新選組

登録日:2011/12/14(水) 20:59:48
更新日:2020/05/14 Thu 13:22:43
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新選組とは、江戸時代末期から明治初頭にかけて、京都の治安を維持するため設立された警察・軍事組織である。

日本で最も有名な剣客集団と言っても過言ではないだろう。
江戸で募集され京都に派遣された浪士組から独立した壬生浪士組が、京都の治安維持組織として会津公に召し抱えられたのが新撰組である。
反幕府勢力(主に薩長土)が主な取り締まり対象であり、攘夷浪士だけでなく、「局中法度」と呼ばれる鉄の掟によって隊内の人間も厳しく律されていた。

・「一度入隊した奴は辞めようとしたり脱走したら切腹」
・「隊内の人間と喧嘩したら切腹」
・「みだりに商人などに金を要求したら切腹」
・「敵と戦って背中に傷を負ったら切腹」
・「↑逃げても切腹」

…法度の内容を要約すれば大体こんな感じだが、よーするに「士道に背いたら切腹」と覚えておこう。
ただし、中には除隊を認められた者や一度脱退した後復帰した者もいる。
その他にも意外と緩かったという記録も多い。ただでさえ人手不足なので、戦力低下を恐れてそうそう処罰もできなかったとか・・・。
ちなみに「局中法度」という名称は小説家子母沢寛の創作。永倉新八によると「禁令」と呼ばれていた模様。

幕末の英雄坂本龍馬などと並び、新選組も歴史ファンの間では人気が高い。
ちなみに新選組という組織が最初に闘った相手は、意外かも知れないが「我儘放題をしていた力士を懲らしめるため」だったりする。
力士達は自慢の怪力で八角棒を唸りを上げて振り回したらしく、後述の沖田などは意外に鋭いその攻撃で怪我をしていたりもする。
勿論、最終的には実践術に勝る新選組の敵ではなく、何人か斬り倒され、詫びを入れる羽目になったのだが。

また元々いた京都奉行所や、後で江戸から派遣されてきた「京都見廻組」(正規旗本・御家人出身者からなる実働部隊)との兼ね合いから、主に祇園など繁華街の見回りに回されていたという。

鳥羽・伏見の戦い以前の死亡者は45人、うち戦いで死亡したのは6人。他はほとんどが内部抗争で死んだか内規違反で切腹。
商人からの借金は莫大な額、かつ結局返済していない、
屯所にしていた寺院内で豚と鶏を飼い、肉食する(宗派的には肉食OKとはいえ・・・但し、これはかつて隊内に病気が蔓延し隊員の気力が低下した際、医者に「清潔にすること」「肉食をして英気を養う事」と意見されたのを取り入れた為と言われている)
など、捉え方によってはDQNのろくでなし集団なのだが、人気は非常に高い。
やはり特筆すべきはその圧倒的な強さと、強烈な個性を持った隊士達の存在が大きい。


鳥羽伏見の戦い以降、一時「甲陽鎮撫隊」と名乗って活動した事がある。

誤解されがちだが、鳥羽伏見の戦い以前から鉄砲隊・砲兵を用意し、
敵が使ってきた場合の対策も講じるなど剣のみの集団ではなかった模様。
しかし、とにかく脱走続きで人手不足であり、なかなか苦しかったという記録も有る。


・隊士名簿・



  • 近藤勇(こんどういさみ) 1834年~1868年
元江戸小石川の道場「試衛館」の館長で、天然理心流四代目当主にして新選組局長。
創作でよく見られる「今宵の虎撤は血に飢えている」という台詞は彼の言葉。
後述の永倉、斉藤、原田らにお調子者であると指摘されている。また故郷に妻と娘がいながら、京で愛人を持ったりした(当時の性風俗的にはありっぽかったらしいが)。
もっとも調子に乗るだけの努力を積み重ねたのも事実であり、仕事の合間に勉学や礼儀作法を学び、中川宮や松本良順から評価されている。
部下の稗田利八は絶頂期の近藤を評して「どうみても大名だなぁ」と洩らしている。
ちなみに相当大口だったらしく、自分の拳を口の中にすっぽり入れることができたらしい。冗談を言い合う雰囲気の時には、よく余興でそれを見せて隊員を笑わせていたとか。
大抵の人はアゴが外れると思うので、実際やってみないように。危険だぞ。
甲陽鎮撫隊の失敗後流山出兵を敢行するも、官軍に咎められ素性を隠し出頭。御陵衛士の生き残り加納鳶雄らに正体を見破られ、板橋で斬首された。


  • 芹沢鴨(せりざわかも) 1827年?~1863年
筆頭局長。元水戸天狗党という説あり*1。神道無念流の免許皆伝。
当時、水戸天狗党と長州攘夷派との間には協調関係があり、
京都守護職を務める会津松平家は芹沢の経歴に目をつけ、長州や水戸の攘夷派と折衝して情報を集めて欲しいという意図から、芹沢を長として新撰組が生まれた。
八月十八日の政変により長州攘夷派とその取り巻きの公家たちが追放され利用価値が激減したため、
表向きは酒乱の気があり、商人の土蔵に大砲をぶち込むなどそのフリーダム過ぎる振る舞いに問題あり、ということで、
会津松平家とその指示を受けた土方を筆頭とした試衛館組の策略によって謀殺された。
また、屯所として世話になっていた家の子供に面白おかしい絵を描いてあげるなどのエピソードも有る。 


  • 土方歳三(ひじかたとしぞう) 1835年~1869年
ご存知、泣く子も黙る鬼の副長。一方で普段はわりと優しく、気さくな人だったとか。
試衛館出身。土方の姉・のぶが天然理心流の道場を持つ日野宿名主・佐藤彦五郎の妻で夫妻の紹介で近藤と知り合い、それ以来意気投合、義兄弟。
局中法度の制定や芹沢暗殺などに関わり、新撰組のブレーンとして活躍。
創作では些細な事から粛清しまくってる印象があるが、実際には隊士がフル○ンで雑魚寝するのを何度も注意するも改められないなど苦労していたらしい。
彦五郎から剣の他に俳句も教わり、豊玉の名で句を残しているが出来はお察しください
道場剣術では最弱とも言われるが、我流に近い剣の為、実戦では強かった模様。
鳥羽・伏見後は西洋軍学を更に学び、榎本武揚から奥羽越列藩同盟の総司令官に推薦されたり、
元老中の小笠原長行から軍事的なことを諮問されたりと戦術家して円熟を迎え、箱館戦争では戦術家としてその手腕をいかんなく発揮し、土方が直接指揮をとった隊は負け知らずであったとか。
会津など各地を転戦した後、函館五稜郭の戦いで馬上、流れ弾を浴びて死亡。実は味方から疎まれ暗殺されたという説もある。
新撰組隊士の中では珍しく写真が残っており、当時海外では最先端だった総髪(オールバック)に洋式の軍服を身に付けたかなりの男前。実際女性からかなりモテていたらしい。
「実は吸血鬼となって現代まで生き延びており、現在は漫画家になっている」という噂もあるが、都市伝説の域を出ない。


  • 新見錦(にいみにしき) 1836年~1863年
副長(三番目の局長説あり)で芹沢の腹心。同じく土方らの策により殺害。


  • 山南敬助(やまなみけいすけ) 1833年~1865年
副長→総長。「さんなん」と読む場合も。
北辰一刀流の使い手だが近藤に敗れ試衛館に出入りするようになる。
学問の師範を担当するなど文武両道だったが、怒らせると危険なタイプだったという説も有る。
創作では土方と仲が悪かったせいで(山南は土方を嫌っていたが、土方は嫌っていなかったいう説も)干された可哀相な人。
しかし、土方自身が山南のことを歌ったのではと考えられる歌もあり仲が良かったという説もある。
後に脱走を図るが、沖田によって連れ戻され切腹。
(脱走劇には尊皇攘夷の志を捨て、孝明天皇や徳川幕府の爪牙となって長州征伐にこだわる近藤への絶望があったとか)
大河ドラマ新選組!で一気に知名度が増した。


  • 伊東甲子太郎(いとうかしたろう) 1835年~1867年
参謀。山南の上位互換種。神道無念流の免許皆伝で北辰一刀流の道場を経営していた。
学問もできた人物で水戸徳川家の家老・武田耕雲斎(後に天狗党の乱で一家郎党諸共斬首)と親交があった。
名前は「きねたろう」と読むのではないか?とも言われていたが、樫太郎と書かれた史料が見つかったため*2、「かしたろう」で確定した。
同門の藤堂の誘いで入隊するが、彼の思想は佐幕ではなく王政復古であった為、後に「御陵衛士」という別働隊扱いで新選組から分離しようとするも失敗。
最終的には油小路の変で惨殺された。


  • 沖田総司(おきたそうじ) 1844年?~1868年
一番隊組長。試衛館組。
組長としては最年少*3だがその強さは・・。一説によると、常人の一突きの呼吸で三段突く「三段突き」を得意としていたのだとか。
肺結核を患い、志半ばで離脱(一説には甲陽鎮撫隊期までとも)。
亡くなったのは近藤勇処刑より後だが、本人にはそのことが知らされなかったとされる。
二次創作では中性的な美少年として描かれるが、頓所として間借りしていた八木家の証言によると「長身、猫背、色黒、ヒラメ顔」だったそうな。
しかし彼の子孫には「色の白い、小さい男だった」と伝わっているらしく、前述の内容を否定している。
ただ、女に結構もてていたのは事実らしい。本人も家族にあてた手紙の中で「もててもててしょうがありません(意訳)」などと惚気ている。
ちなみに、総司によく似ている親族を元に書いた肖像画も残っている。
愛刀は諸説あり、比較的有力視されているのは「大和守安定」&「加州清光」だが(『刀剣乱舞』等)、他には「菊一文字(則宗)」(司馬遼太郎作品)、「山城守藤原国清」(『風光る』)を差していたとする作品もある。
なお義兄(姉の夫で沖田家当主)沖田林太郎は新徴組に所属していた。


  • 永倉新八(ながくらしんぱち) 1839年~1915年
二番隊組長。神道無念流の使い手で、試衛館では食客として迎えられていた。
沖田、斎藤と並ぶ新撰組最強格だったが、甲陽鎮撫隊の敗戦後は近藤と折り合いが悪くなり離脱したとされる。脱退しながら非業の最後を遂げなかった(粛清されず、戦死もしなかった)数少ない上位幹部の一人。
戦後はつてを頼って元所属先だった松前藩*4藩医の婿養子となり北海道に移住、剣術家「杉村義衛」として後半生を過ごした。
新選組自体を嫌いになったわけではなかったようで、明治期に新選組時代の事を書に綴った(新聞記者との共作状態だったらしく、おかしい部分も多々あるが)。
朝敵の悪党扱いだった新選組が日の当たる場所に出てきたのはこの人のおかげ。ある意味では新選組の最大の功労者。
大正時代に虫歯から併発した敗血症を患い逝去。
晩年は孫と一緒に活動写真を観に行くのが楽しみであったという。ちょんまげに刀を差していたお侍さんが映画館通いとは、この時代の変動激しすぎである。
因みに、日露戦争では抜刀隊に志願するも高齢を理由に断られたが、「元新撰組の手を借りたとあっちゃあ、薩長の面目も丸つぶれか」と笑い飛ばした。


  • 斎藤一(さいとうはじめ) 1844年~1915年
三番隊組長。一般的には試衛館組とされているが、結成時メンバーより少し後に新選組加入していたりする等どの時点から仲間となったかは不明。
伊東率いる御陵衛士にも一時参加しており(間者説が有力)、そのせいか新選組復帰前後に「山口二郎」(名字は本来のものらしい)と改名した。近藤亡き後、箱館(函館)に転戦する土方と別れ会津に残留する。
新選組の中では数少ない明治までの生き残り。後に藤田五郎と名を変え、警視庁に入り西南戦争で活躍。
警視庁退職後は現在の国立科学博物館の守衛長や東京女子高等師範学校の庶務・会計係などを務めた。
大正時代(永倉死去の8か月後)に胃潰瘍のため死去。なお、床の間で結跏趺坐を組みながら亡くなったとされる。
「左利き」として描かれるが、これを証明する史料は無い。子母沢寛がキャラを立たせる為に加えた設定である。
この人も沖田と並び程美化が激しいことで有名(『風光る』等例外もあるが)。
長男の顔を元に描かれた肖像画を見ると驚くことになる。
あの『るろうに剣心』の作者である和月伸宏は斎藤を悪人面にしたために新選組ファンから批判を受けたと語っており、
「写真一つ残ってない(後述)のに、何故か美形と思われている」「斎藤を美形と思いたいのなら肖像画は見ない方がいい」と言っていた。
創作では渡辺多恵子の『風光る』の「刀に詳しいムッツリ系」、浅田次郎作品での「ニヒリスト」等作者ごとにキャラが異なっている。

しかし2016年になって晩年に写真が撮影されていたことが判明。
目付きが鋭く男前で、肖像画と似てなくはないが、肖像画よりもカッコいい。

  • 松原忠司(まつばらちゅうじ) 1835年?~1865年
四番隊組長。坊主頭の柔術使い。温厚な性格だったらしい。
彼の死は不可解な点があり「壬生心中」という話も生まれた。


  • 武田観柳斎(たけだかんりゅうさい) ?~1867年
五番隊組長。甲州流軍学を修めていた。
創作ではホモのおべっか使いとされるかわいそうな人。当時ホモは嗜みだったというのに。
時勢が佐幕不利になるとあっさりと新選組を裏切って攘夷側に着こうとした。
当然、見逃されず暗殺された。
目立つエピソードがなくフォローもされにくい、哀れな人。


  • 井上源三郎(いのうえげんざぶろう) 1829年~1868年
六番隊組長。内勤担当だったらしい。
試衛館組では最年長で、近藤の兄弟子。鳥羽・伏見の戦で戦死。 


  • 谷三十郎(たにさんじゅうろう) 1832年?~1866年
七番隊組長。宝蔵院流槍術の使い手だったらしい(ただし道場槍)。
兄弟3人で新選組隊士となっており、弟・周平が近藤の養子となった。
京都・八坂神社の石段下にて「頓死」。詳細は不明であり、暗殺説や病死説などがある。


  • 藤堂平助(とうどうへいすけ) 1844年~1867年
八番隊組長。試衛館の食客だった。
後に元同門の伊東に心酔し、共に新選組を離脱。
油小路の変で死んだ伊東の遺体を引き取ろうとしたところを永倉らに襲撃されたとされる。
創作では近藤は「藤堂は殺したくないなぁ」と永倉にぼやき、永倉も仲の良かった藤堂を殺したくなかったので、逃がそうとしたが、
事情を知らぬ平隊士に斬られ死亡したとされる。


  • 鈴木三樹三郎(すずきみきさぶろう) 1837年~1919年
九番隊組長。伊東の実弟。
参謀に着いてた兄貴の権力を傘に調子に乗ってたボンクラ、…というのが定番のキャラ付け。
その根拠になったのは、当時の記録を総合すると「九番隊組長に任命された翌月に降格された」ということになる、というものだが、最近の研究ではどうやら「九番隊組長になったという記録そのものが誤記録だった」らしい。
実際、この「九番隊組長速攻降格事件」の翌年の記録では八番隊組長になっていたりする。
油小路を生き延び、鳥羽・伏見の戦い前生き残った仲間が近藤の肩を狙撃し重傷を負わせた(鈴木も参加していたかは作品によって異なる)。
赤報隊にも所属していたが、赤報隊本体が官軍によって粛清されたため連座しかけたりもした。
後に山形県の郡長や鶴岡警察署長、福島県の学務課長を勤めた後、明治18年(1885年)退官。
余生を養鶏や盆栽いじりで過ごし、大正8年(1919)83歳で死去。


  • 原田左之助(はらださのすけ) 1840年~1868年
十番隊組長。試衛館の食客。槍使いであったという。
「切腹も出来ない臆病者」と罵られた際に、いきなりその場で切腹した豪胆な漢。
切腹した後にちゃんと治療され助かった。
酔った際には着物を脱いで傷痕を見せながら切腹したときの話を自慢していたとか。
盟友の永倉と共に隊を離脱後、端兵隊を結成したが、さらに離脱し、彰義隊に入隊し戦死。
一部では大陸に渡って馬賊になったという生存説も流れた。  


  • 島田魁(しまだかい) 1828年~1900年
監察兼伍長。相撲取りばりの巨漢で怪力である一方情報収集能力に秀でた。
壬生浪士組時代から箱館まで戦い抜き生き残った。
後世に新選組のことを伝えるため『島田魁日記』などの記録を残した。
1886年から西本願寺の夜間警備員となり、1900年にその勤務中に倒れて亡くなった。


  • 尾関雅次郎(おぜきまさじろう)1844年~1892年
監察。行軍の際は旗役。兄の弥四郎も新選組隊士。
壬生浪士組時代から箱館まで戦い抜き生き残った。
戊辰戦争後は、故郷の奈良県高取に戻り、結婚、三男二女の父として過ごす。


  • 山崎丞(やまざきすすむ) 1833年?~1868年
監察。池田屋事変など重大事件の要所で活躍。軽い治療も担当し、近藤・土方の信頼も厚かったデキる男。
鳥羽・伏見の戦いで傷を負い、江戸に向かう船の中で死去。
それまでの功績を労い、亡骸は水葬にされ、丁重に葬られた。
(とされるが、水葬説には「永倉や島田の手記で触れられていない」という矛盾も有るとされる)


「父佐久間象山の仇を討つ」というカッコいい目的で新選組入りしながら、ポンコツ過ぎて脱走、ちゃっかり生き延びた残念な若手隊士。詳細は項目参照。

  • 吉村貫一郎(よしむらかんいちろう)1840?~1868年?
監察。奥州出身の北辰一刀流剣士で、各種資料から南部藩を脱藩して鳥羽・伏見の戦いで死んだ「嘉村権太郎」の偽名説が有力視されている。
…とリアル史料から読み取れるのはこれくらいだったのだが、子母澤寛が著書にて「鳥羽・伏見で旧南部藩邸まで逃げるも、元主家から罵られ切腹」という証言と「家族を養うため脱藩してまで出稼ぎに出、それゆえに新選組が幕府に取り立てられたとき感極まった」という話を追加。
そして子母澤本を基に水木しげるが『幕末の親父』・浅田次郎が『壬生義士伝』を書いたことで有名になった。


  • 市村鉄之助(いちむらてつのすけ)1854~1873or77年?
油小路事件直前に兄辰之助と共に新選組に加入し、箱館戦争まで土方に付き添い彼の死を遺族に伝えた隊士。
その後についてはよく分からず、「先に逃げていた兄と故郷大垣で再会し、兄の死後すぐ病死した」という説が有力視されているが(後に兄の子孫によって市村家の墓が建てられた)、
「西南戦争で西郷軍兵士として死んだ」と言う説に物語性があるためか、創作では『燃えよ剣』(但し政府軍側)・『一刀斎夢録』(西郷軍側)で採用されている。
また黒乃奈々絵の『新撰組異聞 PEACE MAKER』・『PEACE MAKER 鐵』では主人公となっているが、入隊時期が池田屋事件前に大きく前倒しされている。


  • 田村銀之助(たむらぎんのすけ)1856~1924年
鳥羽・伏見の戦い前後に兄二人と共に新選組に志願するも、一人だけその幼さから「両長召抱人」として他の少年たちと共に土方の小姓として箱館戦争まで参加し明治後も生き延びた少年。
他の箱館組に比べると地味だったが、2010年代に入ってから漫画『PEACE MAKER 鐵』(蝦夷地渡航直前)・『風光る』(鳥羽・伏見の戦い直前)に登場している。


1849~1938年
市村とほぼ同時期に新選組に加入し、顔半分を損なうような大怪我をしながら辛くも生き延び「最後の新選組」として名を残した隊員(但し箱館までは行っていない)。


  • 相馬主計(そうまかずえ) 1843年?~?
新選組最後の隊長。元々は幕府陸軍の隊員だったが「第二次長州征伐」の後新選組に移籍し、鳥羽・伏見、勝沼の戦いに参戦。
流山で近藤が投降した際は助命を求めるが敵に捕まる。
釈放後、春日左衛門指揮の陸軍隊に幹部として迎えられ、奥羽戦争に参戦。
仙台で徳川脱走艦隊に合流。土方らに再会し、蝦夷へ渡る。
箱館戦争では宮古湾海戦に参戦し負傷、弁天台場攻防戦で降伏。
敗戦処理のため、箱館奉行・永井尚志から隊長に任命される。
戦後、投獄の後、新島へ流罪となるも釈放。
維新後は豊岡県(現在の京都・兵庫)で官吏となったが免官され、東京に戻る。
しかし東京に戻った後謎の切腹を遂げる。妻に「他言無用」と言い残したとされ、詳細については不明となっている。
が、近年、回想録や写真が見つかり、明治30年頃まで生存していたと言われる様になった。

  • 中沢琴(なかざわこと)
世にも珍しい女性隊士。
上野の国で剣術道場を営む家の生まれで薙刀の達人。
新選組の前身である「浪士組」に参加するため男装して兄と共に新選組に入隊した。
入隊後は市中の見回りや、倒幕派との戦いに参加し、戊辰戦争で敵に囲まれた際は、敵兵を切り捨て囲みを突破したという武勇伝を残している。

  • 原五郎妹女(はらごろうめ)
同じく新選組の女性隊士。
一応実在していたとされている中沢琴と違って新選組の研究者の間でも謎とされている女性。
当時十七歳で会津藩出身らしいという事以外分かっていない。
「妹女」という呼び名から原五郎という隊士の妹だという説や、上記の中沢琴と同一人物ではないかという説もある。


{・新選組が関わった事件・}


  • 池田屋事変
「池田屋の変」「池田屋事件」とも呼ばれる。
京都を焼き討ちし、その隙に孝明天皇を拉致して中川宮や松平容保を暗殺する算段を京都「池田屋」で会談しようとした攘夷浪士達を一網打尽にした*5
新選組史上で最も有名な事件。ちなみに多くの作品では「この時沖田が胸を病み吐血」とされてきたが、近年では「ここで発病だと鳥羽伏見前に死んでるだろ!」と言う説が有力となり、『風光る』や『龍馬伝』では龍馬が暗殺された近江屋事件直前に発病している。
宮部鼎蔵、北添佶摩など、それなりに有力な志士がこの事件で討たれ、新選組の名を世に知らしめた。
桂小五郎(後の木戸孝允)も参加する予定だったが、直前に脱出している。

・・・実はこの時期、新選組の存在がかなり屋台骨から揺れていた時期らしく、この事変がなければ存続が危うかったらしい。
京都焼き討ち計画も、佐幕側の残した史料にしか存在しないため、適当な理由をでっち上げて功績を挙げることで存続を図ったのでは、と言われている。


  • 鳥羽・伏見の戦い
長きにわたる戌辰戦争の緒戦となった合戦。
薩長軍の銃砲の前に刀槍で武装した新選組は損害が多く、援軍のはずだった他藩の予期せぬ裏切りなどもあって井上源三郎、山崎烝などの隊士が戦死した。
この戦いの後他の旧幕府軍と共に江戸へと戻り、「甲陽鎮撫隊」で巻き返しを図るも失敗。永倉、原田の相次ぐ脱退など、新選組は崩壊への道を緩やかに、着実に歩んでゆく事になる… 
それでも、人数は定期的に補充していたが…


追記・修正は局中法度に則ってお願いします。

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