有銘兼久

登録日:2015/10/14 Wed 00:18:45
更新日:2024/07/04 Thu 19:09:01
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有銘兼久とは、元プロ野球選手である。


解説

1978年9月27日に、沖縄県那覇市で生まれる。

身長は180cmで体重は78kg。
選手としてのポジションは投手であり、左投左打。

沖縄県立浦添商業高等学校から大仙や九州三菱自動車を経て、2001年に大阪近鉄バファローズに入団。
その後、選手分配ドラフトによって東北楽天ゴールデンイーグルスへと移籍。
2012年に戦力外通告となるまで、楽天で中継ぎや先発として活躍した。

引退後は楽天イーグルスベースボールスクールのジュニアコーチとして働いている。


プレースタイル

有銘という左腕投手の特徴は、投球フォームにある。

その投球フォームは躍動感がある独特な横手投げであり、かなり奇妙な雰囲気を与える。
有銘のこの投球フォームは、打者から見て球の出所が非常に見えにくくする効果があるのだ。
そこにスライダーを中心とした変化球と140キロ台のストレートが混ざる。
特に有銘が得意とする変化球であるスライダーはこの投球フォームと組み合わさって、異常な変化を起こす。

この投球スタイルが影響してるのか、調子の波が激しい。
好調な時は変化球が大きく曲がり、完全なボール球ですら相手打者のバットを簡単に振り回させる。

だが調子の悪い時は変化球に相手打者がさっぱり反応せず、四球を連発する。
元々、調子の良い時でもコントロールで打者を翻弄するタイプの投手では無いので、調子の悪い時はそれが目立つ。
基本的にコントロールに難のある投手と言えるだろう。

また、有銘は左の中継ぎとしてワンポイントで登板して四球を与えて降板するという性質があった。
そのため、左の中継ぎとしては不名誉な『ワンポイントフォアボーラー』と呼ばれていたことも。

有銘のもう一つの特徴としてはその身体の強さにある。

当時のプロ野球ではトップレベルと言っても良いほどのスタミナを誇る。
延長12回・188球を投げ込んだことから、その体力はかなりの物と言えるだろう。

長い間怪我にも苦しまず、身体も頑丈。

楽天初年度から30試合以上に登板し、2007~2009までのシーズンでは50試合以上に登板。
元々中継ぎ不足であった楽天において酷使されていたのだが、怪我による離脱は無かった。
2010年は故障に苦しむこととなったが、中継ぎ投手としては高い耐久性があったと感じさせる。

元々野球において横手投げは身体への負担(特に肘)が大きいフォームであり、怪我をしやすい。
しかし、有銘の場合はその投球フォームによる大きい怪我を起こすことは無かった。
逆に身体が丈夫な有銘だからこそ、独特な投球フォーム続けられたのかもしれない。


経歴

プロ入り前

出身高校は沖縄県立浦添商業高等学校。

卒業後は大仙へ入社し、そこで野球に励んでいたが同社の野球部が廃部となってしまう。
そこで、有銘は1999年に九州三菱自動車硬式野球部へ移籍して野球を続ける。

そこでの活躍が認められ、2001年にドラフト3位で大阪近鉄バファローズに入団する(背番号は『13』)。


近鉄時代

近鉄時代は有銘もパッとしない選手だった。

プロ入り1年目は1軍登板記録なし。
2003年に後の合併相手となるブルーウェーブ戦で初登板を果たす。
その後も中継ぎとして運用されるが、防御率も悪く近鉄時代は勝ち星を一つも挙げられなかった。

やがて球団の合併によって分配ドラフトが行われるが、有銘は新球団側に配分されることとなる。


楽天時代

分配ドラフトによって、新球団の東北楽天ゴールデンイーグルスに移籍(背番号『26』)。

当初は近鉄時代同様中継ぎとして運用されることとなる。
そして移籍後初登板は、あの伝説の開幕二戦目である対ロッテ戦(0-26)だったが、案の定炎上した。
しばらく二軍に降格し、一軍復帰後は中継ぎとして働いたが、7月に日本ハム戦で9回無失点と好投する。
この試合が当時の首脳陣に評価され、有銘は先発投手として期待されることとなる。

そして同月の西武ライオンズ戦で先発としてプロ初勝利・プロ初完封。
これが楽天球団史上初の完封勝利試合となった。
結果的に球団初年度は3勝10敗で終わり防御率も悪かったが、4完投を記録するほどのスタミナを見せた。

2006年は8月のロッテ戦で、12回完投・188球・17奪三振・一失点を記録した。
試合こそ引き分けに終わったが、この試合は2006年のプロ野球の名試合の一戦として語られる。

2007年も先発として勝利を記録したが、以後は先発の役目を果たせず不調に。
そんな事情もあって、入団当初の立場だった中継ぎに配置転換される(しかしこれ以降も先発はした)。
有銘は中継ぎとしてもフル回転し、この年は52試合に登板して防御率4.17と自己最高の成績を残す。

2008年は有銘の飛躍の年となった。
開幕一軍は逃すが、他の左投手の離脱もあって左の中継ぎとして期待される。
この時の楽天が抑え不在だったことから、時々抑え投手としても運用され、プロ初セーブを記録した。
最終記録としては、リーグ最多の66試合に登板で防御率2.05・チーム最多の19ホールドポイントと自己最高の成績を記録。

2009年は開幕から主に中継ぎとして登板し、監督推薦で初のオールスター出場を果たす。
しかしこのオールスターの舞台で炎上し、防御率108.00という前代未聞の数値を記録。
ベンチで近鉄時代の先輩であった大村直之に正座を命じられる始末。
このオールスターを境に有銘は安定感を失い、前年度よりもホールドは増えるが防御率は5点台と大幅に悪化した。

ちなみに、この年の中日戦で無死満塁のピンチを無失点で回避し、田中将大の7勝目を救ったことは有名。
その試合での解説者にもスーパーリリーフと称されるお見事なピッチングだった。

2010年は前年度に比べて落ち着きを戻すが、自身の故障や左の中継ぎとして片山博視が台頭。
防御率は何とか安定したが、登板数は大きく減少した。

2011年も防御率は1点台と安定するが、登板数は2010年より多少増加しただけだった。
しかもワンポイントフォアボーラーの癖は直っていなかったので、この年の防御率は詐欺だと批判されもした。

2012年は開幕二軍で始まり、昇格後も1試合のみの登板で終わった。
一軍復帰を果たすことはできず、ついに戦力外通告となってしまう。
12球団合同トライアウトにも参加し、獲得報道も流れたがオファーはなく、ついに引退することとなった。

引退後も球団職員として球団に残留し、ジュニアコーチなどを勤めている。


補足

実はプロ一年目の田中将大に投球フォームをダメ出しされている。

当時ブルペンに入っていた田中に対し、野村監督が田中を呼び寄せる。
そして有銘の投球を捕手の後ろから田中に見せた。
すると野村監督は田中に投球を解説するように指示。その時の田中の有銘への評価。


  • 「(先輩に遠慮してやや言いにくそうに)上半身がブレ過ぎています
  • (野村監督「何故ブレてるか」)「下半身がうまく使えていないからです。だから上に力が入ってブレてしまうんだと思います


野村監督は田中も速い球を投げる時にそうなることがあると指摘。
そして田中に対して今回の問いに対する合格点を与えたのだった……というエピソードである。
ただ、有銘のフォームの問題点を指摘した田中が、後に彼のスーパーリリーフで救われたのだから面白い。


楽天時代の登場曲はラッツ&スターの「め組のひと」。
球場ではサビの「走るよ、めっ!」の部分に合わせて「あ・り・めっ!」コールをするファンが多く見られた。


2ちゃんねるでは名字をいじって「アニメ」と呼ばれていた。
彼が好投すると「神作画」とレスされ、炎上すると「作画崩壊」とレスされる。






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最終更新:2024年07月04日 19:09