富田長繁

登録日:2011/09/10 (土) 07:16:05
更新日:2024/02/11 Sun 04:12:21
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天文二十一年(1551年)~天正二年2月18日(1574年3月11日)迄を生きた戦国時代の武将。
別名 弥六郎、長秀、越前の狂犬

富田吉順の子供として産まれ、越前朝倉氏の家臣を勤めていた。
元亀元年(1570年)4月に越前に侵攻した織田信長の討伐を命じられやる気なく約1000騎を率いて出陣する。

が、

元亀三年(1572年)8月、織田軍と朝倉軍が睨み合っている中、
元主君である朝倉義景に恨みを抱いていた前波吉継に続き自身の右腕である毛屋猪介戸田与次郎と共に意気揚々と寝返り、
長秀から長繁に改名する。

織田軍に降りた後は朝倉の背後を突いたり、秀吉の援軍として颯爽と登場したりと縦横無尽の働きをし名を挙げる。
その働きもあってか越前朝倉家は天正元年(1573年)に滅亡し、越前は前波吉継改め桂田長俊が治めることとなる。
この改名は信長の命であったらしく、生き残っていた朝倉一族も全員城名を姓とさせられている。
長繁は府中領主に就き、同年9月、10月に起きた長島一向一揆を鎮圧するなどの働きをした。

だが桂田長俊との織田家からの待遇の差が、「越前領主に俺はなる」という野望を持つ彼には非常に面白くなかった。
それに感づいたのだろうか桂田は彼の部下の領地の削減を提案したり、「こいつの府中支配は信長様にいずれは害を齎すことになります」と訴訟を起こし、
両者の仲は非常に険悪な物になっていった。

桂田が目を病んだことを知り同年、軍事活動をする準備を始めると来たる翌年の天正二年(1574年)1月18日、

ヒャッハー!

圧政に苦しむ民を扇動して土一揆を起こす。その軍勢は翌日には三万人にも達し忽ち桂田を殺害した

20日には逃げる途中であった桂田の家族を皆殺しにした。
桂田は病により失明していて戦える状態では無かった。

また勢いに乗った一揆を率いて北ノ庄の代官達の務める館を襲撃。
代官達を捕縛したが朝倉景胤達の説得により殺すのを止め追放処分にし、その後、館の守備役を毛屋猪介に任せる。

1月24日、情け深いことで知られ、自身と同じく朝倉家に仕えた魚住景固を朝食に誘う。

食事が終わり酒を飲み交わした後、長繁は
「まずうちにさぁ…秘蔵の太刀があるんだけど…見ていかない?」
と提案する。
「あ~、いいっすね~」
そう答えたのが魚住の運の尽きであった。
何も疑わずにホイホイついていった結果、

いきなり切り掛かってきたのだ

目を患っていた魚住は首を切り落とされ呆気なく死亡。その場に居合わせた魚住の次男が応戦したがこれも切り伏せる。
翌日魚住の館に襲撃し魚住家は滅亡した

魚住家の勢力拡大を危惧した上での行動であるが、自身に敵対していない相手に対してこの対応なのだから恐れ入る。

また弟を岐阜へ質に送り信長に越前守護の朱印状を要求した。
「朱印状貰ったぜ、ヒャッハー!」
と言っていたらしいが真偽は不明である。
まあ越前混乱の原因に信長がそんな物渡す訳は無いだろうが

勿論、仁者であった魚住へのこの暴挙は民衆の不満を招くことになる。
自身の領民への配慮の拙さで一揆勢の長繁への反感は更に加速した。

そこには長繁討伐の名目で集まった一揆勢力が十四万人もいた

自身の部下である毛屋や増井がぶち殺される中、窮地に立たされた長繁は「このまま一揆をのさばらせておくのは無念である」と突撃する。
樊カイ(中国の猛将)に匹敵すると呼ばれるに相応しい戦いをし、約700騎程度で三万人の一揆集を相手どり二千人から三千人を討ち取る。

これで調子づいた長繁は増員しながらもまだ無勢である自軍で残りの一揆衆を追い回し、結果一揆衆は蜘蛛の子を散らすように逃げていった。

だが何をトチ狂ったのか味方である朝倉景胤の軍に突撃する。
その様子を越州軍記ではこう記している。
「葉武者には目もくれず、まっしぐらに景胤の本陣目掛けて切りかかった。」
どう見ても殺る気です、本当にありがとうございました。
まあ一揆集と戦った後で疲労困憊していた長繁の軍にそこまでの余力が残っているはずもなく魚住の再現には至らなかった。
そして2月18日、再度景胤のいる山頂に襲撃をかけようとする。
しかしこの頃には味方も主君の横暴に飽き飽きしていたらしく背後から部下の小林吉隆に鉄砲で撃たれて死亡することとなった。享年24歳。

主君を裏切り、上司を裏切り、味方を裏切った男の最後は皮肉にも部下に裏切られるという物であった。



戦国ちょっといい話・悪い話スレではそのイカレようから狂犬、ナチュラルボーンヒャッハーという名で呼ばれ、
鬼武蔵こと森長可と引き合いに出される。
早死にしなければDQN四天王に匹敵するほどの武勇伝を聞けただろう事を惜しむ人もいる。
また彼と関わった人間が悉く不幸になっているので歩くデスノートとも言われる。
大名家が滅んで改名させられながらも未だ多数残っていた織田(おた)景綱なんかの越前朝倉氏の一門も、この大暴れと後の信長による仕置きで壊滅的被害を受け後の世から姿を消している。



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