉者の立場からの解釈を重ねていたアンリ・トルネ=シ...
  • 百詩篇第5巻57番
    原文 Istra du1 mont2 Gaulsier3 Auentin4, Qui par le trou aduertira5 l armee6 Entre deux rocz7 sera prins le butin, De SEXT.8 mansol9 faillir10 la renommee. 異文 (1) du de 1600 1610 1627 1644 1650Ri 1653 1665 1716 (2) mont Mont 1672 (3) Gaulsier Gaulfier 1589Me 1610 1628 1716, Gaufier 1600 1644 1650Le 1650Ri 1653, Gausier 1627 1665, Gaulsies 1772Ri (4) Auentin Anentin 1665, Avent...
  • ミシェル・ノストラダムス師の予言集 (ボネ兄弟、1794年)
     『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』は1793年に引き続き1794年にもアヴィニョンのボネ兄弟によって出版された。 【画像】扉(*1) 正式名 LES PROPHÉTIES DE M. MICHEL NOSTRADAMUS, DIVISÉE EN DIX CENTURIES. Nouvelle Édition imprimée d après la copie de la premiere Édition faite sous les yeux de CÉSAR NOSTRADAME son fils en 1568. A AVIGNON, Chez les Freres BONNET, Imprimeurs-Libraires, au Puits-des-Bœuf. 1794. 十巻の百詩篇に分けられたミシェル・ノストラダムス師の予言集1568年に息子セザ...
  • ピエール・リゴー
     ピエール・リゴー(Pierre Rigaud, 1631年没)は、リヨンの印刷・出版業者。ブノワ・リゴーの長男であり、一時期「ブノワ・リゴーの後継者たち」という名義を他の兄弟たちとともに用いていた時期がある。  現在確認されている範囲では、ピエール・リゴー名義の最古の刊行物は1594年のものである。これは、クロード・ミシェル(Claude Michel)という人物との共同出版であった(*1)。この後、彼の名義の出版物は1601年まで見られない(*2)。ただし、1597年から1601年には「ブノワ・リゴーの後継者たち」名義で出版事業に関わっていた。 ノストラダムス関連  17世紀初頭にノストラダムスの『予言集』を3種類出版した。これらは、タイトルページの前置詞の違い(PAR, Par, Chez)で区別されている。これらの版は、17世紀初頭の版であることがほぼ疑いないジャン...
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