THEE MICHELLE GUN ELEPHANT

登録日:2011/12/31(土) 22:10:00
更新日:2025/08/29 Fri 09:11:41
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THEE MICHELLE GUN ELEPHANT(ミッシェルガンエレファント)とは、日本のロックバンド。

略称・愛称はミッシェル、TMGE。

1991年頃に結成。
1996年にプロデビューを果たし、2003年に解散した。
1998年頃から解散までは日本のロックシーンに於ける主役として活躍し、その伝説は未だに色褪せない。


【概要】

“THEE”はイギリスのバンド「thee Headcoats」から拝借したものであり、発音はしない。
ただし、プロデビュー直後の辺りまでは曖昧で、自分達でも「ザ・ミッシェル〜」とか「ジ・ミッシェル〜」などと言っていた時もあった。
MICHELLE~は、大学時代にチバの友人が「The Damned」のアルバム『Machine Gun Etiquette』を読み間違えたのを面白がって採用したとされる。

細身のモッズスーツをステージ衣装として使用していた。
一般層にも名前が知られるようになった「ギヤ・ブルーズ」辺りのビジュアルから揃いの黒でネクタイ絞めてる印象が強いが、実際には色がバラバラだったり、それぞれに細かく違ってた時の方が多い。(特にキュウちゃん)

ちなみに彼らが使用していたスーツは小田急線梅ヶ丘駅の近くにある「洋服の並木」という店のオーダーメイドであり、
彼ら以外にも様々なミュージシャンやお笑い芸人のスーツを作っている。
自伝やインタビューによると後から加入したアベはちゃんと作りに行っている。

1991年に明治学院大学の音楽サークルで結成されるが、解散時に残っていたオリジナルのメンバーはチバだけである。
ただし、大学卒業後からメジャーデビューまではチバ、クハラ、ウエノは固定メンバーでギターだけが決まらない状況だった。
因みに、正式にデビューが決まる前にも自主製作でCDを出した経験もあったが、その時のギターはアベではなかった。

チバにとってウエノとクハラは大学の学友でありサークル仲間。
年齢は同い年&年下だが浪人を経て後輩・同窓生として入学してきた上に留年したチバより早く卒業して就職が決まってたりしたのにチバに誘われる形でカタギの世界から離れ、後に知人からの紹介でアベが加わった。
ウエノは就職が決まった夜にチバと飲みに行ってしまったことが切欠で就職を蹴った。
キュウちゃんに至っては地元の市役所で実際に公務員にまでなったが、家族の冷たい視線と突き上げに耐えつつ東京と行き来してバンド活動を続けて後に市役所を辞めている。
尚、ロックバンドということもあってか一見すると怖そうなイメージがあったり確執があったのかと思われがちだが、ミッシェルの場合はメンバー間で殆ど緊張感のある、あったなんて話が聞かれないほどに相性がよく、聞こえてくるのはのんびり、のほほんとしたエピソードばっかりだったりする。
米国を横断ツアーした際にも怠くなりそうな車移動だったのに、全く喧嘩もトラブルも起こしていない。

1996年にシングル「世界の終わり」でメジャーデビュー。
当初はコンセプト自体は凡庸と評されていたものの、とにかく人目を惹きつける魅力のあるバンドであり、バンド自体もアベの加入により“完成”されたこともあってか、新曲・新アルバムを出す毎に加速度的に注目を集めていきメディアへの露出も増えていった。

活動末期の2003年、地上波の音楽番組ではHEY!HEY!HEY!やPOP JAM(現MUSIC JAPAN)などにすでに出演していたが
6月27日に今まで出演していなかったミュージックステーションに出演することになる。
この回での番組のハプニングや彼らのパフォーマンスが人気や知名度をさらに高めることになり、
現在ではミッシェルを語る上では欠かせないものと言っていいほどの語り草となっている。
詳しくはt.A.T.u事件(Mステ)を参照。

同年の9月1日、公式サイトで突然の解散を発表。
人気絶頂の頃の突然の解散だったが、この頃のTMGEは楽曲の広がりも含めて余りにも完成され過ぎており、当人達もこのバンドでやれることは全てやってしまった、という趣旨の発言をしている。
やたらと「果て」「果て」と歌うバンドではあったが、本当に最高潮すら突き抜けて宇宙の果てまで行ってしまったようなバンドであった。

2003年10月11日に幕張メッセでラストライブを行い解散することになる。

……そして、2009年にアベが、
2023年にはチバが逝去することとなり、
ファンにとっても再結成の夢は“別の宇宙の彼方”へと消えることになった。


【メンバー】


●チバユウスケ(ボーカル)

「お前らが日本のROCKを駄目にしてるんだ!」

ミッシェルも含め自身が所属したバンドでは作詞全般を担当。
神奈川県鎌倉市出身。意外にもお坊ちゃん育ちで幼少期にはピアノを習って発表会に出てた思い出があるとのこと。
酒好き煙草好き。強烈なしゃがれ声が特徴。(後に自ら“潰した”とも発言しており、実際に後になる程に顕著になっている。)
一応はボーカルのみならずギターも弾くのだが、加入したアベに「ギターは俺が弾くから」と言われたのと、プロデビューした頃にはまだまだ歌うとギターが疎かになる状態だったので基本的にはボーカルに専念するようになった。
しかし、TMGEでも後期にはギターを持ってステージに上がることも増えていた他、TMGE後のバンドやステージでは普通にギターを兼任することもあり普通にプロ級の腕前はある。
しかし、後には自分はあくまでも“ギターの弾けるボーカル”である、と語ってもいる。

某ビジュアル系バンドのボーカルとタメを張れるほどの天然であることでも有名。
「チバユウスケ伝説」でググるとその凄さが分かる。




「みんなJUDY&MARY好きかーー!?」




客「イエーーー!!!」



「死ねェェェェ!!!」



現在はクハラと共にThe Birthdayで活動。
2023年11月26日没。享年55歳。


●アベフトシ(ギター)

身長は180代後半とメンバーの中では一番の長身であるが体系は名前に反してかなりの痩せ形。
187cm位もあるのに体重は58kgしかなかった。
日本屈指の……というか、確実に世界的に見ても屈指のカッティングの使い手。
特に2ndアルバム「High Time」に収録されているシャンデリヤではマジキチと言っていいほどのカッティングを披露している。
そのエッジの効いた音がイコールでTMGEの楽曲の特徴となっていた。
ある種の憑依型で、演奏に入り込んでいる時には他のメンバーすら怖さを感じた程であったという。
広島県広島市出身。
前述の通りでアベのみは他の3人とは経歴が違うのだが、聞いてる音楽の趣味やら何よりも初の音合わせの時点で抜群にキマったことで直ぐに馴染んだのだとか。
実際にアベの加入によりTMGEはメジャーシーンに躍り出ることになった。

音作りはエフェクターは一切使わず、アンプのみ。

解散後は他のメンバーと同様に様々なミュージシャンのサポートに参加していた。
……しかし、余りにも職人気質というか簡単に他者の色と交われない強烈な個性故にかTMGE後の活動が一人だけ停滞していき、地元でペンキ屋としても働く有り様であった。

そして、再びミュージシャンとしての活動がメインとなるかと思われた矢先の2009年7月22日に急性硬膜外血腫により帰らぬ人となる。42歳没。


●ウエノコウジ(ベース)

身長は180代前半であり、メンバーの中では二番目に高かった。
広島県広島市出身。

アベと同じくエフェクターは使わず、セッティングはアンプ直結。

プレシジョンベースをピックで弾くことにより生まれるゴリゴリの太い音が特徴。
また、地味になりがちなベースという役回りに反するためにも長い手足を振り回してド派手なアクションを行うのも特徴。
読書家というか活字好きで、ツアー中には何かしらの本を買い込んで移動中に読むのが習慣だった。
……ある時は余りにも読む本が無さすぎてキヨスクで昔は売ってた官能小説(スチュワーデス物)を買って読み込んでたとか。

解散後はRadio CarolineやELLEGARDENの細美武士のソロプロジェクトであるthe HIATUSで活動。


●クハラカズユキ(ドラム)

愛称は「キュウ」(チバが命名。久原から)。
北海道北見市出身。

誰もがすぐに覚えられるようなインパクトのあるモヒカンがトレードマーク。
しかし、単なる短髪や後には金髪などにもしている。

メンバーでは最も小柄ながらパワフルで一直線なプレイが持ち味。
シンプルながらもアグレッシブなドラムが特徴である。
因みに、TMGEのフロントマンはチバだがリーダーはキュウちゃんである。
解散後は様々なミュージシャンのサポート・スタジオミュージシャンとしても音源に参加する程の腕前のドラマーである。
解散後も最も手広く活動しているのは間違いなくキュウちゃんだろう。
現在もそれらを続けながらチバと共にThe Birthdayで活躍。
……チバの逝去後には公式にて親友の死をバンドメンバーとして発信している。


【音楽性】


パブロック、ガレージロック、パンク、ロカビリーなどから影響を受けた楽曲が特徴。
前述のようにコンセプト自体は凡庸と評され、他にも似たスタイルでやってたバンドは居る筈なのに、とにかく存在感が別格的すぎたバンドであった。
繰り返しとなるが、アベのカッティングにより同じジャンルでも際立って聞こえた部分も大きかったのかもしれない。

5thアルバム「カサノバ・スネイク」以降は恐らくチバの意向であるが、
先にデビューしていて、プロデビューした後に交流を持つようになったBLANKEY JET CITYから影響を受けた楽曲もあった。
……そして、この頃から演奏技術が天元突破して途轍もない領域に達することに。
6thアルバム「ロデオ・タンデム・ビート・スペクター」あたりともなると怖さすら感じるレベル。

曲はメンバー全員によるセッションで作られ、メロディーと歌詞はチバがつけていた。
チバの歌詞は美しいが独創的で、発想がぶっ飛んでいるが詩的なのが特徴(?)
職業欄を書かなきゃいけない時には“詩人”と書いてたとは本人の弁。

またライブを頻繁に行っていたことでも有名。1回のツアーで60本近くまわったこともある。
そして、それに付いて回るのが打ち上げで飲んだというエピソードであり、宿泊するホテルのバーで閉店まで飲み、その後は部屋で飲んでたそうな。
ある時などはアベとウエノで飲んでたらチバが突入してきて、3人で海に繰り出して裸で泳いだのだとか。酒飲んでテンションが上がった中高生か。
ライブでは大抵どの曲でもテンポを若干上げて演奏していたが、曲によってはとんでもない速さになっている。
尚、段取りを無視して(間違えて)アベがリフを弾き始め、即興で他のメンバーが合わせるなんてこともザラであり、それを笑い話として流されているのがこのバンドの恐ろしい所。

特に「CISCO〜想い出のサンフランシスコ〜」が顕著。
あまりにもメロディーが違いすぎて「なんの曲かと思った」とチバ自身が発言してたり。




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最終更新:2025年08月29日 09:11