新徴組

登録日:2011/10/22(土) 15:27:23
更新日:2025/04/21 Mon 04:18:03
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新徴組(しんちょうぐみ)浪士組を母体とする有志集団。

浪士組の経緯については、浪士組を参照してください。ここでは、浪士組から別れた新選組とは別に、江戸に戻ったその後の浪士組…すなわち「新徴組」について記す。




前史

遡ること文久3年(1863)4月15日、昨年(1862)8月21日の生麦事件*1以降、日本とイギリスの関係が悪化し、攘夷派浪士による辻斬、押し込み強盗、無銭飲食、外国人襲撃など凶悪犯罪が横行し、江戸南北両町奉行所では対応することが出来ないと見た徳川幕府は、大名家の兵力によって人口100万を数える江戸市中の見回りを行うことを考え、江戸市中取締役を新設し、出羽庄内酒井家に就任を命じた。

酒井家では同年11月1日にこれを受諾し、酒井家のほかに12の大名家がこれを支えた。

誕生と仕事内容


江戸市中取締役として酒井家の担当は、現在の丸の内、本郷、浅草、下谷、上野、谷中、根津、本所、両国の治安維持。
人が足りないので家中の子弟で部屋住みの者*2200名を江戸に派遣した。

一方浪士組誕生のきっかけとなった清河(きよかわ)八郎(はちろう)*3が殺害された*4後、幕府は浪士組幹部の解役や逮捕、不穏分子の追放*5を行い、浪士組改め新徴組とした。

そして出羽庄内酒井家は厄介な地域を担当するということで補助戦力として、新徴組と播磨浪人・小林(こばやし)登之助(のぼるのすけ)が主宰する砲術塾の門下生から構成される大砲組を傘下に治めた。

また費用手当てとして、元治元年(1864)8月18日には、2万7千石の土地を出羽国内に付与され17万石格となり、徳川権力を支える有力大名と位置づけられた。

当初は幕府が管理しており、本所三笠町と飯田町もちの木坂の二ヶ所に新徴組御用屋敷が与えられたが、文久3年(1863)11月13日にもちの木坂の屋敷に統一され、本部も置かれた。

もちの木坂の責任者は松平(まつだいら)上総介(かずさのすけ)、本所の責任者は河津(かわづ)祐邦(すけくに)、酒井家から取扱頭取として、松平(まつだいら)親懐(ちかひろ)が命ぜられた。

文久3年(1863)11月の時点で組士の数は207人。

文久3年(1863)年11月20日、幕府は酒井家に新徴組の指揮命令から生殺与奪、給与一切を丸投げ、幕府の役人は引き上げた。

同月24日には、老中から新徴組に
『殺傷、押借り等を働く者は、見かけ次第、搦め捕えるには及ばない。その場において切り捨て、速やかに御府内を鎮静いたせ』
と命じた。

新選組の様に浪士の中から責任者を選ぶでも、浪士組みたく高級旗本の責任者、実質的な現場監督として中級以下の旗本から責任者を選ぶ訳でも無く、新徴組は出羽庄内酒井家から派遣された取扱頭取の松平親懐に一任され、それを補佐する為に新徴組取扱役が設置され、この役職も出羽庄内酒井家の家臣で独占された。
その下に肝煎取締と浪士側のトップが居て肝煎、剣術指南役、小頭などがあった。

指示は完全に上意下達であり、酒井家に完全に頭の上がらない状態だった。

新徴組そのモノの組織は
肝煎取締(定数3)→肝煎(定数6)→小頭(定数24)→平組士(定数120)
という感じ。

小頭1人と平組士5人の合計6人が市中巡回の最小単位。
1組と呼ぶ単位があり、6人✖4つで約24人に肝煎が組を束ねて合計25人。
それが6組存在し、合計150人前後。
肝煎の上に肝煎取締が3人存在する。
1人の肝煎取締が2組を管理統括する。

一日に2組ずつが当番として午後6時に出邸、決められた巡回地点を廻り、夜の12時頃に帰邸するのが恒例としていた。

新選組のように制服こそなかったが、揃いの朱の陣笠を被り、夜には庄内酒井家の紋所であるかたばみの提灯を下げて市中を練り歩いた。

新徴組の他にも酒井家からも二組が巡回、大砲組も巡回に参加するなど、市中見廻りを実施していた。

先の話になるが、慶應3年(1867)4月には、新徴組から30人を選抜して夜中に忍廻りが実施された。
5人1組を6組作り、1夜2組ずつが巡回する組の廻る場所へ前後して同伴した。
忍廻りは変装も勝手次第で、時に無刀で町人に化ける事があった。
5人は各自が呼子の笛を携え、1人ずつの間隔は110m程度とし、何かある時は呼子を吹いて集合する決まりで、合言葉も決めていた。

酒井家からも同じく忍廻りが実施され、慶應3年(1867)12月25日に廃止になった。

毎日市中の巡回を始めると、江戸の治安が次第に回復していったため江戸市民から

酒井なければお江戸はたたぬ、おまわりさんには泣く子も黙る
とまで謳われるようになった。

おまわりさんとは、古来からある市中巡回の官職である御見廻り(おみまわり)から由来する愛称であるが、この呼称は明治になって近代警察の巡査に受け継がれ、現代の警察官にも続いている。


待遇は文久3年(1863)9月22日、若年寄・田沼意尊(たぬまおきたか)の申渡しによると、小普請方伊賀者次席の格式からなる「御家人」に召し抱えられ、年間三人扶持、金25両が支給された。

後に、役職手当として肝煎取締は100石、肝煎は7人扶持、小頭は5人扶持、平組士は4人扶持が与えられ、基本給として年27両が支給された。

生活環境はもちの木坂の屋敷が完成すると、組士一人に個室が与えられ、家族との同居が認められ、組士当人が死亡すると嫡子や弟に相続が許された。

新選組が単身赴任なのを考えると生活は落ち着いていた。

組士の能力を高める為に、剣術指南役等が設けられた。

これは、生き残りの千葉弥一郎(ちばやいちろう)によると、新徴組の組士は腕っぷしは強いが頭は弱い為、目先の金に目がくらみ、宜しくない行動に移す奴が絶えなかったそうである。

そうした行いの悪い奴をシバく為に教育を重ねたとある。

酒癖の悪い組士達も多く、飲み屋や遊廓で暴れると

「ウワバミより怖いかたばみが来たぞ!」
と恐れられた。

水戸天狗党の残党狩りや禁門の変で孝明天皇(こうめいてんのう)の住む御所に砲弾を撃ち込み朝敵になった長州毛利家の江戸麻布中屋敷を接収した。

新徴組は元治元年(1864)5月3日に出羽庄内酒井家へ扱いを委任された。

実質、酒井家家臣みたいな感じだが、この段階では現代なら出向みたいな扱いになる。

同年12月12日、6番組の羽賀(はが)軍太郎(ぐんたろう)中村(なかむら)常右衛門(つねえもん)千葉(ちば)雄太郎(ゆうたろう)の三人が神田明神前で市中見回り中に二人の旗本が馬で突っこんだため、無礼打ちにする事件が起こった。*7
身元を確認すると、直参旗本小普請組500石の永島(ながしま)直之丞(なおのじょう)と小姓番組300石の小倉(こくら)源之丞(げんのじょう)と判明。

新徴組とその上役の出羽庄内酒井家は行為は正当なモノと反論したが幕府側は「旗本」が新徴組という「御家人」に殺されるのは気に入らない、お前らも腹を切れ!とゴネて来た結果、新徴組の三人も詰め腹を切る。

なお、切腹した新徴組隊士3人の遺族は、いずれも減禄なしで跡目相続を許されたが、斬られた永島、小倉は狼藉者として処分され家は改易された。

同年12月13日には講武所剣術指南役・桃井(もものい)春蔵(しゅんぞう)巨勢鐐之助(こせりょうのすけ)という5000石の旗本に招かれ、息子や門弟を引き連れて稽古納めの帰り道、市中巡回の新徴組と鉢合わせになり、桃井側が端に避けて道を譲った。

新徴組側が更に誠意が足りない、頭が高いと頭ごなしに怒鳴ると、桃井側が講武所剣術指南役にそんな態度取るなら、上様に申し上げて、新徴組の今後を考えてもらう様にしましょうと話すと、新徴組側は謝罪し、今後二度とこの様な振る舞いはしない、申し訳ありませんでした、と逃げ出した。

慶応元年(1865)3月には、洋式銃の取り扱いが訓練に加わる。

幕府が新しく雇った陸軍歩兵が酒に酔っ払い、飲食店を破壊しているのを取り抑えたり、慶應2年(1866)の第二次長州征伐と米価高騰により江戸で困窮人達による騒動が発生した際、鎮圧の為に出動した記録が残る。

慶應2年(1866)9月頃、似非の新徴組が徘徊していると報告があり、ある日、似非の新徴組と出会した。
新徴組 「何者であるか?」
似非者 「酒井家の廻りでごさる」
新徴組 「雅楽頭候*8か、若狭候*9か、いずれの廻りか?」
似非者 「喰うと喰わぬのさかい(境)でござる」
というやり取りがあり、別の日には、困窮者の集団が徘徊し、米の高値には念仏が効くという。そのこころは
「鐘を叩いて、飯米だ(ナンマイダ)、飯米だ!」
と返答して、妙に納得されられた日もあった。

慶應3年4月には浅草にある出羽庄内酒井家下屋敷にて、イギリス式銃隊の訓練を行う。

江戸薩摩屋敷の焼討事件

孝明天皇の住まいに砲弾をブチ込んだ長州毛利家とその毛利家の同盟相手の薩摩島津家へ徳川幕府打倒の口実として討幕の密勅を慶応3年(1867)10月13日に薩摩島津家へ、翌14日には長州毛利家へそれぞれ下した。
同年10月14日、幕府が大政奉還を行ったため、薩摩島津家家臣・吉井友実(よしいともざね)は先に派遣された益満休之助(ますみつきゅうのすけ)伊牟田尚平(いむたしょうへい)に破壊工作の一時中止を書状で指示しているが、雇われたテロリストが、俺達の時代が来た!と関東各地で集団による破壊活動を繰り広げた。

テロリスト側の指針となったお定め書きにあった攻撃対象は
「幕府を助ける商人と諸侯の浪人、志士の活動の妨げになる商人と幕府役人、唐物を扱う商人、金蔵をもつ富商」
の四種に及んだ。

同年12月24日、江戸城で評定が行われ、老中の稲葉正邦(いなばまさくに)

「大坂の情勢は複雑怪奇、上様=徳川慶喜(とくがわよしのぶ)の考えも複雑怪奇、大坂から具体的な指示が来るまで、指示待ちに徹しましょう。 
浪士が暴れるのは、兵端を開くのと天秤に掛けたら、被害は少ない」

と慎重論を唱えると、勘定奉行の小栗忠順は、


と流れが来るのを待つのではなく、流れを作って押し付けろ!と主導権を握る事を主張した。

松平親懐はこの評定に招かれ、江戸市中取締役として、
「お前ら直参がだらしないねぇ〜から、代わりに市中取締してやってんのに、討伐が出来ないってなんすか?
目の前で浪士が民衆イジメても、手を出すな!ってどういう事ですか?
江戸の民衆は今、泣いているんだ、それが分からないのか?
討伐出来ないなら、市中取締役辞めて庄内帰ります!
逆賊になるのがそんなに怖いですか?
我々が勝ち、気に入らない天皇なら、後鳥羽天皇みたく隠岐の島に流して、天皇を独り占めすれば良いんですよ。
その姿勢が取れないから、徳川はここまで、窮乏に追い込まれたのでは?」
とやはり、自ら動いて主導権を握れ!と評定を主戦論で煽った。

南町奉行並の朝比奈昌広(あさひなまさひろ)は松平親懐の発言が評定に出席していた人達の感情を刺激し、薩摩島津家屋敷の討伐へ話が決まったと記している。

酒井家は徳川陸軍にお雇い外国人としてフランス陸軍から派遣された実戦経験豊富なブリュネ大尉*10に相談、ブリュネ大尉も薩摩屋敷砲撃の計画書を提出した。
内容は、
『使用する大砲は四斤山砲、および四斤野砲。
一、邸内の見渡せる地を選び、榴弾で扉や窓を射撃して破壊する。
一、門、窓の隙間に散弾を打ち込む。
一、射撃の際は、仰角射を行うが、500メートル以上目標より遠隔地から行う。
一、邸内より逃げる者に散弾を打ち込む。
一、距離の測定には詳細な地図を使う。不備の場合AからBの距離を駆けて計る。一歩は約1メートルとする。
一、砲弾は一門につき散弾は百発、榴弾、榴散弾は二百発を用意する。』
というモノ。

作戦は私怨による私戦とすることを避けるため、出羽庄内酒井家単独ではなく、徳川陸軍・上野前橋松平家・三河西尾松平家・出羽上山松平家、越前鯖江間部家、そして出羽庄内酒井家の分家•出羽松山酒井家と新徴組、大砲組の出動を決め、合計2000人の軍を動員。

慶応3年(1867)12月25日、証拠を握った酒井家は大政奉還・王政復古後も治安維持権限は徳川家にあることを理由にテロリストの引渡しを要求するも拒絶され、薩摩島津家屋敷、その分家・日向佐土原島津家屋敷を焼き討ちし、捕縛浪士57人、首5を挙げた。

因みに俗説では江戸の浜離宮を慶応3年(1867)12月23日に徳川海軍の長鯨丸(ちょうけいまる)で出港した大目付・滝川具挙(たきがわともたか)と勘定奉行並・小野友五郎(おのともごろう)が25日に発生した薩摩屋敷焼き討ちを聞いて、28日に大坂城に到着して徳川慶喜に報告とある。

ん、23日に船で海に出た人が25日に陸で発生した事件を知っているってツッコミどころ満載の話である。

木村喜毅(きむらよしたけ)によると、27日に神奈川を出帆した「外国郵便船」に托された御用状でなされ、これが大坂に届いたのが30日である、と日記に記している。

滝川らが知っているのは最大で江戸城二の丸放火までの話であり、この話まででも大坂城にいる徳川方の将兵の怒りに火が付いたと判断出来る。

しかし薩摩屋敷焼き討ちは船が紀伊半島沖まで進んだ時点での話になる。
この時点で俗説は辻褄が合わないのだが、誰もツッコミを入れない。

という事は大坂と江戸のやり取りから話をねつ造ないし作り変えた人たちがいる、という話になる。

徳川慶喜の処分が少しでも軽くなる様に、鳥羽伏見の戦いの戦犯として小野は牢屋行き、滝川は屋敷で謹慎処分となるが、この処分に関わったのが勝海舟(かつかいしゅう)や越前福井松平家・前当主の松平慶永(まつだいらよしなが)

ツッコミどころ満載の俗説が定着したのは、慶喜が主導権を握る為に鳥羽伏見の戦いを起こした訳じゃないと、絶対恭順へ弁明する為の悪あがきかも知れない。

戊辰戦争

その後慶応4年(1868)の戊辰戦争では、江戸薩摩島津家屋敷を焼き討ちしたせいで「官軍」の標的となった出羽庄内酒井家に従い、所領の出羽庄内に赴く*11
付き従う者は165人と言われる。

出羽庄内酒井家の下でイギリス式訓練を叩き込まれ、剣客集団から、エンフィールド銃で武装された洋式銃隊として、活躍することになる。

同年7月28日の矢島城攻防戦で新徴組150人は、標高2200メートルの鳥海山を走破して矢島城を急襲、
太政官に味方する領主の生駒(いこま)親敬(ちかゆき)*12は驚いて、城を焼いて逃げた。

同年8月5日の太政官軍の反撃を退けると、温泉街で休養したのち、同年8月16日から、羽越国境攻防戦では主力として戦う。

明治元年(1868)9月23日、出羽庄内酒井家は太政官に降伏。

戊辰戦争終結時、西郷隆盛は出羽庄内酒井家の占領統治を任され、占領軍による略奪暴行の厳禁と、酒井家家臣団に帯刀を認めさせて謹慎させた。
当時としては異例で薩摩内部でも黒田(くろだ)清隆(きよたか)*13は敗者に寛大すぎると反発したが、西郷は逆らうなら再度叩き潰すだけと断言。
その後の出羽庄内酒井家は太政官から一度領地を没取されたが、天皇陛下の御慈悲という形で再度領地を与えられ、陸奥会津若松、次いで磐城平への国替え命令が公式に布告されたが反対運動*14を起こして断念、撤回させた。
長州系の大村(おおむら)益次郎(ますじろう)は負けた大名家が余力を残して存続とかあり得ないと、厳罰を与えて解体と一番乗り気だったが、攘夷派浪士に襲われて死去。
大久保(おおくぼ)利通(としみち)、黒田清隆、大隈重信(おおくましげのぶ)らが厳罰で石高を大幅に減らしても、浪人を大量発生させて社会不安*15を起こしては身も蓋も無い。
太政官内部で厳罰解体論が勢いを失い、出羽庄内12万石としての存続を許され、藩治職制*16により「大泉藩」と名乗る。
本来ならば斬首すると宣言した前陸奥会津松平家当主・松平(まつだいら)容保(かたもり)や出羽庄内酒井家当主・酒井(さかい)忠篤(ただすみ)の命を救うという寛大な措置に留めた。

維新後の新徴組

庄内に来てからは、大宝寺村に屋敷をあたえられ、荒れ地の開拓に従事した。

明治4年(1871)7月14日の廃藩置県の詔により、大泉藩がなくなり、庄内地方は酒田県として成立、県の役人は全て大泉藩の人物で独占された。

廃藩置県で主従関係は消滅、庄内からバイバイ、といって新徴組が去ろうとすると、酒田県は
そうは問屋がおろさねぇ、ここに留まりな!
と監視の眼を光らせた。

開墾計画に従わなかったり、酒田県幹部に異論反論を唱えると、士道不覚悟につき切腹という罰則が待ち構えていた。

新徴組組士の出身地は多い順で上から武蔵、甲斐、上野、信濃、常陸で全体の3分の2を占め、出身身分は150人中81人が武士の次三男や浪人より、農民、神主、行商人の子などが剣術などで身を立てようとしていたと言われる。

新徴組からすれば今更元の農民はヤダ!、温泉と釣りと米と山寺しかない庄内は、娯楽がなくてツマらない!、同じ死ぬならせめて庄内でコキ使われて死ぬより、生まれ故郷に戻って死にたいのが人情である。

新徴組組士60人ほどが脱走を実行、酒田県幹部の横暴を東京の司法省に訴えた。

太政官内部でも参議兼司法卿・江藤(えとう)新平(しんぺい)や参議・大隈重信や大蔵大輔・井上馨(いのうえかおる)などが話を聞いて、調査をしようと提案したが、当時、太政官の実権を握る西郷隆盛は、酒田県幹部の言い分を全面的に採用し、司法省(江藤)や大蔵省(井上)に圧力をかけて訴えを退け、新徴組を絶望のドン底に叩き落とした。

新徴組が自由を得るのは、西郷隆盛が明治6年の政変で失脚し、酒田県幹部も太政官の政令を実施せずに勝手なことをやるのはケシからんということで、太政官内部では大隈や長州閥から、外部では地元農民からの圧力を受け総辞職に追い込まれるのを待たなければならなかった。

その後の足取りは、警察官として就職し、明治10年(1877)の西南戦争で西郷隆盛に怨みの刃を振り下ろす者もいれば、名前を変えて異郷の地で先生になる者もいれば、
故郷に戻ると一家は離散、家族を探している内に自身が社会の闇に落ちた者、政治に関心を持ち、自由民権運動に参加した者、
税金が高くて選挙権を得ることができず、暴力壮士として活動している内に犯罪者として監獄に入獄した者*17
運良く実家が無事で、家業を継いだ者、他家に養子にいくことが出来た者、様々である。

一つ言える事は、新徴組で庄内に残留した者は少ないと言うことである。

関係者


松平(まつだいら)親懐(ちかひろ)(1838〜1914)
出羽庄内酒井家の家老、通称は権十郎(ごんじゅうろう)
江戸市中取締役を拝命すると、新徴組御用掛となり、幕府、酒井家、新徴組の調整を担当した。
その後、新徴組が酒井家預りになると、江戸市中取締を指揮、江戸の民衆から
「江戸の(市川)団十郎、庄内の権十郎」
と持て囃されるようになる。
しばしば幕府の評定に参加して発言する程まで影響力を拡大した。
(すげ)実秀(さねひで)を懐刀に従えて筆頭家老として幕末の出羽庄内酒井家を佐幕主戦派へ導き、イギリス式軍制で編成された約五千の軍隊は幕末に精鋭の名を欲しいままにした。
戊辰戦争後は手のひら返して太政官、特に薩摩、更に西郷隆盛と仲良くなり、藩治職制後の大泉藩で大参事、廃藩置県後の酒田県で参事として権力を握り続け、士族の権益擁護*18を露骨に推し進めた。
明治六年の政変で西郷隆盛が失脚すると、太政官からは井上馨、大隈重信、地元の民衆からやり過ぎと抗議の声があがり、失脚に追い込まれ、裁判の結果、東京で禁錮235日の実刑判決を受ける。
出所後、大蔵省7等出仕として官職に就くが、人望はあるが細かい事務処理能力が無いことから、本人も居づらくなり退職、庄内に戻り、開墾事業の責任者として過ごす。


(すげ)実秀(さねひで)(1830〜1903)
出羽庄内酒井家の側用人、通称は善太右衛門(ぜんたうえもん)秀三郎(しゅうさぶろう)
江戸市中取締役を拝命すると、江戸留守居役、江戸府内取締御用、新徴組御用掛となり、幕府、酒井家、新徴組の調整を担当した。
松平親懐(まつだいらちかひろ)とコンビを組み、反主流派を完膚なきまでに封じ込め*19、戊辰戦争では軍事掛として武器弾薬兵糧の確保、資金繰り、兵員の補充に辣腕を奮った。
戊辰戦争後は戦後処理に奔走。
藩治職制後の大泉藩で権大参事、廃藩置県後の酒田県で権参事として権力を握り続け、西郷隆盛と仲良くなり士族の権益擁護を露骨に推し進め、明治六年の政変で西郷隆盛が失脚すると、太政官からは井上馨、大隈重信、地元の民衆からやり過ぎと抗議の声があがり、失脚に追い込まれた。
その後、西郷隆盛を訪ねに鹿児島県に旅行に行ったり、西南戦争では庄内士族の暴発を止め、元当主・酒井忠篤兄弟がドイツ留学*20から帰国して東京でのやり取りを聞かされた庄内士族たちは忠篤・忠宝(ただみち)を庄内に住まわせ、東京に行かせなかった*21
西郷死後は御家禄派(ごかろくは)として庄内士族をまとめ、事業家として山居倉庫(さんきょそうこ)、荘内銀行の前身である第六十七銀行、製糸会社・松岡製糸所、酒田米商会所の事業を立ち上げ、軌道に乗せた。
西郷教庄内支部として西郷隆盛の言葉を後世に伝えようと、「南洲翁遺訓」を編纂し、活字にし、約1000部が発行された。
新徴組隊士には、冷徹、酷薄、横暴と批判されたが。

田辺(たなべ)儀兵衛(ぎへい)(1825〜1895)
出羽庄内酒井家の新徴組頭取。
儀兵衛は通称、諱は柔嘉(じゅうか)
出羽庄内酒井家家臣・東野利右衛門(ひがしのとしえもん)の三男として生まれる。
嘉永3年(1850)同家家臣・田辺羽右衛門(たなべうえもん)の婿養子となり、120石の家督を継ぐ。
同年3月から亀ヶ崎御蔵方を勤め、安政7年(1860)3月英国船来航の時、酒田で折衝に当たる。
同年鶴岡に帰って御金請払役となった。
文久2年(1862)5月、江戸勤番となり、当主・忠寛(ただとも)の御使者番となったが、翌年10月帰郷して櫛引通の代官、11月に再び江戸勤番となり、元治元年(1864)9月新徴組頭取を命ぜられ、江戸市中取締に当たる。
慶応4年(1868)2月に郡代、戊辰戦争が起こると軍事掛として庄内軍が占領した領地の行政官として手腕を奮い、300石に加増。
菅や本間家とともに戦後処理に奔走し、会津若松や磐城平への国替え命令を撤回させる裏工作に携わった。
明治4年(1871)廃藩置県後、酒田県が成立するや大属に任命される。


山田(やまた)官司(かんじ)(1825〜1869)
新徴組組士。剣客。
文政8年(1825)に安房国平郡亀ヶ原村の農民・千右衛門(せんえもん)の次男に生まれた。
184cmの恵まれた体格を持つ。
幼い頃から剣術修行をし、後に江戸に出て北辰一刀流の千葉(ちば)周作(しゅうさく)に弟子入り、免許皆伝を与えられる。
嘉永6年(1853)に『北辰一刀流剣法全書』を書き北辰一刀流の理論をまとめている。
藤森(ふじもり)弘庵(こうあん)*22に弟子入りして国学、菊池(きくち)容斎(ようさい)春木(はるき)南溟(なんめい)に弟子入りして絵を学び、勝海舟(かつかいしゅう)などと交流があった。
文久2年(1862)に八幡村名主・根岸勝助(ねぎしかつすけ)や湊村名主・多田富五郎(ただとみごろう)に剣術免許を与えるなど、郷里安房で剣術指南をおこなっていた。
文久3年(1863)、幕府が尊皇攘夷の尖兵として浪士組を編成すると参加。
京都には残らず、江戸に戻り、出羽庄内酒井家指揮下になる新徴組が再編されると、剣術教授方、肝煎取締役という指導的地位につき、酒井家から百石を与えられている。
慶應4年(1868)の戊辰戦争では、酒井家と行動をともにし、新徴組に属して庄内まで行って太政官と戦っている。
越後国境の番所である関川(現山形県温海町)での戦闘で受けた銃創がもとで、翌年5月に破傷風にかかり45歳で亡くなった。

小林(こばやし)登之助(のぼるのすけ)(1828〜1866)
大砲組頭。砲術家。
播磨国三日月森家(1万5千石)の家臣・小林(こばやし)宮之助(みやのすけ)の弟。
地元で砲術を学び、出奔して江戸神田お玉ヶ池に塾を開いて砲術、火器、操練の教授を行う。
文久3年(1863)、幕府が尊皇攘夷の尖兵として浪士組を編成すると塾の運営を師範代に任せて参加した。
京都には残らず、江戸に戻り、出羽庄内酒井家指揮下になる新徴組が再編されると、練兵教授方に任命された。
その後、塾の門下生を幕府配下に就職させようと新徴組を離れた。
同年10月、幕府から内御用を命ぜられて大砲組を組織。
元治元年(1864)11月、大砲組79人は新徴組と共に酒井家預かりになった。
慶應2年(1866)10月29日、自宅のある江戸神田お玉ヶ池で刺客達に襲われ、長男、次男と共に誅殺された。
出羽庄内酒井家での待遇が
「思ってたんと違う!」
と考え、他の大名家に売り込む為に活動しようとした矢先だった。
刺客達は新徴組の椿(つばき)佐一郎(さいちろう)たちが松平親懐や菅実秀ら新徴組御用掛に命じられて行った。
出たり入ったりする動きの怪しさと、時期的に第二次長州征伐で徳川幕府が負けたのと出羽庄内酒井家が主流派と反主流派との間がギクシャクしていて、前日に国許で反主流派を拘束したり、逮捕していたので、それと一緒くたにしたのかも知れない。
享年39歳。
大砲組は後に新整組と改めて慶應4年(1868)の戊辰戦争では、庄内酒井家と行動をともにし、新徴組と共に庄内まで行って太政官と戦っている。

山口(やまぐち)三郎(さぶろう)(1833〜没年不詳)
新徴組組士。浪士組道中目付。
諱は高賢(たかかた)
天保3年(1833)安芸広島浅野家(42万6千石)領内の備後国御調郡(みつぎぐん)綾目村に郷士・山口(やまぐち)六兵衛(ろくべえ)の三男として生まれる。
見た目は
「体躯矮小ながら眼光炯々、すこぶる意思強く、機略に富んだという」
と伝えられる。
若い頃は蘭学や砲術を学び、浪士組の募集が掛かる前は川越で医者をしていた。
と言っても、医学の心得などなく、友人の長屋(ながや)玄平(げんぺい)には、
「医学は少しも知らぬが、医者になるのは難しき事はない。病人という者は9割方、薬で治るのでなく、寿命があれば薬が無くても勝手に身体が治してくれる。医者としては腹痛の治し方さえ覚えておけばやっていける。開業しようwww」*23
と話し、薬を買い込んで、近隣の者へ施薬した。
不思議な事に薬は病気に効き、行列の出来る医師として評判になり、大金を手に入れた。
彼は医師としての成功をまぐれと受け止め、浪士組の募集が来たのを好機に廃業、浪士組に参加し、頭角を表して、道中目付に就任していた。
浪士組に参加した大半は尊皇攘夷思想の持ち主だったが、山口は長屋にだけ
「攘夷だの、鎖国だの、アホの戯言だよ」
と吐き捨てていた。
江戸に戻り、新徴組に鞍替えになると出羽庄内酒井家と浪士たちの調整役に納まり、山田官司とともに肝煎取締役に就任、出羽庄内酒井家から百石を与えられている。
慶應4年(1868)の戊辰戦争では、出羽庄内酒井家と行動をともにし、新徴組に属して庄内まで行って太政官と戦い、新徴組を離れて、酒井家が組織した農兵隊の隊長に就任している。
戊辰戦争後の大泉藩体制下で東京勤務になり、廃藩置県直前で士籍を東京府へ移籍。
勝海舟と親しく、勝からは
「新徴組には勿体ないキレ者」
と評され、徳川幕府の事情を調べようとする人は、
「新徴組の事は山口三郎に聞け」
と言われる。
その後の足取りは不明。

中川(なかがわ)(はじめ)(1823〜1892)
新徴組組士。浪士組狼藉者取押役。
元は越前福井松平家(32万石)の家臣・中川清閑(なかがわせいかん)の2男。
安政4年(1857)6月25日に下総佐倉堀田家の演武場には全国から様々な武術流派が武者修行に訪れていたが、修行者姓名簿の中に
「東都戸塚彦介(とつかひこすけ)門人、中川一」
と名前が残る。
戸塚彦介は楊心流という柔術の使い手で幕府の講武所が設けられた際に幕府の推薦により柔術教授方頭取に任命され、愛宕下の柔術場に在籍した門人は1600人余りとされ、中川はその中の一人で免許皆伝を認められた。
浪士組の誘いがあった時は江戸に住み、新陰流剣術の免許皆伝を認められ、道場を営んでいた。
浪士組に参加すると、頭角を表し狼藉者取押役に就任。
新徴組では6番組肝煎、柔術教授方を務めた。
素手の戦いなら中川に定評があると、新徴組では謳われた。
新選組の近藤勇とは手紙で互いの近況を教える間柄だった。
戊辰戦争中の慶應4年(1868)7月酒井家に編入し、100石を与えられ、代官に就任。
新徴組の脱走事件では粛清する側に回り、元組士から訴えられ、裁判の結果、禁錮90日の判決を受けた。
廃藩置県後は飽海郡(あくみぐん)菅里村(かんさとむら)*24に移住し、そこの戸長(とちょう)*25となり、そこで没したとある。

須永(すなが)武義(たけよし)(1855〜1926)
新徴組組士。
通称は宗太郎(そうたろう)
武蔵国飯塚村*26の農家・須永(すなが)宗司(そうし)の長男。父は浪士組の徴募に応じ、新徴組に引き続き参加し、一番組に在籍。
父は慶応元年(1865)6月もちの木坂の屋敷の部屋割りに名前があり、その後病没。家督を相続した。
戊辰戦争では庄内入り、新徴組では楽隊に所属し、その後、荒れ地の開拓に従事した。
生活や待遇の悪さから明治6年(1873)2月脱走、他の脱走者と一緒に酒田県幹部の横暴を東京の司法省に訴えた。
その後、故郷に戻り明治7年(1874)陸軍士官生徒として陸軍兵学寮に入り、明治10年(1877)4月、陸軍少尉に任官。
その後、昇進と武勲を重ね、明治44年(1911)9月、陸軍中将に栄進。翌45年(1912)2月、予備役入り。


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最終更新:2025年04月21日 04:18

*1 薩摩島津家家臣が殿様の父率いる大名行列を遮ったイギリス人を殺害した事件

*2 次三男で仕事についていない者

*3 出羽庄内酒井家出身

*4 文久3年(1863)4月13日暗殺

*5 文久3年(1863)4月14日、高橋泥舟、山岡鉄舟、松岡萬らを解役した

*6 助教授

*7 徳川時代は原則的に市街地での乗馬は禁止、公務や公務に準じる領内視察を兼ねた寺社参拝などで将軍や大名が市街地で乗馬する事は許されていたが、彼等も市街地での駆け足は禁止されていたし、乗馬が可能な郊外でも乗馬中に人を傷付けたら処罰と多額の賠償を支払う規則だった。生麦事件の際に島津久光一行が下馬して道の脇に拠ったアメリカ人とは友好的に別れたのに対して、乗馬したまま徒歩の護衛の中に突っ込んだイギリス人に抜刀して殺したのも、庶民相手でも重罰必須の行動をVIPの護衛相手にやったのだから当時の日本人的には当然の行為である。

*8 播磨姫路酒井家

*9 若狭小浜酒井家

*10 1862年のメキシコ出兵に出征してレジオンドヌール勲章シュバリエ章を授与された。シュバリエは5等級の中では一番下

*11 慶應4年1月に出羽庄内酒井家の京都留守居役が京都の薩摩屋敷を訪れ、島津家の京都留守居役に焼き討ちの話を伝えると、島津家としては酒井家の焼き討ちは正当な権利の行使であり遺恨は持たないと断言、酒井家に対して東征軍の中を通り抜け出来る通行手形を手渡した。酒井家が巻き込まれるのは2月9日に奥羽鎮撫総督が設置されると追討の対象に、閏4月5日に奥羽鎮撫総督府の参謀•大山綱良が焼き討ちの話を持ち出して、なし崩し的に朝敵として開戦。戊辰戦争後に西郷を派遣したのは、島津家が当初の方針である出羽庄内酒井家を敵として扱わない事を再徹底させる為

*12 交代寄合8000石の旗本。交代寄合は旗本でありながら領地に居住し参勤交代を義務付けられた30余家の旗本のこと。

*13 黒田清隆は太政官内部で敗者に甘いと叩かれるくらい寛大な人物だった

*14 出羽庄内酒井家重臣・菅実秀や300万坪の地主で大富豪•本間家が金を注ぎ込み裏工作を展開した

*15 当時は新政反対一揆が多発し、大名家を解雇された家臣が浪人となり、一揆に加担して武装蜂起されたら直轄の軍事力が無く、金が乏しい太政官は危うかった

*16 明治元年(1868) 10月28日に布達された太政官令。大名家を藩という呼び名で統一し、各大名家でまちまちな職制を,藩主,執政,参政,公議人などの職制に統一。収入の使い方や兵隊の上限などが定められた布達

*17 ←出獄して故郷に戻ると一家は離散、家族を探している内に自身が再び犯罪に手を染め、監獄に入獄し…

*18 表向きは士族を転職させるので、仕事が軌道に乗るまで県が就業支援します、と太政官に報告している

*19 慶應2年(1866)10月〜慶應3年(1867)9月までの間、佐幕主戦論に反対する勢力(ここでは会津松平家流の公武合体も弾圧の対象だった。酒井家の実力者、元当主•忠発が当主になる際、反主流派はそれを妨げた経緯がある。根は深いのである。)約30名を処罰した。後に戊辰戦争で庄内と会津は同盟を組むが、それは敵の敵は味方という理屈からである。総じて干支に因み、丁卯の大獄とか首謀者の名前から「大山庄太夫一件」と呼ばれた。

*20 元殿様の酒井忠篤、忠宝兄弟は西郷隆盛の斡旋でドイツへ留学。忠篤は当時世界最強のドイツ陸軍の士官学校へ留学、モルトケ兵学を学んできた。忠宝はドイツ民法を学んだ。西郷からは直接ドイツの若者に負けないようにと激励されたが、西郷の斡旋で留学していたのが太政官内部で嫌われ、留学時陸軍少佐だったのが帰国後陸軍中尉・予備役となった。

*21 元殿様で地元住まいは酒井兄弟と島津久光くらい

*22 尊皇攘夷派の学者

*23 徳川時代、医師になるのに試験や資格は必要無かった。

*24 現在の飽海郡遊佐町

*25 村長の昔の呼び名

*26 現在の埼玉県熊谷市