王国(人物)

登録日:2024/07/16 Tue 22:26:07
更新日:2025/05/02 Fri 20:26:38
所要時間:約 2 分で読めます




王国(?~187?)とは、後漢末の人物。
姓が王で、名が国。つまりフルネームで「おう・こく」という人。「わん・くに」とかではないし「わんこ」でもない。
これほど王になるに相応しい人が歴史上他にいるだろうか。いやいない。
だがこの時代の王朝は後漢であり、王国は王国を興していない。
一体何故なのか?この項目ではそれについて記していく。


王国の歴史

187年当時、涼州刺史に耿鄙(こうひ)という人物がいた。
涼州というのは異民族が侵入してくるため叛乱の絶えない土地であるし、時は後漢末。荒れに荒れている時代である。
そんな中で耿鄙の統治はお世辞にも良いとは言えなかった。
このため氐や羌といった異民族の叛乱を引き起こしてしまい、耿鄙はこれを鎮圧しようと軍を動かす。
漢陽太守の傅燮(ふしょう)は耿鄙に人望がないことからこれを止めようとしたが、耿鄙は話を聞かずに兵を動員した。
その結果、耿鄙は部下の寝返りであっさりと命を落とすという末路を迎える。
そして叛乱には涼州で叛乱と聞けば黙っていない韓遂が乗っかり、組織だった抵抗を開始。傅燮らが率いる鎮圧軍をあっという間に蹴散らした。
更に耿鄙の部下だった馬騰も叛乱に参加。
おかげで叛乱軍は規模を大きく増したが、出自が違うことから自壊する危険を孕んでいた。

ここで出てくるのが王国だ。偉大な彼は異民族・韓遂・馬騰という出自の異なるグループをまとめる盟主として歴史上に名を表した。
王国軍は長安近くにまで攻め寄り陳倉城を包囲した。
だが後漢末の動乱、三国志で陳倉城と言えば蜀の北伐を何度となく阻んだ難所である。王国軍という立派そうな名前を以てしても当然落ちない。

この反乱に対し、漢王朝は涼州出身の名将である皇甫嵩董卓を繰り出す。
二正面になった王国軍は烏合の衆ということでまとまりを欠いていたため、攻められるとあっけなく敗れ同盟も瓦解し四分五裂。
王国は盟主という肩書を失って追放され、なんかどっかで野垂れ死んだらしい。

歴史上における王国の扱いは、名前の割にあまりに脆く酷いものであった……


王国の功績

ない。いやマジで。王にすらなってないし。
異民族と漢民族を、そして漢民族の馬騰と韓遂が後に仲違いしていることを見ればこいつらを束ねるなどよほどのカリスマが無いと不可能である。特に韓遂が曲者で、こいつを躾けられるはずがない。
未だ漢王朝がなんとか健在な中で建国とかしたところで漢民族にそっぽ向かれるのがオチである。
結局のところ、王国が王国を興す目はなかったとしか言いようがないのである。

それでもあえて挙げるとするなら、馬騰を独立勢力にまでしたことだろう。
木こりという出自でありながら耿鄙に司馬にまで抜擢された彼は、その軍を引き連れて王国軍に参加することで名を上げたのだ。
そして董卓が天下を取ると馬騰は韓遂と共に出仕し、官職を得たのである。
まあその後に馬騰は韓遂のせいで散々な目に遭い最終的に死ぬことになってしまうのだが……



追記・修正は立派な名前の方にお願いします。

この項目が面白かったなら……\ポチッと/

最終更新:2025年05月02日 20:26