新選組

登録日:2011/12/14 Wed 20:59:48
更新日:2025/04/02 Wed 12:45:15
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一、士道ニ背ク間敷事

『新選組局中法度』*1より抜粋

概略

新選組とは、江戸時代末期から明治初頭にかけて、京都の治安を維持するため設立された警察・軍事組織にして、日本で最も有名な剣客集団と言っても過言ではないだろう。

江戸で募集され、京都に派遣された浪士組から独立した壬生浪士組が、京都の治安維持組織として会津公に召し抱えられたのが始まり。

局中法度

反幕府勢力(主に薩長土)が主な取り締まり対象だったが、攘夷浪士だけでなく、「局中法度」と呼ばれる鉄の掟によって隊内の人間も厳しく律されていた。

・「一度入隊した奴は辞めようとしたり脱走したら切腹」
・「隊内の人間と喧嘩したら切腹」
・「みだりに商人などに金を要求したら切腹」
・「敵と戦って背中に傷を負ったら切腹」
・「敵から逃げても切腹」

……法度の内容を要約すれば大体こんな感じだが、よーするに「士道に背いたら切腹」と覚えておこう。パワハラが優しく思えてきちゃう……。
ただし、中には除隊を認められた者や一度脱退した後復帰した者もいるし、その他にも意外と緩かったという記録も多い。
ただでさえ人手不足なので、戦力低下を恐れてそうそう処罰もできなかったとか。これらの事情から、「局中法度」は小説家・子母澤寛の創作であると断言する意見もそれなりにある。
とはいえ実際に苛烈な内部抗争を経ていることなどから、形式上は緩くすることは不可能だったと言えるだろう。

活動内容

幕末の英雄坂本龍馬などと並び、新選組も歴史ファンの間では人気が高い。
ちなみに新選組が最初に闘ったのは、意外かもしれないが浪士とかではなく我儘放題をしていた力士たちで、理由は彼らを懲らしめるためだった。
力士達は自慢の怪力で八角棒を唸りを上げて振り回したらしく、後述の沖田などは意外に鋭いその攻撃で怪我をしてもいる。
勿論、最終的には実践術に勝る新選組の敵ではなく、何人か斬り倒され、詫びを入れる羽目になったが。

主な任務は、前述の通り京都にいる反幕府勢力、所謂「尊王攘夷」を掲げ、倒幕運動を行う志士の取り締まりで、思想警察や秘密警察としての側面もあったと言える。
元々いた京都奉行所や、後で江戸から派遣されてきた「京都見廻組」(御家人を中心にした治安維持組織)との兼ね合いから、京都の中でも主に祇園など繁華街の見回りに回されていたという。
平時に行われる見廻りの最小単位は隊士5人に1人の伍長*2で6人。
これを2つ合わせて12人に1名の長を置く。
12人に長を加えれば13人となり、これが基本的に隊と呼ばれた単位で1番〜10番まてある。
例)
一番隊組長→伍長2人→隊士10人。
主力の10隊と別に「諸士取扱兼監察」という役職が有り、山崎烝、篠原泰之進、新井忠雄、服部武雄、芦屋昇、吉村貫一郎、緒方俊太郎が属した。
密偵、内部調査を主にした。
勘定掛として河合耆三郎。
パトロン探しが主な仕事。
個人の能力を高める為に、専門分野の指導体制があった。
剣術:沖田、永倉、吉村らで稽古は流派が雑多だったので竹刀打ち込み稽古に限られていた。
それでも怪我人が絶えないと近所で評判だった。
柔術:篠原、松原らでこちらも稽古は組手に限られていた。
文学:伊東、武田、緒方ら。
馬術:安富才助
砲術:阿部十郎。
槍術:谷ら

入隊資格は年齢や身分による制限はなく、実技試験もなく、尽忠報国の志がある健康な者であれば入隊できた。

入隊後一定期間は「仮同志」という試用期間となっており、先輩隊士が夜に押し込むなどして度胸が試され、このときに臆病なふるまいをした者は追放されたという。



鳥羽・伏見の戦い以前の死亡者は45人、うち戦いで死亡したのは6人。他はほとんどが内部抗争で死んだか内規違反で切腹。
商人から莫大な借金をしていながら返済していなかったり、屯所としていた寺院内で豚と鶏を飼い肉を食したりする*3等、風紀があまり良いとは言えなかったから。
さらに、上述のように内部抗争での死者が多かったことから、素行の悪い武装集団と見られ、活動していた幕末と解散直後の明治時代初めは、(敵対していた薩長が政権を取ったこともあって)京都の住人からの評判は良くなかった。近藤勇は割と物わかりの良い人格者として描かれることはあったが、沖田総司や土方歳三などは、粗暴な殺戮マシーンであるかのような評価がなされていたのである。
しかし、新選組を題材にした講談などが広まったことで、大正時代ごろからは一転して庶民から高い人気を誇るようになった。
その人気の秘訣は、その圧倒的な強さと、強烈な個性を持った隊士たちの存在が大きい。

徳川慶喜による大政奉還以降も旧幕府軍として新政府軍と戦ったが、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が破れ、新政府軍が勢いに乗ったことも受けて脱退者が続出。
それでも残った新選組隊士たちは、一時「甲陽鎮撫隊」として新政府軍と戦うも戦況は好転せず、方針の違いから永倉新八や原田左之助といった実力者とも袂を分かち、その後すぐに局長の近藤勇が新政府軍に捕らわれて処刑された。
生き残った副長の土方歳三に率いられた新選組は、旧幕府勢力と合流して会津や箱館で戦うが、その土方が箱館戦争で戦死すると、新政府軍に降伏。
これをもって、新選組は歴史の表舞台から退場することとなった……。

装備

なお、「剣客集団」というイメージもあってずっと刀で戦っていたと誤解されがちだが、鳥羽・伏見の戦い以前から鉄砲隊・砲兵を用意し、敵が使ってきた場合の対策も講じるなど、所謂近代的な戦い方も行っており、その鳥羽・伏見の戦いで、西洋の近代戦術や鉄砲・大砲を用いる新政府軍に敗れてからは、時代の変化を痛感した土方により、西洋式の戦術や兵器を用いるようになり、土方は和装から洋装に服装も変更している。
その土方の指揮によって旧幕府勢力が新政府軍に(局地的ではあるが)勝利した事例もあり、剣術以外でも戦闘技術は高かったと思われる。
兄弟分の新徴組が西洋の近代戦術に適応したのと比較すると、後手に回った感じは否めない。
ただ、とにかく脱走続きで人手不足で、なかなか苦しかったという記録も有る。

ちなみに、新選組の装束と言えば浅葱色(薄い藍色)のだんだら(白い山形模様)羽織というイメージが強い。
だが、史実でも確かに用いられたものの、その使用期間は短く、池田屋事件の時が最後とされている(概ね一年間ほど)。
隊士から「派手過ぎる」「素材が安っぽい」「土埃が付きやすい」と不評で元から着用者が少なく、それも徐々に減っていったのが原因だとか。現代的に分かりやすく例えるなら、警官隊が暴走族の特効服を着て取り締まりを行っている、というような絵面を想像してもらえばそのちぐはぐさが分かるだろうか。
以降は黒い装束を纏って活動しており、当時の京都では現代と違って「新選組と言えば黒装束」というイメージだった様子。
色合い的にヒロイックで印象に残りやすいためか、創作物では概ね新選組隊士はだんだら羽織を纏っているが、
大島渚の映画『御法度』や『壬生義士伝』、みなもと太郎によるエッセー風漫画『雑談新選組』など史実通りの黒装束を羽織った新選組隊士が登場する作品もそれなりにある。近年では岡田准一主演の『燃えよ剣』が記憶に新しく、『銀魂』の真選組も(やや西洋寄りのデザインとはいえ)ある意味では史実準拠と言える。
2024年発売のゲーム『Rise of the Ronin』では黒・紺のだんだら羽織を基調としつつ、アクセントで帯やインナーに浅葱色が使われているという、史実と新選組らしさをミックスした衣装となっている。
なお、初期の新選組の装束がだんだら羽織だったのは、だんだら羽織を纏って討ち入り事件を起こした「赤穂浪士組」に近藤勇が憧れていたかららしい。しかし、その赤穂浪士がだんだらを着ていたというのも歌舞伎や芝居の演出で、実際の討ち入りでは黒い小袖を着ていたらしく、奇しくも新撰組に通じるものがある。

なおこういった統一性のある衣装を日本で最初に着用した集団が新選組という説があり、そういう意味では制服の走りであるとも言える。
これ以前は基本的に戦場ではちょっとした目印をつけて敵味方を判別していたが、それでも同士討ちが多発していた。
人の少ない新選組にとってそれはより死活問題であり、何なら目立つ服を着ようということになったのである。

余談

余談だが、組織全体の名前が『新選“組”』なのに組を纏めていた近藤・芹沢らの肩書きが“局”長だったり、
新選組の◯番“隊”を仕切る沖田らの肩書きが“組”長だったりすることに違和感を持つ人もいると思うが、
これは、新撰組の◯長という呼び名はそのまとまりを取りまとめる人間をざっくりと指すものに過ぎず、
「新選“組”全体の“長”だから組長」とか「〇番“隊”の“長”だから隊長」とかの整合性を考慮せずに付けたため。
これに関しては、同時代の組織では新選組がとりわけ適当であったというわけでなく、
現代の警察や軍隊のようにきっちりと職名や階級を明確にするべきという意識が当時は薄かったという時代背景も影響している。

隊士名簿



新選組が関わった事件


文久政変

「八月十八日の政変」とも呼ばれる。
三条実美らを擁して、日本を破約攘夷論、即時攘夷へと導いていた長州毛利家の独走を止めるべく、孝明天皇、中川宮から薩摩島津家と陸奥会津松平家に依頼。
御所の公卿は中川宮や島津家が根回しし、会津が御所警備の諸大名に根回しし軍を投入、長州毛利家と三条らを閉め出した。
三条らが長州に落ち延びるのを「七卿落ち」と呼ぶ。
新選組はこれが公式戦デビューである。
文久政変の後、文久3年(1863)11月15日、孝明天皇からお気に入りNo.1として寵愛していた島津久光に手紙で徳川体制の存続を会津松平家と共に頼むと依頼されたが、久光が会津は幕府の犬ですよね*21、と言って断ったので、孝明天皇が久光を見限り、会津に徳川体制の存続を依頼、会津側が一会桑権力という形で引き受け、当主•松平容保は孝明天皇のお気に入りNo.1に輝いた。
新選組も孝明天皇の刃として、孝明天皇の御心に背く逆賊を討つべく、刃を奮った。
孝明天皇が後醍醐天皇ポジ、松平容保が楠木正成ポジ、新選組は逃若党ポジである。

池田屋事変

「池田屋の変」「池田屋事件」とも呼ばれる。
「池田屋事件」とこの後の「禁門の変」は「攘夷」が意味を持った争いだった。
といっても、新選組も攘夷志士も実は考え方は似ていて同士討ちなので、新選組名物内ゲバと言えるかも知れない。
どちらも挙国一致で攘夷をするのは同じなのだが、幕府主導の挙国一致か天皇主導の挙国一致かの差である。
ただ、孝明天皇は大政奉還、王政復古を否定して、幕府主導の挙国一致体制による攘夷にこだわりがあり、それが攘夷志士には気に入らない。
孝明天皇本人ではなく、取り巻きの中川宮や松平容保が吹き込んでいるに違いないと信じて、京都を焼き討ちし、その隙に孝明天皇を拉致して中川宮や松平容保を暗殺する算段を京都「池田屋」で会談しようとした攘夷志士達を一網打尽にした*22、新選組史上で最も有名な事件。
宮部鼎蔵、吉田稔麿*23など、それなりに有力な志士がこの事件で討たれ、新選組の名を世に知らしめた。
桂小五郎も参加する予定だったが、直前に脱出している。
勝海舟の弟子で元土佐勤王党の北添佶磨、望月亀弥太もこの会合に参加して死亡*24。勝海舟は日記で池田屋事件で北添、望月を死なせた新選組に憤る。

ちなみに多くの作品では「この時沖田が胸を病み吐血」とされてきたが、近年では「ここで発病していると鳥羽・伏見の戦いで既に死んでいる可能性が高い」とする説が有力となり、『風光る』や『龍馬伝』では龍馬が暗殺された近江屋事件直前に発病したことになっている。


油小路の変

新選組名物内ゲバの一つ。
慶応3年(1867)3月10日、新選組参謀•伊東甲子太郎が仲間を引き連れて離脱、「高台寺党(御陵衛士)」を名乗る。
伊東が孝明天皇の御所に砲弾をぶち込んだ長州毛利家に対して寛大な処分を主張する建白書を提出したり、大政奉還後に王政復古を実現しようと暗躍した事が、長州厳罰論、大政奉還反対を説く近藤勇を激怒させ、伊東の殺害を決意。
同年11月18日に伊東を呼び出して殺害、油小路七条の辻に伊東の遺骸を放置し、その周りに50人の隊士を伏せ、遺体を引き取りにきた同志をまとめて粛清しようとした。
同日深夜から高台寺党7人が遺体を引き取りに来ると、乱戦になり、翌日深夜3時過ぎまで行われ、3人が死亡、4人が逃亡した。
その後、同年12月18日、高台寺党の生き残りが伏見街道の民家に伏せ、二条城からの帰りの近藤勇を狙撃、右肩に重傷を負わせた。
新選組は政治的交渉が出来る近藤が使えなくなり、単なる剣客集団になってしまった。


天満屋事件

慶応3年(1867)12月7日、京都油小路花屋町の旅宿•天満屋で起きた襲撃事件。
慶応3年(1867)4月23日、土佐浪人•坂本龍馬が主催する海援隊所有の蒸気船•伊呂波丸と紀州徳川家所有の蒸気船•明光丸との衝突事故で伊呂波丸が沈没、最終的に紀州徳川家が海援隊に賠償金を支払った。
その時の紀州徳川家側の担当が公用人の三浦休太郎(みうらきゅうたろう)でその事を恨んで坂本龍馬を殺したと、海援隊の生き残りは判断し、仇討ちとばかりに10人以上を集めて天満屋に殴り込みに行った。
紀州徳川家から新選組に依頼があり、三浦の護衛に斎藤一ら7人を派遣した。
三浦に浅い怪我はあったが大事に至らず、新選組側、海援隊側、双方に死傷者が出た。
事件は一日で終わり、それ以降は無かった。
なお、三浦はその後名を「三浦安」と改め、新政府に出仕し、大蔵省官吏、元老院議官、貴族院議員、東京府知事を務めた。

鳥羽・伏見の戦い

慶應4年(1868)1月3日に鳥羽街道と伏見の市街地ほかで行われた戦い。
鳥羽街道方面は、武器の差より指揮官の差が如実に表れた戦いだった。
伏見の市街地は新選組が駐屯する伏見奉行所を警戒する薩摩島津家と長州毛利家の洋式軍隊が東と北から布陣して睨みを効かせていた為に、その甲斐あって京都への最短ルートである竹田街道がガラ空きだった。
会津武士の一団が竹田街道を進んだか、この方面の徳川陸軍の総司令官•竹中重固(たけなかしげかた)は会津武士を呼び戻した。
開戦後、新選組は睨みを効かせている敵陣に攻撃を仕掛けたが損害が多かった。
竹中が新選組を囮に使い、会津武士に竹田街道を進ませれば、勝てたかも、であるが、残念ながら竹中にそれだけの知謀は無かった。
徳川方の下手な戦いぶりを見て諸大名も保身に入る裏切りなどもあって井上源三郎、山崎烝などの隊士が戦死した。
この戦いの後他の徳川軍と共に江戸へと戻り、「甲陽鎮撫隊」で巻き返しを図るも失敗。永倉、原田の相次ぐ脱退など、新選組は崩壊への道を緩やかに、着実に歩んでゆく事になる… 
それでも、人数は定期的に補充していたが…



追記・修正は局中法度に則ってお願いします。

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最終更新:2025年04月02日 12:45

*1 ちなみに「局中法度」という名称は小説家・子母沢寛の創作。永倉新八によると実際は「禁令」と呼ばれていた模様。

*2 指揮官

*3 仏教にも色々宗派があり、その寺院の宗派的には肉食OKだったが、あまり肉食が浸透していなかった当時、周囲からの視線は冷たかった。ただ、これはかつて隊内に病気が蔓延し隊員の気力が低下した際、医者に「清潔にすること」「肉食をして英気を養う事」と意見されたのを取り入れた為と言われている。

*4 「天狗党の乱」は芹沢の死後に起こっているが、前身にあたる過激派の「玉造勢」に在籍していた

*5 長州毛利家に門人の多かった神道無念流の免許皆伝。水戸徳川家の攘夷派として長州毛利家とコネがある。水戸徳川家は有栖川宮親王家と血縁関係で宮中にコネがある等

*6 日付に関しては18日説と16日説がある。古くは18日とされていたが、近年の研究では16日説が優勢。

*7 後に天狗党の乱で孫の金次郎を除いて一家郎党諸共斬首

*8 水木しげるの「星をつかみそこねる男」では「きねたろう」のルビが振られている

*9 当時は読みが同じであれば漢字にはこだわらなかった。新選組の選の字も、「選」と「撰」が当時から混用されていた。

*10 大政奉還後に記した伊東の建白書に朝廷が『大開国大強国』『日本全国皆兵』の国是(国の方針)を打ち出し、朝廷が近畿地方を直接統治して金と兵隊を手にして権力の土台にして、全国の大名家に「富国強兵」を号令する。現実の公卿は役に立たないので伊東の「御陵衛士」や在野の志士を朝廷の人材として登用しましょうと提案している

*11 諸説あり

*12 作家の司馬遼太郎氏は、新選組の取材をした際に実際に幼少期に沖田と遊んでもらったという老婆と話をしている。

*13 ただし、被写体の姓名は今もなお不明

*14 但し永倉は江戸の松前藩邸で代々勤務していた家の出身で、明治になるまで松前に行ったことが無かった。

*15 一時期、二番隊組長を外され、伊東甲子太郎が務めていた

*16 馬越三郎というイケメンの隊士にやたらと声をかけまくってストーカーじみた行動をとっており、それを不快に思った馬越が「武田さんが新選組を脱退しようとしています」と近藤・土方にチクったことが、武田の死の原因となったとされる

*17 勝海舟の妹・順子が父の妻であるが、啓之助は佐久間とその前妻の子で、順子との血縁関係はない

*18 箱館ではなく真逆の方角の銚子まで戦い、そこで降伏した

*19 定敬の先代•定猷(さだみち)が安政6年(1859)に亡くなった際、万之助という子供はいたが、3歳の幼少であり、定敬が''つなぎ‘‘の殿様として家督を相続し、万之助は定敬の養子となった。

*20 上述の酒井孫八郎が迎えに行き、横浜を経て上海へ渡り、外国亡命を計画したが資金不足で断念。同年5月18日には横浜へ戻り降伏。万之助に家督を譲り、東京で謹慎する

*21 因みに江戸の幕臣達から会津は島津の仲間と思われていた。要は島津からも幕府からも信用がないのである。

*22 実は結構逃げられてるが

*23 松下村塾の塾生。久坂・高杉と並んで松下村塾の英才として松蔭から高く評価されていた。同門の品川弥次郎は生きていたら総理大臣になったと語り、近藤勇もその最期を見事だと讃えている

*24 二人とも、逃げられないと悟り自刃している