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「人その友の為に己の命を損なう 此より大なる愛はなし」〜ヨハネ伝第15章第13節〜
荻野吟子(1851〜1913年)
画像出典∶wikipedia「荻野吟子」より抜粋
概説
近代日本初の公認女性医師。
医師だけでなく、婦人解放運動や衛生知識の普及にも大きな足跡を残している。
生涯
誕生
嘉永4年(1851)3月3日に武蔵国幡羅郡俵瀬村(現在の埼玉県熊谷市俵瀬)に、代々苗字帯刀を許された名主の荻野綾三郎、嘉与の2男5女の末っ子として生まれる。俵瀬村は徳川直轄の支配下である。
父は名主として父親として村の若者や子どもたちに学びの機会を与えようと儒学者を招いて講義を行わせたが、兄たちが熱心ではなかったのに比べ、吟子は学問に興味を示し、才能が開花すると、地元の儒学者から「彼女の才能はお金で買えない価値がある(意訳)」と評されるようになった。
慶応4年(1868)、武蔵国北埼玉郡上川上村(現在の埼玉県熊谷市上川上)の名主・稲村貫一郎と結婚する。貫一郎が1つ上である。当時は周りから玉の輿と羨ましいがられたのだが、3年後の明治3年(1870)に離婚する。理由は貫一郎が吟子に淋病をうつしたからである。子供が産めなくなったといわれ、稲村家も申し訳ないと感じたのか、吟子を貫一郎の妹分として扱うことを確約し、円満な協議離婚といわれている。
診察と入院のため上京し、大学東校の付属病院に2年ほど入院。後に人生最大の屈辱と記すほどの出来事に遭遇する。淋病に感染した下半身をさらけ出して見知らぬ男性医師や助手に診察されたのである。吟子はこの出来事を「地獄でした。視線を向けられるたびに心が死んでいくようでした。女性の医者がいればどんなに楽か…力のない私がどんなにミジメか痛感しました(意訳)」と語る。この体験が吟子を医師の道へとかき立てる原点になった。
医師への道
退院後、私のような人を作らないためには女性の医師が必要。いないなら私がそれになると決意。医師になるための基礎学力を身につけるため、地元の儒学者・松本万年、国学者・井上頼國に学び、井上の紹介で甲府で内藤ますが主催する「内藤塾」に助教として務めた。
明治8年(1875)6月、甲府に建てられた女性向けの私塾。女子の教育・文化向上に貢献。塾の経営だけでなく、遊郭の娼妓への読書・裁縫の指導、甲府監獄での服役者への教戒(道徳・精神的指導)など、幅広い社会活動・救済に尽力した
明治8年(1875)11月29日に創設された東京女子師範学校(後のお茶の水女子大学)の1期生として入学したが、親は受験に反対していた。授業料は国から免除されていたが、生活費は自力で工面しなければならず、姉たちや奥原晴湖が生活費を出して、明治12年(1879)首席で卒業。
卒業前に医師になりたいと進路を教師の永井久一郎に相談したところ、永井は旧知で軍医の石黒忠悳宛の紹介状を記し、吟子は石黒と対談した。
吟子主観「石黒さんに医師になりたいキッカケを話したら賛同してくれた。医師としての勉強が出来る学校を斡旋してくれた(意訳)」とある。
石黒主観「西南戦争で負傷者やら腸チフスがまん延していたのに加え、上海からコレラが流行しているといわれた。水際対策で臨検しようとしたらイギリスがゴネて、コレラが日本にまん延した。今回=西南戦争は何とか乗り切ったが、いつまた伝染病や医師不足による医療崩壊が起きるか分からない。出来る子は男女問わず西洋式医師にして医療大国にする(意訳)」と現場のリアルな体験から来ていた。吟子のヤル気に賛同し、「医術開業試験」に合格するために科目を教えて受け入れてくれる学校を探してくれた。
現代につながる医師制度のハシリになるのが明治7年(1874)8月18に制定された医制である。
文部省が東京府、京都府、大阪府の三府への達という形で発布された、劣悪な衛生環境や医師の技能不足を改善するため、医学教育や開業免許など衛生行政全般を定めた。医療制度や衛生行政に関する各種規定を定めた法令である。
医師になるための試験が「医術開業試験」。
医師免許は、医術開業試験合格者の他、西洋医学を教授する医学教育機関の卒業者(大学など)に対しては無試験で与えられた。
試験は年2回、全国数カ所の試験場で実施。
受験資格は1年半以上の「修学」履歴が必要だが、年齢制限、性別制限はなかった。
試験内容が前期と後期に分かれ、前期試験は物理学、化学、解剖学、生理学が行われ、これに合格すると、後期試験に進み、後期は外科学、内科学、薬物学、眼科学、産科学、臨床実験などが行われたが医学用語がドイツ語を土台とするため、ドイツ語の能力などが求められた。
合格率は前期・後期ともに約10%前後と非常に狭き門で、合格に費やす期間が「前期3年、後期7年」と言われるほどの難関であった。ついでに学費もかかるので、金持ちの親に学費を出して貰うか、バイトで学費を稼ぐなどしなければならなかった。
受験のため、多くの受験予備校が生まれたが、そのうちのいくつかの予備校が後の私立医学専門学校・私立医科大学に発展した。
後に大学卒業者による医師が充実すると、この試験そのものに不要論が出てきて、大正5年(1916)医術開業試験が廃止された。以降は、日本の医師養成制度は「医科大学/医学専門学校の卒業者に無試験で医師免許を与える」と定めた。
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指導で現行制度は昭和21年(1946)に開始された。
石黒が探してくれた学校は侍医の
高階経徳が主宰する私塾・
好寿院。明治12年(1879)に特例で入学したのだが、当時の医学校で学ぶ男子学生の雰囲気というのか、
「
医学は神聖な聖域であり、女性がそこに入るのは、場が穢れる(意訳)」
「
女性と一緒に学ぶと色香に惑わされ、気が散る(意訳)」
というモノ。
医学は土俵か?
吟子は自伝の中で授業時は男装しながらも、3人の男性に囲まれて
レ◯プ未遂を受けた事があるとか、女子トイレがないので、男性用大便器で排泄しようとすると、その場を覗かれていたとか、キツい嫌がらせを受けたと記している。
吟子が取った報復手段は学業で結果を残す、であった。事実、姉たちの仕送りと家庭教師のバイトで学費や生活費を稼ぎながら、明治15年(1882)に上位の成績で好寿院を卒業した。吟子にしてみれば、人をイジメる暇があるなら勉強せんかい!!と言いたげである。
卒業したら次は医術開業試験なのだが、東京府に医術開業試験の願書を提出したが、かつての日本に女医は一人もおらず前例がないことにより、門前払いで却下、翌年も同様であった。埼玉県にも提出したが(ry
この頃の心境を吟子は
「願書は二度提出したが、二度とも却下されてしまった。思うに、私は生まれてからこれほど困窮し、追い詰められたことはない。おそらく、今後もこれほどの苦しみはないだろう。時はちょうど初秋の暮れがた。垣根のキクの花は綾織物のようにつややかに咲き誇り、数多くの木の枝は紅葉の錦をまとっている美しい季節だ。しかし、気候は寒く、霜の気配が屋根瓦を押し包むほど冷え込んでいる。それなのに、この着物の薄さ、身の凍えるような寒さを、誰も聞いてはくれない。満月が輝き、秋の風が吹き抜ける中、私は一人、切なく沈んだ気持ちで高い丘に登った。見下ろせば、都にある何万もの家々から夕飯を炊く煙が賑やかに立ち上っているが、その中に、私のために一杯の飯を恵んでくれる家など一軒もないのだ。…親戚や友人たちからの嘲りや罵りの言葉が一斉に私に向かって湧き起こり、進退極まる状態となり、あらゆる手段を使い果たしてしまった。体は痩せ細り、骨が浮き出るほどに衰え果てたが、私の心はいよいよ激しく燃え上がっている。見よ、
私のこの逆境こそが、大きなエネルギーを生み出すのだ(意訳)」と雑誌の取材で答えている。
開業への思いは強く最後の手段として外国での資格取得も考えていたようである。
捨てる神あれば拾う神というが、途方に暮れていた吟子に救いの手を差し伸べた人物がいる。
横浜の実業家・高島嘉右衛門である。吟子は好寿院時代のバイトで高島の弟である高島徳右衛門の娘・はな子の家庭教師を務めていた。吟子が何故こんなに苦労しているのか?と気になり、調べたところ、試験を受験出来ないという理不尽に高島が憤り、友人で吟子の師匠でもある井上頼國に頼んで、古代からの女医の史実を調査してもらい、この資料を添えて内務省衛生局局長・長与専斎への紹介状を吟子に持たせて紹介。
かつて、吟子も好寿院に入る際にいろいろの書物を捜した末『令義解』という奈良時代の書物に、日本でも古代から女医らしい者があったことを強調し請願をしたそうである。
吟子は医術開業試験には年齢制限、性別制限はないのに、受験出来ないのは話が違うと石黒忠悳に訴え、石黒も男尊女卑のプライドを守って医療崩壊とか本末転倒も甚だしいと、衛生局へ行き、長与に会うと、女は困ると話す。石黒は「女が医者になってはいけないという条文があるか。無い以上は受けさせて及第すれば開業させてもよいではないか。女がいけないのなら、『女は医者になるべからず』と書き入れておくべきだ(意訳)」と目先の男尊女卑より将来の医療崩壊を心配しろや!と長与に強く迫り、「もし、この先、医師不足で医療崩壊が起きたら、お前の責任だからな(意訳)」と話し、長与が折れた。
明治17年(1884)に女性の受験が認められ、同年9月の前期試験に他の女性3人とともに挑戦し、吟子のみが女性で唯一合格。明治18年(1885)3月の後期試験を受験し、合格。同年5月、本郷湯島(現・文京区)に診療所「産婦人科荻野医院」を開業。34歳にして、近代日本初となる公認女性医師の誕生である。女医を志して15年が経過していた。そのときすでに父はもとより、母も前月に他界していた。
試験に臨んでは「試験を目前にして私はとても緊張した。度重なる請願の却下と落胆の大きさにより受験の準備に力を入れることができなかった。しかし、めぐってきたこの機会に自分がもし落第するならば、幾度にもわたる請願で驚かせた内務省に対して、そして、私につづく後進姉妹にも大きな影響を与えてしまうだろう。今後女子教育が盛んになるのか、日本の女子が元気を得て活躍できるかは、私が合格するかどうかにかかっている(意訳)」と雑誌の取材で答えている。
新聞などマスコミも女に医者はムリだと散々酷評しておいて、吟子の医院が繁盛すると手のひら返しで絶賛していた。しかし、明治は令和の現代と違い、診療報酬や保険が未整備な時代。医療費も全額自己負担となる当時の医療で吟子の医院は序盤こそ順調な出足ながら、そのうち、客足もまばらになると、再び、女に医者はムリだと酷評された。このあたり、医者としての腕前と経営者の手腕を両方持たないと、開業医は務まらないという開業医あるあるなのだが、吟子にもそれは当てはまるようである…
再婚
明治19年(1886)には、アメリカ人の社会活動家マリー・レビット夫人が来日し、患者の貧困や社会習慣等の問題を感じるようになり、東京キリスト教夫人矯風会の立ち上げに参加する。そこからキリスト教に興味を持ち、本郷教会の牧師・海老名弾正から洗礼を受け、キリスト教に入信した。
翌年、大日本婦人衛生会の立ち上げに参加し、明治21年(1888)には幹事に選出された。吟子はここで廃娼運動を手がけるようになる。最初の結婚生活の破綻が性病感染によった経験から来る医学的見地から、女性の尊厳を守ろうとしたからである。
この頃、上記の内藤ますと再会し、貧しい女性の地位向上には教育が必要不可欠と共鳴し、女性の更生施設を作ることに奔走している。
明治22年(1889)には明治女学校にて生理・衛生を担当し、校医を務めた。
明治23年(1890)11月25日、熊本県の志方之善の生家にてアメリカ人宣教師・ギューギ司会の下に再婚。吟子が40歳、志方が26歳。2人を橋渡ししたのは大久保進次郎夫妻である。
夫は同志社卒業のクリスチャンで医者としても東京医学校で学んで、志方もクリスチャンである。妻は吟子と廃娼運動で知り合った。
2人が引き合わせたのだが、夫妻は媒酌人を断り、海老名も反対した、とある。
明治24年(1891)5月、キリスト教や理想社会を求める互いの熱意に共感し合って幸せな新婚生活であったのも束の間、夫の之善はキリスト教徒の理想郷をつくるという信念から同志とともに利別原野開拓のために吟子を残し単身で北海道に渡る。
同年10月28日の岐阜県・濃尾大地震では、女子の孤児たちを保護するために立ち上がった石井亮一に賛同し、吟子は荻野医院を子供たちのために開放、自らも孤児たちの世話を行った。
明治25年(1892)、吟子は明治女学校の舎監に就任。明治27年(1894)6月、吟子は明治女学校を退職して、夫を追いかけて北海道に渡る。夫はこの頃、北海道瀬棚郡今金町に土地を購入し、開拓に励んでいた。夫はここにキリスト教徒にとっての理想郷を作ろうとしていたのだが、明治28年(1895)に未開拓地を北海道庁に返納、明治30年(1897)には一般移住者への開放、キリスト教徒内で派閥争いが起きて内部はガタガタと、結果は敢え無く挫折。
吟子はこうしたゴタゴタに嫌気が差し、明治29年(1896)に国縫、翌年2月には会津町に移り、診療所「荻野医院」を開設した。当時の会津町はニシン漁が盛んで景気は良かったが、吟子の医院は話題にはなっても景気は悪いのである。この年に之善の姉の子トミを養女とする。
明治36年(1903)、夫は京都の同志社に再入学すると言って姿を消した。吟子は京都に行かず、北海道で自立しようと瀬棚の医院を閉鎖し、札幌に移り医院を開業、北門新報に札幌での開業広告を掲載するなど精力的に活動するが、体調不良となり、同年4月17日、故郷熊谷に戻り、姉・友子の介抱により療養している。一旦、東京に出るも、再び体調不良となる。明治38年(1905)7月、体調も戻り、瀬棚に戻る。
最期
夫は明治37(1904)に同志社を卒業して牧師になり、北海道浦河に赴任して布教活動に励むが、体調不良で翌年瀬棚に戻る。その後は闘病生活が続き、吟子と再会した後、同年9月23日に病死した。享年42歳。
その墓は今金にある。
吟子はその後3年間、瀬棚で過ごし、診療をつづけた。
明治41年(1908)11月、瀬棚の地を離れて東京市本所区小梅町(現・東京都墨田区向島)に移り、再び開業する。姉たちから強く要望されたからといわれる。
大正元年(1912)、志方姓から荻野姓に改めている。翌年、3月23日に肋膜炎を発病、6月23日に亡くなった。享年62歳。
吟子の墓所は東京都の雑司ヶ谷霊園にある。
荻野吟子賞
「さいたま輝き荻野吟子賞」というのが平成17年度に創設され、埼玉県では、吟子にちなんで男女共同参画の推進に顕著な功績のあった個人や団体、事業所に贈られた。令和3年度からは「埼玉県荻野吟子賞」と改められた。
アニヲタ的には
岡田麿里氏が令和元年度に「きらきら輝き部門」で受賞している。
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荻野吟子が登場する作品
- ポーラ名作劇場『花埋み』(1971年 ANN系列テレビドラマ 演∶大空真弓)
- 『一粒の麦 荻野吟子の生涯』
(2019年 映画 演∶若村麻由美)
追記、修正をお願いします。
最終更新:2026年09月28日 01:25