みんなの新武将/金 - (2012/05/09 (水) 18:19:40) の編集履歴(バックアップ)
金(1115~1235)
完顔氏を支配氏族とする女真族国家。
太祖阿骨打は東北地方から契丹勢力を駆逐して大同・燕京方面に進出し、1125年に太宗が遼を滅ぼし、
1127年には開封を開城させて宋を断絶させ、華北にも進出した。
初め中国には張邦昌・劉豫の漢人君主を立てて間接統治を行なったが、1137年に煕宗によって直接統治に転じ、
5年後に淮水~大散関を南宋との国境に定め、1153年には海陵王によって会寧府から燕京に遷都した。
海陵王が南征に失敗して陣中で暗殺されると世宗が立てられ、この治世が最も安定して中興の祖とも称されるが、
海陵王の時代から加速した女真の漢化と窮乏化を改善することはできず、
次の章宗の時代には天災に加えてタタールが活発化し、国力は急速に疲弊した。
宣宗の時代には契丹が離叛して満州も失い、1214年にモンゴルと和議を結んだものの開封に遷都したことで再び交戦状態となり、
1232年の三峯山の役で兵力の殆どを失い、まもなく朝廷は蔡州に逃れて1234年にモンゴルと宋の連合軍によって滅ぼされた。
太祖阿骨打は東北地方から契丹勢力を駆逐して大同・燕京方面に進出し、1125年に太宗が遼を滅ぼし、
1127年には開封を開城させて宋を断絶させ、華北にも進出した。
初め中国には張邦昌・劉豫の漢人君主を立てて間接統治を行なったが、1137年に煕宗によって直接統治に転じ、
5年後に淮水~大散関を南宋との国境に定め、1153年には海陵王によって会寧府から燕京に遷都した。
海陵王が南征に失敗して陣中で暗殺されると世宗が立てられ、この治世が最も安定して中興の祖とも称されるが、
海陵王の時代から加速した女真の漢化と窮乏化を改善することはできず、
次の章宗の時代には天災に加えてタタールが活発化し、国力は急速に疲弊した。
宣宗の時代には契丹が離叛して満州も失い、1214年にモンゴルと和議を結んだものの開封に遷都したことで再び交戦状態となり、
1232年の三峯山の役で兵力の殆どを失い、まもなく朝廷は蔡州に逃れて1234年にモンゴルと宋の連合軍によって滅ぼされた。
完顔旻
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
90 | 94 | 69 | 80 | 86 | 弓神 | B | A | S | S | A | C | 1068 | 1123 |
【カンガンビン】
金の初代皇帝太祖。女真名は阿骨打。
幼い時から力強く、弓射に秀でていた。
父の劾里鉢、兄の烏雅束の元で生女真の統一に貢献する。
烏雅束の後を継いで完顔部の長となり、
遼に対して挙兵し、寧江州、出店河で遼軍を撃破して行き、金を建国する。
法制度を定め、女真文字を制定し、猛安謀克制などを導入して軍制を整えた。
北宋と海上の盟を結んで遼を攻め、上京、中京を攻略し、
北宋の童貫が燕京攻略に失敗すると、出兵要請に応えて燕京も陥落させた。
反乱鎮圧や遼征討の最中で病に倒れ、上京に軍を返す途上で没した。
金の初代皇帝太祖。女真名は阿骨打。
幼い時から力強く、弓射に秀でていた。
父の劾里鉢、兄の烏雅束の元で生女真の統一に貢献する。
烏雅束の後を継いで完顔部の長となり、
遼に対して挙兵し、寧江州、出店河で遼軍を撃破して行き、金を建国する。
法制度を定め、女真文字を制定し、猛安謀克制などを導入して軍制を整えた。
北宋と海上の盟を結んで遼を攻め、上京、中京を攻略し、
北宋の童貫が燕京攻略に失敗すると、出兵要請に応えて燕京も陥落させた。
反乱鎮圧や遼征討の最中で病に倒れ、上京に軍を返す途上で没した。
補足:弓の腕前として、遼の使者の前で三連射して鳥を三羽射落として驚愕させ、
宴の際に人々と弓射を比べて、一発で三百二十歩の距離から当てたというエピソードがある。
宴の際に人々と弓射を比べて、一発で三百二十歩の距離から当てたというエピソードがある。
完顔晟
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
84 | 76 | 85 | 87 | 59 | 詭計 | B | A | B | A | A | C | 1075 | 1135 |
【カンガンセイ】
金の第二代皇帝太宗。太祖阿骨打の同母弟。女真名は呉乞買。
阿骨打の征戦では常に留守を預かっていた。
太祖の死後に後を継いで帝位に就き、遼を攻め天祚帝を捕えて滅ぼす。
海上の盟に逆らった北宋に対しても出兵するが、開封を防衛され城下の盟を結んで撤退する。
北宋が再度背信すると開封を陥落させ、徽宗と欽宗を連れ去って北宋を滅ぼした(靖康の変)。
しかし軍民の疲弊もあって、旧北宋領には張邦昌・劉豫らの傀儡政権を立てて南宋との緩衝帯とした。
また、軍政の中央集権も図り、経済改革により女真族優位の体制を築いた。
金の第二代皇帝太宗。太祖阿骨打の同母弟。女真名は呉乞買。
阿骨打の征戦では常に留守を預かっていた。
太祖の死後に後を継いで帝位に就き、遼を攻め天祚帝を捕えて滅ぼす。
海上の盟に逆らった北宋に対しても出兵するが、開封を防衛され城下の盟を結んで撤退する。
北宋が再度背信すると開封を陥落させ、徽宗と欽宗を連れ去って北宋を滅ぼした(靖康の変)。
しかし軍民の疲弊もあって、旧北宋領には張邦昌・劉豫らの傀儡政権を立てて南宋との緩衝帯とした。
また、軍政の中央集権も図り、経済改革により女真族優位の体制を築いた。
完顔婁室
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
88 | 85 | 73 | 39 | 66 | 攻城 | B | A | A | S | S | C | 1077 | 1130 |
【カンガンロウシツ】
金の武将。女真名は斡里衍。
阿骨打の起兵に従い、達魯古城の戦いでは銀朮可と遼軍の中堅を大破し、九つの陣を陥れる。
完顔杲に従い寧城を落とし、さらに大同を攻め破る。
西夏軍三万が遼を救援すると、軍を二手に分けて挟撃し三十里に渡って追撃した。
耶律大石が聖州を侵犯すると打ち破って捕縛した。
天祚帝を捕えて遼を滅ぼし、北宋征伐では宗翰が太原を陥落させると河東へ侵攻する。
西へ進んで洛陽、長安などを制圧していくが熟羊寨で敗れ撤退した。
宗輔の陝西侵攻に従い、富平の戦いで宗弼と共に南宋の張浚を打ち破った。
金の武将。女真名は斡里衍。
阿骨打の起兵に従い、達魯古城の戦いでは銀朮可と遼軍の中堅を大破し、九つの陣を陥れる。
完顔杲に従い寧城を落とし、さらに大同を攻め破る。
西夏軍三万が遼を救援すると、軍を二手に分けて挟撃し三十里に渡って追撃した。
耶律大石が聖州を侵犯すると打ち破って捕縛した。
天祚帝を捕えて遼を滅ぼし、北宋征伐では宗翰が太原を陥落させると河東へ侵攻する。
西へ進んで洛陽、長安などを制圧していくが熟羊寨で敗れ撤退した。
宗輔の陝西侵攻に従い、富平の戦いで宗弼と共に南宋の張浚を打ち破った。
完顔宗望
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
90 | 87 | 61 | 67 | 64 | 騎将 | A | A | S | S | B | C | ? | 1127 |
【カンガンソウボウ】
金の武将。太祖阿骨打の第二子。女真名は斡魯補・斡離不。通称は「二太子」。
太祖の征戦では必ず従軍し、太祖の側に付き従った。
征遼戦では連勝を続け、婁室・銀朮可と三路に分かれて耶律大石を撃破する。
決戦を挑んだ天祚帝を大破し、耶律習泥烈(天祚帝の子)を捕え玉璽を入手した。
張覺が北宋に投降すると、燕山府(燕京)を攻め落とす。
その後、東路から北宋へ侵攻し、西路の宗翰とともに汴京を包囲した。
北宋が旧遼臣を懐柔しようとしたため再度北宋征伐を行い、宗翰と汴京を陥落させ、
常勝軍として宋の人々から畏れられた。
金の武将。太祖阿骨打の第二子。女真名は斡魯補・斡離不。通称は「二太子」。
太祖の征戦では必ず従軍し、太祖の側に付き従った。
征遼戦では連勝を続け、婁室・銀朮可と三路に分かれて耶律大石を撃破する。
決戦を挑んだ天祚帝を大破し、耶律習泥烈(天祚帝の子)を捕え玉璽を入手した。
張覺が北宋に投降すると、燕山府(燕京)を攻め落とす。
その後、東路から北宋へ侵攻し、西路の宗翰とともに汴京を包囲した。
北宋が旧遼臣を懐柔しようとしたため再度北宋征伐を行い、宗翰と汴京を陥落させ、
常勝軍として宋の人々から畏れられた。
完顔宗弼
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
91 | 93 | 58 | 79 | 69 | 威風 | S | A | S | S | C | C | ? | 1148 |
【カンガンソウヒツ】
金の武将。太祖阿骨打の第四子。女真名は斡啜・兀朮など。通称は「四太子」。
宗望の麾下で征遼戦に従軍して勇名を上げる。
北宋征伐では汴京攻略に参加し、宗輔に従って河北を平定した。
南宋が立つと長江を南下し、江南を転戦するが黄天蕩の戦いで韓世忠に大敗した。
その後は陝西に侵攻し富平の戦いで勝利を収める。
四川侵攻では和尚原の戦いで大敗するも、和尚原に再侵攻して呉璘を破った。
河南・陝西が南宋に割譲されると、昌を誅殺して失地を奪回する。
左丞相となって河南の直接統治や漢人官僚の登用を行い、南宋との和議を締結した。
金の武将。太祖阿骨打の第四子。女真名は斡啜・兀朮など。通称は「四太子」。
宗望の麾下で征遼戦に従軍して勇名を上げる。
北宋征伐では汴京攻略に参加し、宗輔に従って河北を平定した。
南宋が立つと長江を南下し、江南を転戦するが黄天蕩の戦いで韓世忠に大敗した。
その後は陝西に侵攻し富平の戦いで勝利を収める。
四川侵攻では和尚原の戦いで大敗するも、和尚原に再侵攻して呉璘を破った。
河南・陝西が南宋に割譲されると、昌を誅殺して失地を奪回する。
左丞相となって河南の直接統治や漢人官僚の登用を行い、南宋との和議を締結した。
補足:金史には女真名として「斡啜」「兀朮」「斡出」「晃斡出」が挙げられている。
完顔宗翰
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
89 | 86 | 73 | 77 | 42 | 捕縛 | A | S | A | S | B | C | 1080 | 1137 |
【カンガンソウカン】
金の武将、政治家。女真名は粘没喝、漢語の訛りでは粘罕。
遼征伐で智勇を示し、建議が阿骨打の意と合致していたため信任される。
阿骨打の即位に尽力し、達魯古城の戦いでは右軍を率いて遼軍の大破に貢献する。
その後、天祚帝を破って西京、燕京を攻略した。
遼が滅亡すると北宋討伐を推進し、二度の汴京包囲を経て徽宗・欽宗を捕え、北宋を滅亡させた。
旧北宋領の統治では西京を掌握して燕京の宗望と並び立ち、宗望の死後は燕京も掌握する。
煕宗が即位すると太保、尚書令となり宗幹・宗磐と国政に参与した。
致仕を願うが許されず病没した。
金の武将、政治家。女真名は粘没喝、漢語の訛りでは粘罕。
遼征伐で智勇を示し、建議が阿骨打の意と合致していたため信任される。
阿骨打の即位に尽力し、達魯古城の戦いでは右軍を率いて遼軍の大破に貢献する。
その後、天祚帝を破って西京、燕京を攻略した。
遼が滅亡すると北宋討伐を推進し、二度の汴京包囲を経て徽宗・欽宗を捕え、北宋を滅亡させた。
旧北宋領の統治では西京を掌握して燕京の宗望と並び立ち、宗望の死後は燕京も掌握する。
煕宗が即位すると太保、尚書令となり宗幹・宗磐と国政に参与した。
致仕を願うが許されず病没した。
完顔宗幹
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
76 | 65 | 87 | 89 | 80 | 明鏡 | B | B | A | A | A | C | ? | 1141 |
【カンガンソウカン】
金の武将、政治家。太祖阿骨打の庶長子。女真名は斡本。海陵王亮の父。
太祖の征遼戦に従い、達魯古城の戦いでは擬兵を用い、
黃龍府攻略では春州へ陽動を仕掛けて黃龍府の守備を放棄させるなど活躍する。
投降者を用いて諸部を降し、兵の疲弊と軍糧を見て太祖に深入りしないよう助言もしている。
太宗の下で輔政となり、儀礼や官位を定め、学校や選挙を設けるなど、金初期の治政に尽力する。
煕宗の代に太傅となり、宗翰・宗磐とともに三省の政事を司る。
宗磐が跳梁するとこれを排除して太師に進み、煕宗が燕京へ上幸する際に病没した。
金の武将、政治家。太祖阿骨打の庶長子。女真名は斡本。海陵王亮の父。
太祖の征遼戦に従い、達魯古城の戦いでは擬兵を用い、
黃龍府攻略では春州へ陽動を仕掛けて黃龍府の守備を放棄させるなど活躍する。
投降者を用いて諸部を降し、兵の疲弊と軍糧を見て太祖に深入りしないよう助言もしている。
太宗の下で輔政となり、儀礼や官位を定め、学校や選挙を設けるなど、金初期の治政に尽力する。
煕宗の代に太傅となり、宗翰・宗磐とともに三省の政事を司る。
宗磐が跳梁するとこれを排除して太師に進み、煕宗が燕京へ上幸する際に病没した。
完顔宗磐
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
67 | 62 | 70 | 78 | 31 | 言毒 | B | A | A | A | B | C | ? | 1139 |
【カンガンソウバン】
金の武将、政治家。太宗呉乞買の長子。女真名は蒲魯虎。
完顔杲の麾下で中京攻略に参加するなど、諸将を補佐して功績を上げる。
太宗の死後、宗幹により太祖の直孫の完顔亶(煕宗)が擁立されたため、帝位には就けなかった。
煕宗の治世で尚書令と太師を歴任し、宗翰・宗幹とともに国政を担う。
宗翰が没すると権勢を誇って驕り、宗雋・昌らと結託して朝政を恣にする。
南宋侵攻を止め、南宋に河南と陝西を割譲して代わりに朝貢を得ようと画策した。
この件は諸臣の反感を買い、宗幹が謀反人として訴えたため、煕宗により誅殺された。
金の武将、政治家。太宗呉乞買の長子。女真名は蒲魯虎。
完顔杲の麾下で中京攻略に参加するなど、諸将を補佐して功績を上げる。
太宗の死後、宗幹により太祖の直孫の完顔亶(煕宗)が擁立されたため、帝位には就けなかった。
煕宗の治世で尚書令と太師を歴任し、宗翰・宗幹とともに国政を担う。
宗翰が没すると権勢を誇って驕り、宗雋・昌らと結託して朝政を恣にする。
南宋侵攻を止め、南宋に河南と陝西を割譲して代わりに朝貢を得ようと画策した。
この件は諸臣の反感を買い、宗幹が謀反人として訴えたため、煕宗により誅殺された。
完顔昌
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
67 | 43 | 84 | 69 | 13 | 詭計 | B | B | A | A | B | B | ? | 1139 |
【カンガンショウ】
金の武将、政治家。女真名は撻懶。
征遼戦では奚部の経略などで軍功を上げる。
宗翰・宋望の北宋討伐に従軍し、二度目の侵攻では河北の諸州を降していく。
傀儡政権の楚の張邦昌が南宋の高宗に誅殺されると、
劉豫を推挙して傀儡政権の斉を立てて河南を統治させる。
斉の出兵要請に応えて宗弼らと淮南に侵攻するが、岳家軍の活躍と太宗の崩御により撤退する。
煕宗の代に宗磐・宗雋らと結託して朝政を牛耳り、秦檜と通じて南宋に河南と陝西を割譲する。
この行為に主戦派の宗弼の怒りを買い逃亡するが、追っ手を差し向けられ祁州で殺された。
金の武将、政治家。女真名は撻懶。
征遼戦では奚部の経略などで軍功を上げる。
宗翰・宋望の北宋討伐に従軍し、二度目の侵攻では河北の諸州を降していく。
傀儡政権の楚の張邦昌が南宋の高宗に誅殺されると、
劉豫を推挙して傀儡政権の斉を立てて河南を統治させる。
斉の出兵要請に応えて宗弼らと淮南に侵攻するが、岳家軍の活躍と太宗の崩御により撤退する。
煕宗の代に宗磐・宗雋らと結託して朝政を牛耳り、秦檜と通じて南宋に河南と陝西を割譲する。
この行為に主戦派の宗弼の怒りを買い逃亡するが、追っ手を差し向けられ祁州で殺された。
補足:当時、完顔昌は「謀略を有するも怯懦」、完顔宗弼は「謀略に乏しいが勇敢」と対比された評価がされている。
韓企先
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
16 | 22 | 75 | 88 | 70 | 指導 | C | C | C | C | C | C | 1082 | 1146 |
【カンキセン】
遼、金の政治家。
遼に仕えて中書令となり、道宗の代に進士及第も果たす。
金の侵攻により中京が陥落すると投降して轉運使に任じられ、宗翰が山西を制圧すると西京留守となる。
金で漢人宰相が任用されるようになると、尚書右丞相として上京に召される。
太宗に旧制度について説き、女真の制度と漢人の制度を折衷した改革を進める。
他人の過失を漏洩せず、権臣の密謀を諌め、必ず王に諮問してから行動をしたため、
宗翰・宗幹らから非常に敬われ、賢相との賞賛を受けた。
後に世宗から漢人宰相で最も賢いと評され、功臣像が飾られた。
遼、金の政治家。
遼に仕えて中書令となり、道宗の代に進士及第も果たす。
金の侵攻により中京が陥落すると投降して轉運使に任じられ、宗翰が山西を制圧すると西京留守となる。
金で漢人宰相が任用されるようになると、尚書右丞相として上京に召される。
太宗に旧制度について説き、女真の制度と漢人の制度を折衷した改革を進める。
他人の過失を漏洩せず、権臣の密謀を諌め、必ず王に諮問してから行動をしたため、
宗翰・宗幹らから非常に敬われ、賢相との賞賛を受けた。
後に世宗から漢人宰相で最も賢いと評され、功臣像が飾られた。
完顔亮
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
68 | 84 | 3 | 57 | 1 | 徴税 | A | B | B | S | C | C | 1122 | 1161 |
【カンガンリョウ】
金の第四代皇帝。本名・迪古乃(テクナイ)。通称・海陵王。
野望を抱いて煕宗を謀って殺害し、皇帝に即位。
即位後は金の中華化を推奨する一方、宗室・元勲一族を粛清し、燕京に遷都して民に重税を課す暴政を敷いた。
さらに、国内にいる遼・北宋の皇族を殺害して女性を後宮に納め、荒淫に耽る。
南宋討伐を企図し、壮年男子を全動員した六十万の大軍による親征を行う。
しかし、采石磯で虞允文に大敗、本国では反対派が世宗を擁立し、逃亡先もなく揚州で部下に殺害された。
死後、廃帝にされ海陵郡王に落とされ、さらに庶人に落とされた。
金の第四代皇帝。本名・迪古乃(テクナイ)。通称・海陵王。
野望を抱いて煕宗を謀って殺害し、皇帝に即位。
即位後は金の中華化を推奨する一方、宗室・元勲一族を粛清し、燕京に遷都して民に重税を課す暴政を敷いた。
さらに、国内にいる遼・北宋の皇族を殺害して女性を後宮に納め、荒淫に耽る。
南宋討伐を企図し、壮年男子を全動員した六十万の大軍による親征を行う。
しかし、采石磯で虞允文に大敗、本国では反対派が世宗を擁立し、逃亡先もなく揚州で部下に殺害された。
死後、廃帝にされ海陵郡王に落とされ、さらに庶人に落とされた。
完顔雍
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
80 | 72 | 88 | 93 | 91 | 指導 | B | B | A | A | B | C | 1123 | 1189 |
【カンガンヨウ】
金の第五代皇帝・世宗。本名・烏禄。
海陵王の南征では東京留守に任じられる。
南征の最中に皇帝として擁立され、海陵王を廃帝とし庶人に落とした。
海陵王死後の南宋の反攻と契丹の反乱を押さえ、南宋と和約を結ぶ(隆興和議)。
海陵王の暴政によって破綻した財政を再建し、官吏の監察を行って人事を刷新し、金を立て直した。
科挙制度を維持し、女真族が及第できるよう学府なども整えた。
このため「小堯舜」と称され、金中興の名君とされる。
しかし、世宗の治世で平和を謳歌した女真族が漢化し、後の国力衰退にも繋がっている。
金の第五代皇帝・世宗。本名・烏禄。
海陵王の南征では東京留守に任じられる。
南征の最中に皇帝として擁立され、海陵王を廃帝とし庶人に落とした。
海陵王死後の南宋の反攻と契丹の反乱を押さえ、南宋と和約を結ぶ(隆興和議)。
海陵王の暴政によって破綻した財政を再建し、官吏の監察を行って人事を刷新し、金を立て直した。
科挙制度を維持し、女真族が及第できるよう学府なども整えた。
このため「小堯舜」と称され、金中興の名君とされる。
しかし、世宗の治世で平和を謳歌した女真族が漢化し、後の国力衰退にも繋がっている。
僕散忠義
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
85 | 79 | 83 | 80 | 83 | 射手 | A | B | S | S | A | C | 1115 | 1166 |
【ボクサンチュウギ】
金の武将、政治家。女真名は烏者。太祖の外甥。
宗輔・宗弼の麾下で南宋征伐に従事し、将帥の器として賞賛される。
博州防御使となって治績を上げ、昇進して兵部尚書となる。
鎧もなく従者一騎のみで賊に襲われた際には、そのまま迎撃して賊数人を射殺して退けた。
海陵王の南征では南路行営副統制として従軍する。
世宗が擁立され海陵王が死ぬと即座に兵をまとめて帰還した。
契丹・奚の反乱を鎮定し、南宋の張浚の反攻も防衛する。
南宋との隆興の和議に尽力し、左丞相と都元帥を兼任した。
大略を有し、礼に厚く、兵を善く慈しむ人柄だった。
金の武将、政治家。女真名は烏者。太祖の外甥。
宗輔・宗弼の麾下で南宋征伐に従事し、将帥の器として賞賛される。
博州防御使となって治績を上げ、昇進して兵部尚書となる。
鎧もなく従者一騎のみで賊に襲われた際には、そのまま迎撃して賊数人を射殺して退けた。
海陵王の南征では南路行営副統制として従軍する。
世宗が擁立され海陵王が死ぬと即座に兵をまとめて帰還した。
契丹・奚の反乱を鎮定し、南宋の張浚の反攻も防衛する。
南宋との隆興の和議に尽力し、左丞相と都元帥を兼任した。
大略を有し、礼に厚く、兵を善く慈しむ人柄だった。
補足:金史では、歴史を通じて外戚の専横が目立つ中、最期まで忠義を全うしたと評価されている。
完顔襄
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
86 | 76 | 81 | 89 | 79 | 築城 | S | B | A | S | A | C | 1140 | 1202 |
【カンガンジョウ】
金の武将・政治家。本名・唵。通称・内族襄。
契丹族の反乱鎮圧で功績をたてる。
潁州と寿州を治め、海陵王の親征失敗に乗じて侵攻してきた南宋軍を清流関で撃退した。
南宋との和約成立後は陝西や河南の軍を統べた。
入朝してからは御史大夫、平章政事を歴任し、右丞相に就任すると民の税を軽くした。
章宗の代には韃靼(タタール)が起兵するとこれを征討、左丞相に任じられた。
その後も契丹や韃靼で燻る反乱を鎮め、北京(寧城)路に濠を築いて北方民族の南進を阻んだ。
さらに西北路と西南路も要塞化し、左丞相在任のまま司空に上った。
金の武将・政治家。本名・唵。通称・内族襄。
契丹族の反乱鎮圧で功績をたてる。
潁州と寿州を治め、海陵王の親征失敗に乗じて侵攻してきた南宋軍を清流関で撃退した。
南宋との和約成立後は陝西や河南の軍を統べた。
入朝してからは御史大夫、平章政事を歴任し、右丞相に就任すると民の税を軽くした。
章宗の代には韃靼(タタール)が起兵するとこれを征討、左丞相に任じられた。
その後も契丹や韃靼で燻る反乱を鎮め、北京(寧城)路に濠を築いて北方民族の南進を阻んだ。
さらに西北路と西南路も要塞化し、左丞相在任のまま司空に上った。
補足:海陵王完顔亮の弟の衛王完顔襄とは別人。区別のために内族襄とも呼ばれた。
完顔承暉(維明)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
63 | 54 | 71 | 80 | 77 | 規律 | C | C | A | B | B | C | ? | 1215 |
【カンガンショウキ(イメイ)】
金の政治家。女真名は福興。
章宗が即位すると近侍となり、地方官吏を歴任した。
その剛直ぶりは御史台に「豪猾が息を出来ない」と評されるほどで、
宦官の妓楽建設の要求や、水利事業での賄賂を撥ねつけている。
南宋征伐では、山東で蜂起した賊の鎮圧に当たった。
会河堡でモンゴル軍に敗れ失脚するが、宣宗が即位すると復権する。
中都(燕京)がモンゴル軍に包囲されると、和議を締結して撤兵させ右丞相となる。
しかし宣宗が燕京を放棄して開封に遷るとモンゴル軍の再侵を受け、
燕京防衛の任に当たるが猛攻の前に自殺した。
金の政治家。女真名は福興。
章宗が即位すると近侍となり、地方官吏を歴任した。
その剛直ぶりは御史台に「豪猾が息を出来ない」と評されるほどで、
宦官の妓楽建設の要求や、水利事業での賄賂を撥ねつけている。
南宋征伐では、山東で蜂起した賊の鎮圧に当たった。
会河堡でモンゴル軍に敗れ失脚するが、宣宗が即位すると復権する。
中都(燕京)がモンゴル軍に包囲されると、和議を締結して撤兵させ右丞相となる。
しかし宣宗が燕京を放棄して開封に遷るとモンゴル軍の再侵を受け、
燕京防衛の任に当たるが猛攻の前に自殺した。
朮虎高琪
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
64 | 78 | 17 | 56 | 14 | C | B | A | A | B | C | ? | 1219 |
【ジュッココウキ】
金の武将、政治家。別名に高乞。
モンゴルの勢力拡大に乗じて南宋が金に攻め込むと、甘粛で南宋軍を度々撃破する。
しかし、防御使、権元帥右都監となり完顔綱の麾下でモンゴルと戦うと敗戦を重ねた。
紇石烈執中(胡沙虎)が衛紹王を弑すると政変を起こして執中を殺害し、
宣宗から敗戦の罪を許され、左副元帥、平章政事となり国政を牛耳る。
モンゴルが潼関を落とすと御史台が出撃するよう進言するが、
これを却けて開封の防備のみに専念し、諸州が無残に蹂躙された。
南宋との講和に反対するなど専横を極め、宣宗に誅殺された。
金の武将、政治家。別名に高乞。
モンゴルの勢力拡大に乗じて南宋が金に攻め込むと、甘粛で南宋軍を度々撃破する。
しかし、防御使、権元帥右都監となり完顔綱の麾下でモンゴルと戦うと敗戦を重ねた。
紇石烈執中(胡沙虎)が衛紹王を弑すると政変を起こして執中を殺害し、
宣宗から敗戦の罪を許され、左副元帥、平章政事となり国政を牛耳る。
モンゴルが潼関を落とすと御史台が出撃するよう進言するが、
これを却けて開封の防備のみに専念し、諸州が無残に蹂躙された。
南宋との講和に反対するなど専横を極め、宣宗に誅殺された。
補足:宣宗の晩年まで「天下の悪人」と忌まれ、金滅亡の要因となった。
完顔彝(良佐)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
90 | 95 | 81 | 44 | 77 | 騎将 | S | A | B | S | S | C | 1192 | 1232 |
【カンガンイ(リョウサ)】
金末の将。豊州の人。完顔陳和尚。
金に侵攻したモンゴル軍の捕虜となり、厚遇を受けるが脱走し帰国。
宣宗に将軍に抜擢され、従兄に従い軍職に就く。
モンゴル軍の侵攻に際し、志願して先鋒となり、
多民族混成部隊の「忠孝軍」を編成して大勝を収めた。
この功で定遠大将軍に任ぜられ、滅亡寸前の金の英雄となる。
この後も河南・陝西を転戦し連戦連勝したが、オゴデイの親征の前に金は追い詰められる。
三峰山の戦いで金軍主力と共にモンゴルの別働隊に大敗し、
逃亡を断念すると自ら名乗りを挙げ、堂々たる刑死を遂げた。
金末の将。豊州の人。完顔陳和尚。
金に侵攻したモンゴル軍の捕虜となり、厚遇を受けるが脱走し帰国。
宣宗に将軍に抜擢され、従兄に従い軍職に就く。
モンゴル軍の侵攻に際し、志願して先鋒となり、
多民族混成部隊の「忠孝軍」を編成して大勝を収めた。
この功で定遠大将軍に任ぜられ、滅亡寸前の金の英雄となる。
この後も河南・陝西を転戦し連戦連勝したが、オゴデイの親征の前に金は追い詰められる。
三峰山の戦いで金軍主力と共にモンゴルの別働隊に大敗し、
逃亡を断念すると自ら名乗りを挙げ、堂々たる刑死を遂げた。
郭蝦蟆
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
84 | 88 | 43 | 20 | 81 | 不屈 | B | B | S | A | A | C | 1192 | 1236 |
【カクカバ】
金の武将。別名に郭斌、顔盏蝦蟆。
兄の郭禄大とともに会州の募兵に応じた。
西夏が会州に侵攻すると、善戦するが敗れて捕縛される。
西夏への帰順を拒み逃亡を企てるも、禄大は殺害され一人落ち延びた。
帰還後は陝西防衛の任に当たり、西夏軍から百発百中の弓の腕前を畏れられた。
五百騎を率いて会州を回復し、田端の叛乱も鎮圧する。
モンゴル帝国が開封を陥落させると帰順勧告が出されるが、
拒否して陝西の孤城で数年に渡って抗戦を続ける。
モンゴルの大軍に包囲されると、城内の全ての矢を放って全発命中させ、自焚した。
金の武将。別名に郭斌、顔盏蝦蟆。
兄の郭禄大とともに会州の募兵に応じた。
西夏が会州に侵攻すると、善戦するが敗れて捕縛される。
西夏への帰順を拒み逃亡を企てるも、禄大は殺害され一人落ち延びた。
帰還後は陝西防衛の任に当たり、西夏軍から百発百中の弓の腕前を畏れられた。
五百騎を率いて会州を回復し、田端の叛乱も鎮圧する。
モンゴル帝国が開封を陥落させると帰順勧告が出されるが、
拒否して陝西の孤城で数年に渡って抗戦を続ける。
モンゴルの大軍に包囲されると、城内の全ての矢を放って全発命中させ、自焚した。
補足:顔盏は、郭禄大が会州刺史になった際に賜った姓。
没後に尽忠報国を讃えて祠が建てられ、後には神格化され会州の古城も「郭蝦蟆城」と呼ばれている。
没後に尽忠報国を讃えて祠が建てられ、後には神格化され会州の古城も「郭蝦蟆城」と呼ばれている。
耶律留哥
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
83 | 80 | 68 | 43 | 60 | 昂揚 | B | A | A | S | C | C | 1165 | 1220 |
【ヤリツリュウカ】
東遼の建国者。契丹族。
初めは金の支配下にあったが、金の対契丹政策に不満を持って反乱を起こし、
十万の契丹兵を糾合してモンゴルの庇護下に入る。
金の完顔胡沙と蒲鮮萬奴が率いる六十万を号する討伐軍が侵攻すると、
モンゴルの支援を受けて迎撃し、胡沙軍の側面を衝いて大破した。
その後、王を自称して東遼を建国する。
蒲鮮萬奴の討伐軍を再度破り、勝利に乗じて遼東を支配下に置き、
チンギス・ハーンに使者を送って遼王に封じられた。
耶律廝不らが反乱を起こして後遼を立てると、モンゴル・高麗の援軍を得て後遼を滅ぼした。
東遼の建国者。契丹族。
初めは金の支配下にあったが、金の対契丹政策に不満を持って反乱を起こし、
十万の契丹兵を糾合してモンゴルの庇護下に入る。
金の完顔胡沙と蒲鮮萬奴が率いる六十万を号する討伐軍が侵攻すると、
モンゴルの支援を受けて迎撃し、胡沙軍の側面を衝いて大破した。
その後、王を自称して東遼を建国する。
蒲鮮萬奴の討伐軍を再度破り、勝利に乗じて遼東を支配下に置き、
チンギス・ハーンに使者を送って遼王に封じられた。
耶律廝不らが反乱を起こして後遼を立てると、モンゴル・高麗の援軍を得て後遼を滅ぼした。
丘処機(通密)
統率 | 武力 | 知力 | 政治 | 魅力 | 特技 | 槍兵 | 戟兵 | 弩兵 | 騎兵 | 兵器 | 水軍 | 生年 | 没年 |
6 | 5 | 98 | 95 | 99 | 米道 | C | C | C | C | C | C | 1148 | 1227 |
【キュウショキ(ツウミツ)】
金末元初の全真教の道士。山東省棲霞の人。長春真人。
全真教の開祖王重陽に学び、その高弟「七真人」の筆頭と目され、
王重陽の実質的な後継者として教派を隆盛に導いた。
チンギス・ハーンの招請を受けるや、弟子と共に西域まで赴き拝謁し、
不老長生の秘訣を問うたチンギスに全真教の教えを説いたことで名高い。
この功績が評価され、帝国内の全真教保護の特許を受け、帰国後、燕京で病没。
その時の記録の『長春真人西遊記』『玄風慶会録』は、
当時のモンゴル高原及び中央アジアに関する、非常に貴重な史料である。
金末元初の全真教の道士。山東省棲霞の人。長春真人。
全真教の開祖王重陽に学び、その高弟「七真人」の筆頭と目され、
王重陽の実質的な後継者として教派を隆盛に導いた。
チンギス・ハーンの招請を受けるや、弟子と共に西域まで赴き拝謁し、
不老長生の秘訣を問うたチンギスに全真教の教えを説いたことで名高い。
この功績が評価され、帝国内の全真教保護の特許を受け、帰国後、燕京で病没。
その時の記録の『長春真人西遊記』『玄風慶会録』は、
当時のモンゴル高原及び中央アジアに関する、非常に貴重な史料である。