岡本太郎

登録日:2024/10/05 Sat 02:00:00
更新日:2025/06/09 Mon 09:04:29
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芸術は爆発だ!

岡本太郎(1911~1996) とは、戦後日本を代表する芸術家にして、稀代の変人で、プレイボーイで、人たらしで、はねっ返りで、そして……人間である。

【概要】

敗戦後、それまでのあらゆる形で閉塞し、硬直していた日本の雰囲気を粉砕するように自由な作風の芸術で名をはせた男。
令和の時代では世を去られて久しく、その名も風化し始めているが、大阪府の象徴のひとつで、日本人なら誰もが知っている『太陽の塔』を作った人物といえば多くがピンと来るだろう。

その人柄、経歴、そして芸術性はいずれもアバンギャルドで型破り。彼の作品は上記の太陽の塔を始め、どれもが一目見たら忘れられない強烈な個性とエネルギーを放っている。

既存の常識や価値観に囚われず、気に入らなければ如何なる相手にも堂々と物を申すという大胆不敵かつ傲岸不遜な気の強い人物で、尊大な警官を怒鳴りつけて黙らせたこともあったほど。
しかし傲慢ではなく、言うことも人生経験に基づいた芯のしっかり通ったもので、聞けばなるほどと納得できる説得力を備えている。
反骨心の塊ながらも、そこに成熟した論理性を併せ持っているのが彼の大きな魅力であった。
伝統や権威といったものに媚びることは一切せず、どんなお偉い評論家が相手でもまとめて真っ向からぶつかっていた。
世相に対しても、当時は反米反政府運動が激しく、芸術家も反政府運動に与するのが流行っていたが、太郎は我関せずと政府の一大イベントである万博に力を注いで、批判にも脅迫にも平然としていた。
誰の命令も受けない。とことんまで自由と自分を貫く、それが岡本太郎だった。
逆に人懐っこく優しい面もあり、多くの友人が集まり、晩年まで彼を慕う者が絶えることはなかったという。
また人物を見抜く目にも優れており、彼に人生相談をして道を開かせられた友人や若者も多い。

一方で独特な女性観を持っており、多くの女性と付き合ったプレイボーイでもあった。
これについては後述する太郎の母とフランスでの留学経験にもとずくものだろう。
終生ついに結婚することはなかったが*1、それでも彼を慕い続けた女性は数多くいた。
しかし女性を特別扱いすることはなく、女性を男性と対を成す一個の存在として尊重していた。
それゆえ、フェミニズムなどというものは大嫌いだったという。

【その半生】

1911年、神奈川県橘樹郡高津村大字二子(現在の川崎市高津区二子)にて、漫画家の岡本一平と歌人である岡本かの子の長男として生まれる。ちなみに俳優の池部良はいとこ(父の妹と洋画兼風刺漫画家池部鈞の息子)にあたる。
かの子の実家は地元の大地主で、当時としてはかなり裕福な生まれであった。
しかし太郎の幼少期は決して恵まれたものとは言い難いものだった。
というのも、母のかの子は良家の箱入り娘として育ったためか、家事の類は一切できず、それどころか自分の芸術活動以外にはなんの関心もないという超問題人物だった。
幼い太郎に対しても母親らしい愛情を示すことはなく、泣けばうるさいと柱に縛り付けて放置したり、間違えて蹴飛ばしても平然としていた。現代なら虐待として通報・逮捕されてもおかしくないレベルである。
そのためか、太郎には二人の弟妹が生まれているが、いずれも早逝している。
しかし、そんな母親を太郎は恨んではいなかった。
かの子は母親としては失格レベルの人物だったが、そんな彼女の唯一にして最大の長所は、「自分にも他人にも嘘をつかず、誰にでも分け隔てなく接すること」であった。
彼女は太郎を息子としてではなく常に一人前の男性として扱い、昨今の政治情勢について太郎に意見を求めて積極的に議論をしたり、それどころか女性としての愛憎の苦悩や芸術家としての懊悩を包み隠さず吐露したり、常にありのままの姿を見せつけていたのだ。
幼い子供にそんな態度をとる親は現代の観点から見れば異常者である。しかし、その何一つ隠さず生きる姿を見て育った太郎は、「あんな子不幸の母親はいないよ」と評しつつも、「岡本かの子ほどなまなましく女であり、しかも神秘的な女性を私は知らない」と、尊敬の念をさえ持っていた。
岡本太郎という稀代の芸術家の土台となったのは、岡本かの子という誰よりも一所懸命に自分の人生を貫いた母親の生きざまだったのだ。

成長した太郎は学校に進むものの、すでに変人、はねっ返りとなっていたために学校になじめず、型にはめようとする教師や級友とはそりが合わなかったという。
というよりもろに問題児扱いされ、いじめられていた。それほどにその当時から太郎の個性は強かったのだ。

やがて太郎は両親に連れられる形でフランスへ留学。
この地で、太郎は日本の古臭く型にはまりきった文化や芸術とはまったく違う、大きく開かれた自由な近代芸術の新風を浴びることになった。
太郎にとってすべてが新鮮で自由。一人きりで、孤独の中で太郎は様々なことを体験し、学んだ。
ソルボンヌ大学に通い、フランスの知的エリートたちと交流する。当時フランスには日本人留学生が何百人もいたが、皆日本人だけでグループを作って閉じこもってしまっており、最先端の風を存分に浴びたのは太郎だけだったと言ってもいいくらいだった。
その一端として「アプストラクシオン・クラシオン協会」という抽象芸術科の会に参加したことがある。
この会の参加者はみな歴史に名を残す大画家ばかりで、ここでの経験で太郎は大きく才能を開花させる。
すでにこの時に代表作の一つである『痛ましき腕』を描いていたのだからすごい。

だが時代は第二次世界大戦へと進み、帰国した太郎を待っていたのは徴兵による軍隊生活だった。
欧州の自由な空気を吸ってきた太郎にとって古臭さと型にはまりきった生き方の権化である軍隊の相性は最悪で、太郎は戦中の5年間を「冷凍されていたような気がする。我が人生であれほど虚しかった時間は無い」と残している。
士官からも同僚からも睨まれていた軍隊生活で、実際かなりの暴力も受けていつ死んでもおかしくないはずだったとのこと。
だが太郎は耐え抜いた。絶望し、己に負けるのは太郎のプライドが許さなかった。
敗戦後は一年間、中国の捕虜収容所に入れられた。その際にも現地の人との交流で悲喜こもごもの逸話が残っているのがいかにも太郎らしい。

そして日本に帰国した太郎。
その頃の日本は戦前までの伝統と権威に縛られ切って硬直した体制を強制的に破壊され、貧困と混乱の時代だった。
しかし、同時に日本には欧米の価値観とともに何にでも挑戦できる自由の風が吹き始めていた。そんなカオスの時代こそ、岡本太郎の活躍すべき新しい未来があった。
時に岡本太郎、35歳。

以後の太郎の活躍を詳細に書くと、それこそ分厚い本になってしまうので、下記に彼の語録とともに簡潔に記述する。
大阪万博における太陽の塔の建設を始め、痛快なエピソードが数多くあるのでご自身で調べてみるのもおすすめである。

【作風】

アバンギャルド芸術。抽象画を始め、現実には存在しない摩訶不思議な絵画の数々が有名である。
また、太陽の塔を始め、同じく摩訶不思議な彫刻や彫像も多数想像している。
他にも特撮映画作品「宇宙人東京に現る」で登場する宇宙人の「バイラ人」をデザインしたりと、その活動は多岐に渡る。
その形を文で表現するのはとうてい不可能なので、是非ご自分の眼で見てみてもらいたい。
しかし抽象的なものだけではなく、近鉄バファローズのマークをデザインしたりもしている。

多くの作品に共通する特徴としては、原色を多用し、特に赤を好んだ。
「私は幼い頃から赤が好きだった。赤と言っても派手な明るい、呑気な赤ではなくて、血を思わせる激しい赤だ」
実際、「森の掟」を始め、太郎の絵の中心には赤が使用されているものが少なくない。

その他、太郎の芸術哲学については数多いが、それについては語録とともに後述する。

あえて一つ特筆すれば、太郎は作品を作り出すときには心血を注ぐが、出来上がった後の作品については無頓着だったことがあげられる。
これは、作品はでき上げるまでは自分のものだが、出来上がった後はみんなのものだと考えていたからだという。
実際、完成させた後の自分の作品が壊されようがどうなろうが知ったことではないというエピソードも残されている。
これは幼少期の、放任で育った経験が少なからず影響しているのだろう。


【主な作品】

前述の通りもっとも有名な作品で、大阪万博のパビリオンであった。
唯一後世に残すことを強く働きかけた作品でもある。
また、大阪万博で唯一当時の場所で残されている建築物でもある*2

  • 旧マミ会館
1968年に竣工したマミフラワーデザインスクールの校舎で、唯一の建築作品、2000年に老朽化で解体された。

  • 明日の神話
原爆が炸裂する悲劇の瞬間を描いた作品。
長らく所在不明となっていたが、2003年にメキシコシティ郊外で発見され、2008年11月から渋谷マークシティにて展示されるようになった。
2011年の東日本大震災で発生した福島第一原発事故後、絵画に原発を模した落書きがベニヤ板で追加され話題となった。

  • 近鉄ラビットカー
近鉄南大阪線に導入された日本初の高性能通勤車・6800系の側面に取り付けられたロゴ。
鉄道関連のロゴにデザイナーを採用した当時としては珍しい例である。

  • 猛牛マーク
その南大阪線沿いの藤井寺を本拠地にしていた野球チーム、大阪近鉄バファローズのロゴマーク。
日本一になった暁に公表される予定だったもう1つのデザインが存在しており、球団の消滅後に公開されている。

  • 西鉄高速バス
ご存じキングオブ深夜バス「はかた号」「どんたく号」車両のデザインを担当。
太陽の塔を模したようなカラーリングが特徴。

  • テレホンカード
1982年に発売された第1号商品のデザインを担当。


【岡本太郎語録】


  • 芸術は爆発だ
岡本太郎を代表する名言。日本人ならどこかで聞いたことがあるだろう。
いつから言い始めたかはさだかではないが、岡本太郎という型破りな人物をこれ以上なく表現している。
その意味は太郎いわく「爆発というと、みんなドカーンと音がして、物が飛び散ったり壊れたり、また血が流れたりする暴力的なテロを考える。僕の爆発はそういうのじゃないんだ。音もなく、宇宙に向かって精神が、いのちがぱーあっとひらく、無条件に、それが爆発だ」

  • オレは進歩と調和なんて大嫌いだ
「人類が進歩などしているか。原始のもののほうがずっといい。縄文時代やラスコーの壁画を見ろ、あんなものが現代の人間につくれるか。ことに近代以降はどんどん落ちているだけだ」

  • 私は男女が同じだとは思わない
「女と男は異なった2つのポイントから世界を眺めかえしているのだ。男の見る世界と女の見る世界では彩が違う。男だけ、女だけでは世界観は成り立たない。存在ではありえない。双方の見方、感じ方、生命観をぶつけ合い、挑み合い、渾然とからみあってはじめて本当の世界をつかむのだ」

  • 恋愛っていうのは、必ず片思いなんだよ
「どんなに思い合って、うまくいっている熱々の二人でも、男と女がまったく同じ重さで、同じくらい愛し合うなんてことはあり得ない。いつだって、どっちかが深く切ないんだ、人間だからね」
「片思いでいいんだよ。恋愛っていうのは片思いなんだ」

  • 死んでなにが悪い、祭りだろ
長野県諏訪の御柱祭にゲストで呼ばれた際に、太郎は矢も楯もたまらずに死者も出るほど危険な木落とし坂の大木滑りに乗せろと言い出した。
もちろん周りの人が青くなって止めたが、その時に太郎が言い返したのがこれである。
後先のことなんて考えずに今の情熱の高ぶりにすべてをかける太郎らしい言葉である。
結局、太郎は木落とし坂にチャレンジすることなく世を去ったが、後年の祭りで岡本先生のために彼の写真を抱いて坂滑りを行うことになった。
すると、その挑戦が歴史上まれに見る大成功をおさめ「岡本先生が守ってくれたんだ」と、人々は感動したという。

  • 「今までの自分なんか蹴飛ばしてやる」「本職は”人間”だ」「鳥には名前なんてないんだよ」
生涯を通じて人間らしく自由に生きようとした太郎。
人間としてどうあるべきかと常に挑戦を続け、ある時は何者でもない鳥になりたいと願ったこともある。
その挑戦は人生の最後の最後まで終わることは無かった。

  • スキーというのはまったくユニークなスポーツである。たった一人で、下手だろうがうまかろうが、あのくらい平気で身を投げ出せるスポーツはほかにない
太郎は非常にスキーが好きだった。その理由は言葉通り、誰と競うわけでも見せるわけでも無く、ただ一人きりで熱中でき、危険と隣り合わせのスリルを味わえるからだった。
たとえ友人と滑った時でも滑っている間は孤独に自分と向かい合える、その時間を太郎はとにかく愛した。
スキー場でも岡本太郎は大人気で、スキーに関する逸話だけで本ができるほどである。
周りが驚くくらい真剣に滑走する太郎の姿は、まさに作品に打ち込んでいる姿と同じであった。
太郎にとってスキーは命がけの自分への挑戦であったのだ。だからこそ、一流のスキーヤーたちも岡本太郎に見惚れていた。

  • 子供はみんな天才だ
自由な芸術になによりこだわり、誰よりも自由な子供の持つ無限の芸術性が太郎は大好きだった。
子供たちの絵画展の審査員をしたときも、夢中になって子供たちの絵に見入り、とても点数はつけられない。全員に賞をあげてくれとゴネまくったという。
それゆえに、子供の自主性を否定し、型にはめてゆく日本の教育制度を強く批判していた。
子供はみんな天才ということは、人間はみんな天才だということだ。ただ、その可能性を型にはめて封じているだけなのだ。太郎はそれが歯がゆくて仕方なかった。

  • 「なんだ、これは!」というようなもので、ぐーんと打ってくる。それこそが芸術だ
「意味なんかあるもんか。わからんところがいいんだ。わかってしまっては、頭になにも残らない」
「芸術ってのは判断を超えて「なんだ、これは!」というものだけが本物なんだ。「ああ、いいですね」なんてのは「どうでもいいですね」ってことだよ。



追記・修正は爆発だ!

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最終更新:2025年06月09日 09:04

*1 但し秘書だった15歳年下の平野敏子を養子としており、彼女が実質的な伴侶と見なされる事が多い。

*2 過去にはエキスポタワーも存在したが、2000年に解体されている。