ベルリン会議(アフリカ分割)

登録日:2014/07/11 (金) 19:35:24
更新日:2018/08/21 Tue 19:24:13
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概要


ベルリン会議とは、1884年からドイツのベルリンで開かれた国際会議。
勘違いされがちではあるが、1878年に開かれた方のベルリン会議は露土戦争に関する会議であり別物である。

この会議はどういう物だったかというと、『アフリカの分割』を話し合った会議。
アフリカの歴史を語る上ではさり気なく外すことのできない出来事だったりする。


経緯


レオポルド2世植民地帝国作りたい!アフリカに植民地欲しいわ


と考えた当時のベルギー国王のレオポルド2世

彼は他のヨーロッパ列強と同様に海外植民地獲得に興味を持っていたのだった。
しかし、当時のアフリカの多くは既にヨーロッパ諸国が目をつけていた。


レオポルド2世どうすっかな…あっ、コンゴがあるじゃん


彼はまだヨーロッパ列強が見逃していた『コンゴ』に興味を持った。
レオポルド2世は『上コンゴ研究委員会』なるものを設立。

これは後の『コンゴ国際協会』の前身組織なのだ。
その元で探検家スタンレーがコンゴに送り込まれた。

スタンレーは現地の交通網などを整理し、現地の長と関係を結ぶなどの働きを見せた。
コンゴはベルギーが急速に進出していった。しかしこれに異を唱える国があった。


ポルトガルそこまでコンゴが欲しいかベルギーのくせに!


ポルトガルがこのベルギーの動きに猛烈に反発した。

実はポルトガルもアフリカ沿岸部における利益拡大を狙っていたのだった。
ポルトガルは1882年にコンゴ川の主権を主張する。

ポルトガルをイギリスが支持する一方、アフリカ方面でイギリスと対立していたフランスはベルギーを支持する。
だが、フランスは実際には自身がアフリカ内陸部を調査していたのだが…

宰相ビスマルクのドイツ帝国もポルトガルを支持しなかった。
ヨーロッパ列強の対立が始まってしまっていたのだ。

これを解決するべく、ドイツのベルリンで会議を開くことになった。


参加国


  • イギリス
  • ドイツ
  • ロシア帝国
  • オーストリア・ハンガリー
  • スペイン
  • デンマーク
  • ベルギー
  • フランス
  • アメリカ合衆国
  • イタリア
  • オスマン帝国
  • ポルトガル
  • オランダ
  • スウェーデン


当時の世界を代表する14国が会議に出席した。
なお、最終的にアフリカ分割に参加していないアメリカやスウェーデンも出席している。

後は意外なことに当時既に自国が分割されそうだったオスマン帝国が参加していることにも注目したい。
これは、当時の西欧列強からすればオスマン帝国は一応『分割される』側ではなく『分割する』側だという認識があったのだろう。

もっとも、会議が開かれた当時はオスマン帝国がリビアを領有していたこともあるのだろうが。
まあ、後にイタリアに奪われちゃったけどね。


結果


この会議の結果、全7章38条で構成されるベルリン協定が締結された。
その内容はアフリカ分割の取り決めや、コンゴ盆地に関することである。


○ベルギー、念願のコンゴ獲得とその統治

まずコンゴ盆地の地理的範囲を画定させた。
そしてコンゴでの自由貿易や、中立化などの様々な取り決めがされた。

結果的にレオポルド2世及びコンゴ国際協会はコンゴ盆地の統治権を認められた。
念願のコンゴをレオポルド2世は獲得することに成功したのだ。

なお、コンゴはベルギー国家でなくベルギー王の私財といった形で扱われるようになった。
それでコンゴ国際協会の改組にともなってコンゴ自由国が成立した。


こうして、コンゴ周辺は事実上ベルギーの植民地となった。


ベルギーもコンゴの獲得によって、ついに海外植民地を手にする。
海外植民地の獲得により、ベルギーも国際的な扱いでは列強国に値する扱いを受ける。

しかし、コンゴ自由国の未来はコンゴに住む人々にとっては悪夢をもたらすことになった。

レオポルド2世はコンゴ自由国において残忍な政策を数多く行う。
当時の価値観から見ても残酷な圧制と搾取がコンゴ自由国では平然と行われてしまった。

住民は象牙やゴムの採集を強制された。
しかしそれだけではなく、規定の量に到達できないと手足を切断するという刑罰が容赦なく施行されまくった。

案の定、コンゴ自由国には世界中から非難の声が多く寄せられる。
そしてジャーナリストのエドモンド・モレルの『赤いゴム』という著作でコンゴの残虐な実態が明らかにされた。

ベルギー政府は世界中からの批判の声に頭を悩ませた。
1908年10月、ベルギー政府は植民地憲章を制定。国王はベルギー政府からの補償金との引き換えにコンゴ自由国を手放すことになった。

コンゴ自由国はベルギー政府の直轄植民地ベルギー領コンゴになった。
ベルギー領コンゴではキリスト教の価値観をもとに政策が行われていくことになった。

我らが日本にとってベルギーの歴史を深く知る人はあまり多くないものかと思われる。
しかし、レオポルド2世は日本の世界史においてもそこそこの知名度を持つ人物となった。


○植民地分割の原則

会議ではアフリカ沿岸部における植民地化のルールが確認された。

どの様なものかというと、アフリカを植民地化する場合はベルリン協定調印諸国にその内容を通告。
そして、会議で確認された原則を遵守することが求められた。

つまりてっとり早く言えば植民地獲得は早い者勝ちということである。

この会議を契機として列強のアフリカ分割は本格化。
そして、現地の民族配分に(確かに調整は難しいが)一切配慮しない列強間の調整を通じた地図上での植民地分割が行われていった。

なお、この会議後もアフリカを巡る戦争は起きている。
代表的なものだとイタリアとオスマン帝国による伊土戦争なんかだろうか。

ちなみに、この会議による列強のアフリカ獲得に伴う国境線の画定は現在まで残る問題に繋がった。

上記でも述べたように、植民地獲得の際の国境線はアフリカに住む民族に対して一切の配慮がなされなかった。
アフリカ諸国が独立した後も、現在まで続くアフリカの民族紛争の火種となったとも言われている。

一応言っておくと、アフリカ大陸は民族の配分が非常に多い上に細かく、そこまで配慮した国境線が引けないことは確かである。
しかし、そこは少しでも配慮してくれていれば多少は民族紛争の火種は減った…とも考えられる。






追記・修正はアフリカに植民地を領有してからお願いします。

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