足利義輝

登録日: 2009/11/22(日) 20:03:47
更新日:2024/02/05 Mon 05:31:47
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足利義輝とは室町幕府の第13代征夷大将軍
戦国時代にもっともふさわしい将軍にして、将軍にもっともふさわしくない漢。
塚原卜伝に剣術を学び、腕前は奥義である一の太刀を授けられる程の域に達していたとされることから通称『剣豪将軍』の二つ名で呼ばれていた。

1536年生~1565年没



【生涯】

《誕生》

第12代将軍・足利義晴の嫡男として東山南禅寺で生まれる。母親は近衛尚通(太政大臣・関白)の娘。

《将軍就任》

天分十五年(1546年)11才で父から将軍職を受け継ぎ、室町幕府の第13代征夷大将軍となる。
しかし、将軍に就任したものの、当時の将軍に実質的な権力はなく、幕府の実権は義輝から見ると陪臣に過ぎない三好長慶が握っていた。
もしも、義輝が平凡な君主であれば、長慶の傀儡に徹し、三好氏の庇護のもと将軍という地位が生み出すささやかな贅沢と平穏な日々に満足しただろう。
恐らくは本人にとっても、周囲の人々にとっても、それこそが一番幸福な選択だったと思われる。
しかし、この場合は残念ながらと言うべきか、足利義輝という男は、お飾りの将軍であり続けるには良くも悪くも才能と覇気が有り過ぎた。

《都落ち》

将軍に就任した義輝は、操り人形であることに満足せず、自ら政治を行おうとしたことから三好長慶に謀反を起こされ、近江半国の守護である六角定頼を頼り近江の坂本に逃れた。
以後たびたび京都を追われる生活を強いられる。
因みにこの時期に京都奪還の足掛かりとして義輝が築城したのが中尾山城。
三つの曲輪と出丸からなる小さな山城だが、二重の壁の間に石を敷き詰めるという日本で初めて鉄砲に備えた城造りをしている。
中尾山城が築城されたのは、鉄砲伝来から僅か七年後の事であり、その普及率の高さと義輝の先見の明がうかがえる。
またこの時期に義輝は、庇護者である近江の六角氏だけではなく、能登の畠山氏、越前の朝倉氏、若狭の武田氏といった日本海沿いの大名たちと同盟関係を築いている。
これらの大名は、日本海から琵琶湖を経て京都へと至る北回りの流通経路に依存して領地の経営を行っており、瀬戸内海から大阪湾に荷揚げし、京都へと至る南回りの流通経路を抑えている三好氏とは敵対関係にあった事から義輝を支援した。
つまり義輝と三好長慶の対立は、日本海と瀬戸内海という二つの流通圏の代理戦争だったとも言える。

《京都帰還》

三好との戦争が続いたが、当時、三好の家臣であった松永久秀の取り成しで遂に和睦した。
その切っ掛けとなったのは、大内氏を滅ぼし西国の覇者となった毛利元就の義輝への支持だった。
もしも応仁の乱の時の大内政弘のように元就が大軍を率いて京都に進軍し、それに義輝が呼応すれば、東西から挟撃された三好に勝機はない。
何より瀬戸内海の西の出入り口である関門海峡を毛利に封鎖されてしまえば、瀬戸内海交易に依存している三好氏は経済的基盤を失うことになる。
永禄元年(1558年)長慶は自分を幕府の要職に就ける条件で義輝に降伏。
相国寺において義輝に降下の礼を執り、義輝は五年ぶりに京都への復帰を果たした。
これにより義輝は一時的とはいえ、数世代ぶりとなる将軍親政を復活させ、名目上ながら長慶を臣下に加える事に成功する。

だが京都に戻った義輝は何の権限も持たない、ただの傀儡将軍として扱われた。
この頃に、余りに暇だったのか、様々な剣豪から剣術を学び、「剣豪将軍」とまで言われる程の腕前となる。

《義輝、横死》

永禄七年(1564年)長年の宿敵である三好長慶が死亡。
それをきっかけに次々と多数の大名による反三好同盟が結成され、三好は衰退。
大名間の争いの調停などをすることで義輝はようやく将軍として輝きを取り戻しつつあった。
だが三好長慶死後、実権を握っていた松永久秀は義輝を排除しようと画策する。
そして1565年5月19日、松永久秀の息子・久通は、三好の軍勢も率いて義輝の居城・二条城へ軍勢を奇襲した。

しかし義輝は、かつて上泉信綱や塚原卜伝に剣を教わり、奥義を授かった程の剣豪。

足利家の宝刀を何本も畳に刺し、刃こぼれや脂で切れが悪くなった刀を取っ替え引っ替えし、襲い来る敵兵をばっさばっさ斬り捨てて応戦。
なにこのリアル無限の剣製。本当に将軍様かこの人。

いくぞ松永久通———武器の貯蔵は充分か

しかし多勢に無勢、奮戦した義輝も畳や襖を盾代わりにした敵兵に四方から槍で突きかかられ、ついに首を取られてしまった。
この時死んだ兵の数は、伝記によると『倉一ツ埋まりて候』だったそうな。


辞世の句

五月雨は

露か涙か

不如帰

我が名を挙げよ

雲の上まで


辞世の句からは志半ばで倒れる無念がうかがえる。





以下ネタバレ













先に暗殺合戦を仕掛けたのは義輝の方であった。
三好長慶暗殺計画が何度も実行されたが、全て失敗に終わっている。

また、足利将軍家の権威の復興を目指したものの、勝算が無いのに挙兵しては京都から敗走、長慶と和睦して帰京を繰り返していた。

こうして幾度も反旗を翻していたが、長慶は特に義輝をどうこうしなかった。
これは悪名を防ぐためとも単に殺生が嫌いだったとも言われる。

が、やはりと言うべきかあの義理ワンはそんなヌルいものではなく、
長慶亡き三好家の脅威筆頭であった義輝を見逃すはずもなく、永禄の変(義輝殺害)に至った…というのが通説となっているが、
前述の通り実際に義輝を襲撃したのは三好の軍勢を率いた久秀の息子の久通であり、この変事が起きた時には久秀は大和国に赴いていて不在だった上、
後に第15代将軍として擁立される義輝の弟・覚慶にも、この変が起きる前に義輝の命までは取らない旨の誓詞を立てており、
一般的には黒幕扱いされている久秀だが、義輝を将軍から降ろすことはともかく、その命まで奪うつもりはなかったのではないかとも言われる。
とはいえ、積極的に義輝殺害に反発していたとする史料もないため、殺してしまっても仕方ないという腹積もりだった可能性はある。

しかし、いくら実権はなくとも天下の足利将軍家の威光は京都の民衆や京都の魔物たる公家に一定の支持を得ていたのか、
義輝を殺害した三好衆らは民衆や公家の反発を喰らい、彼らが第14代将軍として擁立した足利義栄は(献金をしなかったこともあって)朝廷からは将軍として認められず、
やがて足利義秋(のちの義昭)を奉じて上洛しようとした織田信長と三好衆の諍いの最中、持病が悪化した義栄は若くして死去。
三好衆も信長との諍いに負けて義秋の上洛を許してしまい、彼が第15代将軍として朝廷に認められたことで権威は信長と義秋に奪われることになった。
そういう意味では、彼の生命を賭して行った足掻きは無駄ではなかったかもしれない。

結論としては、高い志と強い意志を持ち、短期間ながらも将軍親政を実現させた将軍の鑑と言える。
しかし将軍家の威光の維持に固執するあまり戦機を得る前に行動するなど、戦略家としての力は欠けていたようである。
(弟の足利義昭は織田家包囲網という勝算が出来るまでは大人しく従っていた)

また将軍親政にこだわるあまり三好三人衆や松永久秀(久通)に襲撃されて殺害されたり、その襲撃も味方が領国から動けない時に起こされたりと甘いところが多い。
自身の官位も将軍就任翌年に従四位下に就いた後18年間そのままであり*1、内裏への参内もわずか5回しか記録に残っていない。
まだまだ権威が残っていた朝廷との関係もうまくいっていなかった可能性がある*2
正直「政治家」としての才能も低く評価せざるを得ないだろう。
というか「剣豪将軍」というあだ名自体が「剣なんかにハマってないでちゃんと政治をやれ」という陰口であったという説まである。

もっとも、そもそものスタートが実権のない将軍家という不利な状況であったため、多少の無謀は仕方がなかったとも言える。
将軍家の復興という行動理由こそが、最も彼の首を締めていたのかもしれない*3
また、もし丁寧な政治姿勢をとったとしても、当時の戦国情勢を考えればやはり危険視されて消されたであろう。
すでに六代将軍・足利義教が暗殺され、十代将軍・足利義材と十一代将軍足利義澄が監禁・追放を繰り返した当時、政治に口を出す将軍への理解は得られなかっただろう。


一方、剣豪としての実力は折り紙付きかといえばそういうわけでもない。
そもそも最期の逸話は遥かに後の江戸時代後期、あるいは成立時期不明の史料が出典であり、
同時代に書き記されたルイス・フロイスの手紙や彼の書いた「日本史」、公家の日記「言継卿記」、江戸初期にまとめられた「信長公記」には、
「畳に刺した複数の刀を取り替えながら戦った話」どころか、「名刀コレクションを使った」ことすら一言も書かれていない
また「剣豪将軍」という呼称についても将軍に対する当時の呼び方は、「公方」「大樹」「室町殿」が一般的であったことから後世の創作と考えられている。

新当流の奥義「一の太刀」を授かったという伝承も同様であり、比較的信頼性の低いとされる「甲陽軍鑑」など後世の資料に確認されるのみであり、
同時代の資料には義輝が剣術において奥義を極めたという記述や免許を皆伝したという明確な記述も存在しておらず、印可状の類も現存していない。
というか新当流の伝承では、塚原卜伝が「唯授一人」の一之太刀を伝授した相手は北畠具教となっている。
(ただし甲陽軍鑑は、近年の研究で「信頼性が低い」という定説に様々な問題があり、むしろ当時の情報を伝える重要資料と目されてきている。武田信玄の項目も参照)

とはいえ後の時代ではあるが柳生宗矩が細川忠利に高弟の雲林院弥四郎を推挙した際の書状において、
上方における卜伝の直門として弥四郎の父・雲林院松軒と共に、義輝と北畠具教の名を挙げていることから卜伝の直門であったか、
もしくは宗矩ら当時の人間に卜伝の直門と思われていたことは間違いないようである。

因みに卜伝とは異なり上泉信綱に剣を学んだとする同時代の資料は存在せず、上記の資料にも記載がない。
実際に上泉信綱による兵法上覧と諮問に答えたことが拡大解釈されただけと思われる。

ちなみに、実際の最期についても諸説あり、ルイス・フロイスの手紙や「日本史」では刀を抜いて抵抗したものの討ち死にしたと記されているが、
当時の公家である山科言継の「言継卿記」では、討ち死にとも自害とも取れる「生害」という表現が使われている。


【創作における剣豪将軍】

ライトノベル
  • 戦国小町苦労譚
なんと、永禄の変直後に、現代にタイムスリップする。
主人公の家族に拾われ、現代医術と本人の生命力(と後、松永への憎悪?)のおかげもあって、奇跡的に一命をとりとめる。
その後は現代社会で、心理学をはじめとした色々な現代の技術を学びながら、主人公一家とふれあい(テレビに驚いて破壊し、主人公の姉と大喧嘩したこともあったとか)、穏やかな日々を過ごしていく。
その後、再び戦国時代に再タイムスリップし、主人公と再会。彼女のために尽力することになる。
永禄の変を経てきたため、弱肉強食の思想を持つようになり、『勝てばよかろうなのだ』の精神で、卑劣な手も使うようになる。
今なお、松永への憎しみは健在のようで、再会した折には、『楽に死ねると思うな』、『死んでも冥土でなお苦しませ続けてやる(大意)』と言い放ち、彼の精神を完膚なきまでにへし折った。
そんな彼でも、主人公には甘く、またテレビの影響でガンオタクになった、という意外な一面もある。

時代小説
  • 剣豪将軍義輝(宮本昌孝)
ゲーム
  • 信長の野望シリーズ
足利家のトップとして登場。史実で暗殺されるため中盤以降のシナリオでは登場しない。将軍補正や史実イベントがあるかどうかは作品次第。
初期の作品は高めの武勇&政治、低い知力という感じだったがシリーズが進むにつれ武勇と政治の差が大きくなり、天道あたりからはかなり高い武勇と高めの統率、知略と政治は平均程度の武闘派武将といった能力値となっている。
全体で見れば使える方なうえ、足利家は彼と細川藤孝ぐらいしか戦争向きの人材がいないため足利家プレイではかなり重要な存在。
弟の義昭は統率武勇が低く、知略政治が高いという真逆の能力をしており、二人で組むといい感じに弱点を補えることも多い。
ちなみに名声補正が強い蒼天禄では、初期名声の高さから従属脅迫を容易に飲ませられる外交チートキャラと化していた。

  • 太閤立志伝シリーズ
能力値の傾向は信長の野望に準ずる。
最初から征夷大将軍なので正一位就任でのエンディングを迎えることができず、クリアにはすべての大名を屈服させるしかない。
天下統一を達成すると室町幕府復興の足利家専用エンディングを見ることができる。
暗殺イベントも存在し、通常は奮戦むなしく殺害されたことが報告されるだけだが、
太閤5で義輝が主人公の場合は襲撃を仕掛けてきた三好三人衆+松永久秀に個人戦で立ち向かう展開になる。
1対5の4連戦という厳しい戦いになるが、義輝の戦闘能力も高いので、あらかじめ医術を学んで体力回復ができるようにしておけば勝てなくはない。
勝利すると松永久秀から古天明平蜘蛛を奪い取れる-なぜ戦場に持ってきた‥?お守りかなんかだろうか?うえ、弟義昭が還俗して武将として加わってくれる。

  • 戦国BASARAシリーズ
    4から登場し、4皇でPC化。(CV池田秀一
  • 戦国乙女シリーズ
  • 戦国✝恋姫
    通称は一葉。暴れん坊将軍を地で行く困った将軍様。お家流(必殺技)が完全に『王の財宝』。
漫画


追記、修正お願い致します。

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最終更新:2024年02月05日 05:31

*1 足利将軍家は将軍就任時点で正三位が与えられるのが通例だった

*2 織田信長も和平工作のために何度も朝廷に頼んでいる

*3 そもそも室町幕府の将軍というのはその成り立ちから武家の支配者という性質が薄い。足利将軍はもれなく、後に山名氏清のような大物を数多く粛清した足利義満でさえも、有力者たちの利害調整をしながら政権運営を行っていたのだ。その中で「将軍による親政」を行おうとする者はたくさん出現するが、そのほとんどが失敗している。義輝もその1人であった