たま(バンド)

登録日:2023/12/17 Sun 15:33:00
更新日:2025/04/02 Wed 23:47:10
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着いたーーっ!


たま』とは、1984年から2003年に活動していた日本のバンドである。


【概要】

さて、このバンドの名前を知っている人には代表曲『さよなら人類』だけの一発屋だと認識している人もいるかもしれない。
確かに売上の観点からするとメジャーデビュー曲である「さよなら人類」が飛び抜けて売れているということから、この一点だけを見るのであればさもありなん。
しかし彼らは売上よりも自分達の音楽性を貫き通し、「さよなら人類」だけではない様々な名曲を残している。
この項目ではたま解散後にメンバーの石川浩司が上梓した『「たま」という船に乗っていた』という本、およびそれを漫画化したコミカライズ本を大いに参考しつつ、このバンドの魅力を紹介していく。


【メンバー紹介】

  • 知久寿焼(ちくとしあき)
1965年2月10日生まれ、埼玉県出身。
たまでの使用楽器は ギター・マンドリン・ウクレレ・ハーモニカ等。
昆虫マニアで特にツノゼミに造詣が深く、ツノゼミの本を上梓したことがある。
イカ天初出演からたま現象の頃はキノコのようなおかっぱ頭、ちゃんちゃんこのような服装に下駄と非常に特徴的な格好をしておりまさに座敷わらしを連想させる。
現在は前歯の1本が欠けたまま活動しているが、ハーモニカが吹きやすいという理由から差し歯を一切していない。
ちなみに前歯が欠けた理由は、酔った勢いで地面にでんぐり返ししていたら思い切りコンクリートにぶつかってしまったというものである。
また唯一無二の非常に特徴的な歌声をしており、それが耳に残りやすいからか様々なCMソングや番組テーマ曲を歌ってたりする。
そのため、たまやこの人のことは知らないけど、この歌声は知ってるという人も案外多いかもしれない。(特に後述するヒガシマルうどんスープの歌やお父さんスイッチの歌などで)

一例:
ヒガシマル うどんスープの歌
ゲーム版たまごっち1~3 CMソング
ピタゴラスイッチ お父さんスイッチのテーマ
ポケモン Kids TV 怪談ソング「きみをみてるよ」、「きみをまだみてるよ」 もしかしたら座敷わらしのような姿で活動していたからゴーストタイプの歌を歌わされたかもしれない。

  • 石川浩司(いしかわこうじ)
1961年7月3日生まれ。東京都出身だが、親の仕事の関係で1歳で神奈川県、小学校2年生で群馬県に移り住み、高校卒業後に茨城県へと移り住んだが、その1年後に上京したため茨城に住んだのはたったの1年である。
たまでの使用楽器は太鼓、リコーダー、鈴等。
坊主頭にランニングシャツ、そしてガッシリとした体格から山下清を連想させるが、体質の関係で皮脂が溜まりやすいことや汗をかきやすいことを解消させるため、その格好になっただけで別に彼をリスペクトしてるという訳では無い。
曲中のアドリブを得意としており、特にさよなら人類では「着いたーーっ!」のセリフで一斉を風靡した。
それも相まってたまメンバーの中では1番バラエティ番組に出演しており、特にダウンタウンのガキの使いやあらへんで!にドッキリ企画で出演した時には松本人志から「たまのランニング」呼ばわりされたことも。
なおきちんと仕事を選んだうえでバラエティのオファーを引き受けており、実際に明石家さんまから夫婦で番組で出て欲しいというオファーが来た時は速攻で断り、「しくじり先生」から「ヒット曲が1曲しかなくその後続かなかった」という意味でのしくじりでオファーをかけられたが、「元々商業的に売れようとは思ってなかった。アングラの自分達が売れたこと自体がしくじりならば引き受ける」という理由でやんわりと断ったことがある。
アート系レンタルショーケース「ニヒル牛」を2000年からオープンしており、店長は彼の妻である石川あるが務めている。*1
そしてインターネット黎明期の1999年から「石川浩司のひとりでアッハッハー」を開設し毎日のように休まず更新し続けている。
読者参加型企画が充実しており、投稿が採用される事にポイントが付き、一定数以上貯めたら石川本人と「サシで食事」、「出前ライブ」など夢のような企画を楽しめる。
空き缶やインスタントラーメンの袋等マニアックな物を収集する趣味があり、それに関する本も発売されている。

  • 滝本晃司(たきもとこうじ)
1961年12月7日生まれ。東京都出身。
たまでの使用楽器はベース、しょぼたま限定で鍵盤ハーモニカ、トイピアノ。
愛称は「Gさん」。
たまの中で飛び抜けたルックスを持っており、顔ファンも多い。
高校卒業後Closed.G.showというバンドを組んでいたが、自分以外のメンバー全員脱退したため1人だけで活動していた。
ジョイントライブでたまと出会いそのパフォーマンスに触れファンとなり、たまがベース募集した時は経験がないにもかかわらず応募し1986年に加入した。
なおこの時既に結婚しており、尚且つ専門商社で正社員として働いていたが、バンド練習の確保のために5時~14時勤務へと時間をずらして働いていた。
インディーズデビューの時には既に子供を設けており、それから長い時を経て孫にも恵まれるなどまさにリアルG(爺)さんとなった。
たま解散後も「地球レコード」を運営している。

  • 柳原幼一郎(やなぎはらよういちろう)
1962年8月5日生まれ。福岡県出身。
たまでの使用楽器はオルガン、アコーディオン・ピアノ・キーボード・鍵盤ハーモニカ・ギター等。
愛称は「やなちゃん」。
ピアノやオルガン等たまの中では鍵盤楽器を唯一弾けるが、実はそのような楽器を習ったことはなく強いていえば彼の妹が習ってたくらいで、独学で演奏技術を身につけた。このことについてインタビューで、「弾き語りっぽいピアノしかできない。リズムっぽいピアノは無理」と語っている。
たま結成後に正社員としてフランス料理店のウェイターとして就職していた。
音楽の方向性の違いにより1995年をもって脱退しており、脱退後の1998年から芸名も本名の柳原陽一郎へ戻している。
たま最大のヒット曲、「さよなら人類」を作り上げたのは彼で脱退してからもライブで披露をしている。


【特徴】

最大の特徴は全員が作詞作曲できるということである。
そしてバンドというのはメインボーカルが固定化されている所が多いが、たまは音楽に対する拘りからか誰かが曲を作ったらその人がメインボーカルを担当するという決まりがあったため、決まったメインボーカルがいない。
そのため、セトリによってはメインボーカルが1曲ずつ順番に交代する場合もあるため視覚的にも聴覚的にも飽きを感じさせない。
またマンドリンやオルガン、アコーディオンなどバンドでは珍しい楽器を使用しており、ベース一本の滝本*2以外は楽曲によってはコロコロ楽器が変わっていくので、このことも上記の視覚的にも聴覚的にも飽きを感じさせないことを後押ししている。
石川・知久は好みの分かれやすいアングラ系を、柳原はキャッチーで取っ付きやすいポップ系を、滝本はしっとり聞かせるスローテンポなバラード系を作りがちであるため音楽性が幅広いのも特徴の1つである。


【来歴】

結成まで(1981年~1984年)

茨城県から東京へと一人暮らしすることとなった浪人生の石川浩司は様々な人のアドバイスで北千住のライブハウス「甚六屋」へと辿り着き、ギター1本で曲を披露する。
1981年6月頃のある日、まだ高校生だった知久寿焼が中学高校の先輩とともに「甚六屋」 に辿り着き、ギター1本で曲を披露するが、高校生離れしたその歌いっぷりに石川は大きな衝撃を受け彼に感銘を受ける。
翌年1982年に石川はライブハウスで様々なアマチュアバンドを見て過ごしていたが、「突然段ボール」というバンドの演奏を見て大きな衝撃を受ける。これがきっかけで彼のバンドを組みたい欲を生み出すこととなり、メンバー自由参加のユニット「ころばぬさきのつえ」を結成。

1983年12月、知久が両国のライブハウス「両国フォークロアセンター」に訪れた時に久々に新人の名前を見てマスターに尋ねる。
これが柳原幼一郎との出会いであり、彼を見た瞬間この人はいいと知久は直感的に思ったそうである。
そして知久の紹介で柳原と石川は交流を深めていくのであった。
やがて「ころばぬさきのつえ」のパフォーマンスにマンネリを感じた石川は、それを打破するためにメンバー固定型のバンドとして柳原と知久の3人とで新たに結成することになる。
その名も「かき揚げ丼」で、由来は石川がいつも弁当屋で購入していた料理名から由来している。
なお、このバンドは当初マンネリ打破のための1回限りのものであった。しかし、1984年11月11日に開催された大久保のライブハウス「オフオフ新宿スタジオ・ジャムⅡ」での「地下生活者の夜」というライブイベントで公演を行ったところ、観客席からの評価が非常に良かったこともありこの3人でのバンド活動を本格的にスタートさせた。
それにあたり「かき揚げ丼」よりさらに一般受けする名前を考えに考えた結果、「たま」となったのだ。*3
この名前となった理由は石川が略称をあまり好まなかったので略されることなく、また間違えて覚えられないようにするためにとても短く、そして定番の名前にしたいという思いがあったことによるものである。*4
ちなみにこの公演で録音したテープはダビングされ、バンド名候補の1つであった「またたび」という名でたま初のアルバムとしてライブ会場で販売された。*5

本格始動~イカ天出演まで(1984~1988)

たまとしての初舞台は1984年12月5日の「オフオフ新宿スタジオ・ジャムII」で開かれたコンサート「On Christmas GIG '84 BYE BYE」だった。
1985年には都内の様々なライブハウスを渡り歩きオリジナル曲を披露した。
そしてこの夏には全国ツアーを初めて行い、名古屋~九州の各地でライブを行った。この時十分な資金がなかったので青春18きっぷを利用して東京から京都まで鈍行で移動し、京都で音楽仲間が軽トラを持ってきたのでそこから西は軽トラの荷台に乗って移動していた。なお、軽トラの荷台に乗るのは違法であるため街中ではブルーシートに包まり、あたかも人が乗ってると認識されないようにうまくカモフラージュしていた。
物凄い勢いで雨が降りブルーシートに溜まった雨水の重みで押し潰されそうになったり、ライブ終了後に宿泊先の手配ができなかったため仕方なく近くの公園のベンチで寝ていたら大量のヤブ蚊に襲われ駅の待合室に移動して寝たりと様々なトラブルもあったが無事に終えることができた。

1986年5月、「上馬ガソリンアレイ」にて「Closed.G.show」*6とのジョイントライブが開催される。
しかしClosed.G.showのメンバーはたった1人であり、彼曰くバンドメンバーが自分以外全員脱退していったため今は1人だけで活動しているそうである。
ジョイントライブを開催した結果、互いが互いの曲に衝撃を受けそれからClosed.G.showの彼はたまのファンとなるのであった。
なお、そのメンバーの名は滝本晃司。後にたまのメンバーとなるのだったがこの時は彼自身も知るよしもなかった。

翌月にはセミプロの登竜門ともされ、メンバー憧れのライブハウス「曼荼羅」にて「3丁目ジャグ・バンド」の前座として出演。終了後、その腕前をオーナーに見込まれレギュラー出演することとなる。
こうして順調にステップアップしつつあったのだがそれとは裏腹に柳原はこのバンドでやれることは終わったと感じ、たまの脱退を知久に直接伝える。
どうしても納得できない知久が必死に説得したところ、音楽性を充実させるためベースを導入すれば残留するという交換条件を出す。
知久は「ポピュラー音楽未満的足らずさがたまの魅力」だと考えており、音楽性を充実させることには納得いってなかったが、柳原を脱退させない為にも仕方なく受け入れた。
そしてライブに来てくれたファンの中で住所を知ってる人達にベース募集の案内を1枚1枚知久1人だけで送り付けた。
そして応募が来たのはたったの1人だったがその人物こそ先程ジョイントライブを行った滝本晃司であった。
ベース募集だったのにもかかわらず、彼はベース経験が全くなかった。しかし、「たまは(わざわざ新メンバー募集しなくとも)完成されてるバンドだが他の人が加入してたまのバランスが崩れるのならば自分が加入する」という思いから応募をした。
こうして即採用となり、たまは4人編成のバンドとして出発したのであった。
ちなみに偶然にも滝本が作詞作曲できる人材であったため、全員が作詞作曲できるバンドとなった。

1987年初頭、インディーズデビューのために様々なインディーズレーベルをメンバー達が調べまわっていたところ、熱血ロックっぽくなく募集告知のイラストが拙い感じに惹かれたという理由でナゴムレコードに応募した。応募から半年後に返事が来て、早速インディーズデビューすることとなった。
なお、返事が来るまでの間パーカッション用の太鼓を購入したり、今まで触れたことのなかったアコーディオンやマンドリンを導入したりと音楽性をさらに充実させていった。
そして石川が坊主姿にランニングシャツとまるで画家・山下清を彷彿とさせる格好となったのもこの頃からである。

1988年にはたま初のファーストシングル「でんご」が発売。
するとレコード紹介コーナーにて今月の一押しレコードに選ばれたり、「帝都無線*7」にてインディーズチャート1位を取ったりと早くもインディーズ界隈では高い評価がされたのであった。
こうして徐々にファンが増えていくたま。
そして翌年にはたまの運命を変えるあの番組がスタートした。

イカ天出演(1989年)

1989年2月11日TBS系列の深夜枠にてアマチュアバンドを対象としたオーディション番組「三宅裕司のいかすバンド天国」(通称:イカ天)がスタート。
メジャーデビュー前のバンド達がこぞって出演し、5週連続でイカ天キングを防衛しグランドイカ天キングとなりメジャーデビューすることを夢見ていた。
たまもこの番組のことを把握しており、出るか出ないかでメンバーの意見が真っ二つになった。
出る派の石川は「地方のファンが少ないからこそこの番組に出て地方のファンを増やしたい」、知久は「1枚1枚チラシなどを書いたりするのは大変だからテレビに出たらシングルの告知ができる」と今後のたまのことを考えた上でこう意見を述べた。
出ない派の柳原は「流行りに乗っかって安易に出るのはあまり宜しくない」とやや天邪鬼な意見を述べ、滝本に至っては「もしもワイプ*8を受けて完走できなければたまはこの程度のバンドだと知れ渡ってしまいファンが減ってしまう」 というシビアな意見を述べていた。
結局話が平行線のままで終わってしまい、出るか出ないかハッキリ答えを答えを出さないことに業を煮やした当時のたまのマネージャーを務めていたあかね*9が無断でたまのデモテープを番組側に送り付けた。
そして審査が通り1989年11月11日に番組収録へと赴くこととなった。
奇しくもこの日はバンド結成5周年をむかえた特別な日でもあり、イカ天に出ることをライブ中に観客達に伝え、ライブを終えたらすぐさま移動して収録を行った。

彼らが出演した回のスローガンは「イロものバンド撲滅キャンペーン実施中」。この頃和風「聖飢魔II」なバンドの「カブキロックス」や亡き「エルヴィス・プレスリー」がサイボーグ化を施され墓場から蘇ったメカプレスリーのいる「サイバーニュウニュウ」 と明らかなイロモノバンドが番組内を席巻しておりそのようなバンドを減らしていこうという考えからこうなった。そしてこんな時に限って彼らは出てしまったのである。
山下清そのまんまな石川とキノコのような奇抜な髪型でちゃんちゃんこのような服装、下駄履きとどことなく座敷わらしを彷彿とさせる知久、更にはキャッチコピーが「かなしい気持ちはとっても不安定」とあからさまにイロモノ感が漂っていた。
だが知久が作った「らんちう」を演奏した途端、それまでのイロモノ感が一気に吹き飛ばされ観客審査員視聴者共に大きく戦慄した。
恐らくイロモノなだけにコミックソングを歌うと考えていた人もいただろうが、彼らはそれの斜め上を行く独創性の強い曲を繰り出したのだ。
いつもは辛口で批評する審査員のプロミュージシャン達も彼らに対しては戸惑いつつも評価するようなコメントを出した。
特にオペラ歌手の中島啓江からは「これは能ある鷹は爪を隠すかもしれない。もしかしたらきっと凄いものがあるかもしれない」と興奮気味に率直な感想を述べられた。
今までどのイベントに出てても独創性の強い音楽を奏でてきたからか異端児扱いされた彼らであるが、彼女の発言を聞き、嬉しい気持ちでいっぱいになったという。
しかしながら自分達がこの週のチャレンジャーになるとは本気で考えていなかったのだが……

番組には「在宅審査員」という音楽関係者が放送を見てこの週で一番気に入ったバンドがあればFAX等で投票するというシステムがあるのだが、たまだけ10個以上の投票があり、これは番組としても前代未聞のことなのかディレクターの慌てる声が聞こえたという。
そして当然の如くといった感じで今週のチャレンジャーに選ばれ、前週までのイカ天キングの「サイバーニュウニュウ」を破り新たなイカ天キングとなったのだ。
イカ天キングとなったからには今週のチャレンジャーに破れるまで残り4週連続出なければいけないということで早速次回以降の曲をどうするか考えることになったメンバー一同。
「らんちう」がアングラ丸出しだったため次は皆が取っ付きやすいポップな選曲をということで選ばれたのは柳原が作り上げ、後にたま最大のヒット曲として知られる「さよなら人類」 だった。
そしてイカ天キングを防衛した彼らは「オゾンのダンス」→「ロシヤのパン」→「まちあわせ」と選曲し番組で披露していった。
ちなみにこれらの曲をチョイスした理由は

オゾンのダンス-「らんちう」、「さよなら人類」のイメージを覆すアップテンポの曲を披露するため。
ロシヤのパン-最初に披露した「らんちう」のようなアングラ感の強い曲を披露することで、たまの王道的な感じに戻って聴かせようとするため。
まちあわせ-この週で勝っても負けてもこの番組で演奏するのは最後だから、バンド合戦の番組なのにギターとオモチャの楽器だけであとはコーラスのみというバンドとしての体裁を保たせずに披露し、観客視聴者審査員の皆をギャフンと言わせるため。なお、メンバー全員本気で勝つつもりはなかったそうな。

5週目にはインディーズで勢いのあった「マルコシアス・バンプ」が今週のチャレンジャーに選ばれ、まるでたまの勢いを止めるかのように挑んだ。
しかしたった1票差でたまが勝ち、まさかの第3代グランドイカ天キングになることができた。



これにはたまのメンバー全員予想外のことで嬉しいという感情よりも先にただただ信じられないという気持ちでいっぱいだった。
しかしながら、様々な引き出しのあるたまの多様性が審査員達に受けたからこそ達成することができたのかもしれない。
実際に柳原がアコーディオン→キーボード→ギター→オルガン→オモチャの楽器と毎週のように楽器を変えて演奏していたのが物語っている。
余談だが、この勝負で負けた「マルコシアス・バンプ」は審査委員長の萩原健太から「たまがグラントイカ天キングになって来週出なくなるのでここで暫定的イカ天キングとして来週も出てもらう」ということで暫定的イカ天キングに選ばれその後5週勝ち抜きを達成し見事4代グランドイカ天キングになった。

グランドイカ天キングとなったために年明けには音楽事務所の契約やメジャーデビュー等多忙になることが分かりきっていたため、正月に武道館で開催される予定の「輝け! イカ天大賞」の出演を断ろうとしたが、ナゴムレコード*10のマネージャーの水橋文美江*11がTBSスタッフに「もし出ないのであればたまは今後TBSには出入り禁止する」と脅され、メンバーがそのことを知り、メジャーでの活動を考えた結果出演を決めたのである。
そしてこのイカ天大賞でも大賞を受賞したのであった。
こうして彼らの勢いが加速していくのであった。

メジャーデビュー~たま現象(1990)

イカ天大賞を受賞したたまはメジャーデビュー前から音楽雑誌の人気投票で1位を取ったりと既に人気が高まっていた。
さらに雑誌の取材、CM撮影、歌番組出演など彼らに様々な仕事が舞い込んできたのであった。
こうなると時間的余裕もないので当然ながら全員仕事先を一斉に辞めた。なお、勤め先の社長はこの騒動を知っていたのでアッサリと退職を許可したのであった。

「さよなら人類/らんちう」でメジャーデビューを果たしたたまであったが、オリコン初登場1位を記録しさらに50万枚以上のヒットを成し遂げるなど改めて彼らの人気が明るみに出た。
そして彼らの人気っぷりからなんと1990年の「現代用語の基礎知識」に「たま現象」 として掲載されることとなったのであった。
彼らの功績が認められ「日本レコード大賞」では最優秀ロック・新人賞を獲得し、その後「紅白歌合戦」にも出場を果たした。
ちなみに本人達はそういった番組には全く興味がなく、紅白歌合戦の出場を断ろうと考えていたが、レコード会社の担当が「レコード大賞から紅白へ車を走らせるというのは、担当に取って最大の夢なんだ。頼む!」と強く懇願したので出ざるを得なかったという経緯がある。
「紅白歌合戦」当日は出番が最初の方&エンディングまで出番が一切無しなのをいいことに、紅白スタッフの目を盗んで会場から抜け出し知人の舞台を鑑賞し、エンディングの時間が近づいたらそのまま会場に入り何食わぬ顔でフィナーレを迎えるということをやってのけた。

こうして様々なメディアに取り上げられまさに本人達も有頂天……とはならなかった。
毎日続く取材や番組収録等で本人達はかなり体が堪えていた。
そのうえ、本人達は何も発してないのに週刊誌等がたまがこのように発言したと捏造したり、石川の発言を捻じ曲げて掲載したり*12、新聞の取材でたまを知らなさそうな年配の記者が上から目線で質問をしてくるなど散々な扱いを受けたこともあった。

自分達の音楽性に対してまともにインタビューしてくれない人が多いことに対してウンザリしていたところ、たまは1人の男性と出会う。
その名は竹中労という評論家だった。
イカ天をリアルタイムで見ていた彼は「らんちう」を歌うたまと出会い、その衝撃から一瞬で彼の事を高く評価することとなった。それは芸能関係では「美空ひばり」、「ビートルズ」、「沖縄音楽」の3つしか認めていなかった彼が新たに4つ目としてたまを追加するほどに。
また4人がそれぞれ作詞作曲ができ、様々な楽器を取り扱うという点で「和製ビートルズ」だと評している。
そして彼らのデビューシングルは確実に50万枚以上は売れるだろうと先見の明があった。
たま達もようやく自分達の音楽性に向き合ってくれる人と出会えたという気持ちで彼の事を数少ない理解者だと信頼を寄せたのであった。
竹中はこの時既に末期の癌に侵されており、余命も1年ほどであったが最後にたまに関する本を書くために全身全霊取材を行った。
こうして『「たま」の本』が上梓された数ヵ月後に亡くなり、これが竹中の遺作となった。

柳原の脱退まで(1991~1995)

翌年の1991年になっても彼らはアイドルかのような扱いを受けており、アイドル誌や女性雑誌に載ったり写真集を出したりとまるでジャニーズ事務所のタレントがやるかのような仕事も次々と行った。
結果彼らのことをアイドル的に見る女性ファンも増え、ライブでは興奮したファンが彼らが演奏中なのにもかかわらずメンバーの名前を大声で叫ぶ光景も見られた。
これに対して知久は「そういうのは心の中で留めることができないのだろうか」と苦言を呈している。
そして彼らのコスプレをするファンも増え、女性でありながらなんと知久と同じあの特徴的なキノコヘアをしたり石川と同じランニングシャツ1枚という人も。
そして一部ファンの中にはたまメンバーを題材としたエロ同人をプレゼントするという暴挙をしでかすということもあった。
ちなみにその多くは知久と柳原と滝本が3Pするといったもので石川だけ本編に一切絡まないギャグキャラのような扱いだった。結局は顔と体格なのか……
※なお、ナマモノを本人に渡すのは大変失礼なことだから良い子はやめようね!

石川はこんな状態はどうせ長く続かないからとむしろこの状況をまるで他人事のように達観して楽しんでいたが、やがてどこでもアイドルかのようにキャーキャー言われることに限界が来てしまう。
そして名古屋にあるデパートの一角に設けられたステージでラジオの公開収録があったのだが、ここでもアイドル的に扱われてしまったことで遂に怒りが頂点に達し、生放送では無いことをいいことに思いっきり放送禁止用語を発言してしまう。*13
そして後日とある新聞の「読者のコーナー」に「たまはなっとらん!」というお叱りのメッセージが当然ながら書かれたのである。

その後世間からアイドル扱いされたことに対し流れるがままに受け入れてしまったことに対する反省から、メンバー全員で会議をした結果、自分達から発信していかないとやばいという結論に達し、1992年にたま独自の会社「たま企画室」とスタジオを作ることにした。
ちなみにその会社の社長はジャンケンの結果滝本に決まった。

そして1993年頃からライブホールやそれ以外の様々な場所でライブをする「どこでもツアー」を開始し、北海道や四国を駆け回った。
お寺の境内や重要文化財の建築物の中、松の緞帳が立派な芝居小屋や土俵のある神社の境内等普通はライブをしないような一風変わったところでも積極的に行ったのである。
またこれはたま現象も落ち着き、その頃と比べるとファンの数も落ち着いたからこそできたことであると言えるかもしれない。
石川が舞台から落下し首の後ろに打ち身を負ったハプニングもあったが、なんの後遺症もなく最後までやり遂げることができた。そして確かな手応えを感じこのツアーは1996年まで引き続き行われることとなった。

1994年には曼荼羅の系列店「MANDA-LA2」にて「たまの月例会」というライブをスタート。名前の通り毎月のようにこのライブハウスで開催されていた。
そして今後レーベルのことについて話し合った結果、12月に独自のレーベル「地球レコード」を立ち上げインディーズに戻ることとなった。
これには深いわけがあり、放送禁止用語の入った曲をCD化し世に出すという狙いがあった。
実際、たま2枚目のアルバム「ひるね」に収録されていた「牛小屋」という曲のコーラス部分に「ヨンヨコヨンヨンヨ~ン」という物があるのだが
「ヨン、というのは数字の4を連想させ、そして数字の4というのは『4つ足』を連想させる。『4つ足』とは牛や豚などの4つ足の動物のことで、それを捌く業者のことにも使われる。昔はこの職業を身分の低い者が行っていので身分の低い者を4つと言って侮蔑し差別していた。よって、この歌詞は差別表現となる」
あからさまな言いがかりで言葉狩りのレベルのような言い分が通ってしまったため、大量の歌詞カードが廃棄処分されたという過去があった。
ちなみにこれは狙って入れたのではなく、不運にもそれが放送禁止用語として捉えられてしまったにすぎない。
こうしてこのような自主規制から逃れるためと、メジャーではできない曲を出したかったために立ち上げたのだ。
こうして初心に返り改めてスタートを切ろうとしたのだが1995年初頭、柳原が突然話を切り出した。


「俺、ソロでやってみようと思うんだ。
ちょっと『たま』とは違う音楽がやってみたくなったんだ」


誰もが予想しなかった事実上の脱退宣言に3人は大きく驚いた。
しかし音楽の方向性の違いによる理由で脱退するとなればそれは受け止めなければいけないことだと考え、彼の脱退を受け入れた。
脱退を申し入れた時は既に年内のスケジュールが埋まっていたので、年内いっぱいは活動し年末にたまから脱退という方向で決まった。
残された3人は今後の方向性を話し合い、解散が頭によぎったメンバーもいたが、この3人だけでも出来る面白いことがあるという滝本の鶴の一声で活動の継続を決めた。
そして1995年12月24日のクリスマスイブ、「たまの御歳暮'95」の公演をもって柳原は脱退した。

【特徴】の項でも述べた通り、曲を作った人がその曲のメインボーカルとなるのがたまの決まりなので、彼が脱退したことによりたま最大のヒットソングである「さよなら人類」は二度と歌えなくなってしまった。
しかしその事を知らない人が「さよなら人類」をリクエストするということが多かったため、困ったことが何回もあったという。

3たま~解散(1996~2003)

3人だけとなったたまは通称「3たま」として再スタートした。
唯一キーボードを弾ける柳原がいなくなったため、サポートメンバーとして様々なキーボードアーティストを交代で起用していった。
またアンプや電源が不要でなおかつ携帯しやすい小型の楽器を用いて、より手軽でチープな雰囲気を狙った通称「しょぼたま」という編成も新たに生み出した。
様々な楽曲を自分たちだけでプロデュースするようになってからはテレビ等へのメディアの露出も本人達がそういう仕事にあまり興味が無いという理由もあり、あえてしないようにしていた。
そうすると「あの人は今」系の番組の依頼が来るようになったのだが、大抵は売れなくなって苦労してる話を番組側が聞き出そうとしていたので、自分達はずっと前からマイペースに活動しており苦労したことは無いという理由で断ったケースが多い。

そんな中以前から親交のあったちびまる子ちゃんの作者、さくらももこから自分が詩を書くから曲を作ってほしいというオファーがあり、「あっけにとられた時のうた」を作り上げる。
そしてそれがアニメちびまる子ちゃんの4代目edテーマとして1996年~1998年の2年間流れたのであった。
ちなみに曲中の「クックックッ・・・・・」 という野口さんを思わせるセリフが入っているが、TVサイズ版ではさくらももこが、CDやライブでは滝本が担当している。
なお、この時のみアニメとのタイアップの兼ね合いなのかメジャーで発売されている。
ちなみに1996年に発売された「ちびまる子ちゃん MUSIC COLLECTION」にてまる子役のTARAKO等本編の声優陣によるカバー版が収録されている。

また2001年には人気子供向け番組「おかあさんといっしょ」にて2月・3月の月の歌「ハオハオ」の作編曲を担当することになった。
そして2001年の「やぁ!やぁ!やぁ!森のカーニバル」にゲスト出演。うたのおにいさんとうたのおねえさんのバックとしてハオハオを演奏し、作曲した知久も2番からはうたのおにいさん、うたのおねえさんと一緒に歌った。


また1999年からは演劇の方面にも力を入れるようになった。*14
きっかけはかつてインディーズでお世話になったナゴムレコードの主宰で音楽家兼劇作家のケラリーノ・サンドロヴィッチ(通称:ケラ)の誘いによるものだった。
彼はしょぼたまの演奏を見てこれは使えそうだと思い早速オファーをかけ、彼が主宰の劇団「ナイロン100℃」 の公演に劇中バンドとして出演し、そのついでに役者としても参加していた。
「薔薇と大砲 ~フリドニア日記♯2~」、「室温 ~夜の音楽~」、「ドント・トラスト・オーバー30」など様々な舞台に出演し、そのうち「室温 ~夜の音楽~」はV6 のトニセン3人による主演で2002年にドラマ化された。彼らはそのドラマの音楽を担当しただけでなく、役者としても少しだけ出演した。

しかし、いつしかたまの音楽活動が徐々に鈍っていき1994年から開始されてきたたまの月例会も2002年1月を最後に行わなくなってしまった。
そして2003年3月、ケラが演出するダンス公演「いなくていい人」 の稽古の帰り道、知久が「たま辞めます」と口走ったのをきっかけにたまの解散を決めた。
前々からマンネリズムによりたまとしての活動に新鮮味がなくメンバー全員が解散という文字を頭によぎらせていたが、それを誤魔化して解散を引き伸ばしにして活動していたようなものだったため、彼のその言葉に石川も滝本も否定することなく素直に受け入れた。

10月28日・30日・31日に吉祥寺STAR PINE'S CAFEでラストライブ「たまの最期!!」が開催された。
解散ライブでありながらキャパの小さいクラブハウスで行った理由は、今までそういったクラブハウスでお世話になった恩返しによるものだった。
そしてその最終日のアンコール、「ホフディラン」のメンバーのワタナベイビーが1曲だけセッションしたいということをマネージャーに伝えられたのでたまの皆がそれを承諾し、突如セッションを行うこととなった。
彼らは「おやすみいのしし」を披露することにしていたのだが、ベロベロに酔っ払っていたワタナベイビーはピアノを弾き、「さよなら人類」を歌い始めた。
柳原が脱退してからたまのメインボーカルに対するこだわりにより完全に封印していた「さよなら人類」を選曲するというまさかの事態にたまの皆は苦笑しつつも彼を一切咎めることはなく、そのまま演奏を始めたのであった。
なお、ワタナベイビーは柳原が脱退してからは封印していたことは知りつつも、酔った勢いでつい歌ってしまったのでその後3人に会う度にその件について謝罪しているそうな。
そして未音源化作品のコミックソング「ヒゲのある暮らし」の披露を最後にたまの活動は完全終了し解散した。

解散後(2003~)

解散してからも皆それぞれ音楽活動をソロで続けており、様々なライブハウス等で積極的にライブを行っている。
たまにではあるが知久、滝本、石川の3人が合同ライブを行うことがあり、擬似的にたまの再結成ライブを行ってると言えるだろう。
しかし残念ながら本当の意味での再結成は行わないとメンバーの誰しもが明言している。

柳原についてだが、彼は脱退以後たまに一切関わっていない。
たまの解散ライブでも一切姿を表さず、メッセージすら送らなかったそうである。
そして極めつけに、2010年に公開された解散後のたまのメンバーのそれぞれを追ったドキュメンタリー映画「たまの映画」にも彼は一切出演していない。
この映画ではまるで不祥事により脱退し臭い物に蓋をしたかのように、最初からいない物として扱われている。これに対し、たまファンから反発の声が上がっていた。
ただしこれには大きな訳があり、映画スタッフが彼に何回もオファーをかけたのだが、「脱退後のことは知らないから」という理由で断られてしまい、仕方なく柳原を除いた3人の事を追った映画となったのであった。
もしかしたら彼がたまの活動を黒歴史だと思っているから頑なに関わらないようにしてるのかもしれないと思ってる人もいるのかもしれない。
しかしそれは大きな間違いで、自身のライブでたまの事を話す時があるし、なにより様々なインタビューで自身がたまのメンバーであったことを後ろ向きに捉えられる発言を一切していない。
また、石川曰く知久が彼と偶然遭遇して長時間雑談したり、石川自身も1995年に行われた彼のラストライブ以来24年振りに再会したことを語ったりと関係は良好なままであることがうかがえる。
恐らくだが、彼なりの美学があって脱退を決めた以上たまとは関わりを持たないようにしようという考えがあるのかもしれない。
また他のメンバーも彼のそのスタンスに対しては肯定している。


【意外な制作作品】

星のカービィ 夢の泉の物語のCMソングを演奏し知久が歌い上げている。ちなみにCMソングは完全オリジナルではなく「猫ふんじゃった」の替え歌である。
またCM内のナレーションもメンバー全員担当しており、石川→ 滝本→ 柳原→知久の順でセリフを発している。
石川のみ店頭用のプロモーションムービーのナレーションも担当しているが、その拙い喋り方により某動画サイトではネタにされている。
「カービィ、ますますヤムチャ(ヤンチャ)!」
「喜びのドンス(ダンス)!」

  • コクヨ
90年代~00年代にテレビでよく見かけたコクヨのCMであるが、「コクヨのヨコク」というフレーズは実は彼らが作り上げ歌も担当している。
歌詞は既に決まっていたので、メロディだけメンバー全員が案を出し合っていた。
ちなみに録音当日は滝本の体調が悪くなったので残りの3人だけで録音。彼が担当するはずだったベースは知久が代理で弾いた。

  • パスカルズ
ロケット・マツが1995年1月に結成したアコースティックオーケストラバンド。
石川と知久が参加しており、たま関連だとイカ天に独断で応募をしたマネージャーのあかねも参加している。
日本では知ってる人が少なく、なんなら本家wikiにも項目がないがフランスでは高い人気を誇っており、ヒットチャートで1位を獲得したことも。
TBSのプライム枠ドラマ「凪のお暇」や「妻、小学生になる。」の音楽を担当していた。



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最終更新:2025年04月02日 23:47

*1 ちなみに某モー娘メンバーと同姓同名であることを石川浩司がひっそり告白している。

*2 ただし後述するしょぼたまではトイピアノや鍵盤ハーモニカも扱うようになった。

*3 なお、他の案として「松葉崩し」、「ゴミ」、「またたび」があった。

*4 しかしながらとある情報誌に「また」と誤表記されておりどれだけ短く覚えやすいネーミングでも間違える人は間違えると痛感したという。

*5 たま名義で販売されたが上述の通り録音した時のグループ名は「かき揚げ丼」である。

*6 名前の由来は自閉症である。Closedを日本語に訳したり、ClosedとGを入れ替えたらより分かりやすいだろう。由来が非常に際どいがどのような経緯でそうなったのは不明。

*7 新宿の紀伊國屋の中にある、当時インディーズのレコードが一番充実していた店。

*8 番組審査員のうち2名以上がバンドの技術が未熟などの理由で赤色のボタンを押したらワイプ扱いとなりそのチャレンジャーは完走出来ずにイカ天キング戦の権利すら貰えなくなる

*9 アマチュアシンガーでもあり後に誕生する音楽ユニット「パスカルズ」のメンバーでもある。

*10 当時ナゴムレコード主宰のケラは借金のためナゴムを閉社できずにいたが、たまの利益で無事に清算することができた。たま側にも「事務所(ケラの当時のバンドである有頂天も所属していたPCM)に言わなくていいから」と結構な額を渡され、ナゴムとしての利益でケラは父親の墓を建てた。

*11 後に脚本家として大成する。代表作は「ホタルノヒカリ」、連続テレビ小説「スカーレット」

*12 「僕はあんまり大きなドラムの音とかが苦手だったので」という発言が「わしゃあ、ドラムなんて大っ嫌いじゃけんのうっ!」と捻じ曲げられたうえに、九州育ちではないのになぜか九州弁っぽく書かれている。

*13 石川の記憶の中だと、石川は「つんぼ」、知久は「おし」とそれぞれ聴覚障害、言語障害を意味する言葉を発していた。

*14 それ以前に「ジャム・ザ・ハウスネイル」に知久と石川が声優として参加、同作品の作者が作った「ストレイシープ」に滝本も含めた3人が声優として参加するなど演技経験はあった。