資本の集中とその弊害

 拝金主義では、資本の集中こそが強みとなり、それゆえの弊害が生じる。簡単に言えば、カネのある所にカネが集まるということである。
 拝金主義社会における資本競争では、質と価格が競争の単位となる。つまり、質の良さと価格の安さの平均値が高いほど競争力が強くなるということである。
 そして、その商品競争力の平均値を上げるには巨大資本の元での大量生産が必要となる。生産の効率化こそが、良品質、低価格を実現しうるのだ。
 こういった状況に置いて、ほぼ0資本の状態から企業すると言うことは非常に難しく、ビジネスアイデアを思い付いたとしても、それを実現するには当然拝金貴族側の融資が必要となる。拝金主義が進行すればするほどピンハネが深刻化し、本来稼げるはずの資本を回収できなくなる。

 実際には以下のようなケースが発生している。大量購入による低価格での仕入れが可能な大企業が商品を売るとする。個人経営の商店ではそれほどの大量の仕入れができないため、やはり価格に差がついてしまう。大型商業施設等の展開により、地方の商店街などがシャッター商店街化し、大量の個人経営者が職を追われるのである。
 拝金主義者は自由競争は誰もが平等であるという。しかしそれは幻想だ。たとえ個人経営者が巨大資本を相手に、新たなサービス形式を考案し、区別化を図ればいいではないかと言っても同じことだ。結局効率化した巨大資本には勝てない。たとえそのサービス形式が画期的であったとしても、巨大資本にマネをされてはひとたまりもない。買収されればまだいいほうだ。やはり個人経営者は幻想の競争に踏みつぶされてしまう。

関連項目

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2019年09月11日 21:50