井深八重

登録日:2024/10/01 Tue 23:00:09
更新日:2025/01/25 Sat 11:34:35
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井深(いぶか)八重(やえ)
明治30年(1897)10月23日〜平成元年(1989)5月15日。

井深八重の肖像。
画像出
典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E6%B7%B1%E5%85%AB%E9%87%8Dウィキペディア「井深八重」より抜粋

概要

世界で名が知られている看護師。
しかし、その人生は運命の悪戯が招いたモノだった。

生誕

明治30年(1897)10月23日、父•井深彦三郎(いぶかひこさぶろう)と母•テルの長女として日本統治の台湾島台北市に産まれる。

井深家は室町時代から続く武家で、小笠原氏、武田氏、保科氏と渡り歩き、幕末には陸奥会津松平家の家臣。

戊辰戦争で敗れた後、父は東京に出て英語を学び、軍の通訳や密偵、日本政府から清国に行政顧問として派遣されたり、晩年は国会議員にもなっている。

この頃、父の仕事の都合で台湾から日本本土•東京に移り住む。

父は仕事熱心な反面、家庭を顧みることがない人で、母はそんな夫に嫌気が差し、八重が7歳の頃に、離婚届を出して家を出た。

八重の面倒は伯父•井深梶之助(いぶかかじのすけ)、伯母•井深花(いぶかはな)に育てられた。

伯父は明治学院(めいじがくいん)の総理、伯母は女子学院(じょしがくいん)の教師と教育熱心な夫婦だった。

明治37年(1904)4月、芝区白金尋常高等小学校に入学。

明治43年(1910)3月、東京市白金尋常小学校(改称)を卒業。

同年4月、京都にある同志社女学校•普通学科に入学し、後に英文科を専攻する。

同志社は伯父の梶之助と同郷の新島八重(にいじまやえ)の夫•新島襄(にいじまじょう)が作った学校である。

東京を離れ8年間の寄宿舎生活を過ごす。

大正5年(1916)4月4日、父が北京で死去。

大正7年(1918)3月、同志社女学校英文科を卒業し、翌月、長崎県立長崎高等女学校に英語教師として赴任した。

暗転

赴任してから1年、教師の仕事にも慣れてきて、生徒たちにも慕われて来たある日、自分の身体に異変を感じた。
赤い斑点が身体の各所に出て消えないので、福岡の大学病院で診察すると、ハンセン病と診断された。

当時は「らい病」と呼ばれる不治の病で、感染の危険があると恐れられた。

一緒に付き添った伯父、伯母も驚愕し、八重は突然学校を退職するように強制される。

親族を集めて会議を開くと、井深家が敗者からのし上がってきた今までの苦労が水の泡になると、病名を伏せて、静岡県御殿場の神山復生病院に隔離入院。


病名も聞かされることなく入院すると、軟骨が侵され、顔が崩れ、指や足の指が融けて膿が流れ続け、もがき苦しんで死ぬのを待っている患者の病院だった。

看護婦はなり手がなく、神山復生病院の医者は、ドルワール・ド・レゼー神父だけだった。

院長はレゼー医師で5代目、就任して2年目。

創立者はジェルマン・レジェ・テストウィード。

明治6年(1873)9月に来日した、パリ外国宣教会所属のフランス人宣教師である。

明治22年(1889)年5月、現在の静岡県御殿場市に新たな診療所を設立し、患者20名を収容する。

彼は診療所の設立許可を願うにあたり
「らい患者が現世の苦しみによって永遠の生命を得ることができたら苦しみも又幸せとなるでしょう。
そのために病院を建て、そのことを教えたいと思います。
こうして彼らは肉体の救いと共に魂のたすかりを得ると思います」
と説明した。
彼はこの診療所に「主における復活」の意味で「神山復生病院」と命名、これが日本最初のハンセン病療養所となった。

この療養所は症状の軽い患者が、重症者の世話をしていた。

井深家から戸籍を除かれ、「堀清子(ほりきよこ)」の名前で生活するようにと言われた。

「堀清子」は、ドルワール・ド・レゼーが命名した。
英語の「ホーリー holy(=聖なる)」に由来する。

自分の将来に衝撃を受け、毎晩のように泣き明かした。
「何のために ここにつれて来られたかを、初めて知った時の私の衝撃、それは、到底何をもってしても、表現することは出来ません。
昨日まで住み慣れた生活環境とは余りにも隔たりのある現状に、私は、悲痛な驚きと恐怖に怯える毎日でした」
と話し、恐怖のあまり、
「一生の間に流す涙を流し尽くした」
「何度も自殺を考えたという」
と語っている。
22歳の時であった。

「誰にも極秘の中に消えるように去った私でしたが、その居所を求めて友達や教え子からの手紙の束が回送されてくるたびに、私はその一つ一つをくいいるように読みふけり、人の心の温情に流せる限りの涙を流して、みずからの慰めともして幾夜かを過ごしました。
その後親せきの者たちも、私を不憫に思ったのでしょう。
病院当局の許可を得て私の為に一軒の住居を建ててくれました。」

「私は絶望のどん底にいて、とても笑うような気持ちにはなれないのに、どうしてあれだけ穏やかで、しかも笑うことさえできるのだろう。過酷な運命に対する呪いと怒りが生み出すニヒルな笑いとも違う。
しかも、いつも一生懸命に世話をしているレゼー神父も不思議だ。
どうして故国フランスを捨ててまで、言葉も通じない極東の国に来て、しかも、その国から捨てられたハンセン病患者の面倒を喜んで看ているのだろう。」

レゼー院長は、感染を恐れず素手で献身的に接する。
院長が往診すると、未来に希望のないはずの患者が笑顔を見せる。
そして、その日その日を大切に生きようとしている姿に気づいた。
八重も一筋の光を感じ、積極的にレゼー院長の手伝いをするようになる。

神山復生病院は私立であり、財政は寄付に頼っていて、余裕は一切なかった。

病院というのは名ばかりであり、医者が往診するだけで、専属の医者も、看護婦さえもいなかった。それを見ていた八重は奮起する。

一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、
一粒のままである。
だが死ねば、多くの実を結ぶ。
自分の命を愛する者は、それを失うが、
この世で自分の命を憎む者は、
それを保って永遠の命に至る。
(ヨハネによる福音書12.24)

転機

大正11年(1922)9月22日、この地に来て3年経過するが、一向に身体に変化がない。

むしろ赤い斑点は消えて白い柔肌に戻っている。

オカシイと感じたレゼー院長は八重を連れて東京に赴き、皮膚科の第一人者で東京帝国大学主任教授の土肥慶蔵(どいけいぞう)に診察して貰ったら、福岡の診察は誤診で、八重は健康体と診断書を与えた。

診断書を携えて井深一族に健康体を伝えると、親族は手のひらクルッるクルッると返して、八重に今までの対応を詫び、望むなら希望の仕事を斡旋するとまで言ってきた。

八重はレゼー院長の背中を見て、
「レゼー院長に私はなる!」
と決意する。

しかし、レゼー院長は
「あなたがこの病気でないことがわかった以上、あなたをここに預かることは出来ません。 
あなたは、もう、子どもではないのですから、自分で将来の道をお考えなさい。 
もし、日本にいるのが嫌ならば、フランスへ行ってはどうか。 
私の姪が喜んで あなたを迎えるでしょう」
と差別や偏見が残る日本よりフランスへの移住を勧めた。

それでも八重の決意は変わらず、
「もし許されるなら、このお年を召した院長のお手伝いをして、病院のために働くことができれば」
と伝えた。
病院は医療従事者を必要としており、最初は医者になることも考えたが、それは時間がかかりすぎるので、八重は最短の6ヶ月で看護婦になれる速成科に入った。

1923年、日本看護学校に入学し、同年9月1日*1に卒業、神山復生病院で看護師として働き始めた。

当時はハンセン病やその患者に対する激しい差別と偏見が存在した時代であったにもかかわらず、極貧の状態だった神山復生病院の婦長として献身的な看護にあたり、生涯をハンセン病患者の救済に捧げた。

「患者のウミやカサブタがこびりついた着物、包帯の洗濯が大変でした。
井戸がなかったので、川の水を汲んできては大きな釜で湧かし、アクを入れ、カサブタ、ウミはたわしでこすり落としました。
冬などはエプロンにかかった水がかちかちに氷り、体を動かすことが出来なくなることもありました。
レゼー神父様の頃はそういう洗濯も素手でやりました。感染をさけて防護服、手袋をつけるようになったのは
昭和になってからでした。」

 仕事に追われ、睡眠時間もろくにとれなかった。人手が不足しており、看護婦とは名ばかりで、雑仕婦同様であったという。

後悔した事もあれば、泣いた日もある。

「心の中で、後悔したことは何度もあった」
と告白している。
特に、患者の患部から発せられる何とも言えない悪臭には閉口した。
赤い血の混じったウミが固まり付いた包帯を取り替えるときや、洗濯するときなどには、鼻を刺す臭気で息が詰まりそうになる。
病院から逃げ出そうと思ったことは、一度や二度ではなかったという。

食事の世話、経営費を切り詰めるための畑仕事、義援金の募集、経理まで、病院のためなら何でもした。

彼女を支えたモノ

八重の決断に影響を与えたと思われるもう一人の人物がいる。
ハンセン病患者、本田ミヨである。
レゼーの配慮で、八重の話し相手とされた女性である。教養を備え、八重と年齢が近い同性の先輩であったからである。
 ミヨの症状は急激に悪化していた。
赤い斑点が全身に広がり、顔も崩れかかっている。しかし、八重を驚かせたことは、顔が崩れかかっているというのに、それに抗うかのように、彼女の顔には清らかな輝きが増してくるのであった。変形した顔は安らぎをたたえているようで、気高くすら感じられるのである。
 ミヨは八重に繰り返し語った。
「肉体はたとえ崩れても、大切なのは魂なのよ」
と語り、この世よりも永遠の世界の価値を説いて聞かせた。崩れゆく肉体、この冷酷な現実の前に少しも屈することなく立ち向かっている。そんなミヨに、八重は魅せられていくのである。

ミヨが43歳の若さで息を引き取る少し前、息も絶え絶えに八重に告げた一言。
「あなたは最後までここにいるのよ」
この言葉は八重の胸に深く刻まれ、彼女はそのように生きようとした。
それをミヨの言葉としてではなく、
「目に見えない確かな存在」
が、ミヨの口を通して彼女に伝えたように受けとめたのである。

もう一人は老院長レゼーの存在だった。
異国の地で、同胞ですら見捨てた患者たちに献身的に世話をしている。

そんなレゼーに対し、日本人に代わって恩返しをしたかった。レゼーを思えば、自分の苦痛は何でもないことのように思えたのである。

山梨県の山村に一人のハンセン病の患者を迎えに行ったときのことである。

患者は、人目に触れることのない土蔵の中に隠されていた。ネズミに噛まれて傷だらけの足。
傷口に消毒液を入れようとすると、ウジ虫が出てくる。

よく見てみると体中にウジ虫が湧いており、眼の中からさえも湧き出てきた。

八重の目から涙が滂沱のように流れ落ち、狂ったようにウジ虫を殺し続けたという。

人間として扱われてこなかったこの患者の身の上を思うと、泣けてしかたがなかったのである。

土蔵に投げ置かれていた患者が、彼女たちの献身的なケアで赤ん坊のようなつややかな肌に戻り、顔に清らかな輝きを取り戻していく。
最も嬉しい瞬間である。
その姿に接するたびに、レゼーが感動のあまり泣き出し、八重も一緒に泣いた。
「こんな素晴らしい体験をするのだから、逃げ出さずに居ようと思い返すのです」
と述べている。

自分のことはめったに語られず、それでも
「自分は会津武士の子」
という誇りを持ち、共に働く看護師たちには、病者には優しく、自己には厳しく規律を守り、上長の命には従うことを教えた。

昭和5年(1930)11月30日、レゼー院長は亡くなった。

6代目の院長•岩下壮一(いわしたそういち)(1930年~1940年)とも双方寡黙ながらも、よい人格的な影響を与え合った。

7代目の院長•千葉大樹(ちばたいじゅ)(1940年〜1961年)とも良好だった。

昭和16年(1941)太平洋戦争勃発。
戦時下のキリスト教迫害と食糧難のため、多くの患者達を見送った。
八重は、その当時のことを
『最後まで看取って本当に色々な人生の生き方ってものがあるものだと、口には言えないようないろんな教訓を与えられました。
素晴らしいものだと思いました。』
と語る。
私こそ、彼らに学び、魂の成せるわざを教えられ、そして救われてきた。なればこそ、外で石をぶつけられながらも、ここまで来られたのだ。

光明

戦後になって、ハンセン病の特効薬プロミンが登場し、治療に新時代をもたらしたのは、昭和20年代末。

社会の偏見は相変わらずだが、昭和31年(1956)、国際会議は、世界に向けて、ハンセン病は、治療すれば必ず治ると宣言、そのため、差別待遇的な法律は撤退すべきと、患者達の社会復帰に少しでも道が開けたことは、八重にとっても大きな光明だった。

昭和32年(1957)5月、「日本カトリック看護協会」(JCNA)が発足し、初代会長に就任。

この頃から八重は世間で評価される様になる。

昭和34年(1959)2月20日、 バチカンにおいてヨハネ23世教皇より、聖十字架勲章
「プロ・エクレジア・エト・ポンテイフィチエ」
を受章。

同年9月1日、中日社会功労賞受章。
同年10月21日、黄綬褒章を受賞。

昭和36年(1961)9月26日、第18回フローレンス・ナイチンゲール記章受章*2

昭和41年(1966)11月3日には、昭和天皇から宝冠賞勲五等を授与される。

昭和49(1974)5月19日、カトリック看護婦世界大会出席のため、ローマに出発。

昭和50年(1975)、アメリカのタイムスは、マザーテレサに続く「日本の天使」と紹介したという。

昭和53年(1978)1月27日、昭和52年度(1977)の朝日社会福祉賞を授与される。

「半世紀以上にわたり 癩 (らい) 者の福祉向上に尽くした功績」
が理由だった。

平成元年(1989)5月15日、死去、享年91。

病院の敷地内にある墓碑には「一粒の麦」と刻まれている。

『院長様はじめ皆々様、
永い間このいたらぬ者をお優しくお心寛やかに、お世話頂き誠に厚く御礼申しあげます。

この御楞心に対して何としてお報い印しあげる詮もなく唯皆々様を天国にお迎え印しあげる日まで、皆々様の真のお幸せのためおいのりを続けさせて頂きます。
皆様ほんとうに有聾うございました』
という遺言を書き記し、

『神様の待っておられるよいところに行くのですから喜んで下さいと』
と言い遺した。

補足

  • ソニーの創業者の一人である井深大(いぶかまさる)は遠縁である。

  • 平成4年(1992)11月22日、八重の生涯が、日本テレビ「知ってるつもり」で放映され、大反響。

  • 平成8年(1996)4月1日、
「らい予防法の廃止に関する法律」
施行により、八重が願っていたハンセン病患者への誤解や偏見は、法律的にも無くなった。

  • 遠藤周作(えんどうしゅうさく)『わたしが・棄てた・女』に出て来るヒロインの森田ミツは八重がモデルである。

追記、修正をお願いします。


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最終更新:2025年01月25日 11:34
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*1 関東大震災の当日である

*2 看護婦の最高勲章