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伍子胥

登録日:2026/05/15 Fri 00:44:46
更新日:2026/07/17 Fri 17:34:31
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伍子胥(ごししょ)とは、中国の春秋時代の呉の政治家・軍人である。


蘇州市盤門にある伍子胥の記念廟に安置されている伍子胥の像。
画像出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8D%E5%AD%90%E8%83%A5 ウィキペディア日本語版『伍子胥』のページから。著作者:Jakub Hałun(CC BY-SA 3.0)



生没年:?~紀元前484年
出身地:乾渓(現在の安徽省亳州市利辛県)
諱:(うん)





生涯

幼年期・青年期

伍子胥は、楚の乾渓(現在の安徽省亳州市利辛県)に生まれた。
伍子胥の生家は代々楚の重臣という名門で、伍子胥から見て祖父にあたる伍挙はそのまっすぐな物言いから、荘王*1に信頼された。
更に、伍子胥の父親・伍奢は平王の太子・健の太傅(たいふ)*2を務めていた。


平王2年(紀元前527年)、建に秦から嫁を貰がせることになり、少傅(しょうふ)*3費無忌(ひむき)が楚に嫁いでくる伯嬴(はくえい)を秦まで迎えに行った。
費無忌は平王の側近として権勢を振るう野心を抱いていたため、優れた美貌の持ち主であった伯嬴を平王の側室に薦めて、健には別の女性を与えさせた。
かくして、平王の側近となった費無忌だったが、こんなことをすれば健から恨みを買うのは当然のことだし、平王が崩御して健が新たな王に就任した場合、費無忌の将来が危ういことは彼にも予想できていた。
そういうわけで、費無忌は自身に恨みを持っているであろう健を自身から遠ざけるために、平王に対して健にまつわる讒言をした。


費無忌の讒言をすっかり信じ込んだ平王は、まず健を首都・(えい)(湖北省沙市市の北)から遠く離れた城父(じょうほ)(安徽省亳県の東南)に左遷した。
しかし、健が生きている限り、費無忌の身は危うかった。
今度は、「太子様が謀叛を企てておいでです」と平王に吹き込むことで、健の排除を図ろうとした。
平王は城父に使者を差し向けて健を殺害しようとしたが、無実の罪で父親に殺されようとしている健を憐れんだ者がそのことを健に伝えたことで、健はそこから逃亡し、幸運にも命を拾った。


ほどなくして、健の太傅を務めていた伍子胥の父・伍奢と兄・伍尚、そして伍子胥も「健の教育係の一家」ということでその影響力を恐れられ、費無忌と彼の讒言をすっかり信じ込んだ平王の魔の手が迫った。
平王はまず伍奢を捕え、
「都から離れているお前の息子たちを呼べ。そうすれば助けてやる」
と言ったが、
「兄の伍尚は心優しいですから殺されるとわかっていても来るでしょうが、弟の伍子胥は違います。苦難に耐える意気を持っております。来るわけがありません」
と断られた。
次いで平王は伍尚・伍子胥兄弟へ、
「お前たち兄弟が都に出頭すれば父を助ける」
と使者を送った。
平王の無道ぶりを知っていた伍子胥は
「これは俺たち一家を皆殺しにするための罠だ。兄者、一緒に逃げよう」
と誘うが、伍尚は
「そんなことはわかっている。だが、私には父上を見捨てることはできん。私は楽な道を選ぶ。‥‥‥だが、お前は生きて逃げろ。生きて父上と私の仇を取れ」
と、罠とは知りつつも父親と運命を共にすることを選び、伍子胥は使者を弓矢で脅して逃れた。
伍子胥が無事に追手から逃れたことを知った伍奢は
「楚の君臣は兵難に苦しむであろう」
という言葉を遺し、長男と共に処刑された。

楚を脱出する途中で、親友の申包胥(しんほうしょ)と出会い、伍子胥は
「俺は必ずこの楚を滅ぼしてやる」
と息巻き、申包胥は
「そうか、それなら、私は一人の臣としてこの楚を守る」
と告げ、両者は袂を分かった。



呉への逃亡

こうして、ここに伍子胥の復讐劇の幕が切って落とされた。
だが、復讐を遂げるためには、まず自分の身の安全を確保しなければならない。そのため、太子健が逃れた宋に身を寄せることにした。
太子健とはめぐりあえたが、やがて宋に内乱が勃発する。
内乱による被害を避けるため一行は遍歴をかさね、鄭に身を寄せていたのだが、太子健が誅殺されてしまう。
鄭に匿ってもらって身の安全を保障してもらっていたにもかかわらず、「成功すれば領地を与える」と北方の大国・晋に言葉巧みに誘われ、晋の軍勢を鄭に呼び込もうと画策したのが原因であった。


そうして、伍子胥は健の遺児・勝を連れて逃亡生活を続け、呉を目指して逃亡した。
平王は伍子胥を指名手配していたたため、常に平王の手の者に追われながらの逃亡だった。
この逃避行の道中は、「地獄」という言葉すら生ぬるいほど過酷なものだった。伍子胥は道中物乞いをすることを余儀なくされたり、重い病にかかって生死の境をさまよったりすることもあったという。
南下して呉との国境地帯に設けられた楚の関所・昭関(しょうかん)まで来たとき、きびしい検問にひっかかって危うく逮捕されかかり、逃亡する途中、勝とも離れ離れになってしまう。
追っ手をかわして、長江の岸辺にたどりついた伍子胥は、たまたま出会った漁師の好意で漁船に乗せてもらい、ようやく南岸に渡ることができた。
このお礼として、伍子胥は腰に佩いていた、当時の現金に換算すれば百金はくだらないであろう先祖代々の大剣を漁師に差し出そうとした。
だが、漁師は笑って
「伍子胥ってやつを差し出せば、楚の殿様がおらを諸侯にしてくださるそうだ。そっだら大剣さ要らねえくらいのもんだ」
と笑いながら断った。つまり漁師は、伍子胥と知りながらも、あえて見逃したのである。


そうして、この漁師のおかげで呉に到着した伍子胥は、公子光に仕え、呉王僚や光に楚を攻めるよう進言した。
楚への侵攻には呉王の僚は乗り気だったが、光はこれに反対した。次の呉王の地位を狙っており、国を空けて進軍するのを嫌がったのである。
光は呉の主力軍が出征した楚で立ち往生するに至ると、かねてより僚が王位を継承したことを不服に思っていた。
そういうわけで、呉の情勢は後継者争いがもとで極めて不安定で、対外戦争を行えるような状況ではなかったのだった。
伍子胥は光の野心を見抜き、暗殺者・専諸を光の家臣として推挙する。そうして、いずれ内乱が起きることを見越して、しばらくは一農夫として生活を送り、雌伏して時の来るのを待った。
この最中、父と兄の敵の平王が平王13年(紀元前516年)に、もう一人の父と兄の敵である費無忌が翌昭王元年(紀元前515年)に相次いで亡くなっている。



敵討ち

昭王元年(紀元前515年)。光は、
「国内が手薄な今こそ、事を起こす絶好の機会」
と考えた。
かつて伍子胥が推挙してくれた専諸を床下に忍ばせておいて、僚を油断させるため、宴席へと招いた。
僚の方も十二分に警戒しており、親衛隊を自己の周りに配していた。
だが、料理人に扮した専諸がその隙をついて、魚料理を食べやすい大きさに切って取り分けると見せかけて、料理に隠していた短刀で僚をズブリ。
この時、専諸も親衛隊に返り討ちにされるという血みどろの展開を迎えたが、結果としてクーデターは成功し、光は王に即位して「闔閭(こうりょ)」と名乗った。そうして、闔閭は伍子胥を側近に任じた。
こうして、権力奪取の功労者となった伍子胥は、かの『孫子の兵法』で有名な孫武とともに、闔閭の軍師となって彼を助けた。


闔閭9年(紀元前506年)。闔閭は
「私が王に即位してから、この国も安定してきた。そろそろ楚を攻めようと思うのだが、お前たちにはどのような策があるかね?」
と伍子胥と孫武に問うた。伍子胥は
「楚は弱り切っており、我らが攻め込めば、ほぼ勝てるでしょう。しかし、万が一ということもあります。属国として搾取され、楚への恨みが強い小国の唐*1と蔡*2を味方に付ければ、わが軍の勝利は確実でございます」
と答えた。
闔閭が使いを出すと唐と蔡は即座に内諾し、呉に援軍を出すことを表明した。
こうして闔閭・伍子胥・孫武は本格的な楚への侵攻を始める。「柏挙の戦い」である。
十分な準備に加え、楚の地理と内情を良く知る伍子胥・兵法の天才孫武という人材が揃い、連戦連勝して、遂には都・(えい)を陥落させ、楚を壊滅寸前まで追い込んだ*4
かつて父・伍奢が処刑される間際に語った
「楚の君臣は兵難に苦しむであろう」
という言葉が現実のものになった瞬間だった。
そうして、すでに亡くなっていた平王の墓を掘り起こし、掘り出した平王の遺体を300回鞭で打ち、今までの恨みを晴らした。これが故事成語『死者に鞭打つ』の語源である。
この伍子胥の苛烈な行動に対して、当時命からがら山中に逃げ延びていた旧友・申包胥は使者を派遣して、このように苦言を呈した。
「君の復讐はなんと酷い事か。仮にも君はかつては北面し、王(平王)に仕えた身じゃないか。そのご遺体を辱めるとは、君にはいつか天罰が下るぞ」
このようにとがめられた伍子胥は、次のように返した。
「吾、日暮れて塗(道)遠し、吾、故に倒行して之を逆施す(俺は年を取って晩年に差し掛かっているから、果たすべき目的は遠い。だから何をするにも、あえて物の道理に背いた手段や方法を採用しているのだ)」
これが故事成語「日暮れて道遠し」「倒行逆施」の語源である。



呉、越に敗れる

闔閭10年(紀元前505年)。
越の王・允常(いんじょう)が呉に攻め入ってきたため、兵の半分を帰した。更に申包胥が北方の強国・秦の援軍を取り付けたことで、呉の形勢は思わしくないものになっていった。
闔閭は楚に留まっていたが、将軍として従っていた闔閭の弟・夫概(ふがい)が勝手に陣払いして呉王を名乗って支配領域を乗っ取ろうとしたため、これを追い払った。
呉に戻った伍子胥は闔閭の補佐に努め、呉を強国にまで押し上げた。次は楚への侵攻や中原*5に進出していくことになるが、その前に隣国の越を攻めるよう進言した。
越から見れば、中原に出るには呉が邪魔であった。また呉から見ても、中原に出れば越に背後を突かれる恐れがあった。
そもそも、越はこの時は未だ小国であったが、この頃急速に国力を増大させていたので、呉にとって将来の脅威であった。
これらの現状を鑑み、闔閭は一旦は越への侵攻を断念し、呉の富国強兵に尽力することを選択した。


闔閭19年(紀元前496年)、越王・允常の訃報を聞いた闔閭は、伍子胥の進言もあり、自ら兵を率いて越へ侵攻する。
この戦いにおいて、允常の子で後を継いだ勾践の家臣の軍師・范蠡(はんれい)は自軍の劣勢な状況を打破するため、奇策を実行する。
それは、軍隊に三列になって呉の軍団に突撃させ、突然一斉に自刎させるというものであった。
この異様な光景に呉の軍勢があっけに取られている間に、越の軍勢が一斉に襲い掛かる。
結果として、呉は越との戦争、いわゆる「檇李(すいり)の戦い」に敗れた。この時、闔閭は越の武将である霊姑孚が放った矢によって片足を負傷し、破傷風を起こした。
そうして、次第に容態が悪化し、床に伏せるようになった。



新たなる王・夫差

闔閭の容体が悪化すると、闔閭の公子たちが、自身を父親の後継者に命じてくるようにと伍子胥に頼みに来た。
伍子胥はその公子たちの一人である夫差を次の王にふさわしいと考え、闔閭に上奏したが
「夫差は情に薄いから、君主としてふさわしくないのではないかね?」
と、一度は渋った。しかし、伍子胥が
「そのような足りない部分は我ら諸侯が補います。後継者を誰にするかを早く決定しないと、それが火種となって権力闘争が起こりかねません」
と説得したことにより、闔閭はこれを受け入れた。


そうして、病床の闔閭は夫差を呼び
「夫差よ。勾践こそ、この父の仇である。そのことをくれぐれも忘れるな」
と言い、夫差も
「3年以内には必ず父上の仇を取ります」
と答えた。ほどなくして、闔閭は崩御した。


夫差との確執

夫差2年(紀元前494年)。夫差は呉に侵攻した勾践率いる越軍を「夫椒の戦い」で撃破する。呉軍はその勢いのまま越に逆侵攻して、勾践を越の首都近くの会稽山へ追い詰めた。
勾践は使者を送り、
「越は呉の属国となり、私は呉王様の奴隷として仕えるので、どうかお許し下さい」
と申し出てきた。
夫差はその殊勝な態度を見て許そうとしたが、伍子胥は
「生かしておけばいずれ必ずこの国にとって禍となります」
と反対した。
結局夫差は勾践を助命し、越を呉の従属国とすることとしたが、この一件から、夫差と伍子胥の関係性が微妙なものになっていく。
勾践は夫差には恭順したそぶりを見せ続け、そうして定期的に夫差に賄賂を贈ることで、すっかり夫差の警戒を解いていた。
この頃には、勾践の軍師・范蠡が西施という絶世の美女を夫差のもとに送り込み、夫差を骨抜きにすることで越への警戒を解いたという話すらある。
しかし、その裏では薪の上に寝たり、苦い肝を嘗めたりする…後の世で言う臥薪嘗胆をすることで、夫差への復讐を誓っていた。
伍子胥は、勾践のあまりにも殊勝な態度が演技であることを見抜いており、夫差にそのことを忠告するも、夫差は
「もはや越は呉の属国も同然となったのだ。伍子胥よ、臆病も大概にしたまえ」
とばかりに笑って、まるで聞き入れようとしなかった。
この件を皮切りに、両者の仲は徐々に、しかも修復不可能なほどまでに悪化していく。


伍子胥、死を賜る

夫差11年(紀元前485年)3月、斉の悼公が殺害されて、その後の政情が不安定なことを知ると、夫差は斉への侵攻を画策した。伍子胥は
斉は皮膚の病、越は内臓の病(=今の斉の置かれた状況は皮膚の病のように目につきやすいですが、我が国の従属国たる越の存在は、内臓の病のように目に見えず厄介なものです=今は潜在的な越の問題をどうにかするべきです)
と進言した。
しかし夫差は、伍子胥の進言を無視して斉を侵攻した。
しかも「艾陵(現在山東省斉南の南方)において斉軍を撃破した」という成功体験を得たことで、なおさら伍子胥の進言を無視するようになった。
また、かねてより伍子胥のことをよく思っていなかった宰相・伯嚭(はくひ)*6へ越から高額な贈賄が送られて買収されたことにはじまり、あの手この手で伍子胥と夫差の関係を悪化させるような動きがみられていた。
これ以降、夫差は中原制服の為に戦費や外交費を浪費し、さらに出兵やそのための徴税によって国民は疲弊し、呉の国力は落ちていった。


夫差12年(紀元前484年)。伍子胥は、斉に使者として赴いた際に息子・伍豊を斉の鮑氏に預けたが、先王・闔閭からの多大な恩を忘れられなかった自身は単身、呉に戻った。
これが問題視され、この件に便乗した伯嚭が
「伍子胥は横暴で、王からあれほどの御恩を受けたにも拘わらず、王に恨みを持っております。このまま何もしなければ、いずれ伍子胥は謀叛を起こし、この国に大いなる災いを招くでしょう。今こそ、あの裏切り者を除くべきです」
と讒言した。
このため、伍子胥は「反逆罪」の罪状で夫差からすべての官位を剥奪され、登城禁止処分が下り、謹慎生活を余儀なくされた。
そうしてある日、伍子胥は使者から名剣・属鏤(しょくる)を賜った。
早い話が、「これでお前の首を切って死ね」という意味である。
伍子胥は
「ああ、あなたは奸臣・伯嚭の口車に乗せられてしまったのか?俺はあなたの父君を覇者とし、父君の後釜をめぐって諸公子が争っている時、俺はあなたを後継者として推薦したではないか。あなたが先王の後継者と確定した際、あなたは俺に『呉の領土を分けてやろう』と仰せになったが、俺はあなたが良き王となり、この国をよりよくしてくれることを期待したからこそ、それを断り、あなたに今日まで忠実に臣下の礼を尽くしてきたではないか。それなのに、なぜ『死ね』と命じられねばならないのだ?」
と嘆いた。そうして、
「俺の墓の上に(あずさ)の木を植えろ。それはやがて、夫差が入るのにちょうどよい棺桶の材料になるだろう。そして、俺の目をくりぬき、東南(越のある方角)の城門の上に置け。越が呉を滅ぼすのを、この目でしっかりと見届けてやる」
と言い残し、属鏤で己の首を刎ねて果てた。


その後

伍子胥の死と最期の言葉は、使者を通じて夫差に届けられた。
前述の「呪い」ともとれる伍子胥の言葉に夫差は激怒し、伍子胥を埋葬することや伍子胥の墓を建てることを禁じ、家臣に遺体を馬の革袋に入れ、呉淞江という川に流した。
だが伍子胥の遺言は的中し、伍子胥の死から9年後、越の軍は呉に侵攻した。
伍子胥の死の遠因となった宰相・伯嚭はかつて越に賄賂で買収されたことが危険視され、「悪臣」の見本として捕らえられ、斬首となった。
一方で夫差は都の姑蘇の近くの山・姑蘇山の山奥に逃れた。勾践は当初、辺境に島流しにしつつも、自身の家臣とすることで夫差の命を助けようとした。
しかし、夫差は
「私は年老いました。とてもとても、君主にお仕えすることはできません」
とこれを固辞した。
そうして、家臣に自身の顔に目隠しをするよう頼み、
「私の死骸に固く目隠しをしてくれ。私はもはや、あの世で伍子胥に合わせる顔がない」
と言いながら、自ら首を刎ね、伍子胥に詫びつつ死んでいった*7
かくして呉王夫差が死によって自ら諸王の座を辞するような形で、春秋時代の中でも大国であった呉は滅亡したのであった。

呉に忠実に使えたにもかかわらず、最後は自身を快く思わない家臣の讒言で主君から死を賜り、その遺体すら呉淞江に捨てられて埋葬されなかった伍子胥を人々は憐れみ、その川のほとりに祠を建てて、「胥山」と命名した。
そうして、現在に至るまで彼の忠義と正義は称えられているのである________。


評価

伍子胥の評価に関していえば、「賛否両論」と言ったところである。
司馬遷は、『史記』の「伍子胥列伝」の終盤で、「人から恨みを買うことの恐ろしさ」を指摘するとともに、物乞いをしたり、病気で生死の境をさまよったり、ストレスで毛髪があっという間にすべて白髪になるほどの極限の困難の中で目的を達成した伍子胥の執念と能力を「烈丈夫」という言葉を用いて高く評価した。
しかし、その激情的なふるまいについて批判する史料もある。
例えば、同じ『史記』の「伍子胥列伝」でも旧友・申包胥が伍子胥の「平王の遺体を鞭で300回打つ」という行為を「君の行為はやりすぎだ」と批判しているし、『春秋穀梁伝』の「定公四年」の項目においては、「子胥の復讐は、君臣の礼に違い、王の(つか)えるの道を失う」という記述がなされ、「君臣間の礼儀というものを全く無視した、行き過ぎた復讐である」と指摘されているのである。
確かに、彼は父と兄の仇に復讐を果たし、そうして呉の忠臣となってその生涯を送った。そのことは評価されつつも、儒教の教えを大切にする人々の目には、「かつての仕官先の国を滅亡寸前にまで追い込み、その際にかつての主君の墓から死体を引っ張り出し、それを何度も鞭で打ち据えてボコボコにした」という死体蹴りも同然の行為は、どうしても多少なりとも嫌悪感や抵抗感を抱きやすいものとして写ってしまうのだろう。



創作界における伍子胥

意外な事に、現在に至るまで「三國志」シリーズへのゲスト参戦は未経験。

セガの大戦シリーズの流れを組む 「英傑大戦」 では第3弾から勢力に追加された。
同僚の孫武、主君の闔閭・夫差と仲良く同じタイミングとなっている。
CVは内山昂輝氏。孫武とのコンビも意識してなのか、意外にも若いイメージとなっている。
しかし台詞は完全に復讐者のそれ。さすがは中国史上屈指の復讐鬼。贈り物会話では自身の事を「残忍で卑劣な獣である」と言っている。

レアリティは最高ひとつ下のSR。最高レアリティであるERは孫武に譲っている。
なお、闔閭はRで夫差に至っては仮にも臥薪嘗胆の逸話があるにもかかわらず最低レアリティのNである
おまけに後から出てきた魚屋(R)にまでレアリティで負ける始末

3コストの槍兵で、武力10を持ちながら知力もやや高めの6備えた優秀なスペック。
その代わり、特技は一切持ち合わせていない。

計略は「不倶戴天」はため計略*8となっている。
武力と移動速度が上がり、撃破した敵の復活時間を伸ばしてしまうまさに死体に鞭打つ彼らしい効果となっている。
低い消費士気に対して高い効果を持っているが、ため計略特有の「ため中は無防備」と言う欠点には注意。
その性質上瞬間的な対応には向いていないため、味方との連携が非常に重要になる。復讐はひとりではできないのだ。

群雄伝(ストーリーモード)では越伝で敵として登場。
勾践の代の話=復讐を終えた後のためか、復讐者ではなく呉の忠臣としての面が強調されている。
戦闘台詞はいつも通りだが。


追記・修正は家族の復讐を成し遂げてからお願いします。

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最終更新:2026年07月17日 17:34

*1 3年間無能なふりをすることで家臣たちの反応を観察し、彼らの人となりを見定めていた「鳴かず飛ばず」の故事で知られる

*2 君主の先生

*3 副侍従長。太傅より地位が低い

*4 なおこの時、当時王位についていた昭王(亡き平王とその側室・伯嬴との間の子)は郢を脱出し、随に逃れた

*5 伍子胥の生きた春秋戦国時代当時は現在の河北省一帯を指したが、漢民族が勢力を拡大すると黄河中下流域を指すようになり、華北平原を指すようにもなった

*6 かつて伍子胥とともに戦い、「柏挙の戦い」で楚の都を陥落させた

*7 なお、『春秋左氏伝』では伍子胥のことは触れずに「『私は年を取って、あなた(勾践)にお仕えすることはできない』とのみ述べ、首をくくって死んだ」とされている

*8 計略ボタンを押すと溜めを開始し、一定時間後に発動する