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将監さまの細みち
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将監さまの細みち
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
》:ルビ
(例)駕籠《かご》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)二|帖《じょう》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「ひろ」に傍点]
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夜の九時すぎ、――おひろ[#「ひろ」に傍点]が帰り支度をしていると、四人づれの客が駕籠《かご》で来て、あがった。四人とも酔っていたが、身装《みなり》も人柄もよく、どこかの寄合の崩れといった恰好で、「この土地は初めてだから」よろしく頼むと云った。
四月中旬の曇った晩で、空気も湿っぽく、夕方からずっと、いまにも降りだしそうな空もようであった。おひろ[#「ひろ」に傍点]は通いなので、そのまま帰ろうとすると、店を預かっているおまさ[#「まさ」に傍点]が来て、「残っておくれ」と云った。
「一人はあたしが出るし、幾世と文弥が二人を引受けるっていうの、お客もまわしでいいっていうんだけれど、女の数がそろわなければ帰るって、――済まないがたまのことだから、今夜は泊ってっておくれな」
おひろ[#「ひろ」に傍点]は返辞を渋った。すると、おまさ[#「まさ」に傍点]の眼がすぐに険しくなった。
「いやなの」とおまさ[#「まさ」に傍点]が云った、「いやなら小花家さんの誰かに助けてもらうからね、いやなものを無理にとは云わないんだから」
「ええ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は頷《うなず》いた、「泊ります」
おまさ[#「まさ」に傍点]は「はっきりしてよ」と云い、おひろ[#「ひろ」に傍点]はもういちど「泊ります」と答えた。そんならちょっと三河屋まで酒を云いにいって来て、それから支度を直して出てちょうだい、もう店も閉めていいわよ、そう云っておまさ[#「まさ」に傍点]は奥へ去った。
――またいやみを云われるんだわ。
おひろ[#「ひろ」に傍点]は風呂敷包を置いて、そう思いながら裏口から外へ出た。
赤坂田町にあるその岡場所は、俗に「麦めし」と呼ばれていた。一ツ木の通りを隔てたうしろは小屋敷で、片方は溜池の堀に沿っており、堀のすぐ向うには、山王の森が黒ぐろと高く、こちらへのしかかってくるように見える。おひろ[#「ひろ」に傍点]は堀端の道へ出て、三丁目にある三河屋までゆき、酒の注文をして戻った。
――またいやみを云われるのよ。
暗い町を戻りながら、おひろ[#「ひろ」に傍点]は幾たびも溜息をついた。良人の利助の尖《とが》った顔と、おまさ[#「まさ」に傍点]の意地の悪い、嘲笑《ちょうしょう》するような顔が眼にうかび、まるで二人がなれあいで、両方から自分をいためつけているかのように思えた。
「五十年まえ、――」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は首を振りながら呟いた、「五十年あと、――」
そして、その呟きとは無関係に、頭のなかで自分に云った。
――わかってるじゃないの。
そうだ、わかっていることだ。泊って帰れば、良人《おっと》がいやみを云うのはわかっている。だが、泊るのを断われば、おまさ[#「まさ」に傍点]は小花家から代りの女を呼ぶだろう。そうすればもう、自分が染井家で稼《かせ》げなくなるのもわかりきったことだ。
――どうしようもないじゃないの。
岡場所の女で「通い」というのはない。殆んどないといってもいいだろう、おひろ[#「ひろ」に傍点]は特別な事情でそれが許されていた。去年の七月まで、おひろ[#「ひろ」に傍点]は京橋五郎兵衛町の「増田屋」という料理茶屋に勤めていて、そこで客の源平と知りあった。彼女には病気の良人と、政次といって四つになる子供があり、良人の医薬や生活をたててゆくために、(どうしても)もう少し稼ぎを殖《ふ》やさなければならなくなっていた。それはどうにもならぬほどさし迫っていたし、病夫と子供を抱えた、ほかに芸のない女には、それをきりぬける手段は一つしかなかった。おひろ[#「ひろ」に傍点]は源平に相談した。彼は芝口二丁目で駕籠屋をやっているかたわら、赤坂田町の岡場所に「染井家」という店を持っており、――それは友達のものを引受けたのだそうであるが、――店はおまさ[#「まさ」に傍点]という女に任せていた。
おひろ[#「ひろ」に傍点]はそれを聞いていて相談し、源平は承知した。
おひろ[#「ひろ」に傍点]は金は借りなかった。そういう金は躯《からだ》を縛られるし、嵩《かさ》むばかりで、ついにはぬけられなくなることも、知っていたが、病夫や子供の世話をするためには、家から通わなければならなかった。源平はそれも承知して、田町の店へ伴《つ》れてゆき、おまさ[#「まさ」に傍点]に事情を話してくれた。こうして、おひろ[#「ひろ」に傍点]は通いで稼ぐようになった。良人や近所の人には、「芝神明前の料理茶屋へ替った」と云い、午《ひる》に出て夜の九時か十時には帰る、という生活を、一年ちかくも続けて来た。
染井家には女が三人いた。店を預かっているおまさ[#「まさ」に傍点]は二十二、文弥は二十一、幾世は十九で、おひろ[#「ひろ」に傍点]がいちばん年上の二十三であった。三人はおひろ[#「ひろ」に傍点]に親しまなかった。親しまなかったばかりでなく、反感をもっていた。敵意とまではいえないが、反感をもっていることは慥《たし》かである。理由の一つはもちろん「通い」ということだろうが、もう一つ、亭主と子供があることも、彼女たちの気にいらないようであった。――三人には三人の、不仕合せと、重荷があるに違いない。それならおひろ[#「ひろ」に傍点]の不仕合せにも、同情してくれていい筈だと思うのだが、そうではなく、三人ともおひろ[#「ひろ」に傍点]を白い眼で見るし、客の前などでも、意地の悪いことをしたり、云ったりした。――当然のことかもしれないが、三人にはおひろ[#「ひろ」に傍点]の不仕合せが、自分たちのよりも小さく、その荷が自分たちのものより軽いと思っているらしい。病人はいつも自分より軽症の者に嫉妬《しっと》を感ずるものだ。おひろ[#「ひろ」に傍点]は彼女たちの嫉視《しっし》と反感を、おとなしく黙って、うけながして来た。
――どうしようもないじゃないの。
おひろ[#「ひろ」に傍点]はいつも自分にそう云いきかす。染井家へ通いはじめてからずっと、自分の力に及ばないことは、つまり「どうしようもない」と納得するよりほかにしかたがなかったのである。
「五十年まえ、――」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は無意識に呟いた、「そして、五十年あと、――」
気がつくと雨が降りだしていた。ぼんやり歩いていたおひろ[#「ひろ」に傍点]は、頬に当る雨粒で気がつき、手拭を出してかぶろうとしたとき、「おその[#「その」に傍点]さんじゃないか」とうしろから声をかけられた。おその[#「その」に傍点]は染井家でのおひろ[#「ひろ」に傍点]の呼名であった。振返ってみると、平吉という三河屋の店の者で、右手に角樽《つのだる》を提げていた。
「これから届けにゆくところなんだが」と平吉は云った、「おめえまだこんなところにいたのかい、驚いたな、どうかしたのかい」
おひろ[#「ひろ」に傍点]はあいまいに首を振った。
「堀っ端だぜ、へんな気を起こしちゃあいけねえ、大丈夫かい」
おひろ[#「ひろ」に傍点]は大丈夫よと笑い、「あんたも御苦労さまね」と云った。
「まったく御苦労さまさ」と平吉は云った、「こんなじぶんまでしょうばいをする酒屋なんてあるもんじゃねえ、へ、うちのどうつくばりめ、おらあもう逃げだしだ」
そして彼は小走りに追いぬいていった。
[#6字下げ]二[#「二」は中見出し]
おひろ[#「ひろ」に傍点]は酒を飲まされてひどく酔った。
飲ませたのは客たちであるが、おまさ[#「まさ」に傍点]が「このひと底なしよ」と云ったからで、「そんなことはない」とおひろ[#「ひろ」に傍点]が辞退すればするほど、客たちは面白がり、四人が代る代る、休みなしに盃《さかずき》をさした。こんなところへ来る客は、殆んど酒などは飲まない。飲むにしても、一本か二本がおきまりであるが、その四人は十二時すぎるまで飲み続けた。――はじめのうち、おひろ[#「ひろ」に傍点]は用心して、盃の半分は盃洗へあけるようにしていたが、そのうちにおまさ[#「まさ」に傍点]が「このひと御亭主と子供があるのよ」と、いつもの意地悪を云いだし、すると、客のほうでもそれが意地悪だということを察したらしく、一人が「そいつは有難い」と逆手に出た。
「そういうことならおれが願うとしよう」とその客が云った、「ひとのかみさんと寝れば、重ねておいて四つにされるか七両二分だ、おその[#「その」に傍点]さんはおれがもらうぜ」
「そうはいかねえ」と他の一人が云った、「そのひとは初めからおれにきまってるんだ、たって欲しいんなら七両二分出してもらおう」
他の二人も同じようなことを云いだした。明らかに、おまさ[#「まさ」に傍点]に対する当てつけらしい。おひろ[#「ひろ」に傍点]は胸が熱くなり、それから飲みだした。
文弥と幾世は、泊りの客があったので、さきに部屋へ去り、おまさ[#「まさ」に傍点]とおひろ[#「ひろ」に傍点]が、四人の相手をした。おまさ[#「まさ」に傍点]はまったく飲めないたちだし、客たちがおひろ[#「ひろ」に傍点]にだけちやほやし始めたので、それならしょうばいをしてやれ、と思ったのだろう、自分で立ってどんどん酒を運んだ。――おひろ[#「ひろ」に傍点]はやがて泥酔して、わけがわからなくなり、客といっしょに部屋へはいるなり、嘔吐《おうと》した。客はいやな顔もせずに、窓をあけて吐かせてくれ、肩を撫《な》でながら「わるじいをして済まなかった」と詫《わ》びたり、水を持って来てくれたりした。
そのまま熟睡したらしい、眼がさめると、客が腹這《はらば》いになって、煙草をふかしていた。おひろ[#「ひろ」に傍点]はそちらへ向き直った。客は「いいよ」と云ってその手を押し返し、「気持はどうだ」と劬《いたわ》るようにおひろ[#「ひろ」に傍点]を見た。おひろ[#「ひろ」に傍点]は微笑しながら「さっぱりしました」と答えた。
「お世話をかけて、ごめんなさい」
「こっちが悪いんだ」と客が云った、「こっちも酔っていたもんだから、本当に飲めるんだと思ったんだ」
おひろ[#「ひろ」に傍点]ははにかみ笑いをして、「盃に三つくらいしか飲んだことはないんです」と云った。客は煙管《きせる》を置いて、枕許《まくらもと》の水を飲み、おひろ[#「ひろ」に傍点]にも「飲むか」と訊《き》いて、湯呑に注いでくれた。おひろ[#「ひろ」に傍点]はまた胸が熱くなり、眼をそむけながら、その水を飲んだ。客は横になって「さっきの唄をもういちど聞かせてくれないか」と云いだした。
「さっきの唄ですって」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は訊き返した、「あたし唄なんかうたったんですか」
「うたったさ、覚えていないのか」
「嘘でしょ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は云った、「あたし唄なんて知りゃあしませんもの」
「唄っていっても子供の唄さ、――向う横町だったかな、いやそうじゃない、烏どこゆく、……でもないし」
「ここはどこのですか」
「うんそれだ、その唄だ」
「いやだ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は苦笑した、「そんな唄をうたったんですか、ばかだわ」
「済まないがもういちど頼む」
おひろ[#「ひろ」に傍点]は「いやですよ恥ずかしい」と首を振り、客は熱心にせがんだ。なにかわけでもあるようすで、「もういちどぜひ」とせがんで、きかなかった。おひろ[#「ひろ」に傍点]はやむなくうたった。すると客は「文句が少し違うね」と云った。あらそうですか。少し違うよ、はじめのところをうたってごらん。いやだわ恥ずかしい、と云ったが、おひろ[#「ひろ」に傍点]はまたうたった。
「こーこはどーこの細みちじゃ、将監さまの細みちじゃ」
「そこだ」と客が云った、「おれたちのほうでは天神さまの細みちっていうぜ」
おひろ[#「ひろ」に傍点]はちょっと眉をひそめた。良人の利助が、子供を寝かしつけるときに、いまでもその唄をうたうことを思いだしたのである。
「ええ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は頭を振って云った、「ええ本当はそうなんです」
「間違えたのか」
「いいえ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は云った、「小さいじぶんの遊び友達がそううたい始めて、それからずっとそううたう癖がついてしまったんです、あたしたちの町内の隣りに、松平将監さまのお屋敷があったもんですから、それでその子がそううたおうって云いだしたんです」
「その友達はまだいるのか」
「さあ、――」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は口ごもった、「あたし六年まえに引越したまま、元の町内へはいちどもいってみたことがありませんから」
客はなおなにか訊きたそうだったが、思い返したようすで、「寝ようかね」と寝返りをうち、「将監さまの細みちか、有難うよ」と云った。おひろ[#「ひろ」に傍点]は、二人の間へ風のはいらないように、掛け夜具を直しながら、「おやすみなさい」と云った。
このひと常さんと同い年ぐらいかしら、とおひろ[#「ひろ」に傍点]は思った。常吉さん、そうだ、常さんもお嫁さんをもらったって聞いたわ。あたしたちが引越したあと、二年ばかりしてもらったって。あたしは政次が生れたり、絶えず暮しに追われどおしで、ひとの事どころではなかった。常さんにおかみさんができたと聞いたときは、ちょっと淋しかったけれど、どんなお嫁さんかと考えたこともなかった。
――あのころはよかったわね。
とおひろ[#「ひろ」に傍点]は心のなかで呟いた。
夕方になると、「帰っておいで」と呼ばれるのが惜しくって、その一刻をできるだけ楽しもうとしたものだ。「向う横町のお稲荷さん」は毬《まり》を突くときにうたい、「からすどこゆく薩摩《さつま》の山へ」はお手玉のときにうたった。常さんは男の子のくせにお手玉が上手で、あたしはよく口惜しがったことを覚えている。おきぬちゃん、おいとさん、きくちゃん、うちのひと、それから常さん。常さんの家は表通りの「八百惣」という八百屋で、一人っ子だった。間口五間の店の横に、大きな物置があり、野菜や果物や、漬物桶《つけものおけ》などが並んでいて、中へはいるとむっとするような匂いがした。常さんはあたしを伴《つ》れてはいっては、枇杷《びわ》だの、蜜柑《みかん》だの、梨だのを出して、ふところや袂《たもと》に、いっぱい呉《く》れたものだ。
ああ、とおひろ[#「ひろ」に傍点]は溜息をついた。
――もう一生、あのじぶんに帰ることはできないのね。おひろ[#「ひろ」に傍点]は頭を振り、眼をつむった。眼をつむると胸がせつなくなり、涙があふれてきた。あのころへ帰るどころか、こんなに身を堕《おと》してしまって、いつ足を洗えるかどうかもわからないじゃないの。ああ、いったいこれからどうなるのかしら、とおひろ[#「ひろ」に傍点]は心のなかで呟き、そっと指で眼を拭いた。
客の軽い寝息が聞え始めた。
[#6字下げ]三[#「三」は中見出し]
おひろ[#「ひろ」に傍点]の家は木挽町《こびきちょう》七丁目にある。三十間堀のほうから路地をはいると、長屋の三軒めで、前に井戸があり、その脇に梨の木があった。大きな梨の木で、季節が来ると、柔らかい葉といっしょに白い花がみごとに咲き、散りはじめると井戸のまわりがまっ白になる。――今年はもう花も散り終っていて、ゆうべの雨に濡れた若葉が、眼にしみるほどきれいに見えた。
帰って来たおひろ[#「ひろ」に傍点]を見ると、井戸端にいた女房たちが声をあげ、「まあちゃん、おっ母さんが帰って来たよ」と呼んだ。見ると政次が、梨の木の下に、一人でぽつんと立っていて、すぐにこっちへ駆けて来た。おひろ[#「ひろ」に傍点]は女房たちに礼を述べ、子供の手をひいて、家へはいった。政次は誰も遊んでくれないことを訴え、お土産をねだった。おひろ[#「ひろ」に傍点]は途中で買って来た菓子を出し、「もうお午《ひる》だから」と、一つだけ与えて、あとは鼠不入《ねずみいらず》へしまった。
寝床は敷いたままで、良人はいなかった。政次は(口止めをされているらしく)小さな声で「しょうぎ、――」と云った。五丁目にある将棋の会所へいったのであろう、おひろ[#「ひろ」に傍点]は暢気《のんき》なものだと思いながら、いきなりいやみを云われずに済んだので、ほっとした。――政次は上り端の二|帖《じょう》で、菓子を喰《た》べながら、毀《こわ》れた玩具を出して遊びはじめ、おひろ[#「ひろ」に傍点]は着替えをしてから、勝手へおりた。
午の支度をしながら、おひろ[#「ひろ」に傍点]はゆうべの客のことを思った。
朝になってから顔だけはよく見たが、処《ところ》も、名も、職業も知らずじまいであった。お互い同志では「松葉町」とか「二丁目」などというふうに、町の名で呼びあっていたし、年配や身装や、話のようすでは、みんな一軒の店を持っている人らしかった。おひろ[#「ひろ」に傍点]に当った客はいちばん若く、年は二十六七だったが、それでもどこかしらおちついた、おうようなところがあり、職人やお店《たな》者とは感じが違っていた。
「きっと常さんと同い年ぐらいよ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は菜を洗いながら呟いた、「――でも、もう来てくれる人じゃないわね」
それからくすっと笑った。
常吉の家は「八百惣」というのだが、町内ではみな「大八百屋」と呼んでいた。良人の利助は常吉とよく喧嘩《けんか》をし、利助のほうがいつも負ける。利助は頑丈な躯つきだし、常吉は痩《や》せてきゃしゃに見えるのに、喧嘩ではいつも常吉が勝った。すると、負けた利助は逃げだして、遠くのほうから、「おーやおやおや」とからかうのであった。
「――ここまで来てみやがれ、へっ、なんでえ、おーやおやおやおや」
常吉はそれをいちばんいやがっていた。
おひろ[#「ひろ」に傍点]はそのことを思いだして、くすくす笑いながら、「そうだわ」と呟いた。利助が逃げだして、遠くからそうどなるのを聞くと、可哀そうでもあるし可笑《おか》しかった。おひろ[#「ひろ」に傍点]はどっちかというと常吉のほうが好きであったが、表通りの子と裏長屋の子では、どうしても隔てがあり、喧嘩にでもなると、裏店の子は必ず裏店の子に付いた。
「そうだわ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は呟いた、「うちのひとはあのじぶんから、本当に弱虫だったんだわ、口ではいばったり強がったりしていても、いざとなると弱虫で、いくじがなかったわ」
それが可哀そうで、いつも利助の味方になり、利助を庇《かば》ってやった。
「いまでも同じことだわ」おひろ[#「ひろ」に傍点]は洗った菜の水を切り、庖丁《ほうちょう》で刻みながら、「おんなしことよ」と呟いた。「いくじなしは性分だったのよ、どうにもなりゃしないわ」
飯は残っていた。煮物をして、汁を作りながら、おひろ[#「ひろ」に傍点]は「父ちゃんを呼んで来ておくれ」と政次に会った。
帰って来た利助は、ぶすっとふくれ顔をしていた、単衣物の上に半纒《はんてん》をひっかけていて、それがいかにも病人らしくみえる。しかし、あしかけ三年も寝ていたにしては、躯に肉も付いてきたし、膚の艶《つや》もよかった。
「ゆうべはごめんなさい」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は軽い口ぶりで云った、「寄合が二た組もあって、それがどっちもおそかったし、一と組は夜明けちかくまで飲んでたもんだから、どうしても帰ることができなかったのよ」
「おめえ喰べねえのか」と利助が云った。
「お客に悪じいをされて、少し飲んだものだから胸が重いの、あたしはあとにするわ」
「ふつか酔いか」と利助が云った、「結構な御身分だ」
おひろ[#「ひろ」に傍点]は良人の顔を見た。
――なんですって。
危なく口まで出かかったが、おひろ[#「ひろ」に傍点]はがまんした。利助は眼を伏せたまま、さも不味《まず》そうに喰べていた。眉の太い、唇の厚い、情の強そうな顔つきが、そうしていると卑屈で、ずいぶん小意地が悪くみえる。おひろ[#「ひろ」に傍点]は怒るよりも、急に躯から精がぬけてゆくような気持になり、「どうにもなりゃあしないわ」と心のなかで太息《といき》をついた。
――どうせ五十年まえ、五十年あとじゃないの、おんなしこったわ。
利助はなおぼそぼそと云った。かみさんに働かせて、男が寝ているというのも辛いものだ。そっちは稼いでいるからいいと思うだろうが、寝ている身になれば、それがどんなに辛いかわからない、ときには、躯なんぞどうなってもいいから稼ぎに出よう、できなければいっそ死んでしまってやろう、と思うことさえある、「こういう気持は、丈夫な者にはわかるまい」本当は死んじまいたくなることがあるんだ、などと云った。
幾十たびとなく聞かされたぐちである。違うのはすっかり馴れたもので、その口ぶりに実感らしいものが出てきたことであった。
――死んじまいたいのはこっちのほうだわ。
おひろ[#「ひろ」に傍点]はそう思いながら、うんざりした気持を勘づかれないように、「もう少しの辛抱よ」と云って、膳《ぜん》の上を片づけはじめた。
「もう少しの辛抱よ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は云った、「もうそんなによくなったんだし、すっかり治ればまたあんたに稼いでもらわなくちゃならないんだから、くよくよしないで」
云いかけて「はい」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は振向いた。戸口で誰か呼ぶ声がしたのである。茶を飲んでいた利助が、「吉さんか」と訊いた。
「指物《さしもの》職の利助さんはこのうちか」
と戸口の声が云った。聞き慣れない声なので、おひろ[#「ひろ」に傍点]は「はい」と答え、良人を見て、前掛を外しながら二帖へ出ていった。――木綿縞の単衣《ひとえ》に角帯をしめ、尻端折りをして、紺|股引《ももひき》に麻衣をはいた男が、片手をふところに入れたまま、戸口に立っていた。
おひろ[#「ひろ」に傍点]はどきっとした。三十二三になるその男の、眼つきを見ただけで「岡っ引だ」と直感し、良人がなにかやったな、と思ったのである。はたして男は「金六町の藤川屋の者だ」と云い、ふところの十手をちょっと覗《のぞ》かせた。
おひろ[#「ひろ」に傍点]は膝《ひざ》ががくがくするのを感じた。
[#6字下げ]四[#「四」は中見出し]
男は土間へはいって、「おまえがかみさんか」と訊いた。おひろ[#「ひろ」に傍点]は坐って、「はい」と頷きながら、うしろへ振返った。
「うちのひとはいま病気で寝ているんですけれど」
「そうじゃねえ」と男は首を振った、「おまえさんにちょっと訊きてえことがあって来たんだ、おひろ[#「ひろ」に傍点]さんっていうんだね」
「ええ、あたしがおひろ[#「ひろ」に傍点]です」
「掛けさしてもらうぜ」
男はあがり框《がまち》に腰を掛けた。
――うちのひとではない。
良人ではないと知ってほっとしながら、おひろ[#「ひろ」に傍点]は「ちょっと」と云って立とうとした。すると、男は手を振った。「茶はいらねえ」と男が云った、「すぐ帰るから、ちょっとそこへ坐ってくれ」
おひろ[#「ひろ」に傍点]は坐った。六帖はしんとしていた。利助と政次の、息をひそめているようすが、こっちからよくわかった。
「御亭主が病気なんだね」
「ええ、――」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は頷いた、「もうあしかけ三年になるんです」
「そのあいだどうしてた」
「あたしが、稼いでいました」
「茶屋奉公だってね」
おひろ[#「ひろ」に傍点]は「ええ」と頷きながら、男の横顔を見た。井戸のまわりで、子供たちの遊んでいる声がし、男はそっちを見ているようであった。
「茶屋奉公か」と男は云って、静かにおひろ[#「ひろ」に傍点]を見た、「茶屋はどこだ」
おひろ[#「ひろ」に傍点]は「神明前です」と答えた。
「芝の神明だね」と男は云った、「なんという店だ」
「どうしてそんなことを訊くんですか」とおひろ[#「ひろ」に傍点]が反問した、「あたしになにか不審なことでもあるんですか」
「怒るこたあねえ、店の名を訊いてるだけだ」と男は云った、「それとも、店の名を訊かれちゃあ、ぐあいの悪いことでもあるのか」
おひろ[#「ひろ」に傍点]は男の顔を見た。男の顔は静かで、なにも読みとることができず、六帖はまだひっそりとして、物音も聞えなかった。
「神明前の」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は答えた、「――岸八っていう料理茶屋です」
「そこじゃあねえ」と男は首を振った、「おらあ岸八へいって訊いて来たんだ、おまえさんのことは誰も知らなかったぜ」
「それはあの、店では名前を、変えてるもんですから」
「おその[#「その」に傍点]ってか、――」と男が云った。
おひろ[#「ひろ」に傍点]はぴくっとし、とびだしそうな眼で男を見た。
「おめえは赤坂田町の岡場所で稼いでる」と男は云った、「田町の染井家という店で、おその[#「その」に傍点]という名で躯を売ってるんだ、そうじゃあねえか」
おひろ[#「ひろ」に傍点]は口をあいた。
そのとき六帖で(がちゃっと)膳や皿小鉢の鳴る音がし、利助がこっちへとびだして来た。男は立ちあがり、利助は「聞いたぞ」と喚いた。喚きながらおひろ[#「ひろ」に傍点]の頬を殴り、髪の毛をつかんでひき倒した。おひろ[#「ひろ」に傍点]は足をちぢめ、利助はのしかかってまた殴った。平手で、頭や横顔や肩を殴り、殴りながら叫んだ。
「聞いたぞ、このあま、聞いたぞ」と利助は叫んだ、「亭主のおれを騙《だま》しやがって、売女《ばいた》なんぞをしていやがったのか、このあま、このあま」と彼は殴りつけた、「よくもおれの面へ泥を塗りやがったな」
おひろ[#「ひろ」に傍点]は声もあげず、身を除《よ》けようともしなかった。両手で顔を掩《おお》い、足をちぢめたまま、じっと身を固くして、殴られていた。六帖で政次が泣きだし、戸口の外へ長屋の人たちが集まって来た。男は「たかるな」とかれらにどなった、「近所づきあいだろう、見ねえふりがしてやれねえのか」そして手を振り、人だかりが散ると、振返って、「もうよせ」と云った。
「殴るのはよせ」と男は利助を制止した、「けがでもさせたらどうするんだ、いいかげんにしろ」
利助は殴るのをやめ、「だって親分――」と喘《あえ》いだ。
「殴るこたあねえ」と男が云った、「病人のおめえと、子供のために稼いでるんだろう、泥棒や人殺しをしたわけじゃあねえんだから、そういきまくには及ばねえ」
「それにしたって、このあま、――」
利助はおひろ[#「ひろ」に傍点]から離れて、辻褄《つじつま》の合わないことを、喘ぎ喘ぎどなりたてた。おひろ[#「ひろ」に傍点]は倒れたまま身動きもせずに、「五十年まえ、――五十年あと、……」と心のなかで呟いていた。六帖では政次が泣き続けていて、男がおひろ[#「ひろ」に傍点]に呼びかけた。
「おらあこんな騒ぎを起こそうとは思わなかった」と男は云った、「おまえさんのことをさし[#「さし」に傍点]た者があるんで、役目柄いちおう実否を慥《たし》かめに来たんだ、それだけの話だ」
「じゃあ」と利助が訊いた、「べつにお手当になるんじゃあねえんですか」
「そんな大袈裟《おおげさ》な話じゃあねえ」と男が云った、「おらあただ実否を慥かめに来ただけだ、おかみさん、済まなかったな」
おひろ[#「ひろ」に傍点]は黙っていた。
「病人や子供を抱えてたいへんだろうが、ああいうところはなるべく早く足を洗うほうがいいぜ、尤《もっと》も、こんなことは当人のおまえさんのほうで、とっくに承知だろうがね」と男は云った、「――おひろ[#「ひろ」に傍点]さんっていったけな、ひとこと云っておくが、湯屋なんぞで人とやりあったりしねえほうがいい、世間にゃあうるせえのがいるからな、じゃあ、ごめんよ」
そして男は出ていった。
利助は六帖へゆき、泣いている子供をだましにかかった。おひろ[#「ひろ」に傍点]は静かに起きあがって、着物や帯を直し、髪の毛へ手をやった。元結は切れなかったが、根が崩れて、手をやると髷《まげ》がばらばらになった。――おひろ[#「ひろ」に傍点]は黙って六帖へゆき鏡台の前に坐った。その安物の鏡台は毀れているし、鏡はなかった。おひろ[#「ひろ」に傍点]は抽出《ひきだし》をあけ、櫛《くし》を出して髪を直しはじめた。
「卑怯者《ひきょうもの》、――」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は乾いた声で、良人のほうは見ずに、低く静かに云った、「あんた知ってたのね」
利助は沈黙し、それからまた子供をあやしだした。妻の云ったことが聞えなかったか、またはその意味がわからなかった、というようすである。おひろ[#「ひろ」に傍点]の手がふるえた。彼女には、沈黙した瞬間の良人の表情が、はっきりと眼に見えるようであった。
――あのひとは知っていた、あたしがどこで働いているか、ちゃんと勘づいていたんだ、ちゃんと。
とおひろ[#「ひろ」に傍点]は心のなかで思った。
――殴るときの、殴りかたでわかった、あれは本当に怒った殴りかたじゃない、ていさいで殴っただけだ、卑怯者。
利助は子供に話しかけ、「舟を見にゆくか」などと云っていた。おひろ[#「ひろ」に傍点]はざっと髪をまとめて、立ちあがった。
[#6字下げ]五[#「五」は中見出し]
「どうするんだ」と利助が云った、「どこへいくんだ」
おひろ[#「ひろ」に傍点]は黙って下駄をはいた。利助は立って来て呼びかけ、「二人で話そう、よく相談をしよう」と云った。おひろ[#「ひろ」に傍点]は返辞もせず、良人のほうを見もせずに出ていった。
路地を出た向うの河岸っぷちに、「土庄《つちしょう》」といって、砂や壁土や砂利を売っている店がある。主人は庄兵衛といって、五十二三になる気の好い男だが、妻のお幸は二十一か二で、親と娘ほど年が違っていた。庄兵衛は女房運が悪くて、お幸は三人めの妻であり、いっしょになってから、まだ一年そこそこにしかならなかった。
――さし[#「さし」に傍点]たのはお幸だ。
とおひろ[#「ひろ」に傍点]は思った。藤川屋の男は「湯屋などで口諍《くちあらそ》いをするな」と云ったが、半月ばかりまえ、五丁目の松葉湯でそんなことがあった。おひろ[#「ひろ」に傍点]の使っている湯が、お幸にはねかかったそうで、いきなり叫びだし、あんまりひどく云うのでやり返した。みっともないからいいかげんにやめたし、そのまま忘れていたのであるが、「湯屋などで」と云われて、すぐにお幸だと直感した。
「土庄」は店と住居が並んでおり、住居のほうは格子づくりになっている。おひろ[#「ひろ」に傍点]は格子をあけて声をかけた。三度目に返辞が聞え、(食事でもしていたのだろう)口をもぐもぐさせながら、お幸が出て来た。お幸はこっちを見て立停り、ごくっと、口の中のものをのみこんだ。
「お幸さん、あんた――」と云っておひろ[#「ひろ」に傍点]はつかえた。云いたいことがいっぺんにこみあげてきて、なにをどう云っていいかわからなくなり、喉《のど》が塞《ふさ》がったようになった。「あんた」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は吃《ども》り、嚇《かっ》とのぼせた、「あたしが岡場所へ出ていることが、あんたにどんな関係があるの」
お幸の顔が硬ばった。
「あんたはこういうお宅におさまって、着たいものを着、喰べたいものを喰べ、寄席だろうが芝居だろうが、なんだって好き勝手に暮してるじゃないの」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は云った。「――あたしは岡場所で働いてるよ、この躯を売って稼いでるよ、そうしなければ親子三人が食っていけないからだ、食っていけないということがどんなことか、おまえさん知ってるかい」
「大きな声だわね」とお幸が云った、「あんたそれを自慢しにでも来たの」
「おまえさんになんの関係があるかっていうんだ、贅沢三味《ぜいたくざんまい》に暮しているおまえさんが、なんのためにあたしをさし[#「さし」に傍点]たりするんだ、あたしが岡場所で働いていることが、おまえさんの迷惑にでもなるっていうのかい」
「そんなことあたしは知らないよ、あたしの知ったこっちゃないわ」とお幸は嘲《あざけ》るように云った、「そんな云いがかりをつけられる覚えはないことよ、帰ってちょうだい」
そのとき「おひろ[#「ひろ」に傍点]」とどなりながら、利助が駆けこんで来た。
「おひろ[#「ひろ」に傍点]」と彼はどなった、「よさねえか、ばかなまねもいいかげんにしろ」
「あんたは黙っててちょうだい」
「帰れ」と利助は妻の肩をつかんだ、「これ以上おれに恥をかかせてえのか」
おひろ[#「ひろ」に傍点]はふるえ、唇を噛《か》んだ。お幸は冷やかに見ていて、利助はお幸にあやまった。「どうも済みません」お騒がせして済みません、気が立ってるもんですから、「どうか勘弁してやっておくんなさい」そう詫《わ》びながら、一と言ごとにおじぎをした。
「陽気がおかしいからね」とお幸は云った、「間違いのないうちに伴れてってちょうだい」
利助はまたあやまり、おじぎをした。おひろ[#「ひろ」に傍点]はふるえてい、お幸はつんと衿《えり》を直し、片手で髪に触りながら、奥へ去った。利助はそのうしろへ、「どうか勘弁してやっておくんなさい」と繰り返してあやまり、「さあ帰ろう」とおひろ[#「ひろ」に傍点]に云った。
――このことはなにか不義理をしている。
とおひろ[#「ひろ」に傍点]は外へ出ながら思った。きっと銭でも借りているんだ、きっとそうよ、でもなければあんなふうにあやまる筈はない。あんなにぺこぺこあやまる筈はないわ、ああ、どうしよう、どうしたらいいだろう、とおひろ[#「ひろ」に傍点]は心のなかで呟いた。
「どうするんだ」と利助が云った、「うちへ帰るんだろう」
おひろ[#「ひろ」に傍点]は黙って、汐留橋のほうへ歩きだした。利助が「おい」といって、手をつかもうとした。おひろ[#「ひろ」に傍点]はそれを払いのけた。
「頼むよ、おれが悪いんだから」と利助は追いすがって云った、「おれも考えたことがあるんだ、それについて相談してえんだから、なあ、ひとまずうちへ帰ってくれ、頼むから」
「往来の人が見るじゃないの」とおひろ[#「ひろ」に傍点]が云った、「あたしは買い物をして帰るんだから、あんたひと足さきに帰っててちょうだい」
買い物なんかあとでいい、とにかくいちど帰ってくれ、と利助が云った。うるさくしないでよ、とおひろ[#「ひろ」に傍点]はきつい声で云った。往来の人にみっともないじゃないの、すぐに帰るからいって政次をみていてちょうだいな。いいよ、そんなら帰ってるよ、と云いながら、利助は不安そうに妻を見た。
「おめえ、――大丈夫だろうな」
おひろ[#「ひろ」に傍点]には良人の問いの意味がわかった。
「ええ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は頷いた、「大丈夫よ」
汐留橋を渡って右へ曲った。利助がどの辺で戻っていったか、はっきりした記憶はなかった。馬力とゆきちがい、駕籠に追い越され、人混みの辻を通りぬけた。
「五十年まえ、――」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は呟いた、「そして五十年あと、……おんなしこったわ」
うちへ帰る気にはなれなかった。
おひろ[#「ひろ」に傍点]は(長い習慣で)赤坂のほうへ向って歩きながら、突然ぎゅっと顔を歪《ゆが》めたり、身ぶるいをして、肩を竦《すく》めたりした。お幸とやりあったことが恥ずかしい、あまりに恥ずかしい、「いっそ殺してやりたい」と思ったり、そんなふうにどなりこんだりした自分を、激しく責めたりした。
――堀端だぜ、大丈夫か。
という声が、頭のどこかで聞えた。
――へんな気を起こすんじゃねえぜ。
そうだ、とおひろ[#「ひろ」に傍点]は頷き、「三河屋の若い衆だったわ」と呟いた。
「死ねやしないわ、死ぬもんですか」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は歩きながら自分に云った、「このままでは死にきれない、どうしたって死にきれやしないわ」
田町へ来たと気がついたとき、おひろ[#「ひろ」に傍点]は立停って、「どうしようか」と思い、暫く溜池の水面を眺めていた。それから、「今日は休むと断わって帰ろう」と呟いて、二丁目の角を曲っていった。
[#6字下げ]六[#「六」は中見出し]
まだ時刻が早いので、「染井家」は表を半ば閉めてあった。おひろ[#「ひろ」に傍点]がはいってゆくと、とっつきの三帖に、文弥が化粧をしていて、「あらよかった、お客よ」と云った。
「あたし断わりに来たの」とおひろ[#「ひろ」に傍点]が云った、「躯の調子が悪いもんだから、休ませてもらおうと思って」
文弥は鏡に向き直って「そう」と化粧を続けた。
「そんならそう云っとくけれど」と文弥は云った、「お客はあんたをお名指しよ」
おひろ[#「ひろ」に傍点]はけげんそうに文弥を見た。
「ついいましがた、あんたをお名指しで来て、待っているっていうから待たしてあるんだけれど」
「あたしにって、――誰かしら」
「休むんなら断わるか、よければ代りにあたしが出てもいいわ」
「ゆうべの人じゃないの」
文弥は首を振った。ゆうべの人はよく知らない、自分はまわしだったし、今朝は眠っていて送りださなかったし、「顔だってよく覚えていないもの」自分にはわからない、と云った。聞いているうちにおひろ[#「ひろ」に傍点]は「ゆうべの客だ」と直感した。
「いいわ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は下駄をぬいだ、「ちょっといってあたしが断わって来るわ」
文弥は(鏡の中から)じろっと見、「そんな恰好でいいの」と云った、「断わるんならあたしが出てもいいのよ」
だが、おひろ[#「ひろ」に傍点]はあいまいな返辞をしただけで、いつも自分の使う四帖半へいった。襖《ふすま》をあけると、行燈のそばに客が坐っていた。窓は雨戸を閉めたままで、行燈に火はいれてあるが、外からはいって来た眼には、暗くて、すぐには部屋の中がよく見えなかった。
「いらっしゃい」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は挨拶しながら客を見た、「ずいぶんお早いのね」
そして絶句した。ゆうべの客ではない、年頃は似ているが、今朝おくり出した客でないことは、すぐにわかった。客は振向いて、じっとこちらを見まもり、かすれたような声でおひろ[#「ひろ」に傍点]の名を呼んだ。
「やっぱりそうだった」と客は云った、「わからないかい、ひろ[#「ひろ」に傍点]ちゃん、おれだよ」
おひろ[#「ひろ」に傍点]の胸で波がうち、息が止った。吸いこんだまま止った息を、そろそろ吐きだしながら、眼の前に虹のようなものがちらちら舞うのを、おひろ[#「ひろ」に傍点]は感じた。
「ひろ[#「ひろ」に傍点]ちゃん」と客が云った。
おひろ[#「ひろ」に傍点]は向き直って逃げだそうとし、客はとびあがって腕をつかんだ。おひろ[#「ひろ」に傍点]が振放そうとすると、客は両手で肩を抱え、「待ってくれ、話があるんだ」と云った。
「ごしょうよ、常さん」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は顔をそむけ、苦しそうに喘ぎながら云った、「放して、あたしに恥をかかさないで」
「いや放さない、おれは捜していたんだ、二年ものあいだ捜していたんだ」
「ごしょうよ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]が云った、「あたし死んじまうわ」
客はしっかりとおひろ[#「ひろ」に傍点]を抱え、「坐ってくれ、頼むから坐ってくれ」と云って、むりやりにそこへ坐らせた。おひろ[#「ひろ」に傍点]は袂で顔を掩い、躯を固くして坐った。
「友達に教えられたんだ、ゆうべ来た友達が教えてくれたんだ」と客は云った。客もあがっているようすで、云うことがしどろもどろだった、「二年まえからみんなに頼んであったんだ、ゆうべは同業の寄合があって、おれはまっすぐに帰ったが、四人はこっちへ崩れて来た、ひろ[#「ひろ」に傍点]ちゃんに当ったのは八百勝っていうんだが、それがここから帰りに寄って、知らせてくれたんだ」
おひろ[#「ひろ」に傍点]は身動きもしなかった。客の云うことを聞きながら、「罰だ、罰だ、――」と心のなかで呟いていた。なにが罰なのかむろんわからない、ただしぜんと、そんな言葉がうかんだのであった。――頭の中でいろいろな記憶が廻りだし、「このひと常さんだわ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は思った。大八百屋の常さんだわ、どういうわけだろう、どうして常さんなんぞが、こんなところへ来たのかしら、どうしてかしら、とおひろ[#「ひろ」に傍点]は思った。
客は話していた。自分もいちど嫁をもらったが、病身で、三年まえに死なれた。それからずっと独身でいる。おひろ[#「ひろ」に傍点]を捜しだして、事情が許せば、おひろ[#「ひろ」に傍点]といっしょになりたかったからだ。自分は初めからおひろ[#「ひろ」に傍点]が好きで、おひろ[#「ひろ」に傍点]を嫁にもらうつもりでいた。利助はいくじなしのくせに猜《ずる》いから先手を打っておひろ[#「ひろ」に傍点]を掠《さら》っていった。自分がおひろ[#「ひろ」に傍点]を欲しがっていることを勘づいて、うまく先まわりをしたのだ。自分は利助がどんな人間かということを知っていたし、おひろ[#「ひろ」に傍点]を仕合せにしてやれるかどうかも、およそ察しがついていた。そして「このとおりだ」と客は声をつまらせ、ごくっと、喉でなにかをのみこむような音をさせた。
「あいつ、あの利助のちくしょう」と客は云った、「ひろ[#「ひろ」に傍点]ちゃんをこんなめにあわせやがって、……おれは」
するとおひろ[#「ひろ」に傍点]が泣きだした。
顔を掩っていた袂《たもと》を、ばたっと落し、坐って壁のほうを見たまま、手放しで、う、う、と子供のように、声をひそめて泣きだした。客はすり寄って、「ひろ[#「ひろ」に傍点]ちゃん」と云った。
「もういい、利助と別れてくれ」と客は続けた、「ここまでやれば充分だ、充分すぎるくらいだ、おれが金を出すから、それを利助に遣《や》って別れてくれ」
おひろ[#「ひろ」に傍点]は泣いていて、あふれ出る涙が、頬から膝の上へぽとぽとと落ちた。
利助の親は房州の木更津だったろう、と客が云った。木更津で漁師をしている親類がある筈だ、利助は病気だというから、そこへ帰ればいい。金は十両遣る、十両遣れば利助はうんというに違いない。利助はそういう男だ、子供は付けてやってもいいし、おまえが望むならおれが引取ろう。おれには子がないから、引取って二人で育ててもいい、「ひろ[#「ひろ」に傍点]ちゃんの子ならよろこんで育てるぜ」と客は云った。
おひろ[#「ひろ」に傍点]は泣いていて、客の話は殆んど聞かなかった。けれども意味はわかった。聞いているとは思わなかったのに、客の云ったことは始めから終りまで残らずあたまにはいり、茫然と、手放しで泣きながら、心のなかで頷いたり、かぶりを振ったりした。
「あたしはもうだめよ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]はひしゃげたような声で云った、「あたしはもういない人間よ、ここにいるのはあたしじゃあないの」
「いや、おれにはひろ《ひろ》ちゃんだ」
「あたしこの店へ来たとき思ったの」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は云った、「――五十年まえには、あたしはこの世に生れてはいなかった、そして、五十年あとには、死んでしまって、もうこの世にはいない、……あたしってものは、つまりはいないのも同然じゃないの、苦しいおもいも辛いおもいも、僅かそのあいだのことだ、たいしたことないじゃないのって、思ったのよ」
[#6字下げ]七[#「七」は中見出し]
客の顔が歪み、「ひろちゃん」という声がふるえた。おひろ[#「ひろ」に傍点]は泣きじゃくりながら、客に笑いかけた。
「可笑しいでしょ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は云った、「お寺さまの云うようなことで、可笑しいわね、――でも本当なのよ、それからずっと、辛いことや苦しいことがあるたんびに、あたしそのことを自分に云いきかせて来たのよ」
客は口の中で、「ちくしょう」と呟いた、「あの利助のちくしょう」と呟き、衝動のようにおひろ[#「ひろ」に傍点]の手をつかんだ。おひろ[#「ひろ」に傍点]は拒まなかった。客につかまれたまま、おひろ[#「ひろ」に傍点]の手はぐったりと、力がぬけていた。
「もうたくさんだ、ひろ[#「ひろ」に傍点]ちゃんは苦労するだけ苦労した、もうきりをつけよう」と客が云った、「仕甲斐《しがい》のある苦労ならいくらしてもいいが、相手が利助では砂地へ水を撒《ま》くようなものだ、おまえの云うとおり、五十年さきには死んでしまうものなら、生きているいまを生きなければならない、生きているうち仕合せに生きることを考えよう」
「あたしもうだめよ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は云った、「こんなにか躯も汚れちゃったし、それに子供まであるんですもの」
「だからその子はおれが引取る、おれたちの子にして育てるんだよ」と客はおひろ[#「ひろ」に傍点]の手を強く握りしめた、「おれは二年ものあいだ捜してたんだ、本気なんだ、――ひろ[#「ひろ」に傍点]ちゃん、あいつと別れてくれ、躯が汚れてるっていうけれども、そんなものは百日も養生すればきれいになってしまう、そんなことにこだわることはないよ」
「二年も、――」とおひろ[#「ひろ」に傍点]はぼんやりと訊いた、「二年も捜してくれたんですって」
「友達だの知合だの、みんなに頼んでだ」
「どうしてわかったの」
「将監さまの細みちだよ」と客が云った、「覚えてるだろう、あんな文句はよそじゃあうたやあしない、こころぼそい頼りだが、ほかに手だてがなかったからね」
おひろ[#「ひろ」に傍点]はぼんやりと客の顔を眺め、それから、両手で静かに顔を押えた。
客はまた「利助と別れてくれ」と云った。利助は木更津へ帰ればいい、そのほうが病気にもいいだろうし、もしも漁師に株のようなものがあるなら、十両で暮しのみちも立つだろう。金はいつでも用意するから、「帰ったらすぐにはなしをつけてくれ」よければおれがいってもいい、と客は云った。
――そうよ、あのひとは木更津に親類があるわ。
とおひろ[#「ひろ」に傍点]は思った。そうよ、あたしもうたくさん、疲れて疲れてくたくただわ。そして藤川屋の男が(ふところから)十手を覗かせたことや、「土庄」のお幸のせせら笑いや、髪へ手をやりながら、奥へ去るときの気取った恰好や、良人が卑屈にぺこぺこあやまった姿などを思いうかべ、ぞっとしながら首を振った。
――木更津から親類だっていう人が、幾たびか来たわ。
あのひとは木更津へ帰ればいいのよ、とおひろ[#「ひろ」に傍点]は思った。そうよ、あのひと十両も貰えるんだもの、あたしもうすっかり草臥《くたび》れた。十両なんてお金を見れば、あのひとよろこんで別れるわ、顔が見えるようだわ、とおひろ[#「ひろ」に傍点]は心のなかで自分に云った。
「わかったね」と客が云っていた、「帰ったらあいつとはなしをつけるんだよ」
「ええ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は頷いた、「わかりました」
「やれるだろうね、もしやれないんなら、おれがはなしにいってもいいんだぜ」
「大丈夫です、あたしがはなしをつけます」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は云った、「あたしだってそのくらいのことはできます」
「それでいい、それさえきまりがついたらあとのことはおれが引受ける」と客は力んだ口ぶりで云った、「なにもかもおれに任せて、おれのするとおりにしていればいいんだ、決してひけめを感じたり、いやな思いをするようなことはさせやしない、わかったな」
おひろ[#「ひろ」に傍点]は「ええ」と頷いた。
客の痩せた顔に血がのぼり、眼が活き活きとかがやきを帯びた。おひろ[#「ひろ」に傍点]は初めて見るように、客の顔を見まもった。痩せたおもながな顔で、鼻が高く、眼つきや口もとに、きかない気持があらわれている。膚の色は白いほうで鬚《ひげ》の剃《そ》りあとが青く、髪の毛は羨《うらや》ましいほど黒い。渋い縞紬《しまつむぎ》の袷《あわせ》に角帯をしめているが、その着物や帯を取替えたら、あのころの常吉そのままに見えるだろう。おひろ[#「ひろ」に傍点]は「ええ」と眼を伏せ、「仰《おっ》しゃるとおりにします」と低い声で云った。
「よし、これできまった、おれはうちで待っている」と客は云った、「子供のことはおまえの望みどおりにしよう、おれは金の用意をして、うちで待っているよ」
客はさきに帰った。別れて出てゆくとき、客はおひろ[#「ひろ」に傍点]の眼をじっとみつめて、囁《ささや》くように、「待っているよ」と云った。おひろ[#「ひろ」に傍点]は唇で微笑しながら、客の眼に頷き返した。
おひろ[#「ひろ」に傍点]はひと足おくれて、店を出た。もうおまさ[#「まさ」に傍点]と幾世も銭湯から帰っており、じろじろとさぐるような眼で、こっちを見た。おそらく文弥がぬすみ聞きでもして、それを二人に告げ口したのに違いない。おひろ[#「ひろ」に傍点]はその眼を背中に感じながら、黙って店から出ていった。
――そうきめよう、常さんの云うとおりにしよう。
溜池のふちを歩いてゆきながら、おひろ[#「ひろ」に傍点]は繰り返して思った。常さんは本気だと云った。二年ものあいだ捜していてくれたのだ。迷うことはない。考えるのもあとのことだ。いまは常さんの云うとおりにしよう。もうそうしても不人情ではない筈だ、「もう不人情だなんて云われることはないわ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は呟いた。
歩いているうちに、だんだんと肚《はら》がきまり、決心がついた。おひろ[#「ひろ」に傍点]は芝口二丁目の駕籠屋へ寄り、主人の源平に会って、「店をやめる」ことを告げた。わけは話さなかったが、源平もなにも訊こうとはせず、「それはよかった、できればそのほうがいい」といって頷いた。
魚屋と八百屋で、晩の買い物をして、帰ってゆくと、路地の角で政次が遊んでいた。父ちゃんはと訊くと、「寝ている」と答えたまま、独りで遊び続けていた。――おひろ[#「ひろ」に傍点]はうちへはいり、勝手へいって、買って来た物をひろげた。
「おめえか、――」と六帖で利助が云った、「帰ったのか」
おひろ[#「ひろ」に傍点]は「ええ」といった。
「おそかったじゃねえか、買い物にどこまでいったんだ」
おひろ[#「ひろ」に傍点]は答えなかった。利助の咳《せ》きこむ声が聞え、おひろ[#「ひろ」に傍点]は水を使いはじめた。利助の咳が(半分は)うそだということを、もうかなりまえからおひろ[#「ひろ」に傍点]は知っていた。
「おれの云うのが聞えねえのか」と利助が咳をしながら云った、「薬を煎《せん》じるのも忘れて、どこへいってたんだ、薬を煎じるんじゃあねえのか」
おひろ[#「ひろ」に傍点]は「いまやります」と答えた。
[#6字下げ]八[#「八」は中見出し]
その日ほど、夜になるのを待ちかねたことはなかった。政次と銭湯へゆき、玩具を買ってやり、夕食の支度にも、必要以上の手間をかけた。おひろ[#「ひろ」に傍点]の態度でなにか感じたものか、利助は黙って、じっとこちらのようすをうかがっているようであった。
夕食の膳に向ったとき、利助は「今日ちょっと大鋸町の親方のところへいって来た」と、独り言のように云った。おひろ[#「ひろ」に傍点]は「そう」といったきり相手にならず、彼もあとを続けようとはしなかった。そして、食事が終って、おひろ[#「ひろ」に傍点]が勝手で洗い物をしていると、ふらっとうしろへ来て、「おまえのいないあいだに親方のところへいって来た」と云い、それから「あとで話したいことがあるんだ」と云った。
おひろ[#「ひろ」に傍点]は黙って茶碗を洗っていたが、やがて、「あたしも話があります」と云った。はっきりと、おちついた声で、自分でも意外なほど、きっぱりした調子だった。利助はなにも云わずに、六帖へ戻っていった。
――大丈夫だ、これなら大丈夫だ、負けやしない、決して負けやしないから。
おひろ[#「ひろ」に傍点]は殆んど微笑しながらそう思った。
あと片づけが済むと、おひろ[#「ひろ」に傍点]は行燈を明るくして繕い物をひろげた。子供が寝たら、自分のほうから先に、話しだすつもりでいた。
しかしそのまえに、利助のほうが口を切った。彼は自分の寝床へ子供を入れるとすぐに、「親方が仕事を呉《く》れるっていうんだ」と云いだした。おひろ[#「ひろ」に傍点]は針を動かしながら、「子供が寝てからにして下さい」と云った。話ならあたしのほうで先に聞いてもらいたいことがあるんです。うん、と利助は頷き、「たいてえわかってる」と云った。わかってるからおれが先に云いたいんだ。おまえに話をきりだされたら、おれには何も云えなくなる。それがわかってるから、おれを先にしてもらいたいんだ、と利助は云った。
おひろ[#「ひろ」に傍点]は黙って縫い続け、利助は低い声で話しだした。
「おまえは今日、おれが知ってた、って云ったな」と彼は云った、「藤川屋の者が帰ったあとで、髪を直しながらそう云った、低い声だったが、おれにははっきり聞えた」
そのときおれは、いきなりこの胸へ、鑿《のみ》でも突込まれたような気がした、大袈裟じゃあない、胸のここが抉《えぐ》られるように痛かった。いまでも、胸のここにその痛みが残ってる。正直に云う、おまえは信用しないかもしれないが、今夜はすっかり云ってしまう。おれは知らなかった、あのときまで、藤川屋の男が云うまでは本当に知らなかった。本当だ、と彼は云った。
おひろ[#「ひろ」に傍点]は黙って針を動かしていた。壁ひとえ隣りの、片方では、三四人よって酒を飲んでいるらしい。皿小鉢の音や、話したり笑ったりする声が、かなり賑《にぎ》やかに聞えて来る。片方は独り者の「こね屋」で、これは遊びにでかけたのか寝てしまったのか、もうひっそりとして、物音もしなかった。
――いくらでも云うがいいわ、どんなに泣き言を並べたって負けやしないから。
どんなことがあったって負けやしないから、とおひろ[#「ひろ」に傍点]は思った。
「だが、藤川屋の男が云うのを聞いたとき、そしておまえに殴りかかったとき、おれは、自分が勘づいていた、ということに気がついた」
うすうす勘づいていた。むろんはっきり岡場所だということはわからない、わかる筈がないし、わかることが恐ろしかった。おまえのようすや稼ぎ高で、普通の茶屋勤めではない、なにか隠して働いている。そう察していながら、それをつきとめることが怖かった。長いあいだぶらぶらしていて、気持にも躯にも張りがなくなっていたのだろう。正直に云うが、それとはっきりわかることが怖かった、本当に「恐ろしかったんだ」と云って、利助はちょっと口をつぐんだ。
「おまえを殴りながら、おれはてめえを殴ってるんだな、って思った」と利助は続けた、「おれは自分で自分を殴ってたんだ、殴りながら、おれは自分で自分に、死んじまえと云ってた、死んじまえ、死んじまえって、云ってたんだ」
彼はそこで言葉を切り、子供の寝息をうかがっていて、やがて怖かに起き直った。そして、子供の肩を掛け蒲団でくるみ、自分はその脇に坐って、頭を垂れた。
「夫婦になってあしかけ六年、その半分は病気で、おまえ一人に苦労をさせた、それも、岡場所なんぞで稼がなければならないほど、……おれは生れて初めて、てめえがどんな人間かっていうことに気がついた、おらあ本当に死んじまいたかったぜ」
利助は喉を詰らせ、頭を垂れたまま、両手で、寝衣の膝をぎゅっと掴んだ。利助は言葉を続け、おひろ[#「ひろ」に傍点]は(自分の躯から)力がぬけてゆくのを感じた。良人の言葉に動かされたのではなく、それとはまったくべつに、常吉との距離が、しだいに大きくなるような、こころぼそく頼りない気分になっていった。
――常さん、あたしをつかまえていてちょうだい、大丈夫、負けやしないから、あたしをしっかりつかまえていて。
これも正直に云ってしまうが、おれはもう起きてもいいんだ、と利助は云っていた。起きてもいいし、楽な仕事ならぼつぼつ始めてもいいって、医者から云われたんだ。それを、躯がなまになっているし、おまえが稼いでくれるから、もう一日もう一日と、てめえでごまかしながら怠けていた。
「けれども今日、あのことがあってから考えた」と利助は云った、「いっそ死んじまいてえが、死んだってこれまでの償いにはならない、性根を入れ替えてやってみよう、――本当にやれるか、やってみる、……こう思って、おまえの留守に大鋸町へいったんだ」
おひろ[#「ひろ」に傍点]の手が動かなくなり、その眼が、ぼうと焦点をなくした。
「あたしに頼まないでね」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は呟くように云った、「あたしはもういや、すっかり疲れちゃってるの、どうかもうなんにも頼まないでちょうだい」
聞くだけ聞いてくれ、と利助は云った。親方はいい顔はしなかった、おれはこれが一生のわかれめだ、と思ってねばった。それで親方が仕事をくれることになった。仕事とはいえない、取引き先の木場の番人だ。夫婦者で住込みの者が欲しい、という店がある。食い扶持《ぶち》にしかならないが、躯が使えるようになるまで、やってみる気があるなら世話をしよう、と云われたんだ。
「いいじゃないの」とおひろ[#「ひろ」に傍点]が喘いだ、「住むうちがあって、食い扶持が、もらえるんなら」そしてさらに、まるで溺《おぼ》れかかってでもいるように、喘ぎ喘ぎ云った、「食って寝てゆけるんなら、番人だってなんだって、いいじゃないの」
「おひろ[#「ひろ」に傍点]、おめえ、そう云ってくれるか」
ああ、とおひろ[#「ひろ」に傍点]は膝の上のものを投げ、激しく首を振って「ああ」と呻《うめ》いた。
――常さん、あたしをつかまえて。
心のなかでそう叫びながら、おひろ[#「ひろ」に傍点]はそこへ俯伏《うつぶ》せになった。
[#6字下げ]九[#「九」は中見出し]
利助はおろおろし、立って来ておひろ[#「ひろ」に傍点]の背へ手をかけ、「いま云ったことは本当か」と声をふるわせた。おひろ[#「ひろ」に傍点]は彼の手を(背中で)よけ、うう、と喉で息を詰らせた。
「おらあやってみせる」と利助はふるえながら云った、「番人だって三月か半年すれば、躯もしゃっきりするだろうし、そのあいだに鑿や鉋《かんな》の手ならしもできる、躯が使えるようになったらやるぜ、こんどこそおらあやってみせるぜ」
おひろ[#「ひろ」に傍点]は畳へ俯伏せになったまま、ぐらぐらと頭をゆすった。利助は「おらあきっとやるぜ」と云って泣きだし、その泣き声が、おひろ[#「ひろ」に傍点]を雁字搦《がんじがら》みにした。
――うれしいわ、常さん、あんた二年もあたしを捜してくれたのね、うれしいわ。
あたし忘れないわ、とおひろ[#「ひろ」に傍点]は頭をぐらぐらさせながら思った。それで充分よ、あんなところまで訪ねて来て、おかみさんにしてくれるって云ったわね。常さんがそんなに思っていてくれたって、いうことだけで、本望だわ。
――それだけで本望だわ、このうえ夫婦別れをして、常さんといっしょになるなんて、できることでもないし、するとしたら罰が当るわ。
そうよ、とおひろ[#「ひろ」に傍点]は思った。常さんの云うことを承知したのは、「できない」ということがわかっていたからだわ。できるもんですか、あたしがこのひとと夫婦になり、子を生んで、岡場所でまで稼いだってことは、消えやしない。常さんといっしょになったとしても、一生それがつきまとって離れやしないのよ。常さんもあたしも、一生それで苦しいおもいをするわ、そうでしょ、常さん、とおひろ[#「ひろ」に傍点]は思った。
――このひとが昔から弱虫だったこと、知ってるわね、このひと、いつも常さんに負けてばかりいたわ、喧嘩をするたびに負けて、泣きながら逃げて、遠くのほうから云うじゃないの、おーやおやおやって。
おひろ[#「ひろ」に傍点]は喉を詰らせた。そのときの利助の、涙でぐしゃぐしゃになった顔や、遠くから泣き泣きからかう声が、まざまざと思いうかび、そうして、こみあげてくる笑いをけんめいに抑えた。
「云ってくれ、おひろ[#「ひろ」に傍点]」と利助が泣き声で云った、「おれの云うことはこれだけだ、こんどはおめえの話を聞こう」
おひろ[#「ひろ」に傍点]は頭を振って、「もういいの」と乾いた声で云った。
「話してくれ。おれはなんでも聞くぜ」
「もういいの」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は云った、「あんたがそういう気持になってくれれば、云うことはないの、――あとは早く引越したいだけよ」
「本当に話すことはねえのか」
子供がぐずぐず泣きだし、おひろ[#「ひろ」に傍点]は立っていって、そっと子供の脇へ添寝をした。
「早く此処《ここ》を引越したいだけよ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は云った、「その木場へは、いつゆけるの」
「親方に頼めばすぐにでもゆける筈だ」と利助が云った、「おひろ[#「ひろ」に傍点]、……おめえ、おれと別れるつもりじゃあなかったのか」
おひろ[#「ひろ」に傍点]は黙っていて、それから「ばかなことを云わないでよ」と云った。
「思いとまってくれたんだな」と利助が云った、「ともかく、いますぐ別れるっていうんじゃねえんだな」
「大きな声をしないで、政がねかかってるところじゃないの」
「有難え、おらあやるぜ」と利助は声をころして云った、「おめえがいてさえくれれば、おらあきっとやってみせる、きっとだ」
おひろ[#「ひろ」に傍点]は政次の背をそっと(指さきで)叩きながら、低い声でうたいだした。常さん、この唄はもう一生うたわないことよ、今夜っきりよ、と心のなかで呼びかけながら、囁くように、うたいだした。
[#ここから2字下げ]
――ここはどこの細みちじゃ
将監さまの細みちじゃ
ちょっと通して下しゃんせ……。
[#ここで字下げ終わり]
底本:「山本周五郎全集第二十七巻 将監さまの細みち・並木河岸」新潮社
1982(昭和57)年8月25日 発行
底本の親本:「小説新潮」
1956(昭和31)年6月号
初出:「小説新潮」
1956(昭和31)年6月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
山本周五郎
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【テキスト中に現れる記号について】
》:ルビ
(例)駕籠《かご》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)二|帖《じょう》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「ひろ」に傍点]
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夜の九時すぎ、――おひろ[#「ひろ」に傍点]が帰り支度をしていると、四人づれの客が駕籠《かご》で来て、あがった。四人とも酔っていたが、身装《みなり》も人柄もよく、どこかの寄合の崩れといった恰好で、「この土地は初めてだから」よろしく頼むと云った。
四月中旬の曇った晩で、空気も湿っぽく、夕方からずっと、いまにも降りだしそうな空もようであった。おひろ[#「ひろ」に傍点]は通いなので、そのまま帰ろうとすると、店を預かっているおまさ[#「まさ」に傍点]が来て、「残っておくれ」と云った。
「一人はあたしが出るし、幾世と文弥が二人を引受けるっていうの、お客もまわしでいいっていうんだけれど、女の数がそろわなければ帰るって、――済まないがたまのことだから、今夜は泊ってっておくれな」
おひろ[#「ひろ」に傍点]は返辞を渋った。すると、おまさ[#「まさ」に傍点]の眼がすぐに険しくなった。
「いやなの」とおまさ[#「まさ」に傍点]が云った、「いやなら小花家さんの誰かに助けてもらうからね、いやなものを無理にとは云わないんだから」
「ええ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は頷《うなず》いた、「泊ります」
おまさ[#「まさ」に傍点]は「はっきりしてよ」と云い、おひろ[#「ひろ」に傍点]はもういちど「泊ります」と答えた。そんならちょっと三河屋まで酒を云いにいって来て、それから支度を直して出てちょうだい、もう店も閉めていいわよ、そう云っておまさ[#「まさ」に傍点]は奥へ去った。
――またいやみを云われるんだわ。
おひろ[#「ひろ」に傍点]は風呂敷包を置いて、そう思いながら裏口から外へ出た。
赤坂田町にあるその岡場所は、俗に「麦めし」と呼ばれていた。一ツ木の通りを隔てたうしろは小屋敷で、片方は溜池の堀に沿っており、堀のすぐ向うには、山王の森が黒ぐろと高く、こちらへのしかかってくるように見える。おひろ[#「ひろ」に傍点]は堀端の道へ出て、三丁目にある三河屋までゆき、酒の注文をして戻った。
――またいやみを云われるのよ。
暗い町を戻りながら、おひろ[#「ひろ」に傍点]は幾たびも溜息をついた。良人の利助の尖《とが》った顔と、おまさ[#「まさ」に傍点]の意地の悪い、嘲笑《ちょうしょう》するような顔が眼にうかび、まるで二人がなれあいで、両方から自分をいためつけているかのように思えた。
「五十年まえ、――」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は首を振りながら呟いた、「五十年あと、――」
そして、その呟きとは無関係に、頭のなかで自分に云った。
――わかってるじゃないの。
そうだ、わかっていることだ。泊って帰れば、良人《おっと》がいやみを云うのはわかっている。だが、泊るのを断われば、おまさ[#「まさ」に傍点]は小花家から代りの女を呼ぶだろう。そうすればもう、自分が染井家で稼《かせ》げなくなるのもわかりきったことだ。
――どうしようもないじゃないの。
岡場所の女で「通い」というのはない。殆んどないといってもいいだろう、おひろ[#「ひろ」に傍点]は特別な事情でそれが許されていた。去年の七月まで、おひろ[#「ひろ」に傍点]は京橋五郎兵衛町の「増田屋」という料理茶屋に勤めていて、そこで客の源平と知りあった。彼女には病気の良人と、政次といって四つになる子供があり、良人の医薬や生活をたててゆくために、(どうしても)もう少し稼ぎを殖《ふ》やさなければならなくなっていた。それはどうにもならぬほどさし迫っていたし、病夫と子供を抱えた、ほかに芸のない女には、それをきりぬける手段は一つしかなかった。おひろ[#「ひろ」に傍点]は源平に相談した。彼は芝口二丁目で駕籠屋をやっているかたわら、赤坂田町の岡場所に「染井家」という店を持っており、――それは友達のものを引受けたのだそうであるが、――店はおまさ[#「まさ」に傍点]という女に任せていた。
おひろ[#「ひろ」に傍点]はそれを聞いていて相談し、源平は承知した。
おひろ[#「ひろ」に傍点]は金は借りなかった。そういう金は躯《からだ》を縛られるし、嵩《かさ》むばかりで、ついにはぬけられなくなることも、知っていたが、病夫や子供の世話をするためには、家から通わなければならなかった。源平はそれも承知して、田町の店へ伴《つ》れてゆき、おまさ[#「まさ」に傍点]に事情を話してくれた。こうして、おひろ[#「ひろ」に傍点]は通いで稼ぐようになった。良人や近所の人には、「芝神明前の料理茶屋へ替った」と云い、午《ひる》に出て夜の九時か十時には帰る、という生活を、一年ちかくも続けて来た。
染井家には女が三人いた。店を預かっているおまさ[#「まさ」に傍点]は二十二、文弥は二十一、幾世は十九で、おひろ[#「ひろ」に傍点]がいちばん年上の二十三であった。三人はおひろ[#「ひろ」に傍点]に親しまなかった。親しまなかったばかりでなく、反感をもっていた。敵意とまではいえないが、反感をもっていることは慥《たし》かである。理由の一つはもちろん「通い」ということだろうが、もう一つ、亭主と子供があることも、彼女たちの気にいらないようであった。――三人には三人の、不仕合せと、重荷があるに違いない。それならおひろ[#「ひろ」に傍点]の不仕合せにも、同情してくれていい筈だと思うのだが、そうではなく、三人ともおひろ[#「ひろ」に傍点]を白い眼で見るし、客の前などでも、意地の悪いことをしたり、云ったりした。――当然のことかもしれないが、三人にはおひろ[#「ひろ」に傍点]の不仕合せが、自分たちのよりも小さく、その荷が自分たちのものより軽いと思っているらしい。病人はいつも自分より軽症の者に嫉妬《しっと》を感ずるものだ。おひろ[#「ひろ」に傍点]は彼女たちの嫉視《しっし》と反感を、おとなしく黙って、うけながして来た。
――どうしようもないじゃないの。
おひろ[#「ひろ」に傍点]はいつも自分にそう云いきかす。染井家へ通いはじめてからずっと、自分の力に及ばないことは、つまり「どうしようもない」と納得するよりほかにしかたがなかったのである。
「五十年まえ、――」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は無意識に呟いた、「そして、五十年あと、――」
気がつくと雨が降りだしていた。ぼんやり歩いていたおひろ[#「ひろ」に傍点]は、頬に当る雨粒で気がつき、手拭を出してかぶろうとしたとき、「おその[#「その」に傍点]さんじゃないか」とうしろから声をかけられた。おその[#「その」に傍点]は染井家でのおひろ[#「ひろ」に傍点]の呼名であった。振返ってみると、平吉という三河屋の店の者で、右手に角樽《つのだる》を提げていた。
「これから届けにゆくところなんだが」と平吉は云った、「おめえまだこんなところにいたのかい、驚いたな、どうかしたのかい」
おひろ[#「ひろ」に傍点]はあいまいに首を振った。
「堀っ端だぜ、へんな気を起こしちゃあいけねえ、大丈夫かい」
おひろ[#「ひろ」に傍点]は大丈夫よと笑い、「あんたも御苦労さまね」と云った。
「まったく御苦労さまさ」と平吉は云った、「こんなじぶんまでしょうばいをする酒屋なんてあるもんじゃねえ、へ、うちのどうつくばりめ、おらあもう逃げだしだ」
そして彼は小走りに追いぬいていった。
[#6字下げ]二[#「二」は中見出し]
おひろ[#「ひろ」に傍点]は酒を飲まされてひどく酔った。
飲ませたのは客たちであるが、おまさ[#「まさ」に傍点]が「このひと底なしよ」と云ったからで、「そんなことはない」とおひろ[#「ひろ」に傍点]が辞退すればするほど、客たちは面白がり、四人が代る代る、休みなしに盃《さかずき》をさした。こんなところへ来る客は、殆んど酒などは飲まない。飲むにしても、一本か二本がおきまりであるが、その四人は十二時すぎるまで飲み続けた。――はじめのうち、おひろ[#「ひろ」に傍点]は用心して、盃の半分は盃洗へあけるようにしていたが、そのうちにおまさ[#「まさ」に傍点]が「このひと御亭主と子供があるのよ」と、いつもの意地悪を云いだし、すると、客のほうでもそれが意地悪だということを察したらしく、一人が「そいつは有難い」と逆手に出た。
「そういうことならおれが願うとしよう」とその客が云った、「ひとのかみさんと寝れば、重ねておいて四つにされるか七両二分だ、おその[#「その」に傍点]さんはおれがもらうぜ」
「そうはいかねえ」と他の一人が云った、「そのひとは初めからおれにきまってるんだ、たって欲しいんなら七両二分出してもらおう」
他の二人も同じようなことを云いだした。明らかに、おまさ[#「まさ」に傍点]に対する当てつけらしい。おひろ[#「ひろ」に傍点]は胸が熱くなり、それから飲みだした。
文弥と幾世は、泊りの客があったので、さきに部屋へ去り、おまさ[#「まさ」に傍点]とおひろ[#「ひろ」に傍点]が、四人の相手をした。おまさ[#「まさ」に傍点]はまったく飲めないたちだし、客たちがおひろ[#「ひろ」に傍点]にだけちやほやし始めたので、それならしょうばいをしてやれ、と思ったのだろう、自分で立ってどんどん酒を運んだ。――おひろ[#「ひろ」に傍点]はやがて泥酔して、わけがわからなくなり、客といっしょに部屋へはいるなり、嘔吐《おうと》した。客はいやな顔もせずに、窓をあけて吐かせてくれ、肩を撫《な》でながら「わるじいをして済まなかった」と詫《わ》びたり、水を持って来てくれたりした。
そのまま熟睡したらしい、眼がさめると、客が腹這《はらば》いになって、煙草をふかしていた。おひろ[#「ひろ」に傍点]はそちらへ向き直った。客は「いいよ」と云ってその手を押し返し、「気持はどうだ」と劬《いたわ》るようにおひろ[#「ひろ」に傍点]を見た。おひろ[#「ひろ」に傍点]は微笑しながら「さっぱりしました」と答えた。
「お世話をかけて、ごめんなさい」
「こっちが悪いんだ」と客が云った、「こっちも酔っていたもんだから、本当に飲めるんだと思ったんだ」
おひろ[#「ひろ」に傍点]ははにかみ笑いをして、「盃に三つくらいしか飲んだことはないんです」と云った。客は煙管《きせる》を置いて、枕許《まくらもと》の水を飲み、おひろ[#「ひろ」に傍点]にも「飲むか」と訊《き》いて、湯呑に注いでくれた。おひろ[#「ひろ」に傍点]はまた胸が熱くなり、眼をそむけながら、その水を飲んだ。客は横になって「さっきの唄をもういちど聞かせてくれないか」と云いだした。
「さっきの唄ですって」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は訊き返した、「あたし唄なんかうたったんですか」
「うたったさ、覚えていないのか」
「嘘でしょ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は云った、「あたし唄なんて知りゃあしませんもの」
「唄っていっても子供の唄さ、――向う横町だったかな、いやそうじゃない、烏どこゆく、……でもないし」
「ここはどこのですか」
「うんそれだ、その唄だ」
「いやだ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は苦笑した、「そんな唄をうたったんですか、ばかだわ」
「済まないがもういちど頼む」
おひろ[#「ひろ」に傍点]は「いやですよ恥ずかしい」と首を振り、客は熱心にせがんだ。なにかわけでもあるようすで、「もういちどぜひ」とせがんで、きかなかった。おひろ[#「ひろ」に傍点]はやむなくうたった。すると客は「文句が少し違うね」と云った。あらそうですか。少し違うよ、はじめのところをうたってごらん。いやだわ恥ずかしい、と云ったが、おひろ[#「ひろ」に傍点]はまたうたった。
「こーこはどーこの細みちじゃ、将監さまの細みちじゃ」
「そこだ」と客が云った、「おれたちのほうでは天神さまの細みちっていうぜ」
おひろ[#「ひろ」に傍点]はちょっと眉をひそめた。良人の利助が、子供を寝かしつけるときに、いまでもその唄をうたうことを思いだしたのである。
「ええ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は頭を振って云った、「ええ本当はそうなんです」
「間違えたのか」
「いいえ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は云った、「小さいじぶんの遊び友達がそううたい始めて、それからずっとそううたう癖がついてしまったんです、あたしたちの町内の隣りに、松平将監さまのお屋敷があったもんですから、それでその子がそううたおうって云いだしたんです」
「その友達はまだいるのか」
「さあ、――」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は口ごもった、「あたし六年まえに引越したまま、元の町内へはいちどもいってみたことがありませんから」
客はなおなにか訊きたそうだったが、思い返したようすで、「寝ようかね」と寝返りをうち、「将監さまの細みちか、有難うよ」と云った。おひろ[#「ひろ」に傍点]は、二人の間へ風のはいらないように、掛け夜具を直しながら、「おやすみなさい」と云った。
このひと常さんと同い年ぐらいかしら、とおひろ[#「ひろ」に傍点]は思った。常吉さん、そうだ、常さんもお嫁さんをもらったって聞いたわ。あたしたちが引越したあと、二年ばかりしてもらったって。あたしは政次が生れたり、絶えず暮しに追われどおしで、ひとの事どころではなかった。常さんにおかみさんができたと聞いたときは、ちょっと淋しかったけれど、どんなお嫁さんかと考えたこともなかった。
――あのころはよかったわね。
とおひろ[#「ひろ」に傍点]は心のなかで呟いた。
夕方になると、「帰っておいで」と呼ばれるのが惜しくって、その一刻をできるだけ楽しもうとしたものだ。「向う横町のお稲荷さん」は毬《まり》を突くときにうたい、「からすどこゆく薩摩《さつま》の山へ」はお手玉のときにうたった。常さんは男の子のくせにお手玉が上手で、あたしはよく口惜しがったことを覚えている。おきぬちゃん、おいとさん、きくちゃん、うちのひと、それから常さん。常さんの家は表通りの「八百惣」という八百屋で、一人っ子だった。間口五間の店の横に、大きな物置があり、野菜や果物や、漬物桶《つけものおけ》などが並んでいて、中へはいるとむっとするような匂いがした。常さんはあたしを伴《つ》れてはいっては、枇杷《びわ》だの、蜜柑《みかん》だの、梨だのを出して、ふところや袂《たもと》に、いっぱい呉《く》れたものだ。
ああ、とおひろ[#「ひろ」に傍点]は溜息をついた。
――もう一生、あのじぶんに帰ることはできないのね。おひろ[#「ひろ」に傍点]は頭を振り、眼をつむった。眼をつむると胸がせつなくなり、涙があふれてきた。あのころへ帰るどころか、こんなに身を堕《おと》してしまって、いつ足を洗えるかどうかもわからないじゃないの。ああ、いったいこれからどうなるのかしら、とおひろ[#「ひろ」に傍点]は心のなかで呟き、そっと指で眼を拭いた。
客の軽い寝息が聞え始めた。
[#6字下げ]三[#「三」は中見出し]
おひろ[#「ひろ」に傍点]の家は木挽町《こびきちょう》七丁目にある。三十間堀のほうから路地をはいると、長屋の三軒めで、前に井戸があり、その脇に梨の木があった。大きな梨の木で、季節が来ると、柔らかい葉といっしょに白い花がみごとに咲き、散りはじめると井戸のまわりがまっ白になる。――今年はもう花も散り終っていて、ゆうべの雨に濡れた若葉が、眼にしみるほどきれいに見えた。
帰って来たおひろ[#「ひろ」に傍点]を見ると、井戸端にいた女房たちが声をあげ、「まあちゃん、おっ母さんが帰って来たよ」と呼んだ。見ると政次が、梨の木の下に、一人でぽつんと立っていて、すぐにこっちへ駆けて来た。おひろ[#「ひろ」に傍点]は女房たちに礼を述べ、子供の手をひいて、家へはいった。政次は誰も遊んでくれないことを訴え、お土産をねだった。おひろ[#「ひろ」に傍点]は途中で買って来た菓子を出し、「もうお午《ひる》だから」と、一つだけ与えて、あとは鼠不入《ねずみいらず》へしまった。
寝床は敷いたままで、良人はいなかった。政次は(口止めをされているらしく)小さな声で「しょうぎ、――」と云った。五丁目にある将棋の会所へいったのであろう、おひろ[#「ひろ」に傍点]は暢気《のんき》なものだと思いながら、いきなりいやみを云われずに済んだので、ほっとした。――政次は上り端の二|帖《じょう》で、菓子を喰《た》べながら、毀《こわ》れた玩具を出して遊びはじめ、おひろ[#「ひろ」に傍点]は着替えをしてから、勝手へおりた。
午の支度をしながら、おひろ[#「ひろ」に傍点]はゆうべの客のことを思った。
朝になってから顔だけはよく見たが、処《ところ》も、名も、職業も知らずじまいであった。お互い同志では「松葉町」とか「二丁目」などというふうに、町の名で呼びあっていたし、年配や身装や、話のようすでは、みんな一軒の店を持っている人らしかった。おひろ[#「ひろ」に傍点]に当った客はいちばん若く、年は二十六七だったが、それでもどこかしらおちついた、おうようなところがあり、職人やお店《たな》者とは感じが違っていた。
「きっと常さんと同い年ぐらいよ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は菜を洗いながら呟いた、「――でも、もう来てくれる人じゃないわね」
それからくすっと笑った。
常吉の家は「八百惣」というのだが、町内ではみな「大八百屋」と呼んでいた。良人の利助は常吉とよく喧嘩《けんか》をし、利助のほうがいつも負ける。利助は頑丈な躯つきだし、常吉は痩《や》せてきゃしゃに見えるのに、喧嘩ではいつも常吉が勝った。すると、負けた利助は逃げだして、遠くのほうから、「おーやおやおや」とからかうのであった。
「――ここまで来てみやがれ、へっ、なんでえ、おーやおやおやおや」
常吉はそれをいちばんいやがっていた。
おひろ[#「ひろ」に傍点]はそのことを思いだして、くすくす笑いながら、「そうだわ」と呟いた。利助が逃げだして、遠くからそうどなるのを聞くと、可哀そうでもあるし可笑《おか》しかった。おひろ[#「ひろ」に傍点]はどっちかというと常吉のほうが好きであったが、表通りの子と裏長屋の子では、どうしても隔てがあり、喧嘩にでもなると、裏店の子は必ず裏店の子に付いた。
「そうだわ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は呟いた、「うちのひとはあのじぶんから、本当に弱虫だったんだわ、口ではいばったり強がったりしていても、いざとなると弱虫で、いくじがなかったわ」
それが可哀そうで、いつも利助の味方になり、利助を庇《かば》ってやった。
「いまでも同じことだわ」おひろ[#「ひろ」に傍点]は洗った菜の水を切り、庖丁《ほうちょう》で刻みながら、「おんなしことよ」と呟いた。「いくじなしは性分だったのよ、どうにもなりゃしないわ」
飯は残っていた。煮物をして、汁を作りながら、おひろ[#「ひろ」に傍点]は「父ちゃんを呼んで来ておくれ」と政次に会った。
帰って来た利助は、ぶすっとふくれ顔をしていた、単衣物の上に半纒《はんてん》をひっかけていて、それがいかにも病人らしくみえる。しかし、あしかけ三年も寝ていたにしては、躯に肉も付いてきたし、膚の艶《つや》もよかった。
「ゆうべはごめんなさい」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は軽い口ぶりで云った、「寄合が二た組もあって、それがどっちもおそかったし、一と組は夜明けちかくまで飲んでたもんだから、どうしても帰ることができなかったのよ」
「おめえ喰べねえのか」と利助が云った。
「お客に悪じいをされて、少し飲んだものだから胸が重いの、あたしはあとにするわ」
「ふつか酔いか」と利助が云った、「結構な御身分だ」
おひろ[#「ひろ」に傍点]は良人の顔を見た。
――なんですって。
危なく口まで出かかったが、おひろ[#「ひろ」に傍点]はがまんした。利助は眼を伏せたまま、さも不味《まず》そうに喰べていた。眉の太い、唇の厚い、情の強そうな顔つきが、そうしていると卑屈で、ずいぶん小意地が悪くみえる。おひろ[#「ひろ」に傍点]は怒るよりも、急に躯から精がぬけてゆくような気持になり、「どうにもなりゃあしないわ」と心のなかで太息《といき》をついた。
――どうせ五十年まえ、五十年あとじゃないの、おんなしこったわ。
利助はなおぼそぼそと云った。かみさんに働かせて、男が寝ているというのも辛いものだ。そっちは稼いでいるからいいと思うだろうが、寝ている身になれば、それがどんなに辛いかわからない、ときには、躯なんぞどうなってもいいから稼ぎに出よう、できなければいっそ死んでしまってやろう、と思うことさえある、「こういう気持は、丈夫な者にはわかるまい」本当は死んじまいたくなることがあるんだ、などと云った。
幾十たびとなく聞かされたぐちである。違うのはすっかり馴れたもので、その口ぶりに実感らしいものが出てきたことであった。
――死んじまいたいのはこっちのほうだわ。
おひろ[#「ひろ」に傍点]はそう思いながら、うんざりした気持を勘づかれないように、「もう少しの辛抱よ」と云って、膳《ぜん》の上を片づけはじめた。
「もう少しの辛抱よ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は云った、「もうそんなによくなったんだし、すっかり治ればまたあんたに稼いでもらわなくちゃならないんだから、くよくよしないで」
云いかけて「はい」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は振向いた。戸口で誰か呼ぶ声がしたのである。茶を飲んでいた利助が、「吉さんか」と訊いた。
「指物《さしもの》職の利助さんはこのうちか」
と戸口の声が云った。聞き慣れない声なので、おひろ[#「ひろ」に傍点]は「はい」と答え、良人を見て、前掛を外しながら二帖へ出ていった。――木綿縞の単衣《ひとえ》に角帯をしめ、尻端折りをして、紺|股引《ももひき》に麻衣をはいた男が、片手をふところに入れたまま、戸口に立っていた。
おひろ[#「ひろ」に傍点]はどきっとした。三十二三になるその男の、眼つきを見ただけで「岡っ引だ」と直感し、良人がなにかやったな、と思ったのである。はたして男は「金六町の藤川屋の者だ」と云い、ふところの十手をちょっと覗《のぞ》かせた。
おひろ[#「ひろ」に傍点]は膝《ひざ》ががくがくするのを感じた。
[#6字下げ]四[#「四」は中見出し]
男は土間へはいって、「おまえがかみさんか」と訊いた。おひろ[#「ひろ」に傍点]は坐って、「はい」と頷きながら、うしろへ振返った。
「うちのひとはいま病気で寝ているんですけれど」
「そうじゃねえ」と男は首を振った、「おまえさんにちょっと訊きてえことがあって来たんだ、おひろ[#「ひろ」に傍点]さんっていうんだね」
「ええ、あたしがおひろ[#「ひろ」に傍点]です」
「掛けさしてもらうぜ」
男はあがり框《がまち》に腰を掛けた。
――うちのひとではない。
良人ではないと知ってほっとしながら、おひろ[#「ひろ」に傍点]は「ちょっと」と云って立とうとした。すると、男は手を振った。「茶はいらねえ」と男が云った、「すぐ帰るから、ちょっとそこへ坐ってくれ」
おひろ[#「ひろ」に傍点]は坐った。六帖はしんとしていた。利助と政次の、息をひそめているようすが、こっちからよくわかった。
「御亭主が病気なんだね」
「ええ、――」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は頷いた、「もうあしかけ三年になるんです」
「そのあいだどうしてた」
「あたしが、稼いでいました」
「茶屋奉公だってね」
おひろ[#「ひろ」に傍点]は「ええ」と頷きながら、男の横顔を見た。井戸のまわりで、子供たちの遊んでいる声がし、男はそっちを見ているようであった。
「茶屋奉公か」と男は云って、静かにおひろ[#「ひろ」に傍点]を見た、「茶屋はどこだ」
おひろ[#「ひろ」に傍点]は「神明前です」と答えた。
「芝の神明だね」と男は云った、「なんという店だ」
「どうしてそんなことを訊くんですか」とおひろ[#「ひろ」に傍点]が反問した、「あたしになにか不審なことでもあるんですか」
「怒るこたあねえ、店の名を訊いてるだけだ」と男は云った、「それとも、店の名を訊かれちゃあ、ぐあいの悪いことでもあるのか」
おひろ[#「ひろ」に傍点]は男の顔を見た。男の顔は静かで、なにも読みとることができず、六帖はまだひっそりとして、物音も聞えなかった。
「神明前の」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は答えた、「――岸八っていう料理茶屋です」
「そこじゃあねえ」と男は首を振った、「おらあ岸八へいって訊いて来たんだ、おまえさんのことは誰も知らなかったぜ」
「それはあの、店では名前を、変えてるもんですから」
「おその[#「その」に傍点]ってか、――」と男が云った。
おひろ[#「ひろ」に傍点]はぴくっとし、とびだしそうな眼で男を見た。
「おめえは赤坂田町の岡場所で稼いでる」と男は云った、「田町の染井家という店で、おその[#「その」に傍点]という名で躯を売ってるんだ、そうじゃあねえか」
おひろ[#「ひろ」に傍点]は口をあいた。
そのとき六帖で(がちゃっと)膳や皿小鉢の鳴る音がし、利助がこっちへとびだして来た。男は立ちあがり、利助は「聞いたぞ」と喚いた。喚きながらおひろ[#「ひろ」に傍点]の頬を殴り、髪の毛をつかんでひき倒した。おひろ[#「ひろ」に傍点]は足をちぢめ、利助はのしかかってまた殴った。平手で、頭や横顔や肩を殴り、殴りながら叫んだ。
「聞いたぞ、このあま、聞いたぞ」と利助は叫んだ、「亭主のおれを騙《だま》しやがって、売女《ばいた》なんぞをしていやがったのか、このあま、このあま」と彼は殴りつけた、「よくもおれの面へ泥を塗りやがったな」
おひろ[#「ひろ」に傍点]は声もあげず、身を除《よ》けようともしなかった。両手で顔を掩《おお》い、足をちぢめたまま、じっと身を固くして、殴られていた。六帖で政次が泣きだし、戸口の外へ長屋の人たちが集まって来た。男は「たかるな」とかれらにどなった、「近所づきあいだろう、見ねえふりがしてやれねえのか」そして手を振り、人だかりが散ると、振返って、「もうよせ」と云った。
「殴るのはよせ」と男は利助を制止した、「けがでもさせたらどうするんだ、いいかげんにしろ」
利助は殴るのをやめ、「だって親分――」と喘《あえ》いだ。
「殴るこたあねえ」と男が云った、「病人のおめえと、子供のために稼いでるんだろう、泥棒や人殺しをしたわけじゃあねえんだから、そういきまくには及ばねえ」
「それにしたって、このあま、――」
利助はおひろ[#「ひろ」に傍点]から離れて、辻褄《つじつま》の合わないことを、喘ぎ喘ぎどなりたてた。おひろ[#「ひろ」に傍点]は倒れたまま身動きもせずに、「五十年まえ、――五十年あと、……」と心のなかで呟いていた。六帖では政次が泣き続けていて、男がおひろ[#「ひろ」に傍点]に呼びかけた。
「おらあこんな騒ぎを起こそうとは思わなかった」と男は云った、「おまえさんのことをさし[#「さし」に傍点]た者があるんで、役目柄いちおう実否を慥《たし》かめに来たんだ、それだけの話だ」
「じゃあ」と利助が訊いた、「べつにお手当になるんじゃあねえんですか」
「そんな大袈裟《おおげさ》な話じゃあねえ」と男が云った、「おらあただ実否を慥かめに来ただけだ、おかみさん、済まなかったな」
おひろ[#「ひろ」に傍点]は黙っていた。
「病人や子供を抱えてたいへんだろうが、ああいうところはなるべく早く足を洗うほうがいいぜ、尤《もっと》も、こんなことは当人のおまえさんのほうで、とっくに承知だろうがね」と男は云った、「――おひろ[#「ひろ」に傍点]さんっていったけな、ひとこと云っておくが、湯屋なんぞで人とやりあったりしねえほうがいい、世間にゃあうるせえのがいるからな、じゃあ、ごめんよ」
そして男は出ていった。
利助は六帖へゆき、泣いている子供をだましにかかった。おひろ[#「ひろ」に傍点]は静かに起きあがって、着物や帯を直し、髪の毛へ手をやった。元結は切れなかったが、根が崩れて、手をやると髷《まげ》がばらばらになった。――おひろ[#「ひろ」に傍点]は黙って六帖へゆき鏡台の前に坐った。その安物の鏡台は毀れているし、鏡はなかった。おひろ[#「ひろ」に傍点]は抽出《ひきだし》をあけ、櫛《くし》を出して髪を直しはじめた。
「卑怯者《ひきょうもの》、――」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は乾いた声で、良人のほうは見ずに、低く静かに云った、「あんた知ってたのね」
利助は沈黙し、それからまた子供をあやしだした。妻の云ったことが聞えなかったか、またはその意味がわからなかった、というようすである。おひろ[#「ひろ」に傍点]の手がふるえた。彼女には、沈黙した瞬間の良人の表情が、はっきりと眼に見えるようであった。
――あのひとは知っていた、あたしがどこで働いているか、ちゃんと勘づいていたんだ、ちゃんと。
とおひろ[#「ひろ」に傍点]は心のなかで思った。
――殴るときの、殴りかたでわかった、あれは本当に怒った殴りかたじゃない、ていさいで殴っただけだ、卑怯者。
利助は子供に話しかけ、「舟を見にゆくか」などと云っていた。おひろ[#「ひろ」に傍点]はざっと髪をまとめて、立ちあがった。
[#6字下げ]五[#「五」は中見出し]
「どうするんだ」と利助が云った、「どこへいくんだ」
おひろ[#「ひろ」に傍点]は黙って下駄をはいた。利助は立って来て呼びかけ、「二人で話そう、よく相談をしよう」と云った。おひろ[#「ひろ」に傍点]は返辞もせず、良人のほうを見もせずに出ていった。
路地を出た向うの河岸っぷちに、「土庄《つちしょう》」といって、砂や壁土や砂利を売っている店がある。主人は庄兵衛といって、五十二三になる気の好い男だが、妻のお幸は二十一か二で、親と娘ほど年が違っていた。庄兵衛は女房運が悪くて、お幸は三人めの妻であり、いっしょになってから、まだ一年そこそこにしかならなかった。
――さし[#「さし」に傍点]たのはお幸だ。
とおひろ[#「ひろ」に傍点]は思った。藤川屋の男は「湯屋などで口諍《くちあらそ》いをするな」と云ったが、半月ばかりまえ、五丁目の松葉湯でそんなことがあった。おひろ[#「ひろ」に傍点]の使っている湯が、お幸にはねかかったそうで、いきなり叫びだし、あんまりひどく云うのでやり返した。みっともないからいいかげんにやめたし、そのまま忘れていたのであるが、「湯屋などで」と云われて、すぐにお幸だと直感した。
「土庄」は店と住居が並んでおり、住居のほうは格子づくりになっている。おひろ[#「ひろ」に傍点]は格子をあけて声をかけた。三度目に返辞が聞え、(食事でもしていたのだろう)口をもぐもぐさせながら、お幸が出て来た。お幸はこっちを見て立停り、ごくっと、口の中のものをのみこんだ。
「お幸さん、あんた――」と云っておひろ[#「ひろ」に傍点]はつかえた。云いたいことがいっぺんにこみあげてきて、なにをどう云っていいかわからなくなり、喉《のど》が塞《ふさ》がったようになった。「あんた」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は吃《ども》り、嚇《かっ》とのぼせた、「あたしが岡場所へ出ていることが、あんたにどんな関係があるの」
お幸の顔が硬ばった。
「あんたはこういうお宅におさまって、着たいものを着、喰べたいものを喰べ、寄席だろうが芝居だろうが、なんだって好き勝手に暮してるじゃないの」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は云った。「――あたしは岡場所で働いてるよ、この躯を売って稼いでるよ、そうしなければ親子三人が食っていけないからだ、食っていけないということがどんなことか、おまえさん知ってるかい」
「大きな声だわね」とお幸が云った、「あんたそれを自慢しにでも来たの」
「おまえさんになんの関係があるかっていうんだ、贅沢三味《ぜいたくざんまい》に暮しているおまえさんが、なんのためにあたしをさし[#「さし」に傍点]たりするんだ、あたしが岡場所で働いていることが、おまえさんの迷惑にでもなるっていうのかい」
「そんなことあたしは知らないよ、あたしの知ったこっちゃないわ」とお幸は嘲《あざけ》るように云った、「そんな云いがかりをつけられる覚えはないことよ、帰ってちょうだい」
そのとき「おひろ[#「ひろ」に傍点]」とどなりながら、利助が駆けこんで来た。
「おひろ[#「ひろ」に傍点]」と彼はどなった、「よさねえか、ばかなまねもいいかげんにしろ」
「あんたは黙っててちょうだい」
「帰れ」と利助は妻の肩をつかんだ、「これ以上おれに恥をかかせてえのか」
おひろ[#「ひろ」に傍点]はふるえ、唇を噛《か》んだ。お幸は冷やかに見ていて、利助はお幸にあやまった。「どうも済みません」お騒がせして済みません、気が立ってるもんですから、「どうか勘弁してやっておくんなさい」そう詫《わ》びながら、一と言ごとにおじぎをした。
「陽気がおかしいからね」とお幸は云った、「間違いのないうちに伴れてってちょうだい」
利助はまたあやまり、おじぎをした。おひろ[#「ひろ」に傍点]はふるえてい、お幸はつんと衿《えり》を直し、片手で髪に触りながら、奥へ去った。利助はそのうしろへ、「どうか勘弁してやっておくんなさい」と繰り返してあやまり、「さあ帰ろう」とおひろ[#「ひろ」に傍点]に云った。
――このことはなにか不義理をしている。
とおひろ[#「ひろ」に傍点]は外へ出ながら思った。きっと銭でも借りているんだ、きっとそうよ、でもなければあんなふうにあやまる筈はない。あんなにぺこぺこあやまる筈はないわ、ああ、どうしよう、どうしたらいいだろう、とおひろ[#「ひろ」に傍点]は心のなかで呟いた。
「どうするんだ」と利助が云った、「うちへ帰るんだろう」
おひろ[#「ひろ」に傍点]は黙って、汐留橋のほうへ歩きだした。利助が「おい」といって、手をつかもうとした。おひろ[#「ひろ」に傍点]はそれを払いのけた。
「頼むよ、おれが悪いんだから」と利助は追いすがって云った、「おれも考えたことがあるんだ、それについて相談してえんだから、なあ、ひとまずうちへ帰ってくれ、頼むから」
「往来の人が見るじゃないの」とおひろ[#「ひろ」に傍点]が云った、「あたしは買い物をして帰るんだから、あんたひと足さきに帰っててちょうだい」
買い物なんかあとでいい、とにかくいちど帰ってくれ、と利助が云った。うるさくしないでよ、とおひろ[#「ひろ」に傍点]はきつい声で云った。往来の人にみっともないじゃないの、すぐに帰るからいって政次をみていてちょうだいな。いいよ、そんなら帰ってるよ、と云いながら、利助は不安そうに妻を見た。
「おめえ、――大丈夫だろうな」
おひろ[#「ひろ」に傍点]には良人の問いの意味がわかった。
「ええ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は頷いた、「大丈夫よ」
汐留橋を渡って右へ曲った。利助がどの辺で戻っていったか、はっきりした記憶はなかった。馬力とゆきちがい、駕籠に追い越され、人混みの辻を通りぬけた。
「五十年まえ、――」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は呟いた、「そして五十年あと、……おんなしこったわ」
うちへ帰る気にはなれなかった。
おひろ[#「ひろ」に傍点]は(長い習慣で)赤坂のほうへ向って歩きながら、突然ぎゅっと顔を歪《ゆが》めたり、身ぶるいをして、肩を竦《すく》めたりした。お幸とやりあったことが恥ずかしい、あまりに恥ずかしい、「いっそ殺してやりたい」と思ったり、そんなふうにどなりこんだりした自分を、激しく責めたりした。
――堀端だぜ、大丈夫か。
という声が、頭のどこかで聞えた。
――へんな気を起こすんじゃねえぜ。
そうだ、とおひろ[#「ひろ」に傍点]は頷き、「三河屋の若い衆だったわ」と呟いた。
「死ねやしないわ、死ぬもんですか」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は歩きながら自分に云った、「このままでは死にきれない、どうしたって死にきれやしないわ」
田町へ来たと気がついたとき、おひろ[#「ひろ」に傍点]は立停って、「どうしようか」と思い、暫く溜池の水面を眺めていた。それから、「今日は休むと断わって帰ろう」と呟いて、二丁目の角を曲っていった。
[#6字下げ]六[#「六」は中見出し]
まだ時刻が早いので、「染井家」は表を半ば閉めてあった。おひろ[#「ひろ」に傍点]がはいってゆくと、とっつきの三帖に、文弥が化粧をしていて、「あらよかった、お客よ」と云った。
「あたし断わりに来たの」とおひろ[#「ひろ」に傍点]が云った、「躯の調子が悪いもんだから、休ませてもらおうと思って」
文弥は鏡に向き直って「そう」と化粧を続けた。
「そんならそう云っとくけれど」と文弥は云った、「お客はあんたをお名指しよ」
おひろ[#「ひろ」に傍点]はけげんそうに文弥を見た。
「ついいましがた、あんたをお名指しで来て、待っているっていうから待たしてあるんだけれど」
「あたしにって、――誰かしら」
「休むんなら断わるか、よければ代りにあたしが出てもいいわ」
「ゆうべの人じゃないの」
文弥は首を振った。ゆうべの人はよく知らない、自分はまわしだったし、今朝は眠っていて送りださなかったし、「顔だってよく覚えていないもの」自分にはわからない、と云った。聞いているうちにおひろ[#「ひろ」に傍点]は「ゆうべの客だ」と直感した。
「いいわ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は下駄をぬいだ、「ちょっといってあたしが断わって来るわ」
文弥は(鏡の中から)じろっと見、「そんな恰好でいいの」と云った、「断わるんならあたしが出てもいいのよ」
だが、おひろ[#「ひろ」に傍点]はあいまいな返辞をしただけで、いつも自分の使う四帖半へいった。襖《ふすま》をあけると、行燈のそばに客が坐っていた。窓は雨戸を閉めたままで、行燈に火はいれてあるが、外からはいって来た眼には、暗くて、すぐには部屋の中がよく見えなかった。
「いらっしゃい」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は挨拶しながら客を見た、「ずいぶんお早いのね」
そして絶句した。ゆうべの客ではない、年頃は似ているが、今朝おくり出した客でないことは、すぐにわかった。客は振向いて、じっとこちらを見まもり、かすれたような声でおひろ[#「ひろ」に傍点]の名を呼んだ。
「やっぱりそうだった」と客は云った、「わからないかい、ひろ[#「ひろ」に傍点]ちゃん、おれだよ」
おひろ[#「ひろ」に傍点]の胸で波がうち、息が止った。吸いこんだまま止った息を、そろそろ吐きだしながら、眼の前に虹のようなものがちらちら舞うのを、おひろ[#「ひろ」に傍点]は感じた。
「ひろ[#「ひろ」に傍点]ちゃん」と客が云った。
おひろ[#「ひろ」に傍点]は向き直って逃げだそうとし、客はとびあがって腕をつかんだ。おひろ[#「ひろ」に傍点]が振放そうとすると、客は両手で肩を抱え、「待ってくれ、話があるんだ」と云った。
「ごしょうよ、常さん」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は顔をそむけ、苦しそうに喘ぎながら云った、「放して、あたしに恥をかかさないで」
「いや放さない、おれは捜していたんだ、二年ものあいだ捜していたんだ」
「ごしょうよ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]が云った、「あたし死んじまうわ」
客はしっかりとおひろ[#「ひろ」に傍点]を抱え、「坐ってくれ、頼むから坐ってくれ」と云って、むりやりにそこへ坐らせた。おひろ[#「ひろ」に傍点]は袂で顔を掩い、躯を固くして坐った。
「友達に教えられたんだ、ゆうべ来た友達が教えてくれたんだ」と客は云った。客もあがっているようすで、云うことがしどろもどろだった、「二年まえからみんなに頼んであったんだ、ゆうべは同業の寄合があって、おれはまっすぐに帰ったが、四人はこっちへ崩れて来た、ひろ[#「ひろ」に傍点]ちゃんに当ったのは八百勝っていうんだが、それがここから帰りに寄って、知らせてくれたんだ」
おひろ[#「ひろ」に傍点]は身動きもしなかった。客の云うことを聞きながら、「罰だ、罰だ、――」と心のなかで呟いていた。なにが罰なのかむろんわからない、ただしぜんと、そんな言葉がうかんだのであった。――頭の中でいろいろな記憶が廻りだし、「このひと常さんだわ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は思った。大八百屋の常さんだわ、どういうわけだろう、どうして常さんなんぞが、こんなところへ来たのかしら、どうしてかしら、とおひろ[#「ひろ」に傍点]は思った。
客は話していた。自分もいちど嫁をもらったが、病身で、三年まえに死なれた。それからずっと独身でいる。おひろ[#「ひろ」に傍点]を捜しだして、事情が許せば、おひろ[#「ひろ」に傍点]といっしょになりたかったからだ。自分は初めからおひろ[#「ひろ」に傍点]が好きで、おひろ[#「ひろ」に傍点]を嫁にもらうつもりでいた。利助はいくじなしのくせに猜《ずる》いから先手を打っておひろ[#「ひろ」に傍点]を掠《さら》っていった。自分がおひろ[#「ひろ」に傍点]を欲しがっていることを勘づいて、うまく先まわりをしたのだ。自分は利助がどんな人間かということを知っていたし、おひろ[#「ひろ」に傍点]を仕合せにしてやれるかどうかも、およそ察しがついていた。そして「このとおりだ」と客は声をつまらせ、ごくっと、喉でなにかをのみこむような音をさせた。
「あいつ、あの利助のちくしょう」と客は云った、「ひろ[#「ひろ」に傍点]ちゃんをこんなめにあわせやがって、……おれは」
するとおひろ[#「ひろ」に傍点]が泣きだした。
顔を掩っていた袂《たもと》を、ばたっと落し、坐って壁のほうを見たまま、手放しで、う、う、と子供のように、声をひそめて泣きだした。客はすり寄って、「ひろ[#「ひろ」に傍点]ちゃん」と云った。
「もういい、利助と別れてくれ」と客は続けた、「ここまでやれば充分だ、充分すぎるくらいだ、おれが金を出すから、それを利助に遣《や》って別れてくれ」
おひろ[#「ひろ」に傍点]は泣いていて、あふれ出る涙が、頬から膝の上へぽとぽとと落ちた。
利助の親は房州の木更津だったろう、と客が云った。木更津で漁師をしている親類がある筈だ、利助は病気だというから、そこへ帰ればいい。金は十両遣る、十両遣れば利助はうんというに違いない。利助はそういう男だ、子供は付けてやってもいいし、おまえが望むならおれが引取ろう。おれには子がないから、引取って二人で育ててもいい、「ひろ[#「ひろ」に傍点]ちゃんの子ならよろこんで育てるぜ」と客は云った。
おひろ[#「ひろ」に傍点]は泣いていて、客の話は殆んど聞かなかった。けれども意味はわかった。聞いているとは思わなかったのに、客の云ったことは始めから終りまで残らずあたまにはいり、茫然と、手放しで泣きながら、心のなかで頷いたり、かぶりを振ったりした。
「あたしはもうだめよ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]はひしゃげたような声で云った、「あたしはもういない人間よ、ここにいるのはあたしじゃあないの」
「いや、おれにはひろ《ひろ》ちゃんだ」
「あたしこの店へ来たとき思ったの」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は云った、「――五十年まえには、あたしはこの世に生れてはいなかった、そして、五十年あとには、死んでしまって、もうこの世にはいない、……あたしってものは、つまりはいないのも同然じゃないの、苦しいおもいも辛いおもいも、僅かそのあいだのことだ、たいしたことないじゃないのって、思ったのよ」
[#6字下げ]七[#「七」は中見出し]
客の顔が歪み、「ひろちゃん」という声がふるえた。おひろ[#「ひろ」に傍点]は泣きじゃくりながら、客に笑いかけた。
「可笑しいでしょ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は云った、「お寺さまの云うようなことで、可笑しいわね、――でも本当なのよ、それからずっと、辛いことや苦しいことがあるたんびに、あたしそのことを自分に云いきかせて来たのよ」
客は口の中で、「ちくしょう」と呟いた、「あの利助のちくしょう」と呟き、衝動のようにおひろ[#「ひろ」に傍点]の手をつかんだ。おひろ[#「ひろ」に傍点]は拒まなかった。客につかまれたまま、おひろ[#「ひろ」に傍点]の手はぐったりと、力がぬけていた。
「もうたくさんだ、ひろ[#「ひろ」に傍点]ちゃんは苦労するだけ苦労した、もうきりをつけよう」と客が云った、「仕甲斐《しがい》のある苦労ならいくらしてもいいが、相手が利助では砂地へ水を撒《ま》くようなものだ、おまえの云うとおり、五十年さきには死んでしまうものなら、生きているいまを生きなければならない、生きているうち仕合せに生きることを考えよう」
「あたしもうだめよ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は云った、「こんなにか躯も汚れちゃったし、それに子供まであるんですもの」
「だからその子はおれが引取る、おれたちの子にして育てるんだよ」と客はおひろ[#「ひろ」に傍点]の手を強く握りしめた、「おれは二年ものあいだ捜してたんだ、本気なんだ、――ひろ[#「ひろ」に傍点]ちゃん、あいつと別れてくれ、躯が汚れてるっていうけれども、そんなものは百日も養生すればきれいになってしまう、そんなことにこだわることはないよ」
「二年も、――」とおひろ[#「ひろ」に傍点]はぼんやりと訊いた、「二年も捜してくれたんですって」
「友達だの知合だの、みんなに頼んでだ」
「どうしてわかったの」
「将監さまの細みちだよ」と客が云った、「覚えてるだろう、あんな文句はよそじゃあうたやあしない、こころぼそい頼りだが、ほかに手だてがなかったからね」
おひろ[#「ひろ」に傍点]はぼんやりと客の顔を眺め、それから、両手で静かに顔を押えた。
客はまた「利助と別れてくれ」と云った。利助は木更津へ帰ればいい、そのほうが病気にもいいだろうし、もしも漁師に株のようなものがあるなら、十両で暮しのみちも立つだろう。金はいつでも用意するから、「帰ったらすぐにはなしをつけてくれ」よければおれがいってもいい、と客は云った。
――そうよ、あのひとは木更津に親類があるわ。
とおひろ[#「ひろ」に傍点]は思った。そうよ、あたしもうたくさん、疲れて疲れてくたくただわ。そして藤川屋の男が(ふところから)十手を覗かせたことや、「土庄」のお幸のせせら笑いや、髪へ手をやりながら、奥へ去るときの気取った恰好や、良人が卑屈にぺこぺこあやまった姿などを思いうかべ、ぞっとしながら首を振った。
――木更津から親類だっていう人が、幾たびか来たわ。
あのひとは木更津へ帰ればいいのよ、とおひろ[#「ひろ」に傍点]は思った。そうよ、あのひと十両も貰えるんだもの、あたしもうすっかり草臥《くたび》れた。十両なんてお金を見れば、あのひとよろこんで別れるわ、顔が見えるようだわ、とおひろ[#「ひろ」に傍点]は心のなかで自分に云った。
「わかったね」と客が云っていた、「帰ったらあいつとはなしをつけるんだよ」
「ええ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は頷いた、「わかりました」
「やれるだろうね、もしやれないんなら、おれがはなしにいってもいいんだぜ」
「大丈夫です、あたしがはなしをつけます」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は云った、「あたしだってそのくらいのことはできます」
「それでいい、それさえきまりがついたらあとのことはおれが引受ける」と客は力んだ口ぶりで云った、「なにもかもおれに任せて、おれのするとおりにしていればいいんだ、決してひけめを感じたり、いやな思いをするようなことはさせやしない、わかったな」
おひろ[#「ひろ」に傍点]は「ええ」と頷いた。
客の痩せた顔に血がのぼり、眼が活き活きとかがやきを帯びた。おひろ[#「ひろ」に傍点]は初めて見るように、客の顔を見まもった。痩せたおもながな顔で、鼻が高く、眼つきや口もとに、きかない気持があらわれている。膚の色は白いほうで鬚《ひげ》の剃《そ》りあとが青く、髪の毛は羨《うらや》ましいほど黒い。渋い縞紬《しまつむぎ》の袷《あわせ》に角帯をしめているが、その着物や帯を取替えたら、あのころの常吉そのままに見えるだろう。おひろ[#「ひろ」に傍点]は「ええ」と眼を伏せ、「仰《おっ》しゃるとおりにします」と低い声で云った。
「よし、これできまった、おれはうちで待っている」と客は云った、「子供のことはおまえの望みどおりにしよう、おれは金の用意をして、うちで待っているよ」
客はさきに帰った。別れて出てゆくとき、客はおひろ[#「ひろ」に傍点]の眼をじっとみつめて、囁《ささや》くように、「待っているよ」と云った。おひろ[#「ひろ」に傍点]は唇で微笑しながら、客の眼に頷き返した。
おひろ[#「ひろ」に傍点]はひと足おくれて、店を出た。もうおまさ[#「まさ」に傍点]と幾世も銭湯から帰っており、じろじろとさぐるような眼で、こっちを見た。おそらく文弥がぬすみ聞きでもして、それを二人に告げ口したのに違いない。おひろ[#「ひろ」に傍点]はその眼を背中に感じながら、黙って店から出ていった。
――そうきめよう、常さんの云うとおりにしよう。
溜池のふちを歩いてゆきながら、おひろ[#「ひろ」に傍点]は繰り返して思った。常さんは本気だと云った。二年ものあいだ捜していてくれたのだ。迷うことはない。考えるのもあとのことだ。いまは常さんの云うとおりにしよう。もうそうしても不人情ではない筈だ、「もう不人情だなんて云われることはないわ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は呟いた。
歩いているうちに、だんだんと肚《はら》がきまり、決心がついた。おひろ[#「ひろ」に傍点]は芝口二丁目の駕籠屋へ寄り、主人の源平に会って、「店をやめる」ことを告げた。わけは話さなかったが、源平もなにも訊こうとはせず、「それはよかった、できればそのほうがいい」といって頷いた。
魚屋と八百屋で、晩の買い物をして、帰ってゆくと、路地の角で政次が遊んでいた。父ちゃんはと訊くと、「寝ている」と答えたまま、独りで遊び続けていた。――おひろ[#「ひろ」に傍点]はうちへはいり、勝手へいって、買って来た物をひろげた。
「おめえか、――」と六帖で利助が云った、「帰ったのか」
おひろ[#「ひろ」に傍点]は「ええ」といった。
「おそかったじゃねえか、買い物にどこまでいったんだ」
おひろ[#「ひろ」に傍点]は答えなかった。利助の咳《せ》きこむ声が聞え、おひろ[#「ひろ」に傍点]は水を使いはじめた。利助の咳が(半分は)うそだということを、もうかなりまえからおひろ[#「ひろ」に傍点]は知っていた。
「おれの云うのが聞えねえのか」と利助が咳をしながら云った、「薬を煎《せん》じるのも忘れて、どこへいってたんだ、薬を煎じるんじゃあねえのか」
おひろ[#「ひろ」に傍点]は「いまやります」と答えた。
[#6字下げ]八[#「八」は中見出し]
その日ほど、夜になるのを待ちかねたことはなかった。政次と銭湯へゆき、玩具を買ってやり、夕食の支度にも、必要以上の手間をかけた。おひろ[#「ひろ」に傍点]の態度でなにか感じたものか、利助は黙って、じっとこちらのようすをうかがっているようであった。
夕食の膳に向ったとき、利助は「今日ちょっと大鋸町の親方のところへいって来た」と、独り言のように云った。おひろ[#「ひろ」に傍点]は「そう」といったきり相手にならず、彼もあとを続けようとはしなかった。そして、食事が終って、おひろ[#「ひろ」に傍点]が勝手で洗い物をしていると、ふらっとうしろへ来て、「おまえのいないあいだに親方のところへいって来た」と云い、それから「あとで話したいことがあるんだ」と云った。
おひろ[#「ひろ」に傍点]は黙って茶碗を洗っていたが、やがて、「あたしも話があります」と云った。はっきりと、おちついた声で、自分でも意外なほど、きっぱりした調子だった。利助はなにも云わずに、六帖へ戻っていった。
――大丈夫だ、これなら大丈夫だ、負けやしない、決して負けやしないから。
おひろ[#「ひろ」に傍点]は殆んど微笑しながらそう思った。
あと片づけが済むと、おひろ[#「ひろ」に傍点]は行燈を明るくして繕い物をひろげた。子供が寝たら、自分のほうから先に、話しだすつもりでいた。
しかしそのまえに、利助のほうが口を切った。彼は自分の寝床へ子供を入れるとすぐに、「親方が仕事を呉《く》れるっていうんだ」と云いだした。おひろ[#「ひろ」に傍点]は針を動かしながら、「子供が寝てからにして下さい」と云った。話ならあたしのほうで先に聞いてもらいたいことがあるんです。うん、と利助は頷き、「たいてえわかってる」と云った。わかってるからおれが先に云いたいんだ。おまえに話をきりだされたら、おれには何も云えなくなる。それがわかってるから、おれを先にしてもらいたいんだ、と利助は云った。
おひろ[#「ひろ」に傍点]は黙って縫い続け、利助は低い声で話しだした。
「おまえは今日、おれが知ってた、って云ったな」と彼は云った、「藤川屋の者が帰ったあとで、髪を直しながらそう云った、低い声だったが、おれにははっきり聞えた」
そのときおれは、いきなりこの胸へ、鑿《のみ》でも突込まれたような気がした、大袈裟じゃあない、胸のここが抉《えぐ》られるように痛かった。いまでも、胸のここにその痛みが残ってる。正直に云う、おまえは信用しないかもしれないが、今夜はすっかり云ってしまう。おれは知らなかった、あのときまで、藤川屋の男が云うまでは本当に知らなかった。本当だ、と彼は云った。
おひろ[#「ひろ」に傍点]は黙って針を動かしていた。壁ひとえ隣りの、片方では、三四人よって酒を飲んでいるらしい。皿小鉢の音や、話したり笑ったりする声が、かなり賑《にぎ》やかに聞えて来る。片方は独り者の「こね屋」で、これは遊びにでかけたのか寝てしまったのか、もうひっそりとして、物音もしなかった。
――いくらでも云うがいいわ、どんなに泣き言を並べたって負けやしないから。
どんなことがあったって負けやしないから、とおひろ[#「ひろ」に傍点]は思った。
「だが、藤川屋の男が云うのを聞いたとき、そしておまえに殴りかかったとき、おれは、自分が勘づいていた、ということに気がついた」
うすうす勘づいていた。むろんはっきり岡場所だということはわからない、わかる筈がないし、わかることが恐ろしかった。おまえのようすや稼ぎ高で、普通の茶屋勤めではない、なにか隠して働いている。そう察していながら、それをつきとめることが怖かった。長いあいだぶらぶらしていて、気持にも躯にも張りがなくなっていたのだろう。正直に云うが、それとはっきりわかることが怖かった、本当に「恐ろしかったんだ」と云って、利助はちょっと口をつぐんだ。
「おまえを殴りながら、おれはてめえを殴ってるんだな、って思った」と利助は続けた、「おれは自分で自分を殴ってたんだ、殴りながら、おれは自分で自分に、死んじまえと云ってた、死んじまえ、死んじまえって、云ってたんだ」
彼はそこで言葉を切り、子供の寝息をうかがっていて、やがて怖かに起き直った。そして、子供の肩を掛け蒲団でくるみ、自分はその脇に坐って、頭を垂れた。
「夫婦になってあしかけ六年、その半分は病気で、おまえ一人に苦労をさせた、それも、岡場所なんぞで稼がなければならないほど、……おれは生れて初めて、てめえがどんな人間かっていうことに気がついた、おらあ本当に死んじまいたかったぜ」
利助は喉を詰らせ、頭を垂れたまま、両手で、寝衣の膝をぎゅっと掴んだ。利助は言葉を続け、おひろ[#「ひろ」に傍点]は(自分の躯から)力がぬけてゆくのを感じた。良人の言葉に動かされたのではなく、それとはまったくべつに、常吉との距離が、しだいに大きくなるような、こころぼそく頼りない気分になっていった。
――常さん、あたしをつかまえていてちょうだい、大丈夫、負けやしないから、あたしをしっかりつかまえていて。
これも正直に云ってしまうが、おれはもう起きてもいいんだ、と利助は云っていた。起きてもいいし、楽な仕事ならぼつぼつ始めてもいいって、医者から云われたんだ。それを、躯がなまになっているし、おまえが稼いでくれるから、もう一日もう一日と、てめえでごまかしながら怠けていた。
「けれども今日、あのことがあってから考えた」と利助は云った、「いっそ死んじまいてえが、死んだってこれまでの償いにはならない、性根を入れ替えてやってみよう、――本当にやれるか、やってみる、……こう思って、おまえの留守に大鋸町へいったんだ」
おひろ[#「ひろ」に傍点]の手が動かなくなり、その眼が、ぼうと焦点をなくした。
「あたしに頼まないでね」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は呟くように云った、「あたしはもういや、すっかり疲れちゃってるの、どうかもうなんにも頼まないでちょうだい」
聞くだけ聞いてくれ、と利助は云った。親方はいい顔はしなかった、おれはこれが一生のわかれめだ、と思ってねばった。それで親方が仕事をくれることになった。仕事とはいえない、取引き先の木場の番人だ。夫婦者で住込みの者が欲しい、という店がある。食い扶持《ぶち》にしかならないが、躯が使えるようになるまで、やってみる気があるなら世話をしよう、と云われたんだ。
「いいじゃないの」とおひろ[#「ひろ」に傍点]が喘いだ、「住むうちがあって、食い扶持が、もらえるんなら」そしてさらに、まるで溺《おぼ》れかかってでもいるように、喘ぎ喘ぎ云った、「食って寝てゆけるんなら、番人だってなんだって、いいじゃないの」
「おひろ[#「ひろ」に傍点]、おめえ、そう云ってくれるか」
ああ、とおひろ[#「ひろ」に傍点]は膝の上のものを投げ、激しく首を振って「ああ」と呻《うめ》いた。
――常さん、あたしをつかまえて。
心のなかでそう叫びながら、おひろ[#「ひろ」に傍点]はそこへ俯伏《うつぶ》せになった。
[#6字下げ]九[#「九」は中見出し]
利助はおろおろし、立って来ておひろ[#「ひろ」に傍点]の背へ手をかけ、「いま云ったことは本当か」と声をふるわせた。おひろ[#「ひろ」に傍点]は彼の手を(背中で)よけ、うう、と喉で息を詰らせた。
「おらあやってみせる」と利助はふるえながら云った、「番人だって三月か半年すれば、躯もしゃっきりするだろうし、そのあいだに鑿や鉋《かんな》の手ならしもできる、躯が使えるようになったらやるぜ、こんどこそおらあやってみせるぜ」
おひろ[#「ひろ」に傍点]は畳へ俯伏せになったまま、ぐらぐらと頭をゆすった。利助は「おらあきっとやるぜ」と云って泣きだし、その泣き声が、おひろ[#「ひろ」に傍点]を雁字搦《がんじがら》みにした。
――うれしいわ、常さん、あんた二年もあたしを捜してくれたのね、うれしいわ。
あたし忘れないわ、とおひろ[#「ひろ」に傍点]は頭をぐらぐらさせながら思った。それで充分よ、あんなところまで訪ねて来て、おかみさんにしてくれるって云ったわね。常さんがそんなに思っていてくれたって、いうことだけで、本望だわ。
――それだけで本望だわ、このうえ夫婦別れをして、常さんといっしょになるなんて、できることでもないし、するとしたら罰が当るわ。
そうよ、とおひろ[#「ひろ」に傍点]は思った。常さんの云うことを承知したのは、「できない」ということがわかっていたからだわ。できるもんですか、あたしがこのひとと夫婦になり、子を生んで、岡場所でまで稼いだってことは、消えやしない。常さんといっしょになったとしても、一生それがつきまとって離れやしないのよ。常さんもあたしも、一生それで苦しいおもいをするわ、そうでしょ、常さん、とおひろ[#「ひろ」に傍点]は思った。
――このひとが昔から弱虫だったこと、知ってるわね、このひと、いつも常さんに負けてばかりいたわ、喧嘩をするたびに負けて、泣きながら逃げて、遠くのほうから云うじゃないの、おーやおやおやって。
おひろ[#「ひろ」に傍点]は喉を詰らせた。そのときの利助の、涙でぐしゃぐしゃになった顔や、遠くから泣き泣きからかう声が、まざまざと思いうかび、そうして、こみあげてくる笑いをけんめいに抑えた。
「云ってくれ、おひろ[#「ひろ」に傍点]」と利助が泣き声で云った、「おれの云うことはこれだけだ、こんどはおめえの話を聞こう」
おひろ[#「ひろ」に傍点]は頭を振って、「もういいの」と乾いた声で云った。
「話してくれ。おれはなんでも聞くぜ」
「もういいの」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は云った、「あんたがそういう気持になってくれれば、云うことはないの、――あとは早く引越したいだけよ」
「本当に話すことはねえのか」
子供がぐずぐず泣きだし、おひろ[#「ひろ」に傍点]は立っていって、そっと子供の脇へ添寝をした。
「早く此処《ここ》を引越したいだけよ」とおひろ[#「ひろ」に傍点]は云った、「その木場へは、いつゆけるの」
「親方に頼めばすぐにでもゆける筈だ」と利助が云った、「おひろ[#「ひろ」に傍点]、……おめえ、おれと別れるつもりじゃあなかったのか」
おひろ[#「ひろ」に傍点]は黙っていて、それから「ばかなことを云わないでよ」と云った。
「思いとまってくれたんだな」と利助が云った、「ともかく、いますぐ別れるっていうんじゃねえんだな」
「大きな声をしないで、政がねかかってるところじゃないの」
「有難え、おらあやるぜ」と利助は声をころして云った、「おめえがいてさえくれれば、おらあきっとやってみせる、きっとだ」
おひろ[#「ひろ」に傍点]は政次の背をそっと(指さきで)叩きながら、低い声でうたいだした。常さん、この唄はもう一生うたわないことよ、今夜っきりよ、と心のなかで呼びかけながら、囁くように、うたいだした。
[#ここから2字下げ]
――ここはどこの細みちじゃ
将監さまの細みちじゃ
ちょっと通して下しゃんせ……。
[#ここで字下げ終わり]
底本:「山本周五郎全集第二十七巻 将監さまの細みち・並木河岸」新潮社
1982(昭和57)年8月25日 発行
底本の親本:「小説新潮」
1956(昭和31)年6月号
初出:「小説新潮」
1956(昭和31)年6月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ