天武天皇

登録日:2012/02/17(金) 19:53:29
更新日:2024/10/28 Mon 22:07:40
所要時間:約 7 分で読めます




天武天皇とは7世紀の日本に実在した人物。
皇太子時代は大海人皇子(おおあまのおうじ)と呼ばれていた。
兄は大化の改新の立役者にして天皇にもなった天智天皇であり、正妻は天智天皇の娘である鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)で、彼の死後には彼女が持統天皇として後を継いでいる。


●人妻ゆゑに
さて、天武天皇の逸話として有名なものとしてある歌が残されている。

ある日、天智天皇は皇太子である天武天皇(この頃は大海人皇子と呼ぶべきか)や群臣を連れて薬猟に出かけた。
薬猟とは早い話ピクニックのようなものだと思ってもらえれば大丈夫。

その一行の中に額田王(ぬかたのおおきみ)という女性がいた。
この額田王は小説などではよく美女として描写されるが、実際にどうであったかは諸説ある。まあ、美人だった方がこの後の展開にロマンが出るのだが。

この額田王が薬猟の中で大海人皇子に以下のような歌を詠んでいる。

「あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る」

これに対する大海人皇子の返歌がこれ。

「紫草の 匂へる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに われ恋ひめやも」


これを意訳するとこんな感じになる。

「あん…駄目よこんな所で誘うなんて……野守さんに見られちゃう……///」

「君が美しくて好きなんだ。人妻だけど辛抱堪らない。」

これで大方察しがつくことだろう。
この歌は二人の不倫関係について歌っているのだ。











実を言うとこの二人、夫婦である
夫婦である


大事なことなので2回言いました。

( ゚Д゚)

(゚Д゚)

訳が分からなくなってきた人も多いだろう。
何で夫婦がわざわざ人妻だのなんだののたまうのだろうか。
新手のプレイか何かとさえ思えてしまう。


三角関係
これを解決するために、「野守は見ずや」の部分に注目してみよう。

野守とはつまり見張りのことを意味する。
もし野守が何かを発見した場合、当然上司に報告するだろう。
その報告は段々と上に伝わっていき、最終的には一番偉い人に報告がいくはずである。
では今回の薬猟において一番偉い人は誰だっただろうか?

当然、天智天皇その人である。

つまり、実質的には野守ではなく、天皇に見られたら困るような関係ではないかと推測された。
ここからある仮説が導き出される。

額田王は元は大海人皇子の妻であったが、後に天智天皇の妻となる。しかし、その後もなお大海人皇子と額田王は恋仲が続いていた。
つまり、天皇とその弟が1人の女性をめぐって争うという三角関係であったとする説である。


●宴会の席での座興
やたらとドラマチックな三角関係説であるが、学説では多くの学者がこれに異論を唱えている。

その理由としては、この歌が万葉集の雑歌という分類に収録されていることが挙げられる。
通常、恋人同士が送りあった歌であるならば相聞という分類に収録されるはずであるからだ。
また、そもそも天皇に隠れての恋仲という超ド級スキャンダルがなんで公に万葉集に収録されているんだという突っ込みもある。

このような反論に対応する形で唱えられている説が、この歌は宴席での座興目的のものだったという説である。

「天皇が参加する行事では天皇が最も偉いのは当然のこと。だからこの行事中はこの身は天皇のものなの。
駄目…いくらあなたでもこんな所でラブコールを送られたら困っちゃうわ。」

「あかねさす~」の歌にはこのような意味があるという。
要は天皇をヨイショし、場を湧かせようというものだというのだ。

大海人皇子の方もこれに乗る形として、「人妻だけど好きなんだ」というユーモアで返したということのようだ。

一見すると夫婦で不倫という奇妙奇天烈な状況のようだが、このような背景があったということらしい。


●なぜこのような歌が詠まれたのか
ここまでの話を聞いて、大海人皇子がやけに卑屈な態度であると思った人もいるだろう。
三角関係説に立てば、妻を寝取られているのにもかかわらずなおも兄に従っていることになる。
座興説に立てば、妻に自分の身を売るような形で天皇に媚を売らせ、さらには自分もそれに乗っかっている。
どちらにしても、ある種自らの妻を兄に差し出しているような形となる。

なぜここまでの行為をしたのだろうか。
これには天智天皇の後継者についての問題があった。


元々天智天皇と大海人皇子の兄弟仲は良好であったとされている。
大海人皇子は大化の改新を断行した兄を尊敬して献身的にサポートを行い、兄の方もそんな弟に全幅の信頼を置いていたようだ。
その証拠に天智天皇は13年間に渡って左大臣の地位を空位にし、実質的に大海人皇子を左大臣格として遇している。
天智天皇の後継者としても大海人皇子は筆頭候補であったようだ(当時は皇位は兄弟間で継承するのが普通だった)。

その状況が一変したのは671年。
天智天皇の息子の大きなお友だ…大友皇子が太政大臣の位につき、新たに左大臣が任命されてからである。
大海人皇子のために空位が続いていた左大臣に人を配し、その上の役職として太政大臣という役職を作って息子に与えたのだ。
これを天皇の心変わりと見ても無理のないことだろう。

ここにきて後継者レースで大友皇子に一歩劣る形になってしまった大海人皇子。
だが、大化の改新の立役者で強大な権力を有していた兄に逆らったとしても早々に負けることは目に見えていた。
そこで大海人皇子は表面上は大友皇子の太政大臣就任を歓迎し、自らは仏道に励んだ。
先程の歌が詠まれたのもこの頃である。


その後、大海人皇子に千載一遇のチャンスがやってくる。
重い病にかかった天智天皇が後継者として大海人皇子を指名したのだ。
皇子にしてみれば待ちに待った機会である。

のだが。






ここまで耐え忍んできた大海人皇子はかなり用心深くなっていた。
兄の申し出が自分を試していると考えたのだ。
後継者としては大友皇子が一歩リードしていたはず。もしここで申し出を受けたら謀反を考えているとして殺されてしまうのではないか。
そう考えた大海人皇子は申し出を断るとそのまま出家、吉野に引きこもってしまうのだった。

結局天智天皇の後は大友皇子が継ぐことになったのだが、新興豪族たちを中心とした勢力が大海人皇子の元に集まり決起。
叔父と甥との間で戦争が起こってしまう。有名な壬申の乱である。

古代日本最大の戦いとも呼ばれる激戦となったが瀬田橋の戦いにて大友皇子側が大敗、そのまま大友皇子が自決したため*1大海人皇子側の勝利となった。
ちなみに大友皇子は「大海人皇子と額田王の娘」十市皇女を娶っていたのだが、彼女は難を逃れ父の元で生涯を終えた(『火の鳥 太陽編』では夫に殺されたが)。

その後大海人皇子は即位し天武天皇と名乗ることになり、
壬申の乱で乱れた秩序の回復と、天智天皇が推し進めた中央集権体制をより強化する形での改革を進めていくのであった。


●余談
学者の間では否定論が広まりつつある三角関係説であるが、世間では未だにこちらを知識として記憶している人が多く、
創作作品ではもっぱらこちらが題材とされることが多い。

何せ展開がすごくドラマチックなのだ。
美しい才媛を巡って天皇とその弟が争うという展開はいかにも大衆受けしそうなロマンに満ち溢れている。
そのため、古典ファン、特に女性の古典ファンの間でも根強い人気を誇っている。

あまりの人気っぷりのため、

  • とある学者が「額田王はよく美女って言われるけどぶっちゃけ根拠ないんですよね」という旨の発言をしたところ、逆上した聴衆に詰め寄られた
  • 別の学者が「額田王をめぐる三角関係は実は史実ではないかもしれない」という発言を講演で言ったところ、
    講演を聞いていた婦人が泣きながら撤回を要求してきた

などの逸話が残っている。

またここまでの話は全て「大海人皇子は天智天皇の弟である」と言う前提に立っているが、
「実は生まれた年が不明」・「いくら古代でも姪を何人も嫁にするか?」・「そもそも何で娘と結ばれていた甥を倒したんだ?」等の疑問から

『実は兄弟の順は逆だった』
『そもそも天智天皇と天武天皇は兄弟ですらない』
等と様々な説が論じられている。



追記・修正お願いします。

この項目が面白かったなら……\ポチッと/

+ タグ編集
  • タグ:
  • 歴史
  • 人物
  • 天皇
  • 不倫
  • 天武天皇
  • 三角関係
  • 用心深い
  • だいかいじんおうじ(大怪人王子)
  • 大甘
  • 近親相姦
  • 日本史
  • 大海人皇子
最終更新:2024年10月28日 22:07

*1 1000年以上後の明治時代、その悲劇的最後と「正式即位してたかも」説から「弘文天皇」の名を贈られた。