李陵(小説)

登録日:2025/08/29 Fri 20:05:40
更新日:2025/09/12 Fri 19:58:41
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李陵(りりょう)』とは、中島敦の短編小説の一つで、本来の中島の「遺作」というべき作品である*1
彼の作品と聞いてこの項目を見ている人は恐らく高校の現代文の教科書に必ずと言っていいほど採用される『山月記』や、そこから中島敦の作品に興味を覚えた人が読むであろう『名人伝』を連想する人が多いかもしれないが、本作もまた、同じく中国古典にルーツを持っている作品である。
元になっているのは『史記』。




あらすじ



李陵、囚われの身となる

舞台は前漢の七代皇帝・武帝の時代の中国。当時、漢の北方では遊牧民族の匈奴(きょうど)が殺人や略奪を行っており、これが漢王朝にとって大きな頭痛のタネであった。
武帝に忠実に使えていた武将・李陵は五千人の歩兵を連れ、匈奴攻略のための遠征に向かう。
10日間国境の山間部にて敵の様子を伺い、出発しようとするものの、わずか五千の兵しかいない李陵の軍は、総勢三万ほどの匈奴軍の猛攻を受け、一たまりもなかった。
そうして、李陵は多くの兵士を失って一人で逃げることを余儀なくされるが、迫りくる匈奴の兵士相手に一人で善戦するも意識を失い、捕虜として捕らえられる。




武帝大激怒、司馬遷の擁護

李陵が匈奴の捕虜となった翌年、「李陵が匈奴の捕虜となって生存している」という話が武帝の耳に入った。
この報せに武帝は激怒。武帝の家臣たち*2は皆、武帝に同調して李陵を誹謗中傷した。
そうした中、一人だけ李陵を擁護する者がいた。それは太司令*3司馬遷であった。
司馬遷は捕虜となりながらも匈奴相手に善戦した李陵を褒め称えた。だがこれが武帝の逆鱗に触れた!


司馬遷は処刑こそ免れた*4が、「宮刑」*5という刑罰に処され、激しい屈辱を味わうこととなった。
彼は皇帝に諌言したことで処刑されることは多少なりとも覚悟していたものの、よりにもよって自らに課された刑罰が「宮刑」であったため、その屈辱は一層深かった。
一時は自殺も考えたが、死んだ父親から託された「歴史書『史記』の編纂を成し遂げる」という使命を達成する気力を取り戻し、踏みとどまった。




李陵と匈奴たち

一方、李陵は胡地(匈奴たちの支配地域)において、あくまでも本心を隠しつつ匈奴たちに従いながら生活していたが、本心では隙を見て脱出しようとしていた。
匈奴の王・且鞮侯単于(しょていこうぜんう)は李陵の奮戦ぶりを高く評価していた。元々匈奴たちの間には李陵の祖父の奮戦ぶりが語り継がれており、更に「強者を尊重する」という価値観が根付いていたため、彼らにとって李陵は尊重するべき人間として見えていたのである。
そう言うわけで、単于は彼を「捕虜」ではなく、あくまでも客人として丁重に扱い、今後の漢への攻略についての作戦を問うたが、この話について李陵は乗ることはなく、ほかに漢出身の匈奴に投降した者と口を利くこともなかった。
そうした中でも単于への李陵への厚遇は変わらず、さらには単于の長男・左腎王(さけんおう)も李陵を尊敬のまなざしで見るようになった。左腎王は李陵に頼んで弓矢の術を教わったが、いつしか両者は互いに友情に似た感情を抱くようになった。


漢と匈奴の間に再び争いが起き、漢が匈奴に惨敗すると、「今回我々が匈奴に惨敗したのは、李陵が匈奴に軍略を授けていたせいだ」という噂が漢にもたらされた。
この噂を真に受けた武帝は激怒し、李陵の母親から妻子に至るまで皆殺しにしてしまった。これは、匈奴に寝返った「緒」という将軍と「陵」が間違えられたために生じた誤報が招いた悲劇であった。
「一族郎党皆殺し」の報せを聞いた李陵は激怒し、その日の夜に李緒を暗殺した。
翌日、李陵はこのことを単于に打ち明けた。事情を理解した単于は李陵をかばい、彼に「ほとぼりが冷めたら迎えをよこすから、あなたは北方の地に身をひそめていてほしい」と命じた。というのも、李緒が単于の年老いた母・大閻氏(だいえんし)と肉体関係を持っていたためである。


やがて大閻氏が亡くなると、李陵は再び呼び戻され、「右校王」という役職についた。そうして、単于の娘と結婚して子宝にも恵まれた。
「一族郎党皆殺し」の報せを聞いた李陵は、それ以来匈奴とともに生きることを選んでいた。そのため、漢攻略の軍議にも積極的に参加した。
それまで軍議には決して参加しようとしなかった李陵が、すっかり別人のようになって積極的に軍議に参加するようになったことで、単于は大いに喜んだ。



蘇武と李陵

一方、バイカル湖のほとりには、李陵の二十年来の友人にして、武帝の側近であった「蘇武」という男が住んでいた。
彼は平和条約締結のために胡地を訪れていたのだが、部下が匈奴の内紛に関連したため、自身も捕らえられてしまった。
蘇武は「生きて虜囚の辱めを受けるよりは」とばかりに自害しようとしたが、蘇武の「鋼の遺志」を気に入った匈奴たちの治療で一命をとりとめ、それ以降は同地にて羊飼いとして生活していた。


先代の単于が亡くなり、左腎王が新たな単于に即位して狐鹿姑単于(ころくこぜんう)と名乗った。
この頃、「司馬遷が李陵のために武帝に弁明して、宮刑に処された」という話が李陵の耳に入った。
この件に関して、李陵は別にありがたいとも気の毒だとも思わなかった。
それは、一族を殺した漢への恨みと、自ら兵を率いて漢と戦うことができないという状況の板挟みで葛藤していて、他者について考えられるだけの精神的余裕がなかったためである。


狐鹿姑単于の即位から数年後、「蘇武の生死が不明である」という話が単于の耳に入った。
単于は李陵に、
「蘇武の生死を確かめに行き、もし生きていれば降伏を勧めてほしい」
と頼んだ。
蘇武は、極寒の粗末な丸木小屋で、家畜を盗まれ、飢えに耐え忍びながら生活していた。
李陵は、決して匈奴に屈しようとしない蘇武の凄まじい意思に驚嘆し、「運命との壮大な意地の張り合いをしている」と悟った。
そうして、自身が売国奴であるように思え、単于に頼まれていたように、蘇武に降伏の勧告をすることはできなかった。


数年後、李陵は再び蘇武を訪ねた。その道中で、国境の漢の衛兵たちが白服をつけているのを目にした。それは武帝の崩御を意味していた。
蘇武はこの報せを耳にし、喀血するほど数日間号泣した。李陵は蘇武の激しい愛国心を目の当たりにしても、武帝の崩御に対して何の感情も湧かない自身への懐疑の気持ちを抱くようになった。




終章-漢よ、永遠にさらば-

武帝の崩御により、李陵の友人であった家臣の霍光(かくこう)上官桀(じょうかんけつ)の間で、李陵を漢に呼び戻そうとする話し合いがもたれた。
彼らによって、同じく李陵の友人であった任立政(じんりつせい)が使節として派遣され、李陵は密かに帰郷を勧められた。
しかし、李陵は匈奴とともに生きることを選択し、その勧告を拒絶した。
これには、李陵の匈奴に対する価値観が、彼らと生活する中で変わっていったこと*6と、自身の家族を殺した漢王朝から再び辱めを受けるのを恐れたことが影響している。



その五年後、蘇武が漢に帰ることが決まった。彼の生存を知った人々の計らいで、漢への帰還が実現したのだ。
十九年前にわたって匈奴に屈することなく、厳しい生活を耐え忍び続けた蘇武の偉大さに、李陵は心を打たれたが、その一方でどこか彼をうらやむ気持ちがあるのを感じていた。
その気持ちを振り払うため、李陵は蘇武のために別れの宴を開いて歌い踊るが、その眼には涙が浮かんでいた。


一方、司馬遷は、宮刑に処せられてから八年後、歴史書の編纂の大部分を完成させ、それから数年かけて『史記』を完成させた。
この父親から受け継いだ一大事業を終え、父親の墓前にそのことを報告した司馬遷は安心したのか、すっかり老け込んで体から力が抜けたようになってしまい、任立政が都に帰ってきた頃には、既に亡くなっていた。
その後の李陵に関しては、胡地で死んだという以外の正確な記録は何も残されていない。とはいえ、狐鹿姑単于の死後に起きた国内の内紛に何らかの形で巻き込まれた可能性が指摘されている。
彼の子孫に関しては、「李陵の死からおよそ十八年後、李陵の子(名前不明)が狐鹿姑単于の後継ぎの呼韓邪単于(こかんやぜんう)*7に抵抗したが敗れた」という記録が残っているのみである。





余談

「李陵」という題は、実は中島敦本人がつけたわけではない。
中島自身が書き残したメモには「漠北悲歌」の語があるが、その字を消してある部分も同時に見えるため、結局のところ、どれを題名にしようとしたのかは断定しにくくなっていた。
中島の死後、中島と親交のあった小説家・深田久弥(ふかだきゅうや)が生前の中島から依頼を受けた遺稿の整理を行う際に、最も無難な題名を選び命名したのである。






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最終更新:2025年09月12日 19:58

*1 便宜上「遺作」とされる作品は「名人伝」である事が多い

*2 その中にはかつて李陵と親友だった者もいた

*3 古代中国において、歴史の記録や天文や暦を司る仕事を務める役人

*4 史実では、刑の執行まで1年かかった。当初は処刑を言い渡されていたが、金を出せば減刑してもらうことができた。忠司馬遷は貧しくて金がなかったため、減刑してもらう代償として「宮刑」の判決が下った。

*5 男性器、つまりチ○コを切断される刑罰。

*6 匈奴と共同生活を営む最中、それまでは匈奴の習俗を「漢人」としての目線で「非合理的」とみなしていたが、いつしか彼らの習俗に理由を見出し、むしろ合理的であると考えるようになった。また、単于と対話する中で「あなたたち漢人がいつも言う『礼儀』とは何だ?うわべだけを飾り立てることを、そう呼んでごまかしているだけではないのか。利益を好んだり、他人を妬んだり、女好きだったり、欲深かったりするのは我々とあなたたち漢人とは少しも変わらないはずだ。漢人はそれらを取り繕うのが上手で、我々はそれらを取り繕うのが下手なだけだ」という言葉から、「漢」発足以来の出来事を思い起こし、単于の言葉に共感している

*7 作品中では触れられていないが、史実では漢の官女・王昭君の夫として知られている