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更新日:2025/04/21 Mon 04:18:03
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新徴組は
浪士組を母体とする有志集団。
浪士組の経緯については、浪士組を参照してください。ここでは、浪士組から別れた
新選組とは別に、江戸に戻ったその後の浪士組…すなわち「新徴組」について記す。
前史
遡ること文久3年(1863)4月15日、昨年(1862)8月21日の生麦事件以降、日本とイギリスの関係が悪化し、攘夷派浪士による辻斬、押し込み強盗、無銭飲食、外国人襲撃など凶悪犯罪が横行し、江戸南北両町奉行所では対応することが出来ないと見た徳川幕府は、大名家の兵力によって人口100万を数える江戸市中の見回りを行うことを考え、江戸市中取締役を新設し、出羽庄内酒井家に就任を命じた。
酒井家では同年11月1日にこれを受諾し、酒井家のほかに12の大名家がこれを支えた。
誕生と仕事内容
江戸市中取締役として酒井家の担当は、現在の丸の内、本郷、浅草、下谷、上野、谷中、根津、本所、両国の治安維持。
人が足りないので家中の子弟で部屋住みの者200名を江戸に派遣した。
一方浪士組誕生のきっかけとなった
清河八郎が殺害された後、幕府は浪士組幹部の解役や逮捕、不穏分子の追放を行い、
浪士組改め新徴組とした。
そして出羽庄内酒井家は厄介な地域を担当するということで補助戦力として、新徴組と播磨浪人・小林登之助が主宰する砲術塾の門下生から構成される大砲組を傘下に治めた。
また費用手当てとして、元治元年(1864)8月18日には、2万7千石の土地を出羽国内に付与され17万石格となり、徳川権力を支える有力大名と位置づけられた。
当初は幕府が管理しており、本所三笠町と飯田町もちの木坂の二ヶ所に新徴組御用屋敷が与えられたが、文久3年(1863)11月13日にもちの木坂の屋敷に統一され、本部も置かれた。
もちの木坂の責任者は松平上総介、本所の責任者は河津祐邦、酒井家から取扱頭取として、松平親懐が命ぜられた。
文久3年(1863)11月の時点で組士の数は207人。
文久3年(1863)年11月20日、幕府は酒井家に新徴組の指揮命令から生殺与奪、給与一切を
丸投げ、幕府の役人は引き上げた。
同月24日には、老中から新徴組に
『殺傷、押借り等を働く者は、見かけ次第、搦め捕えるには及ばない。その場において切り捨て、速やかに御府内を鎮静いたせ』
と命じた。
新選組の様に浪士の中から責任者を選ぶでも、
浪士組みたく高級旗本の責任者、実質的な現場監督として中級以下の旗本から責任者を選ぶ訳でも無く、新徴組は出羽庄内酒井家から派遣された取扱頭取の松平親懐に一任され、それを補佐する為に新徴組取扱役が設置され、この役職も出羽庄内酒井家の家臣で独占された。
その下に肝煎取締と浪士側のトップが居て肝煎、剣術指南役、小頭などがあった。
指示は完全に上意下達であり、酒井家に完全に頭の上がらない状態だった。
新徴組そのモノの組織は
肝煎取締(定数3)→肝煎(定数6)→小頭(定数24)→平組士(定数120)
という感じ。
小頭1人と平組士5人の合計6人が市中巡回の最小単位。
1組と呼ぶ単位があり、6人✖4つで約24人に肝煎が組を束ねて合計25人。
それが6組存在し、合計150人前後。
肝煎の上に肝煎取締が3人存在する。
1人の肝煎取締が2組を管理統括する。
戊辰戦争時の幹部編成など
肝煎取締…3人。
•1番組、2番組担当:山田官司
•3番組、4番組担当:山口三郎
•5番組、6番組担当:吉田庄助
肝煎…6人
•1番組肝煎:分部宗右衛門
•2番組肝煎:渡辺平作
•3番組肝煎:仁科五郎
•4番組肝煎:大津彦太郎
•5番組肝煎:玉城織衛
•6番組肝煎:中川一
一日に2組ずつが当番として午後6時に出邸、決められた巡回地点を廻り、夜の12時頃に帰邸するのが恒例としていた。
新選組のように制服こそなかったが、揃いの朱の陣笠を被り、夜には庄内酒井家の紋所である
かたばみの提灯を下げて市中を練り歩いた。
新徴組の他にも酒井家からも二組が巡回、大砲組も巡回に参加するなど、市中見廻りを実施していた。
先の話になるが、慶應3年(1867)4月には、新徴組から30人を選抜して夜中に忍廻りが実施された。
5人1組を6組作り、1夜2組ずつが巡回する組の廻る場所へ前後して同伴した。
忍廻りは変装も勝手次第で、時に無刀で町人に化ける事があった。
5人は各自が呼子の笛を携え、1人ずつの間隔は110m程度とし、何かある時は呼子を吹いて集合する決まりで、合言葉も決めていた。
酒井家からも同じく忍廻りが実施され、慶應3年(1867)12月25日に廃止になった。
毎日市中の巡回を始めると、江戸の治安が次第に回復していったため江戸市民から
「酒井なければお江戸はたたぬ、おまわりさんには泣く子も黙る」
とまで謳われるようになった。
おまわりさんとは、古来からある市中巡回の官職である御見廻り(おみまわり)から由来する愛称であるが、この呼称は明治になって近代警察の巡査に受け継がれ、現代の警察官にも続いている。
待遇は文久3年(1863)9月22日、若年寄・田沼意尊の申渡しによると、小普請方伊賀者次席の格式からなる「御家人」に召し抱えられ、年間三人扶持、金25両が支給された。
後に、役職手当として肝煎取締は100石、肝煎は7人扶持、小頭は5人扶持、平組士は4人扶持が与えられ、基本給として年27両が支給された。
生活環境はもちの木坂の屋敷が完成すると、組士一人に個室が与えられ、家族との同居が認められ、組士当人が死亡すると嫡子や弟に相続が許された。
新選組が単身赴任なのを考えると生活は落ち着いていた。
組士の能力を高める為に、剣術指南役等が設けられた。
•剣術指南役
山田官司、玉城織衛、片山喜間多
•剣術世話方
天野静一郎、中村又太郎、中沢良之助、大津彦太郎、関口徳司、金子蔵之充、鈴木栄太郎、小堀大太郎、小沢勇作
•槍術教授方
山本荘馬、富田右覚、手塚要人
•槍術世話方
瀬尾権三郎、井上忠太郎
•柔術教授方
中川一、大島学
•文学教授方
桑原玄達、粟田口辰五郎
これは、生き残りの千葉弥一郎によると、新徴組の組士は腕っぷしは強いが頭は弱い為、目先の金に目がくらみ、宜しくない行動に移す奴が絶えなかったそうである。
そうした行いの悪い奴をシバく為に教育を重ねたとある。
酒癖の悪い組士達も多く、飲み屋や遊廓で暴れると
「ウワバミより怖いかたばみが来たぞ!」
と恐れられた。
水戸天狗党の残党狩りや禁門の変で孝明天皇の住む御所に砲弾を撃ち込み朝敵になった長州毛利家の江戸麻布中屋敷を接収した。
新徴組は元治元年(1864)5月3日に出羽庄内酒井家へ扱いを委任された。
実質、酒井家家臣みたいな感じだが、この段階では現代なら出向みたいな扱いになる。
同年12月12日、6番組の羽賀軍太郎、中村常右衛門、千葉雄太郎の三人が神田明神前で市中見回り中に二人の旗本が馬で突っこんだため、無礼打ちにする事件が起こった。
身元を確認すると、直参旗本小普請組500石の永島直之丞と小姓番組300石の小倉源之丞と判明。
新徴組とその上役の出羽庄内酒井家は行為は正当なモノと反論したが幕府側は「旗本」が新徴組という「御家人」に殺されるのは気に入らない、お前らも腹を切れ!とゴネて来た結果、新徴組の三人も詰め腹を切る。
なお、切腹した新徴組隊士3人の遺族は、いずれも減禄なしで跡目相続を許されたが、斬られた永島、小倉は狼藉者として処分され家は改易された。
同年12月13日には講武所剣術指南役・桃井春蔵が巨勢鐐之助という5000石の旗本に招かれ、息子や門弟を引き連れて稽古納めの帰り道、市中巡回の新徴組と鉢合わせになり、桃井側が端に避けて道を譲った。
新徴組側が更に誠意が足りない、頭が高いと頭ごなしに怒鳴ると、桃井側が講武所剣術指南役にそんな態度取るなら、上様に申し上げて、新徴組の今後を考えてもらう様にしましょうと話すと、新徴組側は謝罪し、今後二度とこの様な振る舞いはしない、申し訳ありませんでした、と逃げ出した。
慶応元年(1865)3月には、洋式銃の取り扱いが訓練に加わる。
幕府が新しく雇った陸軍歩兵が酒に酔っ払い、飲食店を破壊しているのを取り抑えたり、慶應2年(1866)の第二次長州征伐と米価高騰により江戸で困窮人達による騒動が発生した際、鎮圧の為に出動した記録が残る。
慶應2年(1866)9月頃、似非の新徴組が徘徊していると報告があり、ある日、似非の新徴組と出会した。
新徴組 「何者であるか?」
似非者 「酒井家の廻りでごさる」
新徴組 「雅楽頭候か、若狭候か、いずれの廻りか?」
似非者 「喰うと喰わぬのさかい(境)でござる」
というやり取りがあり、別の日には、困窮者の集団が徘徊し、米の高値には念仏が効くという。そのこころは
「鐘を叩いて、飯米だ(ナンマイダ)、飯米だ!」
と返答して、妙に納得されられた日もあった。
慶應3年4月には浅草にある出羽庄内酒井家下屋敷にて、イギリス式銃隊の訓練を行う。
江戸薩摩屋敷の焼討事件
孝明天皇の住まいに砲弾をブチ込んだ長州毛利家とその毛利家の同盟相手の薩摩島津家へ徳川幕府打倒の口実として討幕の密勅を慶応3年(1867)10月13日に薩摩島津家へ、翌14日には長州毛利家へそれぞれ下した。
同年10月14日、幕府が大政奉還を行ったため、薩摩島津家家臣・吉井友実は先に派遣された益満休之助と伊牟田尚平に破壊工作の一時中止を書状で指示しているが、雇われたテロリストが、俺達の時代が来た!と関東各地で集団による破壊活動を繰り広げた。
- 同年11月25日には上田修理ら十数名の集団によって甲府城攻略が計画されるが、事前に八王子千人同心に露見し、八王子宿で撃退された。
- 同年12月11日、竹内啓が同志とともに下野国出流山に赴き、尊王討幕を唱えて挙兵し、幕府軍に鎮圧された出流山事件。
- 同年12月15日には鯉淵四郎を首魁とする三十数人の集団が相模荻野山中•大久保家の大久保教義の屋敷を襲撃した。
- 同年12月20日の夜には鉄砲や槍などで武装した50名が御用盗のため島津家屋敷の裏門から外に出たところ、かねてより見張っていた新徴組に追撃され、賊徒は散り散りとなって島津家屋敷へと逃れ、後に治安維持を行う出羽庄内酒井家の詰所に発砲。
- 同年12月22日の深夜、新徴組が屯所としていた赤羽根橋の美濃屋に30人あまりの賊徒が鉄砲を撃ち込んで逃走。
- 同年12月23早朝に江戸城二の丸御殿に放火する。
- 同日、春日神社前にある出羽庄内酒井家の屯所として使われていた寄席の「吹貫」に鉄砲が撃ち込まれ、その亭主と使用人の2名が死亡した。
テロリスト側の指針となったお定め書きにあった攻撃対象は
「幕府を助ける商人と諸侯の浪人、志士の活動の妨げになる商人と幕府役人、唐物を扱う商人、金蔵をもつ富商」
の四種に及んだ。
同年12月24日、江戸城で評定が行われ、老中の稲葉正邦が
「大坂の情勢は複雑怪奇、上様=徳川慶喜の考えも複雑怪奇、大坂から具体的な指示が来るまで、指示待ちに徹しましょう。
浪士が暴れるのは、兵端を開くのと天秤に掛けたら、被害は少ない」
と流れが来るのを待つのではなく、流れを作って押し付けろ!と主導権を握る事を主張した。
松平親懐はこの評定に招かれ、江戸市中取締役として、
「お前ら直参がだらしないねぇ〜から、代わりに市中取締してやってんのに、討伐が出来ないってなんすか?
目の前で浪士が民衆イジメても、手を出すな!ってどういう事ですか?
江戸の民衆は今、泣いているんだ、それが分からないのか?
討伐出来ないなら、市中取締役辞めて庄内帰ります!
逆賊になるのがそんなに怖いですか?
我々が勝ち、気に入らない天皇なら、
後鳥羽天皇みたく隠岐の島に流して、天皇を独り占めすれば良いんですよ。
その姿勢が取れないから、徳川はここまで、窮乏に追い込まれたのでは?」
とやはり、自ら動いて主導権を握れ!と評定を主戦論で煽った。
南町奉行並の朝比奈昌広は松平親懐の発言が評定に出席していた人達の感情を刺激し、薩摩島津家屋敷の討伐へ話が決まったと記している。
酒井家は徳川陸軍にお雇い外国人としてフランス陸軍から派遣された実戦経験豊富なブリュネ大尉に相談、ブリュネ大尉も薩摩屋敷砲撃の計画書を提出した。
内容は、
『使用する大砲は四斤山砲、および四斤野砲。
一、邸内の見渡せる地を選び、榴弾で扉や窓を射撃して破壊する。
一、門、窓の隙間に散弾を打ち込む。
一、射撃の際は、仰角射を行うが、500メートル以上目標より遠隔地から行う。
一、邸内より
逃げる者に散弾を打ち込む。
一、距離の測定には詳細な地図を使う。不備の場合AからBの距離を駆けて計る。一歩は約1メートルとする。
一、砲弾は一門につき散弾は百発、榴弾、榴散弾は二百発を用意する。』
というモノ。
作戦は私怨による私戦とすることを避けるため、出羽庄内酒井家単独ではなく、徳川陸軍・上野前橋松平家・三河西尾松平家・出羽上山松平家、越前鯖江間部家、そして出羽庄内酒井家の分家•出羽松山酒井家と新徴組、大砲組の出動を決め、合計2000人の軍を動員。
慶応3年(1867)12月25日、証拠を握った酒井家は大政奉還・王政復古後も治安維持権限は徳川家にあることを理由にテロリストの引渡しを要求するも拒絶され、薩摩島津家屋敷、その分家・日向佐土原島津家屋敷を焼き討ちし、捕縛浪士57人、首5を挙げた。
因みに俗説では江戸の浜離宮を慶応3年(1867)12月23日に徳川海軍の長鯨丸で出港した大目付・滝川具挙と勘定奉行並・小野友五郎が25日に発生した薩摩屋敷焼き討ちを聞いて、28日に大坂城に到着して徳川慶喜に報告とある。
ん、23日に船で海に出た人が25日に陸で発生した事件を知っているってツッコミどころ満載の話である。
木村喜毅によると、27日に神奈川を出帆した「外国郵便船」に托された御用状でなされ、これが大坂に届いたのが30日である、と日記に記している。
滝川らが知っているのは最大で江戸城二の丸放火までの話であり、この話まででも大坂城にいる徳川方の将兵の怒りに火が付いたと判断出来る。
しかし薩摩屋敷焼き討ちは船が紀伊半島沖まで進んだ時点での話になる。
この時点で俗説は辻褄が合わないのだが、誰もツッコミを入れない。
という事は大坂と江戸のやり取りから話をねつ造ないし作り変えた人たちがいる、という話になる。
徳川慶喜の処分が少しでも軽くなる様に、鳥羽伏見の戦いの戦犯として小野は牢屋行き、滝川は屋敷で謹慎処分となるが、この処分に関わったのが勝海舟や越前福井松平家・前当主の松平慶永。
ツッコミどころ満載の俗説が定着したのは、慶喜が主導権を握る為に鳥羽伏見の戦いを起こした訳じゃないと、絶対恭順へ弁明する為の悪あがきかも知れない。
戊辰戦争
その後慶応4年(1868)の戊辰戦争では、江戸薩摩島津家屋敷を焼き討ちしたせいで「官軍」の標的となった出羽庄内酒井家に従い、所領の出羽庄内に赴く。
付き従う者は165人と言われる。
出羽庄内酒井家の下でイギリス式訓練を叩き込まれ、剣客集団から、エンフィールド銃で武装された洋式銃隊として、活躍することになる。
同年7月28日の矢島城攻防戦で新徴組150人は、標高2200メートルの鳥海山を走破して矢島城を急襲、
太政官に味方する領主の生駒親敬は驚いて、城を焼いて逃げた。
同年8月5日の太政官軍の反撃を退けると、温泉街で休養したのち、同年8月16日から、羽越国境攻防戦では主力として戦う。
明治元年(1868)9月23日、出羽庄内酒井家は太政官に降伏。
戊辰戦争終結時、
西郷隆盛は出羽庄内酒井家の占領統治を任され、占領軍による略奪暴行の厳禁と、酒井家家臣団に帯刀を認めさせて謹慎させた。
当時としては異例で薩摩内部でも
黒田清隆は敗者に寛大すぎると反発したが、西郷は逆らうなら再度叩き潰すだけと断言。
その後の出羽庄内酒井家は太政官から一度領地を没取されたが、天皇陛下の御慈悲という形で再度領地を与えられ、陸奥会津若松、次いで磐城平への国替え命令が公式に布告されたが反対運動を起こして断念、撤回させた。
長州系の
大村益次郎は負けた大名家が余力を残して存続とかあり得ないと、厳罰を与えて解体と一番乗り気だったが、攘夷派浪士に襲われて死去。
大久保利通、黒田清隆、
大隈重信らが厳罰で石高を大幅に減らしても、浪人を大量発生させて社会不安を起こしては身も蓋も無い。
太政官内部で厳罰解体論が勢いを失い、出羽庄内12万石としての存続を許され、藩治職制により「大泉藩」と名乗る。
本来ならば斬首すると宣言した前陸奥会津松平家当主・
松平容保や出羽庄内酒井家当主・
酒井忠篤の命を救うという寛大な措置に留めた。
維新後の新徴組
庄内に来てからは、大宝寺村に屋敷をあたえられ、荒れ地の開拓に従事した。
明治4年(1871)7月14日の廃藩置県の詔により、大泉藩がなくなり、庄内地方は酒田県として成立、県の役人は全て大泉藩の人物で独占された。
廃藩置県で主従関係は消滅、庄内からバイバイ、といって新徴組が去ろうとすると、酒田県は
『そうは問屋がおろさねぇ、ここに留まりな!』
と監視の眼を光らせた。
開墾計画に従わなかったり、酒田県幹部に異論反論を唱えると、士道不覚悟につき切腹という罰則が待ち構えていた。
新徴組組士の出身地は多い順で上から武蔵、甲斐、上野、信濃、常陸で全体の3分の2を占め、出身身分は150人中81人が武士の次三男や浪人より、農民、神主、行商人の子などが剣術などで身を立てようとしていたと言われる。
新徴組からすれば今更元の農民はヤダ!、温泉と釣りと米と山寺しかない庄内は、娯楽がなくてツマらない!、同じ死ぬならせめて庄内でコキ使われて死ぬより、生まれ故郷に戻って死にたいのが人情である。
新徴組組士60人ほどが脱走を実行、酒田県幹部の横暴を東京の司法省に訴えた。
太政官内部でも参議兼司法卿・
江藤新平や参議・大隈重信や大蔵大輔・
井上馨などが話を聞いて、調査をしようと提案したが、当時、太政官の実権を握る
西郷隆盛は、酒田県幹部の言い分を全面的に採用し、司法省(江藤)や大蔵省(井上)に圧力をかけて訴えを退け、新徴組を絶望のドン底に叩き落とした。
新徴組が自由を得るのは、
西郷隆盛が明治6年の政変で失脚し、酒田県幹部も太政官の政令を実施せずに勝手なことをやるのはケシからんということで、太政官内部では大隈や長州閥から、外部では地元農民からの圧力を受け総辞職に追い込まれるのを待たなければならなかった。
その後の足取りは、警察官として就職し、明治10年(1877)の西南戦争で
西郷隆盛に怨みの刃を振り下ろす者もいれば、名前を変えて異郷の地で先生になる者もいれば、
故郷に戻ると一家は離散、家族を探している内に自身が社会の闇に落ちた者、政治に関心を持ち、自由民権運動に参加した者、
税金が高くて選挙権を得ることができず、暴力壮士として活動している内に犯罪者として監獄に入獄した者、
運良く実家が無事で、家業を継いだ者、他家に養子にいくことが出来た者、様々である。
一つ言える事は、新徴組で庄内に残留した者は少ないと言うことである。
関係者
松平親懐(1838〜1914)
出羽庄内酒井家の家老、通称は
権十郎。
江戸市中取締役を拝命すると、新徴組御用掛となり、幕府、酒井家、新徴組の調整を担当した。
その後、新徴組が酒井家預りになると、江戸市中取締を指揮、江戸の民衆から
「江戸の(市川)団十郎、庄内の権十郎」
と持て囃されるようになる。
しばしば幕府の評定に参加して発言する程まで影響力を拡大した。
菅実秀を懐刀に従えて筆頭家老として幕末の出羽庄内酒井家を佐幕主戦派へ導き、イギリス式軍制で編成された約五千の軍隊は幕末に精鋭の名を欲しいままにした。
戊辰戦争後は手のひら返して太政官、特に薩摩、更に
西郷隆盛と仲良くなり、藩治職制後の大泉藩で大参事、廃藩置県後の酒田県で参事として権力を握り続け、士族の権益擁護を露骨に推し進めた。
明治六年の政変で
西郷隆盛が失脚すると、太政官からは井上馨、大隈重信、地元の民衆からやり過ぎと抗議の声があがり、失脚に追い込まれ、裁判の結果、東京で禁錮235日の実刑判決を受ける。
出所後、大蔵省7等出仕として官職に就くが、人望はあるが細かい事務処理能力が無いことから、本人も居づらくなり退職、庄内に戻り、開墾事業の責任者として過ごす。
菅実秀(1830〜1903)
出羽庄内酒井家の側用人、通称は
善太右衛門、
秀三郎。
江戸市中取締役を拝命すると、江戸留守居役、江戸府内取締御用、新徴組御用掛となり、幕府、酒井家、新徴組の調整を担当した。
松平親懐とコンビを組み、反主流派を完膚なきまでに封じ込め、戊辰戦争では軍事掛として武器弾薬兵糧の確保、資金繰り、兵員の補充に辣腕を奮った。
戊辰戦争後は戦後処理に奔走。
藩治職制後の大泉藩で権大参事、廃藩置県後の酒田県で権参事として権力を握り続け、
西郷隆盛と仲良くなり士族の権益擁護を露骨に推し進め、明治六年の政変で
西郷隆盛が失脚すると、太政官からは井上馨、大隈重信、地元の民衆からやり過ぎと抗議の声があがり、失脚に追い込まれた。
その後、
西郷隆盛を訪ねに鹿児島県に旅行に行ったり、西南戦争では庄内士族の暴発を止め、元当主・酒井忠篤兄弟がドイツ留学から帰国して東京でのやり取りを聞かされた庄内士族たちは忠篤・
忠宝を庄内に住まわせ、東京に行かせなかった。
西郷死後は
御家禄派として庄内士族をまとめ、事業家として
山居倉庫、荘内銀行の前身である第六十七銀行、製糸会社・松岡製糸所、酒田米商会所の事業を立ち上げ、軌道に乗せた。
西郷教庄内支部として西郷隆盛の言葉を後世に伝えようと、「南洲翁遺訓」を編纂し、活字にし、約1000部が発行された。
慶応3年(1867)9月25日、知り合いの岩五郎に誘われ、隅田村付近で銃を使用した鳥狩りを行った。
この辺りは将軍以外は狩りが禁止されている「御留場」と呼ばれる場所で、付近には高札で
『御留場内へ鉄砲携帯して殺生する奴は、見つけ次第取り押さえて役所に付き出せ!
手向かいする奴は幕府が殺人を許可するから、罪には問わない』
と書かれていた。
菅はそこで狩りをして見つかり、村人を一人殺した後、←いや、逆だからね!君が殺されても文句言えないの!残りの村人に袋叩きに合い、役所に突き出された。
幕府から報せを受けた酒井家は菅の身柄を引き取り、村人の遺族に1000両の賠償金を支払い、示談にした。
酒井家内部で厳罰論が出てきたが、酒井家の実力者、元当主•忠発の温情を忖度した松平親懐が討幕派の事情を調べるという名目で、大坂に送り出した。
新徴組隊士には、冷徹、酷薄、横暴と批判されたが。
田辺儀兵衛(1825〜1895)
出羽庄内酒井家の新徴組頭取。
儀兵衛は通称、諱は柔嘉
出羽庄内酒井家家臣・東野利右衛門の三男として生まれる。
嘉永3年(1850)同家家臣・田辺羽右衛門の婿養子となり、120石の家督を継ぐ。
同年3月から亀ヶ崎御蔵方を勤め、安政7年(1860)3月英国船来航の時、酒田で折衝に当たる。
同年鶴岡に帰って御金請払役となった。
文久2年(1862)5月、江戸勤番となり、当主・忠寛の御使者番となったが、翌年10月帰郷して櫛引通の代官、11月に再び江戸勤番となり、元治元年(1864)9月新徴組頭取を命ぜられ、江戸市中取締に当たる。
慶応4年(1868)2月に郡代、戊辰戦争が起こると軍事掛として庄内軍が占領した領地の行政官として手腕を奮い、300石に加増。
菅や本間家とともに戦後処理に奔走し、会津若松や磐城平への国替え命令を撤回させる裏工作に携わった。
明治4年(1871)廃藩置県後、酒田県が成立するや大属に任命される。
山田官司(1825〜1869)
新徴組組士。剣客。
文政8年(1825)に安房国平郡亀ヶ原村の農民・千右衛門の次男に生まれた。
184cmの恵まれた体格を持つ。
幼い頃から剣術修行をし、後に江戸に出て北辰一刀流の千葉周作に弟子入り、免許皆伝を与えられる。
嘉永6年(1853)に『北辰一刀流剣法全書』を書き北辰一刀流の理論をまとめている。
藤森弘庵に弟子入りして国学、菊池容斎、春木南溟に弟子入りして絵を学び、勝海舟などと交流があった。
文久2年(1862)に八幡村名主・根岸勝助や湊村名主・多田富五郎に剣術免許を与えるなど、郷里安房で剣術指南をおこなっていた。
文久3年(1863)、幕府が尊皇攘夷の尖兵として浪士組を編成すると参加。
京都には残らず、江戸に戻り、出羽庄内酒井家指揮下になる新徴組が再編されると、剣術教授方、肝煎取締役という指導的地位につき、酒井家から百石を与えられている。
慶應4年(1868)の戊辰戦争では、酒井家と行動をともにし、新徴組に属して庄内まで行って太政官と戦っている。
越後国境の番所である関川(現山形県温海町)での戦闘で受けた銃創がもとで、翌年5月に破傷風にかかり45歳で亡くなった。
小林登之助(1828〜1866)
大砲組頭。砲術家。
播磨国三日月森家(1万5千石)の家臣・小林宮之助の弟。
地元で砲術を学び、出奔して江戸神田お玉ヶ池に塾を開いて砲術、火器、操練の教授を行う。
文久3年(1863)、幕府が尊皇攘夷の尖兵として浪士組を編成すると塾の運営を師範代に任せて参加した。
京都には残らず、江戸に戻り、出羽庄内酒井家指揮下になる新徴組が再編されると、練兵教授方に任命された。
その後、塾の門下生を幕府配下に就職させようと新徴組を離れた。
同年10月、幕府から内御用を命ぜられて大砲組を組織。
元治元年(1864)11月、大砲組79人は新徴組と共に酒井家預かりになった。
慶應2年(1866)10月29日、自宅のある江戸神田お玉ヶ池で刺客達に襲われ、長男、次男と共に誅殺された。
出羽庄内酒井家での待遇が
「思ってたんと違う!」
と考え、他の大名家に売り込む為に活動しようとした矢先だった。
刺客達は新徴組の椿佐一郎たちが松平親懐や菅実秀ら新徴組御用掛に命じられて行った。
出たり入ったりする動きの怪しさと、時期的に第二次長州征伐で徳川幕府が負けたのと出羽庄内酒井家が主流派と反主流派との間がギクシャクしていて、前日に国許で反主流派を拘束したり、逮捕していたので、それと一緒くたにしたのかも知れない。
享年39歳。
大砲組は後に新整組と改めて慶應4年(1868)の戊辰戦争では、庄内酒井家と行動をともにし、新徴組と共に庄内まで行って太政官と戦っている。
山口三郎(1833〜没年不詳)
新徴組組士。浪士組道中目付。
諱は高賢。
天保3年(1833)安芸広島浅野家(42万6千石)領内の備後国御調郡綾目村に郷士・山口六兵衛の三男として生まれる。
見た目は
「体躯矮小ながら眼光炯々、すこぶる意思強く、機略に富んだという」
と伝えられる。
若い頃は蘭学や砲術を学び、浪士組の募集が掛かる前は川越で医者をしていた。
と言っても、医学の心得などなく、友人の長屋玄平には、
「医学は少しも知らぬが、医者になるのは難しき事はない。病人という者は9割方、薬で治るのでなく、寿命があれば薬が無くても勝手に身体が治してくれる。医者としては腹痛の治し方さえ覚えておけばやっていける。開業しようwww」
と話し、薬を買い込んで、近隣の者へ施薬した。
不思議な事に薬は病気に効き、行列の出来る医師として評判になり、大金を手に入れた。
彼は医師としての成功をまぐれと受け止め、浪士組の募集が来たのを好機に廃業、浪士組に参加し、頭角を表して、道中目付に就任していた。
浪士組に参加した大半は尊皇攘夷思想の持ち主だったが、山口は長屋にだけ
「攘夷だの、鎖国だの、アホの戯言だよ」
と吐き捨てていた。
江戸に戻り、新徴組に鞍替えになると出羽庄内酒井家と浪士たちの調整役に納まり、山田官司とともに肝煎取締役に就任、出羽庄内酒井家から百石を与えられている。
慶應4年(1868)の戊辰戦争では、出羽庄内酒井家と行動をともにし、新徴組に属して庄内まで行って太政官と戦い、新徴組を離れて、酒井家が組織した農兵隊の隊長に就任している。
戊辰戦争後の大泉藩体制下で東京勤務になり、廃藩置県直前で士籍を東京府へ移籍。
勝海舟と親しく、勝からは
「新徴組には勿体ないキレ者」
と評され、徳川幕府の事情を調べようとする人は、
「新徴組の事は山口三郎に聞け」
と言われる。
その後の足取りは不明。
中川一(1823〜1892)
新徴組組士。浪士組狼藉者取押役。
元は越前福井松平家(32万石)の家臣・
中川清閑の2男。
安政4年(1857)6月25日に下総佐倉堀田家の演武場には全国から様々な武術流派が武者修行に訪れていたが、修行者姓名簿の中に
「東都
戸塚彦介門人、中川一」
と名前が残る。
戸塚彦介は楊心流という柔術の使い手で幕府の講武所が設けられた際に幕府の推薦により柔術教授方頭取に任命され、愛宕下の柔術場に在籍した門人は1600人余りとされ、中川はその中の一人で免許皆伝を認められた。
浪士組の誘いがあった時は江戸に住み、新陰流剣術の免許皆伝を認められ、道場を営んでいた。
浪士組に参加すると、頭角を表し狼藉者取押役に就任。
新徴組では6番組肝煎、柔術教授方を務めた。
素手の戦いなら中川に定評があると、新徴組では謳われた。
新選組の近藤勇とは手紙で互いの近況を教える間柄だった。
戊辰戦争中の慶應4年(1868)7月酒井家に編入し、100石を与えられ、代官に就任。
新徴組の脱走事件では粛清する側に回り、元組士から訴えられ、裁判の結果、禁錮90日の判決を受けた。
廃藩置県後は
飽海郡菅里村に移住し、そこの
戸長となり、そこで没したとある。
須永武義(1855〜1926)
新徴組組士。
通称は
宗太郎。
武蔵国飯塚村の農家・
須永宗司の長男。父は
浪士組の徴募に応じ、新徴組に引き続き参加し、一番組に在籍。
父は慶応元年(1865)6月
もちの木坂の屋敷の部屋割りに名前があり、その後病没。家督を相続した。
戊辰戦争では庄内入り、新徴組では楽隊に所属し、その後、荒れ地の開拓に従事した。
生活や待遇の悪さから明治6年(1873)2月脱走、他の脱走者と一緒に酒田県幹部の横暴を東京の司法省に訴えた。
その後、故郷に戻り明治7年(1874)陸軍士官生徒として陸軍兵学寮に入り、明治10年(1877)4月、陸軍少尉に任官。
その後、昇進と武勲を重ね、明治44年(1911)9月、陸軍中将に栄進。翌45年(1912)2月、予備役入り。
追記・修正は、自由の身になってから、お願いします。
- 幕末系の本でも、良くて戊辰戦争絡みで名前がちょろっと出てくるくらいだからなぁ -- 名無しさん (2014-03-31 17:58:54)
- ちるらん好き -- 名無し (2014-04-11 10:10:00)
- だれかこいつら主人公の歴史小説書いてくれないかな -- 名無しさん (2015-06-29 12:30:37)
- 佐藤賢一さんが新潮社から「新徴組」を執筆されてますよ。 -- 名無しさん (2015-09-21 14:22:42)
- 新撰組のパチm…もとい、元ネタにした隊のことかと思ったら実在とは… -- 名無しさん (2016-09-21 19:57:32)
- ↑母体は新徴組。ただ、これといってキャラの立った奴がいない。新選組はキャラが立ちまくっているので。 -- 名無しさん (2017-03-12 05:18:29)
- 酒井家が庄内を再び領地化できたのは30万両を新政府に献金したから。その金の出どころは「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」で有名な本間家 -- 名無しさん (2021-07-12 10:43:30)
- 同じ立場に南部家がいたけど、あちらは資金繰りに失敗し、自主的に廃藩している。 -- 名無しさん (2022-07-26 16:13:33)
- ↑遅レスで悪いが、南部家のは大阪の勘定方が外資と業務提携して賠償金70万両を返済しようと独断で契約。国許に事後承諾を求めるが、国許は賠償金を外資との業務提携で支払うとか言語道断、絶許。外資から違約金を求められると困った大阪の勘定方は業務を担当する予定の村井茂兵衛に違約金を負担させた。村井は独断で負担はあり得ない、と南部家から村井に貸したと言う形の借用書を書かせた。廃藩置県後、太政官が外債の整理をしていると、村井の負債が一部未払いなのでこれを立て替えて支払い、村井の借用書に目を付けて、形式通りに借金の返済を請求。村井が支払い能力無しとみなし、村井の尾去沢銅山を没収し、大蔵省の管轄にし、井上馨や岡田平蔵が手に入れた。悪名高い尾去沢銅山事件に繋がる。 -- 名無しさん (2024-07-29 14:43:00)
- 久しぶりに見たらかなり充実してるな。浪士組の方も是非。 -- 名無しさん (2024-09-19 15:21:45)
最終更新:2025年04月21日 04:18