食べない理由(美味しんぼ)

登録日:2023/01/26 Tue 22:15:20
更新日:2023/02/02 Thu 16:03:29
所要時間:約 13 分で読めます




そうじゃないんです、稲森社長はグルメ自慢であんなことしてたんじゃなかったんですよ
あれには訳があったんです、食べない理由が!




概要


食べない理由とは、漫画『美味しんぼ』の第9巻に収録されたエピソード。




あらすじ


板山社長が頭を悩ませている「稲食会」の幹事の仕事。
どんな美味しそうな料理も食べようとしない稲森社長に、山岡は究極のメニューで対抗する。



稲食会

正式な名称は「東都百貨店研鑽会」。東京に出店しているデパートの経営者が集まって親睦を図るための食事会である。
しかし、稲森社長がどんな料理も食べようとしないことがこの会合に変化を生むことになる。
各社長は稲森社長に何とか物を食べさせようと名店に連れて行くが、稲森社長は決して食べようとしない。
食べさせることができた者には他の者から5万円もらえるという賭けが始まったが、
それが繰り越されて三百万円にまで膨らんだ。
いつしかこの会合は「稲森さんに何とか物を食べさせようの会」略して「稲食会」と呼ばれるようになった。




主な登場人物


  • 山岡士郎
本作品の主人公。
板山社長から稲森社長の言い分が正しいかどうかの判断を任されて、食事会に招待されることとなった。
やる気なさそうな態度はいつものことだが、賭け金が三百万と聞いた途端に目を光らせた。
食事会での稲森社長の態度を見かねて、彼に食べさせるための究極のメニューを作る決意をする。


  • 栗田ゆう子
本作品のヒロイン。山岡と共に食事会に招待された。
稲森社長の取材時と食事会での態度の違いに戸惑いを見せるも、
稲森夫人の口から稲森社長の真意を知ることになる。


  • 板山社長
「栄商流通グループ」の社長。初登場以来、山岡とは頼みごとをしたりされたりの関係。
今回の『稲食会』のためにニースからマックスを呼び寄せ、山岡と栗田を招待した。
稲森社長への処遇を巡って紛糾する稲食会メンバーを諫め、最後のチャンスを与えたいと申し出た。


  • 稲森社長
東京一の老舗である「東起デパート」の社長。
恐ろしく料理に詳しく、見ただけで調理法など全てを見破ってしまう。
食事会の場で絶対に料理を食べようとせず酒だけで済ませているが、
その態度は食事会に不和を呼んでしまっている。
パリ在住の経験があり、日本料理フランス料理には詳しいが、中華料理のことはあまり知らない。


  • 稲森夫人
稲森社長の妻。
かつては料理研究家をしており、稲森社長が料理に詳しい理由の一つとなっている。
現在は病で体が弱っており、伏せていることが多く外出もしないという。


  • マックス
調理場の皇帝と呼ばれるフランスの若き名シェフ。
デパートのグルメストリートの企画のために板山社長がニースから呼び寄せており、
今回の『稲食会』のために腕を振るうのだが……。


  • 周懐徳(周大人)
在日華僑の大物。横浜中華街での揉め事で出会って以来、中華料理関連で登場する。
中華料理が化学調味料に侵されてしまっていることを憂い、
稲森社長がそれを理由に中華料理を毛嫌いしていることを聞き、
中華料理のプライドに賭けて究極のメニューを作る山岡に全面的に協力する。


  • 王士秀
周懐徳の娘婿で、「大王飯店」の店主。今回は実際の調理を担当する。
メインメニューの前フリとなる豪華なコース料理を出すが、こちらは稲森社長に拒絶されてしまう。










あらすじ以降のお話の流れ(ネタバレ注意!!)


「ふむ……魚は甘鯛、軽くポワレしてある。
 ソースは二種類、このだいだい色のソースはトマトを裏ごしした物に生クリームを加えて塩とコショウで味をつけたもの。
 さっぱりしたトマトの酸味が、パリッとこげた甘鯛の皮の香ばしさによく合うだろう。
 さて、外側の緑のソースは青ピーマンと生クリームのソースだ。この風味は鯛の身の部分によく合うだろう」

稲森社長はこんな感じで、見ただけで料理法を見破ってしまう。そしてその料理には手をつけない。

「いやいや、気に入るとか入らないとかいうものとは違いますな。なんていうか、しらけるんですな
 タネを知っている手品を見せられているような感じですよ……」

そして稲森社長はつまらなそうに酒を飲む。

この話を聞いた山岡は違和感を覚えた。
そんなに料理が好きなら、料理法を知っていようが食べないなんてありえない。
稲森社長の人柄に興味を持った山岡は、会合に先立って彼を取材することを思い立った。
山岡が新聞記者であることを示す数少ない描写の一つである

取材は稲森社長の自宅で行われた。社長自ら出迎え、お茶を振舞う。
二人暮らしで妻が病弱なものだから、家事は専ら彼の担当だ。
彼の年代なら『家事は女がやるもの』という価値観を持つ者も多いが、彼はそのように考えない。
「男は戦士だよ、戦場では自分の身の回りのことができなかったら戦えないよ」
言うことは厳しいが、自身の信条を語る稲森社長の態度はとても穏やか。
「食べ物の話なら一晩中でも付き合うよ」と、山岡と栗田の取材に笑顔を絶やさずに快く応じた。

取材を終えて退出しようとすると、着物姿の婦人がやってきた。稲森夫人である。
体が弱いにも拘らず、せめて挨拶だけでもと来てくれたのだ。
栗田が写真を撮ると、二人とも笑顔で応じてくれた。

山岡と栗田は不思議に思う。
稲森社長はとても謙虚な人柄で、食通ぶって嫌味な振る舞いをする人物には見えない。
家と外でガラッと性格が変わる人間もいないわけではないが……。


次の稲食会の日、マックスの料理が振る舞われた。素晴らしい料理だったが、稲森社長は手をつけようとしない。
そして出てきたメインディッシュに一同は目の色を変えた。
マックスは『ニース風の牛ヒレのステーキ』というが、ただのステーキではない。
薄切りにされた牛肉の間にフォアグラを焼いたものが挟まっており、それが何層も重なっている。
肉が冷めないうちに手早くやってのける技量が要求される、とても高度な料理だ。
しかし稲森社長は一口も食べることなく断ずる。

「これは失敗作ですな」

稲森社長はニースのマックスの店でこの料理を食べたことがあるという。
それが素晴らしい味だったことを認めながらも、日本とフランスの牛肉の違いを指摘すると
マックスは痛い所を突かれた顔をした。
霜降り肉を最上の牛肉とする日本では、上等な肉を求めようとするとどうしても霜降りが入ってしまう。
牛肉の脂と脂っぽいフォアグラは互いの風味を殺しあってしまう。そのため失敗作だと断じたのだ。
マックスは反論できずにその場を去ってしまった。


山岡は指摘そのものは正しいとしつつも、
「フランスと同じ材料が手に入らず、日本産材料で四苦八苦しているマックスに対してあまりに思いやりのない言葉」と眉をひそめた。
取材の時とまるっきり違う性格に、栗田も戸惑っていた。

「しかし鼻持ちならないグルメ自慢だな、このままじゃ本人も周りの人間も不幸だ、なんとかしよう」

そして板山に、近いうちに食事の機会を作ってくれと頼む。

山岡は『大王飯店』を訪れ、王士秀に頼みごとをしていた。
料理の話がまとまった所で、栗田が血相を変えてやってきた。

「そうじゃないんです、稲森社長はグルメ自慢であんなことしてたんじゃなかったんですよ
 あれには訳があったんです、食べない理由が!」

それを聞いた山岡と王は「稲森社長はあんな人じゃない、優しい人だったんだ」と納得した。
「だからもう食べさせる必要はない」と言う栗田だが、山岡は「だからこそ、これを食べさせて見せる」と返す。
その料理の名は……

「究極のメニューのひとつ……仏跳牆(ファッテューチョン)!!」



山岡は周大人に事の経緯を説明し、仏跳牆を作ることを願い出る。
稲森社長の食通ぶりからすれば、仏跳牆を知っているのではないかと懸念したが、山岡はそれはないと返す。
先日の取材の際にわかったのだが、稲森社長は化学調味料の影響を受けすぎた中華料理を
「食べるに値しない」と断じるまでに嫌っている。(結構攻撃的な口調である)
周大人はそれを肯定しながらも、本来の中華料理を取り戻さなければならないと誓う。
そして仏跳牆を作るためにわざわざ家宝の明代の名器を貸してくれた。
さらに、仏跳牆の秘伝を惜しげもなく教えてくれる大盤振る舞いだ。


その頃、『稲食会』では稲森社長抜きの会合が行われていた。
「だいたい東起デパートは業界一の老舗だからと、我々が遠慮しているのに、あの稲森社長の態度はなんだ!」
「いくら食通だかなにか知らんが、我々が苦心して選んだ料理に、ことごとく難癖をつけて一口も食べない!」
海原雄山と食事を共にした人達はいつもこんな会話をしてるのかもしれない
賭けの対象になるくらいだから最初は楽しんでいたのかもしれないが、メンバー達はもはや我慢の限界だった。
稲森社長の除名を要求するメンバーまで現れはじめた。
板山社長は彼らを諫めてもう一度チャンスを与えてほしいと願い出た。
私が依頼した男が特別料理を作る。これに賭けるしかない、と。

ちなみにアニメ版は原作で描写不足だったり誤解を招く内容をフォローすることが多いが、
この話のアニメ版はここで 会員たちが稲盛社長に毒付くシーンが丸々カットされている ことを除けば概ね原作と同じ流れになっている。

臨時の食事会の当日、大王飯店は準備万端で迎え撃つ。
仏跳牆のような超高級料理を作るのは初めてだが、王の顔は充実感が見えていた。
一方、稲森社長は店の前に来ただけで拒絶反応を見せる。

「私は中華料理は好きじゃないんだ。皆さんそれを知っててくださったと思いましたが」
和食だろうがフランス料理だろうが手をつけてないのに不満の声を挙げる。
栗田が「究極のメニューに載ること間違いなしの美味しい料理が出るんです」と期待を煽るも
稲森社長は浮かない顔のままだった。
前菜にまず、仔ブタを北京ダック風に焼いたもの。

「これは広州にある広州酒家の名物料理じゃないですか?
 ま、本家がはっきりしている料理の複製みたいな物を、わざわざ食べる必要はないですな」

続いて丸スッポンの醤油煮込み。

「いやこういうやり方だとスッポンのドロ臭さが抜けないね、日本のスッポンが一番だ。
 酒と下ろしショウガの絞り汁と醤油で高温で一気に煮立てる、それに限るね」

いつもより拒否反応が強く、あまりな言い分に周囲も顔をしかめる。
しかし次に出てきた仏跳牆に違った反応を見せる。稲森社長にとっては聞いたこともない料理だった。
その中身は一見ただのスープ。期待を煽っておいてこれかと周囲は色めき立つが、
稲森社長だけはそのスープの奥深さを見抜いていた。

「いや……これはただのスープではないっ……」

「この香り……実に様々な成分がからみあって何とも複雑で豊饒な香りに……」
「色は実に深い琥珀色だ……しかもいささかの濁りもなく透き通っている、いかなる技法でスープを取ったのか……」

稲森社長はレンゲを手に取り、器の中のスープをすくった。

「ああ……この香りを胸の奥に吸い込むと、何やら押さえがきかなくなってくる……」

そして稲森社長はスープを飲んだ。

「飲んだっ!!」「ついにっ!!」
「今まで味わったことのない美味だ!! 体の芯がゆすぶられる…… 陶然となるとはまさにこのこと……」
「やったやった!! ついに稲森社長に食べさせたあっ!!」

自分が賭けの対象になっているとは露知らず、稲森社長はキョトンとした。

この料理の名は仏跳牆。
仏とは僧侶や坊さんのこと。牆とは塀や生垣のこと。
己を厳しく律しなければならない修行中の僧侶でさえ、この匂いに釣られて塀を跳び越えてやってくるという意味だ。
作り方は複雑ではない。大きな器に具材を入れて、6~8時間ほど蒸すだけ。
大事なのは材料の方。今回は干したアワビ、干した貝柱、ナマコ、魚の浮袋、シイタケ、山椒魚、強壮剤となる鹿の尾。
更には烏鶏、ハクビシン、朝鮮人参、クコと、高級食材のオンパレードだ。
稲森社長は中華料理の奥深さに感じ入り、偏見を改めて研究してみたいと誓った。
今回の仏跳牆は一例に過ぎず、具材次第でいくらでもその姿を変える。
今回は特に滋養強壮に良い食材をふんだんに使っていた。

「稲森さん、これは奥さまにぴったりだと思いますが……」
なぜ稲森社長が食事を拒否していたのか、夫人から事情を聞いていた栗田が話した。
夫人が病気で体を壊してから、社長は願掛けで外で美味しいものを食べるのを断っていた。
食事は必ず自分で料理を作って妻と二人で食べることにし、外では一切食べずにいたのだ。

「それでいつも召し上がらなかったんですか……」
「言ってくださればよかったのに……」
「すみません! 女房のためだなんて照れくさくて言えないもんだから、食通ぶってみせまして……」
彼自身、元々食いしん坊で美味しいものを食べるのは好きだった。
食通気取りも流石にイジワルになっているのは分かっていたが、照れくささに勝てずに続けてしまっていた。
酒だけ飲み続けるのも、自分だけが美味しいものを我慢している中で気を紛らわせるためでだった。
事情を知った他の社長たちも、これでわだかまりが解けた。
山岡も、仏跳牆を奥様のために作ってほしいと勧めた。

「ひとつお願いなんですが……私が、仏跳牆あまりに旨そうなので神様に願をかけたのを忘れて
 うっかり一杯飲み干してしまったのを女房に内緒にしてください」



エピローグ。賭けの賞金として山岡が貰えるはずだった300万円は
板山社長の判断で「きっと君はこうするだろう」とアフリカに山岡の名前で寄付した。*1

「も、もちろんですよ、アフリカに寄付しようと思ってたんす。うわははははは……」
顔を引きつらせながら涙目で電話に応える山岡を見て、栗田は笑いが噴き出すのをこらえていた。
受け取ったらコンプラ的にまずいからね






余談


仏跳牆という料理名の由来から思いついたと思われるエピソード。
仏跳牆を実際に食べようと思ったら、コーヒーカップ1杯程度でも3000円はするらしい。
作中で言っている通り、食材はいくらでも変えられるので、
もっと安価で食べられる店もあるし、その気になればもっと高価なものも作れる。

第11巻収録『香港味勝負』では、山岡達マスコミ関係者を招いたダイヤモンド映画社の社長が晩餐会のメニューの一つとして出している。
ここでは同席した他の新聞社の社員が、過去に他の料理店で出されたメニュー等を引き合いに社長の料理を批判するが、山岡がそれに対しいかに社長の料理が優れていたかを反論するという流れになっている。
仏跳牆については「スッポンやオオサンショウウオといった最高の材料が使われていなかった」という批判に対し、山岡は「仏跳牆は旨さばかりでなく、入れる材料によって目的とする味の趣向が変わる奥深さこそ真価」「社長の用意したものは様々な漢方薬を使用しており、それは日本からの長旅で疲労した我々の健康のため」(社長はこれに強く頷いている)と反論した。

第47巻収録の『結婚披露宴』では究極のメニューの前菜として登場。
胃腸を活性化させる食材や漢方を多く使っており、食べる前より腹が減るスープとなっている。
荒川夫人いわく「美容上危険なスープ」。


具材の一つとして使ったハクビシンは、日本にも生息しているジャコウネコ科の動物。
中国語で「果子狸」と書かれ、中国で広く食べられている食材であった。
しかし、SARS(重症急性呼吸器症候群)の中間宿主の一つとして指定させたことが原因でハクビシンは大幅に規制されており、現在では食材として日本での入手は困難なものとなっている。
そのためか、この回を扱ったアニメ版26話は欠番となっている。

前述の通りアニメ版は稲盛社長に不満を抱いている会員たちの描写がカットされただけだが
それだけでも会員たちは「稲盛社長許すまじ!」から「稲盛さんにも困ったもんだハッハッハ」程度に思っていそうに見えてしまう表現の妙である。
それでもマックスについては謝った方がいいと思う。




いや……これはただのエピソード項目ではないっ……

この出だし……実に様々な事情がからみあって何とも複雑で先が気になる作りに……
料理は実に美味しそうだ……しかも究極のメニューの一つと期待を煽っている、いかなる店でこのスープを飲めるのか……

ああ……この項目を読むと、追記・修正の押さえがきかなくなってくる……

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最終更新:2023年02月02日 16:03

*1 ちょうどこの時期、東西新聞の企画で寄付を募っていた