ハマノパレード(競走馬)

登録日:2010/06/06 (日) 23:11:55
更新日:2024/05/03 Fri 17:19:06NEW!
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1969年産、父にテューダーペリオッドを持つ牡馬。

通算20戦8勝。

産まれた時から非常に小柄な馬(430kg)で、また気性が激しい余りに馬房の枠を蹴り破るといった小さな事件を頻繁に起こしていた。

だが競走馬としての能力は幼駒の頃から抜きん出ており、1歳にして他の幼駒を率いて先頭を駆けていたという。




1971年の秋にデビューさせる予定であったが、脚に故障(骨膜炎と伝わるが、屈腱炎とする説も)を発症、一月後にデビューを延期するも敗れ、結局4戦目にしてようやく初勝利。

その後500万下といった条件戦をこなし、クラシック目指して毎日杯や京都4歳特別に出走するも、連戦を重ねて疲労が溜まっていた為か9着、3着と惨敗。

クラシックを諦めて休養に入り、10月に復帰。

すると復帰第一戦の条件戦に後続を4と1/2馬身離して圧勝、更に阪神大賞典にも勝ち、重賞ウィナーとなる。

ハマノパレードの世代はいわゆる「花の47年組」という重賞馬、多勝馬、レコードホルダーがわらわらいる華々しい競走馬たちであったが、ハマノパレードもここからその一員として数えられることになる。

翌年から騎手を変え、2月の京都記念に勝利。重賞2勝目を挙げる。

更に6月の宝塚記念でも、天皇賞(春)勝ち馬のタイテエムにアタマ差の勝利。
この時の勝ち時計は当時の日本レコード記録(2200m)であった。


そして、次走は中京競馬場での高松宮杯(現・高松宮記念)。

初の一番人気で挑んだこのレースは、抜群のスタートを切って逃げる、いつもの横綱競馬であった。
直線に入り、後続をちぎって残り200mに差し掛かった時…

ハマノパレードは脚をもつれさせ、前のめりに転倒した。

医師は左前脚脱臼・及び粉砕骨折で予後不良(治る見込みがない)との診断を下した。

多くのファンは悲しみ、「せめて天国で思う存分走ってくれ…」

と願うばかりであった…












裏ではそんな願いを吹き飛ばす事件が起こっていたのである。








ハマノパレードはレース後に、苦痛を和らげる薬を投与されないまま、とある場所へ送られた。

そう…

屠殺場である。

現在は予後不良となった馬は、薬で安楽死させてから埋葬するということがルールで決まっているが、当時はそれが無かった。


そしてレース翌日、愛知県のある市場に『さくら肉・400キロ』という品目で馬肉が売りに出されたのだが、市場関係者からは「アレは予後不良のハマノパレードの肉だ」と噂されることに。
この噂を聞きつけたスポーツニッポンが調査したところ一連の事実がバレて大騒ぎとなった。
ちなみに勘違いされやすいが、事実だと確認されたのはハマノパレードが一晩放置されて屠殺された事の方であり、『さくら肉・400キロ』が本当にハマノパレードだったわけではないと言う点には一応注意されたし*1
細かいようだが、「馬刺しには屠殺されたサラブレッドが混じっている」という有名な都市伝説の根拠としてハマノパレード事件が引き合いに出されるケースもあるので、混同するのもそれはそれで問題がある。

実は「予後不良の馬が屠殺場送りになる」というのは当時は珍しいことではなかったそうだ。
…しかし皮肉な事に、この事件は競馬ファンや愛護団体の大バッシングを受け、境にして安楽死処分が義務付けられるようになったのである。


ちなみに、6月25日はハマノパレードが屠殺された日付である。

冥福を祈ろう。





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最終更新:2024年05月03日 17:19

*1 マジレスすると予後不良になった時点で430キロだった馬に400キロもの可食部があるわけがないし、そもそもサラブレッドの肉質は人間が食べるのに向いていないので人間用の食肉として出回る事はまずない。ましてや本来競走馬を馬肉にする際は100日程度の肥育期間が必要とされており、予後不良でそんな時間的余裕のなかったハマノパレードの肉がさくら肉として通用する状態だったとは考えにくい。実際、関係者の証言ではハマノパレードは「エサ用」として買い取られたとされている。