巻二百一十六下 列伝第一百四十一下

唐書巻二百一十六下

列伝第一百四十一下

吐蕃下


  永泰(765-766)・大暦(766-779)年間に、吐蕃はふたたび使者を来させた。そこで戸部尚書の薛景仙が答礼に行った。宰相に詔を下して吐蕃の使者と会盟させたが、まもなく霊州(甘粛省霊台県)に入寇し、宜禄(陝西省長武県東南)を掠奪した。郭子儀は精兵三万を率いて涇陽を守ったが、敵は侵入して奉天にした。霊州の兵は蛮族二万を破り、首五百を挙げた。景仙は倫泣陵(ロンチリン)とともに帰り、鳳林関(甘粛省臨夏県西)国境とすることを請うた。そして路悉ら十五人がまた使者としてやってきた。大暦三年(768)、蛮族は衆十万を率いてまた霊州を攻め、邠州を略奪した。これよりさき、尚悉結(シャンギェルシグ)は宝応よりのちにしばしば辺境に入寇し功績が高かったので、辞職を願い、そして尚賛磨(シャンツェンワ)がこれに代って東面節度使となり、河西・隴右地帯を扱うことになっていた。邠寧節度使の馬璘、朔方軍の白元光は、ふたたびその衆を破り、馬・羊数千を鹵獲した。剣南の方もまた蛮族一万人を破った。尚悉摩なるものがまた来朝した。天子は、蛮族がたびたび塞に侵入するので、詔を下し、守備の施設をととのえさせ、当(四川省松潘県塁渓営西北)・悉(四川省松潘県西南)・柘(四川省恭州東一百里)・静(四川省松潘県西南)・恭(四川省茂県西北三百五十里)の五州を遷して、みな険要の地によって守らせた。

  大暦八年(773)、蛮族の六万騎が霊州を侵し、人民の作物に損害を与え、進んで涇・邠に入寇した。渾瑊はこれと戦って勝たず、副将は死し、数千戸が略取された。城は、兵をととのえ、夜その営を涇原に襲い、馬璘は軍をもってこれを原(甘粛省平涼県東四十里)に攻撃した。そして豹皮を着た将を射殺したが敵は軍中悲しみ泣いて逃げ去った。馬璘は捕虜にされたわが方の兵士および男女を収容して帰還した。郭子儀はまたその衆十万を破った。

  大暦九年(774)、帝は諫議大夫の呉損を遣わして和親を脩めさせ、蛮族もまた使者を送って入朝させた。いっぽう郭子儀を邠州に、李抱玉を高壁嶺(山西省霊石県東南二十五里)に、馬璘を原州に、李忠臣を涇州に、李忠誠を鳳翔に、臧希譲を渭北に屯させ、蛮族の侵入に備えた。明くる年(775)、西川節度使の崔寧は蛮族を西山に破った。蛮族は臨涇(甘粛省鎮原県)・隴州(陝西省隴県)を攻撃し、普潤(陝西省麟遊県西百二十里)に屯し、人や家畜を焚いたり掠奪したりした。そして李抱玉と義寧(甘粛省華亭県)に戦って敗れ、涇州を通過したが、馬璘はこれを追跡して百里(甘粛省霊台県東)に破った。また明くる年(776)、崔寧は、蛮族の故の洪州(四川省洪雅県)などの節度および氐・蛮・党項などの兵を破り、首一万を斬り、頭目千人を捕え、牛・羊・食糧・鎧などを非常に多量に得て、これを朝廷に献上した。吐蕃は目的を達することができなかったので、黎州(四川省清渓県)・雅州(四川省雅安県)に侵入し、掠奪した。そこで剣南の軍は南詔と合同し、ともに戦ってこれを破り、大籠官の論器然を捕虜にした。また坊州を犯し、党項の牧馬を掠奪した。崔寧は望漢城(四川省理番県東南)を攻撃してこれを破り、山南西道節度使の張献恭は岷州(甘粛省岷県)で戦い、吐蕃は逃走した。崔寧は西山の三路および邛南(邛は四川省越県)の兵を破り、首八千を斬った。大暦十三年(778)、蛮族の大頭目の馬重英は四万騎を率いて霊州に入寇し、塡漢・御史・尚書の三渠の水口を塞ぎ、屯田に損害を与えた。そして朔方留後の常謙光に追い払われたが、重英は塩州(寧夏省霊武県東南)・慶州(甘粛省慶陽県)を荒らして去った。それから南して南詔の衆二十万を合わせ、茂州を攻め、扶州(甘粛省文県西北百六十里)・文州(同じく文県)を掠奪し、ついに黎・雅の地方に侵入した。そのとき天子はすでに幽州の軍を出し、かけつけて防戦させたので、蛮族は大いに敗れ逃走した。

  さきに蛮族の使者はたびたび来ていたがこれらを留めて帰さず、捕虜としたものはすべて江南地方に統率者をつけて送っていた。徳宗が即位して、まず内政では節度使たちを鎮め、年ごとに蛮族と対抗し、失ったものと得たものと相償うのを考えて、徳をもってかれらを懐柔しようと思った。そこで太常少卿の韋倫に節を持して使いとならせて、その捕虜五百人に綿衣を厚く給して帰らせ、辺境の官吏には厳しく勅して見張りの設備を守らせ、蛮族の土地を侵すことのないようにさせた。吐蕃は、捕虜の返還をはじめ聞いて信ぜず、使者が領城に入ってこれが事実なのを理解し、みな感激し畏敬した。

  このとき乞立賛(チソンデツェン)が賛普となっていたが、その姓は戸盧提(オデ)氏である。かれは言った。「わたしには三つの恨みがある。天子(代宗)の喪を知らず、弔うことができなかったことが第一、山陵に供養のものを供えることができなかったことが第二、舅上の即位を知らず、兵を出して霊州を攻め、扶文に入り、灌口(四川省灌県西北二十六里にある山)を侵したことが第三である」と。そこで使者を出し、倫に従って入朝させた。帝はまた倫を遣わし、蜀の捕虜を帰らせた。蛮族は倫がふたたび来たのでひじょうに喜び、宿舎を与え、音楽を奏して慰めた。九日間留まったが、その帰りには論欽明思ら五十人を従わせ、方物を献上した。

  明くる年(779)、殿中少監の崔漢衡が使いに行った。賛普はとつぜん言い出した。「わが方と唐とは舅甥の間からの国であるのに、詔書には臣礼をもってわが方をしめている」と。また、雲州の西山までを吐の境域とすることを願い、崔漢衡が天子に上奏することを求めた。そこで崔漢衡は入蛮使判官の常魯を遣わし、論悉諾邏(ロンタグラ)とともに入朝させ、賛普の言葉を述べさせた。論悉諾邏は景竜のときの詔書を引いて言った。「詔書は唐の使者が来れば、甥がまず盟し、吐蕃の使者が行けば、舅上がまた親ら盟するとあります。したがって賛普はその礼はもともと対等であると言っております」と。帝はこれを許し、「献」を「進」とし、「賜」を「寄」とし、「領取」を「領之」と訂正した。以前の宰相の楊炎が古い事実に通じなかったことをもって弁解し、同時に土地は賀蘭山までを約束した。その大相の尚悉結(シャンギェルシグ)は、人を殺すことを好み、剣南の敗戦の報復がまだできていないといって和識をすすめなかった。次相の尚結賛(シャンギェルツェン)は、智謀があり、辺境の人々を休養させることを固く願い、賛普はついに結賛を大相として和平を講ずることになった。

  崔漢衡はその使の区頰賛(クゥギャツェン)とともに帰って国境で会盟することを約束した。崔漢衡を鴻臚卿に任じ、都官員外郎の樊沢を計会使とし、結賛と約束させ、かつ隴右節度使の張鎰を盟に加えることを告げた。樊沢は結賛と清水(甘粛省清水県)で会盟し、牛馬をもって犠牲とすることを約束した。張縊はその儀礼を卑いものとしようとし、結賛を欺いて言った。「唐は牛がなければ耕作することができず、吐蕃は馬がなければ戦うことはできない。牛馬ともにもったいないから犬・豚・羊を用いることを願いたい」と。結賛は承諾した。盟するときには地をはらい清めて壇をつくり、二国がおのおの二千の兵を壇垣外の窪地に列べ、従者は壇下に立つことを約束した。張鎰は幕僚の斉映斉抗、鴻臚卿の崔漢衡、計会使の于衆・沢・魯とみな朝服を着た。結賛は論悉頰蔵(ロンギェサン)・論臧熱(ロンツェンシェル)・論利陀(ロンチデー)・論力徐(ロンチスゥ)とともに、相対して壇の上に登った。犠牲を壇の北側で殺し、その血を混ぜて会盟者にさし出した。そしてつぎのことを約束した。「唐の土地は、涇州の西は弾箏峡まで、隴州の西は清水まで、鳳州の西は同谷(成州の同谷県)まで、剣南では西山・大度水までである。吐蕃は蘭・渭・原・会に鎮守し、西は臨洮、東は成州まで、剣南の西では磨些(モソ)の諸蛮まで、大度水の西南は、大河(黄河の支流雅江)までである。北は新泉軍(会州の西北二百里)から大磧(タクラマカン砂漠)の南にいたり、賀蘭山の橐它嶺まで、その間では田を耕作しない。二国が棄てた守備の地は、兵を増すことなく、城堡を作ることもせず、辺境の田地を耕作することもしない」と。盟を終わって吐蕃は張縊に、壇の西南隅の仏を祀る帳幕に詣って誓いをすることを請うた。それから壇に上って大いに酒盃のやりとりを行ない、終わって帰還した。

  帝は宰相・尚書に命じ、蛮族の使者とかさねて長安に会盟させた。清水の盟約ではその場所を決定することができなかったので、ふたたび崔漢衡を遣わし、賛普のところで決定し、盟の約束に成功したそこで宰相の李忠臣盧𣏌関播崔寧、工部尚書の喬琳、御史大夫の于頎・太府卿の張献恭・司農卿の段秀実・少府監の李昌夔・京兆尹の王翃・金吾衛大将軍の渾瑊と区頰賛(クゥギャツェン)らを、首都の西郊で会盟させた。儀式次第は清水と同様であったが、二月前に太廟に告げ、祀りを行なった。三日目に関播は跪いて盟約の文書を読み、盟を終わって盛大な宴を開いて接待した。左僕射の李揆に詔を下し、入蕃会盟使と、区頰賛らを帰した。

  朱泚の乱に、吐蕃は応援して賊を討伐することを願い、朝廷では左散騎常侍の于頎に詔を下し、節を持して慰撫させた。太常少卿の沈房は安西北廷宣慰使となって答礼に行った。渾瑊は論莽羅(ロンマンラ)の兵を用いて朱泚の将の韓旻を武亭川に破った。さきに蛮族は、長安を回復したならば、涇・霊など四州を与えることを約束した。ちょうど伝染病が流行し、蛮族は引き揚げていったが、朱泚の乱が平らぐと、先約によって土地を求めてきた。天子はその労苦はたいしたものでないとし、ただ詔書を賜わり、結賛と莽羅らに絹一万匹を贈った。これで蛮族は怨みを抱いたのである。

  貞元二年(786)、倉部郎中の趙建に使いに行かせた。蛮族はすでに涇・隴・邠・寧を犯し、人畜を掠奪し、作物に損害を与えた。内地の州はみな城門を閉じ、敵の遊撃の兵は好畤(陝西省乾県東南四十里)まで来た。左金吾将軍の張献甫、神策の将の李昇曇らは咸陽に屯し、河中の渾瑊・華州の駱元光がこれを援助した。左監門将軍の康成を使いにやったが、尚結賛は上砦原に屯し、また論乞陀(ロンチデー)を使者としてよこし、盟を請わせた。鳳翔の李晟は部将の王佖を遣わし、鋭兵三千を率いて、夜、汧陽に入らせた。翌日その中軍に迫ったので蛮族は驚いて潰走し、結賛はやっとのことで脱れた。いっぽう蛮族の軍二万が鳳翔に侵入したので、李晟は撃ってこれを退け、摧沙堡を襲ってその蓄積した物資・馬糧を焼き払い、守備の兵を斬った。吐蕃は塩州・夏州を攻め、刺史の杜彦光、拓抜乾暉は守ることができず、その衆をぜんぶ率いて南方に逃げ、蛮族はついにその土地を取った。天子は、辺境の人々が敵手に殺傷せられたので、詔を下して正殿に出るのをやめ、みずからを責めた。また駱元光に詔を下して、塩州・夏州を経略させた。

  貞元三年(787)、左庶子の崔澣・李銛に命じて、あいついで吐蕃に使いさせた。結賛は、塩州・夏州を獲得してみな兵をもってこれを守らせ、自分は鳴沙(寧夏省中衛県東南百五十里)に屯していたが、食糧を送ることにはたびたび苦しんでいた。そこで駱元光韓游瓌は、国境の塞の側に屯し、馬燧は石州(山西省離石県)に屯し、黄河を挟んで互いに連絡させた。結賛は大いに恐れて、しばしば盟を請うたが、天子は許さなかった。そこで貴将の論頰熱(ロンギェルシェル)に、馬燧に対して厚く賄賂を送らせ、和平を乞うた。馬燧は心動かされて、みずから天子に謁見した。諸将は馬燧の入朝を見て、みな城壁を守って出戦せず、結賛はたちまちのうちに逃げ帰ることができた。馬は多く死に、兵士は歩くことができないで飢えた顔色をしていた。崔澣ははじめ鳴沙に行き、詔を伝えて、結賛が約束を破って塩州・夏州を陥れたのを責めた。結賛は答えて言った。「もともと武亭川の功績(朱泚を破った功)はまだ酬いられていないのでやってきた。また検べてみると、境界の石碑は仆れて風化しており、国境が明らかでなくなっている。ゆえに国境の上に行ったのである。涇州は城によって自衛し、鳳翔の李令(李晟)はわが使者を迎え入れなかった。康成らが来たことは来たが、みな詳しく語ることができなかった。わが方は大臣の来るのを望むと言ったが、ついに来るものがなかったので、わが方は引き返した。塩州・夏州を守備している将は、わが衆を恐れ、城をわが方に明け渡したのであり、わが方がむりに攻撃したのではない。もし天子がまた盟を許すならば、それは蛮族の願うところである。そのときは命ずるところに従い、塩州・夏州を唐に還すであろう」と。また言った。「清水の会盟には大臣が少なく、ゆえに約束は破られやすかった。こんどは宰相・元帥二十一人みな遣わして会盟することを願いたい」と。同時に言った。「雪塩節度使の杜希全、涇原節度使の李観は外蕃に信用されているので、会盟を司ることを願いたい」と。帝はまた崔澣をやって、特に答えさせて言った。「杜希全は霊州を守備して責任範囲が定まっており、境域を越えることはできない。李観はすでに他の官職にうつっているから、渾瑊を盟会使とし、五月に清水で会盟することを約束しよう。そしてまず二州を還してもらい、それで蛮族の信のほどを験そう」と。結賛は言った。「清水はめでたい土地ではない。原州の土梨樹で会盟することを願いたい。そうすれば二州を還そう」と。天子はこれに従った。

  渾瑊は来朝して命を受け、崔漢衡は兵部尚書に任ぜられて渾瑊に副として付いた。渾瑊は兵二万を率いて期日を待ち、天子は駱元光に詔を下してこれを助けさせた。宰相は会盟の場所を論議したが、左神策の将の馬有隣が建言した。「土梨樹は林が茂っており、岩が邪魔して、伏兵に欺されやすいところです。平涼は平らでまっすぐであり、この方がよいと思います。かつ涇州に近く、大事が起こっても支えることができましょう」と。そこで会盟を平涼で行なうことに定めた。渾瑊は結賛と、主客ひとしく兵三千を壇外におき、非公式の従者四百人が壇にぬかずき、游兵を互いのうちに巡邏させることを約束した。盟しようとするとき、結賛は精鋭の騎三万を西方に伏せさせ、巡邏の騎兵を放って渾瑊の軍に出入りさせた。渾瑊の将の梁奉貞もまた馬を走らせて蛮族の軍営に入った。吐蕃はひそかにこれを捕えたが、渾瑊はそのことを知らないでいた。客は渾瑊らに冠・剣をつけることを願ったので、みなは張幕に入って更衣し、ゆっくりと休息していた。たちまち蛮族は三たび太鼓を打ち、衆は喊声をあげて起ち上がった。渾瑊はどこへ出てよいかわからず、張幕のうしろに馬を見つけ、銜(はみ)をつけずに十里走り、ようやくそれをつけることができた。蛮族の追撃の矢は雨のごとく降りそそいだが、傷は受けず、駱元光の営に到着してようやく逃れることができた。部将の辛栄の兵数百は北の岡に拠り、蛮族と戦い、矢尽きて降服した。判官の韓弇と監軍の宋鳳朝は戦死した。崔漢衡と判官の鄭叔矩・路泌、掌書記の袁同直、列将の扶余準・馬寧・孟日華・李至言・楽演明・范澄・馬弇、中人の劉延邕・倶文珍・李朝清ら六十人はみな捕えられ、兵士の死するもの五百、捕虜となったもの千余人であった。崔漢衡は蛮族に言った。「私は崔尚書である。結賛は私と親しい。もし私を殺すならば、結賛もまたおまえを殺すだろう」と。これによって、殺されないですんだ。捕えられた人は、一本の木を背負い、縄で三ヵ所でこれに結わえられ、その髪を互いにつないで駆りたてられた。夜は地に枕を立て、それにつないで臥させ、上に毛織物をかけ、見張りのものはその上に寝た。はじめ結賛は杜希全李観を掠取し、たちまちのうちに鋭兵を率いてただちに京師に赴こうとしたのであるが、うまくゆかなかった。また渾瑊らを捕え、虚を突いて入寇しようとしたが、その謀略はかれの本性そのものである。すでに引き揚げて故の原州にいたり、帳中に坐って崔漢衡らに会い、いいかげんなことを言った。「渾瑊が武功で戦えたのは、我が方の力によってである。地を割いて我が方にいることを許し、みずからその言に背いたことをした。私はすでに金の枷を作り、かならず渾瑊を捕えて賛普に見せようと思っていた。しかし、いまかれを捕えられなかったいたずらに公らをつれてきても得することはない。誰かを帰してやって報告させよう」と。さきに崔漢衡が乱に遇ったとき、従史の呂温は身をもって兵を防ぎ、そのため呂温は傷つき崔漢衡は免れた。蛮族はその義行に感嘆し、厚くこれに給与した。結賛は石門に屯し、倶文珍・馬寧・馬弇を唐に帰して、崔漢衡・鄭叔矩は河州に、辛栄は廓州に、扶余準は鄯州に囚禁した。帝はなお中人をやって詔書を持ち行かせ結賛に賜わったが、拒んで受け取らなかった。蛮族は塩州・夏州を守備し、春になって伝染病が大いに起こり、みな帰国することを考えるようになった。結賛は騎兵三千をもってこれを迎えさせ、二州の住宅を焼き払い、城の垣を壊して去った。杜希全は兵を分派してこれを保持することにした。帝は崔漢衡らが恥辱を受けるようになったのを憐れみ、詔を下して、その子に七品官を、鄭叔矩・路泌・馬弇・孟日華・辛栄・志信(李至言)・范澄・良賁・楽演明の一子に八品官を、袁同直より以下のものの一子には九品官を賜わった。唐朝では決勝軍使の唐良臣に潘原(甘粛省平涼県東四十里)に屯させ、神策の将の蘇太平に隴州に屯させた。結賛は崔漢衡・孟日華・劉延邕を呼び出して石門にいたり、五騎をつけて国境上に送った。そして使者を遣わし、表文を奉じて来させた。李観は「詔が下って、吐蕃の使者は入れないことになっている」と言って、崔漢衡らを受け取り、その使者を放還した。

  結賛は、羌渾の衆を率いて潘口の傍の青石嶺(甘粛省涇川県西北七十里)に屯し、その軍を三分して、隴州・汧腸の間に赴かせた。数十里にわたって営を連ね、中軍は鳳翔を去ること一日旅程(約三十里)のところにいた。そして中国の服を着て邢君牙の軍であると欺き、呉山(陝西省隴県東南)・宝鶏(陝西省宝鶏県)に侵入して部落を焼き、牧養している家畜や青壮年を略奪し、老幼を殺し、手を切り、目を剔って去った。李晟は試みに大木を倒して安化峡(甘粛省清水県東百里)の隘処を塞いだが、蛮族はここを通過し、すべてこれを焼き払った。詔を下して神策の将の石季章に武功で防壁を作らせ、唐良臣に軍を百里城(甘粛省霊台県)に移させた。蛮族はまた汧陽・華亭(甘粛省華亭県)の男女一万人を掠取し、羌渾に奴隷として与えた。国境を出ようとするとき、東に向かって故国に別れを告げさせたが、衆は悲しみ泣いて、渓谷に身を投げて死ぬものが千をもって数えるほど出た。吐蕃はまた豊義(甘粛省鎮原県西)に侵入し、華亭を包囲し、給水の道を絶った。守将の王仙鶴は救いを隴州に求め、隴州刺史の蘇清沔は、蘇太平の兵を合わせてこれに赴いた。蛮族は迎え討ち、蘇太平は勝つことができずに引き返した。蛮族は毎日千騎を出して四方を掠奪したが、隴州の兵はあえて出て戦うことはなかった。蛮族は華亭城に薪を積んで、まさに焼き払おうとしたので、王仙鶴はやむをえず衆を率いて降服した。蘇清沔は兵を大きな象龕の中に潜ませ、夜中に城中と約束して火をあげて空を照らさせた。蛮族の衆は驚愕したので、そのとき営を襲い、これを去らせた。さらに吐蕃は連雲堡(甘粛省涇川県西)を攻めたが、飛ばした石が井戸に入り、水が溢れて井戸は空となった。そして深い谷に橋をかけて登ったので、守将の張明遠はついに蛮族に降服した。蛮族は山間に逃げた人および牛・羊およそ万をもって数えるほどを手分けして捕え、このために涇・隴・邠の地の民はまったく尽きてた。諸将は、一人の捕虜も得ることなく、ただ賊が国境の塞を出てゆくと祝詞をのべるだけであった。連雲堡は涇州の要地であり、三方が切り立って険しく、北方は高くなっていた。蛮族の動向は、狼火をあげることによって連絡しやすかった。すでにこれを失い、城下はすなわち蛮族の境域となり、収穫のたびごとにかならず兵を田野に布いたから、その時期を失することが多かった。この年(787)、三州は年越しの麦を持つことができなかった。蛮族の数千騎は長武城(陝西省長武県)を犯し、城使の韓全義はこれを防いだが、韓游瓌の兵は出て戦わず、それで蛮族は安心して邠州・涇州の間を往来した。諸屯営の西門はみな閉じ、蛮族は故の原州を支配してこれを保持した。帝は捕虜にした吐蕃の人間二百人たらずを諸市であまねく示して京師の人心を安定させた。

  貞元四年(788)五月、蛮族の三万騎が涇・邠・寧(甘粛省寧県)・慶(甘粛省慶陽県)・鄜(陝西省鄜県)五州の辺邑を略奪し、役人の家や民人の家を焼き、数万人を捕えた。韓全義は陳許の兵を率いて長武で戦ったが、成功しなかった。はじめ吐蕃が国境の塞を掠奪するときは、春・夏の病気の流行をおそれてつねに盛秋にやってきたが、そのころには、唐人の捕虜を得ると、多く厚く財物を与え、その家族を人質とした。そしてそれらを使ったがゆえに盛夏でも辺境に入寇することができるようになったのである。尚悉薫星(シャントンセン)・論莽羅(ロンマンラ)らはまた寧州に侵入し、張献甫は防戦して首百級を斬った。かれらは転じて鄜坊を略奪して去った。 

  貞元五年(789)、韋皋は剣南の兵を率いて台登に戦い、蛮族の将の乞臧遮遮・悉多楊朱を殺し、西方面は少しく安穏になり、三年たらずでことごとく巂州の地を獲得した。しばらくして北廷の沙陀別部が吐蕃に叛き、吐蕃はこのために北廷都護府を陥れ、安西への道は途絶した。ただ西州(高昌)の人だけは、まだ唐のため守備をつづけていた。

  貞元八年(792)、吐蕃は霊州に侵入し、水口を陥れて営田の渠を塞いでしまった。朝廷では河東(山西省南部)・振武(陝西省楡林地方)の兵を発し神策軍を加えてこれを撃ったので、蛮族は引還した。また涇州に入寇し屯田兵千人を掠取し、守捉使の唐朝臣は戦ったが不成功であった。山南西道節度使の厳震は、蛮族を芳州に破り、黒水壁を取り、集積した軍需品を焼いた。蛮族が塩州を取ってから、国境の防備には敵をおさえるものがなく、霊武はひとり裸のままであり、鄜坊は圧迫され、敵は日に日に驕慢となり、しばしば入寇して辺境を悩ました。そこで帝はふたたびここに城を築くことを詔し、涇原・剣南・山南の軍に、敵地に深入して徹底討伐させ、敵が兵を分遣してもっぱら東方に向かうことのないようにした。それで朔方河中晋絳邠寧兵馬副元帥の渾瑊、朔方霊塩豊夏綏銀節度都統の杜希全、邠寧節度使の張献甫、右神策軍行営節度使の邢君牙、夏綏銀節度使の韓潭、鄜坊丹延節度使の王栖曜、振武麟勝節度使の范希朝に詔を下し、その兵を合わせて三万、それに左神策将軍の胡堅、右神策将軍の張昌を塩州行営節度使とし、城を築く人夫六千人余、みな城下に陣を張った。貞元九年(793)、版築を始めてからわずかに二旬を過ぎて作業を終わったが、蛮族の兵は出てこなかった。ついに兼御史大夫の紇干遂と兼御史中丞の杜彦光にこれを守備させた。このとき韋皐の功績がもっとも大きく、堡や防壁五十余所を破り、その南道元帥の論莽熱没籠乞蓖(ロンマンシェルロンチ)を破り、また南詔とともに吐蕃を神川(金沙江上流)と鉄橋(雲南省江県西北、故巨津州北百三十里)において破った。韋皐は三万の捕虜・首級をあげ、首領の論乞髯湯没藏悉諾硉(ロンチツェンタンサンタダシェル)を降服させた。

  貞元十二年(796)、慶州および華池に入寇し、官吏・人民を殺したり掠取したりした。この年、尚結賛が死んだ。明くる年(797)、賛普が死に、その子の足之煎(ムネツェンポ)が立った。邢君牙は隴州に永信城を築いて蛮族に備えた。蛮族の使者の農桑昔が来て、和親を修めることを請うた。朝廷は信頼することができないので、受けつけなかった。韋皐は新城を取った。蛮族は剣山馬嶺を支配し、進んで台登に入寇した。巂州刺史の曹高仕は撃ってこれを退け、籠官を擒にし、首三百を斬り、馬・食糧・武器数千をいけどり捕獲した。

  貞元十四年(798)、韓全義は蛮族を塩州に破った。貞元十六年(800)、霊州は蛮族を烏蘭橋に破り、韋皐は末恭・顒の二城を抜いた。貞元十七年(801)、吐蕃は塩州に入寇し、麟州を陥れ、刺史の郭鋒を殺した。また城の堀をつぶし、陴(ひめがき)を落とし、居民をつなぎ、党項の諸部を掠奪して横槽烽に屯した。蛮族の将に徐舎人なるものがあり、俘虜にした仏僧の延素に語った。「私は司空英公(李勣)の子孫である。武后のときに家祖(徐敬業)が兵を挙げて王室のために働いたが、勝つことができず、子孫は遠い地方に逃げて、いまは三代を経ている。私は吐蕃の兵権を握っているとはいえ、まだいちども祖国へ帰ることを忘れてはいない。あとのことを思うてみずから抜け出せないでいるだけである」と。そしてひそかに延素を夜、逃亡させた。また言った。「私は辺境を調べ、物資食糧を求めて麟州にいたったのだが、守るものは備えがしてなかったので、ついにこれに進入したのである。郭使君(郭鋒)は勲臣の家の出であり、これを完全に保護しようと思っていたのに、不幸にして乱兵に殺されてしまった」と、話がまさに終わったとき、飛鳥使が到着し、その軍を召還したので、ついに引き去っていった。飛鳥というのは、駅伝の騎のようなものである。

  韋皋は、西山に出て、蛮族と戦ってこれを破った。雅州の籠官の馬定徳は、もと蛮族のうちでは作戦を知り慮りのあるもので、山川の形勢をよく知っていた。兵を用いるごとに、つねに駅伝を使って計略をめぐらし、諸将に授けていた。毎年黎州・巂州に入寇していたが、韋皋はいつもその作戦を挫折させた。馬定徳は賛普に罰せられるのを恐れて、ついに来降し、これによって昆明の諸蛮は安定した。吐蕃その他は、しばしば叛いて大いに霊州に侵入した。このとき韋皋は維州を包囲した。論莽熱没籠乞悉蓖に松州五道節度兵馬都統群牧大使を兼ねさせ、兵十万を率いて維州を応援させた。韋皋は南詔の兵を率いて険要の地にせまり、伏兵を設定して待ち、わずか千人だけで敵を攻撃させた。乞悉蓖は兵が少ないのを見て、衆をつくしてこれを追い、伏兵の中に陥った。唐兵は四たび急攻撃をかけ、ついにかれを捕え、京師に献上し、帰還した。明くる年(802)、吐蕃の使者の論頰熱がまた来た。右竜武大将軍の薛伾が答礼に行った。

  貞元二十年(804)、賛普が死んだ。工部侍郎の張薦を遣わして弔わせた。その弟が嗣いで立ち、ふたたび使者をよこして入朝させた。

  順宗が立ち、左金吾衛将軍の田景度、庫部員外郎の熊執易に節を持して使者に行かせた。永貞元年(805)、論乞縷勃蔵(ロンルサン)が来て、金幣・馬・牛を献げて崇陵(徳宗陵)の祭りを助けた。詔を下して、太極殿の中で並べて展示させた。

  憲宗の即位のはじめ、唐では使者を遣わして和親を修め、かつその捕虜を帰し、また順宗の喪を知らせた。吐蕃もまた論勃蔵を使としてよこし、のち毎年のように来朝した。しかし五万騎で振武の払鵜泉に侵入し、万騎は豊州の大石谷にいたり、回鶻の帰国するものを略奪した。

  元和五年(810)、祠部郎中の徐復を使いに行かせ、同時に鉢闡布(ベルチェポ)に書信を賜わった。鉢闡布というのは、蛮族の仏僧で、国政に与るものであり、またの名は鉢掣逋という。徐復は鄯州まで行ってかってに帰ったが、その間の李逢は使命を賛普に伝えた。しかしまた責任を問われて左遷された。これに対して蛮族は、論思邪熱(ロンギェシェル)を入朝させて謝礼し、かつ鄭叔矩・路泌の柩を帰し、秦・原・安楽州を返還することを述べた。詔を宰相の杜佑らに下して、中書省でこのことを論議させた。論思邪熱は庭で拝し、杜佑は堂上から答礼した。また鴻臚少卿の李銛、丹王府長史の呉暈に答礼のため吐蕃に行かせたが、これより朝貢には年々やってきた。また隴州の塞に好しみを通じ、物資交換の市を請うてきたが、詔を下して許可した。

  元和十二年(817)、賛普が死んだ。使者の論乞髯(ロンチチェン)が来たので、右衛将軍の烏重玘、殿中侍御史の段鈞に弔祭に行かせた。可黎可足(チツクデツェン)が立って賛普となった。烏重玘は、扶余準・李驂といっしょに帰ってきた。扶余準は東明(河北省大名県)の人で、もとは朔方の騎将であり、李驂は隴西の人で、貞元のはじめに蛮族の手に陥ったものであった。使者はかれらがいまだ死んでいないことを知り、これを探して帰ることができたのであった。詔を下して扶余準を澧王府司馬とし、李驂を喜王友とした。

  吐蕃は論矩立蔵(ロンルサン)を来させた。かれがいまだ国境を出ないうちに、吐蕃は宥州(霊州城)に入寇し、霊州の兵と定遠城(寧夏省寧夏県東北六十里)に戦った。蛮族は勝たず、首二千級が斬られた。平涼鎮遏使の郝玼はまた蛮族の兵二万を破り、夏州節度使の田縉はその衆三千を破った。詔を下して矩立蔵らを留めて帰さなかった。剣南の兵は峨和城(四川省松潘県西南)・樫雞城(四川省鯀陽県の近傍)を抜いた。元和十四年(819)、矩立蔵らを帰国させた。吐蕃の節度論二摩、宰相の尚塔蔵(シャンラサン)、中書令の尚綺心児(シャンチスムジェ)は兵十五万を指揮して塩州を囲み、飛梯・鵞車を作って城を攻撃した。刺史の李文悦は防戦し、城が壊れればすぐに補修し、夜はその屯営を襲い、昼は出て蛮族一万人と戦い、三旬をすぎても抜くことはできなかった。朔方の将の史敬奉は、奇襲部隊を蛮族の背後に迫らせ大いに破ったので、敵は包囲を解いて去った。

  さきに沙州(甘粛省敦煌県)刺史の周鼎は、唐のために沙州を固守していた。賛普は張幕を南山(甘粛・青海両省の間の山脈)にうつし、尚綺心児にこれを攻めさせた。周鼎は救援を回鶻に請うたが、年を越えても援兵は来なかった。ついに城を焼いて衆を率いて東に逃げることを論議したが、みなこれを不可能とした。周鼎は都知兵馬使の閻朝に壮士を率いて水草の調査に行かせた。閻朝は朝がた周鼎に謁し、挨拶して出かけ、周鼎の親しい役人の周沙奴とともに弓を引きしぼって射た。謙虚に礼をしてから沙奴を射てただちに殺し、こんどは周鼎を捕えてこれを絞殺した。そしてみずから州の政事を支配し、八年間城を守備した。綾絹の一端を出して麦一斗と代えるものを募ったところ、応ずるものはひじょうに多かった。閻朝は喜んで言った。「民にはまだ食糧がある。死守せねばならない」と。二年経って、食糧・武器はみな尽きてしまった。そこで城壁に登り、大声で叫んで言った。「かりそめにも他の土地へ作るつもりはない。城をあげて降服することを願う」と。尚綺心児は承諾したので、ここで、出て降服した。城の攻撃がはじまってからこれまで、およそ十一年であった。賛普は綺心児に城を守らせたが、のち閻朝が叛をはかっているのを疑い、毒を革靴の中に入れて殺した。州の人たちはみな夷狄の服を着て蛮族の臣となったが、毎年その時期が来ると、父祖を祀り、中国の服を着て声をあげて泣き、またこれをしまった。

  穆宗が即位し、秘書少監の田洎を遣わして、このことを告げさせた。吐蕃からも使者がまた来た。蛮族は兵を率いて霊武に入って屯し、霊州の兵は撃ってこれを退けた。また青塞烽を犯し、進んで州に入寇した。川の岸に屯営し、その列は五十里もずっと続いていた。はじめ田洎は吐蕃の牙帳に行ったところが、蛮族は長武で会盟することを求めた。田洎はあいまいな態度でこれに応じたが、ここにいたって吐蕃は、「田洎はわが方に会盟を許した。そのゆえにわが方はここに来たのである」と、はっきり言った。涇州まで一宿ていどのところに迫って来たのである。詔を下して、右軍中尉の梁守謙を左右神策軍京西北行営都監とし、兵を発し、八鎮の兵を合わせて涇州を援助させた。いっぽう田洎を郴州(湖南省桂陽県東)司戸参軍に左遷した。太府少卿の邵同に節を持せしめ、和好使とした。はじめ夏州の田縉は利を貪るので、党項はこれを怨んで、蛮族を導き入れて掠奪させた。郝玼はこれと戦ってその衆を多く殺し、李光顔はまた邠州の兵を率いて到着したので、敵は引き揚げた。そしてまた使者を遣わして来、南の方では雅州を略奪した。詔を方鎮に下して、蛮族と接するものは心して辺境に備えさせた。

  長慶元年(821)、回鶻が唐に和親したのを聞き、青塞堡を犯し、李文悦に逐われた。そこで使者の尚綺力陀思(シャンチデー)を遣わして来朝させ、会盟を乞うた。朝廷では詔を下してこれを許可した。当時崔植杜元穎王播が政事を輔けていたが、太廟に告げることを考えた。しかし礼官は言った。「粛宗・代宗は、みな、かつて吐蕃と盟しましたが、太廟には告げませんでした。徳宗の建中の盟は、その盟約を価値あるものにするために、はじめて詔を下して廟に告げたのです。平涼の会にいたっては、これを告げなかったのですが、それはその価値を殺ぐためでした」と。そこで告廟のことはやめ、大理卿の劉元鼎を盟会使とし、右司郎中の劉師老がこれに副となった。宰相に詔を下し、尚書右僕射の韓皋・御史中丞の牛僧孺・吏部尚書の李絳・兵部尚書の蕭俛・戸部尚書の楊於陵・礼部尚書の韋綬・太常卿の趙宗儒・司農卿の裴武・京兆尹の柳公綽・右金吾将軍の郭鏦ともに、吐蕃の使者論訥羅と京師の西郊に会盟させた。賛普は盟いの言葉をもって、二国が互いに仇となることなく、国境で人を捕えることがあれば、事情を聞いて衣服・食糧を与えて帰すことを約束した。天子も詔を下してこれでよいとし、大臣の盟に与ったものはみな名を文書の上に書いた。盟を行なったときに、吐蕃は精壮の騎兵で魯州に屯し、霊州節度使の李進誠は大石山に戦ってこれを破った。蛮族は使者の趙国章を遣わして来たり、宰相に書信と幣物を呈した。

  明くる年(822)、国境や物見台を定めることを願い、劉元鼎と論訥羅とが、その国(吐蕃)で盟を行なうことになった。勅を出して、蛮族の大臣もまた名を文書に連ねることにした。劉元鼎は成紀(甘粛省天水県)・武川を越えて黄河の広武梁にいたったが、昔の城郭はまだ崩れないで残っていた。蘭州の地はみな秔稲・桃李・楡柳が山の峯に茂り、住民はみな唐の人で、使者の麾蓋を見て、道の両側にならんで見物した。竜支城(青海省西寧市東南八十里)に到着すると、老人たち千人が挨拶をして泣き、天子の安否を問うて言った。「しばらく前に従軍して、ここで敵手に陥ってしまいました。いま子孫はまだ唐の服装を忘れることはできないでおります。朝廷では、なおこのことを思ってくださっているでしょうか。唐の軍隊は、いつやって来ますか」と。言いおわってみな泣いた。ひそかに聞くと、豊州の人であった。石堡城を通過したが、崖は険しくきり立ち、道はうねっていて、蛮族はこれを鉄刀城(カルチェグツェ)と呼んでいた。それから西の方へ数十里行くと、土石はみな赤く、蛮族はこれを赤嶺という。かつて信安王李禕張守珪が建てた国境の碑はみな倒れ、ただ蛮族のたてた石碑だけがそのまま残っていた。赤嶺は長安から三千里余であり、思うに隴右の故の土地である。悶怛盧(メルロ)川というのがあり、邏娑川の南の百里のところにあたり、そこは臧河(ツァンポ)の流れているところである。臧河の西南の地は砥石のように平らで、肥沃な原野がひろがり、河をはさんで檉柳(かわらやなぎ)が多く、山には柏が多い。岸はみな丘墓になっており、その傍に家屋があり、赤土を塗って白虎が描いてある。みな蛮族の貴族で戦功のあるものの墓であり、生前はその(白虎の)皮を着、死んではその勇猛を表わしているのである。殉死したものは、その傍に埋葬されている。それから悉結羅識を越えるが、岩をけずって車を通しており、これが金城公主を迎えた道である。

  麋谷にいたって宿舎に入ったが、ここは臧河の北方の川であり、普賛の夏の牙帳があるところである。そこは、木槍の柵をめぐらし、おおよそ十歩ごとに多くの長い槊(ほこ)を立て、中に大きな幟を置いている。三つの門を作り、その相互の距離はみな百歩で、武装の兵士が門を守っている。またそこでは鳥の冠をかぶり、虎の皮の帯をした巫祝(シャーマン)が太鼓をたたいている。入るものは身体を検査してから進む。中に高い台があり、宝楯がめぐらしてある。賛普は帳幕の中に坐し、その張幕は黄金で、蛟螭(みずち)・虎豹のかたちが縫い取りされている。賛普は身に白い褐(けごろも)を着、頭には朝霞帽をかぶり、首には金を鏤めた剣を吊っていた。鉢掣逋(ペルチェポ)はその右に立ち、宰相は台の下に並んでいた。はじめに唐の使者が到着したとき、給事中の論悉答熱(ロンタグシェル)が来て盟いのことを議定し、牙帳の西で盛大な宴を張ったが、酒飯のはこびは中国の習慣とほぼ同じであった。音楽は「秦王破陣曲」を奏し、また涼州・胡渭・録要の雑曲を奏し、多くの芸人は、みな中国人であった。

  会盟の壇は、広さ十歩、高さ二尺で、使者は蛮族の大臣十余人と相対し、酋長百余人は壇下に坐った。壇上には大きな榻を設け、鉢掣逋が登って盟いを告げた。一人が傍から下のものに訳して聞かせた。みな血を啜ったが、鉢掣逋だけは啜らなかった。盟いが終わって仏像の前にかさねて誓いをし、鬱金水をとって飲み、使者と喜びの挨拶をして壇を下った。

  劉元鼎が帰るとき、蛮族の元帥の尚塔蔵(シャンラサン)は、客を大夏川に宿泊させ、東方節度の諸将百余人を集めた。会盟の文書を台の上におき、ひろくこのことを諭し、かつおのおの国境を保持して互いに犯すことないように戒めた。文書には「彝泰七年」と書いてあった。尚塔蔵は劉元鼎に語った。「回鶻は小国である。私はかつてこれを討伐し、国都(カラバルガスン)から三日のところにまでいたり、回鶻はあやうく破滅するところであった。ちょうどそのとき、本国に不幸(賛普の死)があり、帰国したが、かれはわが方の敵ではないのに、唐はなにを畏れてこれを厚く遇するのか」と。劉元鼎は言った。「回鶻は国に功績(安史の乱の援軍)があり、かつ約束を守り、いまだみだりに兵をもって尺寸の土地を取るようなことはしていない。それゆえにこれを厚く遇するのである」と。尚塔蔵は沈黙してしまった。劉元鼎は湟水を越えて竜泉谷にいたったが、西北に殺胡川を望見した。ここには哥舒翰の時代の大防壁がなお多く存在していた。湟水の源は蒙谷に出て、竜泉にいたって黄河と会する。黄河上流は、洪済梁(橋)より西南に二千里行くと、河はますます狭くなり、春は徒歩で渡ることができ、夏秋には舟で行くことができる。その南三百里に三山があり、中に高くて四方に低くなっている山があって、紫山と呼ばれている。ここが大羊同国で、昔のいわゆる崑崙なるものである。蛮族は悶摩黎山と呼んでおり、東方は長安から五千里距たっている。黄河の源はその間にあり、水流は澄んでゆっくりと流れている。漸次多くの川を合わせて赤色となり、流水がますます長くなると他の川がみなそそいで濁ってくる。この湟水と黄河の存在によって、世間では西戎の土地を河湟というのである。河源の東北に莫賀延磧尾があり、長さはおおよそ五百里で、磧の幅は五十里である。北は沙州の西南から吐谷渾に入り、狭くなって終わっている。ゆえに磧尾というのである。ひそかにその地を測ってあると、だいたい剣南の西にあたるであろう。劉元鼎が見てきたところは、おおよそ以上のようなものであった。

  蛮族は論悉諾息(ロンタグシグ)らを遣わして入朝して謝辞を述べた。天子は左衛大将軍の令狐通、太僕少卿の杜載に命じて答礼に行かせた。この年(822)、尚綺心児(シャンチスムジェ)は兵を出して回鶻・党項を攻撃し、小相の尚設塔は三万の衆を率いて木蘭(橋)付近に馬を放牧した。毎年使者が来、金の盆、銀細工の犀川や鹿を献上し、ヤクを貢ぎ物とした。

  宝暦(825-827)から大和(827-835)年間にいたるまで、ふたたび使者を遣わして入朝させた。大和五年(831)に維州の守将の悉怛謀が城をあげて降服し、剣南西川節度使の李徳裕はこれを受け入れ、符章・武器・鎧を収納した。さらに将の虞蔵倹を遣わしてこれに拠らせた。州は、南は江陽(四川省澁県)・岷山にいたり、西北は隴山を望見し、一方は崖に面し三方は江に囲まれている。蛮族はこれを無憂城と呼び、西南地方の要害の地としていた。ちょうどそのころ牛僧孺が国政を担当していたので、論議して悉怛謀を吐蕃に遷し、その城も帰した。吐蕃は、かれの一族を誅してひとりも残さず、もろもろの蛮族を恐怖させた。これより五年間、蛮族の使いが来れば、かならず答礼使を出した。貢献したものは、玉帯・金皿・獺褐(カワウソの皮で作ったかわごろも)・ヤクの尾・霞・緋毛氈・馬・羊・駱駝である。

  賛普は、立ってから三十年ちかく、病気のため政事をとらず、大臣に委せきりであり、そのゆえに中国に対抗することができず、辺境の塞は安穏であった。賛普が死んで弟の達磨(ダルマ)が嗣いだが、達磨は酒飲みで、狩猟を好み、好色であった。かつ性格があらあらしくて恩政を施すことが少なく、政治はますます乱れた。

  開成四年(839)、太子詹事の李景儒を吐蕃に使いさせたが、吐蕃は、論集熱を来させ、玉器・羊・馬を貢献した。これより吐蕃国内では地震が多く、川が裂け、水が吹き出し、岷山は崩れ、洮水は三日間逆流した。また鼠が作物を食い荒らし、人は飢えて、病気で死ぬものが相つぎ、鄯・廓二州の間では、夜、陣太鼓の音が聞こえ、人々は互いに驚愕した。

  会昌二年(842)、賛普が死に、論賛熱(ロンツェンシェル)らが来てこのことを告げた。天子は将作監の李璟に命じて弔いに行かせた。達磨には子がなかったので、妃の綝(チム)氏の兄尚延力(シャンギェルリグ)の子の乞離胡(チウ)を賛普とした。まだ三歳であり、妃はともにその国を治めた。大相の結都那(ギェルトレ)は乞離胡を見て、あえて拝礼しないで言った。「賛普の支族はまだ多いのに、どうして綝氏の子を立てるようになったのか」と、泣いて出ていったが、政事に当たっているものは、いっしょになってかれを殺した。

  別将の尚恐熱(ロンコンシェル)は落門川(甘粛省隴西県)討撃使であったが、姓は末(バー)、名は農力熱(ナンリグシェル)で、中国で郎と称するようなものである。かれは詭りが多く、よく人をたぶらかし、三部をまとめて万騎を得、鄯州節度使の尚婢婢を討った。それから土地をとり、渭州に行って、宰相の尚与思羅と薄寒山(甘粛省隴西県西南)に戦った。尚与思羅は敗けて松州にいたり、蘇毘・吐渾・羊同の兵八万を合わせ、洮河を保持してみずから守った。尚恐熱は蘇毘たちに言った。「宰相兄弟は賛普を殺したので、天神がわれに義兵を挙げて無道のものを誅殺させるのである。なんじらは、逆賊を助けて国に背くのか」と。そこで蘇毘たちは宰相の行動を疑って戦わなかった。尚恐熱は軽装の騎兵を指揮して洮河を渡らせたところ、諸部はまず降り、その衆は合わせて十余万になり、尚与思羅を捕えてこれを絞殺した。

  尚婢婢は姓は没盧(ロ)、名は賛心牙、羊同国の人である。代々吐蕃の大臣となる家柄で、かれは寛大で、おおよそ文字に通じていた。賛普に直接仕えるのを好まず、国境方面に三年間官吏として勤めていた。吐蕃の国民は新賛普の立ったのを正しいものとはせず、みな叛き去ったので、尚恐熱はみずから宰相と号し、兵二十万を率いて尚婢婢を攻撃したのである。軍隊・牛・馬・駱駝は千余里に連なり、鎮西軍(河州の西百八十里)にいたったが、大風が起こり、雷電がはためいて、部将の震え死ぬものが十余人、羊・馬・駱駝もまた数百が死んだ。尚恐熱はこれを見て恐怖にとらわれ、軍を抑えて進まなかった。尚婢婢はこのことを聞いて、物を厚くし、手紙を送って和親を約束した。尚恐熱は大いに喜んで言った。「尚婢婢は書生である。どうして軍隊のことがわかろうか。わしが賛普になれば、出仕不要の宰相としてかれ処遇しよう」と。そこで退いて大夏川に営した。尚婢婢は将の厖結心、莽羅薛呂(マンラシェル)を遣わして、尚恐熱を河州の南に攻撃した。兵四万を伏せさせ、厖結心は山に拠り、手紙を射てやり、さんざん尚恐熱を罵倒した。尚恐熱はひじょうに怒り、兵をもりたて出撃させた。厖結心は偽って逃げたところ、尚恐熱は数十里これを追撃し、莽羅薛呂は伏兵を発して集中攻撃した。おりしも大風があり、河は出していたので、溺死するものがはなはだ多く、尚恐熱は単騎で逃走した。すでに目的を達しなかったので、すこぶる残忍となり、人を多く殺した。その部将の岌蔵(チソン)、豊賛はみな尚婢婢に降服し、尚婢婢は厚くこれを待遇した。

  明くる年(848)、尚恐熱はまた鄯州を攻撃し、尚婢婢は兵を五道に分けて防戦した。尚恐熱は東谷山(甘粛省臨夏県東南十五里)を保持し、防壁を固めて出戦しなかったが、岌蔵は柵をいく重にもめぐらし、給水の道を断った。そこで十日ほどで尚恐熱は薄寒山に逃走し、散兵を集めてようやく数千人を得た。そして鶡鶏山に戦い、ふたたび南谷(甘粛省渭源県西二十五里)に戦ったが、みな大敗し、戦いは長びいて、年を過ぎても終わらなかった。

  大中三年(849)、尚婢婢は軍を河源に屯し、尚恐熱が黄河を渡ることを企んでいるのを聞き、急にこれを攻撃し、尚恐熱に敗れた。尚婢婢は精鋭の兵を率い、橋を抑えたがまた勝たず、橋を焼いて還った。尚恐熱は間道伝いに鶏頂嶺に出、関馮硤に橋をかけ、婢婢を攻めて白土嶺(青海省西寧市南)にいたった。そしてその将の尚鐸羅榻蔵(シャンタグララサン)を破り、進んで犛牛硤(ムルウス)に戦った。尚婢婢の将の燭盧鞏力(チョグロクンリグ)は、硤を背にしてみずから固守し、尚恐熱を苦しめようとしたが、大将の磨離羆子は従わず、力は病気であると称してさきに帰ってしまった。燭盧鞏力は急に尚恐熱を攻撃したが、一戦して死んだ。尚婢婢は糧食が尽きたので、衆を率いて甘州の西の境に赴き、拓抜懐光に守備させたが、尚恐熱の配下は多くこれに降服した。

  尚恐熱は鄯・廓・瓜・粛・伊・西などの州を大いに略奪したが、通過するところ、捕えたり殺したり、屍は積みかさなり、広く散乱するありさまであった。部下たちは内心これを怨み、みなかれをかたづけようと考えた。そこで唐の兵五十万に出てもらい、ともにその乱を鎮めたいと宣言した。尚恐熱は渭州を保持し賛普に冊立されることを願い、表文を奉って唐に帰服した。宣宗は太僕卿の陸躭に詔を下し、節を持して使いとなって尚恐熱を慰労し、涇原・霊武・鳳翔・那寧・振武などの軍に命じて、尚恐熱を援け迎えさせた。かれが到着したので、尚書左丞の李景譲に詔し、その希望するところを問わせたが、尚恐熱は傲慢で大きくかまえ、かつ河渭節度使とすることを求めた。帝は許可を与えず、かれは帰途咸陽橋を通って嘆じて言った。「我は大事をなしつつある。望むところは、この河を軍とともに渡って、唐と天下の境域を分け合うことだ」と。ふたたび落門川に赴き、散兵を集めて、まさに辺境に入寇しようとした。ちょうどそのとき長雨があり、食糧が途絶したので、尚恐熱は廓州に逃げ帰った。

  そこで鳳翔節度使の李玭は清水を回復し、涇原節度使の康季栄は原州を回復し、石門などの六つの関を取り、数万の人畜を得た。霊武節度使の李欽は安楽州を取ったので、詔を下して威州とした。邠寧節度使の張欽緒は、蕭関・鳳翔を回復し、秦州を収めた。山南西道節度使の鄭涯は、扶州を得た。鳳翔の兵は、吐蕃と隴州に戦い、首五百級を斬った。この年(849)、河西隴右の老齢者千余人が宮殿に現われ、天子は延喜楼に出御して冠帯を賜わった。みな争って弁髪を解き、衣服をとりかえた。よって詔を下して賜わり物を与えた。四道の兵については、功労のあるものは録して官を与えた。三州七関の土地で肥沃なところは民が開墾することを許し、五年の賦役を免除した。温池は度支に委ね、その塩を専売にし、辺境に供給させた。四道の兵で田作りができるものには、耕牛や種子を給し、なお守備につくものにはその兵を倍にして与え、二年で交代させた。商人の辺境に往来するものは、関鎮がそれを留めることのないように兵で開墾しようとするものは民と同様に許した。

  昔、太宗は薛仁杲を平らげて隴上(隴西)の地を得、李軌を捕虜にして涼州を得、吐谷渾・高昌を破って安西四鎮を置いた。玄宗はついで黄河・磧石・宛秀などの軍を収めたが、中国は辺境に斥候や警備のものをほとんど四十年も置かなかった。輪台・伊吾は屯田が行なわれ、穀物・豆類の田畑はますます遠く拡がった。開遠門に掲げられた送迎の額に、「西の方、道のはてまで九千九百里」と書かれたのは、辺境防備の人が万里まで行く必要のないことを示していたのである。乾元以後は、隴右・剣南・西山・三州・七関・軍・鎮・監牧などの三百ヵ所がみな失われた。憲宗は、いつも天下の地図を見、河湟のもとの領域を見ては憤り、これを経略しようと考えたが、その機会はなかった。ここにいたって群臣は宣宗に上奏した。「王者は、功を建て、業を成して、かならず世にひかり輝くものがあります。いま一兵も刃に血をぬることをせずに、河湟はおのずから帰服しました。天子に尊号を上りたいと存じます」と。帝は言った。「憲宗はかつて河湟のことを思い、その業が成就しないうちに亡くなられた。いま祖宗の功業を払めるにあたり、順宗・憲宗の二廟に謚号を奉り、後世にその名を顕示するよう議してもらいたい」と。また詔を下して言った。「朕はしばらく人民を休息させたいと思うので、その山外(西山の外側)の諸州はのちにこれを経営したい」と。

  明くる年(851)、沙州の首領の張義潮は、瓜・沙・伊・粛・甘など十一州の地図を奉じて献上した。さきに張義潮はひそかに豪傑たちと結び、唐に心を帰していた。ある日、衆は武装して州城の門に喚声を挙げ、漢人はみなこれを助けた。蛮族の守備のものは驚いて逃げたので、かれはついに仮に州の政事をとり、鎧・武器を整備し、耕作しかつ戦って、ことごとく他の州を回復した。そして部将十組ほどで、みな矛をもって表文をその中に入れ、かれらは東北に向かって走って天徳城に到着した。防禦使の李丕が上聞したので、帝はその忠誠を賞讃し、使者に詔を持たせてやり、収容し慰労した。そして張義潮を沙州防禦使に抜擢したが、まもなく帰義軍と称し、ついに節度使となった。そののち、河州・渭州の蛮族の将の尚延心は、自国が亡んだのを見て、また好しみを通じ、秦州刺史の高駢は尚延心および渾末部の一万帳を誘って降服させ、ついに二州を収穫した。尚延心を武衛将軍に任じたが、高駢は鳳林関を収めたので、尚延心を河渭等州都游奕使とした。

  咸通二年(861)、張義潮は涼州を奉じて来帰した。咸通七年(866)、北廷の回鶻の僕固俊は、西州(高昌)を攻撃して取り、諸部を収め、鄯州城使の張季顒は尚恐熱と戦ってこれを破り、武器・鎧を収めて献上した。吐蕃の余衆は邠・寧を犯し、節度使の薛弘宗はこれを退けた。ちょうどそのとき、僕固俊は、吐蕃と大いに戦い、尚恐熱の首を斬って京師に送ってきた。

  咸通八年(867)、張義潮は入朝して右神武統軍となり、京師に邸宅と地を賜わった。族子の深に命じて帰義軍を守らせた。咸通十三年(872)、張義潮は死んだ。沙州については、長史の曹義金に州務を扱わせ、ついにかれに帰義軍節度使を授けた。のち中原には事件が多くなり、王命は甘州に及ばなくなり、回鶻に併呑されて、帰義の諸城も多くその手中に陥った。

  渾末というのは、また嗢末といい、吐蕃の奴隷部落である。蛮族の規則では、軍を出すにはかならず豪族を発し、みな奴隷を従わせる。平常のときは、あちこちに散って耕作や牧畜を行なっている。尚恐熱が乱を起こしたとき、向かうべきところがなく、ともに呼びあって数千人となり、みずから嗢末と号し、甘粛・瓜・沙・河・渭・岷・廓・畳・宕諸州の間に居た。その吐蕃の牙帳に近いものがもっとも勇猛で、馬も良いといわれている。

  賛にいう、唐が興ってから、四夷で従わないものがあった。みな尖鋭な部隊なので、これを他地方に移し、その牙をそぎ、その王庭をすいて田畑とするまで徹底的に征服した。ただ吐蕃と回鶻は強勢を誇り、もっとも長く中国の悩みとなった。賛普はすべて河湟を奪取し、畿内に迫ってその東の国境をおいた。京師を犯し、その近郊を掠奪し、中国人を傷つけ、首を斬った。唐はあの勇猛な軍隊を動員し、目をよくみはって作戦を計らせたが、ついに根本的解決はできなかった。晩期になって二民族はおのずから滅亡し、唐もまた衰頽した。いったい外民族を慰撫し、同時に国内を安寧にするということは、ただ聖人だけが辞退せずにやれることであろう。玄宗はすぐれた徳の持主で、領域をはなはだ大きく拡げたが、遠方の地に功績をあげることにつとめて、身の近くにある危険を見逃していた。逆賊がひとたび奮いたつと、中原は分裂し、二百年を終えるまでもとの完璧な組織にもどることができず、衰頽するにいたった。そうであるならば、すなわち、内でまずみずからを治め、そののちに四夷が外部から脅威をなすのを解決してゆくのが、国を保持発展させる良い方策であろう。


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最終更新:2024年08月19日 13:42
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