トゥーラ造兵廠

登録日:2025/08/04 Mon 20:21:40
更新日:2025/08/06 Wed 21:33:01
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概要

トゥーラ造兵廠はロシアのモスクワ南部に位置するトゥーラ州にある造兵廠である。
専門の開発部門であったKBP(機械/装備設計局)とTsKIB SOO(中央スポーツ・狩猟用兵器設計局)は分化されて別会社となっているが、本稿でも解説する。

製品にはTOZ(Tulsky Oruzheiny Zavod/トゥーラ造兵廠)/MTs(Model TsKIB SOO/TsKIB SOO 民間モデル)/OTs(Obrazets TsKIB SOO/TsKIB SOO 軍用モデル)/TKB(Tul'skoye Konstruktorskoye Byuro/トゥーラ設計局)の名前が付く。



歴史

16世紀ごろからデディロフカにいた鍛冶屋らを移住させる形でトゥーラ州に兵器開発拠点が集まり、私設工場などが立ち並ぶようになった。
1712年、ピョートル1世が国営として取りまとめる形で現在につながる造兵廠が設立。同時期にはセストロレツク造兵廠などとともに設立されている。
軍隊向けにマスケット銃、刀剣類などの製造を行っていた。

1875年にアレクサンドル2世により砲兵総局帝国トゥーラ兵器工場と命名。同時期にコヴロフに作られたコヴロフ工場への人員派遣*1なども行いつつ発展を継続。
ソ連に移ってからも変わらず銃器の生産を続けており、1921年には労働赤旗勲章を機関として初めて授与された。

1927年にKBPの部門が設立された。TT-33の開発などに従事したのち分社化し、戦中はTsKB-14の名称で研究開発を続けていた。

第二次大戦時、1941年10月からトゥーラ州が激戦区となりメドノゴルスクやイジェフスクに疎開。その間はTT-33やSVT-40の生産に専念しており、銃器の新規設計があまり行われていない。
戦後トゥーラ州は英雄都市の名誉称号が送られている。

1942年にトゥーラとポドリスクを基にイジェフスク機械工場(イジェメク 民間用にはバイカルのブランドが有名)が設立。マカロフ拳銃などの製造はこちらで行われていたが、現在はカラシニコフコンツェルンに編入されている。
1946年にはTsKIB SOO部門が設立され、1958年に分社化した。1997年にKBPの部門として編入されている。

クリモフスクにあるTsNIITochMash(精密工学中央研究所)と共同で開発を行うことがあった。VSSやAPS小銃などの共同開発を行っている。
現在TsNIITochMashはカラシニコフコンツェルンに編入されており関わりが薄くなっている可能性がある。

現在ロシアのほぼすべての軍需産業はロステックの傘下となっており、トゥーラ造兵廠、KBPも例外ではない。



所属した設計者

セルゲイ・イワノビッチ・モシン(1849~1902)

1875年~1894年の間所属。モシン小銃を設計。1894年からはセストロレツク工場長となっており墓もそちらに存在する。

フョードル・ヴァシリエヴィチ・トカレフ(1871~1968)

1921年より所属。マキシム-トカレフやTT-33、SVT-40を設計。

パベル・ペトロヴィチ・トレチャコフ(1864~1937)

1892年より所属。KBP初代長官。1929年粛清に巻き込まれシャラシャーシカ(詐欺師の意味で刑務所兼設計局の名称)に送致された。

セルゲイ・アレクサンドロヴィチ・コロビン(1884~1946)

1920より所属。ベルギーにて技術を積んでおり、コロビン拳銃、AK-45などを設計した。

イリナールフ・アンドレーヴィチ・コマリツキー(1891~1971)

1918年より所属。元トゥーラ兵器学校准教授でモシン小銃の近代化やShKASなどを設計。

ボリス・ガヴリーロヴィチ・シュピタリヌイ(1902~1972)

1934年~1953年の間実験設計局の局長を務めた。ShKASなどを設計。

アレクセイ・アレクセーエヴィチ・ブルキン(個人情報消失)

1923年より所属。AB-44、AB-46突撃銃を設計。

グリゴリー・イワノビッチ・ニキーチン(1905~1986)

1931年~1972年の間所属しNSV機関銃などを設計。

アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ・ヴォルコフ(1905~1965)

1934年より所属。VYa23機関砲などを設計。

ミハイル・エフゲニエヴィチ・ベレジナ(1906~1950)

1934年より所属。UBなど航空機関砲を開発。釣り中に亡くなる。

セルゲイ・アレクサンドロヴィチ・ヤルツェフ(1906~1981)

1926年から所属し1960年よりTsKIB SOOに異動。ShKASなどを設計。

ヴャチェスラフ・イワノビッチ・シリン(1907~1975)

1932年より所属し1960年にTsKIB SOOに異動。TKB-067、2A28などを設計。

ゲルマン・アレクサンドロヴィチ・コロボフ(1913~2006)

1939年より所属。TKB-022、TKB-072などを設計。TKB系統の中でもかなり特異で斬新な設計が有名で、制式採用された銃器こそないもののAK-47、AKM、AK-74、AN-94のトライアルに参加し競合として活躍した。

ニコライ・フョードロヴィチ・マカロフ(1914~1988)

1945年より所属。マカロフ拳銃やファゴット対戦車ミサイルなどを設計。

ニコライ・ミハイロヴィチ・アファナシエフ(1916~2009)

戦前より所属。TKB-011、LAD、A-12.7、AM-23などを設計。

ウラジミール・イワノビッチ・ヴォルコフ(1921~2003)

1945年~1960年(KBP)、1960~2001年(TsKIB SOO)の間所属。NSV機関銃などを設計。

イーゴリ・ヤコブレヴィチ・スチェッキン(1922~2001)

1948年より所属。他社製造のAPSとサプレッサー装着のAPBを設計。卒業論文は7.65mm弾の自動拳銃についてで監督はマカロフ氏。

アルカジー・ゲオルギエヴィチ・シプノフ(1927~2013)

1961年~2006年の間KBPの総責任者を務めた。GSh-23、GSh-30、GSh-18のほかファゴットなど対戦車ミサイルを設計。

ヴァシリー・ペトロヴィチ・グリャーゼフ(1928~2008)

1966年より所属。所属以前のポドリスク時代からシプノフとの交友がありGSh-23、GSh-30を設計した。

ユーリ・ミハイロヴィチ・ソコロフ(1929年~1986)

1954年~1979年の間所属しNSVを設計。障害により解雇されている。

セルゲイ・ミハイロヴィチ・ベレジナ(1937~2005)

1960年より所属。ミハイル氏の息子でBMP-3装甲車などの兵装開発を行った。

ニコライ・イワノビッチ・コロヴィャコフ(1937~2004)

戦中より所属。TOZ-34その他多数のスポーツ用ショットガンを設計。

ヴァレリー・ニコラエヴィッチ・テレシュ(1939~)

1965年より所属。GP-25、OTs-14、RG-6などグレネードランチャー系を設計。

ウラジミール・ヴィクトロヴィッチ・ズロビン(1963~)

1986年~2011年の間所属。VKS、ASh-12を設計。現在はイズマッシュでAK-12試作型などの設計を担当。

アレクセイ・ミハイロヴィチ・ソロキン(1969~)

2004年~2008年の間TsKIB SOOの局長を務めた。他社製造のT-5000の開発主導。



かかわりのある人物

ニコライ・ニコラエヴィチ・フェドロフ(1851~1940)

デグチャレフ工場にてフェドロフM1916等を設計し、その他トゥーラ製銃器の設計を指揮。

ゲオルギー・セミョーノヴィッチ・シュパーギン(1897~1952)

1916年の間トゥーラ造兵廠で銃砲について学んだ。

ウラジーミル・ヴァシレーヴィッチ・シモノフ(1935~2020)

共同設計のAPS、SPP-1M等水中用銃器を設計。

尚ミハイル・カラシニコフ氏がAK-47のもととなるAK-46を試作したのはモスクワ東部のコヴロフ兵器工場(当時はデグチャレフ工場から分離した部署だった模様)でありまた別*2




トゥーラ製製品

小銃

拳銃

ショットガン

短機関銃

機関銃

TKB

試作どまりのものは別途分けている。

その他



KBP/TsKIB SOO製製品

小銃

拳銃

ショットガン

短機関銃

機関銃

その他


その他、名称以外不明




余談

  • 時たま出てきたVPOはVyatsko-Polyanskoye Oruzhie/ヴィャツコ・ポリャンスキー製モデルの略で、ロシアのモロト社(2017年の破産以降はモロト・オルジエ社)が製造する民間向け銃のブランド。



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最終更新:2025年08月06日 21:33

*1 もとはデンマークの支援を受けて作られていたがデンマーク側がロシア帝国崩壊時に撤退したため設計者が不足していた

*2 ただしトゥーラ造兵廠で働いた記録がないと断言している文献も存じていないので不明 追記求む

*3 7.62×39mm弾が試作時に迷走し薬莢長が定まらなかっただけでほぼ同じ弾薬