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更新日:2025/04/21 Mon 14:01:06
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●目次
概要
安政の大獄とは、江戸時代末期の1858年(安政5)から1859年(安政6)にかけて
江戸幕府が行った、攘夷派に対する弾圧政策である。
死刑・獄死者は10名を超え、連座したものを含めれば100人以上が処分を受けた。
なお、一般的に知られる『安政の大獄』は明治以降の呼び名で、当時は後述する理由で『飯泉喜内初筆事件』と呼ばれた。
事件のあらまし
1853(嘉永5)年のペリーの浦賀への来航をきっかけに、幕府はこれまでの鎖国政策を放棄し、開国へと方針を転化した。
だが独力でこの国難を乗り切る自信がなかったためアメリカとの和親と通商条約の調印するにあたって朝廷(孝明天皇)と諸侯達に許可を募ることで、これらの政策の正当性を強固にする狙いがあった。
しかし、
朝廷は長年政治から離れていたことで海外の情勢に疎く、「断固攘夷すべし。
夷狄に神国日ノ本の土を踏ませるなど、あってはならぬ」とこれまでの鎖国政策を継続するよう主張し、前水戸藩主の徳川斉昭も攘夷を声高に主張した。
この状況の中、病死した
第13代将軍・
徳川家定の継嗣問題が発生する。
病弱だった家定には嫡子がおらず、当時将軍候補として一橋慶喜(後の15代将軍・徳川慶喜)と徳川
慶福(後の14代将軍・徳川家茂)が挙がり、慶喜を推す
「一橋派」と慶福を推す
「南紀派」に分かれ激しい争いが始まった。
井伊直弼は開国論者でもあり、安政5(1858)年に大老に就任すると朝廷の勅許を得ずに日米通商修好条約に調印してしまう。同時に、南紀派の主力として行動し、家定の次期将軍に慶福が就任することとなった。
直弼の弁護をすると、アメリカとの交渉が二進も三進も行かなくなったら朝廷の勅許を得ずに条約を結ぶのは止むを得ないと認めた事は事実だが、同時に『現況で天皇の承諾を取らずに条約を締結すると後々厄介な事になるから、京都に行っている説得担当の為に出来るだけ時間を稼いでくれ』と交渉担当に指示している。
此れ以上の引き延ばしはアメリカの態度の強硬化を招く、と交渉担当が直弼の言質を取って早々に条約締結の約束をしたものの、直弼自身は天皇の説得の重要性も理解していた。
孝明天皇はこれらの井伊の専横に激怒し、当時6歳であった睦仁親王(後の明治天皇)に譲位するとまで言い出した。そして、水戸藩に攘夷の密勅を出した。
また、攘夷派の志士により、ことと次第によっては井伊を暗殺する計画も練られていた。
しかしこの暗殺計画は公家の三条実万に仕える家令、飯泉喜内が捕縛されたことで井伊とその腹心で井伊の「埋木舎」逼塞時代から仕えてきた長野主膳(義言)と前藩主・井伊直亮の代から井伊家に仕官していた宇津木景福(六之丞)に漏れてしまう。
飯泉はロシアとの接触という嫌疑の元捕縛され、飯泉の家宅捜査を行ったところ、勤皇派志士との間に交わした倒幕を企てる書簡が発見された。
これが決定的な要因となり、井伊による空前絶後の大弾圧が始まった。
同年9月、飯泉の邸宅から発見された勤皇派志士宛ての書簡を基に、井伊は飯泉と繋がっていた
梅田雲浜、橋本左内、吉田松陰など攘夷派の逮捕を開始し、この大獄は朝廷の公卿や幕臣の中で井伊の方針に異を唱えていた者達にも及んだ。
特に、江戸に護送された志士に対しては井伊によって大弾圧が翌年の安政6年、ほとんど具体的な罪状に基づくことなく下された。しかも、従来は被告人の罪状を減じるか、被告人の犯した罪が重いと判断された場合はその罪状を変更しないことが慣例となっていたが、井伊が大老に就任してからは、「被告人の罪状を重くする」ということが常態化してしまった。
こちらはこちらで反対派を一層すれば、体制は強化されるという見込みだった。
この志士たちの芋づる式の逮捕ならびに一掃には、長野や宇津木の働きのみならず、長野主膳の妾の村山たか(加寿江)、島田が密偵として用いた岡っ引き・猿の文吉、長野とタッグを組んでいた九条家の青侍・島田左近、島田と同じく九条家に仕えた諸大夫の宇郷玄蕃守重国なども、一役買っていた。
弾圧された者たち
人物 |
役職 |
処分 |
備考 |
安島帯刀 |
水戸藩家老 |
切腹 |
|
鵜飼吉左衛門 |
水戸藩京都留守居役 |
斬罪 |
|
鵜飼幸吉 |
水戸藩京都留守居役助役 |
獄門 |
|
茅根伊予之介 |
水戸藩奥右筆 |
斬罪 |
「不平等条約に対する幕政の批判」や「一橋派の人物であった」という理由による、具体的な罪状に基づかない斬首刑であった |
頼三樹三郎 |
京都町儒者 |
数多くの尊王攘夷派と交流しており、井伊直弼の友人・三国大学とも親交があった。「三国をそそのかした」という罪状により、三国への処分の身代わりとなる形で斬首 |
橋本左内 |
越前藩松平春嶽家臣 |
|
吉田松陰 |
長州藩毛利敬親家臣 |
老中・間部詮勝の暗殺計画をうっかり漏らしたことで死罪が確定 |
飯泉喜内 |
三条実万家令 |
|
梅田雲浜 |
元小浜藩士 |
獄中で病死 |
牢番に毒殺されたという説もある |
日下部伊三治 |
薩摩藩士 |
息子・裕之進も逮捕され、「遠島」の沙汰が下るが長きにわたる拷問がもとで衰弱死 |
信海 |
勤皇僧月照の弟 |
|
小林良典(民部) |
鷹司家諸太夫 |
獄中で病死 |
遠島の判決が下されていたが、伝馬町内で突然病死 |
中井数馬 |
与力 |
獄中で病死 |
与力(旗本の補佐役)ではあるものの、井伊直弼の専横的政治に疑問を抱き、また日下部伊三治とともに勤皇活動を行っていた |
藤井尚弼(但馬守) |
西園寺家家令 |
獄中で病死(脚気) |
|
近藤正慎 |
清水寺寺侍、月照の弟 |
獄中で自殺 |
刃物の携帯が許されていなかったので、舌を噛み切って死のうとしたが、それだけでは死にきれず、頭を何度も壁に打ち付けて出血多量&ショック死 |
一橋慶喜 |
一橋家当主 |
謹慎 |
のちの15代将軍・徳川慶喜 |
松平春嶽 |
福井藩主 |
松平・伊達・山内は1867年の『四侯会議』のメンバー(残る一人は島津久光)。 |
伊達宗城 |
宇和島藩主 |
山内容堂 |
土佐藩主 |
川路聖謨 |
幕臣、江戸城西丸留守居 |
謹慎、隠居 |
1854年に日露和親条約に調印。1858年には蘭方医の大槻俊斎・伊東玄朴とともに江戸の神田お玉が池に「種痘館」を設立。1863年に勘定奉行格外国奉行に復帰するも、わずか4か月後に辞職。引退後は中風により半身不随となり、1868年の戊辰戦争のさなか、勝海舟の江戸城無血開城を知らず、自身が足手まといになることを憂いて拳銃自殺(脳卒中の後遺症で思うように手が利かなかったためといわれる) |
大久保一翁 |
謹慎 |
勝海舟を幕臣として登用した。もともとは井伊から志士の逮捕を命ぜられていたが、井伊の苛烈な処分には反対の意を示しており、自身の部下が志士の逮捕に苛烈な手段を講じた際にはこれを厳重に処罰したが、これが「職務放棄」とみなされ奉行職を罷免された |
徳川斉昭 |
前水戸藩主 |
永蟄居 |
|
岩瀬忠震 |
幕臣、作事奉行 |
永蟄居 |
永蟄居のさなか、自宅にて突然死亡。強いストレスによる衝動自殺説もある |
永井尚志 |
幕臣、軍艦奉行 |
永蟄居 |
桜田門外の変後に政務復帰。坂本龍馬の大政奉還の案に賛成し龍馬の「ヒタ同心」となる |
徳川慶篤 |
水戸藩主 |
御役御免 |
のちに藩主の座に復帰 |
平岡円四郎 |
一橋家家臣、慶喜小姓 |
甲府勤番への左遷 |
のちに江戸にて政務に復帰し、渋沢篤太夫(栄一)・渋沢誠一郎(喜作)の上司となるが、過激派水戸藩士により暗殺 |
木村敬蔵(勝教) |
評定所組頭 |
甲府勤番への左遷 |
井伊直弼による一連の裁決を「徳川の天下これきりになるべし」と批判したことで左遷。1862年に勘定奉行として復職し、幕府瓦解直前の1868年まで務めるが、それ以降の事績は史料不足により不明 |
平山謙二郎(敬忠) |
幕臣(旗本) |
甲府勤番への左遷 |
後に幕政に復帰、1867年若年寄に就任。鳥羽伏見の戦いでは主戦派。後に免職、逼塞の処分を受ける。維新後は武士身分から神道家に転身 |
鵜殿鳩翁 |
幕臣、駿府奉行 |
隠居 |
のちに幕政に復帰し、新選組の母体となる「浪士組」結成に尽力 |
板倉勝静 |
備中松山藩藩主 |
御役御免 |
桜田門外の変の翌年、政務に復帰。戊辰戦争では徳川慶喜に最後まで付き従う |
鮎沢伊太夫 |
水戸藩勘定奉行 |
遠島 |
文久の改革により赦されて京に赴き、尊攘活動を続け、天狗党の乱にも参加する。明治元年10月に勃発した水戸藩内の保守派(諸生党)と過激派(天狗党)の武力衝突「弘道館戦争」で戦死 |
大山格之介(綱良) |
薩摩藩士 |
国許永押込 |
のちに藩政に復帰。戊辰戦争で東北諸藩の戦後処理にあたる。明治10年の西南戦争で鹿児島県令として西郷派に味方し、逮捕、斬首。 |
池内大学 |
儒者 |
中追放 |
思想を井伊に危険視され、飯泉喜内逮捕の一件をもとに自首し、その殊勝さを認めた井伊により処罰を軽減される。これがもとで井伊への内通を疑われ、釈放から数年後に岡田以蔵により暗殺 |
三国大学 |
彦根藩士、儒者 |
中追放 |
井伊直弼の友人。井伊とともに勤皇派学者・中川漁村に師事した経歴がある。「三国に重罪を課せば、中川先生の教えをも否定することになる」と熟考した井伊により、近江国石山に逼塞となった。1862年(文久2年)に罪を許されて帰洛し、剃髪して「幽眠」と名乗り、鷹司家の家令として明治まで生存 |
吉見左膳 |
宇和島藩家老 |
重追放 |
井伊の横死後に宇和島藩にて藩政に復帰。明治まで生存 |
楢崎将作 |
医者、坂本龍馬室・おりょうの父 |
洛中洛外江戸構い(京都並びに江戸からの追放) |
|
中川宮朝彦親王(尊融入道親王) |
青蓮院門主 |
隠居・慎・永蟄居 |
1862年に赦免。中川宮、尹宮、賀陽宮と名乗り、孝明天皇の政治顧問に就任。孝明天皇崩御後は陰謀を企てたとして親王位を剥奪、1869年安芸国に幽閉。1872年に赦免。1875年に久邇宮家を創設。天台座主と伊勢神宮の祭主を務めた稀有な人。 |
鷹司政通 |
前関白 |
隠居・落飾・慎 |
|
近衛忠煕 |
左大臣、近衛忠房の父 |
辞官・落飾・慎 |
|
近衛忠房 |
権大納言 |
咎め無し |
|
鷹司輔煕 |
右大臣 |
辞官・落飾・慎 |
|
三条実万 |
前内大臣、三条実美の父 |
隠居・落飾・慎 |
自邸にて憤死 |
一条忠香 |
内大臣 |
慎十日 |
|
二条斉敬 |
権大納言 |
|
久我建通 |
議奏・権大納言 |
慎五日 |
|
徳大寺公純 |
咎め無し |
|
中山忠能 |
議奏・権大納言、睦仁親王(明治天皇)の外祖父 |
|
裏松恭光 |
議奏・権中納言 |
|
坊城俊克 |
|
正親町三条実愛 |
議奏加勢・権中納言 |
慎十日 |
|
広橋光成 |
武家伝奏・前権大納言 |
慎五日 |
|
万里小路正房 |
前権大納言 |
慎三十日 |
|
村岡局 |
近衛家老女 |
|
東坊城聡長 |
前権大納言 |
永蟄居 |
|
大原重徳 |
非参議 |
自分慎 |
1862年の『文久の改革』のキーマン |
梁川星巌 |
勤王詩人 |
入牢前に自宅にてコレラで死亡 |
入牢前に死去したことで「死(詩)に上手」と評された。 代理として妻・紅蘭が逮捕され、取り調べを受けるが自身の潔白を証明し続け、これがもとで「証拠不十分」ということで釈放され、明治まで生存 |
月照 |
勤王僧 |
捕縛を恐れ、錦江湾にて西郷吉之助と共に入水自殺 |
西郷は一時仮死状態に陥るも蘇生、奄美大島に配流 |
山本貞一郎 |
浪人(旗本・近藤茂左衛門の弟で陪臣) |
逮捕前にコレラにて死去 |
残された妻と子女3人は大獄に連座して「所払」の処分が下された。ただし異説もあり、貞一郎は捕縛を恐れて自殺、妻子らには「急度叱」という判決が下された、ともいわれる |
安政の大獄・後日談
安政七年(1860年)3月。
茅根伊予之介や鮎沢伊太夫らかつての同志を井伊の安政の大獄によって殺害・弾圧され、怒りに燃えた関鉄之介ら水戸藩士17名と薩摩藩士・有村次左衛門が登城途中の井伊を襲撃し、殺害した。桜田門外の変である。
幕府は権威失墜を防止するため、殺害犯の逮捕に急ぐ傍ら、井伊の首と胴体を縫合して、「襲撃時に首を取られたのは加田九郎太」と公表したが、
犯行場所が他の藩屋敷前、かつ犯行日時が「雛の節句(雛祭り)」に合わせる形での江戸滞在藩主の一斉登城日だったせいで大名行列を見に来て事件に遭遇した目撃者が多くいて、しかも現場では雪の降りしきるなか鮮血が飛び散っていたため、大老が凶刃に斃れたというニュースは瞬く間に全国に拡散。
井伊大老暗殺事件を必死に隠し、あくまでも「大老は病臥中である」と取り繕い、大老の屋敷に御種人参を見舞いの品として贈答するほどの幕府の滑稽なまでの隠蔽工作をあざける狂歌が詠まれた。
「いい鴨を網でとらずに駕籠でとり」
「倹約で枕いらずの御病人」
「遺言は尻でなさるや御大病」
「人参で首をつげとの御沙汰かな」
そうして、桜田門外の変の後のごたごたがある程度処理された2か月後、ようやく幕府は井伊の死を公表。これとても「闘病の末病死」と死因を偽装したものであった。井伊の墓に記された命日は「萬延元年閏三月二十八日没」(1860年5月18日)とされている。
なお、井伊を襲撃した18人のうち、ほとんどが逮捕の上斬首されたか
逃げる途中に観念して切腹、あるいは傷死し、わずか2名が明治まで生存している。
桜田門外の変の現場にて直弼の護衛をしていた者のうち、
死亡者は無罪、重傷者は遠島、軽傷者は切腹の判決が下された。重傷者8名は下野国の佐野に配流され、藩邸に逃げ帰った者のうち軽傷であった5名には切腹の沙汰が下された。さらに無傷で逃走した6名には武士としての面目を保つ切腹すら許されず、斬首刑となった。
確かに彼らの中には突然のことで狼狽し、身の安全の確保のため逃亡した者もいたが、藩邸に事件発生をいち早く知らせるため現場を離れたものも少なくはなかった。
にもかかわらず、そうした「
言い訳」を彦根藩が受け入れることは一切なかった。
そうした中で、彦根藩はおとりつぶしの危機を迎えていた。直弼が自身の跡継ぎを指名せずに亡くなったためである。しかも、直弼は末期養子もとっていなかった。
これには、幾度となく幕政における修羅場を切り抜け、心理的にある種のスキができていたためであったろう。
実際、井伊は幕臣との交渉に登城する前に、必ず死を覚悟した様子で宇津木景福と「最後の対談」を交わし、そうして、邸宅に戻ると互いに無事を喜びあうのが常であった。
この後継者不在という事態は、次男・直憲を次期藩主に擁立することで一応の解決をみた。
しかし、これですべての問題が解決したわけではなかった。彦根藩の藩論は、
- 直弼の敵を討つためにすぐにでも水戸との合戦を起こそうと企てる過激派
- 将軍の沙汰が下るまでは行動を起こさない立場をとる穏健派
に割れていた。
水戸藩の上層部は「浪士共が勝手にやったことだ」と桜田門外の変への関与を否定していたが、彦根藩からすれば「殿に恨みを持つ水戸の斉昭めが浪士共を焚きつけ、いざ事が起きれば狸寝入りを決め込んだに違いないのだ」としか考えられなかった。
もし彦根藩と水戸藩が私闘を起こせば、徳川譜代と親藩が争うことで乱世の再来となり、欧米諸国がこの混乱に乗じて日本を植民地化しようとすることは容易に予想できた。
だからこそ、そういった事態は何としても避けなければならなかった。
そうして、将軍・徳川家茂が彦根藩に当てて「主君が凶刃に斃れた今、憤懣やるかたないのは痛いほどよくわかる。しかし、藩同士の私闘により我が国の治安が悪化し、欧米列強がそこに漬け込み、わが国が列強の植民地と化することは決してあってはならない」とお触れを出し、将軍の下し置かれた命に逆らうわけにもいかず、振り上げた拳を下ろすほかなかった。
この桜田門外の変からおよそ2年後の文久2年(1862年)、文久の改革を主導する松平春嶽により安政の大獄で命を落とした者たちの復権や顕彰が実行された。そうしてこの過程で幕府内での立場が逆転した南紀派には、以下の処分が下された。
- 井伊直憲(彦根藩主、直弼嫡男)→10万石減封
- 間部詮勝(越前鯖江藩主、老中)→隠居謹慎、1万石減封
- 松平宗秀(丹後宮津藩主、京都所司代)→罷免
- 石谷穆清(江戸城西丸留守居、幕臣)→罷免、隠居
- 池田頼方(寄合肝煎、幕臣)→罷免
- 久貝正典(大目付、幕臣)→免職、隠居、2000石減封
- 小笠原長常(江戸北町奉行兼政事改革御用掛、幕臣)→免職、隠居
- 長野主膳、宇津木景福(いずれも直弼の腹心)→斬首
特に、長野と宇津木は変の直後は「テロを未然に防いだ功労者」としてもてはやされたにもかかわらず、変から2年後になって安政の大獄で命を落とした者たちの復権や顕彰が実行されたことで立場が逆転した。
そして対立する岡本半介ら彦根藩内の勤皇派家臣らから「安政の大獄の先導者」という「罪人」として、また幕府の処分を回避する人身御供の意味も兼ねて掌を返されるように処断された。
しかし上にあるように彦根藩は減封となり、この処罰により彦根藩は「祖先の井伊直政以来、代々徳川家に仕えてきた我らに対してこの仕打ちとは。もう徳川将軍家を信用することはできない」と幕府に対して深い恨みを募らせていき、のちの禁門の変や天誅組の変、天狗党の乱、長州征伐でこそ幕軍についたものの、それは単なるお家取りつぶしを防ぐためにすぎず、そこに幕府への心からの忠誠はほとんど存在しなかった。
西からの敵への備えに置いた井伊彦根藩が敵を素通ししあっさり寝返ったのも、幕府に対し皮肉や当て擦りもあったのかもしれない。
そうして、大政奉還後には藩論を「薩長を支持」と改めて旧幕府軍側から新政府軍側に鞍替えし、戊辰戦争では近藤勇の捕縛に一役買った。
これにより、賞典禄2万石を朝廷から拝領している。長州はともかく、薩摩は関ヶ原や桜田門外での敵なのにと思った人は筆者だけではないはず…。
トカゲのしっぽ切りのような処断方法により200年以来の譜代大名を失い、結果として自らの首を絞めることとなろうとは、この時幕府は一切予想しえなかったのである。
また、冒頭で名を挙げた長野・宇津木の手下となって大獄の弾圧のため働いた人物の末路は、以下のとおりである。
人物名 |
末路 |
猿の文吉 |
岡田以蔵により拷問され、落命(全裸同然の姿で放置され、発見当時はまだかすかに息があったといわれる)。遺体は高札とともに晒し物にされ、横暴な借金取り立てを恨んでいた町人たちに石をさんざん投げつけられていたという |
宇郷玄蕃守重国 |
田中新兵衛ら数名により暗殺。特に宇郷の殺害事件には岡田以蔵が関与しているともいわれる |
島田左近(正辰) |
村山たか(加寿江) |
土佐藩士数名に取り押さえられ、女性ということで殺害はされず、三条河原にて腰に縄を討たれ、生き晒しにされた(その様子を伝える『たか女晒し者の図』という絵が残されている)。 しかし、母親の代わりにたかの一人息子・多田帯刀が殺害され、梟首。その後釈放され、洛外一乗寺の金福寺で出家し妙寿尼と名乗り、息子の菩提を弔って明治まで生存した |
創作での扱い
物語の開始時期がこの事件直前であり、作中では「大獄」と呼ばれている。
吉田松陰はこれにより捕らえられ、主人公達が助けに行くが、彼は「逃げれば自らの罪を認めることとなる」として処刑を受け入れることとなる。
その事もあり、基本的に柔軟な思考を持つ
坂本龍馬をしても「松陰さんを殺した」ということで首謀者の井伊直弼やそれを行った幕府に対して長い間敵愾心を持つこととなる。
だが主人公は井伊直弼とも親交を持つこともでき、彼がこれを行ったのも彼なりの正義があった為だということもわかる。
「大獄」により捕らえられた人物には楢崎将作(龍馬の後の妻である楢崎お龍の父親である)もいるが、勝海舟の依頼でコレラ対策の為に開放することとなる。
史実では彼は翌年亡くなっているが、
ゲームではやたら頑丈になっており、牢屋にぶち込まれていたのに元気だったり、江戸城無血開城後も存命だったりする。
漫画「陽だまりの樹」
作中では主人公の1人伊武谷万二郎が巻き込まれているが、その主な理由はなんと「当時井伊政権下で発効した『万延小判』に関わる不正(この前の安政小判と比較して比率が減少した金を、長野主膳らが裏で工作してこっそりとくすねていた)」を知ったため。
ちなみに史実寄りより雰囲気を重視してか江戸に長野主膳が現れるシーンがあるが、その容姿は由井正雪似であった。
周囲の助けで「病死」を装って牢から救出された万二郎は不正の証拠を見つけ井伊らを告発しようとするも苦戦し、最後にある彦根藩士を証人として捕まえようとしたせいで、その武士が同時期知った「桜田門外の変の予兆」の上への報告を知らぬ間に止めてしまう。
結果万二郎は全てが終わった後に井伊の死を知り不正告発が出来なかった無念を抱き、万二郎との戦いで深手を負った彦根藩士が主君の死を知り殉死するのを見たもう一人の主人公手塚良庵は、自分が手当したのに命を無駄にして自害した患者の遺体に憤り一喝するのだった…。
基本真面目な歴史漫画なので史実に沿って安政の大獄~桜田門外の変を描いているが、井伊・長野主従に関しては「根は悪人では無かったが、やり方を間違えてしまったのでは(意訳)」と考察されている。
一方本作はギャグ漫画でもあるので、吉田松陰がギャグ顔で関鉄之助が鉄人28号顔だったり、桜田門外の変時居合せた目撃者が大名行列
オタクだったり、井伊の死にまつわる場面でこっそり各種他作品ネタが引用されていたりした。
また『陽だまりの樹』で話題になった小判改鋳問題は「改鋳自体に裏は無かったが、事情を事前に知った井伊ら関係者がこっそりと周囲に改鋳前後をねらってのお得財テク情報を漏らすくらいは…(意訳)」とも言及された
そして初代在日アメリカ公使ハリスが帰国前に一儲けしていた。
桜田門外の変以降も度々井伊直弼を
回想シーンに登場させることがあり、その時に必ず1回は首だけの状態で登場する。
木村敬蔵が書面で「徳川の天下これきりになるべし」と堂々と啖呵を切った逸話も紹介されている。
ギャグありシリアスありの本作だが、実は作中のモデルとなった時代設定がちょうどこのあたり。
ペリー率いる外国艦隊は本作では「天人(宇宙人)」となっており、本事件も
「寛政の大獄」として登場する。
主人公の
坂田銀時にとっては、師である
吉田松陽を失った、ターニングポイントとなる事件でもある。
なお、寛政も実在する元号なのでうっかり間違えないように。
実際、作者の元には
「日本史のテストで『寛政の大獄』って書いてバツされちまったよ、どうしてくれるんだ」という
かなり無理筋なクレームが来たんだそうな。
漫画「ちょー!えど幕末伝」
江戸幕府の鎖国状態が平成まで続いてしまった日本を舞台に、史実の幕末
と似たような騒動が次々と起きる4コマギャグ作品。
本作では
平成の大獄は「
建設中の塔の命名に纏わる井伊大老の職権乱用に反発した者が次々と投獄された事件」という事になっており、桜田門外で井伊大老の籠
と間違えられた上さま宛の荷物を配達中の籠が襲撃されるなど、全体的にほのぼのとしたアレンジが加えられている本作では珍しい
ガチの殺人事件に発展しかけた大炎上案件として描かれている。
アーケードカードゲーム「英傑大戦」
第1弾のキャンペーンカードとして「井伊直弼」が追加され、その武将の計略名として「安政の大獄」が採用されている。
特筆するべきは井伊直弼のカードイラストで、「井伊の赤鬼」の名に相応しい赤鬼の鎧……と言うより、赤鬼そのままの見た目をしており、
教科書でしか知らないユーザには「暗殺できそうにない井伊直弼」「レイドボス」などと言われ、衝撃を与えた。
それから数バージョン経った第3弾で、暗殺の実行隊長である「関鉄之介」も追加。(計略名は当然「桜田門外の変」)
こちらのカードイラストはサイボーグか人型
ロボットのような見た目であり、「こいつなら暗殺できそう」と納得されている。
追記・修正お願いします。
- 彦根は佐久間象山が暗殺された際の斬奸状で会津と組んで孝明天皇を彦根に受け入れる準備をしていたと書かれていたね。それでも第二次長州征伐には幕府軍の先鋒を務めて、汚名返上を試みて失敗。この時、幕府や庶民から敗北ぶりを笑われて幕府への愛着が薄れた。慶應3年(1867)8〜9月の長州毛利家による『諸家評論』という動向調査では、会津や桑名の同類と見做されていた。鳥羽伏見の戦い前に幕府と薩長で決議を決めたら、薩長が大半だったと聞いた事があるけど。 -- 名無しさん (2024-08-24 15:04:43)
- 桜田門外の変の時の元号は万延ではなく安政です。安政7年3月3日(1860年3月24日)に桜田門外の変で井伊直弼が暗殺される(この時点では表向きは「直弼は襲撃により負傷したため療養中」)。安政7年3月18日(1860年4月8日)に安政から万延へ改元。万延元年閏3月28日(1860年5月18日)が表向きの直弼の死没日(豪徳寺の直弼の墓碑にもこの日付が刻まれている)。万延2年2月19日(1861年3月29日)に万延から文久に改元。 -- 名無しさん (2024-09-10 01:51:23)
- 獄中で自害した近藤正慎は俳優の近藤正臣の曽祖父。その自害のしかた(舌を噛み切って牢の柱にヘッドバッドした)にちなんだ「舌切り茶屋」というのが現存する。 -- 名無しさん (2024-09-10 08:55:05)
- 徳川一族は崇徳上皇の祟りにでもあったのかというくらい、武将たちとの合戦よりもこういう志士とか一揆勢とかとの戦いばかり経験させられてて気の毒すぎる… -- 名無しさん (2025-04-19 19:32:16)
最終更新:2025年04月21日 14:01