登録日:2025/08/29 Fri 20:05:40
更新日:2025/08/30 Sat 08:37:51NEW!
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『李陵』とは、
中島敦の短編小説の一つで、本来の中島の「遺作」というべき作品である。
彼の作品と聞いてこの項目を見ている人は恐らく高校の現代文の教科書に必ずと言っていいほど採用される『
山月記』や、そこから中島敦の作品に興味を覚えた人が読むであろう『
名人伝』を連想する人が多いかもしれないが、本作もまた、同じく中国古典にルーツを持っている作品である。
元になっているのは『史記』。
あらすじ
李陵、囚われの身となる
舞台は前漢の七代皇帝・武帝の時代(漢王朝)の中国。当時、漢の北方では遊牧民族の匈奴が殺人や略奪を行い、これが漢王朝にとって大きな頭痛のタネであった。
武帝に忠実に使えていた武将・李陵は五千人の歩兵を連れ、匈奴攻略のための遠征に向かう。
10日間国境の山間部にて敵の様子を伺い、出発しようとするものの、わずか五千の兵しかいない李陵の軍は、総勢三万ほどの匈奴軍の猛攻を受ける。
そうして、李陵は多くの兵士を失って一人で逃げることを余儀なくされるが、迫りくる匈奴の兵士相手に善戦するも意識を失い、捕虜として捕らえられる。
武帝大激怒、司馬遷の擁護
李陵が匈奴の捕虜となった翌年、「李陵が匈奴の捕虜となって生存している」という話が武帝の耳に入った。
この報せに武帝は激怒。武帝の家臣たちは皆、武帝に同調して李陵を誹謗中傷した。
そうした中、一人だけ李陵を擁護する者がいた。それは太司令・司馬遷であった。
司馬遷は捕虜となりながらも匈奴相手に善戦した李陵を褒め称えた。だがこれが武帝の逆鱗に触れた!
司馬遷は処刑こそ免れたが、「宮刑」という刑罰に処され、激しい屈辱を味わうこととなった。
彼は処刑されることは覚悟していたものの、よりにもよって自らに課された刑罰が「宮刑」であったため、その屈辱は一層深かった。
一時は自殺も考えたが、死んだ父親から託された「『史記』の編纂を成し遂げる」という使命を達成する気力を取り戻し、踏みとどまった。
李陵と匈奴たち
一方、李陵は胡地(匈奴たちの支配地域)で生活しながら、表面上は匈奴たちに従いながらも、裏では脱出することを心に決めていた。
匈奴の王・且鞮侯単于は李陵を捕虜ではなく、あくまでも客人として丁重に扱い、今後の漢攻略についての作戦を問うたが、この話について李陵は乗ることはなく、ほかに漢出身の匈奴に投降した者と口を利くこともなかった。
そうした中でも単于への李陵への厚遇は変わらず、さらには単于の長男・左腎王も李陵を尊敬のまなざしで見るようになった。左腎王は李陵に頼んで弓矢の術を教わったが、いつしか両者は互いに友情に似た感情を抱くようになった。
漢と匈奴の間に再び争いが起き、漢が匈奴に惨敗すると、「李陵が匈奴に軍略を授けている」という噂が漢にもたらされた。
この噂を真に受けた武帝は激怒し、李陵の母親から妻子に至るまで皆殺しにしてしまった。これは、匈奴に寝返った「李緒」という将軍と「李陵」が間違えられたために生じた誤報が招いた悲劇であった。
「一族郎党皆殺し」の報せを聞いた李陵は激怒し、その日の夜に李緒を暗殺した。
しかし、李緒は単于の年老いた母・大閻氏と肉体関係を持っていた。単于は愛人を殺された大閻氏の怒りが李陵に向けられることを危惧し、李陵に北方の地に身をひそめるよう命じた。
やがて大閻氏が亡くなると、李陵は再び呼び戻され、「右校王」という役職につき、単于の娘と結婚して子宝にも恵まれた。
「一族郎党皆殺し」の報せを聞いた李陵は、それ以来匈奴とともに生きることを選んでいた。そのため、漢攻略の軍議にも積極的に参加した。
蘇武と李陵
一方、バイカル湖のほとりには、李陵の二十年来の友人にして、武帝の側近であった「蘇武」という男が住んでいた。
彼は平和条約締結のために胡地を訪れていたのだが、部下が匈奴の内紛に関連したため、自身も捕らえられてしまった。
蘇武は「生きて虜囚の辱めを受けるよりは」とばかりに自害しようとしたが、蘇武の「鋼の遺志」を気に入った匈奴たちの治療で一命をとりとめ、それ以降は同地にて羊飼いとして生活していた。
先代の単于が亡くなり、左腎王が新たな単于に即位して「狐鹿姑単于」と名乗った。
狐鹿姑単于の即位後、「蘇武の生死が不明である」という話が単于の耳に入った。
単于は李陵に、
「蘇武の生死を確かめに行き、もし生きていれば降伏を勧めてほしい」
と頼んだ。
蘇武は、極寒の粗末な丸木小屋で、家畜を盗まれ、飢えに耐え忍びながら生活していた。
李陵は、決して匈奴に屈しようとしない蘇武の凄まじい意思に驚嘆し、「運命との壮大な意地の張り合いをしている」と悟った。
そうして、自身が売国奴であるように思え、単于に頼まれていたように、蘇武に降伏の勧告をすることはできなかった。
数年後、李陵は再び蘇武を訪ねた。その道中で、国境の漢の衛兵たちが白服をつけているのを目にした。それは武帝の崩御を意味していた。
蘇武はこの報せを耳にし、喀血するほど号泣した。李陵は蘇武の激しい愛国心を目の当たりにしても、武帝の崩御に対して何の感情も湧かない自身への懐疑の気持ちを抱くようになった。
終章-漢よ、永遠にさらば-
武帝の崩御により、李陵の友人であった家臣の霍光と上官桀の間で、李陵を漢に呼び戻そうとする話し合いがもたれた。
彼らによって、同じく李陵の友人であった任立政が使節として派遣され、李陵は密かに帰郷を勧められた。
しかし、李陵は匈奴とともに生きることを選択し、その勧告を拒絶した。
これには、李陵の匈奴に対する価値観が、彼らと生活する中で変わっていったことと、自身の家族を殺した漢王朝から再び辱めを受けるのを恐れたことが影響している。
その五年後、蘇武が漢に帰ることが決まった。彼の生存を知った人々の計らいで、漢への帰還が実現したのだ。
十九年前にわたって匈奴に屈することなく、厳しい生活を耐え忍び続けた蘇武の偉大さに、李陵は心を打たれたが、その一方でどこか彼をうらやむ気持ちがあるのを感じていた。
その気持ちを振り払うため、李陵は蘇武のために別れの宴を開いて歌い踊るが、その眼には涙が浮かんでいた。
一方、司馬遷は、宮刑に処せられてから八年後、歴史書の編纂の大部分を完成させ、それから数年かけて『史記』を完成させた。
この父親から受け継いだ一大事業を終え、父親の墓前にそのことを報告した司馬遷は安心したのか、すっかり老け込んで体から力が抜けたようになってしまい、任立政が都に帰ってきた頃には、既に亡くなっていた。
その後の李陵に関しては、胡地で死んだという以外の正確な記録は何も残されていない。とはいえ、狐鹿姑単于の死後に起きた国内の内紛に巻き込まれた可能性がある。
彼の子孫に関しては、「李陵の死からおよそ十八年後、李陵の子(名前不明)が狐鹿姑単于の後継ぎの呼韓邪単于に抵抗したが敗れた」という記録が残っているのみである。
余談
「李陵」という題は、実は中島敦本人がつけたわけではない。
中島自身が書き残したメモには「漠北悲歌」の語があるが、その字を消してある部分も同時に見えるため、結局のところ、どれを題名にしようとしたのかは断定しにくくなっていた。
中島の死後、中島と親交のあった小説家・深田久弥が生前の中島から依頼を受けた遺稿の整理を行う際に、最も無難な題名を選び命名したのである。
追記・修正は逆境をチャンスと考えてからお願いします。
最終更新:2025年08月30日 08:37