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みんなの新武将/南北朝時代 - (2012/05/25 (金) 01:30:50) の編集履歴(バックアップ)
南北朝時代(420~589)
劉裕による東晋簒奪から隋朝による中国統一までの期間を指し、南朝では宋・斉・梁・陳が、北朝では魏と斉・周が興亡した。
南朝社会の特徴などは東晋で既に顕著で、また中国では、周から興った隋朝も北朝に数える。
この時代の国境線は、北魏の華北統一より南梁の侯景の乱までは概ね秦淮地帯にあり、江南開発の飛躍的進展によって
南北の経済力は逆転したが、紛争の恒常化と淮河流域の荒廃などによって総体的な流通経済は低迷した。
諸外国との交流は東漢・西晋より寧ろ活発で、北魏は柔然対策として高車や西域諸国と活発に交渉した他に高句麗を朝貢国とし、
南朝も東南アジア諸国や朝鮮諸国・日本と冊封関係を結んだだけでなく、青海の吐谷渾を介して西域とも交流した。
侯景の乱(548)と承聖の江陵陥落(554)で、湖北・四川の喪失と併せて南朝の没落は決定的となり、
589年に隋により、南朝・陳の都の建康が攻略されたことで終焉する。
南朝社会の特徴などは東晋で既に顕著で、また中国では、周から興った隋朝も北朝に数える。
この時代の国境線は、北魏の華北統一より南梁の侯景の乱までは概ね秦淮地帯にあり、江南開発の飛躍的進展によって
南北の経済力は逆転したが、紛争の恒常化と淮河流域の荒廃などによって総体的な流通経済は低迷した。
諸外国との交流は東漢・西晋より寧ろ活発で、北魏は柔然対策として高車や西域諸国と活発に交渉した他に高句麗を朝貢国とし、
南朝も東南アジア諸国や朝鮮諸国・日本と冊封関係を結んだだけでなく、青海の吐谷渾を介して西域とも交流した。
侯景の乱(548)と承聖の江陵陥落(554)で、湖北・四川の喪失と併せて南朝の没落は決定的となり、
589年に隋により、南朝・陳の都の建康が攻略されたことで終焉する。
- 北朝
- 北魏 386~534
- 東魏 534~550
- 北斉 550~577
- 西魏 535~556
- 北周 556~581
- 南朝
- 劉宋 420~479
- 南斉 479~502
- 梁 502~557
- 後梁 554~587
- 陳 557~589
北魏
拓跋焘(佛狸)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
96 | 92 | 72 | 80 | 82 | 騎神 | A | A | A | S | B | C | 408 | 452 |
【タクバツトウ(ブツリ)】
北魏の第三代皇帝・太武帝。
即位後、柔然の雲中侵犯を親伐し撤退させる。
夏を攻め関中を攻略し、柔然への親征を行って可汗の大檀を敗走させた。
南朝宋の北伐を防ぎ、北燕、北陵を滅ぼして華北を統一、五胡十六国時代を終わらせた。
柔然の北伐を度々行い、柔然が北辺を侵犯出来なくなるまで弱体化させる。
さらに北方の吐谷渾、西域の鄯善に侵攻し勢力圏を広げた。
その後、宋への南征を行い長江北岸までを制圧し、虜民を獲て帰還した。
騎兵の用兵に優れ、電撃戦術を創始している。
また、治世面では道教保護のために廃仏を行った。
北魏の第三代皇帝・太武帝。
即位後、柔然の雲中侵犯を親伐し撤退させる。
夏を攻め関中を攻略し、柔然への親征を行って可汗の大檀を敗走させた。
南朝宋の北伐を防ぎ、北燕、北陵を滅ぼして華北を統一、五胡十六国時代を終わらせた。
柔然の北伐を度々行い、柔然が北辺を侵犯出来なくなるまで弱体化させる。
さらに北方の吐谷渾、西域の鄯善に侵攻し勢力圏を広げた。
その後、宋への南征を行い長江北岸までを制圧し、虜民を獲て帰還した。
騎兵の用兵に優れ、電撃戦術を創始している。
また、治世面では道教保護のために廃仏を行った。
補足:拓跋の二字姓。
廃仏しておきながら字が佛狸(仏狸)なのは、突厥語で狼を意味するブリを漢語で当て字したため。
「焘」の字は「寿」に部首の連火。PC版では旧字の「壽」に連火の「燾」で登録可能だが、「寿」か「壽」を代字として置き換えることもできる。
廃仏しておきながら字が佛狸(仏狸)なのは、突厥語で狼を意味するブリを漢語で当て字したため。
「焘」の字は「寿」に部首の連火。PC版では旧字の「壽」に連火の「燾」で登録可能だが、「寿」か「壽」を代字として置き換えることもできる。
崔浩(白淵)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
40 | 34 | 95 | 93 | 69 | 米道 | C | C | C | C | C | C | 381 | 450 |
【サイコウ(ハクエン)】
北魏の政治家。北朝随一の謀略家と称され、自ら張良に比した。
若い時から文学を好み、経史や陰陽に通じ、この時代の人は崔浩に及ばなかったという。
劉裕の北伐に際して、劉裕が関中を保持できないことを予見して明元帝に力を蓄えるよう進言する。
太武帝の代には夏、柔然、北涼との戦いで数々の献策を行い、太武帝の華北統一に貢献する。
天師道(五斗米道)の寇謙之に師事し、道教保護のための廃仏を主導した。
しかし急激な漢化政策に鮮卑族の反発を招き、
国史編纂の際に拓跋氏について有りの儘を記述したため誅殺された(国史の獄)。
北魏の政治家。北朝随一の謀略家と称され、自ら張良に比した。
若い時から文学を好み、経史や陰陽に通じ、この時代の人は崔浩に及ばなかったという。
劉裕の北伐に際して、劉裕が関中を保持できないことを予見して明元帝に力を蓄えるよう進言する。
太武帝の代には夏、柔然、北涼との戦いで数々の献策を行い、太武帝の華北統一に貢献する。
天師道(五斗米道)の寇謙之に師事し、道教保護のための廃仏を主導した。
しかし急激な漢化政策に鮮卑族の反発を招き、
国史編纂の際に拓跋氏について有りの儘を記述したため誅殺された(国史の獄)。
慕容白曜
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
90 | 75 | 78 | 82 | 80 | 攻城 | B | A | A | S | S | B | ? | 470 |
【ボヨウハクヨウ】
北魏の武将、政治家。
文成帝の代に北部尚書となり、剛直で阿らず、厳格に法を執行して厚遇された。
劉宋の混乱期に乗じて青州に侵攻し、該・肥・靡・溝の四城を十日で落とすという大功を立てる。
彭城と升城も続けて抜き、歴城は一転して持久戦によって陥落させた。
東陽では宋の守将が一時降るも再び反したため猛攻を加えて攻略し、青州を北魏の領土に加えた。
この功績により青州刺史に任じられ済南王となったが、その直後に献文帝によって謀反の罪で処刑された。
次代の孝文帝により冤罪であるとして名誉回復された。
北魏の武将、政治家。
文成帝の代に北部尚書となり、剛直で阿らず、厳格に法を執行して厚遇された。
劉宋の混乱期に乗じて青州に侵攻し、該・肥・靡・溝の四城を十日で落とすという大功を立てる。
彭城と升城も続けて抜き、歴城は一転して持久戦によって陥落させた。
東陽では宋の守将が一時降るも再び反したため猛攻を加えて攻略し、青州を北魏の領土に加えた。
この功績により青州刺史に任じられ済南王となったが、その直後に献文帝によって謀反の罪で処刑された。
次代の孝文帝により冤罪であるとして名誉回復された。
元英(虎儿)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
88 | 86 | 80 | 57 | 75 | 攻城 | A | B | A | S | B | C | ? | 510 |
【ゲンエイ(コジン)】
北魏の武将。もとの名は拓跋英。中山王。
聡明な性格で騎射に秀で、音律を解し医術にも通じる博学な人物だった。
漢中へ侵攻し、斉軍を破って南鄭を包囲し、撤退の際には殿軍を率いて撤兵を完了させた。
雍州(襄陽)への援軍に派遣されるが陳顕達の軍に連敗し、一時免官される。
司州への侵攻では曹景宗の援軍を打ち破り、義陽を陥落させた。
楊大眼とともに大軍を率いて鍾離を包囲するも、韋叡と曹景宗の援軍に大敗し、平民に落とされた。
京兆王の反乱の際に復帰し、乱を平定する。
北魏三関が梁に降ると南征を行い、三関を攻略した。
北魏の武将。もとの名は拓跋英。中山王。
聡明な性格で騎射に秀で、音律を解し医術にも通じる博学な人物だった。
漢中へ侵攻し、斉軍を破って南鄭を包囲し、撤退の際には殿軍を率いて撤兵を完了させた。
雍州(襄陽)への援軍に派遣されるが陳顕達の軍に連敗し、一時免官される。
司州への侵攻では曹景宗の援軍を打ち破り、義陽を陥落させた。
楊大眼とともに大軍を率いて鍾離を包囲するも、韋叡と曹景宗の援軍に大敗し、平民に落とされた。
京兆王の反乱の際に復帰し、乱を平定する。
北魏三関が梁に降ると南征を行い、三関を攻略した。
補足:孝文帝の漢化政策で国姓が「拓跋」から「元」に変わり、漢中の戦いの後に元英を名乗る。
邢巒(洪賓)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
90 | 72 | 89 | 85 | 74 | 掎角 | B | A | A | S | S | B | 463 | 514 |
【ケイラン(コウヒン)】
北魏の武将。
孝文帝の元で、南斉への外交、機密文書の管理や起草に携わる。
宣武帝の代に梁に侵攻し、漢中・巴西の十四郡を攻め取り東西七百・南北千里を北魏の版図に加えた。
梁の兗州侵攻を防衛し、楊大眼と共に宿豫を攻め取る。
この勝利に乗じて中山王元英と楊大眼が鍾離を攻めるが、鍾離の天険と梁の堅守から勝機がないと宣武帝に上奏している。
豫州の反乱では騎兵八百を率い、智略をもって賊軍を撃破する。
元英が三関を落とすと呼応して掎角の攻めを見せ、豫州を平定した。
その後、突然の病に倒れ没した。
北魏の武将。
孝文帝の元で、南斉への外交、機密文書の管理や起草に携わる。
宣武帝の代に梁に侵攻し、漢中・巴西の十四郡を攻め取り東西七百・南北千里を北魏の版図に加えた。
梁の兗州侵攻を防衛し、楊大眼と共に宿豫を攻め取る。
この勝利に乗じて中山王元英と楊大眼が鍾離を攻めるが、鍾離の天険と梁の堅守から勝機がないと宣武帝に上奏している。
豫州の反乱では騎兵八百を率い、智略をもって賊軍を撃破する。
元英が三関を落とすと呼応して掎角の攻めを見せ、豫州を平定した。
その後、突然の病に倒れ没した。
潘氏
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
67 | 79 | 50 | 18 | 49 | 昂揚 | C | C | A | A | C | C | ? | ? |
【ハンシ】
楊大眼の妻。
騎射を善くするなど武芸に通じ、楊大眼は妻に軍装をさせ戦や狩に従軍させていた。
戦場では楊大眼と轡を並べて駆け巡り、軍営に帰還すると幕下に同席して僚将と交談していたため、
人々から「潘将軍」と呼ばれていた。
その後、楊大眼との間に三人の息子をもうけた。
鐘離で大敗した楊大眼が営州の一兵卒に落とされると洛陽に残るが、
留守中に不貞を働いたために楊大眼の怒りを買い、幽閉されて殺された。
楊大眼の妻。
騎射を善くするなど武芸に通じ、楊大眼は妻に軍装をさせ戦や狩に従軍させていた。
戦場では楊大眼と轡を並べて駆け巡り、軍営に帰還すると幕下に同席して僚将と交談していたため、
人々から「潘将軍」と呼ばれていた。
その後、楊大眼との間に三人の息子をもうけた。
鐘離で大敗した楊大眼が営州の一兵卒に落とされると洛陽に残るが、
留守中に不貞を働いたために楊大眼の怒りを買い、幽閉されて殺された。
爾朱栄(天宝)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
85 | 88 | 79 | 27 | 10 | B | A | A | S | B | C | 493 | 530 |
【ジシュエイ(テンホウ)】
北魏の武将。奸雄・権臣と評される。
将才に優れ兵法に明るく、北魏末期に各地で頻発した乱の平定で活躍した。
六鎮の乱を討伐する中で、降伏した賀抜岳、高歓、宇文泰らを幕下に加え勢力を拡大する。
孝明帝が霊太后に殺害されると洛陽を攻め、霊大后と幼主元釗を殺害し黄河に投げ捨てた(河陰の変)。
六鎮の乱を完全に鎮圧し、鎮圧の隙に北海王と梁の陳慶之に奪われていた洛陽も奪回する。
外戚として専横を振るい帝位簒奪を狙うが、孝荘帝に露見したため誅殺された。
死後も甥の爾朱兆らが専横を振るい、北魏が分裂する発端となった。
北魏の武将。奸雄・権臣と評される。
将才に優れ兵法に明るく、北魏末期に各地で頻発した乱の平定で活躍した。
六鎮の乱を討伐する中で、降伏した賀抜岳、高歓、宇文泰らを幕下に加え勢力を拡大する。
孝明帝が霊太后に殺害されると洛陽を攻め、霊大后と幼主元釗を殺害し黄河に投げ捨てた(河陰の変)。
六鎮の乱を完全に鎮圧し、鎮圧の隙に北海王と梁の陳慶之に奪われていた洛陽も奪回する。
外戚として専横を振るい帝位簒奪を狙うが、孝荘帝に露見したため誅殺された。
死後も甥の爾朱兆らが専横を振るい、北魏が分裂する発端となった。
賀抜岳(阿斗泥)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
88 | 85 | 75 | 52 | 68 | 長駆 | B | A | A | S | C | C | ? | 534 |
【ガバツガク(アトデイ)】
北魏の武将。賀拔勝の弟。
武勇に優れており、兵書を読まなかったが用兵が合致しており、識者に訝しがられた。
六鎮の乱の際に爾朱栄に帰順し、賀拔勝を招いた。
河陰の変、葛栄討伐、洛陽奪還で功績を上げる。
万俟醜奴の乱では軽騎八百を率いて尉遅菩薩の軍二万と対峙し、
遁走するふりを見せて伏兵に誘い込んで撃破し、三千を捕え一万の兵を降した。
爾朱天光とともに涇州まで万俟醜奴を猛追し、捕縛した。
高歓が起兵すると関中で軍閥を形成し、宇文泰と共に対抗する。
しかし、高歓に通じた侯莫陳悦により暗殺された。
北魏の武将。賀拔勝の弟。
武勇に優れており、兵書を読まなかったが用兵が合致しており、識者に訝しがられた。
六鎮の乱の際に爾朱栄に帰順し、賀拔勝を招いた。
河陰の変、葛栄討伐、洛陽奪還で功績を上げる。
万俟醜奴の乱では軽騎八百を率いて尉遅菩薩の軍二万と対峙し、
遁走するふりを見せて伏兵に誘い込んで撃破し、三千を捕え一万の兵を降した。
爾朱天光とともに涇州まで万俟醜奴を猛追し、捕縛した。
高歓が起兵すると関中で軍閥を形成し、宇文泰と共に対抗する。
しかし、高歓に通じた侯莫陳悦により暗殺された。
補足:賀拔の二字姓
東魏・北斉
高歓(賀六渾)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
90 | 74 | 88 | 84 | 71 | 妙計 | A | S | A | A | B | C | 496 | 547 |
【コウカン(ガロクコン)】
北魏、東魏の武将、政治家。鮮卑化した漢族の出身。北斉の基礎を築いた。
爾朱栄の挙兵に従い、先鋒として洛陽の霊太后を攻める(河陰の変)。
爾朱栄が孝荘帝に殺害されると独立し、後廃帝と孝武帝を擁立して爾朱一族を滅ぼした。
北魏の実権を握り賀抜岳を誅殺するも、孝武帝が逃亡したため東魏を成立させた。
その後は宇文泰が掌握する西魏と、北魏の正統と河東の地を巡って戦う。
沙苑の戦いでは大敗を喫するも、邙山の戦いでは勝利を収めた。
玉璧の戦いの最中で病に倒れ、翌年没し、北斉成立後に高祖神武皇帝が追号された。
北魏、東魏の武将、政治家。鮮卑化した漢族の出身。北斉の基礎を築いた。
爾朱栄の挙兵に従い、先鋒として洛陽の霊太后を攻める(河陰の変)。
爾朱栄が孝荘帝に殺害されると独立し、後廃帝と孝武帝を擁立して爾朱一族を滅ぼした。
北魏の実権を握り賀抜岳を誅殺するも、孝武帝が逃亡したため東魏を成立させた。
その後は宇文泰が掌握する西魏と、北魏の正統と河東の地を巡って戦う。
沙苑の戦いでは大敗を喫するも、邙山の戦いでは勝利を収めた。
玉璧の戦いの最中で病に倒れ、翌年没し、北斉成立後に高祖神武皇帝が追号された。
補足:鮮卑名は賀六渾。
慕容紹宗(紹宗)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
92 | 84 | 91 | 80 | 82 | 深謀 | S | A | A | S | B | C | 501 | 549 |
【ボヨウショウソウ(ショウソウ)】
北魏、東魏の武将。
剛毅な風貌で、深い胆略に富んでいた。
爾朱栄に仕え、高歓と共に羊侃を破るなどの軍功を立てた。
爾朱栄死後に高歓が起兵すると壺関を守備するが、爾朱兆の本軍が敗れたため投降する。
東魏建国後は、西魏の独孤信が洛陽を支配した際に蜂起した賊を平定する。
梁の劉烏黒の侵攻を防ぎ、二度目の侵攻の際には劉烏黒を捕えて斬った。
侯景の反乱では、侯景を支援した梁の蕭淵明を撃破し、軍を返して侯景も破り敗走させた。
潁州を水攻めにした際に船が暴風に遭って城壁まで流され、虜囚を拒んで水中に投身した。
北魏、東魏の武将。
剛毅な風貌で、深い胆略に富んでいた。
爾朱栄に仕え、高歓と共に羊侃を破るなどの軍功を立てた。
爾朱栄死後に高歓が起兵すると壺関を守備するが、爾朱兆の本軍が敗れたため投降する。
東魏建国後は、西魏の独孤信が洛陽を支配した際に蜂起した賊を平定する。
梁の劉烏黒の侵攻を防ぎ、二度目の侵攻の際には劉烏黒を捕えて斬った。
侯景の反乱では、侯景を支援した梁の蕭淵明を撃破し、軍を返して侯景も破り敗走させた。
潁州を水攻めにした際に船が暴風に遭って城壁まで流され、虜囚を拒んで水中に投身した。
斛律金(阿六敦)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
88 | 86 | 70 | 51 | 71 | 掎角 | B | A | S | S | C | C | 488 | 567 |
【コクリツキン(アロクトン)】
北魏、東魏、北斉の武将。子に斛律光。
匈奴の用兵を用い、塵を見て敵兵の量を、地を嗅いで敵の遠近を見極めた。
六鎮の乱に参加するも敗北を悟り投降、以後は爾朱栄、高歓に従う。
東魏建国後は宇文泰に備え、三万の軍を率いて国境に駐屯した。
沙苑の戦いで奪われた諸城を奪回し、河橋の戦いでは別軍を率いて太州へ向かい掎角の勢を成した。
穎川に西魏の王思政が入ると西魏の救援路を断つが、慕容紹宗が戦死したため穎川に入って平定した。
晩年は北辺を守備し、柔然に対して北伐を行う。
外戚となった斛律氏の末路を憂いて病没した。
北魏、東魏、北斉の武将。子に斛律光。
匈奴の用兵を用い、塵を見て敵兵の量を、地を嗅いで敵の遠近を見極めた。
六鎮の乱に参加するも敗北を悟り投降、以後は爾朱栄、高歓に従う。
東魏建国後は宇文泰に備え、三万の軍を率いて国境に駐屯した。
沙苑の戦いで奪われた諸城を奪回し、河橋の戦いでは別軍を率いて太州へ向かい掎角の勢を成した。
穎川に西魏の王思政が入ると西魏の救援路を断つが、慕容紹宗が戦死したため穎川に入って平定した。
晩年は北辺を守備し、柔然に対して北伐を行う。
外戚となった斛律氏の末路を憂いて病没した。
補足:斛律の二字姓。
字はテュルク語のアルトゥン(黄金を意味し、名の金と同義)から。
三文字なので入力する際は、どれか一文字を削って入力。
字はテュルク語のアルトゥン(黄金を意味し、名の金と同義)から。
三文字なので入力する際は、どれか一文字を削って入力。
斛律光(明月)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
92 | 91 | 76 | 62 | 78 | 白馬 | A | A | S | S | B | C | 515 | 572 |
【コクリツコウ(メイゲツ)】
南北朝時代末期、北斉の将軍。
若年の時に巨大な大鷲を射落としたことから「落鳥都督」の異名を持つ。
北周や突厥との戦いで活躍、守勢では長城を築き、攻勢では歩騎を率い攻守両面で功績をあげる。
北周の平陽侵攻を防ぎ、洛陽が包囲された際には高長恭と共に援軍として駆けつけ撃破した。
娘が後主・高緯に嫁ぎ外戚となるも、北周による流言とそれを信じた重臣の讒言により粛清された。
北周の武帝は北斉を滅ぼした際に、斛律光がいれば鄴(北斉の都)に入れなかったと述べている。
南北朝時代末期、北斉の将軍。
若年の時に巨大な大鷲を射落としたことから「落鳥都督」の異名を持つ。
北周や突厥との戦いで活躍、守勢では長城を築き、攻勢では歩騎を率い攻守両面で功績をあげる。
北周の平陽侵攻を防ぎ、洛陽が包囲された際には高長恭と共に援軍として駆けつけ撃破した。
娘が後主・高緯に嫁ぎ外戚となるも、北周による流言とそれを信じた重臣の讒言により粛清された。
北周の武帝は北斉を滅ぼした際に、斛律光がいれば鄴(北斉の都)に入れなかったと述べている。
補足:斛律の二字姓。
段韶(孝先)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
89 | 89 | 68 | 75 | 73 | 射手 | B | A | S | A | B | B | ? | 571 |
【ダンショウ(コウセン)】
東魏、北斉の武将。高歓の外甥。
少年時代から騎射に優れ、高歓に寵愛された。
大兵を有する爾朱兆と敵対した高歓を鼓舞して勝利に貢献する。
邙山の戦いでは賀抜勝が本陣を脅かすが、賀抜勝の馬を射抜きその猛攻を押し止めた。
玉璧の戦いにも従軍するが、高歓が病に倒れると後事を託され鄴へ遣わされた。
北斉の冀州刺史、并州刺史を歴任して善政を敷く。
梁の涇州侵攻では、厳超達を破って艦・兵器を鹵獲し、陳霸先を敗走させた。
北周の度重なる侵攻を斛律光、高長恭らと撃ち破る。
病に倒れると、自身の軍権を高長恭に託して没した。
東魏、北斉の武将。高歓の外甥。
少年時代から騎射に優れ、高歓に寵愛された。
大兵を有する爾朱兆と敵対した高歓を鼓舞して勝利に貢献する。
邙山の戦いでは賀抜勝が本陣を脅かすが、賀抜勝の馬を射抜きその猛攻を押し止めた。
玉璧の戦いにも従軍するが、高歓が病に倒れると後事を託され鄴へ遣わされた。
北斉の冀州刺史、并州刺史を歴任して善政を敷く。
梁の涇州侵攻では、厳超達を破って艦・兵器を鹵獲し、陳霸先を敗走させた。
北周の度重なる侵攻を斛律光、高長恭らと撃ち破る。
病に倒れると、自身の軍権を高長恭に託して没した。
西魏・北周
宇文泰(黒獺)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
94 | 78 | 92 | 94 | 82 | 急襲 | A | A | B | S | B | C | 505 | 556 |
【ウブンタイ(コクダツ)】
北魏、西魏の武将、政治家。西魏八柱国の一人。北周の基礎を築く。
六鎮の乱で挙兵。賀抜岳に従い、その死後に軍権を引き継いで総帥となった。
高歓の専横を除くことを宣言して孝武帝を長安に迎える。
後に孝武帝と対立して殺害、文帝を擁立し西魏を建てその実権を握った。
国政改革を行って漢人を登用し、均田制を導入、公文書の書式を制定し戸籍を整え、地方官吏の指針を制定した。
軍政面では府兵制を導入し、八柱国の筆頭として軍事面を統率。
潼関では東魏に大敗するが、その半年後に沙苑の戦いで高歓に大勝して七万人の捕虜を得た。
北魏、西魏の武将、政治家。西魏八柱国の一人。北周の基礎を築く。
六鎮の乱で挙兵。賀抜岳に従い、その死後に軍権を引き継いで総帥となった。
高歓の専横を除くことを宣言して孝武帝を長安に迎える。
後に孝武帝と対立して殺害、文帝を擁立し西魏を建てその実権を握った。
国政改革を行って漢人を登用し、均田制を導入、公文書の書式を制定し戸籍を整え、地方官吏の指針を制定した。
軍政面では府兵制を導入し、八柱国の筆頭として軍事面を統率。
潼関では東魏に大敗するが、その半年後に沙苑の戦いで高歓に大勝して七万人の捕虜を得た。
補足:宇文の二字姓。
特技は沙苑の戦いで軽騎兵で急襲を仕掛けたことから。他の特技候補は計略系特技など。
特技は沙苑の戦いで軽騎兵で急襲を仕掛けたことから。他の特技候補は計略系特技など。
于謹(思敬)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
92 | 80 | 92 | 78 | 82 | 機略 | A | A | A | S | B | B | 493 | 568 |
【ウキン(シケイ)】
北魏、西魏、北周の武将。西魏八柱国の一人。
孫子の兵法を愛好し、「王佐の才」と評される。
北魏の代には、二千騎を率い柔然と十七戦し、全てに勝利を収めた。
鮮卑征伐、梁の北伐防衛などに従軍し功績を上げる。
宇文泰による東伐では楊氏壁、盤豆、弘農の攻略で功績を上げる。
邙山の戦いでは偽投降を仕掛けて東魏軍を混乱させ、西魏軍の退却を成功させた。
その後、梁の江陵を攻め落とし、傀儡の後梁を立てて帰還した。
六官が建てられると大司徒となり朝政に与る。
北周では燕国公となり、賀蘭祥の吐谷渾討伐では軍を統制し戦略を授けた。
北魏、西魏、北周の武将。西魏八柱国の一人。
孫子の兵法を愛好し、「王佐の才」と評される。
北魏の代には、二千騎を率い柔然と十七戦し、全てに勝利を収めた。
鮮卑征伐、梁の北伐防衛などに従軍し功績を上げる。
宇文泰による東伐では楊氏壁、盤豆、弘農の攻略で功績を上げる。
邙山の戦いでは偽投降を仕掛けて東魏軍を混乱させ、西魏軍の退却を成功させた。
その後、梁の江陵を攻め落とし、傀儡の後梁を立てて帰還した。
六官が建てられると大司徒となり朝政に与る。
北周では燕国公となり、賀蘭祥の吐谷渾討伐では軍を統制し戦略を授けた。
李弼(景和)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
88 | 94 | 74 | 58 | 77 | 疾走 | S | A | A | S | B | C | 494 | 557 |
【リヒツ(ケイワ)】
北魏、西魏、北周の武将。西魏八柱国の一人。
常に先鋒となって敵陣を陥とし、「李将軍の前に当たる者無し」と畏れられた。
侯莫陳悦が宇文泰と敵対すると諌めるが聞き入れられず、宇文泰に投降した。
潼関と回洛城を攻め、竇泰の侵攻を迎撃し、弘農を平定する。
沙苑の戦いでは右軍を率い、左軍の後退に乗じて六十騎を率いて突撃し勝利に貢献した。
洛陽の攻防戦で負傷し捕縛されるが、重傷を装って敵兵を欺き、馬を奪って脱出している。
侯景の荊州侵攻を独孤信と食い止め、侯景の反乱の際には侯景の援軍として東魏軍を潁川から退けた。
北魏、西魏、北周の武将。西魏八柱国の一人。
常に先鋒となって敵陣を陥とし、「李将軍の前に当たる者無し」と畏れられた。
侯莫陳悦が宇文泰と敵対すると諌めるが聞き入れられず、宇文泰に投降した。
潼関と回洛城を攻め、竇泰の侵攻を迎撃し、弘農を平定する。
沙苑の戦いでは右軍を率い、左軍の後退に乗じて六十騎を率いて突撃し勝利に貢献した。
洛陽の攻防戦で負傷し捕縛されるが、重傷を装って敵兵を欺き、馬を奪って脱出している。
侯景の荊州侵攻を独孤信と食い止め、侯景の反乱の際には侯景の援軍として東魏軍を潁川から退けた。
独孤信
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
86 | 89 | 78 | 69 | 90 | 白馬 | A | B | S | S | A | C | 502 | 557 |
【ドッコシン】
北魏、西魏、北周の武将。西魏八柱国の一人。
騎射に優れ、容姿が美しく服飾を好み「独孤郎」の美称で呼ばれた。
北魏の孝武帝が長安へ逃亡し東魏が分裂すると、家族を捨て単騎で駆けつけ忠義心を称えられる。
荊州を東魏から奪うが、東魏の大軍に攻められ梁に亡命し、西魏に戻った。
その後も東魏を相手に洛陽を守備し、荊州を奪回するなど功績を挙げる。
西魏が敗れた邙山の戦いでは、東魏軍の後背を痛撃し、西魏軍の撤退を援護した。
北周が建国されると、政治を専横した宇文護に対して趙貴が謀反を企て、これに連座して毒酒を呷った。
北魏、西魏、北周の武将。西魏八柱国の一人。
騎射に優れ、容姿が美しく服飾を好み「独孤郎」の美称で呼ばれた。
北魏の孝武帝が長安へ逃亡し東魏が分裂すると、家族を捨て単騎で駆けつけ忠義心を称えられる。
荊州を東魏から奪うが、東魏の大軍に攻められ梁に亡命し、西魏に戻った。
その後も東魏を相手に洛陽を守備し、荊州を奪回するなど功績を挙げる。
西魏が敗れた邙山の戦いでは、東魏軍の後背を痛撃し、西魏軍の撤退を援護した。
北周が建国されると、政治を専横した宇文護に対して趙貴が謀反を企て、これに連座して毒酒を呷った。
補足:独孤の二字姓。
もとの名は独孤如願(ドッコジョガン)、後に宇文泰より信の名を賜り独孤信となる。
もとの名は独孤如願(ドッコジョガン)、後に宇文泰より信の名を賜り独孤信となる。
賀抜勝(破胡)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
85 | 89 | 61 | 48 | 73 | 騎将 | B | A | A | S | C | C | ? | 544 |
【ガバツショウ(ハコ)】
北魏、西魏の武将。
六鎮の乱で反乱軍に抵抗し、度々包囲を突破して北魏に援軍を求めた。
爾朱栄の配下となり、北海王元顥が洛陽を占拠すると、元顥を破り洛陽に入城した。
孝武帝の西遷に従うが、高歓が潼関を落としたため荊州に依ろうとする。
しかし侯景に迎撃され、梁へ一時亡命した。
西魏帰還後は東魏との戦いで功績を重ねる。
邙山の戦いでは高歓の本陣に迫るが、段韶に乗馬を射られ好機を逸した。
これを恨んだ高歓に親族を皆殺しにされたことで病を発し、没した。
梁への恩義から、狩猟の際に南向きの鳥獣は射らなかったという。
北魏、西魏の武将。
六鎮の乱で反乱軍に抵抗し、度々包囲を突破して北魏に援軍を求めた。
爾朱栄の配下となり、北海王元顥が洛陽を占拠すると、元顥を破り洛陽に入城した。
孝武帝の西遷に従うが、高歓が潼関を落としたため荊州に依ろうとする。
しかし侯景に迎撃され、梁へ一時亡命した。
西魏帰還後は東魏との戦いで功績を重ねる。
邙山の戦いでは高歓の本陣に迫るが、段韶に乗馬を射られ好機を逸した。
これを恨んだ高歓に親族を皆殺しにされたことで病を発し、没した。
梁への恩義から、狩猟の際に南向きの鳥獣は射らなかったという。
耿豪
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
58 | 95 | 27 | 20 | 40 | 戟将 | A | S | C | A | C | C | 506 | 550 |
【テキゴウ】
北魏、西魏の武将。
豪快かつ凶暴な性格で武芸に秀で、賀抜岳、次いで宇文泰に仕えた。
宇文泰の東伐では先鋒として功績を上げ、前将軍となる。
沙苑の戦いでは非常に多くの兵を殺傷し、甲冑が血で赤く染まり、宇文泰から「向かう所敵なし」と賞賛された。
邙山の戦いでは敗勢の中、右手で刀を抜き、左手に矛を持って奮戦し、勇名を轟かせた。
人に屈することを嫌い不遜な言動をとることが多かったが、その驍勇を宇文泰に非常に愛されていた故に許されていた。
車騎大将軍、驃騎大将軍を歴任した後に没し、その死を宇文泰は痛惜した。
北魏、西魏の武将。
豪快かつ凶暴な性格で武芸に秀で、賀抜岳、次いで宇文泰に仕えた。
宇文泰の東伐では先鋒として功績を上げ、前将軍となる。
沙苑の戦いでは非常に多くの兵を殺傷し、甲冑が血で赤く染まり、宇文泰から「向かう所敵なし」と賞賛された。
邙山の戦いでは敗勢の中、右手で刀を抜き、左手に矛を持って奮戦し、勇名を轟かせた。
人に屈することを嫌い不遜な言動をとることが多かったが、その驍勇を宇文泰に非常に愛されていた故に許されていた。
車騎大将軍、驃騎大将軍を歴任した後に没し、その死を宇文泰は痛惜した。
楊忠(掩于)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
84 | 90 | 64 | 51 | 60 | 猛者 | B | S | A | S | B | B | 507 | 568 |
【ヨウチュウ(エンウ)】
梁、北魏、西魏、北周の武将。隋の文帝・楊堅の父。
美髯の容貌で、武芸に秀で深い見識を持っていた。
また、狩猟の際に猛獣を素手で倒して「掩于」と称され、自らの字とした。
若い頃に梁に捕えられ、北海王元顥と陳慶之の北伐に従い洛陽に入る。
その後は爾朱一族に従い、独孤信の麾下となると孝武帝の西遷に従う。
西魏の将として東伐や沙苑の戦いで軍功を重ね、侯景の乱で混乱する梁に侵攻し漢水流域を平定する。
于謹の江陵攻略では、梁軍の戦象を弓射で退けた。
晩年は国境を守り北斉や突厥と相対し、斛律光を恐れる諸将を叱咤した。
梁、北魏、西魏、北周の武将。隋の文帝・楊堅の父。
美髯の容貌で、武芸に秀で深い見識を持っていた。
また、狩猟の際に猛獣を素手で倒して「掩于」と称され、自らの字とした。
若い頃に梁に捕えられ、北海王元顥と陳慶之の北伐に従い洛陽に入る。
その後は爾朱一族に従い、独孤信の麾下となると孝武帝の西遷に従う。
西魏の将として東伐や沙苑の戦いで軍功を重ね、侯景の乱で混乱する梁に侵攻し漢水流域を平定する。
于謹の江陵攻略では、梁軍の戦象を弓射で退けた。
晩年は国境を守り北斉や突厥と相対し、斛律光を恐れる諸将を叱咤した。
宇文貴(永貴)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
85 | 88 | 52 | 48 | 65 | B | A | S | A | C | C | ? | 567 |
【ウブンキ(エイキ)】
北魏、西魏、北周の武将。
少年の時に「男は剣を提げ馬に汗して公侯を取る」と嘆いて勉学を止める。
六鎮の乱では夏州を救援し、数十戦を戦って勇名を馳せた。
爾朱栄の麾下となって洛陽に入城した北海王元顥を攻め、橋を焚いて勝利に貢献する。
西魏では宇文泰と同姓の誼で重用され、
東魏の穎川侵攻では寡兵ながら決戦を挑み、乗馬を失いながらも徒歩で戦い勝利を収めた。
文帝の園遊で金の酒器を一矢で射抜き、養由基に例えられる。
羌族、氐族の反乱を鎮圧し、蜀で屯田や遊軍の編成を行う。
突厥へ使者として赴き、帰還途上に張掖で没した。
北魏、西魏、北周の武将。
少年の時に「男は剣を提げ馬に汗して公侯を取る」と嘆いて勉学を止める。
六鎮の乱では夏州を救援し、数十戦を戦って勇名を馳せた。
爾朱栄の麾下となって洛陽に入城した北海王元顥を攻め、橋を焚いて勝利に貢献する。
西魏では宇文泰と同姓の誼で重用され、
東魏の穎川侵攻では寡兵ながら決戦を挑み、乗馬を失いながらも徒歩で戦い勝利を収めた。
文帝の園遊で金の酒器を一矢で射抜き、養由基に例えられる。
羌族、氐族の反乱を鎮圧し、蜀で屯田や遊軍の編成を行う。
突厥へ使者として赴き、帰還途上に張掖で没した。
※宇文の二字姓。
特技候補は射手・弓将などの弓系特技や、屯田、威圧、楽奏(趣味が音楽と囲碁だったため)など。
特技候補は射手・弓将などの弓系特技や、屯田、威圧、楽奏(趣味が音楽と囲碁だったため)など。
賀蘭祥(盛楽)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
86 | 77 | 83 | 88 | 84 | 築城 | A | B | A | A | A | B | 517 | 564 |
【ガランショウ(セイラク)】
西魏、北周の武将、政治家。
孤児となり宇文泰の庇護を受け、北魏末期に仕官し宇文泰の幕下に加わる。
潼関、回洛城の攻略で功績を上げ、沙苑の戦いでは長安の留守を預かった。
荊州刺史となる善政を敷き、清素な性格で公私にわたって賄賂や贈物を受け取らなかったという。
その後、涇水と渭水の灌漑事業に携わり、堰を築き、開渠を設けて民を利した。
北周が成立すると趙貴の誅殺と孝閔帝の廃位に協力し、宇文護の政権基盤を固める。
吐谷渾が涼州に侵攻すると迎撃して討ち破り、洮陽など二城を落として洮州の地を獲得した。
西魏、北周の武将、政治家。
孤児となり宇文泰の庇護を受け、北魏末期に仕官し宇文泰の幕下に加わる。
潼関、回洛城の攻略で功績を上げ、沙苑の戦いでは長安の留守を預かった。
荊州刺史となる善政を敷き、清素な性格で公私にわたって賄賂や贈物を受け取らなかったという。
その後、涇水と渭水の灌漑事業に携わり、堰を築き、開渠を設けて民を利した。
北周が成立すると趙貴の誅殺と孝閔帝の廃位に協力し、宇文護の政権基盤を固める。
吐谷渾が涼州に侵攻すると迎撃して討ち破り、洮陽など二城を落として洮州の地を獲得した。
補足:賀蘭の二字姓。
韋叔裕(孝寛)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
92 | 78 | 91 | 85 | 83 | 虚実 | A | A | S | A | S | C | 509 | 580 |
【イシュクユウ(コウカン)】
西魏、北周の武将。
経史を広く読み、智謀に長け、攻守ともに秀でていた。
蕭宝寅の乱や潼関の戦いで功績を上げ、独孤信の洛陽入城後は潁川で東魏軍を破り、豫州を攻め取る。
并州刺史となると、高歓率いる大軍の侵攻を玉壁で固守する。
五十日に渡って城を徹底的に防衛し、東魏は七万の犠牲者を出し撤退した。
北周の代になると斛律光と国境を争い、その武勇を畏れ北斉に流言を飛ばし斛律光を殺害させた。
晩年に退職を願うが中華統一まで許されず、北斉討伐の先鋒を務め北斉滅亡に功績を立てた。
尉遅迥の反乱を鎮定した後に病没した。
西魏、北周の武将。
経史を広く読み、智謀に長け、攻守ともに秀でていた。
蕭宝寅の乱や潼関の戦いで功績を上げ、独孤信の洛陽入城後は潁川で東魏軍を破り、豫州を攻め取る。
并州刺史となると、高歓率いる大軍の侵攻を玉壁で固守する。
五十日に渡って城を徹底的に防衛し、東魏は七万の犠牲者を出し撤退した。
北周の代になると斛律光と国境を争い、その武勇を畏れ北斉に流言を飛ばし斛律光を殺害させた。
晩年に退職を願うが中華統一まで許されず、北斉討伐の先鋒を務め北斉滅亡に功績を立てた。
尉遅迥の反乱を鎮定した後に病没した。
宋(劉宋)
劉裕(徳與)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
88 | 82 | 71 | 83 | 61 | 駆逐 | S | B | A | C | A | B | 363 | 422 |
【リュウユウ(トクヨ)】
東晋の武将、政治家。宋(劉宋)の高祖武帝。
孫恩の乱の平定に功績を立てる。
桓玄が帝位を簒奪すると、桓玄を滅ぼし東晋を再興させる。
東晋の独裁権を確立すると、北伐を行って南燕を滅ぼし、盧循の乱も平定する。
後蜀に朱齢石を遣わして四川を制圧し、後秦に北伐を行い洛陽・関中も一時奪還した。
宋王に封じられた後に安帝を殺害し、恭帝から禅譲され宋を建国。
恭帝ら東晋の皇族を殺害し、禅譲後に前王朝の皇族を弑する前例を作った。
治世では大規模な土断法を施行して戸籍を整理するなど宋の基礎を固めるが、即位から三年で没した。
東晋の武将、政治家。宋(劉宋)の高祖武帝。
孫恩の乱の平定に功績を立てる。
桓玄が帝位を簒奪すると、桓玄を滅ぼし東晋を再興させる。
東晋の独裁権を確立すると、北伐を行って南燕を滅ぼし、盧循の乱も平定する。
後蜀に朱齢石を遣わして四川を制圧し、後秦に北伐を行い洛陽・関中も一時奪還した。
宋王に封じられた後に安帝を殺害し、恭帝から禅譲され宋を建国。
恭帝ら東晋の皇族を殺害し、禅譲後に前王朝の皇族を弑する前例を作った。
治世では大規模な土断法を施行して戸籍を整理するなど宋の基礎を固めるが、即位から三年で没した。
劉穆之(道和)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
46 | 3 | 93 | 95 | 68 | 深謀 | C | C | C | C | C | C | 360 | 417 |
【リュウボクシ(ドウワ)】
東晋の政治家。劉裕配下の謀臣。
劉裕の桓玄討伐に際して幕下に加わり、建康攻略後の慰撫を担当する。
劉裕の腹心の参謀として軍事・政治両面で献策を行い、劉裕の独裁権を確立させる。
北伐でも数々の献策を行い、自らは建康の留守を預かった。
朝政を司り、軍需を前線に供給し、決裁は流れるようで滞ることがなかったという。
しかし、北伐で洛陽を攻略した劉裕が九錫を朝廷に求めると、簒奪の前兆を感じ取って悶死した。
深謀遠猷を示し、劉宋創業の元勲と劉裕に称えられた。
性格は豪奢で、豪勢な食事を好んだという。
東晋の政治家。劉裕配下の謀臣。
劉裕の桓玄討伐に際して幕下に加わり、建康攻略後の慰撫を担当する。
劉裕の腹心の参謀として軍事・政治両面で献策を行い、劉裕の独裁権を確立させる。
北伐でも数々の献策を行い、自らは建康の留守を預かった。
朝政を司り、軍需を前線に供給し、決裁は流れるようで滞ることがなかったという。
しかし、北伐で洛陽を攻略した劉裕が九錫を朝廷に求めると、簒奪の前兆を感じ取って悶死した。
深謀遠猷を示し、劉宋創業の元勲と劉裕に称えられた。
性格は豪奢で、豪勢な食事を好んだという。
王鎮悪
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
94 | 39 | 89 | 37 | 48 | 攻城 | S | A | A | C | S | B | 373 | 418 |
【オウチンアク/オウチンオ】
東晋の武将。劉裕配下の武将。前秦の名将・王猛の孫。
前秦が淝水の戦いで敗れた後に荊州へ移った。
弓馬の扱いには優れなかったが、軍事や国家を論じ、迅速果敢な決断力に富んでいた。
劉裕の麾下となり、その将才を賞賛される。
劉毅討伐では、野戦で劉毅軍を破ると、さらに江陵に速攻を仕掛け二十日で平定した。
後秦への北伐では先鋒を務め、虎牢関を落とし洛陽を攻略する。
さらに黄河・渭水を遡上して長安へ侵攻すると見せて陸路から侵攻し、長安も攻め落とした。
劉裕の建康帰還後は関中を守備するが、同僚の沈田子と対立し殺害された。
東晋の武将。劉裕配下の武将。前秦の名将・王猛の孫。
前秦が淝水の戦いで敗れた後に荊州へ移った。
弓馬の扱いには優れなかったが、軍事や国家を論じ、迅速果敢な決断力に富んでいた。
劉裕の麾下となり、その将才を賞賛される。
劉毅討伐では、野戦で劉毅軍を破ると、さらに江陵に速攻を仕掛け二十日で平定した。
後秦への北伐では先鋒を務め、虎牢関を落とし洛陽を攻略する。
さらに黄河・渭水を遡上して長安へ侵攻すると見せて陸路から侵攻し、長安も攻め落とした。
劉裕の建康帰還後は関中を守備するが、同僚の沈田子と対立し殺害された。
檀道済
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
95 | 89 | 88 | 25 | 77 | 強行 | S | A | A | S | A | C | ? | 436 |
【ダンドウセイ】
東晋末宋初の将。
東晋を滅ぼし皇帝を僭称した桓玄討伐のため、劉裕に従い決起。
北伐にも参戦し、後秦を滅ぼした。
宋の建国者の劉裕の死去後、少帝を廃して文帝を擁立し、政権を掌握し北伐を実行したが、兵糧不足で撤退。
後に司空となるが、後難を怖れた文帝に殺害された。
この時、文帝の目の前で頭巾を床に叩きつけ、
「自分を殺すことは万里の長城を壊すことに等しい」と叫んだという。
その報を受けた北魏は、宋への侵攻を開始し文帝は後悔したという。
後世、その見事な撤退策は、「三十六計逃げるに如かず」の語源となった。
東晋末宋初の将。
東晋を滅ぼし皇帝を僭称した桓玄討伐のため、劉裕に従い決起。
北伐にも参戦し、後秦を滅ぼした。
宋の建国者の劉裕の死去後、少帝を廃して文帝を擁立し、政権を掌握し北伐を実行したが、兵糧不足で撤退。
後に司空となるが、後難を怖れた文帝に殺害された。
この時、文帝の目の前で頭巾を床に叩きつけ、
「自分を殺すことは万里の長城を壊すことに等しい」と叫んだという。
その報を受けた北魏は、宋への侵攻を開始し文帝は後悔したという。
後世、その見事な撤退策は、「三十六計逃げるに如かず」の語源となった。
劉義隆
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
62 | 51 | 72 | 88 | 78 | 指導 | C | C | C | C | B | B | 407 | 453 |
【リュウギリュウ】
劉宋の第三代皇帝・文帝。武帝劉裕の第三子。
少帝が徐羨之に殺害されると帝位につく。
徐羨之ら政治を専横した重臣を粛清して実権を掌握する。
国政では武帝の政治方針を継承し、戸籍の整理と税賦の減免を行い、
「元嘉の治」と呼ばれる劉宋の全盛期を招いた。
儒学館を開設して学問を奨励し、裴松之に陳寿の「三国志」に注釈を行うよう命じている。
外征では檀道済に北伐を行わせるものの、檀道済と対立し誅殺してしまう。
このため北魏の太武帝の侵攻を受け、江北を荒らされる結果となった。
その後、太子の劉劭により謀殺された。
劉宋の第三代皇帝・文帝。武帝劉裕の第三子。
少帝が徐羨之に殺害されると帝位につく。
徐羨之ら政治を専横した重臣を粛清して実権を掌握する。
国政では武帝の政治方針を継承し、戸籍の整理と税賦の減免を行い、
「元嘉の治」と呼ばれる劉宋の全盛期を招いた。
儒学館を開設して学問を奨励し、裴松之に陳寿の「三国志」に注釈を行うよう命じている。
外征では檀道済に北伐を行わせるものの、檀道済と対立し誅殺してしまう。
このため北魏の太武帝の侵攻を受け、江北を荒らされる結果となった。
その後、太子の劉劭により謀殺された。
柳元景(孝仁)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
89 | 84 | 65 | 68 | 74 | 射程 | S | B | A | B | S | C | 406 | 465 |
【リュウゲンケイ(コウジン)】
劉宋の武将。
沈慶之の蛮討伐で、寡兵ながらも出撃し蛮族の退路を断って功績を挙げた。
北伐の西路軍を統率して北魏を攻め、弘農、潼関を制圧し、攻城兵器を作り決戦に備える。
陝西で北魏軍を度々打ち破るも、東路では王玄謨が北魏に敗れて蕭斌が虎牢関から撤退し、逆に北魏に侵攻されたために撤退した。
劉劭が文帝を殺害するとこれを唆した蕭斌を殺して乱の平定に貢献し、その後も孝武帝の元で頻発する反乱鎮圧で軍功を重ねた。
前廃帝の代にその暴虐な治世を憂えて廃立を計画するが、沈慶之が前廃帝に訴えたため殺害された。
劉宋の武将。
沈慶之の蛮討伐で、寡兵ながらも出撃し蛮族の退路を断って功績を挙げた。
北伐の西路軍を統率して北魏を攻め、弘農、潼関を制圧し、攻城兵器を作り決戦に備える。
陝西で北魏軍を度々打ち破るも、東路では王玄謨が北魏に敗れて蕭斌が虎牢関から撤退し、逆に北魏に侵攻されたために撤退した。
劉劭が文帝を殺害するとこれを唆した蕭斌を殺して乱の平定に貢献し、その後も孝武帝の元で頻発する反乱鎮圧で軍功を重ねた。
前廃帝の代にその暴虐な治世を憂えて廃立を計画するが、沈慶之が前廃帝に訴えたため殺害された。
薛安都
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
58 | 94 | 7 | 3 | 42 | 猛者 | B | S | B | S | C | C | ? | 469 |
【セツアント】
南北朝の武将。北魏、劉宋、再び北魏に仕えた。
非常に勇猛で騎射に優れていたが、親族が北魏に反乱したために罪を恐れて劉宋へ出奔した。
柳元景の麾下で北伐に従軍し、弘農に駐屯する。
潼関付近での戦いでは北魏軍の挑発に激怒し、鎧兜を脱いで単騎矛を奮って勇戦して敵を突き崩し、
戦線が膠着する度に単騎で突撃すること四度に及び、北魏軍を潰走させた。
魯爽の反乱では、単騎で敵軍に突入して魯爽の首を斬って帰還する大功を立てた。
明帝が立つと、明帝に不満を持った劉子勲に従うが劉子勲が敗れたために、北魏に再度出奔した。
南北朝の武将。北魏、劉宋、再び北魏に仕えた。
非常に勇猛で騎射に優れていたが、親族が北魏に反乱したために罪を恐れて劉宋へ出奔した。
柳元景の麾下で北伐に従軍し、弘農に駐屯する。
潼関付近での戦いでは北魏軍の挑発に激怒し、鎧兜を脱いで単騎矛を奮って勇戦して敵を突き崩し、
戦線が膠着する度に単騎で突撃すること四度に及び、北魏軍を潰走させた。
魯爽の反乱では、単騎で敵軍に突入して魯爽の首を斬って帰還する大功を立てた。
明帝が立つと、明帝に不満を持った劉子勲に従うが劉子勲が敗れたために、北魏に再度出奔した。
斉(南斉)
周盤龍
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
84 | 91 | 58 | 52 | 68 | 疾走 | S | B | A | S | C | A | 415 | 493 |
【シュウバンリュウ】
劉宋、南斉の武将。
蕭道成の麾下で軍功を重ねる。
北魏の寿春侵攻に対して勇戦し、数万を殺傷して牛馬や輜重を得た。
淮陽の角城が攻められると、息子の周奉叔が二百騎を率いて出撃し北魏軍に包囲される。
奉叔戦死の報を聞くと「周公来る!」と叫んで突撃した。
奉叔はまだ包囲の中で奮戦しており、息子と合流して敵陣を東西南北に駆け巡って大勝し、北魏に勇名を轟かせた。
後に角城の守将の張蒲が北魏に内通すると、王僧慶を救援に向かわせた。
一時罪を問われて免官になるも晩年まで国境を守り、老いて退職を許された後に病没した。
劉宋、南斉の武将。
蕭道成の麾下で軍功を重ねる。
北魏の寿春侵攻に対して勇戦し、数万を殺傷して牛馬や輜重を得た。
淮陽の角城が攻められると、息子の周奉叔が二百騎を率いて出撃し北魏軍に包囲される。
奉叔戦死の報を聞くと「周公来る!」と叫んで突撃した。
奉叔はまだ包囲の中で奮戦しており、息子と合流して敵陣を東西南北に駆け巡って大勝し、北魏に勇名を轟かせた。
後に角城の守将の張蒲が北魏に内通すると、王僧慶を救援に向かわせた。
一時罪を問われて免官になるも晩年まで国境を守り、老いて退職を許された後に病没した。
蕭懿(元達)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
86 | 80 | 69 | 72 | 79 | 鉄壁 | B | A | S | C | A | A | ? | 500 |
【ショウイ(ゲンタツ)】
南斉の武将。梁の武帝蕭衍の兄。
晋陵太守として善政を敷き、要職を歴任する。
拓跋英(元英)の南伐に対して迎撃に失敗し南鄭を包囲されるものの、数十日に渡って城を固守し、
撤退する北魏軍から六つの城を奪還し、征虜将軍に任じられた。
暗君東昏侯の治世で頻発する反乱鎮定に携わり、
蕭衍から東昏侯を廃するよう助言されたが、これを無視して乱を平定した。
これらの功績を妬まれ、茹法珍ら宿臣に謀反の兆しありと讒言される。
逃亡を勧められるが、逃げずに死を賜った。
その後、東昏侯を廃した蕭衍により、丞相、長沙郡王が追贈された。
南斉の武将。梁の武帝蕭衍の兄。
晋陵太守として善政を敷き、要職を歴任する。
拓跋英(元英)の南伐に対して迎撃に失敗し南鄭を包囲されるものの、数十日に渡って城を固守し、
撤退する北魏軍から六つの城を奪還し、征虜将軍に任じられた。
暗君東昏侯の治世で頻発する反乱鎮定に携わり、
蕭衍から東昏侯を廃するよう助言されたが、これを無視して乱を平定した。
これらの功績を妬まれ、茹法珍ら宿臣に謀反の兆しありと讒言される。
逃亡を勧められるが、逃げずに死を賜った。
その後、東昏侯を廃した蕭衍により、丞相、長沙郡王が追贈された。
梁
蕭衍(叔達)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
85 | 75 | 79 | 86 | 84 | 名声 | A | B | A | C | A | A | 464 | 549 |
【ショウエン(シュクタツ)】
梁の高祖武帝。
南斉の武将として、北魏の南下を淮河や湖北で度々防いだ。
東昏侯蕭宝巻の暴政に対して蕭宝融(後の和帝)を擁して挙兵し、建康を攻略した。
その翌年に和帝を廃し、梁を建国する。
治世前半は倹約を旨とし、沈約や范雲を重用して政治改革を行い、南朝の繁栄期を招来した。
しかし、沈約らが没すると仏教に耽溺し、吝嗇を示すようになった。
東魏に反乱した侯景を迎え入れるも、侯景の乱によって建康が陥落、幽閉され餓死した。
博識で文武に優れる多才な人物で、治世後半に衰えを見せたものの南朝第一の名君と評価されている。
梁の高祖武帝。
南斉の武将として、北魏の南下を淮河や湖北で度々防いだ。
東昏侯蕭宝巻の暴政に対して蕭宝融(後の和帝)を擁して挙兵し、建康を攻略した。
その翌年に和帝を廃し、梁を建国する。
治世前半は倹約を旨とし、沈約や范雲を重用して政治改革を行い、南朝の繁栄期を招来した。
しかし、沈約らが没すると仏教に耽溺し、吝嗇を示すようになった。
東魏に反乱した侯景を迎え入れるも、侯景の乱によって建康が陥落、幽閉され餓死した。
博識で文武に優れる多才な人物で、治世後半に衰えを見せたものの南朝第一の名君と評価されている。
韋叡(懐文)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
90 | 26 | 91 | 81 | 78 | 火神 | A | A | A | C | S | S | 442 | 520 |
【イエイ(カイブン)】
南朝の将で、劉宋・南斉・梁に仕えた。
蕭衍の軍師として数々の献策を行い、梁の建国に尽力した。
その後、北魏の領土へ侵攻し、合肥を水攻めにして陥落させる。
中山王元英と楊大眼率いる北魏軍が鍾離を包囲した際には援軍として駆けつけ、
淮水で水軍を用いて北魏軍の架けた橋を火攻で焼き払い、北魏軍に大勝を収めて鍾離を救った。
その後も北魏の侵攻を食い止め、北魏の人々から「韋虎」の異名で恐れられた。
馬に乗れなかったため、戦場では儒学者の風体で輿に乗り、竹杖を用いて軍を指揮している。
南朝の将で、劉宋・南斉・梁に仕えた。
蕭衍の軍師として数々の献策を行い、梁の建国に尽力した。
その後、北魏の領土へ侵攻し、合肥を水攻めにして陥落させる。
中山王元英と楊大眼率いる北魏軍が鍾離を包囲した際には援軍として駆けつけ、
淮水で水軍を用いて北魏軍の架けた橋を火攻で焼き払い、北魏軍に大勝を収めて鍾離を救った。
その後も北魏の侵攻を食い止め、北魏の人々から「韋虎」の異名で恐れられた。
馬に乗れなかったため、戦場では儒学者の風体で輿に乗り、竹杖を用いて軍を指揮している。
曹景宗(子震)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
84 | 93 | 51 | 19 | 41 | 射手 | A | S | S | B | C | A | 457 | 508 |
【ソウケイソウ(シシン)】
宋、斉、梁の武将。
騎射に秀で、二十歳前の時には数百の蛮人に包囲された際には、毎箭必殺の腕前で蛮人を逃散させた。
馬圏の包囲戦では、援軍に来た中山王元英の四万の軍を二千の伏兵をもって撃ち破る。
蕭衍が起兵するとこれに従い、先鋒として郢城を落とし、李居士、王国珍の軍を破る。
鍾離の戦いでは韋叡と援軍に向かい、南岸に楊大眼の攻撃を退けつつ趙草城を築城。
浮橋に火攻めを敢行し、総攻撃を行って北魏軍を徹底的に打ち破った。
豪放な性格で酒と女を好み、部下の略奪を禁じなかったことから民からの評判は悪かった。
宋、斉、梁の武将。
騎射に秀で、二十歳前の時には数百の蛮人に包囲された際には、毎箭必殺の腕前で蛮人を逃散させた。
馬圏の包囲戦では、援軍に来た中山王元英の四万の軍を二千の伏兵をもって撃ち破る。
蕭衍が起兵するとこれに従い、先鋒として郢城を落とし、李居士、王国珍の軍を破る。
鍾離の戦いでは韋叡と援軍に向かい、南岸に楊大眼の攻撃を退けつつ趙草城を築城。
浮橋に火攻めを敢行し、総攻撃を行って北魏軍を徹底的に打ち破った。
豪放な性格で酒と女を好み、部下の略奪を禁じなかったことから民からの評判は悪かった。
侯景(万景)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
80 | 84 | 58 | 10 | 47 | 攻城 | A | B | C | A | S | C | 503 | 552 |
【コウケイ(マンケイ)】
南北朝末期の将。
北魏の爾朱栄軍で頭角を現し、北魏の東西分裂後、東魏の高歓に臣従するが、
高歓の死去後に東魏から造反し、梁の武帝に帰順した。
その後、東魏の慕容紹宗に敗れ、寿春へ退くが、梁と東魏の間に和議成立が見えると再び梁へ叛乱。
梁宗室の蕭正徳を抱き込み十万の兵を集め、梁国内の不和に乗じ建康を攻略し、
簡文帝を擁立して、宇宙大将軍に就任。
更に簡文帝を弑殺、蕭正徳を除き、擁立した予章王蕭棟から禅譲を受け、漢の皇帝に即位したが、
王僧弁・陳霸先の義兵に敗れ、敗走途上で殺害された。
南北朝末期の将。
北魏の爾朱栄軍で頭角を現し、北魏の東西分裂後、東魏の高歓に臣従するが、
高歓の死去後に東魏から造反し、梁の武帝に帰順した。
その後、東魏の慕容紹宗に敗れ、寿春へ退くが、梁と東魏の間に和議成立が見えると再び梁へ叛乱。
梁宗室の蕭正徳を抱き込み十万の兵を集め、梁国内の不和に乗じ建康を攻略し、
簡文帝を擁立して、宇宙大将軍に就任。
更に簡文帝を弑殺、蕭正徳を除き、擁立した予章王蕭棟から禅譲を受け、漢の皇帝に即位したが、
王僧弁・陳霸先の義兵に敗れ、敗走途上で殺害された。
陳
呉明徹(通照)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
87 | 78 | 70 | 59 | 79 | 強襲 | B | B | A | C | A | S | 512 | 578 |
【ゴメイテツ(ツウショウ)】
陳の武将。
陳霸先と親交を結び、安南将軍に任じられる。
梁将王琳の征討軍に従軍するが大敗し、主将が捕縛されたため撤退の指揮を執り帰還した。
北斉の支援を受けた王琳が侵攻すると、湓城に夜襲を仕掛けるが失敗し敗走した。
華皎の反乱では、北周の援軍を撃ち破り勝利に乗じて後梁の河東を奪取した。
宣帝の代に、北斉の重臣粛清の混乱に乗じて北伐を行う。
寿陽(寿春)を落とし守将の盧潜を捕え、宿敵の王琳を殺害する。
数十城を抜き淮南を陳の支配下に置いた。
北斉を滅ぼした北周への北伐を行うが王軌に敗れ、虜囚となり長安で没した。
陳の武将。
陳霸先と親交を結び、安南将軍に任じられる。
梁将王琳の征討軍に従軍するが大敗し、主将が捕縛されたため撤退の指揮を執り帰還した。
北斉の支援を受けた王琳が侵攻すると、湓城に夜襲を仕掛けるが失敗し敗走した。
華皎の反乱では、北周の援軍を撃ち破り勝利に乗じて後梁の河東を奪取した。
宣帝の代に、北斉の重臣粛清の混乱に乗じて北伐を行う。
寿陽(寿春)を落とし守将の盧潜を捕え、宿敵の王琳を殺害する。
数十城を抜き淮南を陳の支配下に置いた。
北斉を滅ぼした北周への北伐を行うが王軌に敗れ、虜囚となり長安で没した。
蕭摩訶(元胤)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
79 | 95 | 54 | 24 | 68 | 戟将 | A | S | S | A | C | C | 532 | 604 |
【ショウマカ(ゲンイン)】
梁、陳、隋の武将。
侯景の反乱に際して少年の身ながら陳霸先率いる梁軍と戦い、
武勇が認められて陳霸先麾下の侯安都に従った。
鍾山の戦いで侯安都が北斉軍に包囲されると、単騎で突撃して救出する。
呉明徹の北伐に従い、西域から来た北斉の援軍を打ち破り、関羽・張飛に比せられた。
その後、始興王の反乱を鎮めて車騎大将軍に任じられる。
隋の侵攻では、後主に無謀な出撃を命じられ賀若弼の捕虜となる。
首に刃を当てられても屈さなかったため、縄を解かれ隋の開府儀同三司となった。
煬帝の即位に際して楊諒の反乱に従い、殺害された。
梁、陳、隋の武将。
侯景の反乱に際して少年の身ながら陳霸先率いる梁軍と戦い、
武勇が認められて陳霸先麾下の侯安都に従った。
鍾山の戦いで侯安都が北斉軍に包囲されると、単騎で突撃して救出する。
呉明徹の北伐に従い、西域から来た北斉の援軍を打ち破り、関羽・張飛に比せられた。
その後、始興王の反乱を鎮めて車騎大将軍に任じられる。
隋の侵攻では、後主に無謀な出撃を命じられ賀若弼の捕虜となる。
首に刃を当てられても屈さなかったため、縄を解かれ隋の開府儀同三司となった。
煬帝の即位に際して楊諒の反乱に従い、殺害された。
周羅睺(公布)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
85 | 90 | 63 | 49 | 78 | 血路 | B | A | A | A | B | S | 541 | 604 |
【シュウラコウ(コウフ)】
陳、隋の武将。
呉明徹の北伐に従い、江陽の戦いでは流矢で左目を負傷する。
宿預で呉明徹が包囲されると騎馬を突進させ救出し、蕭摩訶の支援を受けて大勝した。
北周への北伐では、落馬した蕭摩訶を救出し、「勇は三軍に冠たり」と勇名を馳せた。
隋の南征では巴峡縁江の都督として秦王楊俊と長江で対峙し、建康陥落まで渡河させなかった。
隋に投降した後は、上儀同三司となる。
文帝の高句麗遠征で水軍総管となるが暴風に阻まれ撤退した。
突厥征伐や楊諒の乱の平定で上大将軍まで上るが、楊諒の残党との交戦中に流矢に当たって戦死した。
陳、隋の武将。
呉明徹の北伐に従い、江陽の戦いでは流矢で左目を負傷する。
宿預で呉明徹が包囲されると騎馬を突進させ救出し、蕭摩訶の支援を受けて大勝した。
北周への北伐では、落馬した蕭摩訶を救出し、「勇は三軍に冠たり」と勇名を馳せた。
隋の南征では巴峡縁江の都督として秦王楊俊と長江で対峙し、建康陥落まで渡河させなかった。
隋に投降した後は、上儀同三司となる。
文帝の高句麗遠征で水軍総管となるが暴風に阻まれ撤退した。
突厥征伐や楊諒の乱の平定で上大将軍まで上るが、楊諒の残党との交戦中に流矢に当たって戦死した。
※PC版では「睺」の字の代わりに「侯」を当てる。
- 劉裕の能力ひっくいなー。卑しい身分から皇帝に登りつめた人物で
敵の崔浩からも慕容垂以上の武略だって評価されてるのに。 -- (陳珍) 2013-06-08 21:56:57 - ↑今思うと自分も過小評価しすぎたと思います。
武将例作成した頃はまだ知識が足りなかったですね。申し訳ない。 -- (昔に劉裕を作成した者) 2013-06-08 23:18:11 - 三国志11は陳慶之の能力低すぎると思う。
個人的に劉裕は項羽の武勇に、朱全忠の狡猾さ、
曹操の政治力を兼ね備えた人物だと思ってる。
それは大げさだとしても、もっと能力高くてもいいと思う。
-- (名無しさん) 2018-02-04 21:36:05