登録日:2025/08/27 Wed 11:23:14
更新日:2025/08/27 Wed 13:45:19NEW!
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『BLANKEY JET CITY』は、浅井健一(ボーカル/ギター)・照井利幸(ベース)・中村達也(ドラム)による、日本のスリーピースロックバンド。
初期のみ定冠詞の付いた“THE BLANKEY JET CITY”とされていた。
主な通称は“ブランキー”で、公式でも用いられる略称は“BJC”である。
【概要】
90年代にカリスマ的な人気を誇った伝説的なロックグループ。
初期にはロカビリーやパンクの魂も持った不良系ハードロックバンドといった尖った曲調と様相であった。
後期にはメンバーが年齢を重ねると共に、プロとして他のミュージシャンと交流したり各々に別バンドを始動させるなど活動の幅を広げていたのに伴ってか、楽曲もポップスとすら思える程の明るく小洒落た雰囲気のものが多くなった。
……しかし、こと音作りについては全く大人しくなったとかではなく、活動の全期を通じて常に“不安になるような焦燥感”が付きまとっていた。
フロントマンである浅井健一ことベンジーの少年的な容姿通りの高い声質と特徴的な歌いまわし(ついでに独特の世界観と言い回しのハイセンスな歌詞)に忌避感を感じる層もいるものの、ハマってしまうと抜け出せなくなる程の蠱惑的な魅力があるのもバンドの大きな武器であった。
現役当時から椎名林檎などからも影響を公言される程の別格的な存在感を放っていた。
同じく90年代の日本のロックシーンにてカリスマ的な人気を集め、現在では共に時代を代表するアーティストとして語られる“THEE MICHELLE GUN ELEPHANT”とは、実は活動時期が被っているようで被っていない。
寧ろ、ブランキーの活動や雰囲気が落ち着いた頃に世に出てきたのがミッシェルであり、いざ共演してみると互いのメンバーも直ぐに仲良しになった程に融和性が高かった。
1990年に結成。
1991年にプロデビューを果たし2000年に解散と、文字通りに90年代を駆け抜けた。
ただし、途中で上記の個人活動期間も挟むために“ブランキー”として活動していた期間は割と短かったりする。
メンバーとなる3人は各々の技量が高いのは勿論だが、お互いの個性を妥協させることなく真正面から全力でぶつけ合うような演奏をするのが特徴である。
こうした現象が起きるのも3人が揃った状態の時だけというのも特別にして特殊なところ。
そのため、演奏・音としてはしっかりと調和してるのに、常に聞いていると何処か不安になるような感覚が付きまとってくることさえも。
その、ギラギラした音作りの妥協のなさ故にか活動中には早くから不穏当な噂が囁かれていたし当人達もある程度はそれを認めていた。
しかし、音楽を抜きにさえすれば未だに仲良しな親友同士であり、普通にステージ上で共演もすればプライベートでの付き合いもするし、公の場での言及もある。
……が、バンドの再結成についてだけは頑なに「無い」と繰り返されている。
実際、再結成自体は4半世紀を経ても実現していないのだが、不定期に現役時代とは別形態のCDの発売がされたり活動中の様子をまとめた映画が公開されるなどしていた。
そして、2024年に公式にてXアカウントとYouTubeチャンネルが開設。グッズ販売も行われるようになっている。
【大まかな歴史】
1990年にバンド結成。
同年8月にバラエティー全開の内容ながらも、
たま等多数の実力派バンドを世に送り出して注目を集めていたTBSの『イカ天』に迷いつつも出演。
そこから7週連続で勝ち抜き6代目グランドKINGとなりプロデビューが確約された。
1991年4月にロンドンにて1stアルバム『Red Guitar And The Truth』を録音して東芝EMIよりリリース。
しかし、イギリス人がプロデュースについてくれたことが仇となり満足に意思疎通が図れなかったことと、渡英する前に自分達で録ったデモテープの方が気に入っていたこともあってか後悔を残しつつも、オリコン初登場8位と好成績を収めてプロデビューを成功させる。
1992年1月に2ndアルバム『Bang!』をリリース。
本作から土屋昌巳のプロデュースを受ける。
この関係は1995年11月に発売された5thアルバム『SKUNK』まで続くが、このアルバムでは途中から自分達によるセルフプロデュースに移り、プロデュースから離れることになる。
1996年よりソロプロジェクトに移行し、各々に別バンドを始動させる。
1997年より所属をポリドールに移す。
バンド初のセルフプロデュース作品として6thアルバム『LOVE FLASH FEVER』をリリース。
1998年1月に東芝EMI時代の楽曲を集めたベストアルバム『国境線上の蟻』をリリース。
6月に7thアルバム『ロメオの心臓』をリリース。
2000年5月にロンドン・沖縄の2カ所でレコーディングを進めていた8thアルバム『Harlem Jets』を完成させてリリース。
朝日新聞の広告上にて「最高のアルバムができたのでおれたちは解散します」と突然の解散宣言。
7月にラストシングル『SATURDAY NIGHT』リリース。
その後、8日と9日に横浜アリーナにて“Last Dance”と銘打ったバンドとしてのラストライブを行う。
28日にフジロックフェスティバルにて、日本人バンド初のヘッドライナー(メインアクト)を務めて事実上の解散。
10月に活動前期と後期から選出されたベストアルバム『Blankey Jet City 1991-1995』と『Blankey Jet City 1997-2000』をリリース。
2008年過去のアルバム作品をSHM-CD&紙ジャケット仕様でリリース。
2013年1月にラストツアーの様子に再編集を施した劇場版『VANISHING POINT』が限定公開。
同作のDVD・Blu-ray化に伴い、過去のシングルを纏めた『COMPLETE SINGLE COLLECTION SINGLES』がリリース。更に過去のアルバム作品をSHM-CDで、過去に発売されていたDVDが廉価版でリリース。
【メンバー】
●浅井健一(ベンジー)
1964年12月29日生まれ。
愛知県名古屋市出身。
名古屋弁は日常会話や発信、謹製のラインスタンプでも用いられている。
アーティストとしての活動でも知られる。
愛称の“ベンジー”は照井利幸から付けられたもので、映画『グローイング・アップ』の主人公に似ていたことから。
実家は米屋。自他共に認める不良少年で高校退学後に実家を手伝いつつバンド活動を行い後に上京。
中村達也と出会い、当時に中村が所属していたバンドの運転手として雇われた後に名古屋にて照井と再会、誘いをかけて上京させたことがBJCの結成の切欠となった。
デビューしたての頃はTV出演しても全く喋らないこともあった。
殆どの楽曲の作曲と作詞を担当。
日本でグレッチのギターを広めた第一人者。(他にも色々と使ってるけど)
●照井利幸
1964年2月28日生まれ。
愛知県名古屋市出身。
ベンジーとは地元でも顔見知りで上京前からバンドを組んでいた仲であった。
先に上京していたベンジーに誘われて上京。
共同生活をしつつアルバイトと音作りに励みプロデビューを果たした。
入墨の占有率がメンバーの中では1番大きく、背中一面に聖母マリアが描かれている。怖がられることについては「仕方ない」と受け入れている。
強面だが綺麗好き。アパレルブランド「ケルトアンドコブラ」ではデザイナーとしても活動していた。
●中村達也
1965年1月4日生まれ。
富山県出身。
メンバーの中では1人だけ名古屋の出身ではないものの、日常会話で方言が出るのは同じ。
やっぱり不良っぽい見た目で、実際に地元には不良が多かったというが先輩の影響で音楽の道に入り10代の頃から様々なバンドでドラムを叩いていた。
上京した後も様々なバンドで叩いていた時に上京してきたベンジーと出会い、後に照井も加わって自身も2人のバンドに参加する形でBJCが結成された。
デビューと知名度の向上に於いて大きな役割を果たした『イカ天』への出演を決めた(希望したのはベンジー説もあり)のは中村だったが、途中でバックれようとして胸ぐらをつかまれたらしい。
メンバーは容姿にも優れていたことからモデルとしてゲスト出演などもしているのだが、特に中村は渋い見た目からミュージシャンと並行して俳優としての活動が続いている。ちゃんと台本覚えようと思ったのは10年も経ってからのことだったというが、主演映画までが存在する。
追記修正お願いします。
- 個人的には堕落天使の灰児の技名の元ネタのイメージ -- 名無しさん (2025-08-27 13:39:46)
最終更新:2025年08月27日 13:45