登録日:2024/11/15 Fri 07:09:02
更新日:2025/07/09 Wed 14:10:52
所要時間:約 6 分で読めます
「難船危急時遺言」は、遺言の一種で特別方式の危急時遺言に分類される遺言である。
その規定は民法第979条にて定められており、多くの国民や法律家に認知される・・・ことなく、適用された例を探そうとしても見つからない条文として、今日も眠っている。
【遺言についての基礎知識】
日常用語としての「遺言」は「ゆいごん」と読むことが多いが、法律用語としての「遺言」は「いごん」と読む。
したがって、本項の正式な読み方は「なんせん ききゅうじ いごん」となる。
遺言は、相続において被相続人が自身の財産をどのように分配するかなどの最終意思を表示するものであり、法律上の効果を生じさせるためには、民法に定める方式に従わなければならないとされている(民法第960条に規定)。
遺言は大分類で「普通方式」と「特別方式」の2つに分類される。
普通方式は「自筆証書遺言」「公正証書遺言」「秘密証書遺言」の3つからなり、世間一般で「遺言」といわれたら想像するものがこの普通方式遺言である。
特別方式は「隔絶地遺言」「危急時遺言」の2つで形成され、さらに「一般隔絶地遺言」「船舶隔絶地遺言」、「一般危急時遺言」「難船危急時遺言」と分類する。
【民法第979条 船舶遭難者の遺言 -条文-】
- 船舶が遭難した場合において、当該船舶中に在って死亡の危急に迫った者は、証人2人以上の立会いをもって口頭で遺言をすることができる。
- 口がきけない者が前項の規定により遺言をする場合には、遺言者は、通訳人の通訳によりこれをしなければならない。
- 前二項の規定に従ってした遺言は、証人が、その趣旨を筆記して、これに署名し、印を押し、かつ、証人の1人又は利害関係人から遅滞なく家庭裁判所に請求してその確認を得なければ、その効力を生じない。
- 第976条第5項の規定は、前項の場合について準用する。
【解説】
航海中に船が遭難や沈没の危機に面し、自身に死の危険が生じた時に、2人以上の人を証人として口頭で遺言を残すことができる。その証人は船舶の船長や乗務員である必要はなく、医師や弁護士、公証人である必要もない。遺言を託せる人なら誰でも構わないということである。
本来であれば、遺言というのは、かなり厳格な形式に乗っ取って実施することを要する行為であり、それに従わないとすぐに無効になってしまう代物である。
誰でもできるのは、自筆で書く「自筆証書遺言」であるが、メールや音声録音でもダメだし、署名捺印日付も自筆でなければダメ。一部でもワープロで打った時点でその遺言は無効というほどである。
しかし、急いで遺言を残さなければならない人や、諸事情で公証人などに相談が難しい環境にいる人は、長い遺言を方式に則って全部手書きしろという時点で無理難題である。
そのため、民法は死にかけていたり、諸事情で遺言を残しにくい環境にいる人が遺言を残すことができるよう、特別な遺言の残し方を用意した。
- 病気や負傷などで死にかけた人の遺言(「一般危急時遺言」、証人が3人必要)
- 伝染病などで隔離された人向けの遺言(「一般隔絶地遺言」、警察官1人+証人1人が必要)
- 船の上で残す遺言(「船舶隔絶地遺言」、船長または船員1人+証人2人が必要)
と言った具合である。
難船危急時遺言とは、上記のうち、船の中で残す遺言であり、かつ船舶の遭難による場合のパターンである。
もちろん、上記の在船者遺言を使うこともできるわけだが、船舶が遭難している場合は「本人はもちろん、船長や船員まで死にかけている」状態での遺言であるため、緊急時と言うことで船長や船員抜きで遺言を残せるのだ。
・どんな場面なのか
映画『
タイタニック』の有名なシーンを思い浮かべると想像が容易であろうか。
船が氷山に激突し今にも沈没するという時点で、船の先端で
全身で「TT兄弟」の物まねをしている人両手を広げている人とその人を支えている人、あるいは傾く甲板の上でバイオリンを弾いている楽師、聖書を読み上げる神父あたりに声をかけ、「すみません、今から遺言を残したいので証人になっていただけませんか?」と打診し、承認を得たうえで口頭で遺言を伝えれば難船危急時遺言は成立である。
船の上で残す一般的な遺言と違って、船長や船員の立ち会いは不要であり証人が2人でよいという違いがあるのだ。
ここで注意しておきたいのは・・・
1 おそらく居合わせている方々は「自分が生き残るために必死」もしくは「1つでも多くの生命を救うために必死」のどちらかであることが多いであろう。
そのため、彼らに証人を頼んでも取り合ってくれる可能性は限りなく低い。
2 現場は上記の方々による怒号や悲鳴が飛び交い、さらには荒天である可能性も高く、自然界の轟音の中で遺言を残すことになる。
したがって、それらにかき消されないくらいの大声で遺言を発しないと、おそらく証人には伝わらない。
常日頃から、自分の個人情報を大声で叫ぶ練習をしておいた方が良いのかもしれない。
・どうすれば適用できるか
遺言を託された証人は、遅滞なく家庭裁判所に赴き、口頭で託された遺言を書面化して署名、押印のうえ家庭裁判所に提出する必要がある。
裁判所から確認を得られれば、当該遺言は適用される。
なお裁判所に遺言を提出するにあたり、以下の書類が必要となる。
〇遺言確認申立書
〇申立人の戸籍謄本(申立人は証人の1人もしくは遺言者の利害関係者)
〇遺言者の戸籍謄本
〇証人の戸籍謄本
〇遺言書の写し(原本である必要はない)
〇遺言者の診断書(生存している場合)
・遺言が裁判所に認められたが、遺言者が死ななかった場合はどうなるか
難船危急時遺言を含め全般的に特別方式の遺言は、遺言者が死の危険から離れた場合、6か月後に無効となる(民法第983条に規定)。
つまりは時限立法的な効力にとどまり、原則として遺言は普通方式の遺言で準備しなさいということである。
【問題点】
もう、この時点でお気づきであろう。この難船危急時遺言が大きな問題を抱えていて、ツッコミ処が満載なことに。
1 そもそも遺言を残したい人、遺言を託される人双方がこの制度を知っているか。
2 知っていたとして船の緊急事態時に、お互いに遺言を残す・託される冷静さを持ち合わせているのか。
3 証人をお願いする人は、快く承諾してくれるか。
4 託された証人が生還しないと遺言は裁判所に届かないが、証人も同じ危機に晒されているはずなので生還できる保証は全く無い。
5 逆に、証人が生還できたなら、遺言を残した人も生還できている確率は比較的高い。
6 今後、宇宙船においても適用されるのか。
宇宙では、あなたの遺言は誰にも聞こえない
というわけでこの民法979条に判例を探そうとしても、存在しない。
近年の船の遭難や沈没事故を調べても、この遺言が発見されたという事実はない。
特に4に関しては、上でタイタニックの例に出した面々のうち生還したのは「船の先端で両手を広げている人」だけなのでいかに持ち帰られる保証がないかが分かるだろう。
体力のないお年寄りが体力のある若い人に遺言を残す場合が考えられそうだが、事故発生時には体力のない人は優先的に避難させることが多く、そのような状況が成立する可能性は高くはない。
何でこんな条文ができたかと言えば、現在の民法ができたのは明治時代の話。
今は現代風に条文の体裁は変わっているものの、内容面では当時から引き継がれている。
例えば、海賊や敵海軍に船が襲われて拿捕され、船長や船員とも殺されたり引き離されたりして、それでいて死にかけた、あるいはいつ殺されるか分からない乗客が、一般的な船上での遺言を使えない事態を想定していたのである。
当然、今の世の中でそれはなかなか考えられない。病気や事故で船上で死にかけることくらいはあっても、それなら在船者遺言で遺言を残せばいい。
かといってこのような場合が一切想定されないわけではないし、画期的な代替案があるかといえば、あるわけでもない。
というか、実例がないので、「こんなシステムを残したばかりにトラブルが起きてしまった!!」なんていう実例も特にないので、残しておいても別に害がある訳ではない。
したがって、この条文は制定以降改正されることなく、979条はひっそりと存在している。
改正が必要にしても緊急度は著しく低く、改正の議論に達したこともない。
取り扱ったことのある裁判官や弁護士もいない。弁護士事務所のHPなどで紹介されてはいるが、あくまで条文と要約のみの掲載で閲覧する人もごくわずか。
今般、相続セミナーなどで講師が「つかみネタ」として紹介してやっと認知されるというレベルである。
ただし、その講師だってこの制度を必ず知っているという保証はない。
もしも、知っている講師だったとしたら、その方はとても有能なセミナー講師・・・なのかもしれない。
追記・修正は民法979条を熟読してからお願いします。
- 遺言を託された証人は、遅滞なく裁判所に赴き、←それができたら遺言残さねぇよ! -- 名無しさん (2024-11-22 10:25:17)
- 理屈はわかる、まさにタイタニック状態になった時に緊急に遺言を遺したいことはありうるからその行為に法的正当性をあたえるというのは理解できる。問題は、いざその事態に直面したとき「できねーよそんなこと!」ってなることだが…… -- 名無しさん (2024-11-22 10:49:30)
- これ、証人が「死亡の危急に迫っ」ている必要はないよね?某ジャック氏が救命ボートに乗れそうな人/すでに乗っている人を証人にしても構わないように読めるんだが -- 名無しさん (2024-11-22 10:58:38)
- これって複数人に託すとか、お互いに託しあうとかって可能なんかね?数打ちゃ当たる理論で誰かが生き残って…みたいなことができないかな?まぁそんな冷静に対応してくれる人がそんなに大勢いるかはおいといて -- 名無しさん (2024-11-22 12:29:18)
- まあ今ならスマホで録音、撮影して、パックに空気詰めて放流、だよな -- 名無しさん (2024-11-22 12:58:59)
- できたのが明治民法の時代だから、船が難破してというのは身近な脅威だったのだろう。しかし今スマホで知人に言い残したりしても遺言としては認められない。別に必要性がないから放っておかれてるだけなのだろうけど。 -- 名無しさん (2024-11-23 04:53:54)
- これって多分「遺言遺したかったらこうしてね」じゃなくて「こういう状況で遺された遺言があったら認めてあげてね」って目的で作られたんじゃないかな -- 名無しさん (2024-11-23 08:32:39)
- ↑一番上 民法における「遅滞なく」っていうのは「事情の許す限りはやく」みたいな意味なので、生還して自由に行動できるようになったら直ぐに、みたいな意味で良いと思います。とはいえそれで何が変わるというわけでもないですが・・・ -- 名無しさん (2024-12-02 17:23:40)
- 夏樹静子の短編『雨に佇つ人』を思い出したが、あれは船が難破したんじゃなくて釣り用の観光船に乗り合わせた心臓の悪い人が心不全を起こして他の客二人に遺言を聞いてもらう話だった。 -- 名無しさん (2024-12-07 07:40:28)
- 存在していることに意味がある系の条文だなこれ。遺言は相当重要な法律効果を発生させるから保護しようという意図は感じる。 -- 名無しさん (2024-12-13 09:50:00)
- 現代の標準的な一般人が想像する遺言と、明治で船に乗ってる人らが遺さなきゃならなかった遺言では重みが違うと思うんだよね。一族の動向が左右されるレベルの物もあったろうから。 -- 名無しさん (2024-12-13 11:28:20)
最終更新:2025年07月09日 14:10