ボヘミアの醜聞(小説)

登録日:2021/06/10 Thu 19:16:36
更新日:2025/08/12 Tue 19:55:58
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It is a capital mistake to theorize before one has data.
Insensibly one begins to twist facts to suit theories, instead of theories to suit facts.


(データを取らずに理論を立てるのは致命的な間違いだ。
事実に合わせて理論を組み立てる代わりに、無意識のうちに、事実のほうを理論に合わせて捻じ曲げてしまうことになるからね。)



─── A.Conan Doyle「A Scandal in Bohemia」より引用




『ボヘミアの醜聞/A Scandal in Bohemia』は、アーサー・コナン・ドイルの短編小説でシャーロック・ホームズが解決した事件の一つ。
『ストランド・マガジン』1891年7月号掲載。単行本では『シャーロック・ホームズの冒険』の1話目として収録されている。

ホームズ短編の記念すべき第1話にして、後に様々なパスティーシュに登場するアイリーン・アドラーの初出作品。
物語の時期はワトソンが結婚して有頂天になってからしばらく後と冒頭で語られている。


【あらすじ】


1888年3月20日*1の夜、往診からの帰り道で久々にベイカー街221Bを訪れたワトソンは、ホームズから一枚の便箋を渡された。
それによると、ホームズに何某かの依頼を持つ金持ちの紳士がもうすぐ来るらしい。
果たして覆面を付けた男性がやってきてフォン・クラム伯爵を名乗るが、ホームズはその人物がボヘミア王自身であることを鋭く見抜いていた。

王は、これから2年間、絶対に他言しないことを条件に2人に依頼の内容を明かす――かつて交際していたオペラ歌手のアイリーン・アドラーからある写真を取り戻したいのだと。その写真は王とアイリーンが一緒に写っているもので、彼女はその写真を王の婚約者に送り付けると脅迫しているという。
厳格な結婚相手に事が知られれば婚約は破談となるであろうことは明白で、若気の至りが大スキャンダルとなってしまったのだ。
果たしてホームズはアイリーンから写真を奪うことができるのか?

なお当時の写真はフィルムから焼き増しはできない構造であり、一度の撮影で一枚の写真しか作れない。
つまり同一の写真が複数欲しければ 撮影時点で必要数だけシャッターを切るしかない。
後は写真をさらに撮影するかである。(もちろん画質が著しく劣化する)
フォン・クラム伯爵もホームズも「本物の写真1枚を確保すれば安心」と考えているのはこのため。

【登場人物】


ご存知名探偵。
ワトソンが部屋を出た後も事件に関わったり、合間にコカインを吸ったりしていた模様。
依頼を受けた翌日、さっそく変装してアイリーンの周辺を探る。
アイリーンがノートンと別々の馬車で教会に向かったところを追いかけ監視していたが、2人の結婚の証人として立ち会うハメに。
2人がハネムーンや引っ越しですぐに旅立つことは明白だったため、時間がなくなってしまいワトソンに一芝居うつよう持ちかける。

  • ジョン・H・ワトソン
内密にしてほしいと言われて3年経ったので醜聞を暴露したご存知ホームズの相棒。
前回にあたる『四つの署名』ラストで恋仲になったメアリー・モースタンとの結婚後ベイカー街を離れ、開業医として忙しく生活していたためホームズと疎遠になっていたところから始まる。ちなみに結婚してから幸せ太りしたらしい。リア充め。
また、雇ったメイドがあまりにドジっ子不器用でメアリーがブチギレて叩き出したそうな。あのメアリーがブチギレるってどんだけ*2
ホームズの持ちかけた芝居に協力する。

  • アイリーン・アドラー
ボヘミア王の脅迫者。
1858年ニュージャージー生まれのアルト歌手でワルシャワ帝国オペラのプリマドンナとして活躍していたが引退し、ロンドン在住。
非常に美しい顔をしているが、鉄の意思を持つ。
なおボヘミア王には「adventuress」と呼ばれていて、これを直訳すると「女冒険家」だが、実際には峰不二子というか高級娼婦的な女を指したり、自分の 女性的魅力を活用して玉の輿やパトロン、ひいては金や名声を得ようとしたりする者 を表している。
だからこそ若い頃のボヘミア王と関わりを持ったのだろうし、いくらヨーロッパの王族が厳格であっても若い頃に付き合っていた 普通の女性とツーショット写真を撮っただけ では結婚が吹き飛んだりはせず そういう女と 特殊な状態というか行為中 に撮った写真だと当時の読者は察していた。
ボヘミア王の婚約者に写真を送りつけると脅しており、また絶対に売らないと言っているらしい。今で言うリベンジポルノ?
弁護士のゴドフリー・ノートンと結婚しようとしていたが、何らかのトラブルがあったらしく正体を知らずにホームズを証人として結婚した。
冒頭で「故アイリーン・アドラー (the late Irene Adler)」と書かれているため、発表された1891年7月の時点で亡くなっているという説もあるが……。(後述)

  • フォン・クラム
今回の依頼人。自称ボヘミアの貴族で伯爵を名乗り、覆面で顔を隠していた……が、その正体はボヘミア王その人。*3
スカンジナビア王の次女と結婚が決まっているが、先方は厳格な王族のためスキャンダルが明るみに出ると破談になってしまうのでそんな事態はなんとか回避したいようだ。
なおこれまで5度に渡ってアイリーンから写真を取り戻そうとしたが、いずれも失敗している。

  • ターナー夫人
ご存知ベーカー街221Bの女主人……ちょっと待てと思ったあなたは間違っていない。
何故か今回だけハドソン夫人ではなくターナー夫人なる人物がベーカー街221Bの女主人となっている
彼女の正体は永遠の謎。*4原典以外の作品ではハドソン夫人とは別人として扱っているものも。
『空き家の冒険』の生原稿でターナーハドソンと書き直されているのが発見されたため、こちらも作者のミスの修正漏れではないか、という有力だがシャーロキアン的には面白味のない仮説が出ている。


【用語】


  • ボヘミア
現在のチェコ西部から中部の地域で、西側はドイツに接している。古くはボヘミア王国と呼ばれ、かのルクセンブルク家などが支配していた。
作中の年代ではオーストリア帝国に支配され、ハプスブルク家の統治下にあったため、実際には単独のボヘミア王は存在しない。


【結末】

+ ホームズの捜索と結末(ネタバレのため未読者要注意)
ホームズは写真はアイリーンの家にあるだろうと目星をつけていた。
そこで一芝居うつことでアイリーン本人に在り処を教えてもらおうというのだ。

お人好しそうな牧師に変装したホームズは複数の協力者を雇い、帰宅したアイリーンの前で彼らの起こした揉め事に巻き込まれて倒れたフリをして見事彼女の家に侵入することに成功した。
ワトソンは事前に打ち合わせていた通り、ホームズの合図に従って「火事だ!」と叫びながら発煙筒を家に投げ入れた。
ホームズによれば、女性は火事になると本能的に大事な物を持ち出そうと駆け寄る。かつて解決した事件でも同様の手口を使ったという。
アイリーンが目論見通り写真を取り出そうとしたのを確認したホームズは火事が間違いだったことを告げ、彼女の家を後にしたのだった。
あとは翌日、王様と一緒に写真を盗み出せば依頼は完了である。
ベイカー街の自宅へと戻ると、誰かが「おやすみなさいホームズさん」と声を掛けてきたが、ホームズはその声に聞き覚えがありながらも思い出せなかった。

翌朝、王と共にアイリーンの家を訪れると、使用人から手紙を渡される。
なんとアイリーンはすでにチャリングクロス駅から列車で発っていたのだ。例の写真も持って……。
アイリーンが残した手紙を読んだホームズは失敗を詫びるが、ボヘミア王はアイリーンが脅迫をやめると手紙に書いていたため依頼は成功とし、望みの褒美ととらせると語る。
ホームズはアイリーンが残した彼女の写真だけを受け取ったのだった。


  • アイリーン・ノートン
一度はホームズに騙されたが、直後に全てを見抜き、ホームズを出し抜くことに成功した稀有な女性。
騙されたことに気付いた直後に男装してホームズを追いかけ、「おやすみなさい」と声をかけたのだった。
予防として写真は手元に残したままだが、その性格上、もう王を脅迫することはないだろう。
前述した通り彼女が「華やかではあるが 実際の身分よりも低く見られる立ち位置 」でありボヘミアの皇太子と付き合った件も含めて色々な修羅場を潜ったと思われる。
なぜわざわざ写真を使って脅そうとしたのかは不明だが、どうにか自分の力で「私を愛し、私も愛している方」との結婚を勝ち取った上で
過去の自分と決別する意味合いを込めて昔の写真とともに「アイリーン・ノートン 旧姓 アドラー」で締めくくった手紙を残して過去の関係者(とホームズ)の前から姿を消すという美しい去り方をしてのけたのである。
冒頭の「かつての(late)アイリーン・アドラー」という記述は彼女が入籍して新しい姓になったことを まだ読者には伏せておきたい という事情と
新しい生き方を得た象徴として新しい姓のアイリーン・ノートンを最後に強調するための作劇上の効果を狙ったものとシャーロキアンは推定している。
まあ取り残されたボヘミア王やホームズにとっては「彼女は今でもアイリーン・アドラー」らしいのだがそれはそれとして味がある表現といえよう。
なお、時系列上のシリーズ最終作に当たる『最後の挨拶』でも名前が出てくるが、そこではホームズがアイリーンとボヘミア王を別れさせた事になっている。*5

  • シャーロック・ホームズ
アイリーンには逃走されたが、何とかは依頼は完遂。
あまりの手際に感動したのか、他の褒美には目もくれず彼女の写真だけを所望したが、『花婿失踪事件』の冒頭でボヘミア王から豪華な嗅ぎ煙草入れを貰ってたりする
その後、彼女のことを話す時はいつも「あの女性」と呼ぶようになった。実はその後の回で「あの女性」とアイリーンの話題が出る事がないのは秘密だ

  • ボヘミア王
スキャンダルを回避出来たのだろうか?
あくまで防衛策としての写真の所持であり、手出ししなければ何もしないという彼女の言葉は信用できるとして、
依頼は達成されたと考えているので彼自身としては良いのだろう。…まさかワトソンが約束の期間が過ぎたとは言え、内情を事細かに暴露するとは思わなかっただろうが。
ホームズとワトソンにこの件の守秘を誓わせた際に2年経てばこの問題は問題ではなくなるとか言ってたが、本当だろうか?
彼も『最後の挨拶』で「先代のボヘミア王」として存在が語られる。



【ホームズの愛した女性?】

さて、アイリーン・アドラーを語る上で欠かせないのが「ホームズがただ一人愛した女性」という説であろう。
シャーロキアンの間でもこの説に関しては支持派と非支持派に二分されており、様々な解釈がなされているのが現状である。
支持派によってホームズがモリアーティ教授と対決してワトソンと再会するまでの間にアイリーンとの間に子供が生まれていたといった二次創作も行われており、推しキャラのカップリングは今も昔も変わらないことが窺える。

ちなみに作中での描写は以下の通り。

ワトソンは冒頭で「ホームズはアイリーンに対して恋愛感情を抱いてはいない」と明言している。
しかし、その理由として「ホームズにとっての『愛』とは、その人間の動機や行動を分析するための観察対象にすぎない」と語り、「精密機械であるホームズの中に余計なものが入りこむ余地はない」としている。
にもかかわらず、「その唯一の例外がアイリーンである」とも語っている。

ホームズが最後に彼女の写真を貰ったことから、彼女に対して何らかの想いがあったのは確実であろう。
それが恋愛に類する感情なのか、自分を出し抜いた女性に対する敬意なのか、知るはホームズのみである。
ちなみに作中でホームズがアイリーンを見た時の第一印象は「気品のある女性で、男が命をかけてもいいと思うような顔だった」と語っている。
なお、後の『悪魔の足』では「人を愛したことはない」と語っているが、上記の通りの人間なので恋愛感情だと気付いてないだけな可能性もある




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最終更新:2025年08月12日 19:55

*1 この日は火曜日だが「3日後の月曜日までに解決する」と言われているためこの日付かそれ以外の要素にフェイクを書いているとシャーロキアンたちは推測している。

*2 ここでワトスンが雇っていたメイドは「メアリ・ジェーン」と呼ばれているが、英語圏では「名無しの権兵衛」を「ジョン・ドゥ」と呼ぶようにメイド全般の俗称をメアリ・ジェーンと呼んでいたので本名かどうかは定かではない。

*3 本名はヴィルヘルム・ゴッツライヒ・ジギスモント・フォン・オルムシュタインだが、当時のヨーロッパ人であれば明らかに架空とわかるようなゴージャスゴテゴテ名前である。当時のドイツ系の様々な国や王族貴族をモデルにしているが架空の人物だな、と理解させる意図がある。

*4 ハドソン夫人のフルネームが「ターナー・ハドソン」とかじゃないの?と思われる方もいるかもしれないが、ターナーは姓としては一般的だが当時の女性の名にはまず使わない上に「Mrs.◯◯」という敬語表現は「付けるならフルネームかラストネーム」というルールなのでターナーが姓でないと成立しない。

*5 正確には「関係を絶った」という意味合いなので間違ってはいない。