大岡忠相

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更新日2025/10/10 Fri 16:24:53NEW!
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大岡(おおおか)忠相(ただすけ)(1677〜1752)

諱は忠義(ただよし)、後に忠相。
官職は能登守、後に越前守。
通称は求馬(きゅうま)市十郎(いちじゅうろう)忠右衛門(ちゅううえもん)



概説

江戸時代中期の幕臣・大名。
8代将軍・徳川(とくがわ)吉宗(よしむね)の「享保の改革」を支えた能吏。江戸町奉行時代の逸話が「大岡政談」、「大岡裁き」として後世で人気になる。それ以外にも多方面で活躍した。

生涯

誕生

延宝5年(1677)、武蔵国江戸城下に旗本・大岡忠高(おおおかただたか)(石高2300石)の4男として生まれる。生母は北条氏重(ほうじょううじしげ)の娘と記される。

大岡氏は五摂家の一つ・九条家の流れを汲み、子孫が三河国大岡郷に移住し、大岡を称した。
その後、三河松平氏に仕え、松平広忠(まつだいらひろただ)から忠の字を貰い、以降「忠」の字を通字とした。

大岡氏は一族同士で養子のやり取りが多く、代表的なのが大岡忠相の家系と9代将軍・徳川(とくがわ)家重(いえしげ)の側近として権勢を奮った大岡(おおおか)忠光(ただみつ)の家系などである。(後に武蔵国岩槻で2万3千石の大名になる。)
良く言えば同族同士で結束が固い、悪く言えば他所者を受け入れない排他的な一族と言える。

大岡は貞享3年(1686)、10歳で同族の旗本・大岡忠真(おおおかたださね)(石高1920石)が実子の主馬を亡くし、後継ぎ不在の為、その養子になり、忠真の娘を妻に娶り、忠真の屋敷がある江戸の赤坂一ツ木の邸宅に居住した。妻との間に息子・市十郎や娘を授かるのだが、市十郎は早世し、妻は宝永6年(1709)、忠相が33歳の時に死去、戒名は「珠荘院妙厳日納大姉」
大岡は家臣・市川自楽(いちかわじらく)の娘を側室に迎え、嗣子・忠宜(ただよし)が宝永6年(1709)に誕生、彼が大岡忠相の嫡男となる。市川氏の娘は大岡と40年連れ添い、その死後、明和7年(1770)まで19年間生きた。戒名は「慈慶院明誉光月寿照大禅定尼」。

少し戻すと貞享4年(1687)には5代将軍・徳川綱吉(とくがわつなよし)に初めて御目見する。
元禄9年(1696)、従兄弟の大岡忠英(おおおかただひで)が殺人事件からの自刃ムーブをかまして御家断絶となり、連座制により閉門処置となる。翌年、処分が解けたが、今度は養父・忠真が元禄13年(1700)に病没、家督と知行地を相続し、大岡家の当主となる。まだ、役職はなく、寄合旗本であった。

出仕

元禄15年(1702)、無役から書院番に登用される。書院番は親衛隊であり、この場合、将軍・徳川綱吉の親衛隊勤務となる。

宝永元年(1704)、書院番から徒頭となった。これは将軍が外に出た時の先導役である。

宝永4年(1707)、徒頭からから使番(つかいばん)に異動になった。ここは、将軍の代わりに諸国を見て廻る巡見使(じゅんけんし)を務めたり、江戸市中火災時における大名火消(だいみょうびけし)定火消(じょうびけし)の監督などを行う役職である。

翌年、使番から目付に異動になる。目付は監察とも呼ばれ、仕事がキチンと行われているかを確認したり、交渉役や仕事の段取りを決める仕切り役として出世の登竜門と見られた。

大岡は順調にステップアップを果たし、正徳2年(1712)正月、遠国奉行の一つ、山田奉行に就任する。遠国奉行は京都・大坂・駿府の各町奉行と、長崎・伏見・山田(今の三重県伊勢市)・日光・奈良・堺・佐渡・浦賀・下田・新潟・箱館・神奈川・兵庫の各奉行の総称である。伏見のみ大名ないし5千石以上の旗本が担当し、他は旗本しかも1000〜2000石前後の旗本が担当する。実父・忠高は奈良奉行を務めた。

山田奉行はこの頃、定数2人。江戸と現地でローテーションを行い、現地で伊勢神宮の監理、運営、門前町である山田、鳥羽港の治安維持というのが主な役目で、与力6人、同心70人、船手40人が配下につく。

後の8代将軍に就任する紀州徳川家当主・徳川吉宗とこの山田奉行時代に知り合ったという俗説があるが、接点はなく、後世の創作と言われる。

山田奉行の支配地では地元商人による価格の不正操作や、賭博の横行などが問題となり、大岡はこうした問題に対して厳格な取り締まりを行うとともに、地元の良識ある商人たちと協力し、経済の安定を図るための施策を実施し、治安維持のために、地元の自警団の組織化を推進し、犯罪の抑止にも努めた。

それまで、神宮周辺では無宿者や盗賊による犯罪が多発していたが、大岡は住民と協力し、巡回警備の仕組みを確立。この取り組みにより、犯罪の発生件数が減少し、地域の安全が確保された。

地域の経済政策も庶民の生活を安定させる要因となった。米価の急激な変動を防ぐために、幕府が一定の価格で米を買い取り、市場に供給する制度を提案。この施策により、庶民は生活の不安を抱えることなく暮らせるようになり、地域経済に安定をもたらした。

同年には従五位下・能登守に叙任。正徳3年(1713)に交代で帰府し、翌年に再び赴任している。

町奉行に

享保元年(1716 )江戸に戻り普請奉行に就任、翌年、大岡の代名詞と言うべき町奉行(江戸南町奉行)に就任。

少し説明すると、この当時、江戸町奉行は北、南、中に分かれ、基本的な立ち位置は後年と同じく、北町、南町を軸に江戸の町に住む人々の調査、将軍や重役からの命令の伝達、各地の事業の陣頭指揮など、行政や治安維持などの役割も担当し、現代風に言うと、東京都知事警視総監裁判長という仕事で基本的に1ヶ月交代で業務を行い、訴訟を受け付けていない期間は未解決の事案の解決に勤しみ、刑事事件に関しては双方とも関係なく処理を行い、管轄が酒や材木、書籍は「北町奉行所」、服や薬は「南町奉行所」と商業に関してはそれぞれ専門に扱っていた。

明治初期の調査では江戸は6割が武家地、2割が寺社地で、町奉行が管轄したのは残りの2割にあたる町屋敷のある地域のみである。大名や旗本の支配する武家屋敷や、寺社奉行が支配する寺社領は管轄外である。

与力は南北奉行所に25名ずつ、同心は100名ずついた。50万人の町人の人口に比べると南北合わせて250人程度という非常に少ない人数で治安維持や行政、防災を担当する。

中町奉行は元禄15年(1702)閏8月、初代の丹羽長守(にわながもり)が長崎奉行から異動して町奉行に就任した際、北町奉行と南町奉行の中間に屋敷を構えて、奉行の業務を行った事から付いた名称である。資料は関東大震災や東京大空襲で9割方失われ、残った資料によると、北町、南町の補佐を行ったとも、北町、南町の専門分野を一時的に担当していたとも。後任の坪内定鑑(つぼうちさだかね)が享保4年(1719)1月まで勤め上げた後、享保の改革により北町、南町に役割を振り分けられ、消滅した。

因みに、中町奉行に目を付けたテレビ東京が丹波哲郎や近藤正臣をメインキャストに据えて、「江戸中町奉行所」というタイトルで1990年に13話、1992年に12話と放送した。*1

因みにこれとは別に本所奉行が万治3年(1660)3月〜貞享2年(1685)と元禄6年(1693)8月〜享保4年(1719)4月の間、創設され、当時の新興住宅地、本所(今の隅田川の東側)の開発と治安維持を任されていた。町奉行より格下で、書院番と小姓番から1人ずつ選出され、定数は2人。

こちらもテレビ朝日が萬屋錦之介を主演に「破れ奉行」というタイトルで1977年に39話と放送した。*2

話を戻すと、肥大化した町奉行の業務を見直し、スリム化させるのが大岡ら町奉行衆の役割であった。

大岡はこの時、官職が能登守であったが、中町奉行の坪内が能登守を名乗っていたので、キャラ被りは良くないと官職を越前守に改めている。

ここに大岡越前守が爆誕した。

享保の改革

8代将軍・徳川吉宗の幕政改革・いわゆる享保の改革は行政改革、財政再建、綱紀粛正の3本柱だった。

大岡は主に行政部門を担当。
上述の中町奉行、本所奉行の廃止を受けて、同僚で北町奉行・中山時春(なかやまときはる)とともに、役割分担や行政区分の見直しを行った。

「大岡裁き」と呼ばれる名判決の大半が幕末に編纂された『大岡政談』に書かれたフィクションだが、罪人の家族の連座制を廃止するなど、刑罰の合理化や裁判の迅速化に取り組んだ。

江戸の防災対策や福祉政策に残した功績はほぼ史実。江戸の大火を防ぐ為、防火帯と避難場所を兼ねた「 火除地 」を市内各地に作り、いろは47組町火消を組織した。福祉政策では享保6年(1721)12月、吉宗が設置していた目安箱に小川笙船(おがわしょうせん)から貧しく身寄りがない病人を無料で治療する施薬院設置を嘆願する投書があった。吉宗は御側御用取次・有馬氏倫(ありまうじのり)に施薬院の設立を命じ、忠相は北町奉行の中山時春とともに小石川養生所の設置に尽力している。

予算を獲得して作って終わり、ではなく、組の動員力などを見ていろは組を10グループに再編したり、養生所の敷地内に家を建てて賃料を運営費に回したりして、新たな仕組みが持続的に機能するよう目配りも欠かしていない。高札などで公約した政策は途中で投げ出さなかった。鳩山由紀夫「トラストミー」

大岡は金融政策にも取り組んだ。当時、多くの庶民や商人が高利貸しに頼らざるを得ず、返済に苦しむ人々が絶えなかった。大岡は、幕府が管理する貸付制度「公金貸付(こうきんかしつけ)」を設立し、低利で融資を受けられる仕組みを整えた。この政策により、庶民の負担が軽減され、商業の発展に繋がった。2003年に当時の東京都知事・石原慎太郎が「新銀行東京」(現・きらぼし銀行)を設立するが、コンセプトは公金貸付の経緯にそっくりである。

風俗の取り締まりや綱紀粛正にも力を入れ、何をするとどんな罪になるのかを細かく規定した。心中を防ぐため、流行していた「心中物」の出版・上演を禁じ、だれがいつ出版したのかを示す「奥付」を書籍につけることを義務づけて海賊版の発行を防ごうとした。細かすぎる統制には「統制する側」の 恣意的な取り締まりを防ぐ狙いもあった。

享保7年(1722)、地方御用掛に任命。当時、無計画な新田開発により、山林伐採が洪水を招き、農地を作っても耕す農民が見つからないなどの問題が起きたため、大岡は商人ら町人請負による新田開発を解禁することで開発費を手当てし、武蔵野(現在の埼玉県、東京都西部など)の開発を進めている。官から民への新田開発である。

一説には大岡が町人請負の新田開発を進めたのは、当時、江戸は物価高に悩んでおり、その原因は商人が商品流通や金融を牛耳っているためとみて、商人の資本を新田開発に振り向けさせて流通・金融市場から遠ざける為、物価対策の一環だったと分析されている。

享保10年(1725)9月には2,000石を加増され3920石となる。

お金との戦い

実は大岡と商業資本の因縁は長い。町奉行に就任して1年後の享保3年(1719)、江戸は急激な物価高に見舞われた。
ざっくり言えば、物の値段が1.5倍になったのである。

少し説明すると、江戸時代、江戸では金、大坂では銀が取引に使われる主なお金だった。幕府や大名は年貢米を「天下の台所」と呼ばれた大坂で商人に売って銀に換え、幕府や東日本の大名は今の銀行にあたる両替商で銀を金に換えてもらっていた。金と銀の交換レートは日々変動し、幕府が定めた公定レート通りではなかったが、幕府は相場を市場に丸投げしていた。

当時の江戸は酒は3割、油は7割、しょうゆは全量を西国・上方の輸入に頼っていた。銀高金安になると上方から江戸に入ってくる商品は値上がりし、関東を拠点とする幕府の出費も増えてしまう。

今でも円安が輸入品価格を押し上げ、食品や燃料費などの値上げが相次ぐ今と同じことが起きるわけで、幕府にとって急激な銀高は好ましくない。

大岡は両替商を呼びつけ、「お前らが不正をヤメて相場を下げないなら、両替商の認可を外すぞ!(意訳)」と恫喝したが、両替商側は大岡の宣戦布告も意に介さず、「やれるもんなら…やっ・て・みな!(意訳)」と返すほどの強キャラっぷりで、江戸中の両替商が業務を停止した。当然、江戸の金融は大混乱、大岡は両替商への圧力を取り止めた。大岡は負けたのだ。

大岡が負けた原因は、身内の幕府にある。5代将軍・徳川綱吉が行った貨幣改鋳は「政府に信用があれば、たとえ紙切れでも石ころでも通貨価値が保たれる」という勘定奉行・荻原重秀(おぎわらしげひで)の建白のもと実施されている。いわゆる「国定信用貨幣論」*3を200年余りも先取りしており、当時は類を見ないアイデアだった。さらに、江戸は取引で金、上方は銀を用いる為、その差額が銀高による物価高を産む原因になる為、貨幣改鋳で金と銀の含有率を減らす際に銀の方を大きく減らした。これにより、一旦は物価が安定する事になるのだが、後任の新井白石(あらいはくせき)が経済音痴な上に荻原重秀を嫌いだった為に、含有率を家康の頃に鋳造された慶長金銀に戻す改鋳(正徳金銀)を行い、重秀のレート調整をご破算にしてしまっていた。吉宗も江戸と上方経済の状況を踏まえずに正徳金銀の普及を進め、これが銀高金安を招いた。
両替商が不正を行ったから相場を下げろと恫喝した大岡の言い分は経済が分かっていなかったのである。

あれから3年後の享保7年(1722)、再び銀相場が上がり始め、それに釣られて物価も上がる。
大岡は再び、物価高と戦う事になったのだ。
このときも大岡は両替商を呼びつけて恫喝したが、両替商達から
「まるで成長していない…(意訳)」
「相場が分かるんじゃなかったのか?使えないな(意訳)」
とボロカスに言われている。
また、負けたのである。

ここまでヤラれてさすがに大岡も学んだのか、貨幣改鋳による物価調整を吉宗に提案した。
吉宗は改鋳に強く反対するが、大岡は米が豊作で米価が下がっていたことを説得材料にした。お金の質を落として大量に発行すればインフレになり、金銀を得るために幕府や大名が売る米の量が減る。市場に出る米が減れば米価は持ち直し、幕府収入の目減りも防げる。
米価調整に苦労していた吉宗は、最後は忠相の改鋳案を受け入れた。

元文元年(1736)5月、幕府は町奉行・大岡忠相と勘定奉行・細田時以(ほそだときより)を最高責任者とした貨幣改鋳を実施する。

発行された元文金銀は、金貨より銀貨の質を大きく引き下げている。忠相は銀高は収まると考えたが、質が悪い通貨との交換を嫌って正徳銀が蔵にしまわれ、発行直後に市場に出回る銀が減って銀相場が急上昇。

またしても大岡は両替商を呼びつけて恫喝し、旧銀貨の放出を命じたが、それを予期した両替商は多忙などを理由に代理の手代を出頭させ、町奉行の言いなりにはならない姿勢を示した。忠相は相場の不正操作を吟味するため、として手代たちを牢屋に入れた。手代がいなければ両替商は営業できない。経済は混乱するが、町奉行の職を賭する覚悟の忠相も折れず、両替商から出ていた手代の釈放願も却下し続けた。

2か月近く続いた対立は、いきなり終焉をむかえた。同年8月12日、大岡は寺社奉行に転任した。もう1人の町奉行(北町奉行)の稲生正武(いなおまさたけ)が8月19日に出牢を許可するまで、手代らは53日もの間牢屋に留め置かれた。

幕府が大岡を町奉行から外したのは両替商達に幕府に逆らうとどうなるか、あまり我を張ると、大岡みたくなるよ、というサインである。両替商達も幕府に協力的になった。要するに大岡も両替商も意地を張り過ぎたのである。その結果として、江戸の庶民はしばらくの間、安定した安い物価で生活出来るようになった。

元文金銀は11代将軍・家斉(いえなり)の時代まで使われた。この頃からお金が質的に変化していき、日本の金銀貨は今までの実物貨幣(お金の価値を金や銀の重さで用いる)から、品位や表示してある価値がまちまちであるが、幕府の刻印を打って通用させている名目貨幣(お金の価値を政府の信用で決める)に変化した。
銀貨の銀含有量を徐々に削っていき、一分銀は3分の1しか銀を持たない銀貨になった。逆に言えば一分銀を1枚発行する事に2枚分の利益を得る事に成功した。
幕府にとって打ち出の小槌ではあるが、同時にインフレの原因にもなっていた。因みに、12代将軍・家慶(いえよし)の代には天保二朱金や天保一分銀などの地金価格を無視した貨幣を乱造して、幕末の経済混乱と言う時限爆弾を残したといわれるが、国定信用貨幣論で行けば、幕府に信用があれば問題のないお金である。*4
黒船来航後、欧米諸国との為替レート交渉で徳川幕府のお金が実物貨幣ではなく、金属を用いた名目貨幣であるから、価値観の擦り合わせをしなければいけない処、アメリカ、イギリスの無理解と日本側の説明不足が重なり、物価高騰を引き起こした。

海外と実際に貿易をすると、お金の価値に違いが出て、海外は金1:銀15、日本は金1:銀5の差があり、輸出すると国内の取引より3倍のお金が稼げる。日本国内で銀を使うと3分の1のお金で買える。これが急激な品不足を生み出した。
お金は徳川幕府が今までの3分の1の価値しかないお金(安政改鋳小判)を作り出し、金や銀の流失は防いだが、新しいお金に合わせて物の値段が3.3倍になった。
商人は値段に転嫁すれば良いが、他の職業は給与が決まっているので、支出が増え、生活は苦しくなった。これが幕府の命取りになった。

寺社奉行へ

大岡は寺社奉行に就任した。町奉行在籍19年は町奉行の在任最長記録と言われる。
旗本である大岡は本来役高不足で大名が就任する寺社奉行には着けないのだか、享保の改革時に成立した足高の制といわれる制度で就任出来た。ざっくり言えば、役職に就いてる間、差額分を幕府が出す仕組みである。
この時の大岡の禄高は3920石に寺社奉行就任で2000石加増されて5920石。足高分を加え1万石の大名格とされた。
寺社奉行時代、大岡は破格の待遇で出世したが、このポスト、本来は奏者番(江戸城中で礼式を管理する役職)と兼任するのがお約束とされる。奏者番は大名が就任するポストで大岡は旗本である為、奏者番になれず、待機場所が使えなかった。
奏者番「悪いな大岡、この部屋は大名しか入れないんだw」

その為、寺社奉行ながら待機場所がなく、城の中を彷徨っていた。大岡「同情するなら部屋をくれ」
数年後、吉宗がようやく自分の迂闊さに気付き、大岡に待機部屋を与えた。

寺社奉行は、幕府の三奉行(町奉行・勘定奉行・寺社奉行)の中でも特に格式の高い役職であり、全国の寺院・神社の管理、宗教政策、訴訟の裁定などを担当する重要な職務。

大岡は全国の寺院や神社が抱える財政問題に着目し、財務問題にメスを挿れた。江戸時代には、寺社が特権を利用して不正に利益を得ることがあり、幕府に無許可で領地を拡大したり、年貢を免除された土地を利用して私腹を肥やす僧侶が存在した。大岡は、これらの不正を摘発し、幕府の監督のもとで寺社の財政を透明化する制度を整え、寺領の管理を厳格化した。今と変わらないね

もっとも、大岡も吉宗に呼び出されて、叱られた事がある。
大岡の日記によると寛保2年(1742)4月15日、寺社奉行4人が江戸城御座の間に集められ、吉宗から「寺社奉行を辞めて、次の人が就任すると何も分からない者が沢山いる。これは申し送りや引き継ぎがなされてないからだ。そこのところをキチンと仕組みを作って欲しい」
と強い口調で伝えられたとある。
これは、情報を秘密にして支配するのではなく、情報を適切に管理し、情報に基づいて政治を行うことが求められ、それを実現する事で幕府が「公儀」として大名や大衆から支持される。
その担い手であるのが寺社奉行、勘定奉行、町奉行、遠国奉行や大目付、目付などの優れた情報を資産として扱う事が出来る幕臣の選ばれし人々である。
それがこの体たらくではダメだよ、と釘を差されたのである。

晩年。

寛延元年(1748)10月、奏者番の兼任と同時に足高分が正式に加増として与えられ、三河国西大平(現岡崎市)1万石の大名となる。
大名といわれるが、大岡は西大平には赴任せず、大岡を始め、歴代当主は江戸に居住し参勤交代をしない定府大名であり、西大平村に陣屋のみが設置された。
大岡が西大平に赴任しなかったのは、吉宗の話し相手として常時江戸にいては呼び出されて、下手に赴任出来なかったからといわれる。

後世、町奉行から唯一、大名になった人物である。

寛延4年(1751)6月20日、江戸城西丸へ移り大御所となっていた吉宗が死去。葬儀担当者の一人として葬儀を取り仕切る。7月6日には忠相ら葬儀担当者が褒賞され、忠相は褒美を与えられている。

晩年の大岡は、呼吸器系や胃腸の病気に悩まされながら職務に務めたが、さすがに体力の限界から宝暦元年(1752)11月2日に寺社奉行・奏者番の引退願いを提出した。返事は寺社奉行は辞めて良いけど、奏者番は務めろ、引退はダメとブラックな扱われ方だった。その後は自宅療養するが、12月19日に死去、享年75歳。法名は松雲院殿前越州刺史興誉仁山崇義大居士。墓所は代々の領地のある神奈川県茅ヶ崎市堤の窓月山浄見寺。また、東京都台東区谷中の慈雲山瑞輪寺。

代々の大岡家の知行地は相模国、今の神奈川県茅ヶ崎市にあり、そこから加増で各地に土地が与えられ、トドメが西大平である。土地の管理がし難いと時間を掛けて領地を整理し、廃藩置県時の領地は西大平に9300石、茅ヶ崎に700石だった。
後に明治17年(1884)7月8日、当時の当主・大岡忠敬(おおおかただたか)が華族令により子爵に叙爵した。


創作での大岡忠相

後世の作家や脚本家の数だけ、大岡忠相が存在する。控え目に言えば、チート、聖人君子、完璧超人の全部乗せラーメン。非の打ちどころがない。

「大岡裁き」にしても、大半は後世の創作ないし、作家が他人の功績を大岡の手柄にする改ざんなどの産物。裁きのネタも最初は中国の古典から来ていたのが、明治以降はイスラムやヨーロッパの古典が日本風にアレンジしたものを作家が混ぜていき、上乗せされて今日に至る。

後世の人たちは幕末の徳川幕府や大日本帝国を見て、内ゲバ、内輪揉め、対外戦争、震災、疫病とイベントだらけの日本で為政者が植民地の台湾や朝鮮などに大金を投じ、外ばかりを見て、国内の日の当たらない地域や生活弱者の面倒は見ないのかよ、という不満に大岡忠相という為政者に託して、反論したかったのかも知れない。

史実だと、正妻も養父も実父も町奉行就任前に亡くなっているが、TBSドラマでは実父と団らんしたり、側室の市川氏が無かった事にされ、正妻・雪絵として一本化され、市川氏は医師の娘で漢方に長けていたそうだが、それが雪絵の設定になり、武芸や家事全般をこなすハイスペ女子として描かれ、ドラマの都合で人質になり、グヘヘな扱いの一歩手前まで追い込まれるなど、扱いが忙しい。

大岡はどの局が作るドラマでも家族仲、夫婦仲、親戚付き合い、と非の打ちどころがなく、上司、同僚、部下と良好な関係を築き、子育ても上手と理想がてんこ盛りである。

大岡忠相が登場する作品

NHK大河ドラマ

  • 『八代将軍吉宗』(1995年、演:滝田栄 )

その他のTVドラマ

  • 『ナショナル劇場 大岡越前』(1970〜99年、2006年、TBS、演:加藤剛)
  • 暴れん坊将軍』(1978〜2004年、2008年、2025年、テレビ朝日、演:横内正(第1~7シリーズ)→田村亮(第8~12シリーズ・2004年新春スペシャル)→大和田伸也(2008年スペシャル)→勝村政信(2025年スペシャル))
  • 『名奉行!大岡越前』(2005〜2006年、テレビ朝日、演:北大路欣也)
  • 『大岡越前』(2013年〜、NHKBSプレミアム、演:東山紀之(2013〜2023年スペシャル)→高橋克典(2024年〜)

雲盗り暫平

そんな彼が珍しく敵役として描写されているのが、抜け忍だったが八代将軍吉宗のお墨付きで自由を得て気ままに暮らしながら忍術や悪知恵を活かして盗みを働く暫平が主人公である時代劇風怪盗漫画の雲盗り暫平シリーズ。

表向きは名奉行として通っているが、裏ではわいろを受け取ったり自身の出世のために他の幕閣重臣の悪事を探るなど出世欲の塊で、度々たくらみごとをしては暫平に出し抜かれて煮え湯を飲まされている。

一方で富くじで不正を働き大儲けをしようとした兄弟を成敗するために協力したこともある。


大岡裁き並みに非の打ち所なき追記、修正を願う次第。

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最終更新:2025年10月10日 16:24

*1 資料がないなら、創作で補っても問題無いという発想から、幕府公認の必殺仕事人という設定にした。

*2 こちらは本所奉行を深川奉行に名前を変え、将軍拝領の刀で悪党を成敗する必殺仕事人という設定にした。

*3 ざっくり言えば、お金の価値は政府の信用により左右される考え方。江戸時代の金や米などの実物が取り引きに使えるのは、幕府に信用があるという考え方。

*4 慶長小判や明和南鐐二朱銀等の貨幣は地金価格+製造手数料11%の価格で作られていたのだが、天保一分銀は明和南鐐二朱銀より軽いにも拘らず、額面価値は二倍と言うトンデモ銀貨である。