三好長慶

登録日:2011/07/08(金) 23:55:25
更新日:2025/01/31 Fri 11:27:04
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三好長慶(みよし-ながよし/ちょうけい)とは、戦国時代の武将である。(1522年〜1564年)
阿波国三好郡(現在の徳島県三好市)に生まれる。
細川政権を事実上崩壊させ、室町幕府将軍・足利義晴、足利義輝共々京都より放逐し、三好政権を樹立する。その後は足利義輝、六角義賢、畠山高政らと時に争い、
時に和議を結び畿内の支配者として君臨した。


【出自】
山城国(現在の京都府南部)下五郡守護代であった
三好元長の嫡男で、細川澄元に属して阿波国より
上洛した三好之長の曾孫。


【出生・家督相続】
1522年細川晴元の重臣である三好元長の嫡男として現在の徳島県三好市にある芝生城で生まれる。
父は細川晴元配下の重臣三好元長で、主君・晴元の敵であった細川高国を滅ぼした功労者であった。本国阿波だけでなく山城国にも勢力を誇っていたが、その勢威を恐れた晴元達及び一族の三好政長・木沢長政らの策謀で蜂起した一向一揆によって、1532年に殺害された。当時10歳の長慶は両親と共に堺にいたが、一向一揆襲来前に父と別れ、母と共に阿波へ逼塞した。


【若年期の活動】
細川晴元が元長を殺害するために借りた一向一揆の勢力はやがて晴元でも抑えられなくなり享禄・天文の乱となる。
そのため1533年6月に長慶は一向一揆と晴元の和睦を
斡旋した。(交渉自体は長慶の名を借りて、
叔父の三好康長など代理の者がしたと思われる)
しかし8月に本願寺と分離していた一揆衆が講和に応じずなおも蜂起したため、長慶は一揆と戦って摂津越水城を奪回した。
翌年になると本願寺に味方して細川晴元軍と戦い、潮江庄で晴元方の三好政長と戦ったが、河内守護代でもあった木沢長政の仲介や、年少であるという理由から許されて晴元の下に帰参した。


【細川晴元駆逐】
だが、長慶は父を殺した晴元を赦してはいなかった。
1548年、父親の無念を晴らすべく細川晴元に反旗を翻し、晴元と敵対していた細川氏綱に味方し将軍足利義輝、細川晴元を京都から追放。
更に同族ではあるが父の殺害を画策した三好政長を討ち取り細川の勢力を崩壊させる。



【政権樹立】
遂に細川晴元の勢力を崩壊させた長慶は、自らの政権を作り上げる。
幕府を滅ぼすことなく、将軍を傀儡とし、管領をも監視下に置き幕政を支配したのである。
1552年に争っていた足利義輝、及び細川晴元と和睦。翌年両者と争うがこれを撃破、再度義輝と和睦。
以後、何度も義輝が長慶を暗殺しようとしては失敗し、義輝を追放してはまた連れ戻す、ということを行っていた。
本格的な和睦は最初の和睦から六年経った1558年のことであった。

彼の政権は殆どを長慶自身の才覚と、三好義賢、安宅冬康、十河一存などの優れた弟、畠山氏の実権を握っていた舅の遊佐長教の支援、
そして支配していた堺の財力によって成り立っていたが、その構造は脆いものだった。


【衰退へ】
1550年に長慶の暗殺を諦めた将軍足利義輝の矛先が遊佐長教に向かい、彼が暗殺されてしまう。
その後畠山氏は三好政権と袂を分かち、当主の畠山高政と争うこととなる。
六角と連携した畠山氏は意外に手強く、長慶は一時京を逐われるなど苦戦してしまう。
松永久秀・長頼兄弟の活躍などによって畠山、六角両氏はまた長慶の影響下に戻るが、ここから三好政権の衰退が始まっていく。

そして畠山、六角両氏を漸く片付けた1561年、猛将の十河一存が病を患ってしまい死去(有馬温泉で湯治中、松永久秀の忠告を聞かずに落馬して死亡という説もある)、
翌1562年、今度は三好義賢が久米田の戦いの最中、先陣が突出した隙を突かれ根来衆によって射殺、
更に翌1563年、有能な嫡男である義興が病死してしまう。
信頼していた嫡男、弟二人の死に長慶は酷く動揺することとなり、それにつけ込んだ松永久秀の台頭を許してしまう。
松永久秀については一存、義興の暗殺をしたという風説まで世には溢れており、長慶の動揺ぶりがうかがえる。

松永久秀を重用し、自らの耳目としたことが彼の悲劇を生むこととなる。


【死】
義興の死の翌年の1564年、三好政権を牛耳る為には穏健派の安宅冬康が邪魔と判断した松永久秀の讒言により、
長慶は謀反の疑いをかけ冬康を呼び出し、自害させてしまう。
冬康の死後無実を知った長慶はひどく悲しみ、鬱病にかかり、病床に伏せ、冬康の死から2ヶ月後の7月4日、42歳で病死してしまう。
彼の死は憶測を呼び、松永久秀或いは三好三人衆による暗殺も噂された。

長慶の死後、養子の三好義継が家督を継承するが、既に義継に実権はなく、松永久秀と三好三人衆に牛耳られた三好家は、長慶がなんとか阻止していた将軍暗殺、
そして内紛と崩壊にひた走っていく。


【戦国大戦での三好長慶】

「私が天下を掴むのだ!」

2.5コスト 武力8 統率9 制圧/魅力
計略…混沌の匣(4)

制圧と魅力を持っていることを差し引いてもコスト比スペックは少々厳しい。が、彼の本領は計略にある。
士気4と軽いが自身前方に戦場の1/4弱の範囲の陣形を作り、範囲内の敵部隊の統率を下げる。効果時間は驚愕の64Cで、士気対効果は破格。
「統率だけ下がっても…」と思うかもしれないが、戦国大戦では統率に差があると敵部隊を弾くことができるため、
陣内では敵を一方的に弾くことができ、大筒の奪取などが容易になる。
また統率の下がった相手に妨害をかけ長い間弱体化する、ダメージ計略のダメージ量を増やすなど用法は様々で、かなり汎用性が高い。
「魔王上洛」では範囲大幅減少という大幅な弱体化を食らい、その後少しずつ上方修正や研究によって復権してきたが、
「葵 関八州に起つ」にて追加された「立花誾千代」(他家で2コストのダメージ計略)の相方として計略やコスト面が非常に高相性として注目され、
一躍時のカードとなる。
この「混沌雷声デッキ」は対策の少なさも相まりあっという間に蔓延。結果SEGAに目を付けられることとなり容赦なく下方修正の憂き目にあってしまった。

「私は間違っていたのか」

【英傑大戦での三好長慶】

2.5コスト 武力8 知力8 防柵
計略…混沌の陣(4)

英傑大戦でも最初期から参戦。勢力は玄。ちなみに弟たちは全員不参戦。
変わらず弓兵で、統率が知力に変わった事を加味しても知力が下げられ、特技も丸ごと変更された。
計略は「混沌の」に変わっており、こちらも知力低下に変更されている。しかも永続である。
しかし、統率の時と違いまさに「知力だけ下がっても……」状態に陥っており、一応攻城速度を下げる恩恵はあるのだが範囲が回転しない割に前に長いので範囲に入れるのが滅茶苦茶大変。
頼みの綱のダメージ計略も同勢力はボンバーマン(3コスト自爆)一人とどうしたらいいのかよくわからない状態だった。
後に範囲は回転可能に、ダメージ計略も少しだけ増えたがはっきり言ってパーツを選びすぎるため日の目はあまり見れていないのが現状。

ちなみに絵師は同じだが声優は何故か変更されている。

「私は間違っていない!」


【戦極姫での三好長慶】

一作目はモブとして三好家当主として登場していたが、二作目からは顔有り武将になり、イベントが追加されたりした。

何故か合戦の台詞が色々とハジケている。

二作目当初の性格は無口天然キャラだったが、三作目以降から生真面目になった。

三好家ストーリーも追加されたが…肝心のメインは松永久秀だったが…(しかも選択肢次第では亡くなる)。


追記・修正宜しくお願いします

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最終更新:2025年01月31日 11:27