・近藤勇 (1834年~1868年)
元江戸小石川の道場「試衛館」の館長で、天然理心流四代目当主にして新選組局長。
創作でよく見られる「今宵の虎徹は血に飢えている」という台詞は近藤の言葉で、自身が所有する「虎徹」を自慢する手紙も遺っている。しかし当時の「虎徹」こと「長曽祢虎徹」が打った刀はかなり高価かつ貴重で、大名さえおいそれと持てるものではなかった。まして、剣の腕が立つとはいえそのような高い身分の出ではない近藤が所有できた可能性は低いと言え、現存していないが彼の持っていたものは贋作と推測されている。
明るく豪胆な性格であったとされ、後述の永倉、斉藤、原田らにお調子者であると指摘されている。
また故郷に妻と娘がいながら、京で愛人を持ちもした(当時の性風俗的にはありっぽかったらしいが)。
調子に乗るだけの努力を積み重ねたのも事実で、仕事の合間に勉学や礼儀作法を学び、中川宮や松本良順から評価されている。
部下の稗田利八は絶頂期の近藤を評して「どうみても大名だなぁ」と洩らしている。
ちなみに相当大口だったらしく、自分の拳を口の中にすっぽり入れることができたらしい。
冗談を言い合う雰囲気の時には、よく余興でそれを見せて隊員を笑わせていたとか。
大抵の人はアゴが外れると思うので、真似はしないように。危険だぞ。
史実では、甲陽鎮撫隊の失敗後流山出兵を敢行するも、官軍に咎められ素性を隠し出頭。
しかし、御陵衛士の生き残りである加納鳶雄や、かねてより坂本龍馬と中岡慎太郎の暗殺を新選組による犯行とみなしていた水戸藩士で、当時東山道軍総督府大軍監を務めていた香川敬蔵らに正体を見破られ、板橋で斬首された。
・芹沢鴨(1827年?~1863年)
筆頭局長。
前半生に関してはよく分かっていないが、元水戸天狗党出身。
神道無念流の免許皆伝。
当時、水戸天狗党と長州攘夷派との間に協調関係があり、京都守護職を務める会津松平家は芹沢の経歴に目をつけ、長州や水戸の攘夷派と折衝して情報を集めて欲しいという意図から、芹沢を長として新撰組が生まれた。
近藤に続き「局長」が二人もいるが、立場的にリーダーだったのは芹沢。近藤が新選組のトップに立ったのは芹沢の死後のことである。
文久3年9月(1863年10月)、八木邸にて数人の男による夜襲を受け暗殺される。
当時の公的には下手人不明とされたが、土方を筆頭とした試衛館組によって殺されたという説が有力。
……というか、後年に永倉が自著にて土方らが決行した旨をぶっちゃけており、他隊士や暗殺に居合わせた人物などからも(挙げられている実行メンバーの違いはあれど)土方らが暗殺したという旨の証言が残されている。
理由としては八月十八日の政変により長州攘夷派とその取り巻きの公家たちが追放され利用価値が激減したため会津松平家から逮捕ないし暗殺を指示されたとも、酒乱の気や商人の土蔵に大砲をぶち込むなどの粗暴な振る舞い、近藤派隊士との不和などから来る内部分裂の結果とも言われるが、定かではない。
その最期からあまり人柄は良くなかったと思われがちだが、あまり細かいことは気にしない豪胆な性格であったと思われる逸話や、
借り物の火鉢を返す段階になって小さな刀傷が見つかり、犯人は誰だとなった時に「俺だ」と照れて
逃げるなど、親しみやすさを感じる話、
屯所として世話になっていた家の子供に面白おかしい絵を描いてやったり、世話になった大名家の娘が夭折した際には近藤らとその葬式を手伝ったりと、子供好きらしかったことを示す話もあり、
確かに酒乱だったり乱暴者という一面もあったりしたと思われるが、決して悪人ではなかったことを示す人物評も散見される。
・土方歳三 (1835年~1869年)
ご存知、泣く子も黙る鬼の副長。試衛館出身。近藤勇とは幼馴染の親友で、創作ではしばしば近藤から「トシ」または「トシさん」という愛称で呼ばれる。
土方の姉・のぶが、天然理心流の道場を持つ日野宿名主・佐藤彦五郎の妻となったのを機に姉夫妻の紹介で近藤と知り合い、それ以来意気投合して義兄弟となった。
局中法度の制定や芹沢暗殺などに関わり、新撰組のブレーンとして活躍。
創作では些細な事から粛清しまくっている印象があるが、実際には隊士がフル○ンで雑魚寝するのを何度も注意するも改められないなど苦労していたらしい。
また、平時は割と気さくで優しかったといい、「鬼の副長」として有名であるが、決して厳しいだけの人物ではなかった様子。
彦五郎から剣の他に俳句も教わり、豊玉の名で句を残しているが出来はお察しください。
道場剣術では最弱とも言われるが、我流に近い剣の為、実戦では強かった模様。
鳥羽・伏見後は西洋軍学を更に学び、元老中の小笠原長行から軍事的なことを諮問されたり、榎本武揚から奥羽越列藩同盟の総司令官に推薦されたり、戦術家として円熟を迎え、箱館戦争では手腕をいかんなく発揮し、土方が直接指揮をとった隊は負け知らずであったとか。
会津など各地を転戦した後、箱館五稜郭の戦いで馬上、流れ弾を浴びて死亡。
実は味方から疎まれ暗殺されたという説もあるが、この頃の土方は「鬼の副長」どころか非常に部下想いの上司であり、母のように慕われていたという。
なので、もし暗殺説が本当なら、早期に講和をしたがっていた(そして土方を邪魔だと思っていた)五稜郭側の幹部の誰かが内通者だとかに実行させた……ということなのだろう。
新撰組隊士の中では珍しく写真が残っており、当時海外では最先端だった総髪(
オールバック)に洋式の軍服を身に着けており、
現代から見ても大変男前。実際女性からかなりモテていたらしい。ちなみに函館市の五稜郭タワーには、その姿のブロンズ像が展示されている。
また、「軍議の際に部屋に入ってくると清らかな風が吹いてくるような、そんな爽やかな男だった」と榎本武揚が書き記した書額も遺されている。
「実は吸血鬼となって現代まで生き延びており、現在は漫画家になっている」という噂もあるが、都市伝説の域を出ない。
なお、余談だが2022年年始早々、NHKが年始の番組編成で放送した『青天を衝け 総集編』『土方のスマホ』『幕末相棒伝』『新撰組!! 再放送』の4番組で
“土方歳三が討ち死にする場面”が流れ、
『年が明けて4日で4回土方歳三が死んだ』 と指摘される
というのが一時期話題になった。
・新見錦 (1836年~1863年)
副長(三番目の局長説あり)で芹沢の腹心。同じく土方らの策により殺害される。
新撰組の内部粛清第一号のような扱いを受ける事が多いものの、実際にどのような経緯で切腹に追い込まれたのかは不明。
というか、いつから芹沢と行動を共にしていたのかなど、浪士組設立前の動向も殆んど判っていない。実名すら不明である。
・山南敬助 (1833年~1865年)
副長→総長。
名字には諸説あり、「やまなみ」なのか「さんなん」なのかハッキリしていない。
北辰一刀流の使い手だが近藤に敗れ試衛館に出入りするようになる。
学問の師範を担当するなど文武両道だったが、怒らせると危険なタイプだったという説も……。
創作では土方と仲が悪かったせいで(山南は土方を嫌っていたが、土方は嫌っていなかったいう説も)干された可哀相な人。
しかし、土方自身が山南のことを歌ったのではと考えられる歌もあり仲が良かったという説もある。
後に脱走を図るが、沖田によって連れ戻され切腹。脱走の理由は諸説あるが尊皇攘夷の志を捨て、孝明天皇や徳川幕府の爪牙となって長州征伐にこだわる近藤への失望があったと言われる。
隊士たちからは慕われており、連れ戻されてからも永倉たちから再度脱走するように勧められたというが、既に覚悟を決めていたため、粛々と切腹に赴いた。
池田屋事件の直前から病に犯されていたか、負傷で刀を振るえなくなっており、組織の変貌を止められず傍観する事しかできない境遇を儚んで自殺したとも、それを後から記録上切腹という扱いにしたという説もある。
連れ戻した沖田とも仲が良かったようで、切腹の際の介錯には山南自ら沖田を希望。その潔い最期は近藤から「浅野内匠頭もここまでではあるまい」と称賛された。
大河ドラマ『
新選組!』で一気に知名度が増した。
創作物ではインテリ系のキャラを強調するためか眼鏡を掛けている事が多い。
・伊東甲子太郎 (1835年~1867年)
参謀。
神道無念流の免許皆伝で北辰一刀流の道場を経営していた。
学問もできた人物で水戸徳川家の家老・武田耕雲斎と親交があった。
そして容姿端麗に加えて性格も後述の創作で描かれる人物像とは程遠い平和的で温厚な人物であり隊士達からも信頼は厚かったという。
実は後述の永倉新八が近藤勇の振る舞いが許せないと、斎藤一らと糾弾した際、永倉が懲罰人事で外されて、その代わりに二番隊組長を務めていた。元治元年末の話である。
名前は「きねたろう」と読むのではないか?とも言われていたが、樫太郎と書かれた史料が見つかったため、「かしたろう」で確定した。
同門の藤堂の誘いで入隊するが、彼の思想は王政復古。
後に「御陵衛士」という別働隊扱いで新選組から分離しようとするも失敗。
最終的には油小路の変で惨殺された上、新選組は彼の遺体を敢えて目立つところに放置し、回収しようとする彼の同志を誘い出して粛清したという。
同じ攘夷寄りの思想で近藤らと対立した山南や藤堂と比べると創作上での扱いが悪く、試衛館メンバーの仲を引き裂き、ひいては新撰組崩壊を招いた元凶として描かれる事が多い。
とはいえ自分なりの青写真を持ち政治的に振舞いながら、何も無い処から徳川幕府や新選組を踏み台にして有力大名家を渡り歩いて出し抜き、『王政復古』を実現しようする辺り、『攘夷』から『王政復古』に看板を変えた清河八郎みたいな感じとも言える。
・沖田総司 (1844年?~1868年)
一番隊組長。試衛館組。組長としては最年少だがその強さは新選組随一と称される。
一説によると、常人の一突きの呼吸で三段突く「三段突き」を得意としていたのだとか。
新選組指折りの実力者として活動したが、肺結核を患い、志半ばで離脱(一説には甲陽鎮撫隊期までとも)。
以降は病気療養を続け、近藤勇が処刑された後、若くしてこの世を去った。近藤の死は本人には知らされなかったとされる。
敵対者には容赦がなく、新選組と敵対した人物には、岡田以蔵などの人斬りと並ぶ冷酷無情な殺人道具扱いされているが、
平時はいつも冗談を言っては笑うような、人当たりのよい好人物で、屯所の近くに住む子供たちとよく遊んでいたという。
一方で、剣術の稽古では声を荒げるほど厳しい指導で知られたといい、敵対者に容赦がないところも含め、剣を握ると性格が切り替わる、二面性のある人物だったと思われる。
「不治の病に冒された薄幸の天才剣士」という属性から二次創作では非常に人気が高い。
またその多くで中性的な美少年、土方とは兄弟のように仲が良いように描かれるが、
これらはそのほとんどが
司馬遼太郎が打ち出したイメージによる影響が今日まで及んでいる結果である。
頓所として間借りしていた八木家の証言によると「長身、猫背、色黒、ヒラメ顔」だったそうな。
土方との仲についても諸説あり、そこまで仲が良かったのかは意見が分かれる。
しかし彼の子孫には「色の白い、小さい男だった」と伝わっているらしく、前述の内容を否定している。まあ言ってしまえば、特に
イケメンでもブサメンでもなかったようだ。
ただ、女に結構もてていたのは事実らしい。本人も家族にあてた手紙の中で「もててもててしょうがありません(意訳)」などと惚気ている。
ちなみに、総司によく似ている親族を元に書いた肖像画も残っている。一時期、沖田の写真ではないか?とされた青年の写真が話題になったが、被写体は沖田ではないことが判明しており、また悪質なものには、明治初期の若い火消しの写真の顔部分を切り抜き、コラージュ写真にしたものがある。
愛刀は諸説あり、比較的有力視されているのは「大和守安定」&「加州清光」だが(『刀剣乱舞』等)、
他には「菊一文字(則宗)」(司馬遼太郎作品)、「山城守藤原国清」(『風光る』)を差していたとする作品もある。
ただ、菊一文字は当時でも大名クラスですら持てない名刀中の名刀であり、一隊士である沖田が持っていたとは考えにくく、まず創作と思われている。
なお義兄(姉の夫で沖田家当主)沖田林太郎は
新徴組に所属していた。
・永倉新八 (1839年~1915年)
二番隊組長。蝦夷松前藩に仕える旗本の出身で、神道無念流の使い手。剣術を極めようと脱藩し、試衛館では食客として迎えられていた。
竹刀剣術なら永倉が一番と近藤は太鼓判を押しており、道場破りなら大抵は永倉を出せば勝てるが、永倉が留守だったり、永倉でも負けた場合、永倉の同門で練兵館の渡辺昇を呼んで対応させていた。
沖田、斎藤と並ぶ最強格で、池田屋には近藤と共に斬り込み、沖田・藤堂が戦線を離脱した後も二人で戦い続けていたという。その一方で次第に尊大になっていく局長に不満を抱き、会津藩に建白書を提出した事もあった。潜在的なわだかまりはその後も残り続け、甲陽鎮撫隊の敗戦後に近藤との対立が決定的になった事で離脱したとされる。
その後は独自に同志を募って抵抗を続けたものの、やがてそれも限界を迎えて松前藩に復帰した。藩医の婿養子となり
北海道に移住、剣術家「杉村義衛」として後半生を過ごした。
新選組自体を嫌いになったわけではなかったようで、明治期に新選組時代の事を書に綴った(新聞記者との共作状態だったらしく、おかしい部分も多々あるが)。一度は紛失してしまったものの、後に発見されて正式に書籍として発行されるに至った。
朝敵の悪党扱いだった新選組が日の当たる場所に出てきたのはこの人のおかげであり、ある意味では新選組の最大の功労者。
晩年は孫と一緒に活動写真(※現在で言う「映画」のこと)を観に行くのが楽しみであったという。
ちょんまげに刀を差していたお侍さんが映画館通いとは、この時代の変動激しすぎである。
因みに、日露戦争では抜刀隊に志願するも高齢を理由に断られたが、「元新撰組の手を借りたとあっちゃあ、薩長の面目も丸つぶれか」と笑い飛ばした。
大正時代に虫歯から併発した敗血症を患い逝去。享年76歳。
脱退しながら非業の最後を遂げなかった(粛清されず、戦死もしなかった)数少ない上位幹部の一人。
・斎藤一 (1844年~1915年)
三番隊組長。
名前の通り「るろうに剣心」に登場する「牙突」でおなじみの斎藤一のモデルとなった人物。
一般的には試衛館組とされているが、結成時メンバーより少し後に新選組に加入していたりする等どの時点から仲間となったかは不明。
伊東率いる御陵衛士にも一時参加しており(間者説が有力)、そのせいか新選組復帰前後に「山口二郎」(名字は本来のものらしい)と改名した。
新選組の中では数少ない、明治まで生きた人物の一人。
後に藤田五郎と名を変え、警視庁抜刀隊の一員として西南戦争で活躍。
警視庁退職後は現在の国立科学博物館の守衛長や東京女子高等師範学校の庶務・会計係などを務めた。
大正時代(永倉死去の8か月後)に胃潰瘍のため死去。床の間で結跏趺坐を組みながら亡くなったとされる。
永倉とは異なり、新撰組時代の事は殆んど語ろうとしなかったという。その一方で共に戦った旧会津藩士たちとは交友関係を続けていたため、最初から新撰組ではなく会津への忠誠心で動いていたとか、藩から送られた監視役だったのではないかという説もある。
沖田総司の項目で書かれている通り、諸説ある沖田の生年が一番
若いと仮定しても沖田と斎藤は同い年、
もちろんそれでなければ沖田の方が年上になるのだが創作(特に実写作品)では斎藤の方が年増に描かれる事が多い。
「
左利き」として描かれるが、これを証明する史料は無い。子母沢寛がキャラを立たせる為に加えた設定である。
この人も沖田と並び程美化が激しいことで有名(『風光る』等例外もあるが)。長男の顔を元に描かれた肖像画を見ると驚くことになる。
『
るろうに剣心』の作者である和月伸宏は斎藤を悪人面にしたために新選組ファンから批判を受けたと語っており、
「写真一つ残ってない(後述)のに、何故か美形と思われている」
「斎藤を美形と思いたいのなら肖像画は見ない方がいい」
と言っていた。
創作では渡辺多恵子の『風光る』の「刀に詳しいムッツリ系」、浅田次郎作品での「ニヒリスト」等作者ごとにキャラが異なっている。
しかし2016年になって晩年(50代半ば頃)に写真が撮影されていたことが判明。
結果、件の肖像画は比較的よく特徴を捉えてはいるものの、本人はそれよりも目付きが鋭くかなり精悍な印象の顔立ちで、美形設定は近からずとも遠からずといった所であった事も明らかになった。また、最晩年の写真(親族との集合写真)も発見されているが、こちらはかなり後ろに写っていることやカメラマンの腕もあるのか、かなりぼやけてしまっているが、かろうじて八の字ひげを生やしていることがわかる。
・松原忠司 (1835年?~1865年)
四番隊組長。坊主頭の柔術使いで大薙刀を武器にしていたため今弁慶とあだ名が付いた。山南と並んで温厚な性格だったらしい。
隊長となってすぐに病死したと記録されている。その直前に何らかの理由で切腹を図るが失敗し、その傷が悪化したという話もあるなど不可解な点が多い。
自身が殺した浪士の妻女を囲っていた事を咎められ、その責任を感じて心中したという話「壬生心中」も知られるがこれは創作だと言われている。
・武田観柳斎 (?~1867年)
五番隊組長。甲州流軍学を修め、作戦の立案や隊士の調練を担う軍師ないしは軍事顧問のような立場だったという。近藤の出張や政治的な交渉事の多くに同行している。
時勢が佐幕不利になる頃に新撰組を脱退し(正式な除隊だったとされる)、その直後に暗殺されている。その最期から新選組の内部情報を土産に攘夷側(薩摩)に寝返ろうとしたと言われている。元々攘夷論者だった事や組織体制が西洋化した事で発言力が弱まった事も影響したらしい。
殆んどの創作ではずる賢く陰険な性格に描かれ、試衛館組と比べると扱いがかなり悪い。
当時では男色は珍しくなかったのに、ホモのおべっか使いとされた上、目立つエピソードがなくフォローもされにくい、中々可哀想な人。
実際、恩着せがましく面倒を見た者に多額の返礼を要求していた他、歩兵たちにネチネチと人格否定&嫌味を言い続けて悔し泣きさせていたという証言もあり、人格に多少の難があったと思われる。
ただ、池田屋事件の際は現場で指揮を執り、上階から飛び降りて逃げようとした敵を自分も跳躍して空中で斬り伏せる芸当を見せたという話もあるから幹部に相応しい剣の実力はあったと思われる。
また、脱退自体も近藤に願い出て許可された「円満除隊」で、理由も最新の研究では自身の軍学が否定されたからではなく、対長州の強硬すぎる姿勢が新選組の支持者の1人ながら長州への寛典論を唱えていた若年寄の永井尚志に疎まれ、近藤を困惑させてしまったせいであるという。殺害した人物も不明で、創作ではしばしば斎藤一が実行したとされるが、実際のところ斎藤は
スパイとして御陵衛士にもぐりこんでおり、状況的に武田の殺害は無理だとする意見も出ている。むしろ土佐藩士で池田屋事件の怨恨を強く持つ人物であったという説もある。
山南と同じく眼鏡を掛けている事が多い。
・井上源三郎 (1829年~1868年)
六番隊組長。試衛館組では最年長で、近藤の兄弟子。
組織の事務方や会議などの運営を多く担当していたという。後に鳥羽・伏見の戦で戦死する。
無口かつ頑固な性格だったらしく、創作でも沖田や土方から一歩下がった目立たない位置にいる事が多いものの、彼ら主役勢から兄貴分として広く慕われていたとか。
また年長とは言っても他の幹部とは5~10歳程度しか離れていないが、創作ではそれ以上の老齢に描かれる事がある。
・谷三十郎 (1832年?~1866年)
七番隊組長。兄弟3人で新選組隊士となっており、末弟の周平が近藤の養子となった。元は備中松山藩の旗本で、そのコネを近藤が欲したとする説がある。
宝蔵院流槍術の使い手で入隊前に大阪で開いていた道場では原田や島田も一時期門下生だったが、実際は記録違いで次弟の万太郎の方が槍使いだったとも。
大阪方面での任務に活躍しているが、京都・八坂神社の石段下にて死体となって発見された。詳細は不明で、内部粛清による暗殺説が囁かれる一方、単に深酒で卒中を起こした説も。
創作では横柄さを強調され、近藤の親戚という立場を傘に着て実力以上に威張る小者という描かれ方が定番化しており、武田と並んで扱いが悪い。
実際、「新撰組は見かけ倒しの芋百姓のそろい踏みばかりだ」という傲慢さを匂わせる発言は残っている。
隊士の介錯に失敗して無用に苦しませる醜態を晒し評判を落としたという逸話もあるが、時系列が矛盾している事から創作であると考えられている。
幹部になるだけの実力はあったのだろうが、他にも池田屋では上階から飛び降りてきた敵を槍で串刺しにしたが下敷きになったと言われ、締まりの無いエピソードばかりが目立つ。
・藤堂平助 (1844年~1867年)
八番隊組長。伊東甲子太郎の同門だったが後に試衛館の食客となり、共に上京して結成に携わった。
幹部の中では斎藤と並ぶ最年少。
見廻りや戦いの際は最前線に立ち、真っ先に敵中に斬り込んで行く事から「先駆け先生」と呼ばれたとか。池田屋には近藤・沖田・永倉と共に斬り込み、額に深手を負っている。
しかし伊東の加入後はその支持者となり、共に新選組を離脱。
油小路の変で死んだ伊東の遺体を引き取ろうとしたところを永倉らに襲撃され死亡。
一説に近藤が「藤堂は殺したくない」と永倉にぼやき、永倉も仲の良かった藤堂を殺したくなかったので逃がそうとしたが、事情を知らぬ平隊士に斬られ死亡したとされる。
創作によって立場がまちまちで、試衛館の仲間と恩師との狭間で苦悩する姿が描かれる事もあれば、最初から最期まで伊東派で近藤を亡きものにして首をすげ替えようと考えてる事もある。
・鈴木三樹三郎 (1837年~1919年)
九番隊組長。伊東の実弟。
参謀に着いてた兄貴の権力を傘に調子に乗ってたボンクラ…というのが定番のキャラ付け。
その根拠になったのは、当時の記録を総合すると「九番隊組長に任命された翌月に降格された」ということになる、というものだが、
最近の研究ではどうやら「九番隊組長になったという記録そのものが誤記録だった」らしい。
実際、この「九番隊組長速攻降格事件」の翌年の記録では八番隊組長になっていたりする。
油小路を生き延び、鳥羽・伏見の戦い前生き残った仲間の篠原泰之進(1828-1911)が近藤の肩を狙撃し重傷を負わせた(鈴木も参加していたかは作品によって異なる)。
赤報隊にも所属していたが、赤報隊本体が官軍によって粛清されたため連座しかけたりもした。
後に
山形県の郡長や鶴岡警察署長、
福島県の学務課長を勤めた後、明治18年(1885年)退官。
余生を養鶏や盆栽いじりで過ごし、大正8年(1919)83歳で死去。
永倉・斎藤(と後に昇格した尾形)以外では唯一の生き残り幹部だが上記の通り形ばかりの事で、本人的にはむしろ新撰組時代は無かった事にしたい
黒歴史と言える。
・原田左之助 (1840年~1868年?)
「切腹も出来ない臆病者」と罵られた際に、いきなりその場で切腹した豪胆な漢。
切腹した後にちゃんと治療され一命を取り留めた後、酔った際には着物を脱いで傷痕を見せながら「俺の腹はただの腹じゃねえ。御覧の通り金物の味を知ってるんだ」と切腹したときの話を自慢していたとか。
伊予出身であったとされ、坂本龍馬暗殺の際には中岡の「賊は新選組」「刺客が伊予弁で『コナクソ』と叫んだ」という証言から、原田が疑われる原因となっている。
盟友の永倉と共に隊を離脱後、端兵隊を結成したがそこも離脱し(妻子の元に戻ろうとしたと言われている)、彰義隊に入隊し戦死。
一部では大陸に渡って馬賊になったという
生存説も流れた。しかも、とある新聞社が馬賊の老人に「新選組の原田左之助さんですか?」と質問したところ否定も肯定もせず「自分は維新の折に人として恥ずかしいことをしたから、馬賊となって少しでも国に報いたい」と回答したと伝わる。
・島田魁 (1828年~1900年)
監察兼伍長。永倉と親交があって入隊した。実は井上よりも歳上である。
相撲取りばりの巨漢(戊辰戦争時の写真と、晩年に永倉と撮影した写真が残っており、そこから体格が推し量れる)で怪力の持ち主である一方、情報収集能力に秀でた。
鳥羽・伏見の戦いで撤退する際、鎖帷子フル装備の永倉を素手で土塁の上に引っ張りあげたという逸話がある。
永倉が離脱した後も組に残留し、壬生浪士組時代から箱館まで戦い抜いた。
釈放後は京都で剣術道場の他、商売も行うが思うように行かず難儀なセカンドライフだった様子。
それでもプライドがあったのか、後に太政官で要職に就いていた榎本武揚の宿に招かれた事もあったが、要件があるなら向こうから来るのが礼儀だろう!と拒んでいる。
後世に新選組のことを伝えるため『島田魁日記』などの記録を残した。
1886年から西本願寺の夜間警備員となり、1900年に勤務中に倒れて亡くなるまで続けた。
・尾関雅次郎 (1844年~1892年)
監察。行軍の際は旗役。兄の弥四郎も新選組隊士。
壬生浪士組時代から箱館まで戦い抜き生き残った。
戊辰戦争後は、故郷の奈良県高取に戻り、結婚、三男二女の父として過ごす。
・山崎烝 (1833年?~1868年)
監察。池田屋事変など重大事件の要所で活躍。
医学の知識を活かして軽い治療も担当するなど、近藤・土方の信頼も厚かったデキる男。
鳥羽・伏見の戦いで傷を負い、江戸に向かう船の中で死去。
それまでの功績を労い、亡骸は水葬にされ、丁重に葬られたとされるが、水葬説には「永倉や島田の手記で触れられていない」という矛盾があるという。
創作では密偵や斥候としての活躍に定評がある。
・尾形俊太郎 (1839年~1913年)
監察兼文学師範。
最初期に入隊して以降、政治関係の役職を多数歴任しており、武田観柳斎亡き後は五番隊組長も勤めた。
剣士としての華々しい活躍が無いため極めてマイナーな人物だが山南や伊東は勿論、武田にも引けを取らない隠れたインテリ系実力者とでも言うべき存在で、彼ら幹部クラスが相次いで死んでゆく中期以降、その空席を
埋めるように副長助勤となり組織の中核を担った。もっと評価されるべき枠の人である。
斎藤と共に会津に残留した所で記録から消えており、長年消息不明だった(
「戊辰戦争で戦死した」という説すら流れていた)が、2013年に見つかった新史料で敗戦後は故郷熊本に帰り余生を過ごし、大正元年まで生きていた事が明らかになった。但し負傷の影響で晩年は殆ど失明状態だったとか。
・吉村貫一郎 (1840年?~1868年?)
監察。
奥州出身の北辰一刀流剣士で、各種資料から南部藩を脱藩して鳥羽・伏見の戦いで死んだ「嘉村権太郎」の偽名説が有力視されている。
…とリアル史料から読み取れるのはこれくらいだったのだが、子母澤寛が著書にて「鳥羽・伏見で旧南部藩邸まで逃げるも、元主家から罵られ切腹」という証言と、
「家族を養うため脱藩してまで出稼ぎに出、それゆえに仕事先の新選組が幕府に取り立てられたとき感極まった」という話を追加。
そして子母澤本を基に水木しげるが『幕末の親父』・浅田次郎が『壬生義士伝』を書いたことで有名になった。
・大石鍬次郎 (1838年~1870年)
監察。池田屋事件の直後に入隊した。試衛館組ではないが天然理心流の同門であった事から優遇されたという。
伊東甲子太郎暗殺の実行メンバーで、他にも暗殺任務を多く担当した事から「人斬り鍬次郎」の異名が付いた。
甲府での敗退直後に組を脱走したが坂本龍馬暗殺の嫌疑で捕縛、伊東暗殺が立件され斬首となった。
幹部以外の隊士の中では特に汚れ役なイメージが付いて回る人物。実際に粛清を主導した有名幹部たちが悲劇のヒーローとして語られているのに比べるとその血生臭さが例外とも言える程際立っており、武田や伊東のような政治思想で対立した悪役ともまた違った意味で存在感を放つ。
ある意味、人斬り集団という戦前以来の新撰組のイメージをそのまま一身に引き継いでいると言える。
・三浦啓之助 (1848年~77年)
「父佐久間象山の仇を討つ」というカッコいい目的で義叔父・勝海舟のコネを使って新選組入りしながら、ポンコツ過ぎて脱走。
しかしちゃっかり生き延びた残念な若手隊士。その最期もなんともまあ残念なものであったという。
詳細は項目参照。
・市村鉄之助 (1854~1873or77年?)
油小路事件直前に兄辰之助と共に新選組に加入し、箱館戦争まで土方に付き添い彼の死を遺族に伝えた隊士。
その後についてはよく分からず、「先に逃げていた兄と故郷大垣で再会し、兄の死後すぐ病死した」という説が有力視されているが(後に兄の子孫によって市村家の墓が建てられた)、
「西南戦争で西郷軍兵士として死んだ」と言う説に物語性があるためか、創作では『燃えよ剣』(但し政府軍側)・『一刀斎夢録』(西郷軍側)で採用されている。
また黒乃奈々絵の『新撰組異聞 PEACE MAKER』・『PEACE MAKER 鐵』では主人公となっているが、入隊時期が池田屋事件前に大きく前倒しされている。
・田村銀之助 (1856~1924年)
鳥羽・伏見の戦い前後に兄二人と共に新選組に志願するも、一人だけその幼さから「両長召抱人」として他の少年たちと共に土方の小姓として箱館戦争まで参加し明治後も生き延びた少年。
他の箱館組に比べると地味だったが、2010年代に入ってから漫画『PEACE MAKER 鐵』(蝦夷地渡航直前)・『風光る』(鳥羽・伏見の戦い直前)に登場している。
・池田七三郎 (1849~1938年)
市村とほぼ同時期に新選組に加入し、顔半分を損なうような大怪我をしながら辛くも生き延び、昭和時代まで生きて「最後の新選組」として名を残した隊員。
・相馬主計 (1843年?~没年不詳)
新選組最後の隊長。
元々は幕府陸軍の隊員だったが「第二次長州征伐」の後新選組に移籍し、鳥羽・伏見、勝沼の戦いに参戦。
流山で近藤が投降した際は助命を求めるが敵に捕まる。
釈放後、春日左衛門指揮の陸軍隊に幹部として迎えられ、奥羽戦争に参戦。
仙台で徳川脱走艦隊に合流。土方らに再会して蝦夷へ渡り、箱館戦争では宮古湾海戦に参戦するも負傷、弁天台場攻防戦で降伏。
敗戦処理のため、箱館奉行・永井尚志から隊長に任命される。
戦後、投獄の後、新島へ流罪となるも釈放。
維新後は豊岡県(現在の京都・兵庫)で官吏となったが免官され、東京に戻る。
しかし東京に戻った後謎の切腹を遂げる。妻に「他言無用」と言い残したとされ、当然遺書すら残っておらず、詳細については不明となっている。
が、近年、回想録や老け顔でザンバラ白髪の画像(肖像画?)が見つかり、明治30年頃まで生存していたと言われる様になった。
・中沢琴(1839年?~1927年)
世にも珍しい女性隊士。
上野の国で剣術道場を営む家の生まれで薙刀の達人。身長170㎝と当時の女性は勿論、男性基準でもかなりの長身だったとか。
新選組の前身である「浪士組」に参加するため男装して兄と共に入隊した。
その後は江戸に戻り新徴組の一員として市中の見回りや、倒幕派との戦いに参加し、戊辰戦争で敵に囲まれた際は、敵兵を切り捨て囲みを突破したという武勇伝を残している。
「自分より強い男と結婚する」という志を持っていたが、結局現れなかったらしく、生涯独身であった。
・原五郎妹女
同じく新選組の女性隊士。
一応実在していたとされている中沢琴と違って新選組の研究者の間でも謎とされている女性。
新選組隊士だった中島登が維新後に描いた絵巻物に戦う姿が描かれているだけで、当時十七歳で会津藩出身らしいという事以外分かっていない。
「妹女」という呼び名から原五郎という隊士の妹だという説や、上記の中沢琴と同一人物ではないかという説、会津で共に戦った女性兵士を形式上加えただけで正式な隊士ではないという説もある。
・三好胖 (1852~1868年)
新選組の隊士の中では珍しく大名家の嫡男出身。
本名は小笠原胖之助。
肥前唐津小笠原家の十代目当主・小笠原長泰と側室・浜との間に四男として江戸の屋敷(外桜田上屋敷、本郷弓町中屋敷、深川高橋下屋敷かは不詳)に生まれる。
万が一の跡継ぎとして、または何処の大名家に養子に出してもいいように、儒学・剣術・槍術・馬術を学び、馬術は免許皆伝を授かった。
義理の兄で老中を務める小笠原長行の計らいでお供として伴い、京都や大坂で政治の表舞台を知った。
戊辰戦争で義兄の長行は最終的に奥羽越列藩同盟に参加するが、この人は小笠原家を出奔して徳川宗家の処分に反発する「彰義隊」に参加。
敗れて潜伏した後、榎本武揚が指揮する徳川脱走艦隊に身を投じ、同船していた輪王寺宮(彰義隊が擁立していた盟主。後に奥羽越列藩同盟の盟主になる)の護衛を兼ねて会津若松に向かう。
会津戦争にも参戦したが、猪苗代の戦いで敗れて仙台に敗走。
仙台で再び、徳川脱走艦隊に身を投じて蝦夷地に向かう。
この時、新選組も会津戦争で人数が激減しており、人数を補充するため、他家出身の家臣団を参加させることにした。
三好胖と名前を改めて入隊するのはこの時である。
蝦夷地に上陸した後、五稜郭にいる太政官の軍隊と交戦になり、1868年10月24日戦死。
戦死した時の服装はフランス式の軍服に革の長靴だった。
・阿部十郎(1837年~1907年)
「局ヲ脱スルヲ許サズ」を謳う新選組を二回も脱走した脱走のプロ。
その後、御陵衛士、赤報隊と所属組織を転々とし、後年は北海道でリンゴ栽培を営んだ。
・久米部正親(1841〜1910年)
伊東甲子太郎 、
近藤芳助、
安富才助と同じ元治元年(1864年)に新選組に入隊。
大坂町奉行付の与力の子として生まれる。
詳細は
該当項目にて
・高木貞作(1848〜1933)
箱館で参加した新選組隊士。
伊勢国桑名城下に桑名松平家の家臣・高木家の子に生まれる。
通称は
剛次郎、諱は
貞廉。
幕末期の桑名松平家は京都所司代を務め、当主の
松平定敬は兄で京都守護職を務める会津松平家当主・
松平容保とともに孝明天皇の正義を政治に反映させる為、禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮の
一橋慶喜と共に一会桑政権として公武合体派の有力大名家として君臨した。
高木は京都時代、定敬の御小姓役で三人扶持として勤務。
鳥羽伏見の戦いで徳川方が敗れると、徳川宗家から退去勧告を受け、船で飛び地の越後柏崎に赴いた。
国許桑名は評定で決まらず「くじ引き」で進退を決めたら、徹底抗戦と出たのだが、重臣の
酒井孫八郎が定敬は必ず徹底抗戦するから、国許は降伏して徹底抗戦派が帰って来た時の受け皿になった方が御家断絶のリスクを回避出来ると判断して降伏。
定敬が勝てばそのまま、負けたら定敬を廃嫡して万之助を当主に据えて御家存続を交渉する姿勢を取った。
柏崎で恭順を説く家老・
吉村権左衛門を
山脇隼太郎と一緒に暗殺。
定敬からの密命という。
二人は柏崎を出で会津松平家に亡命しようとしたが、定敬の密命を会津側は知らず、二人は殺人犯として入国を拒否。
徳川脱走陸軍・
衝鋒隊を指揮する
古屋佐久左衛門に保護され入隊。
高木は
高橋一、山脇は
大河内太郎と変名した。
越後で戦う内に、江戸屋敷から出奔して徳川脱走陸軍と一緒に戦ってきた桑名軍が合流したので、桑名軍に復帰、北越戦争を戦う。
北越戦争で敗れると会津に赴くが、定敬は既に会津から仙台、蝦夷地へ旅立った後。
高木達は会津〜福島〜寒河江と転戦し、庄内酒井家で降伏した。
翌年、降伏した桑名軍を国許に帰す話が出ると、上層部からの密命で山脇と二人で蝦夷地にいる定敬に使者として派遣された。
二人は断髪して僧侶に変装、高木は
成徳、山脇は
成光と名乗り、途中、怪しまれない様にかな付きの阿弥陀経を持ち歩き、練習した。
旅の最初の方で仕草が坊主らしくないね、と旅の僧侶に指摘され、注意点も教えて貰った。
仙台で箱館行きの船を待つと、近いうちに箱館に行く船が来るというので、それに便乗、箱館に辿り着くと定敬は既にアメリカ船で箱館を出たという話。
蝦夷地を支配する榎本軍から桑名軍にいた人達は全員新選組に参加しているけど、戦う?と聞かれて
「たたかうます」
と二人は即答、新選組に参加した。
明治2年(1869)5月18日に蝦夷地の榎本軍は降伏。
高木、山脇ら新選組は箱館の称名寺、青森の薬王院で謹慎、そこから東京に移送され芝増上寺で謹慎した。
謹慎が解けた後、二人は横浜からアメリカに旅立った。
吉村殺しの追求から避ける為だとか。
高木は大蔵省留学生としてサンフランシスコで税関業務を学んだ。
仇討ち禁止令が出で明治8年(1875)に帰国。
後に文部大臣を務める
森有礼と一緒に一橋大学の前身・商法講習所の開設に参加し、開設後は助教授として教壇に立ち、商業簿記を教えた。
実業家として活躍し、昭和8年(1933)1月14日、東京の自宅で86歳で死去。
参加した期間は2ヶ月程度なんですけどね
余談だか、箱館から新選組に参加した桑名の人達は、土方歳三と一緒に戦えた事を負け戦ながらも誇りにしていた。
彼らの大半は明治10年(1877)の西南戦争にも徴募巡査軍として従軍したが、殆どの人は後味が悪いと称していた。
土方は指揮官として兵のモチベーションを保つのが上手いというのだろうか。
・近藤芳助(1843~1922年)
久米部正親や
伊東甲子太郎 と同じ頃に新選組に入隊。
旧姓は川村で幕臣の家に生まれ、幕臣の近藤家に養子入りして近藤姓を名乗る。
近藤勇と同姓、しかも天然理心流に弟子入り、家はご近所さまと近藤勇の親戚フラグを建てまくっているが、実は赤の他人。
新選組の募集に応じたのも、遊廓に入り浸り、養子先を勘当され金が無く、住まいも無くなり、
物乞いでは生活出来ないからと
食うために応募、入隊したという人である。
詳細は
該当項目で。
・安富才助(1839~1873年)
久米部正親や
伊東甲子太郎 、
近藤芳助と同じ頃に新選組に入隊。
備中国足守の出身。
戊辰戦争後に
阿部十郎に斬り殺されたと言う説が有力だったが、近年、地元で墓が見つかり、病死というのが判明した。
詳細は
該当項目にて
・蟻通勘吾(1839~1869年)
讃岐国高松(現在の香川県高松市)出身の新選組隊士。
壬生浪士組(新選組の前身)に入隊し、八月十八日の政変に出動した古参隊士である。
しかし、彼の特徴は壬生浪士組から新選組に至るまで平隊士の地位に留まり続けた稀有な人物という処にある。
詳細は
該当項目にて
・斎藤一諾斎(1813~1874年)
勝沼の戦いの直前に甲州に進軍した
甲陽鎮撫隊に入隊。
斎藤一とは赤の他人である。
詳細は
該当項目にて
・浅野藤太郎(生年不詳~1867年)
医者が本業であり、学才文才があったとされる。
諸士調役兼監察を務めるなど仕事も出来た人だったが…
詳細は
該当項目にて