崇徳天皇
崇徳天皇(すとくてんのう、1119年~1164年)は、第75代天皇であり、
日本三大怨霊の一人としても知られる人物です。
その生涯は波乱に満ち、特に平安時代末期の「保元の乱」での敗北とその後の流罪が、彼を怨霊として語り継がれるきっかけとなりました。
概要
- 即位と譲位
- 崇徳天皇は鳥羽天皇の第一皇子として生まれ、1123年にわずか5歳で即位しました
- しかし、父・鳥羽上皇との関係は険悪で、1142年に鳥羽上皇の圧力で譲位させられました。以降、「崇徳院」と呼ばれるようになります
- 保元の乱
- 1156年、鳥羽法皇の死後、崇徳院は後白河天皇(異母弟)との間で皇位をめぐる争いを起こしました
- この内乱が「保元の乱」です。崇徳院は敗北し、讃岐(現在の香川県)に流されました
- 讃岐での生活
- 流罪先では仏教に傾倒し、五部大乗経を写経して朝廷に献上しようとしましたが、「呪詛が込められている」と疑われて拒否されました。この屈辱から崇徳院は激怒し、「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」と誓ったと伝えられます。彼は髪や爪を伸ばし続け、夜叉のような姿になりながら46歳で没しました。
怨霊伝説
崇徳天皇はその死後、怨霊として恐れられる存在となりました。
- 災厄と祟り
- 崇徳天皇の死後、京都では安元の大火や延暦寺の強訴など多くの災厄が続きました
- また、彼と敵対した後白河法皇やその近親者にも次々と不幸が訪れたため「崇徳院の祟り」と恐れられました
- 歴史的災厄との関連
- 崇徳天皇没後の節目ごとに、日本では大きな動乱や災害が起こったとされます(例:応仁の乱や明暦の大火)
- これらも彼の祟りと結びつけられています
鎮魂と信仰
- 白峯神宮
- 明治時代になり、明治天皇が崇徳天皇を鎮魂するために京都に「白峯神宮」を創建しました
- このことで朝廷との和解が果たされたとされています
- 信仰対象として
- 崇徳天皇は現在では怨霊としてだけでなく、縁切りや悪縁断ち切りの神としても信仰されています
- 香川県には彼を祀る白峯陵や白峯寺があり、多くの人々が参拝に訪れます
文化的影響
崇徳天皇は『百人一首』にも名を残しており「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ」という和歌が知られています。この和歌には彼の悲運な生涯や無念さが反映されているとも解釈されています。
崇徳天皇は、その波乱万丈な人生と死後に広まった怨霊伝説を通じて、日本史や文化に深い影響を与えた存在です。彼への信仰や伝承は現代でも続いています。
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最終更新:2024年12月08日 18:55