登録日:2025/03/16 Sun 01:39:39
更新日:2025/03/17 Mon 10:52:02
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この束の間の人生が終われば永遠に一緒になれる
1つになってお互いの唇を重ねよう
『小さな悪の華』は1970年フランスで制作された映画。
監督兼脚本はジョセル・セリア。主演はジャンヌ・グーピルとカトリーヌ・ヴァジュネール。
フランスでは上映禁止となった問題作である。
日本では1972年3月4日に公開された。VHS版は発売されず2008年に初めてDVD版が発売された。
内容は悪魔崇拝する2人の女子中学生の犯罪記録を描いたもの。主人公のアンヌとロールは思春期の微細な心から宗教や大人に対し強い反抗心を抱いており、それが契機となり悪魔崇拝を誓う。そうして悪を楽しむことを覚えた2人は様々な犯罪行為を繰り返していく。悪魔崇拝がテーマであるがオカルト要素は全くなくアンヌたちが行うのは純粋に物理的な犯罪である。
そんな中でアンヌとロールの共依存的な関係性が描かれていく。2人は「何も考えず宗教を信じているバカしかいないこの世界で価値があるのは私たちだけ」という閉じた関係性を築いている。そのためお互いを最高の理解者であり互いにが互いに親友がいるからこそ悪の道に進めると考えている。中盤では指に傷をつけお互いの血を舐めあうというシーンが描かれた。
演出は全体的にエロさ全開。思春期の少女の危うさや脆さがひとつのテーマということもありその辺りは全力で描写されている。ロールに至っては乳首と陰毛まで露出している。中の人の年齢とか考えてはいけない。
本作は言ってしまえば「大人の意表を突けば勝ち」と考えているクソガキ2人が悪戯と犯罪行為の果てに破滅する話だが、思春期の少女の淫靡さを前面に出した作風で独特の映画となった。
フランス語版の原題は「Mais ne nous délivrez pas du mal」。直訳すると「私たちを悪から救わないでください」になる。悪魔崇拝を心から楽しむアンヌたちらしい言葉である。
なお日本語版の意味は、作中でアンヌたちがボートレールの詩集「悪の華」を読んでいることに由来すると思われる。
その宗教に対し批判的な作風からフランスでは上映禁止に。さらにイタリアやイギリスには輸出禁止、当時公開されたのは日本とアメリカだけだった。……と言われているものの、実際のところヨーロッパでは普通に上映されていたようである(後述)。
【あらすじ】
舞台はフランスのとある田舎町。
主人公のアンヌとロールは全寮制のミッションスクールである聖メアリー学院に通う中学生。
表向きはカトリックの2人であるが実は裏では悪魔崇拝者を名乗っていた。そのため裏では宗教を嘲笑うような悪事を行っていた。
そうして学校は夏休みに入る。窮屈な寄宿舎から解放されたアンヌたちはひと夏の青春としてこれまで以上の悪事を行うことを考える。特にアンヌの両親が旅行に出かけたこともあり彼女はいつも以上に自由だった。
そして2人の行いは悪戯では済まない犯罪行為にエスカレートしていく。
【登場人物】
◆アンヌ・ド・ボワシー(演:ジャンヌ・グーピル)
本作の主人公である黒髪の女子中学生。パンツは白。
悪魔崇拝者を自称しており夏休みに入り自由を得たことで様々な悪事を楽しむ。
学校では宗教的に禁じられているボートレールの詩を読むことが趣味。あと悪魔崇拝の活動を日記に書くことも。
頭がいいサディスティックな少女。というか、監督と役者に名指しで「性格悪い」と言われている。本作で悪魔崇拝のことを考えたのは彼女である(ロールはアンヌの提案に乗った形)。人の絶望を見るのが大好きでありそのための方法を考えるなら手間を惜しまないというタイプ。ロールは親友であるものの、監督から「頭の弱いロールを操って楽しんでいる」と言われている。……まあ、それはそれとしてロールのことが大好きなようだが。ロールが家族の付き添いで旅行に行った際は、彼女からの手紙が待ちきれずわざわざ郵便局を訪ねるという年相応の姿を見せた。
家は裕福であるが家庭環境はあまり良くない。家は大きな屋敷であり使用人が2人いるなど結構なボンボン。だが家族仲は冷えており序盤で久々にアンヌが帰ってきたときにも反応が薄かった。両親もアンヌが嫌いというわけではなく「家族はこんなもの」と割り切っている節がある。ただアンヌはその辺り気にしている。明言されないが悪魔崇拝の裏にはこういった家庭環境も絡んでいるのかもしれない。
作中では悪魔崇拝者として様々な悪事を楽しんでいる。序盤では若い男性神父にオナニーしたこと告白し反応を楽しむという「まだ」かわいげのあるものだった。だが夏休みに入りずっとロールといられることでテンションが上がったのか言動はエスカレート。牧牛を逃がす、ペットを殺す、牧場に放火とただの犯罪行為をするようになっていった。
当時のフランスの宗教観や監督の生い立ちから考えるに、アンヌの根幹にあるのは思春期故の反抗期。フランスにおいて宗教に対する反抗心を抱く十代前半の子どもは珍しくないことだった。思春期に入ると束縛を嫌うものだが、フランスは宗教に厳しいということもあり、宗教を束縛ととらえる子供は多かった。宗教への反抗心と頭の良さと大好きなロールの存在から悪魔崇拝にたどり着いたのがアンヌなのかもしれない。
そういった反抗期故かアンヌは宗教と同じくらいに大人が嫌い。特に宗教介して子供にはきれいごと吐く癖に裏では汚い大人が嫌い。作中でもよく大人の矛盾を突っ込んで相手の反応を見て楽しんでいる。
こんな性格なので、本質的にやっていることは悪魔崇拝よりかは自分たちを束縛する大人や宗教をバカにすることに近い。
演じたジャンヌ・ピーグルは「アンヌは私」と言うほど彼女に感情移入している。
インタビューでアンヌについて「大人が信用できず現実があいまいで空想の方がまだ現実味がある。だから2人だけの独特の世界を作った」「生きる喜びを知らないから死が魅力的に見える。大人になるくらいなら死んでやる」とコメントしている。
◆ロール・フルニエ (演:カトリーヌ・ヴァジュネール)
アンヌの親友である金髪の女子中学生。パンツは白。あと美乳。
アンヌに対し精神的に依存している。住んでいる家はアンヌと比べると庶民的。
クールなアンヌと対照的に能天気で親友のことが大好き。悪魔崇拝についてもアンヌに比べると親友と一緒に居られることをただ楽しんでいるようにも見える。とにかくアンヌが大好きであり、趣味は寄宿舎の消灯後にアンヌの布団に入り込むこと。本を読んでいるアンヌにべったりくっつくシーンもある。
作中においてはエロ担当。アンヌと一緒に男を自身の肉体で誘惑し反応を見て楽しむということをよくやっている。そのため男によく襲われかけておりそのたびにきわどいところまで露出している。ちなみにアンヌはそういう場面になるとさりげなくロールに役を押し付ける。
なお本作を観ていると考えてしまう「ロールは男を誘惑する癖に何故襲われそうになると逃げるの?」問題について。ロールは男を誘惑するものの、相手がその気になって襲ってくると暴力を使ってでも拒否して逃げる。これについてはきれいごとを吐きながらもJCの肉体に欲望をあらがえない男を見るのが目的であり、性行為はまっぴらごめんだからとされる。実際男から逃げようとしてはずみで殺害した際には(強がりも含まれているが)「私を襲おうとしたのだから自業自得」と言っていた。
夢のない話であるが、2人は中学生設定であるものの中の人は大学生である。序盤にアンヌが喫煙するシーンがあるが中の人の年齢的に合法であった(フランスは18歳未満の喫煙が禁じられている)。
◆アンヌの両親
いい家に住んでいるがあまりアンヌに関心がない(最低限のことはするが)。
序盤で旅行に行きフェードアウトしたためアンヌは自由を得ることになった。
◆アンヌの家の使用人
名前通り。丁寧な物腰の中年男性。設定の上では夏休み中のアンヌのお目付け役だがあまり登場しない。
◆ロールの両親
名前通り。庶民的でアンヌの家の両親に比べると娘を気にかけているが、当の娘には陰でバカにされている。
娘同士が仲が良いということもありアンヌの両親と親交がある。
◆シスター・マルタ
アンヌたちの学校のシスター。結構いいカラダをしている。アンヌとロールの被害者その1。
実は新人のシスター・セシルと同性愛関係であり夜な夜な逢瀬をしている。
そしてこれをアンヌに見られたのが運の尽き。アンヌに速攻で神父にチクられた。
アンヌとしては彼女を学校から追い出して楽しみたかったらしい。
◆神父
アンヌたちの学校の神父。アンヌがシスター・マルタの行為をチクった相手。
話を聞きシスターたちの行為がアンヌに悪影響を与えていないかを気にしていた。
アンヌに「神に仕える人間がなぜあんな背徳的な行為を?」と聞かれるもうまく答えられずはぐらかしてしまった。まあアンヌとしては「大人はしょせんそんな存在」と確認するための行為で答えは求めていないが。
◆牛飼いの男
名前の通り牧場で生計を立てている中年男性。アンヌとロールの被害者その2。
家業と頭の悪さから進学できなかった頭の悪い男。アンヌには陰で「本物のバカ」「ブサイク」と言われている。
作中ではロールに誘惑される役。牛が逃げないよう見張りをしている中、アンヌたちに声をかけられる。ロールに「貴方とヤリたいの」と言われ懸命に理性を保っていたが、パンツを見せつけられ誘惑されたことで理性が崩壊。ロールを襲ってしまう。だが最終的にはロールにキンタマ蹴られて逃げられた。ちなみにその間アンヌは、彼が逃げないように見張っていた牧牛をすべて逃がしてしまった。大損害である。
さらに後日、アンヌたちに牧場を放火された。
◆庭師の男
アンヌの家の屋根裏に住み込みで働いている男。知恵遅れで言葉がしゃべれない。アンヌとロールの被害者その3。
まずアンヌたちに部屋を荒らされてしまう。屋根裏に様々な種類の鳥を飼っているのだがそれらをアンヌたちに毒殺される。しかもアンヌは「一度にすべて殺したら一度しか悲しませられない」と徐々に殺された。また母の写真を飾り手紙を丁寧に保管するなど母が好きらしいが、アンヌに手紙をパクられ写真も焦がされた。
さらに中盤にはアンヌたちの開く悪魔崇拝の儀式に司祭役で参加することに。彼女たちが学校から盗んできた(結構な大罪)司祭服をもらい、命じられるままに司祭として動かされた。さらに湖の上でのボートの儀式中、アンヌたちにボートから叩き落とされおぼれかけてしまう。怒って彼女らを追いかけるも翻弄され続け最後には泣いてしまった。
【結末】
アンヌとロールの運命がおかしくなるのはとある男性を殺してしまってから。ある夜アンヌたちは車がエンストして立ち往生している村の外の男と出会う。男を屋敷に招待した2人はいつも通り、男の前で肌を見せ欲望を抑えきれない姿を見て嘲笑う。だが男は本当にロールを襲いだしてしまう。咄嗟のことで対応出来なかったこともあり、アンヌは男の後頭部を殴り殺してしまう。男を湖に沈めたがすぐに死体は浮かんでしまった。
夏休みが終わり2人は警察に疑われるように。事情聴取でボロを出してしまい、その上今になって夏休みに起こした事件の証拠隠滅の杜撰さが表に出てきていた。その中でも警部は実質的にアンヌたちが犯人だと考えるように。
そんな日々が続き2人は徐々におかしくなっていく。特にロールは精神的に疲弊していきアンヌへの依存を強めていった。2人は「永遠に一緒に居たい」という考えを強固なものにしていく。
破滅を悟ったアンヌたちは、警部に「すべてを明かすので文化祭に来てほしい」という手紙を送った。
文化祭当日、アンヌたちは講堂で朗読劇を行った。途中からリハーサルにない「悪の華」の朗読を行ったためシスターに不審がられたものの観客からの評判は上々だった。
そうして劇が終わり2人は身体にガソリンをかけ火をつける。大人に逮捕されるくらいなら心中を選ぶというのが彼女たちの答えだった。観客たちは最初こそ演出だと思ったがすぐに事態に気が付き逃げ出した。
炎に包まれるアンヌとロールだが、それでもお互いを離すまいと最期まで抱きしめあっていた。
【解説】
◆パルム・パーカー殺人事件
パルム・パーカー殺人事件は『小さな悪の華』の元ネタのひとつと明言されている事件。映画は別にこの事件を映画にしたわけではなく、飽くまでも事件を通して監督が感じたことを使ったという話である。事件と映画は「思春期女子の共依存と暴走」という部分で似ている。
事件は女子中学生2人が母親を殺害したという凶悪事件。1954年のニュージーランドで起きた事件であり、未だに国を代表する殺人事件として知られる。何しろ南半球で起きた事件がフランスの新聞に載り当時学生だった監督が知ったくらいである。
事の始まりは後の殺人犯であるポウリーン・パーカーとジュリエット・ヒュームの2人が出会ったこと。おとなしいポウリーンと活発なジュリエットとタイプは真逆だったがどちらも空想好きであり仲が良かった。そのうち2人は「選ばれた者だけが入ることを許される第四世界」という空想を一緒に作るように。
彼女たちは徐々に依存を深めていった。これはお互い家族関係がうまく行っていないことや人に話した第四世界の空想がバカにされたことが原因とされる。そうしているうちに「私たちのことを理解できるのは私たちだけ」と間に誰も入れない相思相愛の中に。最終的に2人は肉体関係にまで至ったらしい。
しかしそんな彼女たちの仲を両親は疎むようになっていく。両親は彼女たちを同性愛とみなし、当時同性愛はタブー視されていたのでよく思われなかった。特にジュリエットの父は大学教授だったため娘がスキャンダルになると考えた。
それがきっかけで2人はポウリーンの母であるパルム氏の暗殺を決意する。ジュリエットの転校が決まり離れ離れになることが最後のトリガーであった。ただこの転校にはジュリエットの両親の離婚や彼女自身の持病の療養があり「殺ればなんとかなる」ものではなかった。
ポウリーンたちは本当に母を殺害してしまう。公園におびき出した母を後頭部から鈍器で殴り殺し、「転んで打ちどころが悪く死んでしまった」と偽装するつもりだった。だが計画の甘さや気が動転したことでうまく行かず、数十発以上殴っての殺人となった。
しかしあっさり捕まることに。数十発殴り殺したためどう見ても転んだようには見えなかった。結局ポウリーンが日記に殺害計画を詳細に書いていたことが決め手となり逮捕される。
なおここまで犯行経緯や動機が明確なことからわかるように、ポウリーンの日記は全て捜査官に読まれた。ジュリエットへの想いや初エッチの様子が中学生らしい情緒豊かな文で描かれた日記がすべて読まれた。
2人は裁判の末に恩赦を受け「2人は二度と会わない」ことを条件に釈放される。本来は死刑相当の罪だがまだ若いので見逃された形であった。こうして2人は釈放後歴史の闇に消えたのだった。
これらの経緯は1994年に、『
ロード・オブ・ザ・リング』シリーズのピーター・ジャクソン監督によって
『乙女の祈り』として映画化されている。こちらは事件の筋を映画にしたものである。
この映画の公開を機に誰も予想していなかったことが起こる。
英国の女流推理小説家アン・ペリーが「ジュリエットは私のことである」と言い出したのである。行方が分からなくなっていたジュリエットだが、その後名前を変えて小説家になっていた。アン・ペリーと言えば当時普通に人気の高い小説家だったため世間を騒がすことになった。
なお彼女は事件について「今となっては狂っているとしか言いようがないが、当時はやらなければならないという強迫観念があった」と言っている。
この事件において「一緒の布団に入り本を読む」「犯罪記録を日記に書く」などは直接的なオマージュと言われる。あと髪色が同じである(黒髪と金髪)。
◆制作経緯
本作はジョセル・セリアが監督兼脚本家と実質的に指揮権を握っている。
そんな本作は彼が少年時代に感じた宗教への反抗心がモチーフになっている。というかインタビューで「映画は束縛されていた時代の自分自身」と答えている。
彼は恵まれた少年時代を送っておらず宗教を嫌っていた。フランスは宗教に厳しいということもあり、思春期近くになると宗教を束縛と感じ嫌う子供が多かった。ジョセルもそのひとり。特に彼の両親は宗教に熱心だったこともあり、ひと一倍嫌うようになった。
そんな家族仲の悪さから巡り巡って監督になったようなもの。元々演技には興味があり役者志望だったのだが、17歳の時に役者志望を親に反対され、大喧嘩の末に家出同然で役者になった。12年俳優をやっていたが怪我をしたことで役者を続けることが難しくなり監督に転向した。
そうして初監督作品として「小さな悪の華」を構想する。子供の時に感じた宗教への束縛と、学生時代に新聞で見たパルム・パーカー殺人事件をリミックスしたものが企画になった。そこに上乗せして少年時代暗記したボートレールの詩(宗教的には疎まれている)を作中に登場させた。
撮影は相当難航した。とある事情(詳しくは後述)によりスポンサーがつかず、ジョセルは資金を自腹で借金する羽目になった。さらにジョセル含め制作のノウハウを持つものはほぼおらず、プロと言えるのはカメラマンのマルセル・コンブのみだった。
そんな中出会ったのがアンヌ役となるジャンヌ・グービル。彼女は演技経験はなく、大学の友人に誘われ監督に会いに来た形であった。
ジョセルはジャンヌがアンヌのイメージによく合っていたこともあり一発採用してしまう。なんとテストやオーディションもなしに彼女を選んだとか。後年「この映画を作ってよかったことは少年時代の想いにケリをつけられたこととジャンヌに出会えたこと」というほど。
そんなことでジャンヌは伸び伸びと演技が出来たと語っている。ジョセルはジャンヌを気に入っていたこともあり、演技のスタイルは任せてくれたらしい。またジャンヌの家は無宗教であったものの「共産主義という名のある種の宗教」を幼少期体験していた。なのでアンヌの束縛を疎む気持ちはよく理解できたとか。なお監督にかなり良くしてもらったジャンヌだが、彼女の監督への印象は「いい人だがなんか陰気」だった。
ちなみにジャンヌとロール役のカトリーヌ・ヴァジュネールは実際はあまり仲良くなかったとか。ロールは芸能学校出身ということもあり素人のジャンヌへの指導を良くしており、ジャンヌは「なんだこいつ」と思っていた。ぶっちゃけ2人ともこの後役者としてそこまでブレイクしなかったのは内緒。
このして何とか完成した『小さな悪の華』。だがフランスで上映禁止をはじめとして様々な苦難が待ち受ける……。
◆宗教的観点
このように本作は良くも悪くも監督が少年時代に感じた宗教への反抗心がモデルになっている。そのためか作中には宗教を侮辱するシーンが多い。というか後述の上映禁止の大体の理由はコレである。
例えば悪魔崇拝の儀式を行うため司祭服を盗んだシーン。司祭服は宗教的には重要な意味を持つ。盗むことも、勝手に悪魔崇拝で使うことも、無関係の人間が着用することもよろしくない行為。
特にヤバいのが中盤の悪魔崇拝の儀式で御体を湖に捨てるシーン。
カトリックなどには「キリストの御体」という概念がある。薄べらく白い形のパンであるが宗教的にはイエス・キリストの実体と信じられているもの。ミサに使われ司祭が信者たちの舌にこれを載せていく。
作中ではアンヌとロールはミサごとに配られたこれを勝手に回収している。そして儀式のシーンで集めた御体を湖に捨てている。
キリストの肉体を言われているものをゴミのように湖に捨てるという宗教に背く悪魔崇拝の儀式として完成度の高い行為である。裏を返すと宗教的にかなり危険な映像となっている。
「小さな悪の華」はそういったシーンが多い。やはり監督の情念が中心にあるためか的確に宗教的に危険なシーンを選んでいる。そしてそういう目線で見るとアンヌとロールは宗教を嘲笑う険人物ということになる。当時の一般的なフランスの大人から見れば、自分たちが羊として描かれタブーを犯す少女たちがカッコよく描かれるようなものだった。
最期2人は心中という壮絶な結末を迎えるもののこれは勝ち逃げ説がある。仮にアンヌたちが逮捕されたとしたら元ネタのポウリーンたちと同じく二度と会えなくなってしまった可能性が高い。そんな中彼女たちは心中という形で永遠に一緒にいることを実現したのである。さらに言うとカトリックにおいて自殺はご法度。本当に、最期まで宗教を嘲笑って死んだ少女たちである。
ちなみに監督は「ラストシーンは束縛する世界から逃れるための手段」と語っている。
◆上映禁止に至るまで
本作はフランスで上映禁止されている作品。上述の通り本作は「宗教にケンカを売る」という点では極めて高い完成度を誇る作品である。そしてその完成度の高さから、宗教で厳しいフランス本国に怒られるのは当然の帰結だった。
まず製作は最初から国に反対されていた。当時のフランスの映画界は撮影前に脚本を検問しそれで問題がなければスポンサーが付くという形。結果「小さな悪の華」の脚本はNGを食らい、上に書いたようにスポンサーがつかなかった。
逆に言えばそんな上映禁止が半ばわかった状態で自腹で制作したのが本作である。監督の執念が見える。
完成後もう一度交渉してみるもやはりダメで8か月の上映・輸出が禁止される。その後反省の意を示すため映像を数秒分カットしたものを提出するも、問題があるのは映像ではなく内容のためまたNGを食らう。
一応8か月たった後の1971年4月のカンヌ国際映画祭で上映されている。
こうして「フランスで禁止されたフランス映画」となったのが『小さな悪の華』である。
◆上映国について
日本において本作は「各国で上映禁止となり上映されたのは日本とアメリカだけ」と言われている。
この情報のソースとなるのはDVD版を発売したTCエンタテイメントのホームページの本作の紹介欄。そこには「フランス本国では全面的に上映禁止、ヨーロッパ各国には輸出禁止」「日本とアメリカでのみ上映された問題作」と書かれている。
ただ、それとはガッツリ矛盾する情報もある。
それはTCエンタテイメントが発売したDVDの特典映像である監督インタビュー。そこではイギリス版のチラシの画像と共に、監督が「映画はイギリスやドイツに輸入された」と言っている。
どういうことなんですかTCエンタテイメントさん!?
ということでまずは、世界初一般上映されたイギリス版の事情について。ソースはDVDの監督インタビューなど。
フランス本国で発禁を食らった本作だが、映画監督兼配給人であるアントニー・バルチに買われイギリスで上映することに。1972年1月7日に「Don't Deliver Us from Evil」というタイトルで上映された。なおタイトルの原題を英語にしたものである。
これが当時のイギリスの『小さな悪の華』のチラシらしい。翻訳すると……
- アントニー・バルチが配給する超話題作
- ベイカー・ストリートとジェイシー・ピカデリーで公開1週間の興行成績5802ポンド
- 私たちは悪魔的に人気があります!
などと書かれている。
公開日である1月7日のイギリスの新聞では何誌か本作についてのコラム記事を設けていた。
- 「The Daily Telegraph」にて「The devil in the flesh」という題の映画紹介記事が掲載
- 「The Guardian」にて「Little devils of the cinema」という題で映画評論家のデレク・マルコムのレビュー記事を掲載
- 「Cambridge News」にて「Personary…」という題でフランスが本作を上映禁止したことを批判する記事を掲載
などなど。成績や記事の内容などを見るにイギリスでは本作は好意的に受け止められたようである。
次に日本の事情について。「上映されたのは日本とアメリカだけ」という情報が出たのは意外と古く公開当時の1972年のことらしい。
当時発売していた宗教系雑誌「月刊キリスト」1972年4月号において『小さな悪の華』の座談会が開かれた。その特集記事の初めの文にこんなことが書かれている。
試写の予定を問い合わせたとき、日本ヘラルドの宣伝部の人はこちらの誌名を聞くや、この映画がキリスト教国で上映禁止になっている問題作であり、一般上映許可は日本が世界で初めてであるとおしえてくれた。上映禁止の理由は、内容があまりに反宗教・反道徳だから、という。
日本公開が1972年3月であったのに対しイギリス公開が1972年1月なのでガッツリ矛盾する。
ここの「日本ヘラルド」とはかつて日本にあった映画配給会社のこと。現在は角川の子会社である「角川ヘラルド・ピクチャーズ」になっている。
ここから考えるに「上映国は日本とアメリカのみ」という情報は日本ヘラルドの前後から流出したのだと考えられる。
どういうことなんですか日本ヘラルド宣伝部さん!?
それ以上に何か詳しいことを知っている人は、追記・修正をお願いします。
ちなみに2023年に発売されたアメリカ版Blu-rayのamazonの紹介ページを見るに、むしろアメリカでは上映されなかった可能性がある。
【余談】
- 中盤の悪魔崇拝の儀式のシーンのロールはノーブラノーパンである。
追記・修正をお願いします。
- この記事よく調べたもんだなぁ…乙です。タイトルは知ってたけどこんな強烈な内容だったんだ。そして『乙女の祈り』で描かれた事件を元にしてたんだ -- 名無しさん (2025-03-16 09:12:01)
- 地獄に落ちた女たち、ってか。弾圧されて完成するタイプの作品だね -- 名無しさん (2025-03-16 09:17:32)
- 自分たちが嫌悪するものをこき下ろすことに執着したあげく自死するって、よくよく考えるとバカバカしいよな。見方を変えれば違った形で宗教という存在に執着したあげくの無駄死にだったともいえるわけで -- 名無しさん (2025-03-16 13:47:44)
- ↑「最も信心深い存在は悪魔」っていう鉄板ジョークがあるな。神の存在を最大限強固に信仰しなければ、それの敵対者である悪魔も存在し得ないっていう -- 名無しさん (2025-03-16 15:06:50)
最終更新:2025年03月17日 10:52